『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・建築家は光の奉仕者(安藤忠雄ガールズ:下)

2011年05月07日 03時54分56秒 | ■芸術・建築の巨匠たち

 それは“建築物を前提に緑が存在する”のではなく、“既存の緑の中に建築物が造られた”という考えに集約される。“主役”はあくまでも“緑”すなわち“自然”であり、後から来た“建築物”という“非自然”は目立つべきではない。
 つまり“非自然”は“自然”の中にとけこまなければならず、樹木が豊かに繁り、草花がその華やぎを見せるとき、建築物ははじめてそれらの間に隠れるように存在する……というのが安藤さんの「建築学」いや「調和論」なのだろう。

 独断的に言いかえれば、「大地」という“母性”が“建築物を宿し”、ゆったりとした“自然”という“愛情”の中で“育(はぐく)んで行く”ということだろうか。そう思うと「建築」の“始まり”が、何やら“受胎告知”のように思えて来た。

 ともすれば、「無機質な孤体」としての「打ち放しコンクリート」。だが安藤さんの手にかかると、「有機的で柔らかな調和体」へと変貌する。『安藤忠雄ガールズ』が惹きつけられるのは、そのような“受胎感覚”に通じるものがあるのでは……と勝手に想像してみた。そう考える方が無理がなく、事実「建築物」としてもいっそう映えるような気がする。
  
      ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆
 
 4月下旬、M嬢から『私の履歴書』の切り抜き記事が送られて来た。大きな茶封筒に筆ペンの文字が優しく躍っている。封筒裏には「印判の住所氏名」の押印があり、「黒雲と鈴」のデザインが何とも愛らしい。

 「新聞の切り抜き」は何回分か抜けてはいるものの、1回から31回分があった。その束が粗漉きの和紙に赤い紐で留めてあり、別の和紙に手紙が書かれていた。いずれも身近な物をさりげなく利用したものだ。送られて来た「切り抜き」もさることながら、そういう心遣いが嬉しい。
 今回の「記事」によって初めて知り得たこともあり、また詳細を知ることもできた。

 「記事」によれば、生まれてすぐに祖父母の養子となった安藤さんは、小学校に上がって間もなく祖父を亡くしている。そのため祖母と二人きりの生活を長く経験することとなる。
 安藤さんが中学二年生のとき、「平屋」の自宅を「二階建て」に改築することになった。そのときのことを安藤少年は――、

 『屋根を解体し、天井にぽっかり大きな穴があいたとき、狭い長屋の薄暗い洞窟のような空間に、光が突然差し込んだ。私は思わず、その光の美しさ、力強さに心を奪われたのである』

 他の著作にも見られるこの“くだり”こそ、おそらく“安藤建築”の“原点”であり、“光”に対する“オマージュ”とも言える。私はこの“くだり”に接するたびに、優れた「建築家」にとって、光がいかに神聖なものであるかを感じる。ル・コルビジェルイス・バラガン、そしてルイス・カーンしかり[※註]。さらに彼らと志を同じくするその他の建築家達もまたしかり。
 まさしく――、

 “建築は光である”  そして――、
 “建築家は光の奉仕者である”

 ということを確信することができた。

 再びM嬢の手紙に目を転じた。
 『また お茶でもご一緒できますように』との言葉に、「コーヒーカップ」のイラストが添えられている。それを見つめているうちに、無性に彼女と一緒にコーヒーが飲みたくなった。と同時に今度会った時、“建築が光である”ことをどのように伝えたらよいのだろう……。

 ……そう考えながらも、M嬢以外の『安藤忠雄ガールズ』を想い浮かべてもいた。実は、これまでに登場したA嬢もN嬢も、そしてU子さんもそうなのだ。のみならず、いつしか登場するであろうその他の女性たち……。「建築塾」の教え子達とはいえ、『安藤忠雄ガールズ』は何と多いのだろうか……。(了)

 
 ※[註] ●ル・コルビジェ(Le Corbusier)[1887-1965):フランスで主に活躍したスイス生まれの建築家・画家。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ(Charles-Edouard Jeanneret-Gris)。「フランク・ロイド・ライト」「ミース・ファン・デル・ローエ」と共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる(「ヴァルター・グロピウス」を加えて「四大巨匠」と言うことも)。「近代建築の5原則」(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面)」を提唱し具現化した。
 ●ルイス・バラガン(Luis Barragan Morfin)[1902-1988]:メキシコ人の建築家・都市計画家。光や水面を採り入れ、幾何学模様のモダニズム建築を得意とした。
 ●ルイス・カーン(Louis Isadore Kahn)[1901-1974]:エストニア系アメリカ人。建築家・都市計画家。独特の神学的・哲学的色彩の濃い建築論を持ち、ソーク研究所、バングラデシュ国会議事堂、キンベル美術館などを手掛ける。ルイス・バラガンは友人。


・光と風と水と緑と(安藤忠雄ガールズ:上)

2011年05月04日 14時55分01秒 | ■芸術・建築の巨匠たち

 『今日から日経新聞の【私の履歴書】安藤さんの連載ですね。毎日が楽しみになります』

 3月1日、その「メール」をもらった。相手は、これまで登場したA嬢、N嬢そしてU子さん同様「わがアラフォー美女団」の一人、M嬢だ。しかしそのとき、拙宅の新聞は「日経」ではなかった。もちろんその旨返信した。

 翌日、「連載記事」についての彼女のメールが入った。

 『設計、建築の方もいろいろなご苦労があるんだなあ~と、安藤さんを少し身近に感じることができました。この週末、淡路島に行ってきます。遊びではないので、ゆっくり安藤さんの建物を楽しむ余裕がなく残念です』

 その後もM嬢からのメールは何回も続いた。『……今日の記事は「光の教会」を作られた時のお話です。新聞がもらえたらとっておきます』、『……安藤さんの新聞記事、何回分か貰ってきています。残りも貰えたらと、新聞がたまるのを待っています。楽しみにしててくださいね』。

 M嬢は、建築とは無関係の医療関係の事務の仕事をしている。実は彼女は、不動産会社時代の私のお客様だった。仲介マンションの購入者であり、レトロな感じが好きだというのがその動機だった。
 『緩やかな曲線の道路に沿った九階の角部屋から、市井(しせい)の夜景が何とも魅力的に映える……』というセールスポイントに共感できるお客様でもあった。

 それ以来の交友だが、彼女と会うといつも“建築”の話が中心となり、無垢材から木造住宅ことに「古民家」などの話へと発展していく。散策を兼ねて一緒に「街並み」や「建物」に見入ることもあった。そして「建築家」となれば自然に「安藤忠雄」氏となる。
 
 つまり「安藤さん」のファンであるM嬢――。
 それにしても「安藤ファン」はなぜか女性が多い。しかも“建築関係者ではない”というのが特徴だ。“安藤氏以外”の建築家の「講演会」(開催自体きわめてまれ)は、圧倒的に関係者それも男性が多い。
 ところが「安藤さん」となると講演会場の雰囲気が一変する。まず女性、それも結構若い世代が目立つ。

 なぜ『安藤忠雄ガールズ』は多いのだろうか? おそらくその理由は、

 第一に、テレビ・雑誌などに登場する建築家といえば、圧倒的に安藤さんが多いということが挙げられる。
 第二に、建築家としての安藤さんの考えが、“一般の人にも判り易くまたシンプルである”ということに尽きる。
 気取らない風貌や話し方も、「気さくなおじさん」のイメージづくりに貢献したようだ。私にしても、いつしか『安藤さん』という呼びかけが当たり前のようになっている。

 ところで、私が安藤忠雄という建築家に興味を持ったきっかけは、自然体とも言えるその「建築観」いや「自然観」にあった。もう二十年以上前になるだろうか――。

 その日、新聞記事の整理をしながら、漫然とテレビを観ていた。番組の最後にインタビュアが尋ねた。
 『安藤さんにとって建築のテーマとは何でしょうか』。ひと呼吸おいた後、建築家は答えた――。

 ――光と風と、水と緑でしょうか

 私はTV画面の中の建築家を食い入るように見つめた。何と言う答えだろうか。ありふれた用語をシンプルに表現したその口元を見つめながら、何度も“その言葉”を呟いていた。法学部出身の私が、独学で建築を学び始める大きなきっかけとなった言葉だ。

 思えば「安藤建築」には『緑の教会』以外、『光の教会』も『風の教会』も、そして『水の教会』という名称の「教会」が存在する[※註1]。
 しかし、『緑の教会』はなくとも、「建築物」に対する安藤哲学の“”すなわち“自然”に対する基本姿勢は“ブレる”ことなく一貫している。<続く>


 [※註1]:それぞれ「光の教会」、「風の教会」、「水の教会」で「検索」すると関連記事をはじめ「写真・動画」等が出てきます。
 

・打ち放しコンクリート(安藤忠雄/住吉の長屋:下)

2010年11月06日 17時09分02秒 | ■芸術・建築の巨匠たち

 コンクリート表面の「風合い」
 
 ところで「打ち放しコンクリート」の表面は、“独特の風合い” をしています。

 第一に、「型枠」表面の「材質感」や「仕上がり具合」をそのまま見せる「素朴な肌合い」でしょうか。気泡跡を持つ無機質な表面は、コンクリート独特の「重量感」や「艶」を感じさせます。澄ました感じの冷ややかな “手触り” もまたよしです。

 第二に、壁面から「数ミリ引っ込んだ丸い窪み」でしょう。これを「Pコン」(プラスティックの円錐形のコーン)と呼ぶ人もあります。これは「型枠」と「型枠」の間にコンクリートを流し込む際に用いられる、「セパレーター」という金具の「痕跡」です。「コンクリート」を流せば、コンクリートを「堰き止める型枠」に重量がかかります。負荷がかかれば、当然「型枠」は「膨れ(孕み)」やすく、コンクリートの精確な「厚み」が確保できないおそれがあるからです。

            

 ところで、コンクリートが固まった後に「型枠」を取り外します。そのときできた「穴」が「Pコン」(ぴーこん)です。それを「塞(ふさ)ぐ」ために「モルタル」を塗り込むわけですが、そのとき「穴」を完全に塞ぐのではなく、あえて「表面」から少し「引っ込ませる」のです。

 ……そうして「壁面全体」を眺めるとき、「Pコン」が一定の「間隔」で整然と並んでいることが判ります。これこそ「打ち放しコンクリート」独特のアクセントであり、デザインといえましょう。

 「Pコン」について、安藤氏は180cm×90cmの壁パネル1枚につき「6個」と指定し、ピッチすなわち横の間隔は60cmのようです。またその「引っ込み寸法」も「5mm」に指定するとのこと。さすが業界において、『打ち放しの安藤』とか『型枠の安藤』と呼ばれる所以です。

 ともあれ、私にとっての「打ち放しコンクリート」は、何かに耐えながら沈思黙考する哲学者のイメージです。さて、みなさんはいかがでしょうか……。

 なお「打ち放し」の読み方ですが、辞書・事典などでは「うちはなし」となっています。しかし、実際の現場では「うちっぱなし」と読む人が多く、私もそう呼んでいます。その方が、コンクリートの “重厚感” や剥き出しになった “素朴な表面” の、それでいてちょっと “瀟洒な雰囲気” が伝わって来るような気がします。 

            

 ところで、この “言い回しは、日常生活にも出て来る言葉ですね。

 「○○はなし」よりも、「○○っぱなし」の方が、なんとなく それって感じがしませんか。

 

    ★★★ ~っぱなし ★★★

 …………旦那ぁ~。あの夜、かみさんに言われたんじゃねえすか? ……出っぱなしに、行きっぱなし、そして、飲みっぱなし……。その後はカラオケのマイクを、握りっぱなし……。で……歌いっぱなし……ってね……。

 夜 “外出” すると、何かと言われやすいですよね……。     

            ★     

 あ~ら、夜お外に出ない方でも、いらっしゃるんじゃありません? あたくし、そういう方をよく存じ上げていますの。 

 …………開けっぱなし……出しっぱなし、……使いっぱなしに……つけっぱなし……。読みっぱなし……散らかしっぱなし……。

 それに、あれこれ、やりっぱなし……。脱ぎっぱなし……置きっぱなし……なんてのもあるみたい……。

 あなたもごぞんじでしょ? そういう方。 ね~え? でしょ? ねえ? 聞いてる? あれっ? 眠ちゃったの? 

 

 


・住み継ぐ意志(安藤忠雄/住吉の長屋:中)

2010年10月30日 18時00分59秒 | ■芸術・建築の巨匠たち

 

 「RCの打ち放し」というのは、「外壁」がコンクリートの“肌合い”そのままのものを言います。建物によっては、「室内」の一部(玄関ホールや廊下等)が、「外壁」とまったく同じというのもあり、「断熱層」がないため「外気」がストレートに伝わりやすいということです。当然、冬の寒さも、夏の暑さもストレートに……。というより、「熱伝導率」の高いコンクリートのために、木造等に比べていっそう厳しくなります(もっともRCファンは、それを承知の上!?)。

 ましてや『住吉の長屋』のように、家のど真ん中に「外部空間」があればなおさら。寒暖の厳しさは想像を超えるはずです。そこで以下のような、設計者つまり「建築家(安藤氏)」と「依頼者(住み手)」との“問答”が生まれたのでしょう。 

 依頼者「寒いときはどうしたらいいでしょうか?」  
 建築家「服を1枚多く着てください」
 依頼者「それでも寒かったら?」 
 建築家「服を、もう1枚多く着てください」
 依頼者「それでもまだ寒かったら?」
 建築家「アスレチック・クラブへ行って、身体を鍛えてください」

 「落語」のようなこのエピソードの真偽のほどは判りません(おそらく、実話です?!)。しかし、二人のこの“問答”の中に、「建築家」と「依頼者」との“あるべき姿”があるように思います。それは、“ひとが家に住むとはどういうことなのか”という問題提起となっているからでしょう。
 安藤氏はそのことを、何かの本や講演などで語っていますが、こういう言い方をしていました。

 ――住み手には、住み継ぐ意志が必要である。

 “住み継ぐ意志”とは、住宅に備わっている性能や機能に頼ることなく、「住み手」自身が創意工夫をするということです。“寒い、暑い”といって、すぐに冷暖房の温度を調節するのではなく、「住み手(側)」の感覚感性にそって”対応する”ということでしょう。1枚多くシャツを着ることも、アスレチック・クラブに通うことも、“住み手自身の工夫”による“住み継ぐ意志”の第一歩にほかなりません。

 “住み継ぐ意志”とは、『どれだけ住み手自身のアクティブな選択肢が残されているか』にあるようです。ことにそれは、“季節と体感”に表れることでしょう。そのためにも、建築前の計画において「家そのもの(建築物)」をどこまで整備するか、あるいはしないか」という検討が不可欠であることは言うまでもありません。
  
 具体的には、建物の向きをはじめ、庭と建物との配置関係などを、自然環境や気候風土、周囲の状況等を軸にチェックすることになります。つまりは、四季折々の温熱環境の把握から始まるのです。温度、湿度、風の向き、雨量、日照、採光、通風など。窓一つをとっても、窓の位置や数や大きさ、それに縦長か横長なのか。また窓と窓との関係など、“住み継ぐ意志”の実現のためには、本来、数多くの事前チェック項目があるのですが……。


・雨の日に傘を差してトイレへ行く家(安藤忠雄/住吉の長屋:上)

2010年10月23日 18時04分14秒 | ■芸術・建築の巨匠たち

 

 「TADAO ANDO」として世界的に知られている「安藤忠雄」氏。日本でもっともポピュラーな建築家であり、講演会は無論、テレビでも“超”がつくほどの“人気”を集めています。私も何度か同氏の講演会に行きましたが、建築関係ではない一般の方が多いのが特徴でしょうか。

 氏の設計による住宅に、『住吉の長屋』(大阪の住吉)という“小さな家”があります。おそらく日本で一番有名な「個人住宅」と言っても過言ではありません。建築好きの方であれば、ご存じのはずです。鉄筋コンクリート「打ち放し」の2階建てであり、昔からあった「木造長屋」の一部に「建て替えられた」ようです。

 この住宅ほど、建築界にインパクトを与えた住宅もないと思います。大げさかもしれませんが、“住まいとは……、建築とは……”と言う根源的な問いを投げかけています。“プロ好み”の「住宅」であり「建築物」と言えるでしょう。事実、この住宅は「建築賞」を受賞し、今も建築学習者の教材にされたり、卒論のテーマに選ばれたりしているようです。

 私見ですが、「RC一般住宅」の“古典”の地位を築きつつあるような気がします。『住吉の長屋』と検索するだけで相当数のサイトやブログがあり、写真(動画も)や感想が山ほど出て来ます。いかに多くの方が、この住宅に愛着や関心を持っているかが判ります。ぜひ一度、検索してみてください。

 敷地(狭小地)いっぱいに建てられたこの建物の「建築面積」は、3.3m×1.41m=46.53㎡。約14.07坪(約28畳分)でしょうか。家の中に「中庭」があります。「中庭」という以上、もちろんその上部には「屋根」も「天井」もありません。そのため、雨の日にトイレ(1階)に行く場合、“傘をさす”必要があります。「家」のど真ん中に「外部空間」があるわけですから、必然そうなるでしょう。

 つまり、“トイレに行く”ということは、「部屋」→「中庭(=室外)」→「トイレ」、そして「トイレ」→「中庭(=室外)」→「部屋」と“移動する”ことを意味しています。当然そのたびに、“冬は寒い冷気に、夏は暑い熱気に晒される”わけです。“それだけ”を採りあげるとき、まことに理不尽な家に違いありません。
事実、この住宅が発表された当時は、賞賛の声とともに、非難も相当あったようです。……“建築家の傲慢さの表れ”“住宅なるものの基本中の基本を逸脱している”“そこまでして、自然を採り入れる意味があったのだろうか”云々。

 ではなぜそこまでしたのかということです。その理由は、第一に「狭小地」を最大限に活かしたいとの思いがあったのでしょう。第二に、プライバシーを守りながら“自然の光と気配”をできるだけ保ちたい……。前述の“建物の全部を天井や屋根で覆うことができなかった”というのは、「建ペイ率」や「容積率」という法規をクリアするためですが、同時に“自然の光と気配を保つ”ためでもあったのは事実です。

 ……と言えば、“だからと言って、トイレに行くのに傘をさすなど……。それを回避したプランもできたはずでは……”と叱られそうです。確かにごもっとも。しかし、建築家も施主も、なぜかそちらを選択したのです。

       ★   ★   ★

 ――傘を差してトイレへ行く家。だから、あっしもかみさんに、『星を見ながら、ションベンに行くってえのも、風流だねえ』って言ったんです。そしたらかみさん、すかさず、『あなたの“風流”は、例え何歳になっても、また身体がどんな状態になっても、独りでおトイレに行けるってことでしょ?』って、念を押されちまいましてね……。


・“万能の天才”ーーレオナルド・ダ・ヴィンチ

2009年05月24日 13時19分04秒 | ■芸術・建築の巨匠たち

 個人的に「好きな歴史上の人物」を挙げるとすれば、レオナルド・ダ・ヴィンチは間違いなくその「ベスト10」に入る。
 その最大の理由は、壁画『最後の晩餐』の作者ということだろうか。もちろん『モナ・リザ』も嫌いではないし、彼の豊かで柔軟な想像力や創造性もその理由の一つであることは確かだ。

 彼は絵画をはじめ、彫刻、建築、室内装飾、舞台演出を手がけ、都市計画等もこなした。のみならず生物、植物、人体解剖等各分野の学問研究にも精通し、さらには軍事学、機械工学と、まさに“万能の天才”と呼ばれるに相応しい博識と業績を残した。

 しかし、彼はやはり「画家」というのが一番相応しい肩書なのかもしれない。それは彼自身が書き遺した『手稿』(岩波文庫版「レオナルド・ダ・ヴィンチ」)によって明確に記されている。
 
 彼によれば、“画家は、自然を師としなければならず”、“画家とは、万能でなければならない”という。
 この2つのフレーズは、レオナルド・ダ・ヴィンチを語る上で極めて重要な「キーワード」といえる。
 つまり、優れた画家となるためのさまざまな学問研究や業績が、結果として彼を“万能の天才”へ導いたことになる。

 さらに『眼は魂の窓』であると彼は言う。そして『絵画はそれに属する精妙なる思索によって、あらゆる人間の仕事に勝る』と加える。つまり彼は、人間が為しうる最高の価値を、ひたすら「絵画」に見出そうとしていた。レオナルドにとっての「芸術」いや「人間の所為」は、何はともあれ、まずは「絵画」にありということになる。

 彼が身につけた自然の観察力や洞察力、そして画家としてのイマジネーションやクリエイティビティの素晴らしさは、残された作品やスケッチ、書簡、手記等の随所に表現されている。その究極の実証こそ『モナ・リザ』であり、『最後の晩餐』といえるだろう。

 そしてこの『最後の晩餐』のダイナミックな画面構成や宗教的画想の深さを知れば知るほど、ルネッサンス期最大の芸術家と言われた彼の存在が、いっそうその重みを増していく。

 一度は、この壁画を擁するイタリア・ミラノの「サンタ・マリア・デッレ・グラーツェ教会」の付属修道院を訪ねたいものだ。


 

・Less is more.

2009年05月17日 20時57分43秒 | ■芸術・建築の巨匠たち
 

 “Less is more.”

 建築を勉強した人なら、一度は耳にした“言葉”ではないだろうか。フランク・ロイド・ライトやル・コルヴィジェとともに、建築界における《世界的な三大巨匠》と称されたルードヴィッヒ・ミース・ファンデル・ローエによる有名な一節。
 
 “少ないほど豊か”と訳される。一語一語の響きも、各語の繋がりも申し分ない。何度も舌の上に転がしてみるとよくわかる。ふだん英語を口にしなくとも、言葉が一気に流れていく。“レス・イズ・モア”ではなく、“レシスモゥ”と。

 しかし、職人上がりの寡黙なミースであれば、“レシスモゥ”とは言わなかったのかもしれない。国籍こそアメリカ人だが、ミースはドイツ生まれのドイツ育ち。
 しかも哲学をこよなく愛したという。そうであれば、やはりここは一語一語区切るように、“レス・イズ・モア”と発音した方が似合いそうだ。彼自身のデザインになる例の「バルセロナ・チェア」に身体を預け、紫煙をくゆらせながら、ゆっくりと諭すような感じがいいのかもしれない。
 
 本来、この言葉は建築において、『もっとも単純な手法で最大の効果を得る』という趣旨で使われたという。「鉄」と「ガラス」という、今でこそ何でもない素材をふんだんに使い、材料面、構造面、そして空間構成面において、まさしく《近代建築の巨匠》となりえたミース。広い開口部のガラスの窓を多用した「ファンズワース邸」は、素材数や形において、これ以上のものは考えられないほどシンプルであり、“ミース美学”の一つの到達を示している。

 つまり、“Less is more.”とは、「シンプリシティ(簡素、純真)」の究極を、文字通りシンプルに言い切った表現とみることもできるだろう。

 “Less is more.”……“少ないほど豊か”。

 日本語に置き換えてみても、この“言い回し”は完璧といえるほどまとまっている。そのため、ついさまざまな場面で使いたくなる。

 『……さあさあ、机の上は何もないほどすっきり片付いている方がいいですね。ほらほら、余計なものはさっさと片付けて……。 Less is more!』

 『ああ、部長。朝からそんな説教めいた話なんて、どうせ誰も……でしょうから、ぐ~んと短く……。ほんとにひとことですよ……。less is more!』

 『あっ! 奥様! そんなに大量の装身具はいかがなものかと。少ないほどかえって引き立つということも。ほら、ご覧なさい! あそこのご婦人を。いいですね。さりげない小さなイヤリング一つだけというのも……。 Less is more!』
  
 『 MONEY? Less is …ah……more…? OH! NO! Less is POOR!』