M先輩の口から語られる熱い「法律論」――。筆者は、先輩の「講義」に耳を傾けるだけだった。それでもときどき先輩に促され、「ささやかな私見」を述べることもあった。そのようなとき先輩は――、
『……君のそれは「ショウスウセツ(少数説)」だべ・・・?!』
“だべ・・・?!”の“・・・?!”に微妙な含みを持たせた独特の語尾は、「疑問」なのか「断定」なのか、はたまた「強調」なのか、何ともわかりにくいイントネーションだった。またあるときは――、
『……今やってるのは、はぁ「解釈論」だべぇ・・・?! 君のは「立法論」でねえのかァ・・・・・・?』
やはり“だべぇ・・・?!”や“でねえのか・・・・・・?”という独特の語尾とイントネーション。そのインパクトと印象は、45年を経過した今も鮮やかに残っている。
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「夏期休暇」が近づく頃、筆者は少しずつ先輩に対して「反論」らしきものを試みることもあった。入学したての「大学1年生」とはいえ、筆者は高校卒業後1年間「法律専門学校」に通い、憲法、民法総論、債権総論は一応学習していたのだった。
筆者の「反論」にM先輩は驚いたような表情を見せた。それでも臆することなく熱く、そして気合いを入れ直して答えるのだった。
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一切自炊をしない筆者に対し、M先輩はときどき「自炊」をしていた。といっても、2部屋の「間貸し」のために造られた急ごしらえの小さなシンク(流し台)とコンロだけの簡単なものだった。ほぼお湯を沸かすだけのものであり、事実、筆者は電気ポットに水を入れるためだけに利用していた。
それでも遅く起きた休みの日など、ときどき「味噌汁」のにおいが漂ってきた。布団を畳む筆者の気配に気づいたのだろうか。
『……ああ? 起きた? 味噌汁あるけど……』。
結局、一杯の「朝餉」に与ることがしばしばあった。
地裁裁判官の家主N邸(といっても、筆者とM先輩の部屋がある2階下の1階部分)で、M先輩と筆者は食事に呼ばれることがあった。もちろん先輩は、このときとばかりにN裁判官に自説をぶつけ、またその判断を求めた。ハイレベルの内容のため、筆者は黙って聞いているだけだった。
この「N邸食事会」に、あるときもう一人の大学の先輩(すでに卒業)が加わることがあった。司法修習生1年の20代半ばの女性であり、N夫人の妹さんだった。
翌年、N裁判官は弁護士となった。その次の年つまり筆者が3年生になったとき、M先輩の妹K子さんが大学進学のために上京し、先輩の部屋の住民となった。ほんのちょっとの間の兄妹同居だったが、ひと月も経たない頃、M先輩は都内の元の下宿に戻ったように思う。そこにはフィアンセもいた。
この1週間後、筆者はN邸を出て、同じ練馬区の「南大泉」のアパートに引っ越した。それ以来、M先輩とは会っていない。
先輩! たった今『あまちゃん』おしまいだっぺ! (了)