水瓶

ファンタジーや日々のこと

川崎市立日本民家園・東北の村

2016-05-11 08:00:06 | 川崎市立日本民家園
あれ?この案内にある工藤家って行ってなくない?……うーん、行く?……けっこうくたびれたなあ……でも東北の家だし……

南部の馬飼ってた家かも知れないし、、、行く!!

こんな会話を森のなかまと交わしながら向かったのが、岩手県紫波郡(しわぐん)紫波町舟久保小屋敷にあった工藤家。
ルートから少し外れた所にあるために、前に民家園に来た時にはスルーしてしまったようなんです。
こんな馬が置いてあったら忘れるわけないし。。そういえば他の民家より人も少なめで、見落とされがちなのかも知れない。
民家園行かれる方は、工藤家を見落とさないようご注意を!
少々くたびれてても、戻ってでも見て良かった!と思うのがこの南部の曲屋(まがりや)なのであります。
やっぱ行くの…?みたいな顔でついて来た森のなかまも、ここが一番気に入ったと言っていました。ブラーボー!


全体撮るの忘れてしまったんですが、こんな風にうまや部分がL字型に突き出ているのが曲屋の特徴で、
旧南部藩領(岩手県)に多く見られるそうです。
曲屋が建てられ出したのは18世紀中頃らしく、この工藤家が建てられたのも宝暦年間(1751~1763)頃のようです。
民家園にある他の民家よりは、およそ百年ぐらい時代が新しいことになりますね。
でも曲屋は、民家ファンにはたいへん人気があるんだそうです。わかる~~~


当時南部藩は南部駒を飼うことを奨励していたので、工藤家があった紫波郡や、遠野物語で有名な遠野辺りには、
馬を飼うのに便利な曲屋形式の民家が多く建てられたようです。
遠野物語には、舞台となった家の間取り図が書かれていますが、やっぱり曲屋!

遠野の町は南北の川の落合にあり。以前は七七十里とて、七つの渓谷おのおの七十里の奥より売買の貨物を集め、その市の日は馬千疋、人千人の賑わしさなりき。

遠野は河童などの妖怪で有名になってしまったあまり、へんぴな田舎だと思われがちですが、
遠野物語の冒頭に語られている様子からは、往時はかなり繁栄した城下町であったことがうかがえます。
おとなりの紫波郡にあるこの工藤家は、民家園の中でもかなり広い家だと思うんですが、
驚いたことにさほど広い田地や山林を持っていたわけではなく、中堅農家だったらしいとのこと。
この時代のこの地方、私が考えていたよりもずっと豊かだったようです。


曲屋は、幕末から明治初年頃に最も多く、大規模農家の間で立派さを競い合うように建てられたそうです。
工藤家は曲屋としては大きい方ではないけれど、建築年代がほぼおさえられる現存最古の曲屋で、
曲屋の歴史や発達を考える上で、とても重要な家なんだそうです。




わかりますでしょうか。曲屋は天井がなく、部屋の境も鴨居から上はすべて吹き抜けになっていて、
「いわば建物全体が一室になっている」のです。しかも「ざしき」以外は全部板の間。

冬の寒さはいかばかりか・・・

いろりの火で内部全体を暖めていたらしいとはあるのですが、いろりはこれだけ広い家にたった一つだけ。
江戸中期以降なら火鉢も普及していたとは思うけど、火鉢であったまるのって、ほんと手元だけだよ。。。

でも、民家園にある民家はみんな、夏は涼しそうなんだけど、冬はすごく寒そうなんですよね。
実際、いろりに火を焚いていたボランティアの方が、冬は寒くてしょうがないとぼやいていました。
まして寝具も着る物も、今ほど充実してなかったでしょうしね。。
宮本常一さんも、日本の家はとにかく冬に寒い造りで、寒さに耐えられないと生き延びられなかったとあっさり書いていました。
現代人が過去にタイムスリップしたら、なんかする前に寒さと匂いとバランスの悪い食事とでまずダウンするんじゃなかろうか。


たった一つのいろりは「だいどころ」と土間の境にあって、土足のままでも暖まれるようになっています。
外の作業のちょっとした合間にも、暖を取れるようになってたんですね。


たった一つの畳の「ざしき」。もっとも、畳は婚礼や法事などの、多くの人が集まる時に板の間に広げていたものだそうで、
ふだんはたたんでしまってあったゆえに「たたみ」というんだそうです。
でもそんなわけで、ざしきわらしがいたのは、ふだんからたたみの敷いてあるちょっと特別な間だったんですね。
妖怪と言われたり、家の守り神と言われたり、でもざしきわらしはきっと、夜暗い間に訪れる神様の後裔ですね。



工藤家では、二頭の馬を飼っていました。栗毛なら「クロ」、赤毛なら「アカ」と呼んだそうです。エサは朝・昼・晩の三回です。ワラや燕麦、葛の葉が主な食物で、フスマ(小麦を粉にしたときの残りかす)や、米のとぎ汁を混ぜたりしました。人がごちそうを食べる大晦日の晩には、馬にも小麦を食べさせました。冬は水が冷たいので、飲み水も釜で温めてやりました。

馬は田畑を耕したり、馬車を曳かせたりするのに欠かせませんでした。また厩にひいたワラを踏ませて肥料にしたほか、馬の尿もコヤシに使いました。厩の地面には傾斜がついており、外に尿が溜まるようになっていたのです。

病気になると伯楽という馬専門の医者に診せ、薬を飲ませました。しかし、それでも甲斐なく死んでしまうと、そばの山にあった馬の墓に埋葬し、ワラで作った馬を立てて煮豆を供えてやったそうです。(工藤家にあった説明書きから)



工藤家の外便所。左手下に見えるのが、私が子どもの頃に入ったことのあるワイルドなトイレと同じ形です。
シンプルな造りで、ヘタをすると足をつっこんじゃいそうなんですよね。。。
でもこれは建物もしっかりしてるし、ずいぶん立派なトイレです。


札には「イトニコガ」と書いてあって、特に説明もなく何なのかわからないんですが、土間にあった大きな長細い桶です。
人がすっぽり入れるぐらいの大きさで、森のなかまは「棺桶じゃ?」というんですが。。たしかに普通には使いにくい形で。。。





少年の頃ある夜常居より立ちて便所に行かんとして茶の間に入りしに、座敷との境に人立てり。恐ろしけれどそこへ手を延ばして探りしに、板戸にがたと突き当たり、戸のさんにも触りたり。されとわが手は見えずして、その上に影のように重なりて人の形あり。その顔の所へ手をやればまた手の上に顔見ゆ。(遠野物語)


東北地方の家はもう一軒あって、それが山形県鶴岡市松沢にあったこの菅原家。建てられたのは18世紀末頃だそうです。
こちらも特徴的な造りをしていますが、これは「はっぽう造り」というそうです。「はっぽう」は破風から来てるらしい。
この家ですと、屋根を割って突き出させたような部分が破風のようで、雪が多い時にはこの高窓から出入りしたそうです。

はっぽうは、明治になって養蚕に力を入れだした頃から、採光が良いようにと家を改造したことから始まった形のようです。
屋根のてっぺんの小さな破風、まるでかぶとのようにちょこんと乗っているのは「高はっぽう」というそうです。


今でも神社に見られるような屋根にのっているあれは、千木(せんぎ)といって、
日本では奇数の数のせられることが多いそうですが、中国では偶数だったりするらしいです。
菅原家の屋根棟はグシグラというそうです。


中二階へのはしご。ここで蚕を飼っていたのかな?


土間の流し。光が差し込んできれいですね。うーむ、この柔らかい影の感じ、ラトゥールの絵のようです。


この家にはびっくりするぐらいよくできた部分があって、敷居の所にソロバン玉という車を使った仕組みがあるんですが、
戸の開閉がしやすくなっていたり、敷居の端の一部が欠きとってあって、溝の掃除が簡単にできるようになっているそうです。
(※写真の下の真ん中の図がわかりやすいです。)
後世の改造かと疑ったものの、もろもろの調査から、当初からのものとしか判定せざるをえなかったそう。
アイデアマンの大工さんのしわざだよ!



明治以前のこの地方は、出羽三山へゆく修行者の基地として栄え、道者宿として多くの人たちを泊め、
村人たちは強力や馬子をつとめたり、道者宿を営んだりしていたそうで、時おり畳敷きの部屋に人々が集まって、
百万遍(鉦・太鼓を叩き、大きな数珠を人々が輪になって回しながら念仏を唱える)をしていたそうです。
この菅原家には「あみださま」という部屋もあり、肝煎(きもいり・名主や庄屋に同じ)の家柄を語っているんだそう。
たしか前に来た時には、百万遍用のとても大きな数珠が、畳の部屋に置いてあったように覚えています。
なんとなく、寒い、暮らしの厳しい地域の方が、信心深い傾向がある気がしますね。当たり前といえば当たり前かも知れないけど。


菅原家では牛馬のほかに、ヒツジ・ヤギ・ブタ・ニワトリ・ネコなども飼っていたそうです。
山では炭焼きや山菜採りにクマ猟、川ではマスやカジカなどの漁も行っていたそうで、
炭焼きは養蚕と並ぶ大きな収入源だったそうです。へえー、炭もそんなにお金になったんだ。。。


右側の竹を連ねたものは、多分「タケノマ」という、荷物を乗せて雪上を運ぶ道具だと思われます。左側はスキーですね。
松沢集落は、冬には三メートルもの積雪になる豪雪地帯だったそうです。

北の、冬の長い、雪の多い地方の生活は厳しく、春になると、冬の分の食料を食べ尽くしてしまった人々が村を出て、
食べ物を乞うために遠くまでさまようこともあったそうです。
春が待ち遠しいと気軽に言えないような、切実すぎる話ですね。。。
この菅原家は肝煎の大きな家だから裕福だったはずだけれど、子どもが多かったので、
女の子を一定期間農家へ奉公に出したり、子どもたちが獲ってきたマムシを売ったりもしていたそうです。
裕福な家の子どもといえど、あんまり遊んでもいられなかったんですね。・・・って、マムシ?ぎょぎょぎょっっ


こうして見るとお寺か神社のようです。しごく現実的な理由から造られた形が、美しく風景に納まるもんだなあ。



というわけで、川崎市立日本民家園の、五つのエリアについて書き終えました。
なかなか個性的な家がそろっていたでしょう?
本当に、これだけ特徴のある古民家を集めて移築した民家園創始者の人たちには、
そしてそれを維持している方たちにも頭が下がります。
もしも行かれる時には、ひと通り下知識を仕入れてから行くと、何倍も楽しめますよ。

・・・気軽に気楽に書くつもりが、ブログ始めて以来の根のつめっぷりになってしまいました。
でもやっぱり、こうして色々調べたり、写真と照らし合わせたりしながら書くの面白いんですよね。
はあ、肥やしも切れたんべな。。。


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