歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

大塚・歳勝土遺跡―歴史雑感〔29〕―

2017年02月12日 19時20分07秒 | 日本史(古代・中世)

2017年2月10日(金)、大塚・歳勝土遺跡公園に行ってきました。本公園は、弥生時代中期の環濠集落遺跡である大塚遺跡と方形周溝墓の歳勝土遺跡を含んで、これらを保存するためにも一帯を横浜市が公園化したものです。最寄り駅は横浜市営地下鉄ブルーラインのセンター北駅で東に徒歩約8分です。道路を挟んで西に横浜市立歴史博物館があります。本遺跡遺物も展示されています。

本公園は南北を谷に挟まれた東西に広がる丘陵上にあります。公園入口から北に竹林を上がっていくと地形模型のある広場に出て、「国指定史跡 大塚・歳勝土遺跡」の石柱が立っています。この左手(西側)に大塚遺跡があります。写真1は、本遺跡入口です。開園時間は9時~17時(休園日 月曜日〔祝日の場合は翌日〕、年末年始)です。

写真2は、環濠集落本来の入口に当たり、遺構から堀上に木橋(材質ナラ)が架けられていたのを復元したものです。木柵・土塁は空堀(最大で幅4.5m・深さ2.5m)の外側にあります。遺跡全体の東側約1/3が保存保護されて、この保護部分全周250mを柵・土塁・空堀が囲んでいます。

写真3は、復元された住居です。7棟が復元展示されています。入母屋造りで主柱は檜で屋根は茅です。この他、住居址20棟が保存されてその位置を石で囲んでいます。遺跡全体は約1.5mの盛土で保存されています。

写真4は、発掘調査時の住居跡を再生したものです。遺跡のほぼ中央にあるY-17号住居址で2回建て直されたと考えられています。特殊加工のガラス繊維強化樹脂セメントで再生しており、中に入れます。

写真5は、復元した高床倉庫です。柱に円形状に付けられた板はネズミ返しです。また、入口へは厚板・丸木に足掛けを刻んだ一本梯子で上ります。

大塚遺跡を出て、南に少し行くと、歳勝土遺跡です。本遺跡は大塚遺跡の住民の墓地と考えられています。写真6は、方形周溝墓の埋葬内部を復元したものです。中央に穴があり、ここに棺が納めれていたと考えられます。

最後の写真7は、盛土上に復元した埋葬当時の方形周溝墓です。3基が復元されています。右側には墓の位置を石で囲って保存しています。

(2017.02.12)

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春節の横濱媽祖廟

2017年01月29日 19時44分04秒 | 観光(日本)

2017年1月28日(土)は旧暦元旦です。すなわち中国の春節です。そこで、横浜中華街に出かけてみました。世代が変わったのか、ここも日本化しており、かつてのような春節らしさはあまり見かけず、いつもの週末のようでした。それでも、春節らしさを見せていたのは「天后宮」横濱媽祖廟(開港150周年の2006年3月に落慶開廟)でした。福建省の林氏娘は神通力を発揮して尊敬されて、28歳で天に召されて神となったとされて、死後海の守護神かつ災害からの守護神の「媽祖」として信仰の対象となり、同省が華僑の主な出身地でもあり、中国各地のみならず世界へと廟が建立されるようになりました。

写真1は、廟殿正面です。右側に見えるのが春節の時の神輿です。これは担ぐのではなく、参詣者が下を潜り効験を求めます。春節らしく中国のお祝いの色の赤で満艦飾がなされています。

写真2は、堂を一周して戻ってきた2頭の獅子です。ここで踊りを披露します。

写真3は、踊りの続きで横になった時です。

最後の写真4は、中国式の長い太い線香を捧げ祈る人々です。

(2017.01.29)

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兜塚古墳―歴史雑感〔28〕―

2017年01月25日 19時48分36秒 | 日本史(古代・中世)

2017年1月24日(火)午前、兜塚古墳址に行ってきました。本古墳址は横浜市鶴見区駒岡3-40に所在し、県道140号の南側に位置し、東に上末吉小学校に隣接しています。最寄りの停留所は上末吉小学校(綱島駅鶴見駅・綱島駅川崎駅西口)です。

本古墳地は古来兜塚と呼ばれていました。というのは、長禄元年(1457)に太田道灌が支城地の調査ため、加瀬の台(川崎市幸区)を候補地として一夜を過ごした時、道灌の兜を鷲が奪って、本地に落とし、そして鷲が兜を埋めたいう伝説から、その名が付きました。1938年の土取工事で破壊されて、現在では墳丘はなく址のみです。1931・1938年の調査で6世紀頃の築造で高5.8m・径30.8mの円墳とされました。

写真1は、歩道橋から兜塚の地を見下ろしたものです。左脇の道を少し上がり、歩行者用道標の右側に「兜塚」石標があり、この階段を上って、右手に入ると兜塚古墳址です。なお、左側の建物は上末吉小学校です。

写真2は、歩道から見上げた兜塚古墳址です。「兜塚」の表示と塀と石垣が構築されて、城を模しています。

最後の写真3は、墳丘がなくなり平坦となった兜塚古墳址です。1966年10月建立の「遺蹟」石碑と、兜塚伝説400年を顕彰する明治4年(1871)に駒岡村が建立した「兜塚」石碑です。

(2017.01.25)

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総持寺初詣

2017年01月01日 18時20分37秒 | 

曹洞宗大本山総持寺に初詣に行きました。この写真をお目にかけます。写真1は、三門です。2階に「謹賀新年」の幕が見えます。

写真2は、仏殿(大雄宝殿)です。堂内に入るため、一応整理の行列を作りますが、込んでないので直ぐ入れました。

最後の写真3は、堂内です。

(2017.01.01)

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2016年度記事目次

2016年12月31日 15時42分12秒 | 記事目次

丙申年を終わるに当たって、2016年度(1~12月)記事目次を掲載します。なお、前回までは「『歴史と中国』http://kanazawa45.wordpress.com/記事目次(上)」(2011年10月21日付)、「『歴史と中国』http://kanazawa45.wordpress.com/記事目次(下)」(2011年10月21日付)、「『歴史と中国』2010年度記事目次」(2011年10月22日付)、「2011年度記事目次」(2011年12月31日付)、「2012年度記事目次」(2012年12月31日付)、「2013年度記事目次」(2013年12月31日付)、「2014年度記事目次」(2014年12月31日付)、「2015年度記事目次」(2015年12月31日付)です。

では、丁酉年がよいお年で。

01.01 鶴岡八幡宮初詣

01.24 冬の久保田城―歴史雑感〔23〕―

02.25 松島の五大堂

02.26 宮城蔵王の樹氷

02.27 山形蔵王の樹氷

03.03 大倉山公園の梅花

03.28 綱島古墳―歴史雑感〔24〕―

04.01 綱島公園の桜

04,22 しとどの窟―歴史雑感〔25〕―

05.10 石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その1)―歴史雑感〔26〕―

05.25 石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その2)―歴史雑感〔26〕―

06.12 師岡貝塚―歴史雑感〔27〕―

07.15 都江堰―成都雑感〔157〕―

07.17 達古氷河―四川雑感〔19〕―

07.20 武蔵野文化協会創立100周年記念大会

07.23 黄河九曲第一湾―四川雑感〔20〕―

07.25 花湖―四川雑感〔21〕―

07.28 黄龍2016―四川雑感〔22〕―

08.02 九寨溝2016―四川雑感〔23〕―

08.07 藏迷―四川雑感〔24〕―

08.08 松潘城―四川雑感〔25〕―

08.18 阿壩藏族羌族自治州の高原の花々―四川雑感〔26〕―

09.10 石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その3)―歴史雑感〔26〕―

09.20 石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その4)―歴史雑感〔26〕―

10.06 石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その5)―歴史雑感〔26〕―

10.22 西安交通大学日語系2期生30周年同窓会

10.31 漢陽陵博物館―中国雑感〔20〕―

11.02 清高宗乾隆皇帝特別展(成都博物館)―中国雑感〔21〕―

11.16 成都博物館―成都雑感〔157〕―

12.01 紅葉の箱根登山鉄道早川鉄橋

12.02 2017年の中国の祝日―中国雑感〔21〕―

12.25 横浜市開港記念会館―歴史雑感〔27〕-

12.31 2016年度記事目次

(2016.12.31)

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横浜市開港記念会館―歴史雑感〔27〕―

2016年12月25日 09時06分58秒 | 日本史(近世・近代)

2016年12月23日(金)、横浜市開港記念会館(神奈川県横浜市中区本町1-6)に行ってきました。本会館は1914(大正3)年9月に着工され、1917(大正6)年7月1日に開港記念日に合わせて開館しました。関東大震災で被害を受けましたが、その後の補修で今日まで横浜の近代建築の一つとして保存・利用されてきました。そして、1989(平成元)年9月2日に重油文化財に指定されました。本会館は建築面積1536.93m²・延床面積4426m²、煉瓦造(一部RC、SRC造)、地上2階建+塔屋5階建、地下1階建です。見学時間は10~16時で、休館日は第4月曜日(祝日の場合は翌日)です。最寄り駅は地下鉄みなとみらい線日本大通り駅(徒歩1分)です。

写真1は、国道133号(日本大通り)から見た会館全景です。正面中央の高くそびえるのが時計塔です。

写真2は、2階ホールのステンドグラス全景です。

写真3は、2階の特別室(貴賓室)で、室内を復元したものです。

写真4は、2階階段の所にある「黒船ポーハタン号」ステンドグラスです。本船は1854(嘉永7)年の黒船来航時のペリー提督乗艦です。

最後の写真5は、講堂(421席+補助席60席)です。講堂・会議室は有料利用です。

なお、フォトアルバム「横浜市開港記念会館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngsgmoBWN6yn6YInf5Aです。横浜市開港記念会館のURLはhttp://www.city.yokohama.lg.jp/naka/kaikou/です。

(2016.12.25)

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2017年の中国の祝日―中国雑感〔21〕―

2016年12月02日 20時03分24秒 | 

明年の祝日(休日)に関して、2016年12月1日、国務院の通知「国務院弁公庁関于2016年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。国務院の通知原文は次のページです。

http://www.gov.cn/zhengce/content/2016-12/01/content_5141603.htm

また、カレンダー表示(「図解:国務院弁公庁関于2016年部分節假日安排的通知」)は、

http://www.gov.cn/xinwen/2016-12/01/content_5141612.htm

です。これによる明年(2017年)の休日は次の通りで、これに基づいて、中国の公的機関は休日を実行します。民間もこれを基準に休日を組みます。つまり、明年の休日日程が定まったわけです。

 

一 元旦(1月1日)

1月1日(日)~2日(月)を休日。

二 春節(旧暦元旦 1月28日) 法定休日(旧暦正月1日~1月3日)

1月27日(金)~2月2日(木)の7日間を休日。

1月22日(日)〔27日・金〕、2月4日(土)〔1日・木〕振替出勤日。

三 清明節(4月4日)

4月2日(日)~4日(火)の3日間を休日。

4月1日(土)〔3日・月〕振替出勤日。

四 労働節(5月1日)

4月29日(土)~5月1日(月の3日間を休日。

五 端午節(旧暦5月5日 5月30日)

5月28日(日)~30日(火)の3日間を休日。

27日(土)〔29日・月〕振替出勤日。

六 国慶節(10月1日) 法定休日(10月1日~3日)

  中秋節(旧暦8月15日 10月4日)

10月1日(日)~8日(日)の8日間休日。

9月30日(土)〔6日・金〕振替出勤日。

(2016.12.02)


国务院办公厅关于2017年

部分节假日安排的通知

国办发明电〔2016〕17号

各省、自治区、直辖市人民政府,国务院各部委、各直属机构:

经国务院批准,现将2017年元旦、春节、清明节、劳动节、端午节、中秋节和国庆节放假调休日期的具体安排通知如下。

一、元旦:1月1日放假,1月2日(星期一)补休。

二、春节:1月27日至2月2日放假调休,共7天。1月22日(星期日)、2月4日(星期六)上班。

三、清明节:4月2日至4日放假调休,共3天。4月1日(星期六)上班。

四、劳动节:5月1日放假,与周末连休。

五、端午节:5月28日至30日放假调休,共3天。5月27日(星期六)上班。

六、中秋节、国庆节:10月1日至8日放假调休,共8天。9月30日(星期六)上班。

节假日期间,各地区、各部门要妥善安排好值班和安全、保卫等工作,遇有重大突发事件,要按规定及时报告并妥善处置,确保人民群众祥和平安度过节日假期。

国务院办公厅

2016年12月1日

(21016年12月1日発布)

 


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紅葉の箱根登山鉄道早川橋梁

2016年12月01日 15時30分53秒 | 観光(日本)

2016年11月30日(水)午前、箱根塔ノ沢温泉の先にある箱根登山鉄道早川橋梁(出山鉄橋)に行きました。その時の写真をお見せします。写真1は、下ってきたモハ2形の2両編成です。

写真2は、3000形「アレグラ号」を先頭に上ってきたものです。まだ紅葉は満開ではありませんが、色づいています。

(2016.12.01)

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成都博物館―成都雑感〔157〕―

2016年11月16日 16時25分47秒 | 観光(成都)

 

2016年10月20日(木)午前、本年6月11日に開館した成都博物館に行きました。所在地は青羊区小河街1号、すなわち天府広場西側です。開館時間は9時~17時(月曜休館日)で、入場無料です。入口左側の参観票受取所で旅券提示の上で、参観票を受取ります(自動参観票発行機は旅券読み取り非対応のため利用不可)。バック類などは預けます。本博物館は、成都市出土品を基本として、1階が臨時展示、2階が古代篇:先秦~南北朝、3階が古代篇:隋~清、4階が近世篇と民俗篇、5階が皮影庁と木偶庁、6階が観景長廊、となっています。交通アクセスは地下鉄1・2号線天府広場站(駅)下車J出口(西)から博物館東門へです。バスは西御河站(南門西)下車が13・30・43・47・64・78路、天府広場東站が16・45・53・61・64路です。

 

2階の最初の展示は「九天開出―成都―先秦時期的成都」です。古蜀文化の最古、宝墩文化(BC2500~1700年「蚕叢」「柏灌」、龍山文化)からです。陶瓶等の陶器や石矛等の石器が展示されています。次いで、三星堆文化(BC1700~1200年「魚鳧」、夏晩期~商後期)、です。ここでは玉壁等の玉器、銅人頭像等の銅器が展示されています。そして、金沙・十二橋文化(BC1200~500年「杜于=望帝」、商後期~春秋後期)、と続きます。ここでは陶器、石器、玉壁等の玉器、銅龍形紐蓋等の銅器が展示されています。写真1は、その獣頭双耳銅罍です。

 

 

さらに、晩期蜀文化(BC500~316年「鼈霊=叢帝(開明)」、春秋晩期~戦国期)と続きます。写真2は、成都市商業街船棺葬遺跡(戦国期)出土の船棺です。

 

 

次の展示は「西蜀―秦漢至南北朝時期的成都」です。まずは前漢・後漢期です。石辟邪座等の石像からはじまり、陶台等の陶器、「蜀都工官」銅盆等の銅器、鉄工具等の鉄器と続きます。写真3は、陶俳優俑(後漢)です。

 

 

展示は三国・南北朝期となります。陶器・瓦・石像・仏像・等の各種の出土品が展示されています。写真4は、陶俑・金戒指(成漢)です。金戒指を各種の陶俑が囲んでいます。

 

 

3階となると、最初は「喧然名都会―隋唐五代宋元時期的成都」です。まず、隋・唐期です。蜀錦・唐三彩・仏像・彩陶俑等が展示されています。写真5は、青銅千手観音坐像(唐)です。

 

 

宋・元期では茶具・磁器・銀器・貨幣等が展示されています。写真6は、定窯白瓷孩児枕(北宋)です。

 

 

次は「丹楼西晩輝―明清時期的成都」です。陶磁器・金銀器・貨幣等が展示されています。写真7は、彩釉陶将軍俑(明)です。

 

 

4階に上がると、まず「近世篇」です。すなわち、中華民国から「成都解放」までです。成都の近代化・解放に力を尽くした成都人関係展示品を主に、写真やジオラマ展示となっています。次いで、「民俗篇」です。ここは民国時代の風俗を主としてジオラマ展示をしています。最後の写真8は、白酒の名産地として知られる四川人の宴会の様子をジオラマにした壩壩宴です。なお、時間の関係で5階の「皮影庁」(影絵)と「木偶庁」は参観を省略したため、紹介はありません。

 

 

フォトアルバム「成都・成都博物館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngsdC1U1j874TnKBCfwです。また、「成都博物館」サイトはhttp://www.cdmuseum.com/です。

 

(2016.11.16)

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清高宗乾隆皇帝特別展(成都博物館)―中国雑感〔21〕―

2016年11月02日 18時31分45秒 | 観光(中国)

2016年10月20日(木)午前、本年6月にオープンした成都博物館に参観に行きました。ちょうど「清高宗乾隆皇帝特展」(2016年9月15日~11月15日)を1階で行なっていたので、まずこれの代表的な展示品(故宮博物館蔵)をお見せします。

写真1は、「乾隆帝朝服像」軸です。隣には「考儀純皇后朝服像」軸も展示しています。

写真2は、金珠承円杯です。

写真3は、碧玉龍紐「古稀天子之宝」(左)と碧玉龍紐「八徴耄念之宝」(右)です。康熙帝の古稀と八十の誕生を祝ったものです。

写真4は、乾隆帝「新春万寿山二首」詩頁(乾隆37年・1772年作)です。乾隆帝の自筆です。乾隆帝「読論語」頁以下の自筆も展示されています。

写真5は、銅鍍金測炮象限儀です。大砲用の発射角測定器具です。このコーナーには百中槍等の武具が展示されています。

写真6は、青玉填金百寿字蓋碗です。このコーナーには祭紅彩瓶等の瓷器や白套玻璃玉壺春瓶等のガラス器も展示されています。

写真7は、粉彩螃蟹百果盤です。

最後の写真8は、白玉碧玉圍棋子です。

以上の他、皇帝朝服、鐘(置時計)等も展示されています。なお、フォトアルバム「清高宗乾隆皇帝特別展(成都博物館)」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngscpvs22v6b0J4fQLQです。

(2016.11.02)

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漢陽陵博物館―中国雑感〔20〕―

2016年10月31日 19時46分20秒 | 観光(中国)

2016年10月17日(月)午前、漢陽陵博物館を参観しました。西安市北郊外の渭河北岸台地上には、初代高祖劉邦の長陵以下、7つの皇帝陵が東西に並んでいます。景帝陽陵はその最も東にあります。前漢第6代皇帝景帝劉啓(BC188~141)の陵園を1990年代に発掘調査したのを基盤に、本博物館はその遺跡の保存・展示を行なっているものです。2003年5月1日に本博物館は「陽陵南闕門遺址」展示をもって開館し、以後さらに展示を広げて現在に至ります。外藏坑遺址保護展示庁・南闕門遺址保護展示庁・宗廟遺址・考古陳列館からなり、この順で参観するのがいいでしょう。開館時間は8時半~19時(3~11月)・8時半~17時半(12~2月)、入場料90元(3~11月)・65元(12~2月)です。西安市内からの交通は市内バスの遊4路(市図書館発 運行時間8時30分・10時20分・12時・13時40分・15時20分・17時 2元)で終点の漢陽陵博物館下車です。市図書館へは地下鉄2号線市図書館站(駅)下車(C・D出口)か火車站西発の市内バス266路(2元)がいいでしょう。

今回は時間的関係もあり南闕門遺址保護展示庁と外藏坑遺址保護展示庁の参観のみです。何れも名の通り発掘した遺跡をそのまま保存・展示している展示館です。まず、南闕門遺址保護展示庁からです。皇帝陵封土は塀で取り囲まれて、東西南北にそれぞれ門建築が設けられていました。もちろん南門が正門で、この遺址が南闕門遺址で、これに保護の建物を建設して保護・展示したのが本展示庁です。最初の写真1は、南の入口から入って、西側の遺址へと行き、ここから撮った門道及び東側遺址です。手前右の空間は外塾で、手前左側は内塾です。

写真2は、奥へと延びる主闕台です。中央に見える穴は柱跡です。

写真3は、副闕台で、先端が垣墻です。奥の主闕台中央に見えるのは木柱遺存です。闕台の回りの平面部が回廊で、さらにその外側の石を敷き詰めたところが散水です。

写真4は、東側遺址の副闕台です。西側のそれとは遺存状態が異なります。

次いで、外藏坑遺址保護展示庁です。外藏は陵封土の四周に81座設置されていました。本展示庁は東北10座の外藏坑上に地下建築を建設して保護・展示したものです。写真5は、18号坑で、ご覧のように人俑陶が置かれています。前漢の人俑は秦に比較して小型となっていますが、量的には劣りません。また、裸なのは衣類が腐食して残っていないからです。他の坑の中には動物俑(豚など)や壺等各種のものが置かれています。

写真6は、木車馬遺址です。これに見るように、木車馬とこれに随う人俑も出土しており、木車馬と随員の列の復元展示もあります。

最後の写真7は、1997年9月、南闕門遺址を発掘中に参観した時、陵頂上から南闕門遺址を俯瞰撮影したものです。なお、その奥に見える道路は西安咸陽国際空港(1991年開港)への専用道です。現在は本博物館へのアクセス道ともなっています。

なお、フォトアルバム「西安・漢陽陵博物館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngscN3PgH3jEoeapifQです。また『漢陽陵国家考古遺址公園』公式サイトはhttp://www.hylae.com/です。

(2016.10.31)

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西安交通大学日語系2期生30周年同窓会

2016年10月22日 09時55分48秒 | 教育

2016年10月15・16日、西安交通大学日語系2期生(1986年入学・1990年卒業)が、西安に集い入学30周年の同窓会を開きました。中国各地および遠くカナダ・アメリカから12名(全15名 女10名・男5名、出席女4名・男4名)の卒業生が母校に集いました。私は14日から18日まで滞在しました。

写真1は、15日(土)午前、西花園で行われた記念植樹です。青楓10本を植樹しました。

次いで、校内を巡ります。写真2は、その一つ旧図書館前の広場の地面に描かれた中国全土地図上で、各自の居住地に立ったものです。ただ、遠く海外からの卒業生は居住地に立てないため、出身地に立ちます。

午後は外国語学院で日語系師生交流会を開きました。写真3は、最初の趙剛教授の挨拶のところです。隣が顧明耀教授です。

写真4は、外国語学院前での記念撮影です。

翌16日(日)午前、まず交代正門での記念写真です。写真5が、そうです。それから、市内に出て、回民街で昼食して、解散となりました。

(2016.10.22)

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石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その5)―歴史雑感〔26〕―

2016年10月06日 10時04分35秒 | 日本史(近世・近代)

(その1)一、『吾妻鏡』の語る逃走経路

(その2)二、『延慶本平家物語』の語る逃走経路

(その3)三、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・上

(その4)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・中

(その5)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・下


四、『吾妻鏡』の検討・下

改めて、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』における石橋山・椙山合戦敗北後の時政の行動を見てみます。先ず、『吾妻鏡』では、24日、①時政父子3人は時政が疲労のため頼朝に追従出来ません。②時政・義時は湯本から湯坂道で甲斐国に向かおうとします。③湯本から引き返して、時政は箱根神社の永実と出合い、晩に頼朝と再会します。翌25日、④頼朝の命で箱根神社僧の案内で甲斐国へと向かいます。⑤土肥郷へと隠れた頼朝の無事を確認するため引き返します。27日、⑥安房国ヘと渡海し、到着します。29日、⑦頼朝と再会します。9月8日、⑧頼朝の命で使者として甲斐国に向かいます。15日、⑨甲斐国逸見山で時政は武田信義と対面します。20日、⑩土屋宗遠が頼朝使者として下総国から甲斐国へ向かいます。24日、⑪土屋宗遠が甲斐国石和で武田信義・北条時政と会います。

一方、『延慶本平家物語』では、a敗戦後に頼朝に追従した武士達に頼朝が解散を告げます。b時政・義時父子は甲斐国に向かいます。c時政は甲斐国に到り、武田信義・一条忠頼と会います。d土屋宗遠が頼朝無事を伝えるために安房国から甲斐国に向かいます。e土屋宗遠が甲斐国で一条忠頼に会います。

『吾妻鏡』での③・⑥の記述に関しては幾多の無理と虚構があることは前回述べたところです。とりわけ、③に関して疲労のため頼朝に追従出来なかった時政が湯本から引き返して晩に頼朝と再会したというのは、18歳と若い義時と異なり43歳という年齢を考えれば、いっそうの無理があるといえ、虚構の可能性が高くなるのです。とすれば、以降の時政の安房国渡海とそこでの頼朝との再会という行動過程はすべて虚構ということになります。

これに対して、『延慶本平家物語』での記述には、敗戦後に頼朝の下に再度蝟集した武士達に各個に逃れるように指示したことは『吾妻鏡』と同様であり、合理性があり、以上一連の行動には無理がありません。すなわち、時政は自身の意思で甲斐国を目指したことになり、甲斐国に到着して武田信義に会います。

以上見てくると、『吾妻鏡』より『延慶本平家物語』の記述する時政の行動に妥当性があるのです。すなわち、いったん頼朝に再会しましたが、その指示で別れて、自身の判断で甲斐国に到ったということです。

そのように見てくると、時政の行動は『延慶本平家物語』の示すとおりで問題ないように思えます。そうならば、『吾妻鏡』も疲労で頼朝に追従出来なくなった時政に関して、湯坂路に関する記述をすることなく、休息後に追従出来たとして再会したとすれば、問題の破綻はなかったはずです。では、何故わざわざ湯本を経ての湯坂路越えの記述を入れたのでしょうか。すでに述べてきたとおり、『吾妻鏡』の時政の行動に関する記述は無理と虚構に満ちており、大いなる作為性があることは確かです。『吾妻鏡』の作為性に関しては、無から話を創作するのではなく、何らかの事実に絡めて作為を行なうのが執筆態度であることをすでに示しています(拙稿「治承五年閏二月源頼朝追討後白河院庁下文と『甲斐殿』源信義」〔Ⅱ〕『政治経済史学』第227号1985年6月参照)。とするなら、『吾妻鏡』の時政の行動に関する記述の中にも元になる事実があると考えます。『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』との比較では『延慶本平家物語』の記述に妥当性があると述べました。すなわち、時政は渡海せずに箱根山外輪山から直接甲斐国に行ったということです。ということは、時政が湯本から湯坂路を経て甲斐国に向かうとしたとの『吾妻鏡』の記述が動かすことの出来ない事実として、その後の作為の出発点となったと考えることが出来ます。

頼朝が山木夜打の前に味方する武士を一人一人呼んで、「ひとえに汝を恃むによりて、仰せ合わせられる」と、感激させたのに対して、時政に関しては、「真実密事おいては時政の外知る人なし」、と『吾妻鏡』では記述しています(治承四年八月四日条)。すなわち、挙兵にあたって、頼朝が最も信頼して頼りにしたのが時政であると『吾妻鏡』は主張しているのです。挙兵の出発点について『吾妻鏡』がこうであるなら、以後もそう主張しなければ一貫性がありません。石橋山合戦敗戦後に時政が頼朝渡海に付き合わずに、独自に甲斐国へ逃亡したなどと、記述することは当然ながらそのことに反します。そこで、甲斐国逃亡と頼朝と行動を共にしたとの間に整合性のある記述をする必要になります。それ故に、湯本から引き返して頼朝に再会して、次いで日を経て安房国に渡海して、ここで頼朝に再度再会して、この命で甲斐国に赴いたというストリーを創作・作為したと考えます。こうすれば、時政は頼朝を支えてその忠実な武士であることを示すことが出来るのです。

頼朝を最も支えたのが北条氏であるとの『吾妻鏡』の主張にとって、時政の湯坂路から甲斐国への記述は、これに反して、本来は消したい事実であったはずです。しかし、この記述は『吾妻鏡』に残されました。そこで、何故こうなったかを考えてみましょう。『吾妻鏡』編纂は北条得宗家が主導したことは確かでしょう。しかしながら、実際の執筆者は得宗家が直に行なったというより、得宗家の周辺にいた文士御家人、例えば大田氏などでしょう(五味文彦氏『増補吾妻鏡の方法』2000年吉川弘文館参照)。もちろん彼らは得宗家の意向に従って執筆したでしょう。そして、幕府関係の文書・記録を多く保持して、これらに習熟していた彼らは基本的にこれに依拠する執筆態度を取るのが当然です。だからこそ、創作・作為を行なうにも何らかの事実に絡めてこれを行なうことになります。さらに、表面的には得宗家に従う態度を取っているように見えても、それに反した本音を奥深く蔵した者もいたと想像できます。とするなら、このような執筆者が何らかの事実に絡めて創作・作為を行なうという編纂姿勢を利用して、記述の中に真実を埋め込ませようとするのは当然考えられます。すなわち、時政の湯坂路から甲斐国へ赴いた事実を、これを当初は企図したと改編して、その後の創作・作為に繋げたのです。以上考えることで、『吾妻鏡』の時政の行動記述の作為が説明できます。結論は、『吾妻鏡』の記述は大いなる創作・作為で、真実は、石橋山・椙山合戦敗北後、北条時政・義時父子は、頼朝に追従することなく、箱根外輪山を東北に湯本に至り、次いで湯坂路を経て甲斐国の甲斐源氏の下に到達した、ということなのです。

以上、『吾妻鏡』においても『延慶本平家物語』においても時政は石橋山合戦敗戦後に安房国に渡海することなく独自に甲斐国に逃走したことになります。では、時政が甲斐国へ向かう記述ではどちらがより事実を伝えているのでしょうか。時政の史料に関しては伝承も含めて、当然ながら『吾妻鏡』執筆者の方が豊富であったでしょう。おそらく、『延慶本平家物語』の筆者は時政の甲斐国逃走の事実は知っていましたが、具体的な経緯は知らず、頼朝が再結集した武士達に別れて自身で逃走するようにとの事実から、時政もその一員として、甲斐国逃走の事実と絡ませて記述したと考えます。とすならば、やはり『吾妻鏡』の記述、石橋山合戦敗北後、時政は頼朝に再会することなく、湯坂路から甲斐国に逃走したというのが事実であると考えてよいことになります。

(終わり)

(2016.10.06)

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石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その4)―歴史雑感〔26〕―

2016年09月20日 00時18分05秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、『吾妻鏡』の語る逃走経路

(その2)二、『延慶本平家物語』の語る逃走経路

(その3)三、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・上

(その4)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・中

(その5)五、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・下

 

四、『吾妻鏡』の検討・中

『吾妻鏡』の示すとおりに、石橋山・椙山から敗走して土肥郷後背の箱根外輪山に潜伏した源頼朝と北条時政が再会したことは、箱根外輪山を東北に向かい越えて湯本に至った時政が再び箱根外輪山を越えて西南に向かったことになり、進路を反転したことを意味します。前回で述べたように、石橋山から土肥郷にかけての箱根外輪山には大庭軍の武士が溢れています。時政の経路は二つ考えられます。一つ目は外輪山の中腹を南下する経路です。二つ目は外輪山尾根伝いに南下する経路です。一つ目は頼朝を捜索する大庭軍の武士の中をもろに突っ切ることになりますから、彼らに発見される可能性が極めて高く、あまり現実的ではありません。しかも、その後箱根山の永実と遇いますが、これは幸運で極めて偶然性の高いものです。この意味ではこの実現性に疑いを持ちます。、二つ目は尾根伝いですから、大庭軍の武士と遭遇する可能性は低くなりますが、それでも大庭軍が頼朝軍を追走するにあたって、土肥郷へと外輪山中腹を南に兵を散開させると共に、尾根を押さえて、芦ノ湖への退路を断つことは十分に考えられることですので、やはり大庭軍との遭遇の危険性は残ります。ただ、これを逃れて、外輪山を越えてくる行実との出会いは尾根付近でなされ、その後山を下り頼朝の所に到ったとすればそう不自然ではないでしょう。とすると、時政は尾根伝いに南下したとするので自然ではないでしょうか。中腹南下ではいくつかある谷越えとなり、行路自体が困難であり、これと比較すれば尾根伝いは楽です。しかし、時政は「筋力漸し疲れ(中略)峯嶺を登るあたわず」として、頼朝に追従出来ずに、東北に湯本に到ったのです。そうならば、湯本到達の時点で余力を残していたでしょうか。当然ながら疲労困憊の状態であったはずです。とすれば、さらに外輪山を越えて南下することには無理があると考えるのが至当です。すなわち、時政の湯本からの引き返しが事実であることには強い無理があるのです。

ところで、箱根山別当行実の弟永実の頼朝との会合はどうでしょうか。先ずどのようにして永実は頼朝の潜伏場所を知ったのでしょうか。逃走中の頼朝から支援を求めたことは考えられ、この時の所在地は伝達できたでしょう。しかし、実際に永実がここに到達するには頼朝からの使者の到達時間、永実の準備時間、永実の到達時間と、相当の時間がかかります。『吾妻鏡』では永実が頼朝と会合したのは夜となっています。とすれば、頼朝使者出発からいろいろな事情で移動している可能性がありえるとする方が自然です。しかも、夜ともなれば移動の便や捜索を思うと、会合は極めて困難といわざるをえません。さらに、『吾妻鏡』では永実は頼朝一行を箱根神社の自己の家に匿いますが、親平家方が神社にもいるため危険として、翌日には離脱して山に隠れます。このように箱根神社自身が安全地帯でないことが分かっているのに、頼朝をここに案内するのは不自然です。以上から、『吾妻鏡』の永実に関する記述は虚構性があると考えます。もちろん行実・永実兄弟が頼朝に何らかの支援を行なったこと自体は否定しませんが。

次いで、『吾妻鏡』では頼朝に再会した後、頼朝の命で甲斐国に向かうことになりましたが、隠れた頼朝の無事を確認するため引き返したとありますが、合うことはなく、岡崎義実等と共に安房国に渡海します。ここで、頼朝と再会していないのに、その命に反して渡海をしている説明が何もないことは話の流れとして不自然です。しかも、『延慶本平家物語』では頼朝以下共に隠れた7人の中に土肥実平を筆頭として岡崎義実がいます。そして、『延慶本平家物語』第二末・十六兵衛佐安房国ヘ落給事に、「兵衛佐已下ノ人々七人ナカラ皆大童ニテ烏帽子キタル人モナカリケリ」とあり、続いて十八三浦ノ人々兵衛佐ニ尋合奉事に、安房国に渡った三浦一族が海上の船を発見してこれに近寄り確かめようとした時、「輪田小太郎申シケルハ、イカニ佐殿ハ渡ラセ給カ、岡崎申ケルハ(中略)兵衛佐ハ打板ノ下ニテ是ヲ聞給」とあります。すなわち、『延慶本平家物語』では岡崎義実は一貫して頼朝と共に行動して安房国に渡海したのです。岡崎義実の行動は『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』ではどちらに妥当性があるのでしょうか。「三浦系図」(『続群書類従』第六輯上系譜部)に義実子の義忠「母中村庄司宗平女」とあるように、義実の妻は中村宗平の娘、すなわち土肥実平の兄弟です(「千葉上総系図」『群書類従』第六輯上系譜部)。頼朝に付き従った6人は『延慶本平家物語』では義実を入れて土肥実平・同子息遠平・弟土屋宗遠・甥新開実重と郎党七郎丸です。皆実平の近親者と郎党です。ここに兄弟婿の義実がいることは自然です。すなわち、『延慶本平家物語』の語る義実の行動の方に妥当性があり、『吾妻鏡』の語る義実の行動は虚構といえます。とすれば、義実と共に時政が渡海したということは、少なくとも義実が同行した点は虚構となります。

この時政の渡海に関して、『吾妻鏡』では、27日に土肥郷岩浦から乗船します。そして、同日海上で三浦一族と会合します。三浦一族は26日に本拠の相模国衣笠城から「半更」、すなわち夜遅くに離脱します。おそらく、そのまま海岸(浦賀か)に走り、遅くとも翌27日に乗船したでしょう。それぞれが朝に乗船したとすると、双方の渡海距離の差から、三浦一族の方が早く安房国に到達し、その後かなり遅れて時政が到達するのが自然です。とすれば、両者の海上会合はあり得ない虚構ということになります。

(続く)

(2016.09.20)

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石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その3)―歴史雑感〔26〕―

2016年09月10日 09時14分05秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、『吾妻鏡』の語る逃走経路

(その2)二、『延慶本平家物語』の語る逃走経路

(その3)三、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・上

(その4)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・中

(その5)五、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・下

 

三、『吾妻鏡』の検討・上

『吾妻鏡』では敗走後、時政は頼朝に再会して別れ、その後安房国に渡海して、再度頼朝に会った後、この命で甲斐源氏の下に赴いています。一方、『延慶本平家物語』では、敗走後に頼朝と再会した後、自主的に甲斐源氏の下に赴いていて、安房国に渡海した様子はありません。この『吾妻鏡』の示す時政の行動経路が通説となっていて、ほとんどの方が疑問を示すことがありません(五味文彦氏は時政甲斐国逃走説を示しています)。

さて、この『吾妻鏡』の時政の行動に関する記述には何ら問題はないのでしょうか。まず、頼朝に追従出来なかった時政の逃走について最初に「北条殿、同四郎主等は筥根湯坂を経て、甲斐国に赴かんと欲す」と記述され、これに続いて「同三郎は土肥山より桑原に降り、平井郷を経るの処、早河辺において、祐親法師軍兵に囲まれて、小平井名主紀六久重のため、射取られおわんぬ」と、時政嫡男宗時の戦死を述べます。単独行動を取って宗時は「早河辺」、すなわち小田原市早川町辺で戦死しますが、ここに至る「桑原」「平井郷」の地名は石橋山から早川一帯にかけての範囲では見当たりません。一方、時政・義時父子は「筥根湯坂」を経て甲斐国に向かうとある、「筥根湯坂」とは箱根湯本温泉から箱根新規外輪山を西へと尾根道で箱根神社に至る古道として、平安時代以来の箱根山越えの道です(『日本歴史地名体系』第一四巻神奈川県の地名一九八四年平凡社参照)。以上、時政・義時と宗時とは別経路で逃走したように見えますが、石橋山・椙山から東北に向かい、箱根外輪山を越えて湯本に至り、その後、時政・義時は西に湯坂道を、宗時は東に早川沿いに下ったとするのが至当です。すなわち、時政は東北に逃走して箱根外輪山を越えて、湯本から湯坂道を経て甲斐国へと向かおうとしたことになります。

ところが、『吾妻鏡』では夜に至り椙山に敗走した頼朝ところで再会します。この途上で、筥根山別当行実の派遣した弟永実と遇い、共に頼朝の下に行きます。頼朝は石橋山から箱根外輪山を西南へと逃走して椙山に至ったことになります。ということは、箱根外輪山を東北に向かい越えて湯本に至った時政が再び箱根外輪山を越えて西南に向かったことになり、進路を反転したことを意味します。しかるに、『吾妻鏡』八月二十五日条に、

家義御跡を尋ね奉り参上す。武衞御念珠を持参するところなり。これ今暁合戦の時、路頭に落とせしめ給う。日ごろ持ち給うの間、狩倉辺に於いて、相模国の輩多くもって見奉りの御念珠なり。よりて周章し給うのところ、家義これを探し出す。御感再三に及ぶ、しかして家義御供に候べきの由申す。実平先の如く諫申の間、泣いて退去しおわんぬ。

と、大庭軍の一員で相模武士の飯田家義が戦場で落とした義朝所持の念珠を持って頼朝の下に訪れます。このことは大庭軍の武士の中にも頼朝に心を寄せる武士がいたことを示していると同時に、大庭軍が敗走する頼朝軍、とりわけ頼朝の捕捉を求めて、箱根山外輪山を石橋山から土肥郷へと向かって西南へと追撃したことを示しています。とするなら、石橋山から椙山にかけて、さらにはその西南の筥根山外輪山には頼朝を捜索する大庭軍の武士で溢れていたことになります。

(続く)

(2016.09.10)

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