神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

高円寺村用水

2016-10-26 06:41:38 | 桃園川2

 「畑多く田少なし・・・・民家百八軒、土性はすべて野土なり、天水場なれば旱損の患あり」 これも「新編武蔵風土記稿」の一節で、新堀用水に関する解説などで、よく引用されるところです。なお、「東京府志料」の数字で畑111町余、田は12町6反ほどなので、確かに「畑多く田少なし」で、その少ない田の70%以上を新堀用水に依存していました。「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された村絵図の一枚は、他に高円寺や氷川神社の北側及び青梅街道の南側を水田とし、各々「宮田」、「南八ッ田」と書き込んでいます。前者は→ 「東京近傍図」にも描かれた左岸から桃園川に合流する小支流を、後者は同じく「近傍図」の中央下端に描かれた池を水源とする、こちらは善福寺川の一支流を利用していたものと思われます。

 

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    ・ 「高円寺村絵図」  成立年代不詳の「高円寺絵図」(首都大学東京蔵「堀江家文書」)を元に、ブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化したものです。

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    ・ 桃園川緑道  環七通りを越えるところです。越えた先で左岸から合流する小支流が、「宮田」の用水となっていました。

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    ・ 新鏡ヶ池  天羅山真盛寺境内にあるこの池から発し、善福寺川に合流する小支流が「南ハッ田」の用水となり、また小沢の地名由来との説もあります。

 <鳥見役宅>  鳥見(在宅鳥見)の役所が高円寺村字谷うらにありました。上掲「村絵図」の「御在宅御屋舗」がそれで、現在の地図に当てはめてみると、高円寺南5丁目の18ないし19番付近と思われますが、詳細は分っていません。なお、江戸近郊は幾つかの御鷹場に分かれ、各々に数人の鳥見が常駐する役所が設けられていました。高円寺村にあったのは中野筋を管轄するものです。
 ところで、鳥見は御鷹場の管理や鷹狩の下準備のための役職ですが、天領、大名領、寺社領など村々の帰属にかかわりなく、およそ環境の異同に関することに、広く関与するようになります。新堀用水の開削はもちろん、弁天池畔の富士塚築造についても、支配の代官所とは別途、その許可を得なければなりませんでした。(地形の変化や世情の動向を日々把握でき、また、大名の屋敷内にも立ち入ることができたため、一種隠密のような役目も担っていたのではないかといわれています。)