歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

2016年の中国の祝日―中国雑感〔21〕―

2016年12月02日 20時03分24秒 | 

明年の祝日(休日)に関して、本日(2014年12月10日)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2016年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。国務院の通知原文は次のページです。

http://www.gov.cn/zhengce/content/2016-12/01/content_5141603.htm

また、カレンダー表示(「図解:国務院弁公庁関于2016年部分節假日安排的通知」)は、

http://www.gov.cn/xinwen/2016-12/01/content_5141612.htm

です。これによる明年の休日は次の通りで、これに基づいて、中国の公的機関は休日を実行します。民間もこれを基準に休日を組みます。つまり、明年の休日日程が定まったわけです。

 

一 元旦(1月1日)

1月1日(日)~2日(月)を休日。

二 春節(旧暦元旦 1月28日) 法定休日(旧暦正月1日~1月3日)

1月27日(金)~2月2日(木)の7日間を休日。

1月22日(日)〔27日・金〕、2月4日(土)〔1日・木〕振替出勤日。

三 清明節(4月4日)

4月2日(日)~4日(火)の3日間を休日。

4月1日(土)〔3日・月〕振替出勤日。

四 労働節(5月1日)

4月29日(土)~5月1日(月の3日間を休日。

五 端午節(旧暦5月5日 5月30日)

5月28日(日)~30日(火)の3日間を休日。

27日(土)〔29日・月〕振替出勤日。

六 国慶節(10月1日) 法定休日(10月1日~3日)

  中秋節(旧暦8月15日 10月4日)

10月1日(日)~8日(日)の8日間休日。

9月30日(土)〔6日・金〕振替出勤日。

(2016.12.02)


国务院办公厅关于2017年

部分节假日安排的通知

国办发明电〔2016〕17号

各省、自治区、直辖市人民政府,国务院各部委、各直属机构:

经国务院批准,现将2017年元旦、春节、清明节、劳动节、端午节、中秋节和国庆节放假调休日期的具体安排通知如下。

一、元旦:1月1日放假,1月2日(星期一)补休。

二、春节:1月27日至2月2日放假调休,共7天。1月22日(星期日)、2月4日(星期六)上班。

三、清明节:4月2日至4日放假调休,共3天。4月1日(星期六)上班。

四、劳动节:5月1日放假,与周末连休。

五、端午节:5月28日至30日放假调休,共3天。5月27日(星期六)上班。

六、中秋节、国庆节:10月1日至8日放假调休,共8天。9月30日(星期六)上班。

节假日期间,各地区、各部门要妥善安排好值班和安全、保卫等工作,遇有重大突发事件,要按规定及时报告并妥善处置,确保人民群众祥和平安度过节日假期。

国务院办公厅

2016年12月1日

(21016年12月1日発布)

 


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紅葉の箱根登山鉄道早川橋梁

2016年12月01日 15時30分53秒 | 観光(日本)

2016年11月30日(水)午前、箱根塔ノ沢温泉の先にある箱根登山鉄道早川橋梁(出山鉄橋)に行きました。その時の写真をお見せします。写真1は、下ってきたモハ2形の2両編成です。

写真2は、3000形「アレグラ号」を先頭に上ってきたものです。まだ紅葉は満開ではありませんが、色づいています。

(2016.12.01)

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成都博物館―成都雑感〔157〕―

2016年11月16日 16時25分47秒 | 観光(成都)

 

2016年10月20日(木)午前、本年6月11日に開館した成都博物館に行きました。所在地は青羊区小河街1号、すなわち天府広場西側です。開館時間は9時~17時(月曜休館日)で、入場無料です。入口左側の参観票受取所で旅券提示の上で、参観票を受取ります(自動参観票発行機は旅券読み取り非対応のため利用不可)。バック類などは預けます。本博物館は、成都市出土品を基本として、1階が臨時展示、2階が古代篇:先秦~南北朝、3階が古代篇:隋~清、4階が近世篇と民俗篇、5階が皮影庁と木偶庁、6階が観景長廊、となっています。交通アクセスは地下鉄1・2号線天府広場站(駅)下車J出口(西)から博物館東門へです。バスは西御河站(南門西)下車が13・30・43・47・64・78路、天府広場東站が16・45・53・61・64路です。

 

2階の最初の展示は「九天開出―成都―先秦時期的成都」です。古蜀文化の最古、宝墩文化(BC2500~1700年「蚕叢」「柏灌」、龍山文化)からです。陶瓶等の陶器や石矛等の石器が展示されています。次いで、三星堆文化(BC1700~1200年「魚鳧」、夏晩期~商後期)、です。ここでは玉壁等の玉器、銅人頭像等の銅器が展示されています。そして、金沙・十二橋文化(BC1200~500年「杜于=望帝」、商後期~春秋後期)、と続きます。ここでは陶器、石器、玉壁等の玉器、銅龍形紐蓋等の銅器が展示されています。写真1は、その獣頭双耳銅罍です。

 

 

さらに、晩期蜀文化(BC500~316年「鼈霊=叢帝(開明)」、春秋晩期~戦国期)と続きます。写真2は、成都市商業街船棺葬遺跡(戦国期)出土の船棺です。

 

 

次の展示は「西蜀―秦漢至南北朝時期的成都」です。まずは前漢・後漢期です。石辟邪座等の石像からはじまり、陶台等の陶器、「蜀都工官」銅盆等の銅器、鉄工具等の鉄器と続きます。写真3は、陶俳優俑(後漢)です。

 

 

展示は三国・南北朝期となります。陶器・瓦・石像・仏像・等の各種の出土品が展示されています。写真4は、陶俑・金戒指(成漢)です。金戒指を各種の陶俑が囲んでいます。

 

 

3階となると、最初は「喧然名都会―隋唐五代宋元時期的成都」です。まず、隋・唐期です。蜀錦・唐三彩・仏像・彩陶俑等が展示されています。写真5は、青銅千手観音坐像(唐)です。

 

 

宋・元期では茶具・磁器・銀器・貨幣等が展示されています。写真6は、定窯白瓷孩児枕(北宋)です。

 

 

次は「丹楼西晩輝―明清時期的成都」です。陶磁器・金銀器・貨幣等が展示されています。写真7は、彩釉陶将軍俑(明)です。

 

 

4階に上がると、まず「近世篇」です。すなわち、中華民国から「成都解放」までです。成都の近代化・解放に力を尽くした成都人関係展示品を主に、写真やジオラマ展示となっています。次いで、「民俗篇」です。ここは民国時代の風俗を主としてジオラマ展示をしています。最後の写真8は、白酒の名産地として知られる四川人の宴会の様子をジオラマにした壩壩宴です。なお、時間の関係で5階の「皮影庁」(影絵)と「木偶庁」は参観を省略したため、紹介はありません。

 

 

フォトアルバム「成都・成都博物館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngsdC1U1j874TnKBCfwです。また、「成都博物館」サイトはhttp://www.cdmuseum.com/です。

 

(2016.11.16)

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清高宗乾隆皇帝特別展(成都博物館)―中国雑感〔21〕―

2016年11月02日 18時31分45秒 | 観光(中国)

2016年10月20日(木)午前、本年6月にオープンした成都博物館に参観に行きました。ちょうど「清高宗乾隆皇帝特展」(2016年9月15日~11月15日)を1階で行なっていたので、まずこれの代表的な展示品(故宮博物館蔵)をお見せします。

写真1は、「乾隆帝朝服像」軸です。隣には「考儀純皇后朝服像」軸も展示しています。

写真2は、金珠承円杯です。

写真3は、碧玉龍紐「古稀天子之宝」(左)と碧玉龍紐「八徴耄念之宝」(右)です。康熙帝の古稀と八十の誕生を祝ったものです。

写真4は、乾隆帝「新春万寿山二首」詩頁(乾隆37年・1772年作)です。乾隆帝の自筆です。乾隆帝「読論語」頁以下の自筆も展示されています。

写真5は、銅鍍金測炮象限儀です。大砲用の発射角測定器具です。このコーナーには百中槍等の武具が展示されています。

写真6は、青玉填金百寿字蓋碗です。このコーナーには祭紅彩瓶等の瓷器や白套玻璃玉壺春瓶等のガラス器も展示されています。

写真7は、粉彩螃蟹百果盤です。

最後の写真8は、白玉碧玉圍棋子です。

以上の他、皇帝朝服、鐘(置時計)等も展示されています。なお、フォトアルバム「清高宗乾隆皇帝特別展(成都博物館)」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngscpvs22v6b0J4fQLQです。

(2016.11.02)

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漢陽陵博物館―中国雑感〔20〕―

2016年10月31日 19時46分20秒 | 観光(中国)

2016年10月17日(月)午前、漢陽陵博物館を参観しました。西安市北郊外の渭河北岸台地上には、初代高祖劉邦の長陵以下、7つの皇帝陵が東西に並んでいます。景帝陽陵はその最も東にあります。前漢第6代皇帝景帝劉啓(BC188~141)の陵園を1990年代に発掘調査したのを基盤に、本博物館はその遺跡の保存・展示を行なっているものです。2003年5月1日に本博物館は「陽陵南闕門遺址」展示をもって開館し、以後さらに展示を広げて現在に至ります。外藏坑遺址保護展示庁・南闕門遺址保護展示庁・宗廟遺址・考古陳列館からなり、この順で参観するのがいいでしょう。開館時間は8時半~19時(3~11月)・8時半~17時半(12~2月)、入場料90元(3~11月)・65元(12~2月)です。西安市内からの交通は市内バスの遊4路(市図書館発 運行時間8時30分・10時20分・12時・13時40分・15時20分・17時 2元)で終点の漢陽陵博物館下車です。市図書館へは地下鉄2号線市図書館站(駅)下車(C・D出口)か火車站西発の市内バス266路(2元)がいいでしょう。

今回は時間的関係もあり南闕門遺址保護展示庁と外藏坑遺址保護展示庁の参観のみです。何れも名の通り発掘した遺跡をそのまま保存・展示している展示館です。まず、南闕門遺址保護展示庁からです。皇帝陵封土は塀で取り囲まれて、東西南北にそれぞれ門建築が設けられていました。もちろん南門が正門で、この遺址が南闕門遺址で、これに保護の建物を建設して保護・展示したのが本展示庁です。最初の写真1は、南の入口から入って、西側の遺址へと行き、ここから撮った門道及び東側遺址です。手前右の空間は外塾で、手前左側は内塾です。

写真2は、奥へと延びる主闕台です。中央に見える穴は柱跡です。

写真3は、副闕台で、先端が垣墻です。奥の主闕台中央に見えるのは木柱遺存です。闕台の回りの平面部が回廊で、さらにその外側の石を敷き詰めたところが散水です。

写真4は、東側遺址の副闕台です。西側のそれとは遺存状態が異なります。

次いで、外藏坑遺址保護展示庁です。外藏は陵封土の四周に81座設置されていました。本展示庁は東北10座の外藏坑上に地下建築を建設して保護・展示したものです。写真5は、18号坑で、ご覧のように人俑陶が置かれています。前漢の人俑は秦に比較して小型となっていますが、量的には劣りません。また、裸なのは衣類が腐食して残っていないからです。他の坑の中には動物俑(豚など)や壺等各種のものが置かれています。

写真6は、木車馬遺址です。これに見るように、木車馬とこれに随う人俑も出土しており、木車馬と随員の列の復元展示もあります。

最後の写真7は、1997年9月、南闕門遺址を発掘中に参観した時、陵頂上から南闕門遺址を俯瞰撮影したものです。なお、その奥に見える道路は西安咸陽国際空港(1991年開港)への専用道です。現在は本博物館へのアクセス道ともなっています。

なお、フォトアルバム「西安・漢陽陵博物館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngscN3PgH3jEoeapifQです。また『漢陽陵国家考古遺址公園』公式サイトはhttp://www.hylae.com/です。

(2016.10.31)

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西安交通大学日語系2期生30周年同窓会

2016年10月22日 09時55分48秒 | 教育

2016年10月15・16日、西安交通大学日語系2期生(1986年入学・1990年卒業)が、西安に集い入学30周年の同窓会を開きました。中国各地および遠くカナダ・アメリカから12名(全15名 女10名・男5名、出席女4名・男4名)の卒業生が母校に集いました。私は14日から18日まで滞在しました。

写真1は、15日(土)午前、西花園で行われた記念植樹です。青楓10本を植樹しました。

次いで、校内を巡ります。写真2は、その一つ旧図書館前の広場の地面に描かれた中国全土地図上で、各自の居住地に立ったものです。ただ、遠く海外からの卒業生は居住地に立てないため、出身地に立ちます。

午後は外国語学院で日語系師生交流会を開きました。写真3は、最初の趙剛教授の挨拶のところです。隣が顧明耀教授です。

写真4は、外国語学院前での記念撮影です。

翌16日(日)午前、まず交代正門での記念写真です。写真5が、そうです。それから、市内に出て、回民街で昼食して、解散となりました。

(2016.10.22)

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石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その5)―歴史雑感〔26〕―

2016年10月06日 10時04分35秒 | 日本史(近世・近代)

(その1)一、『吾妻鏡』の語る逃走経路

(その2)二、『延慶本平家物語』の語る逃走経路

(その3)三、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・上

(その4)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・中

(その5)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・下


四、『吾妻鏡』の検討・下

改めて、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』における石橋山・椙山合戦敗北後の時政の行動を見てみます。先ず、『吾妻鏡』では、24日、①時政父子3人は時政が疲労のため頼朝に追従出来ません。②時政・義時は湯本から湯坂道で甲斐国に向かおうとします。③湯本から引き返して、時政は箱根神社の永実と出合い、晩に頼朝と再会します。翌25日、④頼朝の命で箱根神社僧の案内で甲斐国へと向かいます。⑤土肥郷へと隠れた頼朝の無事を確認するため引き返します。27日、⑥安房国ヘと渡海し、到着します。29日、⑦頼朝と再会します。9月8日、⑧頼朝の命で使者として甲斐国に向かいます。15日、⑨甲斐国逸見山で時政は武田信義と対面します。20日、⑩土屋宗遠が頼朝使者として下総国から甲斐国へ向かいます。24日、⑪土屋宗遠が甲斐国石和で武田信義・北条時政と会います。

一方、『延慶本平家物語』では、a敗戦後に頼朝に追従した武士達に頼朝が解散を告げます。b時政・義時父子は甲斐国に向かいます。c時政は甲斐国に到り、武田信義・一条忠頼と会います。d土屋宗遠が頼朝無事を伝えるために安房国から甲斐国に向かいます。e土屋宗遠が甲斐国で一条忠頼に会います。

『吾妻鏡』での③・⑥の記述に関しては幾多の無理と虚構があることは前回述べたところです。とりわけ、③に関して疲労のため頼朝に追従出来なかった時政が湯本から引き返して晩に頼朝と再会したというのは、18歳と若い義時と異なり43歳という年齢を考えれば、いっそうの無理があるといえ、虚構の可能性が高くなるのです。とすれば、以降の時政の安房国渡海とそこでの頼朝との再会という行動過程はすべて虚構ということになります。

これに対して、『延慶本平家物語』での記述には、敗戦後に頼朝の下に再度蝟集した武士達に各個に逃れるように指示したことは『吾妻鏡』と同様であり、合理性があり、以上一連の行動には無理がありません。すなわち、時政は自身の意思で甲斐国を目指したことになり、甲斐国に到着して武田信義に会います。

以上見てくると、『吾妻鏡』より『延慶本平家物語』の記述する時政の行動に妥当性があるのです。すなわち、いったん頼朝に再会しましたが、その指示で別れて、自身の判断で甲斐国に到ったということです。

そのように見てくると、時政の行動は『延慶本平家物語』の示すとおりで問題ないように思えます。そうならば、『吾妻鏡』も疲労で頼朝に追従出来なくなった時政に関して、湯坂路に関する記述をすることなく、休息後に追従出来たとして再会したとすれば、問題の破綻はなかったはずです。では、何故わざわざ湯本を経ての湯坂路越えの記述を入れたのでしょうか。すでに述べてきたとおり、『吾妻鏡』の時政の行動に関する記述は無理と虚構に満ちており、大いなる作為性があることは確かです。『吾妻鏡』の作為性に関しては、無から話を創作するのではなく、何らかの事実に絡めて作為を行なうのが執筆態度であることをすでに示しています(拙稿「治承五年閏二月源頼朝追討後白河院庁下文と『甲斐殿』源信義」〔Ⅱ〕『政治経済史学』第227号1985年6月参照)。とするなら、『吾妻鏡』の時政の行動に関する記述の中にも元になる事実があると考えます。『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』との比較では『延慶本平家物語』の記述に妥当性があると述べました。すなわち、時政は渡海せずに箱根山外輪山から直接甲斐国に行ったということです。ということは、時政が湯本から湯坂路を経て甲斐国に向かうとしたとの『吾妻鏡』の記述が動かすことの出来ない事実として、その後の作為の出発点となったと考えることが出来ます。

頼朝が山木夜打の前に味方する武士を一人一人呼んで、「ひとえに汝を恃むによりて、仰せ合わせられる」と、感激させたのに対して、時政に関しては、「真実密事おいては時政の外知る人なし」、と『吾妻鏡』では記述しています(治承四年八月四日条)。すなわち、挙兵にあたって、頼朝が最も信頼して頼りにしたのが時政であると『吾妻鏡』は主張しているのです。挙兵の出発点について『吾妻鏡』がこうであるなら、以後もそう主張しなければ一貫性がありません。石橋山合戦敗戦後に時政が頼朝渡海に付き合わずに、独自に甲斐国へ逃亡したなどと、記述することは当然ながらそのことに反します。そこで、甲斐国逃亡と頼朝と行動を共にしたとの間に整合性のある記述をする必要になります。それ故に、湯本から引き返して頼朝に再会して、次いで日を経て安房国に渡海して、ここで頼朝に再度再会して、この命で甲斐国に赴いたというストリーを創作・作為したと考えます。こうすれば、時政は頼朝を支えてその忠実な武士であることを示すことが出来るのです。

頼朝を最も支えたのが北条氏であるとの『吾妻鏡』の主張にとって、時政の湯坂路から甲斐国への記述は、これに反して、本来は消したい事実であったはずです。しかし、この記述は『吾妻鏡』に残されました。そこで、何故こうなったかを考えてみましょう。『吾妻鏡』編纂は北条得宗家が主導したことは確かでしょう。しかしながら、実際の執筆者は得宗家が直に行なったというより、得宗家の周辺にいた文士御家人、例えば大田氏などでしょう(五味文彦氏『増補吾妻鏡の方法』2000年吉川弘文館参照)。もちろん彼らは得宗家の意向に従って執筆したでしょう。そして、幕府関係の文書・記録を多く保持して、これらに習熟していた彼らは基本的にこれに依拠する執筆態度を取るのが当然です。だからこそ、創作・作為を行なうにも何らかの事実に絡めてこれを行なうことになります。さらに、表面的には得宗家に従う態度を取っているように見えても、それに反した本音を奥深く蔵した者もいたと想像できます。とするなら、このような執筆者が何らかの事実に絡めて創作・作為を行なうという編纂姿勢を利用して、記述の中に真実を埋め込ませようとするのは当然考えられます。すなわち、時政の湯坂路から甲斐国へ赴いた事実を、これを当初は企図したと改編して、その後の創作・作為に繋げたのです。以上考えることで、『吾妻鏡』の時政の行動記述の作為が説明できます。結論は、『吾妻鏡』の記述は大いなる創作・作為で、真実は、石橋山・椙山合戦敗北後、北条時政・義時父子は、頼朝に追従することなく、箱根外輪山を東北に湯本に至り、次いで湯坂路を経て甲斐国の甲斐源氏の下に到達した、ということなのです。

以上、『吾妻鏡』においても『延慶本平家物語』においても時政は石橋山合戦敗戦後に安房国に渡海することなく独自に甲斐国に逃走したことになります。では、時政が甲斐国へ向かう記述ではどちらがより事実を伝えているのでしょうか。時政の史料に関しては伝承も含めて、当然ながら『吾妻鏡』執筆者の方が豊富であったでしょう。おそらく、『延慶本平家物語』の筆者は時政の甲斐国逃走の事実は知っていましたが、具体的な経緯は知らず、頼朝が再結集した武士達に別れて自身で逃走するようにとの事実から、時政もその一員として、甲斐国逃走の事実と絡ませて記述したと考えます。とすならば、やはり『吾妻鏡』の記述、石橋山合戦敗北後、時政は頼朝に再会することなく、湯坂路から甲斐国に逃走したというのが事実であると考えてよいことになります。

(終わり)

(2016.10.06)

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石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その4)―歴史雑感〔26〕―

2016年09月20日 00時18分05秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、『吾妻鏡』の語る逃走経路

(その2)二、『延慶本平家物語』の語る逃走経路

(その3)三、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・上

(その4)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・中

(その5)五、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・下

 

四、『吾妻鏡』の検討・中

『吾妻鏡』の示すとおりに、石橋山・椙山から敗走して土肥郷後背の箱根外輪山に潜伏した源頼朝と北条時政が再会したことは、箱根外輪山を東北に向かい越えて湯本に至った時政が再び箱根外輪山を越えて西南に向かったことになり、進路を反転したことを意味します。前回で述べたように、石橋山から土肥郷にかけての箱根外輪山には大庭軍の武士が溢れています。時政の経路は二つ考えられます。一つ目は外輪山の中腹を南下する経路です。二つ目は外輪山尾根伝いに南下する経路です。一つ目は頼朝を捜索する大庭軍の武士の中をもろに突っ切ることになりますから、彼らに発見される可能性が極めて高く、あまり現実的ではありません。しかも、その後箱根山の永実と遇いますが、これは幸運で極めて偶然性の高いものです。この意味ではこの実現性に疑いを持ちます。、二つ目は尾根伝いですから、大庭軍の武士と遭遇する可能性は低くなりますが、それでも大庭軍が頼朝軍を追走するにあたって、土肥郷へと外輪山中腹を南に兵を散開させると共に、尾根を押さえて、芦ノ湖への退路を断つことは十分に考えられることですので、やはり大庭軍との遭遇の危険性は残ります。ただ、これを逃れて、外輪山を越えてくる行実との出会いは尾根付近でなされ、その後山を下り頼朝の所に到ったとすればそう不自然ではないでしょう。とすると、時政は尾根伝いに南下したとするので自然ではないでしょうか。中腹南下ではいくつかある谷越えとなり、行路自体が困難であり、これと比較すれば尾根伝いは楽です。しかし、時政は「筋力漸し疲れ(中略)峯嶺を登るあたわず」として、頼朝に追従出来ずに、東北に湯本に到ったのです。そうならば、湯本到達の時点で余力を残していたでしょうか。当然ながら疲労困憊の状態であったはずです。とすれば、さらに外輪山を越えて南下することには無理があると考えるのが至当です。すなわち、時政の湯本からの引き返しが事実であることには強い無理があるのです。

ところで、箱根山別当行実の弟永実の頼朝との会合はどうでしょうか。先ずどのようにして永実は頼朝の潜伏場所を知ったのでしょうか。逃走中の頼朝から支援を求めたことは考えられ、この時の所在地は伝達できたでしょう。しかし、実際に永実がここに到達するには頼朝からの使者の到達時間、永実の準備時間、永実の到達時間と、相当の時間がかかります。『吾妻鏡』では永実が頼朝と会合したのは夜となっています。とすれば、頼朝使者出発からいろいろな事情で移動している可能性がありえるとする方が自然です。しかも、夜ともなれば移動の便や捜索を思うと、会合は極めて困難といわざるをえません。さらに、『吾妻鏡』では永実は頼朝一行を箱根神社の自己の家に匿いますが、親平家方が神社にもいるため危険として、翌日には離脱して山に隠れます。このように箱根神社自身が安全地帯でないことが分かっているのに、頼朝をここに案内するのは不自然です。以上から、『吾妻鏡』の永実に関する記述は虚構性があると考えます。もちろん行実・永実兄弟が頼朝に何らかの支援を行なったこと自体は否定しませんが。

次いで、『吾妻鏡』では頼朝に再会した後、頼朝の命で甲斐国に向かうことになりましたが、隠れた頼朝の無事を確認するため引き返したとありますが、合うことはなく、岡崎義実等と共に安房国に渡海します。ここで、頼朝と再会していないのに、その命に反して渡海をしている説明が何もないことは話の流れとして不自然です。しかも、『延慶本平家物語』では頼朝以下共に隠れた7人の中に土肥実平を筆頭として岡崎義実がいます。そして、『延慶本平家物語』第二末・十六兵衛佐安房国ヘ落給事に、「兵衛佐已下ノ人々七人ナカラ皆大童ニテ烏帽子キタル人モナカリケリ」とあり、続いて十八三浦ノ人々兵衛佐ニ尋合奉事に、安房国に渡った三浦一族が海上の船を発見してこれに近寄り確かめようとした時、「輪田小太郎申シケルハ、イカニ佐殿ハ渡ラセ給カ、岡崎申ケルハ(中略)兵衛佐ハ打板ノ下ニテ是ヲ聞給」とあります。すなわち、『延慶本平家物語』では岡崎義実は一貫して頼朝と共に行動して安房国に渡海したのです。岡崎義実の行動は『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』ではどちらに妥当性があるのでしょうか。「三浦系図」(『続群書類従』第六輯上系譜部)に義実子の義忠「母中村庄司宗平女」とあるように、義実の妻は中村宗平の娘、すなわち土肥実平の兄弟です(「千葉上総系図」『群書類従』第六輯上系譜部)。頼朝に付き従った6人は『延慶本平家物語』では義実を入れて土肥実平・同子息遠平・弟土屋宗遠・甥新開実重と郎党七郎丸です。皆実平の近親者と郎党です。ここに兄弟婿の義実がいることは自然です。すなわち、『延慶本平家物語』の語る義実の行動の方に妥当性があり、『吾妻鏡』の語る義実の行動は虚構といえます。とすれば、義実と共に時政が渡海したということは、少なくとも義実が同行した点は虚構となります。

この時政の渡海に関して、『吾妻鏡』では、27日に土肥郷岩浦から乗船します。そして、同日海上で三浦一族と会合します。三浦一族は26日に本拠の相模国衣笠城から「半更」、すなわち夜遅くに離脱します。おそらく、そのまま海岸(浦賀か)に走り、遅くとも翌27日に乗船したでしょう。それぞれが朝に乗船したとすると、双方の渡海距離の差から、三浦一族の方が早く安房国に到達し、その後かなり遅れて時政が到達するのが自然です。とすれば、両者の海上会合はあり得ない虚構ということになります。

(続く)

(2016.09.20)

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石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その3)―歴史雑感〔26〕―

2016年09月10日 09時14分05秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、『吾妻鏡』の語る逃走経路

(その2)二、『延慶本平家物語』の語る逃走経路

(その3)三、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・上

(その4)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・中

(その5)五、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・下

 

三、『吾妻鏡』の検討・上

『吾妻鏡』では敗走後、時政は頼朝に再会して別れ、その後安房国に渡海して、再度頼朝に会った後、この命で甲斐源氏の下に赴いています。一方、『延慶本平家物語』では、敗走後に頼朝と再会した後、自主的に甲斐源氏の下に赴いていて、安房国に渡海した様子はありません。この『吾妻鏡』の示す時政の行動経路が通説となっていて、ほとんどの方が疑問を示すことがありません(五味文彦氏は時政甲斐国逃走説を示しています)。

さて、この『吾妻鏡』の時政の行動に関する記述には何ら問題はないのでしょうか。まず、頼朝に追従出来なかった時政の逃走について最初に「北条殿、同四郎主等は筥根湯坂を経て、甲斐国に赴かんと欲す」と記述され、これに続いて「同三郎は土肥山より桑原に降り、平井郷を経るの処、早河辺において、祐親法師軍兵に囲まれて、小平井名主紀六久重のため、射取られおわんぬ」と、時政嫡男宗時の戦死を述べます。単独行動を取って宗時は「早河辺」、すなわち小田原市早川町辺で戦死しますが、ここに至る「桑原」「平井郷」の地名は石橋山から早川一帯にかけての範囲では見当たりません。一方、時政・義時父子は「筥根湯坂」を経て甲斐国に向かうとある、「筥根湯坂」とは箱根湯本温泉から箱根新規外輪山を西へと尾根道で箱根神社に至る古道として、平安時代以来の箱根山越えの道です(『日本歴史地名体系』第一四巻神奈川県の地名一九八四年平凡社参照)。以上、時政・義時と宗時とは別経路で逃走したように見えますが、石橋山・椙山から東北に向かい、箱根外輪山を越えて湯本に至り、その後、時政・義時は西に湯坂道を、宗時は東に早川沿いに下ったとするのが至当です。すなわち、時政は東北に逃走して箱根外輪山を越えて、湯本から湯坂道を経て甲斐国へと向かおうとしたことになります。

ところが、『吾妻鏡』では夜に至り椙山に敗走した頼朝ところで再会します。この途上で、筥根山別当行実の派遣した弟永実と遇い、共に頼朝の下に行きます。頼朝は石橋山から箱根外輪山を西南へと逃走して椙山に至ったことになります。ということは、箱根外輪山を東北に向かい越えて湯本に至った時政が再び箱根外輪山を越えて西南に向かったことになり、進路を反転したことを意味します。しかるに、『吾妻鏡』八月二十五日条に、

家義御跡を尋ね奉り参上す。武衞御念珠を持参するところなり。これ今暁合戦の時、路頭に落とせしめ給う。日ごろ持ち給うの間、狩倉辺に於いて、相模国の輩多くもって見奉りの御念珠なり。よりて周章し給うのところ、家義これを探し出す。御感再三に及ぶ、しかして家義御供に候べきの由申す。実平先の如く諫申の間、泣いて退去しおわんぬ。

と、大庭軍の一員で相模武士の飯田家義が戦場で落とした義朝所持の念珠を持って頼朝の下に訪れます。このことは大庭軍の武士の中にも頼朝に心を寄せる武士がいたことを示していると同時に、大庭軍が敗走する頼朝軍、とりわけ頼朝の捕捉を求めて、箱根山外輪山を石橋山から土肥郷へと向かって西南へと追撃したことを示しています。とするなら、石橋山から椙山にかけて、さらにはその西南の筥根山外輪山には頼朝を捜索する大庭軍の武士で溢れていたことになります。

(続く)

(2016.09.10)

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阿壩藏族羌族自治州の高原の花々―四川雑感〔26〕―

2016年08月18日 09時41分22秒 | 観光(四川)

ツァーの旅行記の番外編として、阿壩藏族羌族自治州で見かけた高山植物の花々をお見せします。ただ、植物には疎いので、花名は分かりませんが。

写真1は、雅克夏雪山トンネルを出たところで停車し、道路端のを撮ったものです。

写真2は、黄河九曲第一湾の遊歩道の傍らの花です。

写真3は、花湖の湖に生えている花です。

写真4~6は、黄龍の望龍坪(展望台)から分岐点への遊歩道上で見かけたものです。


写真7~10は、分岐点から五彩池への途上で見たものです。

以上です。

(2016.08.18)

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松潘城―四川雑感〔25〕―

2016年08月08日 16時04分55秒 | 観光(四川)

2016年7月12日(火)午前、成都市に戻る途上、阿壩藏族羌族自治州松潘県城で下車して、松潘城(松州城)観光をしました。松潘城は唐代の618(武德元年)に辺境の第一線として「松州」を設置して、この政庁として築いたものです。当時から商貿易の集散地で、唐とチベットとの交流の場となりました。その後、歴代の王朝でも維持されて、明代に現在の規模となり、松州城内城外廓、瓮城(月城)・女墻(雉諜)・馬面・炮台が整い、觀陽門・延葷門・威遼門・鎮羌門・臨江門・阜清門・小西門と7つの城門があり、松州城墻全長6.2km・幅30m・高12.5mで、レンガ造りです。

写真1は、北城門(鎮羌門)とこの前に立つ漢藏和親塑像です。本像は、638(貞観12)年に吐蕃王松讚干布(ソンツェンガンフ)が松州城を攻撃した「唐蕃松州之戦」後、641(貞観15)年、唐太宗皇女文成公主が松讚干布に降嫁し両国の和平がなり、この時、松州城を経由してチベットに赴き、この故事により近年設立されたものです。なお、吐蕃国はチベット族の王国で最盛期には現在のチベット自治区・青海省・甘粛省・四川省西部・新疆ウイグル族自治区南部を覆う地域を占めており、公主死後には両国間の戦争はたびたび起こります(吐蕃国の滅亡は877年)。

写真2は、北城門です。ここから北に道はチベットに通じ、城最大の門です。

写真3は、城内からの北門です。

写真4は、城内のメイン通り北街で、ご覧のように羌族のおばあさんが歩いています。当地は、チベット族・羌族・回族・漢族など複数の民族が居住しています(昼食は回族レストランでした)。この通りは近年の城壁改修と共に改修され、古街風(観光化)になっています。

最後の写真5は、北城門から西に山に沿って延びる城壁で、ご覧のように山部分は跡のみで、山上に望楼が見えます。このように城壁は北・東・南の三方で町を囲み、さらに西に当たる山上にもあります。

以上で、今回のツァーの旅行記は終わりです。なお、フォトアルバム「四川・松潘城」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngrMx216ZEsuqIEObeAです。

(2016.08.08)

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藏迷―四川雑感〔24〕―

2016年08月07日 14時14分41秒 | 観光(四川)

2016年7月11日(月)、九寨溝観光を終え、夕方オプションの「藏迷」(九寨溝藏迷大劇院)観劇に行きました。九寨溝にはチベット族歌舞の劇場が多数あり、「藏迷」はこの最高峰といえるもので、著名な舞踏家・演出家楊麗萍の演出により、2007年11月の第五回北京国際舞踏会で初演がなされました。

開幕して最初の場面が「朝聖」(巡礼)です。藏族老阿媽(チベット族の老婆)の拉薩巡礼への出立です。写真1は、子羊を連れた老婆が五体投地で巡礼に旅立ったところです。

写真2は、さらに巡礼が進むところです。

写真3は、次の男性陣による「六弦琴」です。

写真4は、「長袖舞」です。最初は女性陣のみの舞です。

写真5は、次いで男性陣も加わり群舞となります。

写真6は、男性陣による打楽器を用いた合唱の「打青稞与情歌対唱」です。

写真7は、「打阿嘎」です。これは土を固める労働奉仕の様を舞踏化したものです。

写真8は、男性陣・女性陣が横一列になったところで、手に持った棒状のもので土を突き固めます。

写真9は、宗塔地区の民族舞踊の「夏拉舞」(シャーラ舞)です。男性舞から始まり、主演瑪占德が出て女性とやりとりをして、さらに女性陣が加わり群舞となり、これを撮ったものです。

写真10は、瑪占德と女性のやりとりで、これで終わりです。

写真11は、「服飾表演」で、「夏拉舞」の男女が引き続いて演じ、これは男性陣です。

写真12は、続く女性陣です。

写真13は、巡礼中の老婆による独唱です。

写真14は、ヤクにふんした男性が踊る「牦牛舞」(ヤク舞)です。ヤクに跨がった男性の登場です。続いてヤク群が踊ります。

写真15は、踊りの最後です。

写真16は、最終場の「転回之夢」(輪廻転生の夢)の冒頭、老婆の死です。巡礼の途上で吹雪の中で服を同行の羊に掛けてやり死を迎えます。

写真17は、老婆の来世を討議する天界の様で、鳥の神が立ち上がります。

写真18は、鳥葬で昇天する老婆です。

写真19は、鳥葬により来世に旅立った老婆を祝福しての舞です。

写真20は、演舞の最後、老婆が輪廻転生して、少女に生まれ変わっての登場です。

写真21は、フィナーレで、出演者の登場です。

は、フィナーレで、出演者の登場です。

最後の写真22は、フィナーレで老婆と少女を中心に撮ったものです。

なお、フォトアルバム「藏迷」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpF-P__8-iasWDGd2Aです。

(2016.08.07)

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九寨溝2016ー四川雑感〔23〕―

2016年08月02日 13時37分04秒 | 観光(四川)

2016年7月11日(月)、終日九寨溝観光です。九寨溝は2008年10月以来の訪問です。この時の旅行記は「紅葉の九寨溝」(2008年11月1日付)で紹介しており、かつ有名観光地なので、詳細な説明は省いて、各スポットの写真をお見せします。

専用エコバスで各スポットを巡ります。最初に訪れたのが諾日朗瀑布(高25m・幅320m・標高2343m)です。写真1は、道路横の展望台上からの滝を撮ったものですが、幅がありすぎて広角いっぱいでも収まりきれません。

写真2は、滝前の遊歩道上からほぼ中央部を撮ったものです。

写真3は、鏡海(長1155m・幅123~241m・深さ31m・水容量327万㎥・標高2367m)を上流へと撮ったものです。

写真4は、中央部対岸をとらえたもので、ご覧のように風がなく、山の木々が湖面に写し込まれています。

写真5は、五花海(長450m・幅227~313m・深さ12m・水容量60万㎥・標高2462m)を孔雀河道(五彩池が流れ出る流路)上の橋から撮ったものです。

写真6は、湖北側の広場台上から、南へいろいろな色を見せる湖を中望遠でとられたものです。

写真7は、広場台上の五花海案内碑と湖です。9時頃と早めに来たので、思ったほど観光客がおらず、綺麗に撮れました。

写真8は、道路側からの湖です。

写真9は、熊猫海(長670m・幅109~237m・深さ24m・水容量180万㎥・標高2574m)を南に撮ったものです。右の桟道は箭竹海から続く遊歩道です。

写真10は、箭竹海(長1184m・幅144~268m・深さ10m・水容量93万㎥・標高2629m)を道路側から西に撮ったものです。

写真11は、珍珠灘(長189m・幅112m・面積21225㎡・平均斜度20°・標高2450m)上にかかる遊歩道から下流を撮ったものです。この先流れが落ち込み滝となります。

写真12は、珍珠灘を渡り、下り遊歩道の途上から見た珍珠灘瀑布(高21m・幅270m・標高2433m)です。手前に花があったので、これを取り入れました。

写真13は、下り遊歩道最後のところで奥へと滝全景を撮ったものです。

写真14は、下り遊歩道側(西)の滝を撮ったものです。

写真15は、滝中央部です。ご覧のように湾曲形をしており、滝形式が「新月型」とされています。以上で、午前の観光・日則溝景区を終え、早めの昼食となり、このためまだ空いていました。

午後はまず則査窪溝景区からで、写真16は、最初のスポット点の長海(長4350m・幅200~300m・深さ80m・水容量4.5億㎥・標高3101m)の前に立つ「独臂老人柏」(片腕老人柏)を前景に入れて撮ったものです。片腕ということは、ご覧のように、右側にのみ枝が伸びているからです。

写真17は、湖を左寄りに撮ったものです。

 

写真18は、長海から遊歩道を下り、五彩池(長100m・幅40~60m・深さ7m・水容量4万㎥・標高3010m)が林間から見えたところで撮ったものです。実は前を行く赤いストールの女性は本ツァーのガイドです。四川省出身らしく、誘導棒の先の印は唐辛子のモチーフです。

写真19は、池に出たところで下流へと全景を撮ったものです。

写真20は、中央部奥です。

写真21は、池下流から全景を撮ったものです。以上で、則査窪溝景区は終わりです。

写真22は、樹正溝景区の最初の老虎海(長310m・幅171~194m・深さ25m・水容量110万㎥・標高2298m)を上流方向へ撮ったものです。続いて道路を下ります。

写真23は、樹正瀑布(高11m・幅62m・標高2295m)へ下る遊歩道上から撮ったものです。

写真24は、滝から下ったところで、振り返って撮ったものです。


滝から遊歩道を歩くと、小滝で段階上になっている樹正群海(大小18個の湖から形成・標高2187~2280m)に出ます。写真25は、遊歩道から道路に上り、道路脇の展望台上から俯瞰撮影したものです。

写真26は、群海下部の池群です。

樹正群海からは道路脇に設置された遊歩道で下ります。写真27は、臥龍海(長253m・幅216~255m・深さ24m・水容量93万㎥・標高2220m)を撮ったものです。

写真28は、横位置で撮ったものです。

写真29は、火花海(長232m・幅134~294m・深さ16m・水容量45万㎥・標高2211m)を下流側から撮ったものです。

最後の写真30は、双龍海(長290m・幅247m・深さ3~9m〔平均5.6m〕・面積26000㎡・水容量40万㎥)道路側の湖で遊歩道の反対側にも広がっています。

以上で、観光は終わりで、予定より早く楽に終了することができました(8時入溝・14時50分出溝)。本日の九寨溝観光客数は16734人(九寨溝管理局発表)で、前後の1週間では最も少ない観光客数でした(観光客数の最も少ない曜日は基本的に月曜です)。なお、フォトアルバム「九寨溝2016」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpF9C0VZv1X7x4VF8Qです。

(2016.08.02)

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黄龍2016―四川雑感〔22〕―

2016年07月28日 16時03分30秒 | 観光(四川)

2016年7月10日(日)、若爾蓋県城から川主寺・雪山梁を経て約160kmの黄龍に到着し、早い昼食後、観光となりました。黄龍はすでに「九寨溝・黄龍(2)―四川雑感〔2〕―」(2005年6月28日付)で紹介しており、かつ有名観光地(世界自然遺産)なので、詳細な説明は省いて、各スポットの写真をお見せします。

ロープウェーで上り、だらだら坂(ほぼ下り)を行くと、10分ほどで望龍坪(展望台)に着きます。ここで初めて黄龍を眼下に望めます。写真1は、ここで黄龍を撮ったものです。眼下に見える池群は争艶池で、またスポット間の遊歩道も見えています。左奥に見える建物は左が黄龍中寺で右が杜鸚鵑林休息中心(売店・食堂)です。これらの建物の左奥で、最奥の五彩池への分岐点となり、そこまでは林間の遊歩道(板張り)となります。

遊歩道をさらに30分あまりで分岐点(ロープウェー乗り場へ2100m・出口へ3196m)に至り、道は上りとなり15分ほどで五彩池(分岐点から430m 面積2万1千㎡・693個池・標高3576m)に着きます。五彩池を囲む遊歩道は時計回りとなります。写真2は、五彩池奥(南)から黄龍後寺を背景に池全景を撮ったものです。

写真3は、望遠で池内の石塔の一つを中心にとらえたものです。この下にもう一つの石塔があります。

写真4は、やはり望遠で前の池とは少し色模様の異なる所を撮ったものです。池を受け止めている壁の岩の色も異なります。

写真5は、池を囲む遊歩道の最上部(西)から全景を撮ったものです。

写真6は、五彩池最後として望遠でとらえたものです。

五彩池の後、黄龍洞も訪れ、以上で約50分滞在した後、下りの各スポットに向かいます。最初のスポットは黄龍中寺を過ぎた争艶池(面積2万㎡・658個池・標高3400m)です。写真7は、下り(北)へとこの全景をとらえたものです。

写真8は、斜め横から撮ったものです。

写真9は、横から撮ったものです。

写真10は、さらに下って先端部の池群を撮ったものです。

写真11は、娑夢映彩池(面積6840㎡・400余個池・標高3415m)です。

写真12は、明鏡倒映池(面積3600㎡・180個池・標高3400m)です。

写真13は、上からの盆景池(面積2万㎡・330余個池・標高33020m)です。

写真14は、下流への金沙舗地(長1200m・幅120~44m・標高3305m)です。この上流にも続き、御覧のように黄色の岩面であり、上から見れば黄色い龍が横たわっているようです。

写真15は、逆に上流への金沙舗地です。

写真16は、金沙舗池が流れ落ちる洗身洞(高10m・幅40・標高3280m)です。下ってくるときの最初の滝です。ご覧の滝中心に見える洞は高1m・幅1.5mです。

写真17は、不思議な形をした瘤上隆起の続く蓮台飛瀑(滝長167m・幅19m・高低差45m・標高3260m)です。

写真18は、滝の最後の飛瀑流輝(高14m・幅68m・標高3245m)です。

最後の写真19は、スポットの終わりの迎賓池(面積9600㎡・350余個池・標高3230m)です。本来は上っていくのですから、最初のスポットなのでこの名称が付きました。

以上、五彩池から下って、各スポットで撮影をしながら出口まで約1時間40分かかりました。また、総観光時間はロープウェー下車後約3時間30分でした。なお、フォトアルバム「四川・黄龍2016」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpF8rDvbqIzvkocPFgです。

(2016.07.28)


 

〔追記〕 「九寨溝・黄龍(2)―四川雑感〔2〕―」(2005年6月28日付)も。

 

(2016.08.28)

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花湖―四川雑感〔21〕―

2016年07月25日 20時34分00秒 | 観光(四川)

2016年7月9日(土)午後、花湖を観光しました。黄河九曲第一湾からは北に約90kmの行程です。若爾蓋県城までの省道209号が補修工事中のため予想以上に時間がかかりました。

花湖は、若爾蓋草原上に位置し、標高3468mです。若爾蓋県城からは国道213号で北に約40kmです。入場料75元・エコバス30元で、保険料5元を含み、総計110元です。若爾蓋県城へは成都市から茶店子発のバスで、花湖へはタクシー利用となります。

写真1は、遊歩道を歩き一番南側の展望所から西に花湖を撮ったものです。ご覧のよう草原上の湖です。

写真2は、遊歩道上から東南に国道213号を望んで西からの花湖に続く湿原を撮ったものです。

写真3は、湿原の花湖寄りを撮ったものです。

写真4は、花湖です。以上、花湖といっても実際は草原上の湖で、花はほとんど見られませんでした。

写真5は、遊歩道上からエコバス終点への湿原を撮ったものです。

最後の写真6は、花湖です。手前に名は知りませんが、水草の花が咲いていました。

なお、フォトアルバム「花湖」はhttps://1drv.ms/i/s!AruGzfkJTqxngpFyrEsuYds0OWTCJgです。

(2016.07.25)

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