歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

南方長城―中国雑感〔30〕―

2017年05月16日 09時08分26秒 | 観光(中国)

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城

 

25日(火)午前の観光は南方長城です。本長城は明の万暦年間(1573~1620年)に建設が開始されて、北は湘西古丈県の喜鵲営から南は貴州銅仁境内の鳳凰県黄会営までの全長190kmに、苗族などの少数民族対策として築かれたものです。現在は鳳凰県沱江鎮の西約15kmの「金勝営」が整備されています。

写真1は、東門です。

写真2は、東城壁を上り、途上から下を見たものです。

写真3は、東城壁中間にある砲台に据えられた大砲です。対面の山を目標にしています。

写真4は、東城壁を上り、北城壁に至ったところから営所「金勝営」を見下ろしたものです。

写真5は、東城壁です。

写真6は、北城壁の望楼です。

写真7は、北城壁です。

最後の写真8は、西城壁を下ったところにある望楼です。

なお、フォトアルバム「湖南・南方長城」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngssK5hBghDqfzLZXsgです。

(2017.05.16)

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鳳凰古城ー中国雑感〔29〕―

2017年05月14日 14時28分59秒 | 観光(中国)

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城

 

24日(月)午前、張家界から鳳凰へ高速道路経由で移動です。昼食後、午後は鳳凰古城観光です。鳳凰古城は湖南省湘西土家族苗族自治州鳳凰県沱江鎮、州都吉首市から南52kmの距離にあります。本古城は明嘉靖35年(1556)に創建されてから約400年余の歴史があります。

写真1は、南華門(西門)から鳳凰古城内に入り、門内の筆架山公園から南華門城楼を右に置き左への城壁を撮ったものです。写真ではお見せしませんが、公園中心には大きな鳳凰像が鎮座しています。

写真2は、東門へと続く老楽街から脇にそれた中営街です。

写真3は、中営街にある沈従文故居です。四合院作りです。沈従文(1902~88年)は小説『返城』(1936年)で著名な作家です。

写真4は、沈従文の居室復元です。ご覧のように蓄音機をベッド横に置いていました。

写真5は、老楽街です。

写真6は、北門城楼です。古城北城壁に沿った沱江南岸からです。

写真7は、沱江にかかる跳岩です。これで川を渡れます。雨模様のため渡る人が少なく、無人の時を狙って撮りました。

写真8は、手前から順に跳岩・木橋・雪橋・鳳凰大橋です。

写真9は、北門城楼の沱江南岸の沱江乏舟(遊覧船)乗り場から遊覧船に乗り東へと下り、虹橋を撮ったものです。虹橋は木造二層で明の洪武7年(1374)創建です。前の舟をご覧のように遊覧船は手漕ぎです。

写真10は、虹橋を潜り、吊脚楼群を撮ったものです。ご覧のように木柱で建物を支えていることからこの名が付きました。

写真11は、万名塔です。沱江沙湾に位置し、塔高22.98m・一層直径4.5mの六角7層です。

写真12は、舟から北岸に降り、船上の歌姫を撮ったものです。右上に吊脚楼と虹橋一部が見えています。

写真13は、虹橋から見た沱江上流域です。跳岩・木橋・雪橋・鳳凰大橋が遠望できます。

写真14は、万名塔で、その左の樹木に隠れて見える建物が万寿宮です。また、右側の川に突き出ているのが奪翠楼です。

夜は古城夜景の観光です。写真15は、鳳凰大橋上からの雪橋です。

写真16は、鳳凰大橋上からの沱江上流域です。ご覧のように木橋を夜でも渡っています。

写真17は、川岸に下りて雪橋を撮ったものです。

最後の写真18は、逆に鳳凰大橋を撮ったものです。

なお、フォトアルバム「湖南・鳳凰古城」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngsphJXojBMRbz1aolAです。

(2017.05.14)

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武陵源索渓峪・黄龍洞―中国雑感〔28〕―

2017年05月12日 09時22分07秒 | 観光(中国)

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城

 

23日(日)午後の観光は武陵源索渓峪・黄龍洞です。黄龍洞は武陵源区から東に約7kmの距離にあり、総延長7.5kmもある鍾乳洞です。

写真1は、洞に入ってすぐの所にある双門迎賓です。ご覧のような人一人が通れる空間が2つあることから名付けられました。

写真2は、龍舞庁です。たくさんの石筍が立っています。

写真3は、金戈銀槍です。石筍の形状からの命名です。

さらに進むと、渡船場(啊水河一碼頭)に出ます。ここから船に乗り、洞の川を遡ります。写真4は、海螺吹天と名付けられたところです。

写真5は、鉄樹開花と名付けられた石筍です。その後、二碼頭まで行ったところで戻りとなりました。

最後の写真6は、もどりのものです。前方奥にこちらに向かう船が見えます。なお、洞内は暗いのでISO3200まで上げても、本写真ではシャッタースピード1/6と遅く、手前の岩は流れていることがお分かりでっしょう。

なお、フォトアルバム「湖南・武陵源黄龍洞」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngspVYZfogGt95VnD1Aです。

(2017.05.12)

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武陵源索渓峪・十里画廊―中国雑感〔27〕―

2017年05月10日 16時04分39秒 | 観光(中国)

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城

 

23日(日)午前の次の観光は武陵源風景名勝区の索渓峪自然保護区の十里画廊景区です。金鞭渓~専用バスでまず移動します。徒歩道もありますが、モノレール軌道のトロッコ電車で観光です。

往路は右側の席だったので、景勝が撮れず。終点までは眺めるだけです。写真1は、トロッコ終点の広場からの三姐妹峰です。

写真2は、三姐妹峰を中心に撮ったものです。

写真3は、三姐妹峰を縦位置で撮ったものです。

写真4は、広場から三姐妹峰の反対側、下流の石峰群です。

写真5は、その真ん中の石峰を拡大したものです。

写真6は、帰路の電車内から撮ったものです

 

写真7は、さらに下ったところです。

最後の写真8は、すれ違うトロッコ電車です。軌道が跨座式のモノレールであることがお分かりでしょう。そして、平行して遊歩道があります。

なお、フォトアルバム「湖南・武陵源十里画廊」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngspDiOY9VY6u62GeNQです。

(2017.05.10)

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武陵源索渓峪・金鞭渓―中国雑感〔26〕―

2017年05月08日 15時07分41秒 | 観光(中国)

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城

 

23日(日)午前最初の観光は武陵源風景名勝区の索渓峪自然保護区の金鞭渓景区です。本景区最下流の水繞四門まで専用バスで移動してから、前日の観光が三条からと異なり、渓谷を徒歩となります。

写真1は、しばらく行ったところの石峰群です。

写真2は、この拡大です。

写真3は、本渓谷中間点で小さな広場となっている南亭の所に立っている保塔峰です。時間の関係でここから戻りです。

写真4は、少し位置を変えて撮った保塔峰です。

写真5は、戻りで道を変えて河原から遠望した保塔峰です。

写真6は、下った右岸の石峰群です。

写真7は、この拡大で逆光なので太陽を入れてみました。

最後の写真8は、さらに下ったところで最初の石峰群を右岸から撮ったものです。

なお、フォトアルバム「湖南・武陵源金鞭渓」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngsll-4jH4zeqjtx1UQです。

(2017.04.08)

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武陵源天子山―中国雑感〔25〕―

2017年05月06日 09時34分01秒 | 観光(中国)

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城

 

22日(土)午後の観光は武陵源風景名勝区の天子山景区です。張家界界景区の天下第一橋先の袁家寨で昼食後、専用バスで移動してきました。

賀龍公園を過ぎて天子閣の先にある御筆峰が最初の観光地です。写真1は、西側に位置するこの全景です。

写真2は、縦位置で撮った御筆峰です。奥右側の立った3本の柱群がそうです、高100m余です。

写真3は、横位置からのものです。

写真4は、3本の石柱群の御筆峰を見たものです。中央のは筆を置いたの「江山」に似ているとしています。右側のは差し込んだ筆を倒したとされます。

写真5は、御筆峰の頂点部を望遠で拡大して撮ったものです。

写真6は、御筆峰の反対側、東側にある仙女散花全景です。

写真7は、仙女散花で、左側に小さく2つ写っている岩がそれです。

写真8は、仙女散花を望遠で拡大したものです。岩の形が花籠を持った女性のように見えるためこの名が付き、上が姉で下が妹の姉妹です。

天子閣から専用バスで天子山索道上站に移動しました。写真9は、上站から撮ったものです。現在の8人乗りの天子山索道は2016年2月に開通して、全長が2091mで乗車時間が6分間です。

写真10は、下る途上から下を撮ったもので、下遠くに下站が見えています。

最後の写真11は、逆に上を見て撮ったものです。

なお、フォトアルバム「武陵源天子山」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngslOiIjyjS74JtXiXAです。

(2017.05.06)

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武陵源袁家界―中国雑感〔24〕―

2017年05月04日 20時17分19秒 | 観光(中国)

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城

 

22日(土)午前の観光は武陵源風景名勝区の袁家界景区です。遅れると混雑するというので、7時半に出発しました。ホテルから徒歩距離の武陵源門票站から専用バスで百龍天梯下站下車です。

写真1は、2002年に運行界開始した運行高度326mを66秒で上る百龍天梯(エレベーター)です。「世界第一梯(世界一のエレベーター)」碑が立っています。3基のエレベーターが設置されています。ご覧のように2基が百龍天梯上站です。

写真2は、エレベーター内から撮ったものです。64人乗りで、後から乗り込んだので頭越しに撮りました。

写真3は、専用バスで迷魂台に移動して、遊歩道を歩いたところで撮ったものです。色々な石柱が立っています。

写真4は、さらに拡大して石柱をとらえたものです。

写真5は、上の写真の左側の上部が三角形の石柱をより拡大したものです。

写真6は、右側の石柱をより拡大したものです。

さらに進み、映画「アバター」のモデルとなった石柱の所に出ます。ここには「アバター」に乗った撮影場所がありますが、写真7は、ここでその石柱、すなわち乾坤柱(懸浮山)を撮ったものです。

写真8は、さらに進んで、乾坤柱全景を撮ったものです。

写真9は、上半部を拡大したものです。

写真10は、さらに進んで、天子峰を遠望したものです。

写真11は、天下第一橋です。

最後の写真12は、同じく天下第一橋です。

なお、フォトアルバム「湖南・武陵源袁家界」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngsk0vOs4r-rBRtgIQQです。

(2017.05.04)

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武陵源索渓峪・宝峰湖―中国雑感〔23〕―

2017年05月02日 14時05分41秒 | 観光(中国)

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城

 

21日(金)午後は宝峰湖観光です。宝峰湖は世界自然遺産の武陵源風景名勝区の索渓峪自然保護区に位置します。ここの観光は船です。

写真1は、「宝峰湖」石碑と渡船場です。ここから乗船します。

写真2は、前を行く船を写し込んだものです。

写真3は、山峰です。武陵源の特徴である立った峰です。本湖で見る峰は高さがそれほどはありませんが。

写真4は、民歌を唄う土家族の衣装の女性です。他の所では男性の歌い手もおり、観光に花を添えています。

写真5は、湖から立つ独立石柱です。

小島の先の岩壁を過ぎると湖が広がり、戻りとなります。写真6は、これを撮ったものです。

最後の写真7は、戻りの時、前方近くに船を入れて撮ったものです。

なお、フォトアルバム「湖南・武陵源宝峰湖」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngsklPrzW71DlmLnnsQです。

(2017.05.02)

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天門山―中国雑感〔22〕―

2017年04月30日 14時38分53秒 | 観光(中国)

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城


クラブツーリズム主催「武陵源と圧倒の天門山 幻想の美しき鳳凰古城 絶景めぐり7日間」(2017年4月20日〔木〕~26日〔水〕)で、中国に行ってきました。本ツァーの基本旅程は、

20日(木)午後成田発上海着(東方航空) 夜上海発張家界着(上海航空) 張家界泊

21日(金)午前天門山観光 午後武陵源索渓峪・宝峰湖観光 武陵源泊

22日(土)午前袁家界観光 午後天子山観光 武陵源泊

23日(日)午前金鞭渓・十里画廊観光 午後黄龍洞観光 張家界泊

24日(月)朝張家界発 午後・夜鳳凰古城観光 鳳凰泊

25日(火)午前南方長城観光 午後鳳凰発 夜張家家界発上海着(上海航空) 上海泊

26日(水)朝上海発成田着(東方航空)

です。

最初の観光地は天門山です。天門山国家森林公園は湖南省張家界市永定区黎坪に位置します。まず、7455mの天門山索道(ロープウェー)で上ります。約30分の行程で世界一長いものです。

写真1は、山麓站(駅)からのものです。ご覧のように民屋の屋根近くを越えていきます。

写真2は、前方に鉄道の張家界站を見たもので、ちょうど列車が入線中です。前方の山を越えて、いったん下り、急な上りとなります。

上っていくと、左に天門洞が見える位置に来ます。写真3が、これです。

写真4は、山頂站からの鬼谷桟道上から、ロープウェーを撮ったもので、左の岩壁に隠れたところが山頂站です。

写真5は、玻璃(ガラス)桟道をガラス越しに下を撮ったものです。岩壁に沿って設置されていることがお分かりでしょう。ご覧のように、ガラス保護のため赤の靴カバーを付けます。

写真6は、玻璃桟道を過ぎたところから玻璃桟道を少し見下ろしたものです。

写真7は、同じところから下の七曲りの通天大道(盤山公路)を撮ったものです。天門洞下広場まで通じており、専用バス移動となります。

写真8は、桟道が終わり、天門洞下広場への登天門エスカレーターです。近年に起きた崩落事故で天門洞は強化工事中で、階段は通行禁止のため、エスカレーター利用となりました。

写真9は、広場右から見た天門洞です。

 

写真10は、天門洞を中心としたものです。

写真11は、天門洞を横位置で撮ったものです。

写真12は、広場正面からの天門洞です。

付けたりの写真13は、24日(月)朝、張家界国際大酒店の部屋から遠望した天門洞です。マンション間に見えたのを望遠で引きつけました。

なお、フォトアルバム「湖南・天門山」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngskMQfEC6cNAhNsdrgです。

(2017.04.30)

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太尾堤緑道の桜

2017年04月07日 15時16分46秒 | 観光(日本)

2017年4月6日(金)、太尾堤緑道の桜を見に行きました。以下の写真をご覧になられば分かるように、満開には少し早く7分咲きです。

付けたりとして、足を伸ばした新横浜堤の桜もお見せします。

フォトアルバム「太尾堤緑道の桜」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngshqN61uE9CMy_bqzgです。

(2017.04.07)

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源義経が6男とは―歴史雑感〔32〕―

2017年03月30日 19時47分53秒 | 日本史(古代・中世)

源義経は「九郎判官」として知られているように、義朝の9男であり、このことは『尊卑分脉』第四篇に、義平・朝長・賴朝・義門・希義・範頼・全成・円成・義経の順に記載されていることからも確かめられます。

ところが、『吾妻鏡』文治5年閏4月30日条の奥州平泉の衣川舘に藤原泰衡勢の襲撃を受けて自害した記事で、その官暦冒頭に「左馬頭義朝々臣六男」と記載されています。ここでは義朝の6男とされているのです。『吾妻鏡』治承4年10月21日条の義経の初見記事、すなわち賴朝との初対面記事では「奥州九郎」と表記されおり、以後左衛門尉に任官するまで、一貫して「九郎」の表記に変化はありません。6男とするのは上記の条のみなのです。これは不可思議な表記です、何を基準としてかかる表記となったのでしょうか。改めて考えてみます。

義朝の男子で僧籍に入ったのは義経の同母兄の全成・円成の2人です。『本朝皇胤紹運録』(群書類従第五輯・系譜部)では法親王が設けられると、以後の系譜の男子は親王そして法親王の順で記載されています。『尊卑分脉』藤原氏では、公家系譜の男子は俗人・僧籍の順に記載されおり、武家系譜の男子では僧籍は例外的に少なく俗人の後となっています。同書清和源氏では、俗人と僧籍を混在している場合と、俗人・僧籍の順となっている場合があります。特に義家五男為義嫡男義朝流では混在となっています。そこで、『吾妻鏡』は義経自害記事においては公家に倣ったとすれば、俗人として生涯を終えた男子の順であり、義経は7男となります。

ですがまだ一人足りません。『尊卑分脉』のみに見え、他の史料での確認が出来ず、若死にしたと考えられている義門が『吾妻鏡』執筆時期の他の系譜類に所載がなかったとしたら、一人減り6男となりましょう。そこで、『義経記』巻第二・遮那王殿元服の事で、

左馬頭殿の子ども、嫡子悪源太、二男朝長、三男兵衛佐、四蒲殿、五郎げんじ君、六郎は卿の君、七郎は悪禅師の君、我は左馬八郎とこそ云はるべきに、保元の合戦に叔父鎮西八郎名を流し給ひし事なれば、その跡をつがん事よしなし。末になる共くるしかるまじ。我は左馬九郎と云はるべし。

と義経は宣言します。ここでは義門は不在で、義平・朝長・賴朝・範頼・希義・義円・全成そして義経が8男となっています。そして、本来は八郎と名乗るところが、叔父の鎮西八郎為朝が有名であり、この跡を継ぐのは憚るので、玄人称するのだと義経は宣言します。『義経記』の成立は南北朝・室町初期とされます。すなわち、『義経記』では兄弟の順は『尊卑分脉』と異なり、かつ義門は存在せず、8男義経の認識ということになります。

この8男義経の認識は何時生まれたのでしょうか。『吾妻鏡』が義経を6男と表記していることは僧籍の2人を除いたことで表記といえますから、6男とは8人兄弟の末弟ということになります。すなわち『義経記』の認識と一致するのです。『吾妻鏡』は何らかの史料に基づいて、義門は存在せず義朝の男子は8人兄弟と認識したことになります。すでに『吾妻鏡』執筆時時と考えられる鎌倉後期に義門がおらず男子が8人兄弟との史料(系譜類など)が存在していたことになります。ただ、『義経記』の述べるように、八郎為朝を憚って九郎と義経自身が仮名を改めたというのは、他に裏付けがなく、本当とはいえないかもしれません。いじょうで、『吾妻鏡』が義経を6男と表記したことが理解できましょう。

ですが、摂関家九条兼実の日記『玉葉』の初見である寿永2年閏10月17日条に「賴朝弟九郎」と記載されているように、義経生存中に「九郎」と称されていたのです。いわば、義経が「九郎」であることは周知の事実であったのです。とすれば、『吾妻鏡』執筆者はこのことを当然ながら知っており、だからこそ他の記載では「九郎」と表記したのです。そうならば、何故義経自害記事の官暦に6男と記したかやはり謎です。九郎と6男との間に整合性がないからです。この点を謎として残しておきます。

(2017.03.30


 

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町田市の鎌倉道址―歴史雑感〔31〕―

2017年03月19日 15時46分12秒 | 日本史(古代・中世)

2017年3月18日(土)、武蔵野文化協会主催の「町田の鎌倉道(上ツ道)を歩く」に参加しました。そこで、町田市の鎌倉道上ツ道址を紹介します。

写真1は、七国山の鎌倉道上ツ道址です。左見える石碑には「七国山鎌倉街道の碑」と刻しています。この石碑の道手前には「鎌倉井戸」(1.5m地下に円筒形の直径70cmの井戸が原型のまま現存)で、地上に井桁を再現して保存している。ここへは神奈川中央交通バスの町田駅前発野津田車庫行で今井谷戸下車です。この地一帯は七国山緑地保全地区に都から指定されています。

写真2は、華厳殷から野津田公園に上がっていく道の所の鎌倉上ツ道址を下へと見たところです。ここは発掘のトレンチが行なわれて、道路遺構であること確認されました。ここを上りきると、野津田公園に出ます。その右手正面奥が縄文から近世に至る複合遺跡である野津田上原遺跡です。中世遺構として5本の道路遺構が確認されています。ここへは神奈川中央交通バスの町田駅前発野津田車庫行で袋橋下車です。

最後の写真3は、井手の沢古戦場址の「史蹟井手の澤」石碑です。1960年設置のもので、菅原神社社殿左手にあります。1335(建武2)に中先代北条時行軍と迎撃する足利直義軍との間で戦われた井手合戦を記念するものです。実際の井手の沢は神社本殿の右側(西)の谷です。ここの地で府中から多摩丘陵の起伏ある鎌倉道が鎌倉まで平坦な道となります。この意味でこの地は防衛上の要地といえます。菅原神社へは菅原神社前下車(数路線あり)です。

(2017.03.19)

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横浜市馬場花木園の梅

2017年02月25日 20時33分50秒 | 観光(日本)

2017年2月24日(金)午前、横浜市馬場花木園(横浜市鶴見区馬場2−20−1)の梅を見に行きました。それほどの本数はありませんが、梅園となっています。最寄りのバス停は、横浜市営バスの西寺尾建功寺前(38系統横浜駅西口・鶴見駅西口、41系統新横浜駅前・鶴見駅西口)と隣接した臨港バスの東高校入口(鶴01系統菊名駅前・鶴見駅西口)で、徒歩約8分です。

以下に梅の写真をお見せします。

 

横浜市馬場花木園の公式サイトはhttp://www.hama-midorinokyokai.or.jp/park/babakabokuen/です。

(2017.02.25)




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白河小峰城―歴史雑感〔30〕―

2017年02月21日 19時46分49秒 | 日本史(近世・近代)

2017年2月17日(金)、白河小峰城に行ってきました。本城は14世紀中期(南北時代)に結城親朝が築城したと伝えています。現在の城址は、江戸時代に入り、1627年(寛永4)に白河藩初代藩主となった丹羽長重が1632年(寛永9)まで約4年を費やし大改修したものです。本丸・竹之丸・二之丸・三之丸と梯郭式平山城となっています。本丸・竹之丸・二之丸を中心とした16万3千㎡が史跡となっています。三之丸は現JR東北本線白河駅の南まで広がっていました。城全域は約54万㎡と推定されます。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟軍が本城を拠点として新政府軍と戦い、多くの建物を焼失させました。1991年(平成3)に三重櫓、1994年(同6)に御前門を木造で復元再建しました。二之丸の南に隣接して、JR東北本線白河駅があります。なお、城山公園(白峰城)南口から入ると、西側に白河集古苑があり、「白河結城古文書館」と「阿部家名品館」からなっています。開館時間は9時~16時(月曜休館日)・入館料320円です。

写真1は、二之丸からの本丸・竹之丸の望見です。

写真2は、東北大震災で崩壊した竹之丸石垣の修復工事中の様子です。石垣を組み直すため、目印の札を石に付しています。

写真3は、本丸の裏門に当たる竹之丸からの桜門への道です。

写真4は、本丸です。奥に復元された三重櫓と御前門が見えています。

写真5は、本丸正門の御前門です。

写真6は、3層3階の三重櫓で手前左にはおとめ桜があります。

最後の写真7は、三重櫓二層内部です。本櫓は「白河城御櫓絵図」と発掘調査に基づき、ご覧のように木造で忠実に復元されました。復元用材には近くの戊辰戦争激戦地の松波稲荷山の杉の木も用いられており、この中は弾痕跡のあるのもあります。

なおフォトアルバム「白河白峰城」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngshQlrQ16x_cq1lYyAです。

(2017.02.21)

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大塚・歳勝土遺跡―歴史雑感〔29〕―

2017年02月12日 19時20分07秒 | 日本史(古代・中世)

2017年2月10日(金)、大塚・歳勝土遺跡公園に行ってきました。本公園は、弥生時代中期の環濠集落遺跡である大塚遺跡と方形周溝墓の歳勝土遺跡を含んで、これらを保存するためにも一帯を横浜市が公園化したものです。最寄り駅は横浜市営地下鉄ブルーラインのセンター北駅で東に徒歩約8分です。道路を挟んで西に横浜市立歴史博物館があります。本遺跡遺物も展示されています。

本公園は南北を谷に挟まれた東西に広がる丘陵上にあります。公園入口から北に竹林を上がっていくと地形模型のある広場に出て、「国指定史跡 大塚・歳勝土遺跡」の石柱が立っています。この左手(西側)に大塚遺跡があります。写真1は、本遺跡入口です。開園時間は9時~17時(休園日 月曜日〔祝日の場合は翌日〕、年末年始)です。

写真2は、環濠集落本来の入口に当たり、遺構から堀上に木橋(材質ナラ)が架けられていたのを復元したものです。木柵・土塁は空堀(最大で幅4.5m・深さ2.5m)の外側にあります。遺跡全体の東側約1/3が保存保護されて、この保護部分全周250mを柵・土塁・空堀が囲んでいます。

写真3は、復元された住居です。7棟が復元展示されています。入母屋造りで主柱は檜で屋根は茅です。この他、住居址20棟が保存されてその位置を石で囲んでいます。遺跡全体は約1.5mの盛土で保存されています。

写真4は、発掘調査時の住居跡を再生したものです。遺跡のほぼ中央にあるY-17号住居址で2回建て直されたと考えられています。特殊加工のガラス繊維強化樹脂セメントで再生しており、中に入れます。

写真5は、復元した高床倉庫です。柱に円形状に付けられた板はネズミ返しです。また、入口へは厚板・丸木に足掛けを刻んだ一本梯子で上ります。

大塚遺跡を出て、南に少し行くと、歳勝土遺跡です。本遺跡は大塚遺跡の住民の墓地と考えられています。写真6は、方形周溝墓の埋葬内部を復元したものです。中央に穴があり、ここに棺が納めれていたと考えられます。

最後の写真7は、盛土上に復元した埋葬当時の方形周溝墓です。3基が復元されています。右側には墓の位置を石で囲って保存しています。

(2017.02.12)

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