さて、東海道品川宿を歩く、鈴ヶ森まで行ったところでもう一度南品川に戻ってみる。品川探訪ということで、何度も足を運んでいるのだが、南品川については最初に掲載した後に再訪して見落としていたものを改めて発見したりといったことがあったので、もう一度南品川を巡ってみようというわけである。
まず、南馬場通りから目黒川よりの住宅地の奥へ入って行ったところに、南品川児童遊園という小さな公園がある。家の建ち並ぶ奥に、ポツリとある公園。案内地図を見ていると、この辺りに小倉山稲荷神社跡と出ていて、それと覚しき場所はここしかないように思えるのだが、特に案内も出ていない。ネットで調べてみても、特に出てこないのでよく分からない。
直ぐ裏は、海徳寺の墓地。しながわ観光協会のサイトによれば、この辺りに明治末から昭和初期にかけて活躍した作家の江見水蔭が住んでいたという。
「・江見水蔭(1869~1934)明治時代中期から昭和の初めにかけて活躍した小説家。
・岡山に生まれ、軍人を志して上京したが、のち作家志望に転じ、尾崎紅葉の 硯友社の同人となる。
・作品は、詩・旅行記・随筆、戯曲・冒険小説・探偵小説など多岐にわたる。
・水蔭は、明治33年(1900)から品川に住んだ。
丁度このころ、考古学に興味を持ち、大森や大井権現台で発掘を行った。
・何度か転居を重ねたのち、南品川の小倉山(現南品川1丁目)に落ち着く。
・小倉山(南品川一丁目)にはかつて小倉山稲荷神社という社があった(荏原神社が兼務社)。
・国技館の命名者でもあり、大の相撲ファンだった水陰は、この家の庭に土俵をつくり近所の子どもたちに相撲を教えた。
・南品川の自宅に「太古遺物陳列所」を造って、自らの発掘品をならべ、一般にも公開した。」(しながわ観光協会サイトより)
そして、再度海徳寺を尋ねる。
参道にある小さな蔵。日蓮宗のお寺らしく南無妙法蓮華経の石柱が立てられている。
その蔵の庇の支えの金具、天王の文字が入った凝った作りになっていた。調べても出てこなかったのだが、恐らくはこの海徳寺がかつて荏原神社の別当であったのではないだろうか。その縁でここに天王の文字の入った蔵があるのだろう。
寛延4年(1751)に完成したという本堂。
そして、これが力士。力強い。
そして、ホームラン地蔵。
「・元巨人軍の王貞治選手が新人のころ、心臓病の少年にホームラン王になることを誓った。少年は残念ながら14歳で亡くなったが、王氏は度々少年の墓を参ったり、ホームラン世界記録を樹立した時にも報告に訪れた。
・バットを抱き、ボールを持った地蔵像が少年の墓である。」(しながわ観光協会サイトより)
ここは、正に個人のお宅の墓所であり、幼くして亡くなった少年の眠るところ。手を合わせて一礼してから、シャッターを切った。
そして、こちらは海徳寺の墓地の裏手。土台の石積みは相当に古いものだと思われる。明治期のものではないだろうか。豊島区の染井墓地の裏手の方の寺で見掛けた覚えがあるタイプのもの。
旧東海道に出ると、昭和ネオンという会社がある。
この会社内に平日だけ公開されている、古い看板のコレクションがある。ちょうど平日に行くことがで来たので、見学してみた。
昭和ネオン高村看板ミュージアム。
入場無料で、見学することが出来る。
会社に入ったところの1Fにも、大きな看板が飾られている。江戸時代以来の様々な看板が収集されていて、見ていて楽しい。平日しか見ることが出来ないのが残念だが、機会があれば是非寄ってみるべきところだ。
そして、旧東海道と南馬場通りの交差点。その角にあった見事な銅板貼りの看板建築。10月に訪れたときに取り壊し工事の告知が貼られていた。
ほぼ一カ月ぶりに、2014年11月に再訪したのだが、見事に更地になっていた。
そして、もう一度見てみたかったのは、天妙国寺の門前にあるキッチンアームズ・サカマキというお店。前回は夕方だったので、薄暗い中でしか見ていなかったのだが、撮ったものをチェックしていって気が付いたのだが、見事な蔵造りの店舗。外壁はモルタル仕上げになっている様に見えるのだが、塗家ではない蔵造りの様に見える。漆喰のクラシックスタイルの蔵造りの店舗は、今では東京には残されていないのだが、こちらは少しモダンではあるものの非常に希少な蔵造りであるようだ。
土蔵造りらしい重厚な開きの窓。この形態の店舗建築は都内には他にないのではないだろうか。根岸にあるのは塗家造りのものだし。
まず、南馬場通りから目黒川よりの住宅地の奥へ入って行ったところに、南品川児童遊園という小さな公園がある。家の建ち並ぶ奥に、ポツリとある公園。案内地図を見ていると、この辺りに小倉山稲荷神社跡と出ていて、それと覚しき場所はここしかないように思えるのだが、特に案内も出ていない。ネットで調べてみても、特に出てこないのでよく分からない。
直ぐ裏は、海徳寺の墓地。しながわ観光協会のサイトによれば、この辺りに明治末から昭和初期にかけて活躍した作家の江見水蔭が住んでいたという。
「・江見水蔭(1869~1934)明治時代中期から昭和の初めにかけて活躍した小説家。
・岡山に生まれ、軍人を志して上京したが、のち作家志望に転じ、尾崎紅葉の 硯友社の同人となる。
・作品は、詩・旅行記・随筆、戯曲・冒険小説・探偵小説など多岐にわたる。
・水蔭は、明治33年(1900)から品川に住んだ。
丁度このころ、考古学に興味を持ち、大森や大井権現台で発掘を行った。
・何度か転居を重ねたのち、南品川の小倉山(現南品川1丁目)に落ち着く。
・小倉山(南品川一丁目)にはかつて小倉山稲荷神社という社があった(荏原神社が兼務社)。
・国技館の命名者でもあり、大の相撲ファンだった水陰は、この家の庭に土俵をつくり近所の子どもたちに相撲を教えた。
・南品川の自宅に「太古遺物陳列所」を造って、自らの発掘品をならべ、一般にも公開した。」(しながわ観光協会サイトより)
そして、再度海徳寺を尋ねる。
参道にある小さな蔵。日蓮宗のお寺らしく南無妙法蓮華経の石柱が立てられている。
その蔵の庇の支えの金具、天王の文字が入った凝った作りになっていた。調べても出てこなかったのだが、恐らくはこの海徳寺がかつて荏原神社の別当であったのではないだろうか。その縁でここに天王の文字の入った蔵があるのだろう。
寛延4年(1751)に完成したという本堂。
そして、これが力士。力強い。
そして、ホームラン地蔵。
「・元巨人軍の王貞治選手が新人のころ、心臓病の少年にホームラン王になることを誓った。少年は残念ながら14歳で亡くなったが、王氏は度々少年の墓を参ったり、ホームラン世界記録を樹立した時にも報告に訪れた。
・バットを抱き、ボールを持った地蔵像が少年の墓である。」(しながわ観光協会サイトより)
ここは、正に個人のお宅の墓所であり、幼くして亡くなった少年の眠るところ。手を合わせて一礼してから、シャッターを切った。
そして、こちらは海徳寺の墓地の裏手。土台の石積みは相当に古いものだと思われる。明治期のものではないだろうか。豊島区の染井墓地の裏手の方の寺で見掛けた覚えがあるタイプのもの。
旧東海道に出ると、昭和ネオンという会社がある。
この会社内に平日だけ公開されている、古い看板のコレクションがある。ちょうど平日に行くことがで来たので、見学してみた。
昭和ネオン高村看板ミュージアム。
入場無料で、見学することが出来る。
会社に入ったところの1Fにも、大きな看板が飾られている。江戸時代以来の様々な看板が収集されていて、見ていて楽しい。平日しか見ることが出来ないのが残念だが、機会があれば是非寄ってみるべきところだ。
そして、旧東海道と南馬場通りの交差点。その角にあった見事な銅板貼りの看板建築。10月に訪れたときに取り壊し工事の告知が貼られていた。
ほぼ一カ月ぶりに、2014年11月に再訪したのだが、見事に更地になっていた。
そして、もう一度見てみたかったのは、天妙国寺の門前にあるキッチンアームズ・サカマキというお店。前回は夕方だったので、薄暗い中でしか見ていなかったのだが、撮ったものをチェックしていって気が付いたのだが、見事な蔵造りの店舗。外壁はモルタル仕上げになっている様に見えるのだが、塗家ではない蔵造りの様に見える。漆喰のクラシックスタイルの蔵造りの店舗は、今では東京には残されていないのだが、こちらは少しモダンではあるものの非常に希少な蔵造りであるようだ。
土蔵造りらしい重厚な開きの窓。この形態の店舗建築は都内には他にないのではないだろうか。根岸にあるのは塗家造りのものだし。
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