人生ブンダバー

読書と音楽を中心に綴っていきます。
現在は、暇に飽かして、日々更新。

ファミリー・ヒストリー

2024-01-05 05:00:00 | ファミリー・ヒストリー

この3年ほど、母が残しておいてくれた「原戸籍」を手掛かりに
「ファミリー・ヒストリー」を調べた。

昨年、かなり「研究」が進んだので、年末にパワーポイントにま
とめ、1月1日(月・元日)、わが家に「全員集合」の折、「発表」
を行った。

<ポイント>
・先祖の地は富山県の高岡。

・江戸時代は、代々続いた商家で「絹屋」(呉服屋?)という商
 号で、当時の姓は「笹原」。
 (注)本家絹屋権右衛門は4代で途絶える。

・我が先祖は、代々絹屋(笹原)権九郎を名乗る。

・わが父から系図を逆にたどると、恒夫→二吉→恒二→遂初→北湖
 →百年(白年?)→・・・・・・となる。


・6代目権九郎(百年[白年?])の時に初めて「人に書を授く」
(『高岡市史』より)。

・7代目権九郎=北湖(教育家)は「父に継ぎて漢籍及習字を地
方の子弟に授け其の教育に努む」(同上)。1811生-1886没。

・8代目権九郎=遂初(教育家)は(明治元年)「高岡学館の設
けらるるや父とともにその講師とな」る(同上)。
1832生-1890没。


・遂初の子恒二は、明治35(1902)年、高岡市教恩寺に「先祖
代々の墓」を建てる(→こちら)。
1862生-1928没。昨年は没後95年。


・恒二の婿養子二吉(旧姓田辺)は尾道出身。東亜同文書院卒業
(4期生。3期生に若杉要[指揮者若杉弘の父]、5期生に石射猪
太郎
がいる)。1880生-1952没。

(『東亜同文書院大学史』4期生史--「明治40年6月書院を卒
業し、平和の戦士として支那を舞台に活躍すべく高昌廟の学窓を
去った。(同期の)卒業生は58名であった。」)

辛亥革命の際には「大原武慶が二吉を帯同して革命軍の応援に来
たる」(→こちら萱野長知『中華民国革命秘笈』)。

その後、二吉はペラペラの中国語(当時は「支那語」といった。)
を生かし、警視庁~外務省(中国駐在)に勤務。
最終:天津総領事館副領事山海関駐在(国立国会図書館『官庁職
員(公務員)の名簿』参照)。

わが父は、先祖のことについてほとんど語っていなかった。
高度成長期の多忙さからそれどころではなく、まとめる余裕もなかった?


パワーポイント


参考図書 
愛知大学名誉教授藤田佳久『日中に懸ける東亜同文書院の群像』
(中日新聞社/2012/3/30)

上海の東亜同文書院は明治34(1901)年開校。
「全学年にわたり支那語が毎週11時間、英語が同7時間課せられた」
(同書p100)
祖父が中国語がペラペラだったナゾが解けた。


萱野長知『中華民国革命秘笈』(復刻版) 山内図書館蔵



高岡駅前


高岡大仏


高岡城跡


前田利長公


瑞龍寺


勝興寺(浄土真宗本願寺派)


旧菩提寺 教恩寺(浄土真宗本願寺派)


雨晴海岸と立山連峰


コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1/3 箱根駅伝(復路)~御嶽... | トップ | 能登半島地震2024/1/1 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (多摩爺)
2024-01-05 22:01:50
フォローしていただきありがとうございました。
爺さんがぼやく拙いブログですが、笑ってやっていただけたら幸甚です。
Unknown (katsura1125)
2024-01-06 08:42:42
多摩爺さま、早速に有難うございます🙇
こちらこそよろしくお願いします。

コメントを投稿

ファミリー・ヒストリー」カテゴリの最新記事