広隆寺は、太秦の三条通りに面している真言宗系の単立寺院です。603年に建立された山城最古の寺院と言われてお
り、古くは蜂岡寺、秦寺、太秦寺など、さまざまな名称で呼ばれておりました。
三条通りに面した仁王門、前を京福電鉄が通っており横に広隆寺駅もあります。
広隆寺は、聖徳太子ゆかりの寺として有名ですが、一説によりますと、創建当初からこの地にあったものかどうかは未詳
で、7世紀前半に今の京都市北区平野神社付近に創建され平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力であるそう
です。創建当初は弥勒菩薩を本尊としておりましたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰
とともに聖徳太子信仰を中心とする寺院となってまいりました。
『日本書紀』等に広隆寺草創に関わる記述があり、広隆寺は秦氏の氏寺であることは確かですが、弘仁9年(818年)
の火災で古記録を失ったこともあり、初期の歴史は必ずしも明確ではないそうです。
秦氏とは、朝鮮半島新羅系の帰化人の家系とする説が有力であり、現在の京都市右京区南部・西京区あたりを本拠とし
養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった一族であり、広隆寺の近くにある蚕の社や、右京区梅津の梅宮大社、西京
区嵐山の松尾大社(ともに酒造の神)も秦氏関係の神社といわれております。
仁王門を入り石畳の右手には、赤堂と呼ばれる講堂が建ちます。
『日本書紀』によりますと、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてま
つる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝(はたのかわかつ)が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたと云われ
ております。その御本尊が現在する弥勒菩薩像であることが広隆寺の資材交替実録帳に記載されております。
石畳の左手は、薬師堂になります。薬師如来三尊立像・不動明王・道昌僧都・弘法大師が祀られております。
内側から見た仁王門です。
この広隆寺は、衆生済度の道の探求と仏法への絶対的な帰依、そして「和を以て貴しと為す」平和な世界をめざされた聖
徳太子とこの地に大陸文化を根付かせた秦氏の業績を伝える重要な遺跡として日本文化の一大宝庫と評されております。
講堂 1165年に再建された京洛最古の建物で、俗に赤堂と云います。中央に西方極楽浄土で説法をされている印を結
ぶ阿弥陀如来座像が祀られております。
講堂右手の石碑
講堂前から見た薬師堂
本堂と色付き始めた境内の木々
本堂手前の井戸舎と左奥の太秦殿 太秦明神が祀られております。
本堂(上宮王院太子殿) 1730年に再建され本尊に聖徳太子像を祀っております。
本堂の左手にある参拝受付と庫裡 参拝料は国宝が多いためか少々高めの700円でした。
霊宝殿への参拝入口
参拝入口右手の弁天社
正面は旧霊峰殿、新霊宝殿は右側にあります。
桂宮院本堂入口 この時期は閉まっておりますが、拝観が可能なのは、四・五・十・十一月の日曜祝日のみとなっており
ます。
桂宮院本堂は、別名、八角円堂と呼ばれ、聖徳太子が楓野別宮を起こされ
たところと伝えられ現在は広隆寺の奥の院称されており現在の建物は125
1年に中観上人澄禅により再建されました。
楓野別宮とは、聖徳太子が秦氏に命じて蜂岡寺を建立させるまでの仮宮殿
の名称です。
弥勒菩薩が展示されている新霊宝殿の前の庭は、雨にうたれ緑も鮮やかにとても綺麗に手入れがされておりました。
新霊宝殿 二十近い国宝と五十近い重要文化財が収納され展示されております。
新霊宝殿の前を通り過ぎると御手洗いがあります。
御手洗い前は、本殿の東側になります。
国宝第一号に指定されている弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)左と右、泣き弥勒
霊宝殿から見た本堂
本堂西側
正面が仁王門、右手が駐車場です。
境内西側に大きい駐車場があり、そちらから入ればこんな景色です。
こちらの門は、本堂西側にある庫裡と書院の勅使門でしょうか?