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「薬研堀 両国橋の南、元矢の倉の入堀なり。昔は横山町辺まで入て、幅も殊に広く、御米蔵の船入川も此堀に続きしと云。今の如く狭められしは、元禄年中御蔵を築地へ移されし後なるべし」(「御府内備考」) 「1/5000実測図」で、両国橋の南に描かれた入堀がそれで、L字の折れ曲がっていた先端は埋立てられ、→ 「江戸名所図会」にも描かれた、二つのブロックからなる町屋(薬研堀埋立地)となりました。なお、薬研は漢方薬を作る時、材料を細かくすりつぶす道具で、小舟型のすり鉢とハンドル付車輪のようなローラーでワンセットです。そのすり鉢の底の断面がV字(ないしU字)なことから、同様の断面を有する堀を薬研堀と呼んだものです。
- ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)
- ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」 「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の東部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。
- 1. 河口は日本橋中学の敷地になっています。ここに架かっていた元柳橋は、前々回UPの→ 「図会」にも描かれています。
- 2. 日本橋中学の北西のブロックで、次のブロックと共にL字の折れ曲がったところに当たります。
- 3. もう一つのブロックを振り返っています。右写真の薬研堀不動ですが、「図会」の場所とはズレており、移転したのでしょう。
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両国橋が上流に架け替えられたのは、明治37年(1904年)のことです。明治30年の花火大会の際、群衆の重みで欄干が崩落し、死傷者が出たことをきっかけに、鉄橋への改架が図られたもので、長さ165mの三連トラス橋となりました。同時期に開通した市電両国橋線が、柳原通りを利用していたのに合わせ、場所も数十メートル上流にシフトしましたが、江戸時代の橋が軍事上の理由からでしょう、通りとズレて架けられているのは、これまでも度々見てきたところです。なお、この鉄橋は関東大震災にも耐えましたが、震災復興にあわせて現行のものに架け替えられました。その際、三連トラスのうちの中央の一連が、該当個所で触れたように、亀島川河口に架かる→ 南高橋に再利用されました。
- ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」 「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の東部及び北東部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。なお、改架以降の様子は同一個所、同一縮尺の→ 「明治42年測図」でどうぞ。
- ・ 両国橋 西詰めからのショットです。親柱上の照明を兼ねた球体に関し、地球をイメージした、六尺玉をかたどった、旧国技館の丸屋根など、諸説入り乱れていますが。
- ・ 両国橋 江戸時代の橋の位置からのショットです。現在の橋の架橋は昭和7年(1932年)、橋長164.5m、幅員24.0mの3径間ゲルバー橋です。
- ・ 隅田川 両国橋から上流方向です。正面の橋はJR総武線に架かる鉄道橋で、両国橋と同じ昭和7年の竣功です。
「両国橋 吉川町より本所尾上町へ通ぜり。此橋万治三年庚子に初てかゝれり。その頃はたゞ大橋と唱へしよし。長九十四間、後に九十六間となれり。本所は古へ下総に属せし地なれば、その因をもて後に両国橋と名付られしといふ」(御府内備考」) 「江戸名所図会」は創架の年代を万治2年(1659年)ないし寛文元年(1661年)としています。いずれにしても、きっかけは明暦の大火(1657年)で、隅田川に橋のなかったことが被害を拡大したとして、軍事重視の従来の方針を転換、市街地から離れた千住大橋に次ぐ隅田川二番目の橋となりました。
- ・ 「江戸名所図会 / 両国橋」(三枚シリーズの其一と其二の合成です。) 「一両が花火間もなき光かな 其角」
当初は単に大橋と呼ばれていましたが、武蔵、下総二国にまたがる橋の意で、両国橋との呼び名が定着します。ただ、貞享3年(1686年)、国境が東の利根川に移ったため、両岸とも武蔵国に属することになり、「両国」橋ではなくなりました。この両国橋の東西の橋詰に火除地が設けられたのは、明暦の大火の教訓からです。火除地の性格上、常設の建造物は建てられませんでしたが、やがて、床店(とこみせ)と呼ばれる移動可能な店舗が置かれ、葭簀で囲んだ仮設小屋で芝居、見世物興行が催されるようになります。
- ・ 隅田川 右手が神田川河口に架かる柳橋、左手が両国橋ですが、「図会」当時より柳橋に近い位置に架かっています。
こうして両国広小路は上野、浅草と並び、三大広小路と称される繁華街に発展しました。上掲「図会」には、髪結い床、茶屋などの床店が軒を並べ、軽業、見世物、芝居小屋が建っています。とくに「土弓」との書き込みが多く見られますが、これは小さな矢で的や景品を射させる遊技場のことで、楊弓場、矢場とも呼ばれました。時代劇では太鼓を叩き、「当たり~」と声を張り上げる矢場女がよく出てきますが、彼女ら目当てに通う客も多かったようです。(両国広小路記念碑の写真は→ こちらです。両国橋の西詰に立っていますが、江戸時代の広小路からは柳橋側にややズレています。)
浅草橋の先、200m弱で神田川河口に架かる柳橋です。以前は渡し船で往来していたところに、元禄11年(1698年)に創架されました。当時は「川口出口の橋」と呼ばれていたと、「御府内備考」は書いています。同書は柳橋の名前の由来について触れていませんが、南詰に設けられた解説プレートには、柳原土手に架かるから、柳が植えられていたからと、誰でも思いつきそうなものとともに、当初は付近にあった幕府の米倉庫(矢の倉)から矢の倉橋と呼ばれていたこと、それが矢の城(やのき)、柳(やなぎ)と転化したとの説が紹介されています。
- ・ 「江戸名所図会 / 両国橋」(三枚シリーズの其二、其三の合成です。) 「この人数(にんず)舟なればこそ涼かな 其角」 中央下端に神田川河口が描かれ、柳橋の南詰から両国橋の西詰にかけて、「料理や多し」「舟宿多し」などと書かれています。
- ・ 柳橋 南詰からやや振り返っています。現在のものは昭和4年(1929年)完成の震災復興橋梁で、永代橋と同じくライン川の橋のイメージだといわれています。
- ・ 神田川 柳橋からのショットで、すぐに隅田川に合流します。右手が両国橋、正面奥は対岸沿いに走る高架の首都高6号向島線です。
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