東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

旧川越街道~板橋、練馬、和光~その一(板橋平尾宿)

2014-08-17 17:36:26 | 板橋区
さて、今回は少し趣を変えて、古い街道の跡の道を辿ってみようと思う。中山道は国道17号線と旧道が残されているところと、これまでにも紹介しているのだが、とりわけ板橋区内のエリアではあまり旧街道らしい趣を残しているところが少ない。そこで、かつては板橋の宿場で枝分かれしていた川越街道の旧道を辿ってみようと思った。今は都心部から春日通りという名で、池袋の六又交差点を過ぎ、国道254号線として川越街道は幹線道路になっている。この道が出来たのは、昭和の初めの震災復興事業で都心部が大きく姿を変える流れの中で出来たものの様だ。埼玉側は更に遅く、戦後の東京オリンピックの前後に整備されていったようだ。板橋や練馬の大半はかつては農村部であり、古い街道沿いを歩いてみることが歴史的な町並みなど見つけるには最良の方法ではないかと思い、見ていくことにしたのだった。

さて、まずその出発点は、国道17号線と旧中山道が斜めに交差して、不動通り商店街が始まるこの場所から。左側に首都高速の高架が走る国道17号線、右手が旧道になる。写真の中央は、旧協和銀行板橋支店。ここはその奥に埼玉銀行が隣接していた。両行がりそな銀行に合併したことで、支店が統合された。今は手前の建物は取り壊されて更地になった。ここにはかつて、板橋警察署が置かれていた。国道17号線はこの辺りまで昭和初期に開通していた。ここから先はやはり戦前に志村へと道路が建設され、市電も延伸されている。それは、板橋が軍需工場の集中するエリアであり、そこで働く人々を効率的に輸送する必要があったことで、建設が促進されていった。
さて、元々はここが追分で、中山道と川越街道の分岐点であったわけである。国道17号線は旧川越街道を呑み込むように建設されている。


そして、少し北へ進んだところ、首都高速の高架が二股に分かれるところ。この左手に向けていく道が旧川越街道である。


その先で、かつてこのブログでも紹介したことのある高田道(板橋宿から高田村への道)との交差点があり、それに因んでこの辺りを四つ又という。今も四つ又商店街という名称に残されている。その辺りのマンションの裏手には、小さな祠に石仏が祀られている。首都高速の工事が大規模に行われて、この辺りの様相も一変してしまったのだが、古くからの時代の名残は今も大事にされている。


首都高速道路はここで大きくカーブして、山手通りへと向かう。この山手通りは戦後に出来た道で、昔はもちろんなかった。


山手通りの向こう側、少し登りながら続く道が旧川越街道。


ここからは、東武東上線大山駅へ向かう遊座大山という商店街になっている。


駅の近くは飲食店が数多く、賑わっている。


踏切の向こう側はアーケードになっていて、賑やかな商店街として昔から知られた大山銀座である。


そのアーケードの道が、かつての川越街道であった。どれほどの人が、そんなことを知っているのだろうか。アーケードを抜けると、国道254号線に出る。


アーケードを出たところを右に少し進むと、玉垣に囲まれた小さな祠が祀られている。
「縁起
 今より百五十年前文化文政の頃に鎌倉街道(日大交差点付近)にいずれからかおふくさんという行者来りて街道筋の人々の難病苦行を癒し大山宿の住民から大変に慕われておりました。
 ついに大山に住み余生を衆生につくしましたので、後に地元大山の人々によりおふく地蔵としてまつられ、現在に至っております。
 大山福地蔵尊奉賛会  平成十五年四月建立」


たしかに、きれいに花は供えられ、掃除も行き届いていて、大事にされている様子が伝わってくる。かなりの数の人が参っているようだ。


国道254号線沿いの旧家。


日大病院入口交差点から、鎌倉街道を東へ折れた辺りの仕舞た屋。この道筋も古くからある道のようで、真っ直ぐに進めば千川通りに合流し、中野通りへと変わっていく道である。先でどのルートを取っていたのか分からないが、鎌倉街道と呼ばれていた古道で、川越街道との交差点であったこと、東武東上線大山駅が出来、さらには国道254号線が開通してといった具合で交通のジャンクションとして栄えてきたということなのだろうか。切り妻屋根のオーソドックスな商家造りで、店舗周りをモルタル仕上げにしている。



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