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新聞もテレビもなかった150年前の安政大地震と、61年前の昭和南海地震がどうして比較できるのでしょうか?
それは震災の後、当時の名主や大庄屋が自分の村やその周辺を見て回り、被害状況を克明に記録していたものが古文書として残っているからです。 ホー

しかし多くの岡山県民はそのような古文書があること自体知りませんし、図書館の書庫に保管されたこれらの古文書を目にすることも一生無いでしょう。ネットで検索しても、その概要さえ定かではありません。
そこで、手元の冊子から抜粋して、一部をここで紹介することにしました。

手元にある「岡山県南部における南海地震の記録:昭和南海地震・安政南海地震」は当時の古文書や「岡山県三国地図」や新聞報道などを使用して、大変わかりやすく興味深くまとめあげられています。

「岡山県備前県民局」が制作した渾身のこの冊子には、25ページのものと29ページのものの2種類ありますが、蔵書検索の結果、岡山県下の図書館には現在25pのものしか所蔵されていないようです。29pの方が余程面白く価値もあると思うのですが…… 
29pの方も、そのうち収蔵されるのかなぁ?



以下は29ページの冊子を参照したものです。


■【日笠家文書】【矢吹家文書】による安政南海地震の概要

11月4日朝五つ時(1854年12月23日午前8時頃)過ぎにかなり大きな地震があり、同日の夕方にも3度地震があった。
5日の晩七つ時(24日午後4時頃)に大地震が起こり、長い間揺れた。南西の方角からどろどろという大きな音が聞こえて、実に恐ろしく記述出来ないほどの大変な揺れであった。

地震の揺れは長い揺れにつき、3~4丁(330~440m)離れたところへ行って帰るほど長時間揺れた。(1分間に70m歩くとして10分強)

5日夕方の大地震の後、夜五つ時(午後8時頃)頃再び大揺れし、夜通し休み無く揺れが続いた。
6日朝にも一度相当な揺れがあった。
同日から10日頃にかけては、日中に3、4度、夜には3~5度、10日には一日に2、3度14、15日頃には小さい揺れが一昼夜に2、3度くらいとなり、次第に収まった。


■【虫明村記録】による津波の記録

安政元年の大地震の際には、海嘯(津波)があった。
一昼夜に海水の進退は2、30回におよび、満潮時には一時平水よりおよそ7尺(約210cm)も高くなり、このために瀬溝海峡(長島と本土の間)はおよそ3尺余(約90cm)の土砂で塞がれ、扇浜(虫明地区)は泥土2尺(約60cm)で埋まってしまった。それまでは300石摘の船舶が停泊していたが、いまは漁船が入るのみ。





つづく

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