今回で8回目の開催となります嵐山花灯路は、紅葉の季節が終わり、特に日が沈みますと人が誰も歩かない嵐山・嵯峨野方面に一日平均10万人
もの人出を呼び込む冬の一大イベントとなりました。 特に2011年は過去最多となる127万人もの方が訪れたと発表され、この地域の一部に多大
な経済効果を上げております。
阪急嵐山駅から二尊院までの約2キロ強の区間を散策出来る様にコースが組まれております。 毎年この時期には、京都の代表的な電子部品メー
カーのロームの本社近辺がイルミネーションで飾られ冬の風物詩となっておりましたが、東日本大震災が起こり一昨年は自重されており昨年も見送
られておりましたが、今年から嵐山のライトアップにLEDを提供され協賛されております。
渡月橋の北側から大隅川に沿い宝厳院方面に進みます。
大隅川沿いに建つ嵐山(らんざん)「熊彦」は、私が17年間お世話になった、「たん熊北店」系列の店で、この「熊彦」は、私が入社した35年前に購入
され、先輩と共に第一陣で立ち上げに携わった思い出深い店です。 当時は、買い取ったままの状態で昭和初期の雰囲気が漂う古びた旅館でした
ので、包丁の代わりに雑巾を持ち毎日掃除をしていたのを思い出します。 現在は、夏には屋形船で料理を出したり地の利を生かし、お昼には観光
のお客様に松花堂や湯豆腐御膳なども提供いたしております。
嵐山「吉兆」 こちらは、日本でも有数の超高級料亭ですが、30年程前には、ここの板前連中ともよく早朝野球をやった事を思い出します。
天龍寺塔頭「宝厳院」
12月10日現在でも、まだ紅葉が残っておりました。 こちらは期間中、夜間拝観することが出来ます。
宝厳院の北側から嵯峨野湯豆腐の横を通り一度天龍寺前に戻ります。
天龍寺前を北に進み竹林の道に進みます。 生憎の霙交じりの雨模様でしたが、人出が多くなく雨に濡れた竹林もしっとりとして雰囲気がありまし
た。
縁結びの神社としても信仰され、年間を通じて女性の観光客で賑いをみせております。
本殿左側に祀られている愛宕神社
本殿右側、弁財天が祀られております。
弁財天の社のさらに右奥に進みますと。
白福稲荷大明神の社が建ちます。
野々宮神社の南側の竹林は、二色のLEDでライトアップされており、幻想的な雰囲気に包まれております。
野々宮神社から竹林を抜けるこの道は、今年から混雑を避けるために一方通行になったそうです。 竹林の突き当たりの大河内山荘で、左右に分か
れ、右に進めば、常寂光寺へ左に進めば亀山公園を抜け大隅川畔に出ます。
流石にこの辺は、すごい人混みでした。
竹林の道の突き当たりに建つ大河内山荘
右に進み常寂光寺方面に進みます。
眼下にトロッコ列車の嵐山駅があります。
小倉池周辺、常寂光寺に続きます。
常寂光寺は、ライトアップされ拝観出来る様になっております。 常寂光寺は、百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野
を一望でき、その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされております。
平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭」があったと伝わる地で、安土桃山時代末の慶長元年(1596年)に日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎が隠棲の
地として当山を開いたと云われております。 歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以と角倉栄可で、小早川秀秋ら大名の
寄進により堂塔伽藍が整備されました。
仁王門は、もと本圀寺客殿の南門として貞和年間(1345〜49)に建立されたものを、元和二年(1616)に当山に移築され、仁王門とされました。 境
内建築物の中で最も時代の古い建物であり、茅葺の屋根がめずらしく、 仁王門像は、身の丈七尺、運慶の作と伝えられております。
まだ、落葉したモミジが紅いまま残っており、彩りを添えておりました。
京都市内夜景、中央右手に京都タワーが見えます。
本堂左手に建つ、妙見大菩薩堂
本堂西庭園
庭園からは、斜面の上方に多宝塔が建ちます。
寺伝によりますと、多宝塔は高さ約十二メートル余あり、元和六年(1620)八月に建立され、棟札には、大檀家として辻藤兵衛尉直信、棟梁には藤
原岡田仁助宗直、藤原沢村若狭守宗久、当時大工藤原土井中源烝宗次らの名がの残っております。 多宝塔とは、平安時代に密教とともに登場し
た新しい形式で、多宝仏をまつる塔であったろうと云われております。
本堂は、第二世通明院日韶上人(日野大納言輝資の息男)代に小早川秀秋の助力を得て、桃山城客殿を移築して本堂としたものです。
鐘楼は、寛永十八年 (1642) 当山第四世、光照院日選上人の建立で、梵鐘は第二次世界大戦中徴資に遭い、現在の梵鐘は、昭和四十八年に青
木一郎博士の音響設計により、古律黄鐘調の新鐘として鋳造されたもので、毎日、正午と夕方五時に所定の数が撞かれております。
鐘楼横の階段を下り仁王門に戻ります。
常寂光寺から灯路を進みますと、二、三分の距離に落柿舎が見えてまいります。
落柿舎は、松尾芭蕉の弟子、向井去来の別荘として使用されていた草庵で、去来がこの草庵について書いた「落柿舎ノ記」がゆうめいで、古い草庵
の周囲には当時40本の柿の木があったと云われております。
1691年(元禄4年)4月から5月までここに松尾芭蕉が滞在して嵯峨日記を著したと説明されており、野沢凡兆(ぼんちょう)、凡兆の妻の羽紅(うこ
う)、去来が訪ねてきて一つの蚊帳で5人が一緒に寝たりしているとも書かれております。 現在の庵は俳人井上重厚による再建でり、場所も建物も
芭蕉の訪れた時代のそれとは異なっており、柿木の本数も当時の四分の一の10本程がある程度です。。
本庵玄関
土間の奥に二帖の小部屋が二間続きます。
手前、四帖半、奥に三帖の間があります。
本庵の左手奥には、次庵と呼ばれる草庵が建ち、その前には、芭蕉の句碑や俳人塔が並んで建っております。
落柿舎を後にし花灯路の終点にあたる二尊院に向かいます。
二尊院東側に広がる、公園に灯された行燈
時間が遅かったのか、二尊院は閉門いたしておりました。
二尊院前の駐車場からシャトルバスが運行されておりましたが、JR嵯峨駅までなのか、阪急までなのか、確認
は出来ませんでした。
2012年の開催期間は、12月8日(土)~17日(月)の17:00~20:30でした。