自粛ムード漂う話題も多い中、いったん整理すべき事がある。
先ず、今回の問題は大地震とそれによる津波で起きた死者、行方不明者の甚大な被害。
そして、原発事故による放射能問題。
この2点で日本全体が自粛ムードになるのはそれぞれどういう事をもたらすのか?
先の事で自粛すべきと言うのは安易な感情論ではないだろうか?
これだけの事があり、多く苦しむ方々をよそめに祝辞やきらびやかな事を遠ざけるその理由は、他者の目。
いわゆる「不謹慎」と言うものだろう。
そして、その人が不謹慎だと言うのも、自身で不謹慎ではと思うのは自虐的に幸福に歯止めをかけ、精神的に似て非なるものだが一種の罪悪感から逃れたいからの作用ではないだろうか?
精神的にはそう思うが、今の自粛なる行為は本当にそれが理由だろうか?
先行き不透明な経済情勢において、備える結果がまるで自粛しているという事に置き換わっているともとれる。
今回の事で首都圏の企業も大きな経済的打撃を受けた故に給与の削減、更に市場の減少によるリストラ、失業率の悪化。
私は後者の方が大きく今の自粛ムードの理由に則しているのではないかと思う。
そして、先の理由を建前にしているのだと。
なぜなら、精神的に自粛と言うなら買い占めなどは起きていない。
今回の自粛の心理の定義をここでいうものとするなら、むしろ「自分だけが」の代表たる買い占め行為等起きるはずがない。
それらがもたらす結果は後述に回し、次いで原発に関しては自粛ではないが、正しい理解なく敬遠される風評被害の買い控えや物流の鈍化である。
現代物流はすなわち経済と言える。
更に加筆するなら、廃棄ロスや生産ロスと言う損害。
2つの道筋を辿る自粛と評される結果がもたらすものは、経済情勢の悪化、国力衰退というところに集約帰着する。
この流れは放射能より早く広まり、即効性を持って影響を与えるものだと思う。
勘違いしてほしくはないが、節電等の自粛行為は意味あることだと思うが、私が投げかけるのは意味の無い自粛。
むしろ後々自らを苦しめる自虐との区別である。
そして、先般も書いたが産業の保護が大切であり、そのためにはその生産物を消費する事が肝心であり当面輸出に不利な自国の生産需給を生み出せるのは国内消費以外にないだろう。
なら、「汚染された物を我慢しろと言うのか」と反論がきそうだが、「汚染」とは何を指しているのだろうか?
震災前に比べれば汚染されている事は間違いない。
問題は許容容認範囲を超える「汚染」なのかと言うことだ。
以前の品質に劣るだけでも問題だと言う方は現実の受け止めが甘いと思う。
「震災は起きた」のだこれから数年を要する復興作業に直ぐに同様の再生を望める訳も無く、被災地の方の苦しみを同様に分かち合いたいとするならば、選択も自身の安全も図りがたい彼らの苦しみの一部を共有する、それが真に寄り添う事ではなかろうか?
お金や励ましの言葉でなく、自身の全てをかけて被災地の方に寄り添う覚悟無くして彼らを支援するという本当の意味には届かない。
生きていて不幸だと感じる事は幸福だと感じるより多いと私は思うが一つの幸せで人は希望を持てるし、元気になれる。
先日、自ら命を絶った農家の自殺の記事が頭から離れない。
何となくする意味の無い自粛行為は、将来への自虐行為に他ならないと私は考えます。