『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・久慈市M先輩の想い出:下

2013年09月28日 08時22分21秒 | ■人物小論

  M先輩の口から語られる熱い「法律論」――。筆者は、先輩の「講義」に耳を傾けるだけだった。それでもときどき先輩に促され、「ささやかな私見」を述べることもあった。そのようなとき先輩は――、

   『……君のそれは「ショウスウセツ(少数説)」だべ・・・?!

   “だべ・・・?!”の“・・・?!”に微妙な含みを持たせた独特の語尾は、「疑問」なのか「断定」なのか、はたまた「強調」なのか、何ともわかりにくいイントネーションだった。またあるときは――、

   『……今やってるのは、はぁ「解釈論」だべぇ・・・?! 君のは「立法論」でねえのかァ・・・・・・?

  やはり“だべぇ・・・?!”や“でねえのか・・・・・・?”という独特の語尾とイントネーション。そのインパクトと印象は、45年を経過した今も鮮やかに残っている。

        ☆

   「夏期休暇」が近づく頃、筆者は少しずつ先輩に対して「反論」らしきものを試みることもあった。入学したての「大学1年生」とはいえ、筆者は高校卒業後1年間「法律専門学校」に通い、憲法、民法総論、債権総論は一応学習していたのだった。

   筆者の「反論」にM先輩は驚いたような表情を見せた。それでも臆することなく熱く、そして気合いを入れ直して答えるのだった。

          ☆

    一切自炊をしない筆者に対し、M先輩はときどき「自炊」をしていた。といっても、2部屋の「間貸し」のために造られた急ごしらえの小さなシンク(流し台)とコンロだけの簡単なものだった。ほぼお湯を沸かすだけのものであり、事実、筆者は電気ポットに水を入れるためだけに利用していた。

  それでも遅く起きた休みの日など、ときどき「味噌汁」のにおいが漂ってきた。布団を畳む筆者の気配に気づいたのだろうか。

  『……ああ? 起きた? 味噌汁あるけど……』。

  結局、一杯の「朝餉」に与ることがしばしばあった。

   地裁裁判官の家主N邸(といっても、筆者とM先輩の部屋がある2階下の1階部分)で、M先輩と筆者は食事に呼ばれることがあった。もちろん先輩は、このときとばかりにN裁判官に自説をぶつけ、またその判断を求めた。ハイレベルの内容のため、筆者は黙って聞いているだけだった。

   この「N邸食事会」に、あるときもう一人の大学の先輩(すでに卒業)が加わることがあった。司法修習生1年の20代半ばの女性であり、N夫人の妹さんだった。

   翌年、N裁判官は弁護士となった。その次の年つまり筆者が3年生になったとき、M先輩の妹K子さんが大学進学のために上京し、先輩の部屋の住民となった。ほんのちょっとの間の兄妹同居だったが、ひと月も経たない頃、M先輩は都内の元の下宿に戻ったように思う。そこにはフィアンセもいた。

   この1週間後、筆者はN邸を出て、同じ練馬区の「南大泉」のアパートに引っ越した。それ以来、M先輩とは会っていない。

   先輩! たった今『あまちゃん』おしまいだっぺ!  (了)

 

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・久慈市M先輩の想い出:上

2013年09月22日 07時10分50秒 | ■人物小論

  大学入学と同時に、学生課紹介の住家に「間借り」した。住所は東京都練馬区北大泉であり、近くに東映の撮影所があった。部屋は二階の四畳半一間。食事付きの「下宿」ではなかったものの、風呂だけは自由に入ることができた。家主のN氏は地裁の裁判官であり、大学の先輩でもあった。

  しかし、この家にはもう一人「間借人」がいた。筆者が入学した年に同じ大学を卒業したM先輩だ。「司法試験受験勉強」のため郷里には戻らず、東京に残っていた。この先輩の郷里こそ、NHKの朝ドラ『あまちゃん』の舞台となった岩手県の久慈市だった。

  N邸の二階には、筆者の「四畳半」とM先輩の「六畳」しかなかった。いずれも「和室」であり、郷里から遠く離れて一人暮らしをする青年にとって、畳の部屋は落ち着きと安らぎとを与えてくれた。

      ☆

   もちろん、パソコンも携帯電話もない1968年。「東京オリンピック」の4年後であり、この年の10月に「メキシコオリンピック」が開かれた。筆者の部屋にテレビはなく、ラジオは持っていたものの何かを聴いたという記憶はない。それは隣の部屋のM先輩も同じだった。

   孤独で過酷な勉強を強いられる司法試験受験生。テレビやラジオなど無縁というもの。ひたすら勉強……の日々であったようだ。近所に喫茶店もなければ、気分転換に散策するようなコースもなかった。

   勉強の疲れを癒す方法も場所もない退屈な郊外の住宅街。しかも、地方出身で同じ大学法学部の「卒業生」と「新入生」の男二人――。となれば、読者各位は想像できるに違いない。……そう、M先輩は、週に2、3回は筆者の部屋にやってきた。ときには2日、3日と連続することもあった。部屋まで来ないまでも、壁越しに話かけて来ることもたびたびだった。

   M先輩が筆者の部屋に来るとき、それは「法律論」を展開することだった。それもいつしか、ちびりちびりと共に「ウィスキー」を“飲みながら”の講義となった。といって、「酔う」というほど飲むこともなかったし、「法律論」以外の話をしたという記憶もあまりない。二人とも真面目……、というより不器用だったのだろう。それでも下戸に近かった筆者は、この先輩によって「アルコール」に対する遅々たる進歩を見せることとなる。

    「法律論」が熱を帯びると、M先輩の口から例の“東北弁(今思えば、「久慈の方言」ということになるのだろう)”が交じった言いまわしが出て来た。

   『……刑法犯に該当したからってェ、全部が全部、有罪ってことにはならねえだべェ……』

    だが「じぇじぇ」という感嘆詞を耳にしたことはない。(続く)

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・喪われた38分間――「東京オリンピック」決定:(中)

2013年09月13日 08時19分16秒 | ■文化小論

   だが次の瞬間、ようやく事態を理解した。……睡魔の誘惑と闘っていた、あのおぼろげな意識の中……、『あと50分少々のカウントダウン』の声の後……、筆者は眠り落ちていたのだ。その時間、推定38分間……。

  それにしても、『マドリードに何が起きたのだろうか。一時は最有力と言われていたはずなのに』。その経緯を知りたいと思ったとき、スペイン地元紙による次の「一面トップ記事」が気になり始めた。

  《IOCの委員51人がマドリードへの投票を確約

   これはまずいのでは? IOC委員は、自分が特定都市を支持していることを、少なくとも正式な「結果発表」の前に知られてはいけないはずだ。下手をすればスキャンダルへと発展しかねない。

   そう懸念したとき、「カウントダウンの時計」が残り10秒の秒読みを示し、時報が朝5時を告げた。いよいよ開催地が「東京イスタンブール」のどちらかに決定する!

  やがて「セレモニー」が始まった。そして、IOCのジャック・ロゲ会長が、開催都市名が記された「封筒」を受け取った。一瞬走る緊張と静寂――。会長が「封筒」を開け、中からやや厚手の「五輪マークの入った用紙」を取り出す……無表情のままチラっと目をやる会長……みんなに見えるように「用紙」をひっくり返し、淡々とした表情で『TOKYO』と告げる。開催地「東京」が決定したのだ。

   その“次の瞬間”からというもの――。テレビ各局が映し出す「ブエノスアイレスの会場」や日本各地における歓喜フィーバーの様子――。想像を遥かに超える反応であり、どこかの国が半ば冷笑的に表現したように、確かに“狂喜”だった。もちろん筆者も嬉しかった。だが心の底から喜ぶことはできなかった。「IOC委員による投票確約」の一件と「プラスα(アルファ)」が、頭の中に燻(くすぶ)っていたからだ。

       ☆

  その後、「投票1回目」の様子が伝わって来た。マドリードイスタンブールの両都市が、ともに26票ずつで並び、「同票による決選投票」を行ったとのこと。それは筆者が眠り落ちていた38分間の出来事だった。“滅多にない行事の滅多にない展開”を見落としていたことになる。

   加えて、両市の決選投票については、「東京落選!」との誤解や誤報を生み出していたとか。“かくもビビッドでマニアックなシーン”を見逃していたとは……Mottainai 

  さらにその後、「東京(日本)」の「最終プレゼンテーション」の様子も伝わって来た。筆者が想っていたよりもレベルは高そうだ。何と言っても、「原稿の棒読み」ではなかったのがいい。キメ細かな指導や練習のあとがうかがえ、むしろこちらの方にいっそう喜びがあったような気がする。

  それにしても――、

  『なぜマドリードは、イスタンブールにも敗れる惨めな結果を招いたのだろうか

  ある程度想像することはできたが、原因追究の「参考」までにと他局の報道を覘いた。

  やはり……。正直言って、「結果やむなしのマドリード」だった。だがそう感じながらも、筆者の“こころ”と“関心”は、すでに「マドリード」にはなく、早くも「プラスα(アルファ)」へと向けられていた。(続く)

 

  

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・消えたマドリード――「東京オリンピック」決定:(上)

2013年09月08日 10時36分39秒 | ■文化小論

 

  2013年9月8日午前0時ちょうど。めったに観ないテレビのスイッチを入れた。数日前より心待ちにしていた、NHKの『いよいよ決定! 2020年五輪開催都市』を観るためだ。といっても、現在、講師をしている「ハウジングコーディネート科」(HC科)のテキスト等に目を通しながら……というつもりだった。

  しかし、開催地」の最終決定時刻が「5:00と知ったとき、“一抹、二抹”、いや“三抹の不安”が脳裏を過(よ)ぎった。というのは小郡市の「HC科(学校)」に通うため、「朝6:00」ちょっとに自宅を出発しなければならず、「5:00」の「起床時間」のためには「午前0:00前」には「就寝」というのが日課となっているからだ。

  つまり、いくら「休日」とはいえ、就寝時刻の午前0時からテレビを観始め、しかも5時間以上も観続けなければならないとは……。

        ☆

  それでも、午前「1:00」、「2:00」を無事乗り越えた。「3:00」そして「3:30」、これも何とか平穏に通過した。だが“秘かに忍び寄る睡魔”が、「葉っぱ」を食い散らす芋虫のように筆者の「覚醒時間」をランダムに穿(うが)ち始める。 『……用心しなければ……』。そう想った筆者は部屋の掃き出し窓を勢いよく開け、バルコニーから見える遠海へと視線を送った。大きく深呼吸し、“睡魔”を撃退すべく瞼を強く撫で上げた。サア~! 何とか愛ちゃんの「掛け声」が自然に口をついた。

  部屋に戻ってしばらく。女性アナンサーの声がはっきりと聞える。『発表まであと1時間を切りました!』……秒単位の「カウントダウン」時計が、「59:55」を表示している。通常は完全に“夢の中”の筆者。よくぞここまで起きていられるものだ。自分自身にささやかな賛辞を送りながらも、油断してはならじと気を引き締め、再び「カウントダウン時計」に目をやった。

   「50:……」。あと50分ほどで“その瞬間”を迎える……。「脳髄」は静かにそう確認しようとしていた……のは疑いなかった……。

   ……だが、筆者の“目覚めたままの意識”はここまでが限界だった……。

        ☆   ☆   ☆

   『いよいよ残り10分を切りました!

   ……その声は“いきなり”飛び込んで来た。……ん? 『残り10分? 残り時間は50分ではなかったのか?』そう訝りつつも、画面右下の「文字表示」に目が行った。

   《東京かイスタンブール まもなく決定!

   ン? どういう意味だろう。「東京」と「イスタンブール」……。今一つ、頭がはっきりしない。なぜ「マドリード」の文字が無いのだろうか。すぐには理解できなかった。明らかに何かがおかしい。慌てて「他局」を片っ端から覘(のぞ)き始めた。……だが「最終発表までの時間」が、「残り10分を切っている」という以外、何も判らなかった。(続く)

 

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