大相撲をTVで見ていると、立会いと同時にはり手をくらわす力士が以外に多いのに気がつく。相手の横っ面を手のひらではたくわけだが、これも立派な技のひとつらしいが、いわゆるキレイな技とは言いかねるようだ。もちろん通常世間においては人の横っ面を張るなどということは一種の暴力行為に他ならないわけで、昔のようには、めったに見られない光景となった。
学校などでも体罰は禁止されて久しい。昔はよく、なにかあると教師が生徒の横っ面をはっていたし、家では親父の鉄拳が子どもの頭に飛んできた。昔の作家連中にまつわる方面でも、その種の挿話がことかかないのには驚くばかりである。作家やジャーナリストのインテリ面々も決して品行方正なばかりではなかったのである。
湯浅芳子というロシア文学者がいた。宮本百合子とともに、昭和初期の3年間モスクワに留学した。レーニン亡き後のスターリン時代である。トロツキーが反革命の咎をうけ、国外追放を命じられた、ちょうどその頃のことである。
ある日、芳子と百合子が買い出しに市場に出かけた。値段の交渉はいつも芳子であったらしい。良家の出である百合子は、こうした世俗のことは概して苦手であったという。お上品なのである。で、そのとき、芳子は値段の折り合いがつかなかったのか。変なことを言われたのか、いきなり太っちょのロシア女の横っ面を張り倒したそうだ。百合子は、あわてて芳子の腕をとり雑踏の中に逃れたという。芳子の面目躍如なのである。芳子は男っぽい性格だったらしい。口も荒かった。それはそれはちゃきちゃき娘という感じであったらしい。決して女言葉は使わなかった。意外なことに、山の手風の女言葉を上手に使っていたのが、百合子である。それは彼女の書簡を読めばよくわかる。
さて二人が鳴り物入りでロシアから帰ってきたのが1930年。世田谷のはずれのほうで二人の共同生活は続いていたが百合子はすっかりロシアの社会主義に洗脳されて、プロレタリア派の作家同盟に近づき入会する。そこに宮本顕治がいた。半年もしないうちに結婚したのである。湯浅と暮らしていた家から家出同然で顕治の下宿に転がり込んできたそうだ。芳子の嫉妬はかなり激しいものだったらしい。百合子の履物を隠して外出できないようにしていたこともあったとか。同時期、小林秀雄や中原中也の「文学界」などが、向こうをはってプロレタリア文学に対抗していた。 こちらのほうは、横っ面を張る話は枚挙にいとまがない。
中也といい秀雄といい毎夜毎夜、酒を飲んでは誰かが誰かと喧嘩していたし、誰かが誰かの横っ面を張り倒しては、友情や文学的志を確かめあっていたのである。中でも中原中也の狼藉はすさまじかった。中原の次が小林秀雄だった。ともかく手が早い。ものも言わずにびんたが飛んでくるらしい。いずれにしても若い頃のこうした狼藉三昧が生涯にわたって小林秀雄が誤解されている要因のひとつであることは間違いないようだ。だが、モノもいわずに横っ面を張るとは、実に小気味よいではないか。憂さも晴れるだろう。
逆に小林秀雄が横っ面を張られた話がある。相手は中野重治である。戦後すぐ、中野重治は共産党から参議院議員に当選した。その頃の話である。作家連中が集まる銀座のバーで小林秀雄が取り巻き連中と飲んでいた。ややあって店内に中野重治が現れた。小林が中野に何か言った。おそらく代議士になった重治を、いくぶんからかいぎみに揶揄したのではなかったか。いきなり中野重治の手が小林の頬を撃った。で、小林の取り巻きがびっくりして、天下の小林秀雄に何をするのだぁといきり立った。小林は彼を制止し改めて中野重治にさきほどの失言を謝りつつ、片手で頬をおさえながら真意を語ったのだそうだ。
「君は詩人だ。詩人が国会議員になって政治に首をつっこんでは、せっかくの詩心が死んでしまうと心配しているのだ」と。すると今度は中野重治が涙しながら、小林よ、小林よ、おれのことを心配してくれたのか、おまえはいい奴だと逆に頭を下げて、むやみに横っ面をはったことを謝っていたとのことである。
<1711字>
学校などでも体罰は禁止されて久しい。昔はよく、なにかあると教師が生徒の横っ面をはっていたし、家では親父の鉄拳が子どもの頭に飛んできた。昔の作家連中にまつわる方面でも、その種の挿話がことかかないのには驚くばかりである。作家やジャーナリストのインテリ面々も決して品行方正なばかりではなかったのである。
湯浅芳子というロシア文学者がいた。宮本百合子とともに、昭和初期の3年間モスクワに留学した。レーニン亡き後のスターリン時代である。トロツキーが反革命の咎をうけ、国外追放を命じられた、ちょうどその頃のことである。
ある日、芳子と百合子が買い出しに市場に出かけた。値段の交渉はいつも芳子であったらしい。良家の出である百合子は、こうした世俗のことは概して苦手であったという。お上品なのである。で、そのとき、芳子は値段の折り合いがつかなかったのか。変なことを言われたのか、いきなり太っちょのロシア女の横っ面を張り倒したそうだ。百合子は、あわてて芳子の腕をとり雑踏の中に逃れたという。芳子の面目躍如なのである。芳子は男っぽい性格だったらしい。口も荒かった。それはそれはちゃきちゃき娘という感じであったらしい。決して女言葉は使わなかった。意外なことに、山の手風の女言葉を上手に使っていたのが、百合子である。それは彼女の書簡を読めばよくわかる。
さて二人が鳴り物入りでロシアから帰ってきたのが1930年。世田谷のはずれのほうで二人の共同生活は続いていたが百合子はすっかりロシアの社会主義に洗脳されて、プロレタリア派の作家同盟に近づき入会する。そこに宮本顕治がいた。半年もしないうちに結婚したのである。湯浅と暮らしていた家から家出同然で顕治の下宿に転がり込んできたそうだ。芳子の嫉妬はかなり激しいものだったらしい。百合子の履物を隠して外出できないようにしていたこともあったとか。同時期、小林秀雄や中原中也の「文学界」などが、向こうをはってプロレタリア文学に対抗していた。 こちらのほうは、横っ面を張る話は枚挙にいとまがない。
中也といい秀雄といい毎夜毎夜、酒を飲んでは誰かが誰かと喧嘩していたし、誰かが誰かの横っ面を張り倒しては、友情や文学的志を確かめあっていたのである。中でも中原中也の狼藉はすさまじかった。中原の次が小林秀雄だった。ともかく手が早い。ものも言わずにびんたが飛んでくるらしい。いずれにしても若い頃のこうした狼藉三昧が生涯にわたって小林秀雄が誤解されている要因のひとつであることは間違いないようだ。だが、モノもいわずに横っ面を張るとは、実に小気味よいではないか。憂さも晴れるだろう。
逆に小林秀雄が横っ面を張られた話がある。相手は中野重治である。戦後すぐ、中野重治は共産党から参議院議員に当選した。その頃の話である。作家連中が集まる銀座のバーで小林秀雄が取り巻き連中と飲んでいた。ややあって店内に中野重治が現れた。小林が中野に何か言った。おそらく代議士になった重治を、いくぶんからかいぎみに揶揄したのではなかったか。いきなり中野重治の手が小林の頬を撃った。で、小林の取り巻きがびっくりして、天下の小林秀雄に何をするのだぁといきり立った。小林は彼を制止し改めて中野重治にさきほどの失言を謝りつつ、片手で頬をおさえながら真意を語ったのだそうだ。
「君は詩人だ。詩人が国会議員になって政治に首をつっこんでは、せっかくの詩心が死んでしまうと心配しているのだ」と。すると今度は中野重治が涙しながら、小林よ、小林よ、おれのことを心配してくれたのか、おまえはいい奴だと逆に頭を下げて、むやみに横っ面をはったことを謝っていたとのことである。
<1711字>
うすみどりの窓口に【お祝いとお誘い】を書かせていただきました。 お暇に成られましたら御覧ください。
彼は一生懸命働いた。
しかしその労働の現実は、非人間的な過酷な労働を迫られたのであり、
心身共に疲弊してしまったようである。
結果として「鬱病」がやってきてしまったのも自然の理とも思える。
と言うのも「鬱病」となるひとって真面目で誠実な人間が多いと言われているからだ。
だから彼は鬱病を背負ってしまったようなのである。
もし、いい加減で、無責任な者だったら、鬱病はやってこないらしいから。
しかしと言うか、いずれにしてもと言ったらよいのか、彼はやむを得ず退職。
やがて彼は「ハローワーク」で求職活動。
しかし、最近の時節柄の影響もあってだろうか就職もなかなか困難と言うのだ。
勿論、高齢の親や親族を頼る事などは到底出来る筈もない。
彼は就労支援センターに通い出した。
すると係官は平然と
《目が怖いから、笑う訓練をしろ、そう言う本でも買って訓練しろ》
と彼にうそぶく。
また、パソコンの資格取得する勉強をしていると
《自己分析をして、企業に気に入られるようにしたほうがいいんじゃない》
などとしらっとのたまわれてしまうのだ。
だから今の彼には
「もっと明るく、プラス思考で考えなくちゃ」
の声などは気休めにしか聞こえないと言う。
正直、私は彼への適切なアドバイスのコトバなどまったく見つからない。
ただ私が思うに、我々のこの現状・システムは狂っているのじゃないか、
我々が生きているこの世の中は人間らしさを失ってきているのではないか、
ひとりの幸せがみんなの幸せとこれほど切り離されてしまっているのは何故か、
さまざまな思いが脳裏を走り、考えにまとまりがつかなのだ。
現状追認勢力は、社会主義崩壊・資本主義の勝利を大いに謳い上げたが、
株式市場大暴落・世界大不景気の波(大恐慌)が人類の前に訪れようとしている。
一体これは何を意味しているのか、
行き詰まってしまった我々の世界システムの崩壊を意味しているのではないか、
いずれにしても今こそ、ひとりひとりの幸せと
地球(世界)・全人類とが結びついた革命的転換が必要と願わざるを得ない。
こんどのアメリカの「サブプライム」問題で
世界が大変な状態になっているらしいと言うのは分かっていた。
ただ株の取引に無縁な者にとってはたとえ世界の株価が大暴落しても
その事態が自分の生活に直結しているとは感覚的に分からなかった。
それでも世界は危機にあると言うことぐらいは良く分かっていた。
欧州のいくつかの国家が崩壊状態と言うニュースからだが・・・。
住宅や自動車の売れ行きが鈍化、消費が落ち込み始めたとのこと。
先進国を筆頭にインドやブラジルなど危機は世界に拡大。
TVのニュース番組で専門家(証券マン)は景気は半年一年後には回復と。
ある経済の専門家(大学教授)は世界は大変な事態に陥っていると。
とにかく、先々のことは正直よく分からないと言うか、不明だった?
そこへ、大変分かりやすいページに出会うことができた。
http://www.nli-research.co.jp/report/econo_eye/2008/nn081021.html
世界がどんなに大変だろうが、質素・倹約の精神で生きてゆこう、と。
自分の身の丈に合ったつましい生活をしてゆくことが大切だ、と。
テスト
つい最近まで学生の売り手市場などと言われていたが、就職氷河期の再来が叫び始められ世の中の世相はますます暗くなっている。
しかしつい最近のアメリカ大統領選挙でのオバマの勝利演説を聞いて感動した人間も多い。私は特に「米国の(指導力の)灯台が今も明るく輝いているのか疑問に思っている人々よ。今夜、我が国の本当の強さが、武力や富の力ではなく、民主主義や自由、機会や希望といった絶えざる理想の力に由来することを改めて証明した。」という演説内容に深く共感・感動した。
http://www.asahi.com/international/president/obama/TKY200811050346.html
オバマ勝利の翌日のNYダウは上昇したが、その後は上下降を繰り返している。
やはり世界経済の状況と現実は厳しい。
未曾有の不景気、大恐慌の再来を唱えている論者も少なからずいる。
悪化する経済状況に対して我々はいかにしてそれに臨み、生きてゆけば良いのか、我々ひとりひとりの生き方が問われているようにも思える。
この難局に対して、それぞれ身の丈に合ったほどほどの生活、簡素な生活を続けてゆけば、なんとか凌いでゆけるのではないか、というのは甘すぎる考えだろうか。
我々高齢者の場合、最低限の生活費があれば、要するに最悪の場合でもお米と味噌、少しばかりのオカズさえあれば飢えは凌げるし、それなりの工夫で楽しく生活を満喫できると思える。
お金のかからない散歩を軸に、月一回か二回の映画観賞と市民運動、そして孫との触れ合い、鎌倉、箱根、江ノ島、高尾山など観光地にも隣接しているのも有難い。
だから、最低限の生活費さえあれば、我々はどんな状況になっても自分たちの身の回りには、楽しい生活と幸せな環境が待ち受けていると考えた方がよろしいという結論に至る。
それは彼女の性格によるところが多いと思えるが、それだけではない気もする。
結婚する前から私が気に入っていたことだが、彼女は打算とか思惑とかの感覚に縁遠い人柄だ。
本人は自分の性格を「おっちょっこちょい」で「抜けている」=「バカ」と思っている。
しかし「抜けている」けれど、本当のバカではない。きっと妙なプライドがないから自由で自然に振る舞えると言うようなことなのかも知れない。
ひとへの思いやり、優しさというようなことも彼女の特徴的な性格である。
その彼女が最近、コミュニケーションの下手な同僚や後輩の言動に愚痴をこぼしている。
私は「ひとはあなたほど上手にコミュニケーションを取れないのが普通ですよ」となだめる。と言う私はコミュニケーション能力に長けてはいないのである。
夫婦と言うのは不思議なもの。お互い足りないものを補いあっているような関係でもあるようだ。
私は高校時代、自由・平等・博愛の思想やマルクスの影響なども絡み合って、ある程度の民主主義者となっていたと思える。
そういうこともあって、私は結婚当初から男の役割、女の役割などと言う世間的な感覚に陥ったことがない。
だから家庭内の食事、洗濯、育児など普通に自然にこなしてきた。男女の役割分担などと言う考え方に立ったこともない。
家庭内は民主的と言うか口はばったい言い方だが「男女同権」が我が家の流儀・自然な慣行だった。その延長で子どもに対しても可能なかぎり強制と支配は避けてきた。
我が家の奥さんとは友達関係、あるいは同士のような関係だ。だからか、お互い無理やり・無理強いというようなやりとりは存在してこなかった。基準は納得と同意、理解。
今思い返してみると、家庭の雰囲気が民主的でゆったりとして清々しいことは子どもの発育・成長にとってとても健全なことだった。
我々夫婦は高齢者となってお互い助け合い、励ましあって生きてゆかなければいけない。その点でコミュニケーションの上手な我が家の奥さんの存在はとてもありがたい。
その藤原氏は「ロハス(生活)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/LOHAS
の重要性を訴え、かつ「この時代は農業こそ大切」と主張している。
さらに最近「ワールドレポート」11月19日号によると組織の歪んだタテ型リーダーシップから「ヨコ型リーダーシップ」を学ぶことが重要だと。
私はある市民運動の活動に参加しているが、「ヨコ型リーダーシップ」と言っても実際の運営はこれがなかなか難しい。
市民運動と言っても一応、団体・組織体という構造を持っているので、その場合、リーダーの個性と言うかキャラクターが反映されてしまうのは必至で、リーダーのコミュニケーション能力そしてリーダーが参加者の意見をよく聞いてまとめてゆかなければならないので、それは至難の技のようでもあるからだ。
我々の身の回りの現実は差別や偏見に満ちている。「人権感覚」にも疎い社会でもある。
こうした背景の中で「公(おおやけ)=パブリック」と「私(わたくし)=プライベート」との区別、「民主的」で「公平な判断力」などを併せ持っているひとが少ないのも現実。
きわめて卑近な例だが、この国では、家の外では民主主義を振る舞い、家の中では絶対君主というような使い分けが可能だし、実際そういう振る舞いは横行している。日本国憲法典では「民主主義」が謳われているが、例えば会社の中では「民主主義=人権思想」が邪魔というような状況が並立して、ひとびとは平気で生活しざるを得ないのだ。
確かに「ヨコ型リーダーシップ」を学んでゆくのは大切である。しかし「ヨコ型リーダーシップ」を学び、それを実現してゆくのは、生易しいことではないだろう。
と言うのもこれを阻む多くの障害があるからだ。
先ずは発想と意識の転換が必要である。これには、ちまたにあふれかえっている常識やあれこれまやかしの理屈を疑ってみることからスタートしなければならないだろう。
世の中で、民主主義を実行し実践してゆくのは簡単なようで意外とむずかしいのが現実なのだ。
出発地が町田ということもあってとても楽な旅行のようでした。
ツアーはオーシャンビューがうたい文句の下田プリンスホテル。
そして夕食が、伊勢海老、カニ、ステーキなど豪華バイキング。
ホテル前はプライベートビーチとなっていて、
確かに素晴らしいロケーションでした。
普段が貧乏食なので、たくさんは食べれなかったですが、
夕食も美味しかったですね。
目的地がホテルで、あとは一切が自由行動でしたので、
宝福寺の「唐人お吉」へ。
http://www4.i-younet.ne.jp/~hofukuji/index.htm
詳細を知って驚きました。
宝福寺に滞在中の土佐の藩主・山内容堂に勝海舟が
坂本龍馬の脱藩の罪の許しを請い、許されたとの逸話もありました。
お吉記念館の傍にあったお吉の墓に合掌しました。
伊豆駅そばの寝姿山のロープウエイに乗って頂上へ登りました。
頂上からのロケーションがこれまた素晴らしかった。
幕府が伊豆下田に黒船を逗留させたのが何となくわかりました。
今年NECを退職し、この四月に
白装束で身をまとって杖をついてお遍路さん衣装で
「四国88ヶ所巡り」を歩いて敢行したご夫婦。
杖が10cmほどすり減ったとのこと。
凄い。
桜美林大学で教べんをとっているアメリカ人夫婦。
奥さんは日本人。綺麗な女性だった。
アメリカ人は、めちゃくちゃ日本語が巧くて驚いた。
挨拶も日本人よりも日本人的で、日本にすつかり馴染んでいた様子。
彼は日本の歴史に関心があるらしかった。
講談社を退職し、現在、野間公民館へ転居のひと。
やたら歴史に詳しく細かいことにも通じて面白いオジサンだった。
オーストラリア人の奥さんという女性も参加。
ミュージシャンでオペラはプロレベルとか。
それぞれ一品持参の料理も国際色豊かだったり、
みなさんアルコールにも強かった。
私はアルコールはあまりいけないけれど楽しいひとときだった。