歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

山木夜討ち(その三)―歴史雑感〔37〕―

2017年10月24日 15時55分38秒 | 日本史(古代・中世)

(その一)一、『吾妻鏡』の語る山木夜討ち

(その二)二、『延慶本平家物語』の語る山木夜討ち

(その三)三、山木夜討ち

(その四)四、国衙占領

 

三、山木夜討ち

『吾妻鏡』『延慶本平家物語』の語る山木夜討ちは、①と㋑、③と㋺、⑦と㋭、⑨・⑩と㋭・㋬、⑪と㋣、⑫と㋠が細部は異なりますが、対応しています。従って、基本的な経過に関しては両書とも同じです。すなわち、両書の語る経緯は簡潔にいうと、遅延した佐々木兄弟が到着したので、予定通りに8月17日に山木夜討ちと決定して、出陣します。まず、山木兼隆の与党を討つため佐々木兄弟を分派して、これを討取ります。同時に北条父子等の主力が山木館を攻撃しますが、攻めあぐねます。夜討ち成功の火の手が上がらないので、賴朝は身辺警護の武士全力を急派し、ようやく兼隆を討取る、ということです。

最初に山木夜討ちの襲撃路を考えます。これは『吾妻鏡』の示すところです。まず北条館を出た襲撃勢は狩野川を東に越えて、道を牛鍬大道(国府から修善寺へと延びる街道。現国道136号線)を北上して、「蕀木」すなわち原木(静岡県伊豆の国市原木)を経て、「肥田腹」(同市肥田)に至ります。ここで北条時政の策で、佐々木兄弟は山木兼隆与党、主力は山木館襲撃と任務分担して、ともに大道を離れて南東に向かい、山木館前に至ります。この間の経路は記していませんが、まず東に長崎(同市長崎)に至り、ここで南下して多田(同市多田)を経て至ったと推定されます。とするとこの経路の距離は約7kmとなり、夜討ち勢は徒歩の従者を連れていますから、時速約4kmで行軍したとして、約2時間弱の時間がかかり、戌刻(20時)に兼隆雑色を捕え、これにより賴朝が攻撃を決意して出撃となり、佐々木兄弟が戦端を切ったのが子刻(0時)、すなわち寝込みを襲う奇襲である以上、最初に賴朝が提案した最短路の蛭島通(約3km半)ではなく、上記の時政の提案した迂回路を取ることは、出撃準備時間も考えて時間的に適合しており、以上の経路推定に誤りはないでしょう。

次いで、山木夜討ちに頼朝方として参戦した兵力について考えてみましょう。『延慶本平家物語』には「馬上歩人トモナク卅余人、四十人計モヤ有ケム」とあります。ここで注目されるのは兵数を人で表記していることです。一般的にこの時期の兵数は戦力主力の弓騎兵の数、すなわち騎で表記しています。例えば、山木夜討ちに続く石橋山合戦では『吾妻鏡』は「三百騎」、『延慶本平家物語』では「三百余騎」といずれも兵数を騎で表記しています。この山木夜討ちの人表記は特異なものです。このことは参戦人数の少なさの反映ではないでしょうか。とすれば、軍記物語等の兵数は一般的に誇張されていますが、この兵数はかなり実態を表していると考えます。すなわち人数の最大限を表していると考えます。そこで、少しは誇張があるかもしれませんから、少ない方の数字である30人を採用することにします。騎馬武者には従者が数名付くのが基本です。この従者を1騎に付き1・2人とすれば、騎馬武者は最大で15騎、せいぜい10余騎といえます。

山木夜討ちに参戦したことが両史料のいずれかに見える武士は、北条時政・宗時・義時父子、佐々木定綱・経高・盛綱・高綱兄弟、加藤景廉、堀親家と北条氏雑色源藤太(次)です。山木夜討ちに最初に出撃した史料に見える武士は北条親子と佐々木3兄弟です。とすると、佐々木定綱・経高兄弟の2騎に少数でしょうが、若干の伊豆武士も加わっているでしょうから、北条氏は父子3騎を含めてもこれを大幅に上回ることなくせいぜい5騎を越える程度の勢しかなかったと推定出来ます。

ところで、『吾妻鏡』では、堤信遠攻撃の最初、佐々木経高が矢を放ったのを、「源家平氏を征する最前の矢」と、賴朝の反乱蜂起の口火と特記しています。これに加え、信遠を討取る佐々木兄弟の奮戦ぶりが記述されています。さらに、援軍として山木兼隆を討取った武士として加藤景廉とともに佐々木盛綱を挙げています。しかも、佐々木兄弟の遅延到着により、ようやく賴朝は反乱蹶起を決意するのです。すなわち、『吾妻鏡』では佐々木兄弟の奮戦が特記されているのです。これに対して、『延慶本平家物語』では、兼隆主従を討取ることの記述で、賴朝の命令で援軍として駆けつけた、加藤景廉が兼隆と一騎打ちをしていることを描写して、さらに討取ったとの報告に賴朝が喜ぶと、一貫して兼隆討取りの主役を景廉として、その活躍ぶりが際立っています。さらに、護衛としてただ一人残された景廉が元伊勢国住人であること等を特に述べています。このように『延慶本平家物語』では加藤景廉の活躍が特記されているのです。

佐々木兄弟は本来近江国武士でしたが、平治の乱により所領を失い、相模国の渋谷重国の下に寄住している浪人です。また、加藤父子は伊勢国が本貫でしたが、やはり国を追われて、『延慶本平家物語』にあるように、伊豆国有力在庁の工藤氏の下にいる、景廉父の景員は「婿」とはいえいわば浪人です。以上見ると、両史料では北条氏の活躍ぶりが見られないのに反して、この時点では確たる拠点を持たない浪人の佐々木・加藤氏の活躍ぶりが目を見張り、夜討ちの主力となっています。

以上見てきたように、山木夜討ちは佐々木兄弟等の浪人を戦力として頼らざるえないほど小戦力故に、深夜の夜襲という攻撃方法をとって成功させました。しかし、山木館の警備体制がしっかりとしていたなら、これは極めてリスクの高いことであったことはいうまでもないでしょう。ですから、三島大社祭礼で山木館の人々が減り、それだけ警備が弱くなる日を襲撃決行としたのです。そして、夜襲が成功したことはやはり警備体制に抜かりがあったことを示しているでしょう。すなわち、山木兼隆は頼朝をそれほど危険視していなかったことになります。

山木夜討ちの成功で伊豆国目代山木兼隆を討ち取りましたが、これだけで蹶起成功とはいえません。当然ながら、平家の知行国である伊豆国の中枢である国衙を制圧する必要があったはずです。そうでなければ簡単に反撃を許すことになり、結局蹶起は失敗に終わります。次はそれを述べたいと思います。

(2017.10.24)

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