日々是好日?かささぎなくらし

筑紫平野→新潟平野→関東平野と旅を続けるかささぎが,「よく暮らす」に焦点を当てて 鳴いてみる。らしい。

音声としての話し言葉(書き言葉 話し言葉:番外編)

2005-10-10 23:23:22 | おもうこと
※関連記事も併せてお読み頂けると嬉しいです。

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以前コメントを頂いたBlog ことば・言葉・コトバ:渡辺知明さんの提唱なさる「表現読み」による『言壺(ことつぼ)』を聴いた。
大変興味深く,内容も筒井康隆を思わせるSF風で,気に入ってしまった(ブックマークしています)。

渡辺さんの「表現読み」を聴いて私が強く感じたのは,
●「話し言葉」は音声として存在する
●音声としての「話し言葉」はコミュニケイション・ツールである
ということだった。このことをもう少し考えてみる。



「話し言葉」は 実際に音声として話し手(または読み手)の口から話されたとき,
話し手の口を離れた瞬間から 聞き手にとって放たれたコトバとなってゆく。

「話し言葉」は 話し手と聞き手のあいだに存在するもの(コトバ)となる。


聞き手は,話し手の「話し言葉」をどのように理解したかによって
自分(聞き手)の「アタマの中のコトバ」をかたちづくっていき
聞き手の理解度に従った「反応」をソトに示す。


話し手は,理解度に合わせてソトに現れた様々な聞き手の「反応」を,話しながらみて,受け取って解釈する。
聞き手の「反応」をどのように解釈したかによって 次の
自分(話し手)の「アタマの中のコトバ」を瞬時に(或いは慎重に時間を掛けて)選び出し,
話し手は聞き手に伝わるように次の「話し言葉」をソトに出す。


話し手の話→話を受けた聞き手の反応→聞き手の反応を受けた話し手の話→その話を受けた聞き手の更なる反応→・・・
という経過を辿る。
このときの話し手と聞き手のあいだの動きは,一方的ではない。
 話し手→コトバ・反応→聞き手
 話し手←コトバ・反応←聞き手  これらが同時に行われている。


対話,演説・講義・授業などは 話し手と聞き手が同じ時間軸上に存在する。
両者が同じ時間軸上に存在するので,反応はリアルタイム且つダイレクトである。

だから,伝えたい内容が正しく聞き手に伝わっていないと話し手が感じるならば,
話し手はその場で即時方向修正も可能である。
コトバを選んだり,伝え方そのものに工夫を凝らしたりが出来るのだ。

穏便に丁寧に詳細に伝えることも出来れば,逆に過激に乱暴に粗雑に伝えることも出来るというわけである。

これは相手が居てこそ成り立つことである。
「伝える内容」に関わらず「伝える技術」が重要になってくるのはそのためだ。
話し言葉で話された内容を詳しく覚えていなかったり,
話された時の状況や場の雰囲気や話し手の外見的な様子などを印象強く記憶したりするのは,
結局の所,「伝える内容」以外の,
音素(話し手の声質や大きさ高さなど)そのものや「伝える技術」に頼ることが「話し言葉」には多いから 
と言うことが出来よう。



耳からの記憶は・・・感情に強く訴えるからね。
「話し言葉」での議論が感情的になるのは その辺りとも関係あるかな。
でも相手がいての対話だからこそ,誤解を解いたり素早く理解したりできることも当然あるはずだよな。
いずれにしても・・・喧嘩はしたくありませんねぇ^^;


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10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
コトバの意味と形式 (渡辺知明)
2005-10-12 20:13:17
わたしの表現よみを取り上げてくださってありがとうございます。音声言語の分析については、コトバの意味と形式との区別がアイマイな気がしました。わたしのブログに「コトバの網」とコトバのはたらきについて書きましたのでどうぞお出かけください。
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ちょっと質問 (うさと)
2005-10-13 11:10:12
かささぎさん。こんにちは。

かささぎさんのをずっと拝見し、渡辺さんのも読ませていただき、ここしばらく、言葉について考えています。

とっても、おばかりんの質問でまことに恐縮なのですが、もし、お気に触らなければ、お教えください。

かささぎさんが問題にされているのは、

「言葉を話すこと」と「言葉を書くこと」の違いですか。それとも、

「話された言葉」と「書かれた言葉」の違いですか。

行為なのか、言葉自体なのかということなんですが、いまさら、で、ごめんなさい。
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渡辺さま (かささぎ)
2005-10-13 13:24:20
お返事遅くなりました。こちらこそ言及して下さって有難うございます。



渡辺さんのご紹介記事,拝読致しました。図解が分り易くてよいですね^^



渡辺さんのご指摘のように,私自身ここでは「内言語」を明確に場合分け(渡辺さんのA・Bコース)をして考えてはいません。なぜなら,私がここで考えたかったのは,「内言語」のはたらきそのものよりも,「ソトへと出されたときの内言語(つまり「話し言葉」)」がどのように聞き手・話し手にはたらきかけるのかという作用そのものに着目したかったからです。

私の考察そのものが未だ浅いので,なかなか思うようにはご説明できておらず反省致しております。



ご指摘有難うございました^^ 精進致しますので,これからもよろしくお願い致します。
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うさとさま (かささぎ)
2005-10-13 13:45:02
うさとさん 今日は^^ いつもこのように私の浅い考えにお付き合い下さり,有難うございます。書いて下さって嬉しいです。



「行為なのか、言葉自体なのか」という,うさとさんのご質問ですが・・・。うさとさんにはっきりと指摘されるまで,私自身明確にはさせていなかったと気付きました(ホントにもう^^;)。うさとさんが戸惑われたのもごもっともですね。こちらこそ御免なさい。



「書くことと話すことの違い」即ち「行為」そのものに重きをおいて考えたい というのが今のところの私の答えになります。結局伝えたいことがあるために書いたり話したりしているわけです。でも,その「行為」にはどうしても「話す言葉書く言葉」という「コトバそのもの」の質が関わってきます。質が悪ければ伝えたいことの幾らも,伝わらないかもしれない・・・。これでは書くこと話すことという「行為」そのものが無駄になるような気がするのです。「行為」そのものを成就させるためには,「コトバ」についても吟味しないとならないわけです。私は,できることなら一回のパフォーマンスでより正確に相手に伝えたい・・・という欲張りなのですね,きっと。



だから考察していても「行為」と「コトバ」を切り離せずにいます。なにか,もっとすっきりさせれば議論のしようもあるのでしょうが,どうも私には「行為」と「コトバ」を厳密に分けて考えるのが上手くできないようです。うーーーん。課題だなあ・・・



うさとさん,私はこういう感じでコトバについてを考えたり書いたりしていますが,これで少しはご理解頂けるでしょうか・・・^^

またうさとさんの鋭いご指摘,待っておりますね。
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ありがとうございます。 (うさと)
2005-10-13 14:18:18
かささぎさん。

早速お答えくださり、ありがとうございました。

「行為」を核において言葉を考えるということですね(いいんでしょうか、この解釈で)

まずは、「書き言葉と、話し言葉がどのように語彙的等において違うのか」ということは、二次的問題(もしくは、派生した問題)と考えてよいということでしょうか。

「行為」として、話すこと、もしくは、聞くことを考える時、その中で言葉はどのように発せられ、伝えられ、伝わり、理解されるかということですね?

一つお願いをすることが許されるなら、「書き言葉」と「書く行為によって発せられた言葉」を、明確に区別なさった上で、どちらかのみに絞ったお考えが読みたいです。(私、今までの記事を誤読していたかもしれません。)今まで、なかなか、かささぎさんの「ことば」の記事にコメントが書けなかったんですが、実はそのあたりで、私の理解レベルに逡巡があったからかも知れません。えっと、それから、私も、一つ記事、書いてみようかと思っています。そのためにも、頭の中をすっきりさせねばとおもっています。かささぎさんの上のおこたえに甘えたコメントになってしまいました。重ねてお詫び申し上げます。
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横からこんにちは。 (Ken)
2005-10-13 17:03:18
聞き手を目の前にしたときの話し言葉は、聞き手の反応によって、変化するものだと思うんですよ。

言葉だけじゃなくて、「間」というのもありますよね。

相手が爆笑したら、間を置くわけですし、沈黙が続いたりするのも、話し言葉(というより音声言語かな)に特有のものだと思います。
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難題 (かささぎ)
2005-10-16 02:04:53
◆うさとさん^^  お返事遅くなりました。お許し下さいね



うさとさんがまとめて下さったようなお考えで合っていると,私は思います。

おそらく私は,うさとさんの仰有る「書き言葉と、話し言葉がどのように語彙的等において違うのか」ということを考えるとき,常にそこに「書く 話す」という「行為」があっての上でコトバを考えているので判りづらくなるのだと思います。

「行為」のないコトバは消滅していく そのことに根拠のない怖さを持っています。 いや 根拠はあるかもしれない・・・。行為のないコトバは単に内側に響く主観(とも呼べないかもしれないもの)であってカタチにもならないから,わたしが消えたらそのあったかもしれないコトバも消える。そういう怖さでしょう。所詮なにか生きた証が欲しいだけかもしれませんね。



「書き言葉」と「書く行為によって発せられた言葉」を明確に区別する,ということをどのように「書き表して」ゆくか・・・うむむむむ できるかな。明確に区別 ということをしたことがないのではないだろうか,私は。書けるだろうか。



うさとさん,難題です。よい機会を有難うございます。どうぞ私にお時間を下さいませ。
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縦横 ご自由に (かささぎ)
2005-10-16 02:07:08
◆Kenさん^^ お返事お待たせ致しました。



聞き手の「反応」というのは本当に様々ですよね。

声を挙げる,拍手をする,野次を飛ばす,頷く,メモを取る,笑う,顔をしかめる,腕を組む,沈黙する,寝る,席を立つ,ブーイングなど。



聞き手の「反応」が声だけではないので,話し手もコトバの内容以外の 声の質・高低・大小,アクセント,緩急の間合い,身振り手振り,表情,メイクや衣装,資料映像,効果音などの「話し言葉に含められる物・含みたい物」或いは「話し言葉を助ける物」で応じるのだと思います。第一に,話し手は聞き手に「聴いて」もらうことをしなくてはならないわけですから。「話し言葉」の内容の理解につながるものはうまく利用するでしょうし,それらが巧みに働くように工夫をするしかなくなるでしょう。



話し手は聞き手が居てこそ だと思います。

聞き手の居ない話し手は,私は話し手としては成就しないように思います・・・



有難うございます。なかなか楽しい話です。 またよろしくお願いしますね^^

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ありがとうございます。 (うさと)
2005-10-16 08:18:46
かささぎさん。

お返事ありがとうございます。



古来、日本人は、「話し言葉」と、「書き言葉」を区別してきました。手紙などに使われる候文が、その典型ですね。ある意味、

「話し言葉」で書けない、

「書き言葉」で話せない

という日本人が、いたわけです。それゆえ、言文一致運動が起こったりするのですね。このような、明治中期までの日本人の言語観(言語習慣)と、かささぎさんのお考えの中の、「話し言葉」「書き言葉」という用語を誤解したために、私の理解の中に混乱があったのだと、今、思ってます。

それゆえ、いろいろと質問をしてしまいました。申し訳ありません。現代に落ちて、言文は、明確に異なるものではありません。しかし、「話すように書く」「書くように話す」ことは可能か、意味があるのかは、よく論ぜられるところです。それは、言語自体の違いを論じるものです。そのような論が、私の意識の中にあり、「行為」を書くとして考えようとなさる、かささぎさんに、お手数をかけてしまいました。

ただ、「書き言葉」「話し言葉」という用語で考えるとき、このような論争を、含んでしまうのは、避けられぬことだと思います。

ゆっくりと、じっくりと、お考えを楽しみにしております。
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お返事遅くなりました (かささぎ)
2005-10-19 00:55:30
うさとさん 私が自分のアタマの整理のために勝手に使っているコトバによって,うさとさんの混乱を引き起こしていることになっていたとは,気が付きませんでした。ごめんなさい。

うさとさんの質問は,私は歓迎ですよ。私のごちゃごちゃしたアタマを整理する一方法を示唆して下さることになるわけですもの。嬉しいです。何よりも専門に学んできた方の持つ視点は違う。言葉の重みというか・・・うさとさんが長年あたためておられたであろうお考えがどっしりと在るわけですから。うさとさんが言葉の意味を大切になさるのは当然です。私も迂闊だったかもしれませんから。



もっと精進して参ります。このシリーズはまた必ず書きますので,今暫くお待ち頂ければと思います。



私もうさとさんの書かれる記事が楽しみです。

ありがとうございます 
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