A Rider's Viewpoint

とあるライダーのものの見方

故郷とは何だろう

2012-08-21 22:15:27 | 所感
照りつける日差しは熱く厳しかった。電車の窓の向こうに見える入道雲の手前で発電所の大きなかざぐるまがゆっくりと廻っていた。
電車はやがて地下に滑り込むように潜ると東京駅の最も西南寄りのホームにたどり着いた。
そこからエスカレーターを3つ動く歩道を3つ乗り継ぎ、最後にもう1つエスカレーターを登ると東京駅南口地下連絡通路。東北新幹線への乗り換え口だ。自動改札に乗車券と特急券を重ねて入れ、新幹線ホームに進む。やがて車内清掃も終わり乗り込んだ指定席のシートに腰を下ろす。程なくドアが閉まり、車体がなめらかに動きだす。はやぶさ3号は北へ向かう。



思えば「帰省」という言葉に、解放とか休息とかいう意味を見いだせなくなったのは、一体いつ頃からだろうか。就職して経済的にも自立したころだったか? 結婚して自らの家庭を築いた頃だったか? それとも母親の認知症が発覚して、精神科の病院に入院した頃からだろうか?

実家にもはや僕の部屋はなく、2人の親友以外に定期的に連絡を取る友人もいない。親戚も母の件で誤解を受けてから疎遠で、積極的にその関係を修復する気もない。

僕は一人息子でありながら両親と故郷を捨てて東京へ出て行った者であり、単なる顔見知りの余所者にしか過ぎない。僕の故郷は心の中にしかなく、たぶん過分に美化された過去の思い出と深く結びついている。

その中では冬の生活の厳しさや、いつも雲に閉ざされたような陰鬱な気候の印象は薄れ、いかに紅葉が美しかったかとか、窓に氷の結晶が綺麗に彩られていたとか、廊下に置いていたコーラの瓶があまりの寒さに破裂したとか、そんな楽しいエピソードに置き換わっている。実際にその土地で暮らして行くならば、避けることはできない冬の厳しさや不便さ、いやそもそも働く場所を見つけることすら難しい経済情勢等、現実を感じさせる問題はすべて横に置いた上の話だ。

自立して、自分が生きてゆく環境を築き上げた今、僕が心を休める場所は自宅以外にはない。何も気にすることはなく、ただ甘えていることが許された母親の膝の上のような楽園は、もう僕には存在し得ないのだ。



新幹線は既に宇都宮を過ぎ、那須高原にさしかかろうとしている。この高原の峠を通り抜ければ、みちのくの地に入る。



音楽を聞きながら少し微睡んだようだ。新幹線は仙台駅のホームに停まっている。ホームを小さな女の子を連れた三人家族が通る。僕はその姿に在りし日の自分を重ねる。
自分が結婚して初めて家庭を持った街、娘が生まれてそれを育て始めた街、それがここ仙台だった。

ゆっくりとはやぶさが動き始める。僕も音楽に再び身を委ね静かにまぶたを閉じる。盛岡までは、あと40分あまりだ。



11:56 はやぶさは無事に盛岡駅に到着する。晴れていてそこそこに暑い。残念なのは岩手山が雲に隠れて見えないこと。僕にしてもふるさとの山はありがたいのだ。
駅前のキャッシュディスペンサーからお金をおろし父親が立て替えている母親の治療費の精算準備をする。父親もそう多くない年金で暮らしているのだ。今回、立替の額が高くならないような対策を相談するというのも、目的の一つだ。
駅地下の回転寿司で昼食。この店は寿司ネタが新鮮でいつも混んでいる。ビールを頼んで8皿ほど食べたかな。
会計をして駅に戻り隣駅まで切符を買って電車に乗る。隣駅から20分ほど歩いて、母親の介護施設についた。

母親はおなかが痛いということで寝ていた。数日後には医大で検査を受けてくることになるらしい。
何事もなければいいが。

何をするわけでもなく、母親の寝ているベッドの脇に座り、寝ている母親を見ている。
『老いた』
偽らざる僕の心境である。背負ってみたら軽いだろうか? その軽さに衝撃を受け、僕も三歩も歩めず泣いてしまうだろうか。

母親が少し具合がよいとのことで起き上がり、昔の古い写真を見ている。自分の孫である僕の娘の赤ん坊の頃からの写真を飽きもせず。その中に時折混ざる親戚の、叔母の写真がもう思い出せない。

もう一人の叔母の、自分の物を盗まれたと勘違いして家に乗り込んでいった叔母は、名前は解るが特に明快な意見は述べない。少し前なら嫌悪感を隠そうともしないで、僕に悪口を訴えてきたのだが。

記憶が壊れるなら、嫌なことだけを忘れればいい。心の中で大きな思いを占めてきた人以外が、たぶん順番に忘れられて行く。僕もいずれは、忘れ去られてしまうだろうか……?

娘に電話をして、母親と話してもらったのを潮に帰ることを告げる。部屋の出口で別れを告げ、施設を後にする。どこまで歩こうか、どうやって帰ろうか思案しながら歩く。歩くこと自体は嫌いではない。仙北町の駅に戻るか、バス停で時間を確認するかだ。向中野のバス停で人が一人待っている。バスの時間が近いのかと思い時刻表をのぞくと17:15の表記。ちなみに今の時刻は17:16。何気なく右を伺うとバスがやってきた。
神業のようなタイイングに感謝してバスに乗る。ちょうど終点は盛岡駅。バス停から200円の料金だった。
ホテルにチェックインし、夕食を取りに本を片手にビアレストランに入る。今日は友人たちに帰省のことを伝えていない。独りで過ごす故郷の夜である。



翌日、盛岡より更に北の小さな町を目指す。僕が生まれ育った町、家の墓がある町だ。新幹線のおかげでやたら立派になった駅舎の階段を降りる。家に向かって駅前の道を歩くと、店を閉めた焼き肉屋に続いて、小学校の同級生の家を取り壊している現場にさしかかった。父親が警察官の、あの国語が得意だった彼女は、今はどこにいるのだろうか?

心なしか少しさびれたような気がしなくもない。たぶんそれは正しいだろう。しかしそれを哀しむほど僕は傲慢ではないつもりだ。何せ僕は故郷を捨てて出て行った余所者なのだから。

父親に挨拶をし、仏壇の祖父母を拝み、手みやげを持って叔母の家に見舞いに行く。小一時間ほど話し、帰り際に父の車を車庫からだして、墓地公園にお参りに行ってくる。
祖父が亡くなった時に作ったこの墓は、まだ祖父と祖母しか入ってはいない。戒名を刻んだ石の面にはまだ余白がある。順当に時が流れれば、次は父、母、そしてその次が僕だろう。僕の妻が同じ墓に入ってくれるかは解らない。僕はそれには拘らないつもりではいる。残った事は残った者が決めればいい。亡くなった僕にそれを阻止する事は出来ないのだから。

父に「非常拠出金」と書いた封筒を渡す。これから出来るだけ母親にかかるお金は年金を管理している僕に直接請求が来るように手配していくが、「いざ」という時のための現金として、準備をしたものだ。
他にも何点かの話をして、盛岡に戻ることにする。父親も盛岡に行く用事があるとのことで、僕が車を運転して、途中で昼食を取って、盛岡駅前で別れた。



改めて自らに問う。故郷とは何なのか。
答えて曰わく、故郷とは過去であり、人であると。

僕が託すべき未来はそこにはない。
祖父が、祖母が亡くなり、母親が施設に入り、一人暮らしの父の手を煩わせたくないが故に、そうそう押し掛けるわけには行かない家。
休むためではなく、何か問題を片付ける為に赴く場所。
失ってしまった楽園。

そこにすむ人とのつながりが失われたとしたら、僕はもう帰ることはしないかもしれない。
(だから君たちとのつながりがとても大事なんだ、親友たちよ)

故郷は、遠く、美しい。
それはもう失われたものであるから、僕の心の中にしかないものだから。


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1 コメント

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ふるさと (おっと)
2012-08-22 02:58:15
故郷は無い、現在地が故郷? いや、そうは言わないだろうなぁ、日々変わりゆく街並みの片隅にわずかに変わらずに残っている路地が大人になってかなり細い路地だった事に気がつく位の思い出の中にあるのだろうか?

帰省はまた、別(^^;
結婚して始めて帰省という事をする様になり、浜松の景色を20年以上見続ける事により、少し故郷と言う概念が判ってきたのかなぁ?でも故郷では無いんだよなぁ(^^;

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