歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

衣川北岸の安倍氏・奥州藤原氏関係地―歴史雑感〔64〕―

2021年04月24日 18時49分47秒 | 日本史(古代・中世)

2021年4月16日(金)午前、昨年6月には雨のため行けなかった、衣川北岸流域に分布する安倍氏・奥州藤原氏に関係する地を巡りました。接待館遺址・並木屋敷跡(衣川柵)・小松館跡・安倍一族鎮魂碑の順で回りました。

国道300号を北上して衣川を渡り、少し行ったところで道を左(西)に取り道なりに行くと、最初の訪問地の接待館遺址(奥州市衣川区六日市場・七日市場・関谷起)です。平泉駅からだと早足の私だと約40分強でしょう。本遺址は2004・5年に衣川左岸築堤工事に伴う発掘調査が行われました。これにより柳之御所に匹敵する、堀と二重の土塁で囲まれた、東西120m・南北65mの12世紀後半の施設が確認されました。本遺址部分は埋め戻されて保存されています。本館は藤原秀衡の母の居館と伝えられ、ここで旅人接待したので、接待館との名が伝えられたのです。さらに秀衡・泰衡の代には秀衡舅の前陸奥守藤原基成の館である衣川館の可能性が高いです。すなわち、源義経が襲われた衣川館の可能性です。なお、「六日市場・細田・接待館遺跡発掘調査報告書」はhttps://sitereports.nabunken.go.jp/ja/12690からダウンロードできます。

写真1は、衣川堤防上から遺址を東から西へと撮ったものです。左隅に「国指定史跡「柳之御所・平泉遺跡群『接待館遺跡』」の説明板が立っています。その左の平地の割れ下がったところが堀跡です。

写真2は、同じく堤防上の西から東への本遺址です。

写真3は、本遺址の西から東北へと撮ったものです。

写真4は、本遺址上から北へと撮ったもので、杉林とその右の竹林へと土塁跡が続いています。

次いで道なりに行くと、10分弱で衣川柵と伝える並木屋敷(奥州市衣川区並木前)跡に着きます。道の北側に跡が広がり、案内板があります。この地は永承元年(1045)頃に安倍頼時が本拠を構え、政庁とした地と伝えられています。当時は桜並木で囲まれていたと伝えられており、並木屋敷と呼ばれています。なお、衣川柵と称していますが、安倍氏期には柵はなく、後の清原武則・武貞・真衡3代の政庁(居館)となり築かれたと伝えられています。

写真5は、説明板側(東)から北へと撮ったものです。ご覧のように当地は畑と住宅地になっています。

さらに道なりに行き、また衣川を渡ったところが小松館跡(奥州市衣川区横道下)です。5分ほどでした。小松館は安倍貞任の叔父僧良照の館と伝えられ、東は衣川の断崖、西・南は小成沢の崖で囲まれた北から続く大地上に築かれたもので、東西60m・南北160mの規模でした。安倍氏滅亡後は荒廃しましたが、貞治5年(1366)に葛西氏の家臣破石氏が居館を構えました。

写真6は、道路から北へ館跡を撮ったものです。館跡は畑で段となっています。

写真7は、橋から館跡を撮ったもので、ご覧のように衣川の断崖となっています。

国道300号へと道を戻り、先のガソリンスタンドのところで、道を左に取り少し行くと、安倍一族鎮魂碑(奥州市衣川区九輪堂)があります。20分強でした。最後の写真8が、それで、「みちのくの名将安倍一族鎮魂碑」とあります。

最後に、私は徒歩で巡りましたが、平泉駅前にレンタサイクル屋さんがあります。ほぼ平地ですから、自転車利用の方が利便性もあり、今回は省略した長者ケ原廃寺跡等を巡るのも楽です。

(2021.04.24)

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