京の四季 名勝散策 写真集

京都の観光、散策の参考にしていただければ幸いに思います。

八瀬 蓮華寺 秋紅葉 12/5/2011

2012年01月27日 | 洛北 東部 修学院方面

      

      洛北八瀬に位置する蓮華寺は、北白川通りから大原方面に入ったすぐの所、高野川沿いの住宅地の中に佇んでいるあまり大きくない寺院ですが、紅

      葉の名所として知る人ぞ知る穴場スポットとなっております。比叡山天台宗系の寺院で、もとは七条塩小路にあった西来院という寺院が、応仁の乱に

      際して焼失したものを江戸時代初期の1662年に、加賀前田藩の家臣、今枝近義が、祖父の縁のあるこの地に再建したものです。

 

 

 

 

 

 

      

      開山にあたり比叡山延暦寺の僧が招かれたことから、比叡山延暦寺を本山とし、延暦寺実蔵坊の末寺のひとつとして天台宗に属する寺院となり、ま

      た、現在の寺号は、かつて同名の廃寺の跡地であったことに由来すると言われております。 山門の正面に参拝受付の庫裡が建ちますが、秋の紅

      葉のシーズンは、山門の内側に受付が設けられます。

 

 

 

 

 

 

      

      山門を入りすぐ右手に建つ鐘楼 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      鐘楼左手の鳥居の奥には、本堂につながる石畳の参道が続きますが、こちらからは入れないようになっております。

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

      

      鳥居の奥の本堂前庭園 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      山門を入って左手には約300体といわれる石仏群が居並んでおり、これらは大正13年に開業した京都市電河原町線の敷設工事に際して発掘された

      もので、河原町周辺はかつて鴨川の河原で、戦災や天災による死者や刑死者の屍が打ち捨てられる遺棄葬の場であったために、そうした死者を弔

      うための石仏群が、工事によって掘り起こされ、供養されているのがこの石仏群です。これらの石仏群はいずれも大日如来像で、中央には地蔵菩薩

      像が配されています。 

 

 

 

 

 

 

      

      庫裡の玄関 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      京都名水にも選ばれていた「漱玉水(そうぎょくすい)」と呼ばれる井戸ですが、現在は枯れているそうです。

  

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

       

 

 

 

 

 

      

      書院から眺める池泉鑑賞式庭園 作庭者は不明とされております。この庭園は浄土宗的な形式に従い、池の対岸に浄土を描く形をとっており、こうし

      た浄土宗的な庭園は池の周囲を巡り歩くことを想定して作庭されることから池泉回遊式と呼ばれますが、蓮華寺の庭園は規模も小さく、書院からの鑑

      賞を旨とした池泉鑑賞式の庭園と説明されております。

 

 

 

 

 

 

      

      こちらの庭園も素晴らしい眺めの額縁になっておりますが、縁側に人影が見えないのは、いくつもの寺院で縁側近くに敷いてある毛氈が、写真手前の

      壁側に沿って敷いてあるため、皆さんそちらに座り庭を鑑賞されるため、このように庭園がクリアに見渡すことが出来、とても素晴らしいアイデアだと思

      います。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      庭園の奥には水量の豊かな湧水があり、それを導いた池が庭園の中心にあり、池は「水」の字の形に作られており、「水字形」と呼ばれるものだそうで

      す。池の右手前には舟石(ふないし)と呼ばれる石が配されている。

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      舟石を置く庭園は稀少でありますが、とりわけ蓮華寺の舟石は入舟の形をしている点でさらに珍しいものとなっております。舟石を置く庭園のほとんど

      では、出舟の形があしらわれており、出舟とは、向こう岸に理想郷(浄土)を見出し、彼岸を想念させるものであり、それに対し、入舟は浄土を此岸に

      見出す思想を表すものだそうです。

 

 

 

 

 

 

      

      書院の向に本堂が建ち、スリッパを履いて回るようになっております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      右手の縁側より本堂に向かいます。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂前の庭園には、蓮華寺形灯籠として知られる2基の灯籠が佇んでおります。蓮華寺形灯籠は、「基礎は六角で蓮弁がつき、竿は丸竿で中央部が

      膨らみ、中台は蓮弁のある六角形で唐草文をあしらってあります。火袋も六角で前後に四角の穴を穿ち、笠は急勾配の長めで九段の葺地を表し、頂

      上に宝珠が乗る独特の形をしており茶人たちに好まれたと言われております。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      左手の石畳は、山門の鳥居へとつづきます。 

 

 

 

 

 

      

      本寺は天台宗の寺院でありますが、造営に黄檗宗僧が関わったこともあり、本堂の様式は全く黄檗宗のそれであり、本堂入り口には石川丈山の筆に

      よる寺額が掲げられており、堂内中央の須弥壇には螺鈿厨子に収められた本尊、釈迦如来像が安置されております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂東側 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      蓮華寺の前に見える比叡山山頂 麓には、山頂へのケーブルカーの駅があり、徒歩5分の距離に瑠璃光院が佇んでおります。なお、瑠璃光院は、春

      先と秋の紅葉シーズンのみの特別拝観となります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

地図 

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.48.8.651N35.3.38.371&ZM=11 

 

 

コメント (3)
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修学院 赤山禅院 秋紅葉 12/5/2011

2012年01月25日 | 洛北 東部 修学院方面

       

      赤山禅院(せきざんぜんいん)は、左京区修学院離宮の北側に位置し、由来は平安時代の仁和4年(888年)に、第三世天台座主 円仁の遺命によっ

      て創建されました、天台宗総本山 延暦寺の塔頭のひとつです。慈覚大師 円仁(794年~864年)は、838年、遣唐使船で唐に渡り、苦労の末に天台

      教学を納め帰国し、その行程を守護した赤山大明神に感謝し、赤山禅院を建立することを誓ったとされております。 日本に戻った円仁は天台密教の

      基礎を築きましたが、赤山禅院の建立は果たせませんでした。その遺命により、第四世天台座主 安慧(あんね)が赤山禅院を創建したと伝えられて

      います。

  

 

 

 

 

       

      本尊の赤山大明神は、唐の赤山にあった泰山府君を勧請したもので、泰山府君は、中国五岳(五名山)の中でも筆頭とされる東岳・泰山(とうがく ・

      たいざん)の神であり、日本では、陰陽道の祖神(おやがみ)になりました。赤山禅院は、平安京の東北にあり、表鬼門に当たることから、赤山大明神

      は、皇城の表鬼門の鎮守としてまつられました。以来、皇室から信仰され、修学院離宮の造営で知られる後水尾天皇(1596~1680)が離宮へ行幸

      なされた際、社殿の修築と「赤山大明神」の勅額を賜っております。現在も方除けのお寺として、広く信仰を集めている由縁です。

 

 

 

 

 

      

      また、赤山禅院は、天台宗随一の荒行、千日回峰行の「赤山苦行」の寺としても知られ、千日回峰行を満行した大阿闍梨により「ぜんそく封じ・へちま

      加持」「珠数供養」「泰山府君祭」をはじめとする加持・祈祷が行われます。その他にも、全国の七福神めぐりの発祥とされる都七福神のひとつ、福禄

      寿天の寺でもあり、「五十(ごと)払い」の風習の始まりとなった商売繁盛の寺としても有名です。開創以来、1100年以上もの長い歴史を経て、赤山禅

      院には数々の由緒が重なり、さまざまな信仰を集めております。

 

 

 

 

 

 

          

          赤山禅院は、天台宗の数ある修行のなかでも随一の荒行として知られる、千日回峰行と関わりの深い寺です。千日回峰

          行とは、平安時代、延暦寺の相應和尚(831年~918年、一説に~908年)により開創された文字どおり比叡山の峰々を

          ぬうように巡って礼拝する修行です。法華経のなかの常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)の精神を具現化したものといわれ

          ており、出会う人々すべての仏性を礼拝された常不軽菩薩の精神を受け継ぎ、回峰行は、山川草木ことごとくに仏性を見

          いだし、礼拝して歩きます。

 

 

 

 

 

 

          

          行者は、頭には未開の蓮華をかたどった桧笠をいただき、生死を離れた白装束をまとい、八葉蓮華の草鞋をはき、腰には

          死出紐と降魔の剣をもつ姿をしています。生身の不動明王の表現とも、また、行が半ばで挫折するときは自ら生命を断つ

          という厳しさを示す死装束ともいわれます。  拝殿

 

 

 

 

 

 

          

          千日回峰行は7年間かけて行なわれ、1年目から3年目までは、1日に約30キロの行程を毎年100日間、行じます。行者は

          定められた260カ所以上のすべてで立ち止まり、礼拝して、峰々を巡ります。4年目と5年目は、同じく1日30キロを、それぞ

          れ200日間。ここまでの700日を満じると、“堂入り”をむかえます。比叡山無動寺谷の明王堂に籠もり、9日間、断食・断水

          ・不眠・不臥(食べず、飲まず、眠らず、横にならず)で不動真言を唱えつづけます。その回数は10万と言われ、満行すると

          阿闍梨と称され、生身の不動明王になるとされます。

 

 

 

 

 

      

      6年目は、それまでの行程に加え、比叡山から雲母坂を下って赤山禅院へ至り、赤山大明神に花を供し、ふたたび比叡山へと上る往復が加わり、1日

      約60キロとなります。その100日は「赤山苦行」とも呼ばれ、行者の足でも14~15時間を要する厳しい行程です。7年目は、200日を巡ります。前半の10

      0日間は“京都大廻り”と呼ばれ、比叡山中から赤山禅院、さらに京都市内を巡礼し、全行程は84キロにもおよびます。最後の100日間は、もとどお比叡

      山中30キロをめぐり、千日の満行をむかえます。

      赤山禅院では、千日回峰行を満行した大阿闍梨が住職をつとめ、大阿闍梨により「八千枚大護摩供」「ぜんそく封じ・へちま加持」「珠数供養」をはじめ

      とする数々の加持・祈祷が行われています。

 

 

 

 

 

 

               

               御拝殿  屋根の上には、鬼門除けの猿が金網の檻に入れられ鎮座しております。 

 

 

 

 

          

          御幣とかぐら鈴を持ち、皇城(京都御所)を守護しており、かつて夜な夜な悪さをしたため、逃げ出さないよう金網の中に入

          れられていると言われます。鬼門除けの猿(申)は、鬼門とは反対の方角である西南西を指すことから、邪気を払う力があ

          るとされます。ちなみに、京都御所の東北の角にある猿ヶ辻や、滋賀県大津市の日吉大社にも鬼門除けの猿が置かれてい

          ることが知られています。 

  

 

 

 

 

 

          

          拝殿の西側(左側)から順路に従い各お堂を回りますと、最初に地蔵堂にでます。赤山大明神は、地蔵菩薩の化身であ

          るとされており、そこで赤山禅院には地蔵菩薩をまつるお堂があります。

 

 

 

 

 

 

               

               地蔵尊を祀る地蔵堂 

 

 

 

 

 

          

          地蔵堂の北側に位置する弁天堂は、順路にしたがい赤山大明神のあとで回ります。

 

 

 

 

 

      

      弁天堂の西側には、三十三観音石像と十六羅漢像が並んでおります。 

      阿羅漢 (あらはん)は、仏教において、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のことを指し、サンスクリット語"arhat"の主格 "arhan" の音写語で、略称

      して羅漢(らかん)ともい言います。漢訳は応供(おうぐ)と云い、もとは釈迦の尊称の一つであったそうです。 元々、インドの宗教一般で「尊敬されるべ

      き修行者」をこのように呼びました。 大阿羅漢難提多所説(法注記)によりますと、仏勅を受けて永くこの世に住し衆生を済度する役割をもった16人の

      阿羅漢の事を16羅漢と称します。

 

 

 

 

 

      

      16羅漢の隣には、西国三十三観音霊場の観音像が並びます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本殿 

 

 

 

 

 

      

      地蔵堂に戻り本殿にむかいます。 

 

 

 

 

 

      

      地蔵堂前から右手に拝殿、拝殿左手(北側)に陽陰道祖神の赤山大明神が祀られる本殿が建ちます。 

 

 

 

 

 

      

      不断桜でしょうか?本殿前に咲いておりました。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      赤山大明神前の歌碑  石坂 まさを(いしざか まさを、本名:澤ノ井龍二、1941年ー )は、日本の作詞家・作曲家で、若い時に職業を転々とするうちに

      作詞家を志し、28歳のとき、藤圭子をプロデュースしミリオンセラーとなり話題となり、その後も、プロデューサー兼作詞家というスタンスで作詞活動を行

      い、演歌の世界でヒットを連発させます。その一方で少年期から病弱であり、肺結核を患ったり、糖尿病が原因の網膜剥離による左目失明といった苦

      難にあっており、それでも秋吉恵美のアルバム「心歌」のプロデュースなど、人生をテーマとした作詞活動に情熱を注いできた方です。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      順路通りに参拝された方は、2度、大きな珠数をくぐることになります。これは「正念誦(しょうねんじゅ)」「還念珠(かんねんじゅ)」という密教の重要な

      考え方を示したものです。最初の珠数をくぐりながら、心にうかんだ願いについて、参拝の間、思い続けてください。そして、最後の還念珠をくぐりなが

      ら、やはりその願いが大切だと考えるなら、その願いに向けてあなたが努力をすることを誓い、仏さまに力をかしてくださるよう祈ってください。きっと、

      ご加護があることと思います。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      「皇城表鬼門」 京都の表鬼門を護る 794年に開かれた平安京は、もともと「青龍・白虎・朱雀・玄武」の「四神相応」で知られるように、方位を大切

      にして創られた都でした。平安時代、陰陽道(おんみょうどう)が、朝廷をはじめ民衆にまで広く信仰されるようになると、陰陽道では北と西は陰、東と南

      は陽とされます。その境目である東北と西南は、陰陽が反転するところで、鬼が出入りする忌むべき方角とされ、東北は表鬼門、西南は裏鬼門と呼ば

      れます。赤山禅院は、皇城の東北に位置し、また本尊の赤山大明神(泰山府君)が陰陽道の祖神(おやがみ)とされることから、表鬼門を守護する方除け

      のお寺として信仰されるようになりました。『歴代皇記』には、弘長元年(1261年)から、赤山権現祭が官祭として行われるようになったとあり、『太平記』

      には後醍醐天皇を守護する存在として赤山大明神の記述があります。信仰は民間にも拡がり、赤山大明神のお札を持ち帰って家に貼ると鬼門除けに

      なると言われるようになりました。  

 

 

 

 

 

 

      

      赤山大明神を護る狛獅子 仏教では獅子の頭に霊力があり悪を食べてくれると信仰されており、その思いは、今の都会では見ることの出来なくなっ

      た「獅子舞」となり各地で伝承されております。獅子舞の「口をパクパクと開ける」仕草は人を食べるのではなく、「悪」を食べる演技であるとされ、獅子

      の頭だけでも霊力があると考えられておりましたので、多くの仏像にも彫られ、愛染明王の頭上にも獅子の首「獅子冠」が付いております。また「知」を

      司る菩薩文殊菩薩(もんじゅぼさつ)も獅子に乗っております。  なんとも迫力があり力強い形相です。  

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂左手に建つ弁天堂 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

       弁財天堂は、日本では古く奈良時代から仏として信仰され、また七福神の一神としても知られています。赤山の弁財天は「出世弁財天」として信仰さ

      れております。

 

 

 

 

 

      

      本堂の裏手を東に進みますと、七福神の一人の福禄寿天を祀るお堂に出ます。 そのお堂の手前の小路を下りますと稲荷社が建っております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      福禄寿殿 

 

 

 

 

 

      

      福禄寿殿 都七福神の一神、福禄寿神をまつります。七福神の御朱印はこちらで受け付けています。(午前9時~午後4時半終了) 

 

 

 

 

 

      

      都七福神まいり  七福神がまつられた寺社をお参りすると縁起がよいとされ、日本各地に「七福神まいり」「七福神めぐり」の風習があります。七福神

      信仰は、室町時代に京都で始まり、次第に各地へ拡がっていったと言われています。

      都七福神は、ゑびす神―ゑびす神社、大黒天―松ヶ崎大黒天(妙円寺)、毘沙門天―東寺、弁財天―六波羅蜜寺、福禄寿神―赤山禅院、寿老神―

      革堂、布袋尊―萬福寺となっており、各社寺に御軸・大護符(色紙)・御宝印帖が用意されていますので、お問い合わせください。

 

 

 

 

 

 

      

      延暦寺と七福神  かつて、比叡山の名僧、慈眼大師 天海(1536年~1643年)は、徳川家康の信任を得て、しばしば国政に参与し、家康公の人柄を

      よく知り抜いていました。そこで天海は、乱世を納める器量を備えた家康公を、七福神の七つの福徳になぞらえて示しました。長寿ー寿老人、富財ー大

      黒天 人望ー福禄寿、正直ー恵比寿、愛嬌―弁財天、威光―毘沙門天、大量―布袋尊、それを聞いた家康公は大いに喜び、絵師・狩野法眼に命じて、

      七福神遊行図を書かせたと伝えられています。

 

 

 

 

 

 

      

      福禄寿殿前からさらに山側に順路がつづきます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      階段を上り詰めますと鬼門方除けの神を祀る金神社があります。  

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      左手は歓喜天 を祀る社です。 

 

 

 

 

 

      

      歓喜天とは、、仏教の守護神である天部の一つで、聖天(しょうでん)とも呼ばれます。 象頭人身の単身像と立像で抱擁している象頭人身の双身像

      の2つの姿の形像が多いそうですが、多くは厨子などに安置され、秘仏として扱われており一般の前に公開される事は少ないそうです。

 

 

 

 

 

      

      相生社 縁結びの神として知られます。2つの鳥居が並んでいるのは、夫婦鳥居と呼ばれ、手をつないで通った二人は結ばれる、との言い伝えがあり

      ます。また、相生社の絵馬は「おしどり絵馬」として知られます。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       二重に重なる鳥居の手前の、人型をしたおしどり絵馬

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      相生社の前の階段を下りてまいりますと、左手に不動堂と右手に御瀧籠堂があります。 

 

 

 

 

 

               

               日本気学発祥地と刻まれた石碑

 

 

 

 

 

 

      

       

 

 

 

 

 

      

      駒滝不動尊を祀りしている後方には、 瀧行場があります。

 

 

 

 

 

      

      滝の水音が境内に響いております。 

 

 

 

 

 

      

      御瀧籠堂の池をはさんだ西側に先ほど回った赤山大明神を祀る本殿が建ちます。 境内をほぼ一周してまいり最初にお参りした地蔵尊のと赤山大明

      神を祀る本殿の東側に戻ってきました。

 

 

 

 

 

      

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      不動堂の前の終点の還念珠です。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      不動堂 比叡山延暦寺と赤山禅院を結ぶ雲母坂(きららざか)にあった雲母寺(うんもじ)の本堂と本尊・不動明王が移されたものです。(雲母寺は、平

      安時代に、千日回峰行の創始者・相応和尚が開いた寺院でしたが、明治に入って廃寺となりました)不動明王像は、伝教大師 最澄の作とも伝えられま

      す。現在も不動堂では、伝統に則り、大阿闍梨が護摩供を行います。

 

 

                

                天台の秘法、ぜんそく封じ へちま加持 「へちま加持」は、古くから毎年、仲秋名月の日に厳修されてき

                た天台の秘法です。 千日回峰行を修めた大阿闍梨が、へちまにぜんそくや気管支炎を封じ込め、加持・

                祈祷を行います。 古くから仲秋の名月の日に行うのは、その日から月が次第に欠けていくのと同じよう

                に、病を減じさせるためとされています。 赤山禅院には毎年、無病息災を祈って、多くの方が集まられま

                す。 大阿闍梨が加持をした「へちまの御牘(ごとく)」を、お持ち帰りになり、作法に従ってご祈願してくだ

                さい。

 

 

 

 

 

 

      

      「赤山さん」から始まった「五十払い」 「五十日」と書いて、一般には「ごとおび」、関西では「ごとび」と呼び、毎月5日、10日、15日、20日、25日、月末

      のことを指します。昔から、商売では、これらの日に決済を行うことが多く、「五十払い(ごとばらい)」といわれる商習慣となっています。 その「五十払い」

      が、赤山禅院から始まったと言われています。かつて、一年の中でもめったにない「申の日」の五日に赤山禅院に詣でると吉運に恵まれる、という評判が

      立ち、江戸時代になると、「赤山さんは、掛け寄せ(集金)の神さんや」と言われるようになりました。その五日講ご縁日詣でから、「五十払い」の風習がで

      きたと伝えられています。現在も、赤山禅院では毎月五日に「泰山府君 五日講 ご縁日」として大阿闍梨による祈祷が行われており、商売繁盛を願って、

      集金の前にお参りをされる方々が見られます。   庫裡の玄関 

 

 

 

 

 

      

      もみじまつりと珠数供養 赤山禅院は、古来、「紅葉寺」とも呼ばれてきました。毎年、境内が紅葉に染まる11月になると、もみじ祭が開かれます。

      もみじ祭の期間中(通常は11月1日から30日まで)には、静かな中にも、お茶所などがにぎわいをそえます。

 

 

 

 

 

 

      

      もみじ祭の最中である11月23日に行われるのが、珠数供養です。珠数(じゅず、数珠とも書く)は、私たちが仏様にお参りするときに使う法具のひとつ

      です。仏に念ずるときに用いる珠という意味から「念珠(ねんじゅ)」とも呼ばれます。傷んだり、使わなくなった珠数は、簡単に捨てるのではなく、炎に

      よるお浄め「お焚きあげ」を行うのがよいでしょう。赤山禅院の珠数供養とは、毎年11月23日、千日回峰行を満行した大阿闍梨の祈祷をもって行うもの

      です。紅葉寺と呼ばれるにふさわしい紅葉の中、京都はもちろん、全国各地から寄せられた珠数が、焚きあげられ、供養されます。なお、珠数供養は、

      京都珠数製造卸協同組合の主催する行事だそうです。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      駐車場が小さいため、山門から続く参道がこの時期には駐車場になっております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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修学院 赤山禅院 新緑 6/26/2011

2011年07月03日 | 洛北 東部 修学院方面

      

       赤山禅院(せきざんぜんいん)は、左京区修学院離宮の北側に位置し、由来は平安時代の仁和4年(888年)に、第三世天台座主 円仁の遺命によっ

      て創建されました、天台宗総本山 延暦寺の塔頭のひとつです。慈覚大師 円仁(794年~864年)は、838年、遣唐使船で唐に渡り、苦労の末に天台

      教学を納め帰国し、その行程を守護した赤山大明神に感謝し、赤山禅院を建立することを誓ったとされております。 日本に戻った円仁は天台密教の

      基礎を築きましたが、赤山禅院の建立は果たせませんでした。その遺命により、第四世天台座主 安慧(あんね)が赤山禅院を創建したと伝えられてい

      ます。

 

 

 

      

       本尊の赤山大明神は、唐の赤山にあった泰山府君を勧請したもので、泰山府君は、中国五岳(五名山)の中でも筆頭とされる東岳・泰山(とうがく ・

      たいざん)の神であり、日本では、陰陽道の祖神(おやがみ)になりました。赤山禅院は、平安京の東北にあり、表鬼門に当たることから、赤山大明神

      は、皇城の表鬼門の鎮守としてまつられました。以来、皇室から信仰され、修学院離宮の造営で知られる後水尾天皇(1596~1680)が離宮へ行幸な

      された際、社殿の修築と「赤山大明神」の勅額を賜っております。現在も方除けのお寺として、広く信仰を集めている由縁です。

 

 

 

 

 

      

       山門を潜り、苔で蔽われた美しい参道を上って行きます。

 

 

 

 

 

      

       また、赤山禅院は、天台宗随一の荒行、千日回峰行の「赤山苦行」の寺としても知られ、千日回峰行を満行した大阿闍梨により「ぜんそく封じ・へちま

      加持」「珠数供養」「泰山府君祭」をはじめとする加持・祈祷が行われます。その他にも、全国の七福神めぐりの発祥とされる都七福神のひとつ、福禄寿

      天の寺でもあり、「五十(ごと)払い」の風習の始まりとなった、商売繁盛の寺としても有名です。開創以来、1100年以上もの長い歴史を経て、赤山禅院

      には数々の由緒が重なり、さまざまな信仰を集めております。

 

 

 

 

 

      

       赤山禅院は、天台宗の数ある修行のなかでも随一の荒行として知られる、千日回峰行と関わりの深い寺です。千日回峰行は、平安時代、延暦寺の

      相應和尚(831年~918年、一説に~908年)により開創された、文字どおり、比叡山の峰々をぬうように巡って礼拝する修行です。法華経のなかの常

      不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)の精神を具現化したものといわれており、出会う人々すべての仏性を礼拝された常不軽菩薩の精神を受け継ぎ、回峰行

      は、山川草木ことごとくに仏性を見いだし、礼拝して歩きます。

 

 

 

 

 

      

      行者は、頭には未開の蓮華をかたどった桧笠をいただき、生死を離れた白装束をまとい、八葉蓮華の草鞋をはき、腰には死出紐と降魔の剣をもつ姿

      をしています。生身の不動明王の表現とも、また、行が半ばで挫折するときは自ら生命を断つという厳しさを示す死装束ともいわれます。

 

 

 

 

 

 

      

      千日回峰行は7年間かけて行なわれ、1年目から3年目までは、1日に約30キロの行程を毎年100日間、行じます。行者は定められた260カ所以上のす

      べてで立ち止まり、礼拝して、峰々を巡ります。4年目と5年目は、同じく1日30キロを、それぞれ200日間。ここまでの700日を満じると、“堂入り”をむか

      えます。比叡山無動寺谷の明王堂に籠もり、9日間、断食・断水・不眠・不臥(食べず、飲まず、眠らず、横にならず)で不動真言を唱えつづけます。その

      回数は10万と言われ、満行すると阿闍梨と称され、生身の不動明王になるとされます。

 

 

 

 

 

      

      6年目は、それまでの行程に加え、比叡山から雲母坂を下って赤山禅院へ至り、赤山大明神に花を供し、ふたたび比叡山へと上る往復が加わり、1日

      約60キロとなります。その100日は「赤山苦行」とも呼ばれ、行者の足でも14~15時間を要する厳しい行程です。7年目は、200日を巡ります。前半の10

      0日間は“京都大廻り”と呼ばれ、比叡山中から赤山禅院、さらに京都市内を巡礼し、全行程は84キロにもおよびます。最後の100日間は、もとどお比叡

      山中30キロをめぐり、千日の満行をむかえます。

      赤山禅院では、千日回峰行を満行した大阿闍梨が住職をつとめ、大阿闍梨により「八千枚大護摩供」「ぜんそく封じ・へちま加持」「珠数供養」をはじめと

      する数々の加持・祈祷が行われています。

 

 

 

 

 

      

      本殿 階段を上がると、正面に見える社殿で御拝殿とも呼ばれております。 

 

 

 


 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               御拝殿  屋根の上には、鬼門除けの猿。御幣とかぐら鈴を持ち、皇城(京都御所)を守護しています。かつて夜

               な夜な悪さをしたため、逃げ出さないよう金網の中に入れられていると言われます。

 

                     

 

 

 

 

 

      

       拝殿前の受付では、各種祈祷の受付をなされております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      拝殿の西側(左側)から順路に従い各お堂を回ります。最初のお堂は地蔵堂で、赤山大明神は、地蔵菩薩の化身であるとされており、そこで赤山禅院

      には地蔵菩薩をまつるお堂があります。

 




 

      

      地蔵尊を祀る地蔵堂 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      地蔵堂の北側に位置する弁天堂は、順路にしたがい赤山大明神のあとで回ります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

                地蔵堂から拝殿北側の陽陰道祖神の赤山大明神に向かいます。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      赤山大明神前の歌碑  石坂 まさを(いしざか まさを、本名:澤ノ井龍二、1941年ー )は、日本の作詞家・作曲家で、若い時に職業を転々とするうちに

      作詞家を志し、28歳のとき、藤圭子をプロデュースしミリオンセラーとなり話題となり、その後も、プロデューサー兼作詞家というスタンスで作詞活動を行

      い、演歌の世界でヒットを連発させます。その一方で少年期から病弱であり、肺結核を患ったり、糖尿病が原因の網膜剥離による左目失明といった苦

      難にあっており、それでも秋吉恵美のアルバム「心歌」のプロデュースなど、人生をテーマとした作詞活動に情熱を注いできた方です。

    

 

 

 

 

 

      

       順路通りに参拝された方は、2度、大きな珠数をくぐることになります。これは「正念誦(しょうねんじゅ)」「還念珠(かんねんじゅ)」という密教の重要な

      考え方を示したものです。最初の珠数をくぐりながら、心にうかんだ願いについて、参拝の間、思い続けてください。そして、最後の還念珠をくぐりなが

      ら、やはりその願いが大切だと考えるなら、その願いに向けてあなたが努力をすることを誓い、仏さまに力をかしてくださるよう祈ってください。きっと、ご

      加護があることでしょう。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

       「皇城表鬼門」 京都の表鬼門を護る 794年に開かれた平安京は、もともと「青龍・白虎・朱雀・玄武」の「四神相応」で知られるように、方位を大切

      にして創られた都でした。平安時代、陰陽道(おんみょうどう)が、朝廷をはじめ民衆にまで広く信仰されるようになると、陰陽道では北と西は陰、東と南

      は陽とされます。その境目である東北と西南は、陰陽が反転するところで、鬼が出入りする忌むべき方角とされ、東北は表鬼門、西南は裏鬼門と呼ば

      れます。赤山禅院は、皇城の東北に位置し、また本尊の赤山大明神(泰山府君)が陰陽道の祖神(おやがみ)とされることから、表鬼門を守護する方除け

      のお寺として信仰されるようになりました。『歴代皇記』には、弘長元年(1261年)から、赤山権現祭が官祭として行われるようになったとあり、『太平記』

      には後醍醐天皇を守護する存在として赤山大明神の記述があります。信仰は民間にも拡がり、赤山大明神のお札を持ち帰って家に貼ると鬼門除けに

      なると言われるようになりました。

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      弁財天堂は、日本では古く奈良時代から仏として信仰され、また七福神の一神としても知られています。赤山の弁財天は「出世弁財天」として信仰され

      ています。

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

       弁財天堂の西側には、三十三観音石像と十六羅漢像が並んでおります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      阿羅漢 (あらはん)は、仏教において、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のことを指し、サンスクリット語"arhat"の主格 "arhan" の音写語で、略称

      して羅漢(らかん)ともい言います。漢訳は応供(おうぐ)と云い、もとは釈迦の尊称の一つであったそうです。 元々、インドの宗教一般で「尊敬されるべ

      き修行者」をこのように呼びました。 大阿羅漢難提多所説(法注記)によりますと、仏勅を受けて永くこの世に住し衆生を済度する役割をもった16人の

      阿羅漢の事を16羅漢と称します。

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

       本堂の裏手を東に進みますと、七福神の一人の福禄寿天を祀るお堂に出ます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      福禄寿殿 都七福神の一神、福禄寿神をまつります。七福神の御朱印はこちらで受け付けています。(午前9時~午後4時半終了)



 

 

 

      

      都七福神まいり  七福神がまつられた寺社をお参りすると縁起がよいとされ、日本各地に「七福神まいり」「七福神めぐり」の風習があります。七福神

      信仰は、室町時代に京都で始まり、次第に各地へ拡がっていったと言われています。

      都七福神は、ゑびす神―ゑびす神社、大黒天―松ヶ崎大黒天(妙円寺)、毘沙門天―東寺、弁財天―六波羅蜜寺、福禄寿神―赤山禅院、寿老神―

      革堂、布袋尊―萬福寺となっており、各社寺に御軸・大護符(色紙)・御宝印帖が用意されていますので、お問い合わせください。

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      延暦寺と七福神  かつて、比叡山の名僧、慈眼大師 天海(1536年~1643年)は、徳川家康の信任を得て、しばしば国政に参与し、家康公の人柄を

      よく知り抜いていました。そこで天海は、乱世を納める器量を備えた家康公を、七福神の七つの福徳になぞらえて示しました。長寿ー寿老人、富財ー大

      黒天 人望ー福禄寿、正直ー恵比寿、愛嬌―弁財天、威光―毘沙門天、大量―布袋尊、それを聞いた家康公は大いに喜び、絵師・狩野法眼に命じて、

      七福神遊行図を書かせたと伝えられています。

 

 

 

 

 

 

      

       福禄寿殿前からさらに山側に順路がつづきます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      階段を上り詰めますと鬼門方除けの神を祀る金神社があります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      左手は歓喜天 を祀る社です。

 

 

 

 

 

            

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      相生社 縁結びの神として知られます。2つの鳥居が並んでいるのは、夫婦鳥居と呼ばれ、手をつないで通った二人は結ばれる、との言い伝えがあり

      ます。また、相生社の絵馬は「おしどり絵馬」として知られます。

 

 

 

 

      

      二重に重なる鳥居の向こうの、人型をしたおしどり絵馬 

 

 

 

 

 

               

               相生社の前の階段を下りてまいりますと、左手に不動堂と右手に御瀧籠堂があります。

 

 

 

 

 

      

       

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       駒滝不動尊を祀ります。

 

 

 

 

 

      

       境内の東側(山側)を回っておりますと、滝の音がずっと聞こえており、心まで洗われる様な気がいたします。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

       不動堂の北側に置かれた、消防組のポンプ車

 

 

 

 

 

      

      不動堂 比叡山延暦寺と赤山禅院を結ぶ雲母坂(きららざか)にあった雲母寺(うんもじ)の本堂と本尊・不動明王が移されたものです。(雲母寺は、平

      安時代に、千日回峰行の創始者・相応和尚が開いた寺院でしたが、明治に入って廃寺となりました)不動明王像は、伝教大師 最澄の作とも伝えられま

      す。現在も不動堂では、伝統に則り、大阿闍梨が護摩供を行います。

 

 

 

 

       

      

 

 

 

 

 

 

      

       千日回峰行で使われたと思われる草履

 

 

 

 

 

      

      不動堂の前の古いお札の返納所とお札を焼くための釜が備え付けられております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

     

      順路に従い境内を一周してまいり、終点の還念珠です。

 

 

 

 

 

      

      合掌

 

 

 

 

 

      

 

                

                天台の秘法、ぜんそく封じ へちま加持 「へちま加持」は、古くから毎年、仲秋名月の日に厳修されてき

                た天台の秘法です。 千日回峰行を修めた大阿闍梨が、へちまにぜんそくや気管支炎を封じ込め、加持・

                祈祷を行います。 古くから仲秋の名月の日に行うのは、その日から月が次第に欠けていくのと同じよう

                に、病を減じさせるためとされています。 赤山禅院には毎年、無病息災を祈って、多くの方が集まられま

                す。 大阿闍梨が加持をした「へちまの御牘(ごとく)」を、お持ち帰りになり、作法に従ってご祈願してくだ

                さい。

 

 

 

 

 

      

      拝殿屋根の鬼門除けの猿は、猿(申)は、鬼門とは反対の方角である西南西を指すことから、邪気を払う力があるとされます。ちなみに、京都御所の東

      北の角にある猿ヶ辻や、滋賀県大津市の日吉大社にも鬼門除けの猿が置かれていることが知られています。 

                             

 

 

 

 

 

      

      「赤山さん」から始まった「五十払い」 「五十日」と書いて、一般には「ごとおび」、関西では「ごとび」と呼び、毎月5日、10日、15日、20日、25日、月末

      のことを指します。昔から、商売では、これらの日に決済を行うことが多く、「五十払い(ごとばらい)」といわれる商習慣となっています。 その「五十払い」

      が、赤山禅院から始まったと言われています。かつて、一年の中でもめったにない「申の日」の五日に赤山禅院に詣でると吉運に恵まれる、という評判が

      立ち、江戸時代になると、「赤山さんは、掛け寄せ(集金)の神さんや」と言われるようになりました。その五日講ご縁日詣でから、「五十払い」の風習がで

      きたと伝えられています。現在も、赤山禅院では毎月五日に「泰山府君 五日講 ご縁日」として大阿闍梨による祈祷が行われており、商売繁盛を願って、

      集金の前にお参りをされる方々が見られます。

 

 

 

 

 

      

      庫裡の玄関 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       もみじまつりと珠数供養 赤山禅院は、古来、「紅葉寺」とも呼ばれてきました。毎年、境内が紅葉に染まる11月になると、もみじ祭が開かれます。

      もみじ祭の期間中(通常は11月1日から30日まで)には、静かな中にも、お茶所などがにぎわいをそえます。

 

 

 

 

      

      もみじ祭の最中である11月23日に行われるのが、珠数供養です。珠数(じゅず、数珠とも書く)は、私たちが仏様にお参りするときに使う法具のひとつ

      です。仏に念ずるときに用いる珠という意味から「念珠(ねんじゅ)」とも呼ばれます。傷んだり、使わなくなった珠数は、簡単に捨てるのではなく、炎に

      よるお浄め「お焚きあげ」を行うのがよいでしょう。赤山禅院の珠数供養とは、毎年11月23日、千日回峰行を満行した大阿闍梨の祈祷をもって行うもの

      です。紅葉寺と呼ばれるにふさわしい紅葉の中、京都はもちろん、全国各地から寄せられた珠数が、焚きあげられ、供養されます。なお、珠数供養は、

      京都珠数製造卸協同組合の主催する行事だそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      毛皮のような、みごとな苔に覆われた参道です。 

 

 

 

 

 

      

      お車でお越しの方は、山門を入った所に数台分の駐車場はありますが、紅葉のシーズンは、空いている確率が相当低くなると思われますので、ご注意

      ください。 

 

 

 

 

 

 

 

 

  京都散策の折り、お立寄りいただければ、幸いに思います。 祇園 割烹 ふじ原 ホームページ  http://kappou-fujiwara.com/ 

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一乗寺 曼殊院門跡 ライトアップ 11/22/2010

2010年11月28日 | 洛北 東部 修学院方面

  

  曼殊院(まんしゅいん)は京都市左京区一乗寺にある天台宗の仏教寺院であり、本尊は阿弥陀如来が祀られております。開基(創立者)は是算
  (ぜさん)であるとあります。竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院(皇族・貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のこと)であり、青蓮院、三千院、妙
  法院、山科毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の1つに数えられる寺院です。国宝の黄不動画像や曼殊院本古今和歌集をはじめ、多くの文化財
  を有しております。  勅使門








                   
                   参拝入口は、勅使門の左手(北側)にあります。








  
  庫裡の入口に掛る額は、「媚竃 びそう」と書かれており良尚親王筆とあります。「媚竃」とは、論語の中に書かれている「その奥に媚びんよりは、竃
  (かまど)に媚びよ」という意味だそうです。









  
  曼殊院も他の天台門跡寺院と同様、最澄(767-822)の時代に比叡山上に草創された坊(小寺院)がその起源とされており、寺伝では延暦年間(782-
  806)、伝教大師最澄が比叡山上に営んだ一坊がその起源とされております。円仁、安恵らを経て、10世紀後半の僧である是算の時、比叡山三塔の
  うちの西塔北谷に移り、東尾坊(とうびぼう)と称したといわれております。最澄、円仁、安恵…というのは天台宗の法脈を表わすもので、曼殊院の歴
  史は実質的には是算の時代から始まるといえます。是算の事績についてはあまり明らかになっておりませんが、花山法皇(968-1008)の弟子であっ
  たといわれております。









  
  中国八賢人図








                     









                     









           
           大書院への廊下








  









  
  廊下の行燈に描かれている釈迦像








  
  庭園は、小堀遠州作で遠州好みの枯山水の庭です。 ピントがずれてしまいましたが、庭園内にある鶴島と亀島のうち鶴島の樹齢4百年といわれる
  五葉松が鶴をかたどっております。






  
  大書院の奥にある小書院








                       
                       白砂の海原の中に亀島が浮かんでおります。








                       
                       小書院前の手水鉢はフクロウをかたどっており、下の台石は亀、傍の石は鶴をかたどって
                       おります。






              









              









              









  









  









  









  









  









                     









  









  









  









  









  
  庫裡を入ったところの竃です。








  









  









  









  
  曼殊院の夜間拝観は、8時半までにお入りください。








  
  勅使門の前にある神社の境内もライトアップされております。








  









  









  











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一乗寺 圓光寺  09/11/12

2009年11月21日 | 洛北 東部 修学院方面
      圓光寺は、曼殊院、詩仙堂の間にあり、山号を瑞厳山・圓光寺といい、臨済宗南禅寺派に属しており開山 三要元佶禅師、
      開基 徳川家康公となっております。










      
      1601年、徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に
      圓光寺を建立し学校といたしました。 一時期、相国寺山内に移った時期もありましたが、1667年に現在の地に移されま
      した。伏見にあった頃の圓光寺は、足利学校の三要元佶(さんようげんきつ)閑室(かんしつ)を招き、文教事業に傾注し
      ており、特に朝鮮から輸入した木版活字を使った書籍の出版活動をしていたことが有名です。圓光寺には今も伏見版木
      活字52320個が残っていて、宝物館に陳列されております。









      
      右手に拝観受付があり、紅葉時以外は、無人になり志納金をおさめます。昨年までは夜間拝観もなされておりましたが、
      今年は中止されております。強い光が当たるので、もみじが傷むのかもしれませんね。









                









      
      庭園入り口








      
      水琴窟 京都の寺院には、ここの他に清水寺の成就院や大原・宝泉院や妙心寺・退蔵院、永観堂などにも水琴窟があ
      ります。









                
                竹筒に耳をかざすと、澄んだ音色が聞こえます。








      









                
                 一輪の花に、おもてなしの心が表れていますね。








      
      本堂から上がり、右奥の書院です。本尊は、伝運慶作の千手観音像が祀られております。









      
      書院の北側庭園と茶室








      
      南側庭園の「十牛の庭」








               
               十牛図(じゅうぎゅうず)とは、禅の悟りにいたる道筋を牛を主題とした十枚の絵で表したも
               ので、中国宋代の禅僧、廓庵(かくあん)によるものが有名です。

               ここで牛は人の心の象徴とされ、またあるいは、牛を悟り、童子を修行者と見立てております。

      1)尋牛(じんぎゅう) - 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
      2)見跡(けんせき) - 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
      3)見牛(けんぎゅう) - 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
      4)得牛(とくぎゅう) - 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。
      5)牧牛(ぼくぎゅう) - 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。
      6)騎牛帰家(きぎゅうきか) - 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
      7)忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) - 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。
      8)人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) - すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の
        自然な姿に気づく。
      9)返本還源(へんぽんげんげん) - 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。
      10)入鄽垂手(にってんすいしゅ) - まちへ... 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、別の
        童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。








      
      十牛図を庭園で表した「十牛の庭」









      
      書院にある茶室








      









      









      









      









      
      書院の東側、十牛の庭の向こうに佇む蟠龍窟の坐禅堂。毎週早朝坐禅会が行われるそうです。









      









      









                
                蟠龍窟の前の昼寝する小坊主








      
      庭園の拝観順路に沿い進みますと蟠龍窟の南に鐘楼があります。      









      
      竹薮を左に進みますと、徳川家康公を祀る東照宮がありますが、今回はパスいたしました。







      
      庭園にある栖龍池(せいりゅうち)は、洛北一の古い池といわれております。水面に映り込むもみじが、あでやかです。








      
      左手の建物が宝物殿の瑞雲閣です。










      









                









      









      









      









                










      









      



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詩仙堂 丈山寺 09/11/112 

2009年11月19日 | 洛北 東部 修学院方面
      現在詩仙堂と呼ばれているのは、正しくは凹凸窠(おうとつか)であり、詩仙堂はその一室で凹凸窠とは、でこぼこした
      土地に建てた住居という意味だそうです。江戸初期の文人、石川丈山が隠棲した山荘であった詩仙堂は、丈山寺という
      名の曹洞宗の寺である。

      丈山はここに、『凹凸窠』十境を見立て最初の門を(1)小有洞の門と名づけました





      
      丈山は徳川家康の家臣で、90歳までこの山荘で悠悠自適の風雅な暮しをしたが、その一室の壁に、狩野探幽に描かせ
      た中国の詩仙三十六人の肖像と詩があることから、いつからか詩仙堂と呼ばれるようになった。回遊式の庭は白砂とさ
      つきの刈り込みが美しく、藤、花菖蒲、杜若、紫陽花、萩、山茶花など、四季それぞれに美しい花姿が見られる。快い竹
      の音をひびかせる鹿おどしは丈山が発案者と考えられている。








      
      小有洞の門をくぐると竹林に囲まれた参道を通って老梅関の門に向かいます。









      
      入り口から竹林の参道を抜けると(2)老梅関の門があります。









      








      
      左の障子の奥が(3)詩仙の間で鴨居の位置に中国の詩仙三十六人の肖像と詩があります。更にその左の部屋が
      (4)至楽巣です。








      
      玄関 靴を脱いで上がったところに参拝受付があります。







      
      詩仙の間からの眺めです。








      
      詩仙の間の西側の座敷です。観光客で縁側も一杯でしたが、一瞬皆さん移動されました。      









      









      









                    
                    詩仙の間と至楽巣の間の鴨居








      
      至楽巣から庭に出ることが出来、スリッパが用意されております。      







      
      至楽巣の脇にある(6)膏肓泉(こうこうせん)









                
                庭園に下りてすぐ左手にある(8)洗蒙瀑(せんもうばく)蒙味を洗い去る滝と言う意味があ
                るそうです。








      
      嘯月楼(しょうげつろう)









      
      快い竹の音をひびかせる「僧都(ししおどし)」は丈山が発案者と考えられております。










      
      洗蒙瀑からの流水は(9)流葉はくを通り庭園の池に流れこんでおります。









      









                
                庭園の西端にあるトイレの前の手水鉢








      
      庭園南側








      









      









      
      百花の花を配したと言われる(10)百花塢(ひゃっかのう)の庭園









      
      百花塢(ひゃっかのう)の庭園にある残月亭茶室









                









      









      









      


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洛北一乗寺 金福寺 09/09/04

2009年09月13日 | 洛北 東部 修学院方面
      金福寺(こんぷくじ)は、詩仙堂の南側に位置し臨済宗南禅寺派の寺院です。与謝蕪村の墓所があり、松尾芭蕉が滞在
      したとされ、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって再興された芭蕉庵があります。









      
      864年、慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都が創建し、円仁自作の聖観音菩薩像を安置いたし、 開山当初は天台宗
      でしたが、後に荒廃したために1688年~1704年に圓光寺の鉄舟和尚によって再興され、その際に圓光寺の末寺となり、
      天台宗より臨済宗南禅寺派に改宗いたしました。










      









                           


                    
                    山門左手のくぐり戸を入りますと村山たか女創建の弁天堂があります。








      
      山門を入り正面で拝観受付を済ませ、左手の戸口から庭園に入ります。


                    









      
      庭園に入ったところ左手にある「吾唯足知(ワレタダタルヲシル)」の蹲があります。
      「吾唯足知」とは際限ない欲望に溺れることなく、現在の状況を善しとして生きる大切さを説いたもので、「知足の者は貧
      しといえども富めり、不知足の者は富めりといえども貧し」という禅の言葉からきているようです。


                    
                    京都では、竜安寺にある「吾唯足知」の蹲(つくばい)が有名です。








      
      方丈庭園








   
  金福寺の主の登場です。とても人馴れしていてサービス満点擦り寄って来ました。








      


                    
                    庭園の片隅に建つ与謝無村の歌碑








      









               









      









      
      芭蕉庵 元禄時代に鐡舟和尚と親交の深かった松尾芭蕉が京都を旅行した際に滞在したことで知られ、周辺の住民に
      よって芭蕉庵と呼ばれるようになりましたが、後に形がないほど荒廃したために、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門に
      よって、1776年再興されました。







               









      









      
      茶室内部は千利休が造った待庵に似た三畳台目の茶室となっています。









      









      









      









                          









      
      芭蕉庵から、北に少し上りますと与謝無村と一門のお墓が佇んでおります。








      


                    









      









      









      









                    









      









      
      方丈内に安置されている文化財等には、番号がふられ方丈中央にあるボタンを押すと順を追って説明が流れてまいります。      








      
      写真左下にあるボタンで説明が流れます。








      

      









      









      

      
      村山たか女のお墓は、圓光寺の徳川家康公の位牌堂のすぐ横にあります。







      
      本堂の本尊は、慈覚大師円仁自作の聖観音菩薩像が安置されております。








      

                    
                    元南禅寺管長 柴山全慶老師筆 南禅寺 慈氏院の不許複製だそうです。








      









               









      









      
      








      









      









      


      車で来られる方は、駐車スペースが2台分しか有りませんので、詩仙堂に停めて徒歩で行かれる事をお勧めします。
      詩仙堂から南に5分です。
      このエリアに来られる方は、是非曼殊院・圓光寺・詩仙堂・金福寺とセットで廻られる事をお勧めします。





                    















     
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洛北一乗寺 圓光寺 09/09/04

2009年09月11日 | 洛北 東部 修学院方面
      叡山電鉄・一乗寺駅から徒歩15分の距離にある圓光寺は、曼殊院、詩仙堂の間にあり、山号を瑞厳山・圓光寺といい、
      臨済宗南禅寺派に属しており開山 三要元佶(閑室)禅師、開基 徳川家康公となっております。







      
      1601年、徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に
      圓光寺を建立し学校といたしました。 一時期、相国寺山内に移った時期もありましたが、1667年に現在の地に移されま
      した。伏見にあった頃の圓光寺は、足利学校の三要元佶(さんようげんきつ)閑室(かんしつ)を招き、文教事業に傾注し
      ており、特に朝鮮から輸入した木版活字を使った書籍の出版活動をしていたことが有名です。圓光寺には今も伏見版木
      活字52320個が残っていて、宝物館に陳列されております。









      









                









      









      
      右手に拝観受付がありますが、無人で志納料400円を納めますので小銭をご用意ください。
      紅葉時には夜間拝観もなされております。






      
      玄関の襖図








      
      玄関横に庭園への入口があります。








      
      本堂上がり口と書院と水琴窟








      
      書院の前の百日紅が唯一彩を添えております。








                
                水琴窟 京都の寺院には、ここの他に清水寺の成就院や大原・宝泉院や妙心寺・退蔵院
                などにも水琴窟があります。








      
      本尊は、伝運慶作の千手観音像が祀られております。








      

                          








      









      
      十牛の庭








      
      本堂内にある茶室








      
      本堂北庭園








      









               
               十牛図(じゅうぎゅうず)は、禅の悟りにいたる道筋を牛を主題とした十枚の絵で表したもの
               で、中国宋代の禅僧、廓庵(かくあん)によるものが有名です。

               ここで牛は人の心の象徴とされ、またあるいは、牛を悟り、童子を修行者と見立てております。

      1)尋牛(じんぎゅう) - 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
      2)見跡(けんせき) - 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
      3)見牛(けんぎゅう) - 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
      4)得牛(とくぎゅう) - 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。
      5)牧牛(ぼくぎゅう) - 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。
      6)騎牛帰家(きぎゅうきか) - 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
      7)忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) - 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。
      8)人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) - すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の
        自然な姿に気づく。
      9)返本還源(へんぽんげんげん) - 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。
      10)入鄽垂手(にってんすいしゅ) - まちへ... 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、別の
        童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。






      
      十牛図を庭園で表した「十牛の庭」








      









      











                          
                          水琴窟の横に佇むわらべ地蔵








      
      本堂を出て順路に従い庭園を廻ります。








                    
                    本堂東側のお堂に掲げられた山額








      









      









      
      竹林のところで道が左右に分かれ、先に家康公の墓所のある左手の山上に向かいます。








                          









      
      家康公の位牌が祀られているお堂と右手のお墓地には、儒学者の中村斎(てきさい)と井伊直弼に仕えた密偵・村山
      たか女の墓があります。家康公の墓所・東照宮は正面の階段を更に登ります。








                          









      
      徳川家康公を祀っている東照宮








      









      
      高台からの眺めは、北山の妙法の妙の字や舟形・左大文字まで見渡せます。








      
      庭園にある栖龍池(せいりゅうち)は、洛北一の古い池といわれており優雅に泳ぐ色とりどりの鯉を守るため水面に糸が
      張り巡らされておりました。








      
      左手の建物が宝物殿の瑞雲閣です。








      









      









      









      









      









      









      









      









                









      









      









      
      宝物殿 伏見版木活字52320個が展示されております。     








      

                    









  








      
      参道北側(左手)に駐車場がありますが、詩仙堂・金福寺と廻られるのであれば、詩仙堂前の駐車場に停めるのが勝手
      がいいと思います。

      左に行けば詩仙堂まで徒歩3分、さらに5分で金福寺です。右手に行けば曼殊院まで徒歩15分です。









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一乗寺 曼殊院門跡 2008

2008年09月10日 | 洛北 東部 修学院方面

勅使門

曼殊院門跡は洛北屈指の名刹である。門跡というのは、皇室の一門の方々が住職で有ったことを意味し、勅使門の両側の塀に残る五本の白い筋はその格式を今に伝えるものです。

延暦(728~806)宗祖伝教大師最澄により、鎮護国家道場として比叡の地に創建されたのが曼殊院の始まりです。

曼殊院ホームページより

詳しくは下記のアドレスにお願いします。
http://www.manshuinmonzeki.jp/index.html









                  
                  通常の参拝は勅旨門の北側のこの門から入場します。








     








             
     大玄関から大書院の渡り廊下より梅林を望む。                        国宝 不動明王像(黄不動)







     
     大書院前の庭園は、遠州好みの枯山水庭園とされております。
     鶴島には、樹齢400年の五葉松があり、鶴を表現していると言われております。
     新緑、紅葉のもみじだけでなく、庭園の周辺にある霧島つつじも5月上旬に花を咲かせます。







     
     大書院より小書院を望む。
     大書院と共に書院建築の代表的な物と言われ、屋根は大、小書院とも柿(こけら)ぶきだそうです。








     









     
     上之台所
     高貴な来客や門跡寺院の住職などのための厨房です。







     
     棚一面に当時の献立や漆器類が並んでます。










                  
曼殊院は、幹線道路から少し山裾に入っておりますので、北白川通りから歩かれると結構な距離になります。出来れば近くからワンメーターでタクシーをお勧めいたします。


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