歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その1)―歴史雑感〔26〕―

2016年05月10日 10時23分11秒 | 日本史(古代・中世)

一、『吾妻鏡』の語る逃走経路

1180年(治承4)8月23日黄昏に開始されて、翌24日午前には勝敗が付いた石橋山合戦で、頼朝軍の武士は敗走していきました。頼朝は自ら弓を射て戦いますが、矢が尽きて山に逃げ込みます。一方、北条時政父子は、『吾妻鏡』同二十四日条に、

北条殿父子三人、また景親等と、攻戦せしめ給うによりて、筋力しばし疲れるや、峯嶺を登るにあたわずの間、武衞に従い奉らず。

と、頼朝に追従出来ませんでした。

次いで、

北条殿、同四郎主等は筥根湯坂を経て、甲斐国に赴かんと欲す。同三郎は土肥山より桑原に降り、平井郷を経るの処、早河辺において、祐親法師軍兵に囲まれて、小平井名主紀六久重のため、射取られおわんぬ。

とあるように、時政・義時父子は戦場から逃れて、「筥根湯坂」を経て、甲斐国を目指そうとしました。一方、義時兄宗時は父時政とは別行動を取り、早河辺、すなわち現在の神奈川県小田原市早川で、追撃してきた伊東祐親軍の紀六久重によって討ち取られます。

そして、

晩におよび、北条殿椙山陣に参着し給う。

と、敗走中の時政は夜に石橋山後方の椙山の頼朝の所に至ります。これ以前、

筥根山別当行実、弟僧永実を差し、御駄餉を持たしめ、武衞を尋ね奉る。しかしてまず北条殿に遇い奉る。

と、箱根山別当行実の弟永実と遇い、共に頼朝の下に行きます。ここに時政は頼朝と再会したことになります。その後、頼朝は箱根山別当行実の支援により箱根山(箱根神社)に隠れます。

しかし、翌25日、親平家の行実弟良暹に危険を感じ、『吾妻鏡』同日条に、

山案内の者を召し具し、実平ならびに永実等筥根通りを経て土肥郷に赴き給う。北条殿は事の由を源氏等に達せんがため、甲斐国に向かわられる。行実同宿南光房を差してこれを送り奉る。くだんの僧を相伴い、山臥の巡路を経て、甲州に赴き給う。しかして武衛到着の所を見定めずば、源氏等を催し具さんと欲すといえども、彼もって許容せずか。しからばなお御後を追って参上せしめ、御居所より、さらに御使として、顔向すべきの由、心中思案せしむ。立ち還ってまた土肥方を尋ね給う。

とあるように、頼朝は箱根山を去り土肥実平等と共に土肥郷に潜伏しようとします。一方、時政は石橋山合戦の子細を伝えるため、山伏の道を経て甲斐源氏のいる甲斐国に赴こうとします。もちろん、これは甲斐源氏に応援を頼むためでしょう。しかし、頼朝の土肥郷到着の無事を確認しなくては説得力がないとして、戻って土肥郷を目指します。

そして、『吾妻鏡』二十七日条に、

北条殿、同四郎主、岡崎四郎義実、近藤七国平等、土肥郷岩浦より船に乗らせしめ、また房州を指し纜を解く。しかして海上において舟船を並べ、三浦の輩と相逢い、たがいに心事伊鬱を述ぶとうんぬん。

とあり、時政・義時父子は岡崎義実等と共に土肥郷から相模湾に船で乗り出し、安房国を目指します。そして、海上で三浦半島から逃れ出た三浦一族と会合します。

一方、頼朝は実平と共に、28日、土肥郷真鶴岬から船に乗り安房国を目指します。『吾妻鏡』二十九日条に、

武衛実平を相具し、扁船に棹さし、安房国平北郡獵嶋に着かせしめ給う。北条殿以下人々これを拜迎す。数日欝念、一時散開すとうんぬん。

とあるように、頼朝は安房国に到着し、時政等と再会します。安房国に逃れた頼朝は味方を募るべく、各地の武士に書状を送る一方、安達盛長を使者として下総国の千葉常胤に派遣し参加を求めます。

そして、『吾妻鏡』九月八日条に、

北条殿使節として、甲斐国に進発し給う。かの国源氏等を相伴い、信濃国に到り、帰伏の輩は、はやこれを相具し、驕奢の族に至りては、誅戮を加うべきの旨、厳命を含むによりてなり。

とあるように、時政は甲斐源氏を味方にするため、使者として派遣されます。

次いで、『吾妻鏡』十五日条に、

武田太郎信義、一条次郎忠頼已下、信濃国中の凶徒を討ち得て、去夜甲斐国に帰り、逸見山に宿す。しかして今日北条殿その所に到着し給い、仰せの趣を客等に示されるとうんぬん。

とあるように、信濃国伊那谷に出陣して凱旋の勝利で甲斐国逸見に戻った武田信義に時政は会見して頼朝の意を伝えました。

上総国の豪族上総広胤の参加を得て、房総半島を席巻した頼朝は、20日、土屋宗遠を使者として甲斐源氏の元に派遣します。そして、『吾妻鏡』二十四日条に、

北条殿ならびに甲斐国源氏等、逸見山を去り、石禾御厨に来たり宿すのところ、今日子尅、宗遠馳せ着き、仰せの旨を伝う。よりて武田太郎信義、一条二郎忠頼已下群集し、駿河国に参会すべきの由、おのおの評議を凝らしうんぬん。

とあるように、使者土屋宗遠が24日に甲斐源氏の下に到着して、頼朝の意を伝え、これにもとづき駿河国進出の軍議を開きます。当然ながら、この席には時政も参席しています。

以上、『吾妻鏡』の伝える石橋山敗戦後の北条時政の行動は、要約すると、まず戦場から北に逃走して、その後、西の椙山に逃走した源頼朝と再会して、その命で甲斐国に赴こうとしましたが、土肥郷に下り頼朝とは別個に乗船して、安房国でまた再会し、そして、頼朝の命で甲斐源氏を味方に募るため、甲斐国に赴き、甲斐源氏棟梁武田信義に面会した、ということです。

(2016.04.10)

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しとどの窟―歴史雑感〔25〕―

2016年04月22日 19時14分30秒 | 日本史(古代・中世)

016年4月20日(水)午後、しとどの窟に行ってきました。最寄りのバス停は湯河原駅・元箱根間の「しとどの窟」です。日に数本しか運行されていないので、事前に時刻表を確認すべきです(奥湯河原温泉までは約7kmの山道です)。停留所横には駐車場もあります。舗装された平坦な林道を進み、トンネルをくぐり出ます。ここまで約200mです。林道から離れて右に下る道があります。約400m下ると窟の前となります。谷の奥まったところがしとどの窟です。

しとどの窟は1180(治承4)年8月23・24日の石橋山合戦に敗れた源頼朝が隠れた場所として伝承されたところで、「土肥椙山巌窟」として神奈川県史跡文化財の指定を受けています。写真1は、窟正面から見た内部です。中央には上の岸壁から水が滴り降りて小さな滝となり、下へと谷川を作ります。また、ご覧のように内部には観音像などの石造物が多数安置されています。立像および坐像が61体あり、過半が無銘ですが、幕末から大正期の銘入りもあり、庶民の観音信仰を知る貴重な資料であるとともに、この窟が観音信仰の聖地であることを示しています。

写真2は、内奥から外へと撮ったものです。外側は開いていますが、関東大震災で入口が崩壊して現在の形状になりました。ですから、以前はより奥まった窟の形状となります。


最後の写真3は、窟の案内板の設置された平地からの全景です。

 

『吾妻鏡』治承四年八月二十四日条では、頼朝が二寸観音像を巌窟に隠し安置したと記述していますが、その後、椙山陣にいたとしており、自身が巌窟に潜んだとは記していません。また、『延慶本平家物語』第二末・十三石橋山合戦事では次のように記述しています。敗走した頼朝は椙山に入り、山の峰の臥木に腰掛けていたところ、敗走してきた味方武士が集まってきましたが、人数が多くては追撃してくる大庭軍に見つかるから、各自で逃げよと指示したので、各武士は落ちて行きました。北条時政父子は甲斐国へと向かいます。そして、頼朝と行動を共にした武士は土肥二郎実平、同子息弥太郎遠平、甥新開荒二郎実重、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実と実平小舎人の七郎丸の6人で、頼朝を合わせて7人でした。宗遠は実平弟、義実は実平妹婿と、以上の六人は石橋山から西南に位置する土肥郷を本貫とする実平の近親者たちです。地元の地理に精通した実平が気心の知れた少数の近親者で頼朝を守ろうとしているのは肯けるところです(『源平盛衰記』では七郎丸ではなく伊豆流人時代からの側近の安達盛長を6人に含めていますが、『延慶本平家物語』方がふさわしいでしょう)。

以上、両書を見る限り、頼朝が巌窟に隠れたといえず、土肥郷近辺の箱根外輪山中に潜んだといえます。従って、しとどの窟は谷の最奥にあり見つけがたいですが、一度発見されれば、背後は岸壁で逃げ場がなく、この点でふさわしくありませんから、しとどの窟の伝承は頼朝が観音像を巌窟に隠し安置したことから生まれたもので、事実ではないでしょう。『吾妻鏡』の記載からここが観音信仰の聖地となったとすれば、十分に肯けるものです。

(2016.04.22)

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綱島公園の桜

2016年04月02日 18時56分31秒 | 観光(日本)

2016年4月1日(金)午前、7分咲き位で満開には少し早く、曇天でしたが、土日は混むと思い、綱島公園に桜を見に行きました。この折の写真をお見せします。

なお、フォトグラフ「綱島公園の桜」はhttps://onedrive.live.com/redir?resid=67AC4E09F9CD86BB!34885&authkey=!AFSqAOGBNJms6KA&ithint=folder%2cjpgです。

(2016.04.01)

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綱島古墳―歴史雑感〔24〕―

2016年03月28日 15時03分16秒 | 日本史(古代・中世)

東急東横線綱島駅の北に位置する綱島公園には古墳が現存します。綱島古墳(横浜市指定史跡)です。径約20m・高約3mの円墳で、1989年の発掘調査による出土遺物(鉄刀・円筒埴輪など)から、5世紀後半から末葉に造られたと推定されました。

写真1は、案内板のある西側から見たものです。古墳は公園の東側のあり、綱島丘陵では最高標高地に位置します。往事は南に鶴見川、北に日吉丘陵が遠望されたでしょう。

写真2は、南側から見たもので、手前は小広場となっていますが、これは発掘調査以前に整備されたものです。

写真3は、北側からのもので、ご覧のように円筒埴輪のレプリカが置かれていますが、右側のは破壊されて残っていません。

最後の写真4は、西側に戻り全景を広くとらえたものです。

なお、2016年3月26日(土)の撮影です。

(2016.03.28)

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大倉山公園の梅花

2016年03月03日 09時34分28秒 | 観光(日本)

盛りは過ぎましたが、青空の澄み渡る2016年3月1日〔火〕午前、大倉山公園に梅花を撮影に行きました。そこで、そこの代表的な梅花をお見せします。

〔白加賀〕

〔見驚〕

〔八重寒梅〕

〔玉簾〕

〔宝鶏〕

〔一冬至梅〕

〔鹿児島紅〕

〔長寿〕

〔三吉野〕

なお、フォトアルバム「大倉山公園の梅花」はhttp://1drv.ms/1oQrs3Lです。

(2016.03.03)

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山形蔵王の樹氷

2016年02月27日 19時20分30秒 | 日本史(近世・近代)

2016年2月24日(火)午後、山形蔵王を訪れました。そこで、その写真をお目にかけます。

〔ロープウェー山麓線〕

〔ロープウェー山頂線〕

〔ロープウェー山頂線〕

〔蔵王地蔵尊〕

〔ロープウェー山頂駅〕

〔ロープウェー山頂線〕

〔ロープウェー山頂線〕

〔ロープウェー山頂線〕

〔ロープウェー樹氷高原駅〕

〔ロープウェー山麓線〕

なお、フォトアルバム「蔵王の樹氷」はhttp://1drv.ms/1oJzBr8です。

(2016.02.27)

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宮城蔵王の樹氷

2016年02月26日 18時19分29秒 | 観光(日本)

2016年2月24日(水)午前、宮城蔵王を訪れました。14日の全国的な暖かさの雨で樹氷は消えてしまい、その後の雨で再び消滅しましたが、数日来の雪模様で初期状態の樹氷が見られることになりました。そこで、この写真をお見せします。

(2016.02.26)

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松島の五大堂

2016年02月25日 15時43分10秒 | 観光(日本)

宮城県に行った折の2016年2月22日(火)に松島を訪れました。ここでその五大堂を紹介します。伝承によると、807(大同2)年、坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、毘沙門堂を建立し、828(天長5)年、円仁(慈覚大師)が延福寺(瑞巌寺の前身)を創建した際に仏堂を建立し、大聖不動明王を中央に東方降三世明王・西方大威徳明王・南方軍荼利明王・北方金剛夜叉明王の五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになりました。この五大明王は秘仏として33年に一度開帳されます(次回は2037年)。現在の建物は、1604(慶長9)年、伊達政宗が建立したもので、三間四方(22.68尺=6.87m)の宝形造で、四方に勾欄付きの縁を巡らし、正面に向拝がついている瓦葺きの建物です。本堂は国重要文化財に指定されています。なお五大明王像は中にある家形厨子に安置されています。

写真1は、松島湾に面した正面からの五大堂全景です。右端に写っている赤橋は本堂のあるところは島なので、陸とを結ぶ橋(すかし橋)です。

写真2は、五大堂正面に掲げられている額(揮毫は瑞巌寺105世天嶺)ですが、ご覧のように「五太堂」となっており、これは筆の運びといわれています。

最後の写真3は、堂四面の蟇股にはその方位に対して十二支の彫刻を配していますが、正面左側のものです。ご覧のように「未」、すなわち羊です。

(2016.02.25)

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冬の久保田城―歴史雑感〔23〕―

2016年01月24日 14時39分54秒 | 日本史(近世・近代)

関ヶ原合戦により、常陸国水戸城より出羽国へ減転封された佐竹義宣は、1603年(慶長8)5月、旭川に東面する談聖海肪枉襪鬚呂犬瓠⇒眷8月に完成させます。これが久保田城(秋田城)です。平山城で、東南角に大手門があり、基本的に三の丸・二の丸・本丸・北の丸・西曲輪から構成されて、二の丸・本丸は千秋公園として市民の憩いの場となっています。2016年1月21日(木)、秋田市に寄ったおり、本城を訪れました。そこで、雪で覆われた久保田城の写真を少しばかり紹介します。

写真1は、大手門跡近くから西へ見た大手堀です。奥に見える中土橋橋跡を渡り北進すると、内堀にかかる唐金橋跡を過ぎ、右に緩い坂を上り松下門跡から二の丸に入ります。

写真2は、本丸の東側に位置する二の丸から緩い長坂を上ったところにある長坂門(二ノ門)跡です。奥に見えるのは表門です。写真に見えますが、本城は、土塁の押さえとしての石垣以外、この築城時代には一般化した防御施設としての石垣がないのが特徴です。それに天守閣も設けられていませんでした。

 

写真3は、その復元された表門(一ノ門)で、門前の右横には御物頭御番所(唯一現存する建物)があります。

写真4は、本丸です。中央奥にあるのが最後の藩主第14代佐竹義堯銅像です。

最後の写真5は、は、本丸北土塁にある帯曲輪門跡です。帯曲輪は本丸の北から西・南側にかけて巻いて設けられています。

なお、フォトアルバム「冬の久保田城」はhttps://onedrive.live.com/redir?resid=67AC4E09F9CD86BB!34777&authkey=!ANxtmk9BfUr0gYc&ithint=folder%2cjpgです。

(2016.01.24)

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鶴岡八幡宮初詣

2016年01月01日 19時04分01秒 | 

日本中世史、とりわけ鎌倉期政治経済史を研究分野としている私にとって、鶴岡八幡宮は欠くことの出来ない地です。そこで、初詣の地として数十年ぶりに訪れました。当神社は著名地なので説明は加えず、その際の写真のみをお載せします。

(2016.01.01)

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2015年度記事目次

2015年12月31日 16時49分54秒 | 記事目次

乙未年を終わるに当たって、2015年度(1〜12月)記事目次を掲載します。なお、前回までは「『歴史と中国』http://kanazawa45.wordpress.com/記事目次(上)」(2011年10月21日付)、「『歴史と中国』http://kanazawa45.wordpress.com/記事目次(下)」(2011年10月21日付)、「『歴史と中国』2010年度記事目次」(2011年10月22日付)、「2011年度記事目次」(2011年12月31日付)、「2012年度記事目次」(2012年12月31日付)、「2013年度記事目次」(2013年12月31日付)、「2014年度記事目次」(2014年12月31日付)です。

では、丙申年がよいお年で。


01.01 大綱橋からの元旦富士

01.30 茅ヶ崎城址―歴史雑感〔17〕―

02.03 「中国人の日本語作文コンクール」支援へ

02.27 大内宿の高倉神社―歴史雑感〔18〕―

03.03 大倉山公園の梅

03.24 石橋山合戦(その5)―歴史雑感〔15〕―

五、源頼朝軍の参軍者の合戦後

04.01 三ツ池公園の桜

05.05 西安交通大学日語系創立30周年記念祝典

05.08 黄河壺口瀑布―中国雑感〔18〕―

06.10 飯田家住宅―歴史雑感〔19〕―

06.29 黒部峡谷トロッコ列車

07.15 源義経は名将か?否〔改訂〕(その1)―歴史雑感〔20〕―

07.25 源義経は名将か?否〔改訂〕(その2)―歴史雑感〔20〕―

08.05 源義経は名将か?否〔改訂〕(その3)―歴史雑感〔20〕―

08.21 源義経は名将か?否〔改訂〕(その4)―歴史雑感〔20〕―

09.05 源義経は名将か?否〔改訂〕(その5)―歴史雑感〔20〕―

09.24 再訪金沙遺址(遺跡)博物館―成都雑感〔156〕―

10.01 比企郡武蔵武士関係遺跡巡り―歴史雑感〔21〕―

10.04 在関東西安交通大学日本語学科卒業生の集い

10.20 源義経は名将か?否〔改訂〕(その6)―歴史雑感〔20〕―

11.10 源義経は名将か?否〔改訂〕(その7)―歴史雑感〔20〕―

11.23 〈『平戸記』人名総索引〉ファイルの頒布のお知らせ

11.26 修善寺の源氏関係歴史遺跡―歴史雑感〔22〕―

12.05 三ツ池公園の紅葉

12.10 2016年の中国の祝日―中国雑感〔19〕―

12.31 2015年度記事目次

(2015.12.31)

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2016年の中国の祝日―中国雑感〔19〕―

2015年12月10日 22時36分33秒 | 

明年の祝日(休日)に関して、本日(2014年12月10日)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2016年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。国務院の通知原文は次のページです。

http://www.gov.cn/zhengce/content/2015-12/10/content_10394.htm

 

また、カレンダー表示(「図解:国務院弁公庁関于2016年部分節假日安排的通知」)は、

 

http://www.gov.cn/xinwen/2015-12/10/content_5022494.htm

です。これによる明年の休日は次の通りで、これに基づいて、中国の公的機関は休日を実行します。民間もこれを基準に休日を組みます。つまり、明年の休日日程が定まったわけです。

一 元旦(1月1日)

1月1日(金)〜3日(日)を休日。

二 春節(旧暦元旦 2月8日) 法定休日(旧暦正月1日〜1月3日)

2月7日(日)〜13日(土)の7日間を休日。

2月6日(土)〔11日・木〕、14日(日)〔12日・金〕振替出勤日。

三 清明節(4月4日)

4月2日(土)〜4日(月)の3日間を休日。

四 労働節(5月1日)

4月30日(土)〜5月2日(月)の3日間を休日。

五 端午節(旧暦5月5日 6月9日)

6月9日(木)〜11日(土)の3日間を休日。

6月12日(日)〔10日・金〕振替出勤日。

六 中秋節(旧暦8月15日 9月15日)

9月15日(木)〜17日(土)の2日間を休日。

6月18日(日)〔16日・金〕振替出勤日。

七 国慶節(10月1日) 法定休日(10月1日〜3日)

10月1日(土)〜7日(金)の7日間休日。

10月8日(土)〔6日・木〕、9日(日)〔7日・金〕振替出勤日。

(2015.12.10)

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三ツ池公園の紅葉

2015年12月05日 14時44分37秒 | 観光(日本)

横浜市の県立三ツ池公園は桜名所百選の地として知られていますが、少ないながらも紅葉の樹も見られます。そこで、2015年12月4日(金)、晴天の日これを撮影に行きました。本園は例年より秋が暖かく、楓はまだ少し早かったですが、銀杏は散り始めでした。

なお、フォトアルバム「三ツ池公園の紅葉」はhttps://onedrive.live.com/redir?resid=67AC4E09F9CD86BB!21080&authkey=!AJsBvrfiPPz2WxM&ithint=folder%2cjpgです。

(2015.12.05)

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修善寺の源氏関係歴史遺跡―歴史雑感〔22〕―

2015年11月26日 21時28分19秒 | 日本史(古代・中世)

2015年11月24日(火)、修善寺温泉を訪れたので、ここの源氏関係遺跡を巡りました。そこで、これを紹介します。写真1は、修禅寺本堂です。紅葉期に入りかけたので、手前に紅葉を写し込んでいます。

修善寺から南に桂川を渡ったところが鎌倉幕府2代将軍源頼家墓です。1203(建仁3)年9月、頼家は比企氏の変(実体は舅北条時政クーデター)で将軍を追放されて、伊豆国修善寺に押し込められて、次いで翌年7月、暗殺されます。写真2が、墓正面です。中央の石碑は1704(元禄4)年の5百周忌に修善寺住職智船が建立した供養石碑です。その後方に2基の小五輪塔が残存して、これが墓とされています。

写真3は、後方から見た墓です。御覧のように五輪塔は地輪など一部が欠損しており、また上部のそれは五輪塔のものではなく、不完全なもので、後世の手が入っています。

頼家墓の西(右)の建物が写真4、指月殿です。頼家の冥福を祈り母北条政子が建立したと伝えるもので、伊豆最古の木造建築物といわれます。

修禅寺へと戻り、道を西へと上流に取り、約200m余に北(右)への小道の所に「源範頼墓」の案内標がありますから、この小道に入り上っていくと、西(左)の小路の所に「源範頼墓」の案内標がありますが、そのまま直進して急になる坂を上っていき、道路の下をくぐると、梅林への小路となります。ここを20mほど入ったところが、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の伊豆国流人時代からの側近であった、安達盛長墓です。約250mほどです。写真5は、宝篋印塔の盛長墓とされるものです。御覧のように相輪などを欠いており、塔身は石材が異なります。隅飾の張り出しが少ないことから南北朝期まで遡ることができる作と考えられます。なお、本墓は旧範頼墓の近傍にあったのが、現在地に移転されたものです。

写真6は、盛長墓の全体で、宝篋印塔の後方には何基かの宝篋印塔と思われる残存が置かれています。盛長は武蔵国の有力武士の足立氏の一族で、埼玉県鴻巣市糠田の放光寺に南北朝期作の伝安達盛長木像があり、同寺が館址との伝承を残しており、何故に縁がなさそうな修善寺の地に墓があるか不思議なところです。ですが、次ぎに行く、源範頼墓との関係からかと思われます。それは修善寺で誅されたとされる範頼の舅が盛長(盛長と頼朝乳母比企の尼長女とが婚姻して、その娘が範頼正室)という所縁からだと思えます。範頼の死後、この菩提を盛長が弔い、盛長死後に以上の縁から、盛長の分墓が当地に設けられたのかと考えます。

道を戻り、先の案内標の所で、小路へと西(右)に歩くと、道なりに約200m行って、少し高まったところが頼朝異母弟源範頼墓です。範頼は治承・寿永の内乱で「官軍」(平家討伐軍)の大将軍として九州の地まで遠征して、その勝利に貢献しました。三河守に任官して門葉源氏の一人として鎌倉幕府で主要な地位を占めましたが、1193(建久4)年8月、頼朝の嫌疑を受けて、伊豆国に追放となり、そこで誅されとされます。ただ、修善寺に追放され、ここで誅されたかは確かな史料はなく、また死去した地に関しても複数の伝承があり、その最後は確かではありません。写真7は、墓正面からで、五輪塔です。なお、本墓は昭和初期のバイパス工事で失われて、現在地に再建されたものです。なお、本墓は昭和初期のバイパス工事で失われて、現在地に再建されたものです。

写真8は、五輪塔を斜め左から見たものです。本塔は日本画家・安田鞆彦氏のデザインによる1932年の作です。

最後の写真9は、斜め後方から墓全体を見たものです。

(2015.11.26)

〔付記〕 富田氏のご教示により、若干の補正を行いました。記して感謝します(2015.11.27)。

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〈『平戸記』人名総索引〉ファイルの頒布のお知らせ

2015年11月23日 09時36分19秒 | 日本史(古代・中世)

〈『平戸記』人名総索引〉ファイルの頒布を行います。本索引は『増補史料大成 平戸記』1975年再版臨川書院)を底本として先年に筆記脱稿していたのを、改めてファイル化して補正をなしたものです。ファイルサイズは1.2MB(本文354頁)です。第吃人名索引、第局通称・異称索引の構成となっています。次のリンク先でダウンロードできます。

https://onedrive.live.com/redir?resid=67AC4E09F9CD86BB!21078&authkey=!AD-igHLlGXN9-2M&ithint=file%2cpdf


索引の最初の部分を示します。第吃瑤痢魅◆佑麓,猟未蠅任后

阿観                平(桓武=高棟)

仁治3・2・12      阿観上人                                    148-上 5

阿字

寛元2・11・29      阿字〈平経眄訴検                        38-上13

哀帝              東晋

延応2・7・16      哀帝                                           68-下 2

愛成                善淵

仁治1・11・27      善淵愛成〈平経眄訴検                 108-下14

安光                大江

寛元3・1・17      大江安光(任右馬允)                        52-上13

安次                中原

寛元3・8・29      中原安次(任右馬允)                       125-上 5

安信                平

寛元2・8・25      平安信(任刑部丞)                          323-下14

安信                藤原

寛元3・8・5      藤安信(任右兵衛尉)                        118-下14

安真                藤原

寛元2・9・9      左近将監藤安真                               329-上 7

安徳天皇           高倉天皇皇子言仁

仁治3・1・20      安徳                                141-上4、146-上15

仁治3・2・12      安徳                                           149-下 8

寛元3・8・26      安徳天皇〈外記例〉                           122-上 8

安人                富階

仁治1・11・27      富階安人〈平経眄訴検                     108-下14


第局瑤痢魅◆佑麓,猟未蠅任后

青女                             延応2・1・22                      29-上 8

按察                 資頼        延応2・4・8    仁治1・7・23

按察卿              資頼        仁治1・・8

按察使              資頼        仁治1・・18

按察入道           蝋        寛元2・11・11

亜相                 具実        仁治3・11・30

尼宣                 成子        寛元2・1・10

尼督三位局         時子        寛元2・3・12

尼((居))二品     政子       仁治1・11・17    居二品

或公卿                            寛元2・5・22                      102-下 9

或前官                            仁治1・11・11                     100-下 6

或前大臣                         寛元3・5・22                      102-下 4

或南都僧                         仁治3・6・29                      200-上11

阿波                土御門天皇  嘉禄3・12・10

阿波院宮         後嵯峨天皇  仁治3・1・16    仁治3・1・19

粟田口三位中将    良教        延応2・1・15

粟田口中納言       良教        仁治3・8・28

安嘉門院           邦子内親王  延応2・1・6    寛元3・1・7

安喜門院             有子       延応2・1・6


(2015.11.23)

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