歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

再訪金沙遺址(遺跡)博物館―成都雑感〔156〕―

2015年09月24日 14時57分31秒 | 観光(成都)

2015年9月20日(日)、金沙遺址博物館を再訪したので、その時の写真をお見せします。本博物館は2007年4月16日(月)に開館したものです。その際の紹介記事は「金沙遺址(遺跡)博物館オープン―成都雑感〔39〕―」(『歴史と中国』2007年4月19日付)です。

金沙遺跡は、2001年2月8日、住宅開発に伴う下水道工事中に、発見されたものです。中国における21世紀最初の考古学的大発見です。その後の発掘調査により、基本確認部分でも5平方キロに及ぶ大型遺跡です。ここからはすでに金器200余点・青銅器1200余点・玉器2000余点・石器1000余点・漆木器10余点の5000点あまりと、陶器数万点・象牙1トン・動物骨片数千点が発掘されました。これらの調査などにより、ここは、BC1700~1200年(夏晩期~商後期)の三星堆文化の後、BC1200~500年(商後期~春秋)の十二橋文化(現在は十二橋・金沙文化と改称されました)の代表遺跡と解明されたのです。以上により、2006年に中国重点文物保護単位(特別史跡に相当)に指定されました。すなわち、三星堆遺跡と並んで、四川省における古蜀文化(長江文明)を体現する遺跡なのです。いにしえの古蜀王国の跡といえます。この遺跡の中核的なところに博物館が建設され、保護された遺跡と出土品を眼前にすることが出来るようになったのです。

本博物館は敷地面積30万㎡・延総建築面積3.5万㎡で、遺迹館・陳列館・文物保護中心(センター)の主要な三つの建物からなっています。遺迹館は、大型祭祀遺構上にドームを覆って、保護・見学出来るようにした施設です。陳列館は、ここから出土した遺物を中心に、展示した施設で、見学の中心といえるものです。文物保護中心は、研究施設であるとともに、ここで実演・体験などを行う施設です。以上3館の見学はその順にしたがって行うのがいいでしょう。まずこの目で遺跡自体を確かめ、この出土品をじっくり鑑賞し、最後に往事を体験するのです。

本博物館の開館時間は8~18時で、入場料は80元です。成都中心の天府広場から西北西に約5㎞の、二環路と三環路の中間の青羊大道西側に位置します。見学の便のいい東大門(ここから西に約100mが遺迹館)の最寄りバス停は金沙遺址東門站(旧青羊大道北站)で、ここには数路線(5・84・100・111・123・147・805・1043路)のバスが停まりますが、利便性のあるのは5路(十陵公文站~金沙遺址路)です。本路線は人民公園・通惠門・中医附院站でそれぞれ地下鉄2号線と接続しています。それに東大門に東面している同盛路を約100mあまり行った青羊大道口站(82・83・163路)に停まる82路(成仁公文站~茶店子公文站)は、杜甫草堂・青羊宮・武侯祠・新南門站を経由しますから、市内観光には利便性のある路線です。なお、現在建設中の環状線の地下鉄7号線が開通(2017年末)すると、東大門前に新駅が出来ます。

以下、展示物の主なものをお見せします。機材はペンタックスK-3、ペンタックスDA17-70F4です。まず一展庁(第1展示室)「遠古家園」からです。入ると往事の古蜀人の生活場面のパノラマが展示されています。そして、展示品は動物骨格(馬・豚・犬・鹿・虎・猪・象・魚など)・陶片などです。写真1は、鱘魚骨・魚鰓蓋骨です。

次いで二展庁(第2展示室)「王国剪影」です。入ると左の壁側に往事の建物が復元された居住パノラマがあります。その先に、生活用具の出土品が展示されており、逆に右壁側には大型建築遺跡の縮小模型と出土建築木材が展示されています。さらに進むと、左側に冶鋳として金器・銅器の出土品が、次いで制玉として玉器・玉石が展示されています。写真2は、ここの「刻劃同心円円紋的玉璋」で、直径16.9cm・孔径6.2cmで、7重の同心円の刻みがあります。

写真3は、その隣の「掏雕玉環飾」です。

制玉の反対側の右側には、早期・中期・晩期と分けて、大量の陶器が展示されています。この展示室の最後が墓葬です。単人墓や複人墓がここにそのまま切り取られて展示してあります。

エスカレーターで1階に下ると、三展庁(第3展示室)「天地不絶」です。入ってすぐ目に入るのが単独で展示されている写真4の「青銅立人像」です。高19.6cm(人像部14.6cm)で、三星堆遺跡出土の「青銅大人像」と相似しており、この影響を受けたものと考えられます。本遺跡出土の青銅器を代表する逸品です。

そして進むと、象牙群が保護液の入った水槽内に2mはあるのかという巨大なのを含み展示されています。次いで、中央に石器類、左に金・銅器・石器などの雑類、右に玉器類が展示されています。石器類には中国最古の打楽器といわれる石磬などが含まれています。雑類には、喇叭形金器・三角形金器・跪坐石人像などの逸品が含まれております。写真5は、「石蛇」です。長17cm、高5.4cmです。

写真6は、「銅虎」です。長26.5cm、幅6.2cmです。

写真7は、「蛇形金器」です。

玉器類には玉璋・玉などの各種の玉器ごとにまとめて展示されています。暗い中に照明に浮かぶ多数の玉器は美しいものがあります。石器類の奧には遺跡組として祭祀品類が展示されています。順路は石器類・玉器類・遺跡組・雑類となり出口となります。

最後が四展庁(第4展示室)「千年絶唱」です。陳列館のハイライトです。すなわち本遺跡出土品の粋が集められた展示室というわけです。展示室の中央に、本遺跡出土品の白眉、太陽神鳥金箔が鎮座しており、その四囲に4か所に分けて出土品を展示しています。右手前のブースには、緑松石珠・玉環(2個)・有領玉璧(2枚)・玉鑿(2本)・玉鉞・・陽刻昆虫紋玉牌・玉海貝形佩飾(3個)が、右奧のブースには、帯柄有領銅璧・人形銅器(2体)・銅面具・鳥首魚紋金帯・鏤空喇叭形金器(2個)が、左奧のブースには、石虎・跪坐石人像・四節玉・十節玉・獣面紋玉鉞・玉鉞が、左手前のブースには、玉璋・肩扛象牙人形紋玉璋・玉圭・玉戈(3本)が、それぞれ右から順に展示されています。

写真8は、「銅人像」です。高4.5cmの銅人頭像は帯柄有領銅璧の上にあります。

 

写真9は、「鳥首魚紋金帯」です。上が長21.6cm・幅2.03cm・厚0.22cm、下が長21.9cm・幅2.03cm・厚0.22cmで、鳥のように嘴の長い左右対称の鳥首魚紋の線刻が表面にあります。なお、本ブースでは開館当時には金冠帯が展示されていました(隣の銅面具は金面具でした)。このように、本展示室の展示品は一部入れ替えがあります。

写真10は、下の「鏤空喇叭形金器」です。直径11.6cm・高4.8cm・厚0.22cm・重量51gです。

写真11は、「石虎」です。高19.8cm・長28.4cm・幅8.4cmです。天然の蛇紋石化橄欖岩を使用しています。

写真12は、「十節玉」です。高22.2cm・幅6.9cm・孔径5.1~5.6cmの青玉です。各角には唇が設けられてこの少し上部左右に円形の眼が刻されています。すなわち角は人面を模しています。右にこれを図示しています。

写真13は、「獣面紋玉鉞」です。長22.4cm・幅11.4cm・厚0.21~1.71cmです。上部に獣面紋が八字形で刻されています。右にこれを図示しています。

最後の写真14は、展示室の中央にある「太陽神鳥金箔」です。2001年2月25日に発掘され、外径12.5cm・内径5.29cm・厚さ0.02cm・重量20gです。現在、成都市の市微になっている本遺跡のシンボル的出土品です。

なお、古蜀文化の代表遺跡である三星堆遺跡に関しては、「三星堆博物館―四川雑感〔11〕―」(『歴史と中国』2009年12月30日付)を御覧ください。また、フォトアルバム「成都・再訪金沙遺址(遺跡)博物館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkjaAnB_G__8WFGxgです。

(2015.09.24)


源義経は名将か?否〔改訂〕(その5)―歴史雑感〔20〕―

2015年09月05日 09時01分15秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、はじめに

(その2)二、瀬田・宇治合戦

(その3)三、福原合戦〈1〉作戦目的

(その4)四、福原合戦〈2〉『玉葉』による福原合戦

(その5)五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦

(その6)六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦

 (その7)七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置


五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦

『吾妻鏡』・『平家物語』諸本、とりわけ『延慶本平家物語』により福原合戦の前段階にあたる三草山合戦への経過を見てみましょう。

1月29日、源範頼・義経の両将は後白河院のもとに参上し、次いで出陣しました。生田森(兵庫県神戸市中央区中山手通辺)を目指す大手軍は大将軍が範頼で5万6千騎、一谷(兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町辺)を目指す搦手軍は大将軍が義経で1万騎(『吾妻鏡』では2万騎)です。これに対して、平家軍は、東に生田森、西に一谷に木戸口を構え、海から山際にかけて防御施設を構築しました。平宗盛を総帥に福原(兵庫県神戸市兵庫区)を中心に東西約10km余りに10万騎(『吾妻鏡』では数万騎)を配しました。

大手軍は、2月4日に出京し、5日には摂津の武庫川東岸の昆陽野(兵庫県伊丹市昆陽辺で、生田森まで約20㎞)に布陣しました。一方、搦手軍は同日に出立し、丹波路(山陰道)から、三草山(兵庫県加東市山口辺)の東口の小野原(京都府篠山市小野原)に、2日の日程を1日で同夜に到達しました。

もちろん、ここに示した両軍の兵数は実数ではなく誇大化されたものといってよいでしょう。しかし、全体的傾向は表していると考えます。すなわち、第1に、源氏軍総数6万6千騎対平家軍10万騎ということは、必ずしも源氏軍が優勢ではなかったことです。むしろ平家軍が優勢であったといってよいでしょう。第2に、範頼軍と義経軍の兵数比を考えると、約5対1弱となり、源氏軍の圧倒的多数が大手軍に所属することです。大手軍が主攻で、搦手軍が助攻であることは明白です。

搦手軍は山中を長距離行軍しなければなりませんから、機動力に富まなければなりませんので、当然ながらその軍装は大手軍に比してより軽装であるでしょう。それらのことから考えられる源氏軍の戦術は、大手軍をもって生田森の平家軍防禦線の突破を図り、搦手軍は長躯機動して、平家軍の西国への連絡口である一谷を遮断封鎖すると、いったものと考えることができます。あくまでも大手軍が平家軍を破砕する、正面突破策です。しかし、この戦術では敵の最大抵抗線を攻めることとなり、平家軍のほうが多数という状況を考えると、その成功は困難なことと考えることができます。そこから、「鵯越」が勝利に決定的役割を果たしたとの評価が生まれるのです。この点に関しては後であらためて考察します。

平家軍は義経軍の丹波路への機動を知り、平資盛・有盛・師盛・忠房と、都落ち後に別行動を取って、平家本軍から離脱した維盛を除く小松家兄弟の全力を投入して、7千騎を派遣し三草山西口に防衛線を張ります。これを知った義経は、3里の山中を夜間行軍して、丑刻(2時)に夜襲をかけて、5日未明に平家軍を敗走させました。主将の資盛は福原に戻らずに、海を渡って淡路国へと逃れます(語り本系の『平家物語』覚一本では、高砂から海を渡り讃岐国屋島に逃れたとなっています)。いずれにしても、資盛は三草山から加古川に沿って海岸に逃れたことになります。一方、弟師盛は福原に戻り敗退を告げます。これが一谷の前哨戦の三草山合戦です。見事な夜襲の成功です。但し、『平家物語』諸本では夜襲にあたって、この進撃のために、東国武士の進言により、民居に放火して「大だい松」と称して道を照らしたとありますが、これでは奇襲にはならず、物語の虚構と考えます。

夜襲が成功するためには、味方の連繋とともに、進撃順路の正確さが欠かせません。正確な地図のない時代ですから、このためには現地の地理に精通した者の存在が不可欠です。この点、義経以下の東国武士には土地勘はありませんから落第です。一般に源氏軍=東国武士と考えられてきましたが、実はその過半は畿内を中心とした近国の武士たちです(元木泰雄氏「頼朝軍の上洛」『中世公武権力の構造と展開』2001年吉川弘文館参照)。同氏は、『玉葉』で述べる源氏軍の大江山在陣は摂津源氏の多田行綱との合流のためと、考察しています。この点は私も賛成します。したがって、義経軍に摂津の土地勘を持った武士がいたのは当然なことで、これが夜襲の成功の前提条件になります。『吾妻鏡』や『平家物語』は夜襲が東国武士の田代信綱・土肥実平の献策と記しています。しかし、真の献策者は畿内武士と考えるのが至当ではないでしょうか。それにしても、これを実行して成功させた義経には将才があったことになります。

さらにいうならば、この義経軍の一谷への進出は丹波から摂津へかけての交通路に精通していなければ実行しえないものです。同時にこの行軍はスピードを要求されますから、行路における協力者も必要でしょう。現地でこれらを得ることは保証されているわけではないのです。したがって、本作戦は東国武士だけで実行できるものではなく、畿内武士とりわけ摂津武士の参画なくして実行できないといえます。すなわち、源氏軍の本作戦には摂津武士が参画していたと考えるのです。

(2015.09.05)