西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

ベートーヴェンの兄弟たち

2008-01-03 20:41:01 | 音楽一般
ベートーヴェンは、昨日述べたように、父親ヨハン(1740頃-1792.12.18)と母親マリア・マグダレーナ・ケフェリヒ(1746-87.7.17)の間に生まれた。母親は19歳で宮廷の使用人と結婚したが、すぐ寡婦となり、21歳でヨハンと再婚した。ヨハンの父親ルートヴィヒはこの結婚に反対だった。ベートーヴェンはこの心優しい母親の影響が大きかったように思う。しかし母親は、ベートーヴェンが音楽家として世に出る前16歳の時に病死してしまった。2人の間の長男ルートヴィヒ・マリアは生まれてすぐ亡くなり、その1年半ほど後に生まれたのが作曲家となった次男ルートヴィヒである。その4歳下に三男カスパール・アントン・カール(1774.4-1815.11.15)、そしてその2歳下に四男ニコラウス・ヨハン(1776.10-1848)がいる。成人したのはこの3人だけで、末の3人(男1人、女2人)は早死にしてしまった。
この2人の弟は、2人とも兄の作品を勝手に出版社に売り払って金にするなど「悪弟」であった。兄弟は他人の始まりなどとも言うが、どのように考えたらよいのか。ベートーヴェンは21歳の時、ハイドンに師事するため楽都ウィーンに出るが、前後して父ヨハンが亡くなり、その数年後にこの2人の弟をウィーンに呼び生活の面倒を見た。それ以前から生活力のない父親代わりに2人の面倒を見ていたが、それが報いられるような話はその後ほとんどなかったように伝記を読むと印象を受ける。
三男カールが1815年11月に亡くなった時、その息子カール(1806-58)の後見人となったのは遺書により、母親ヨハンナ・ライスではなく伯父のベートーヴェンであった。生涯独身だったベートーヴェンは、この甥の教育を自分の使命と考えたようだ。そのためには素行の悪い母親から甥を引き離すことが必要と考え、友人の反対にもかかわらず、また裁判沙汰になってまでも後見人になることを願ったのだった。この時カールは9歳だった。ベートーヴェンのこの頃の日記に次のような記述がある。
「カールをおまえ自身の子供と思え。(略)現在のお前の立場は困難だ。だが、神は天にましますのだ。カールなくしては、すべては無に等しい。」
ベートーヴェンは、ヨハンナをモーツァルトのオペラ「魔笛」の登場人物に準え「夜の女王」と呼んでいた。ヨハンナはカールの通う寄宿学校に現れては息子を連れ去ろうと何度も試みるのだった。結局、ベートーヴェンのこの甥に注がれる愛情は報われることはなかったようだ。11年後の1826年、ベートーヴェンの最晩年であり、最高の作品たる弦楽四重奏曲をいくつか完成したころのことである、20歳のカールは学校を怠け、遊びに耽り、借金を重ね、その挙句ピストル自殺を遂げたのである。幸い、未遂に終わったが、この後もカールの軍隊入隊に際し大きな心労を重ねるのだった。そしてカールが傷が癒え退院した時、下の弟ヨハンは2人をグナイクセンドルフの自分の邸へと呼んだ。これまでの兄からの恩義を感じていたからであろうか。ヨハンは、薬剤師として成功し、大きな農場を所有していた。ヨハンは兄に「大土地所有者 ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン」との名刺を差し出したことがあった。この時、ベートーヴェンはその裏に「頭脳所有者 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」と書いた。ベートーヴェンは、このヨハンの妻をも徹底的に嫌っていた。かつて、弟の家に滞在していた時、同棲していたいかがわしい女を追い出させようとしたが、ヨハンはその後すぐにこの女と結婚してしまった。ベートーヴェンは、このグナイクセンドルフ滞在は家賃、食事代を払うものであったが、この地が大いに気に入り、「今来ている所は、若いころ去って再び見たいと思っていたライン地方を思わせる。」との手紙を書くほどだった。しかしこの地を去る時に、病魔に見舞われ、翌年3月に亡くなるのだった。
カールはその後結婚して、息子1人・娘4人の父親となった。息子はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(作曲家と同じ名前、1839-)、そしてその子はカール・ユリウス・ヴァン・ベートーヴェン(1870-1917)を名のった。ヨハンは子供がいなかった。カール・ユリウスが1917年に亡くなった時、ベートーヴェン姓の家系は途絶えたと手元の伝記本にはあります。

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