2016.05.30 川崎市
シューベルトは600余りの声楽曲を作った。これらの歌曲を録音で聴いているとピアノの伴奏だけでも立派な音楽である。だいたい、音楽が美しいものだという概念は、わたしの場合、シューベルトを聴いてはじめて、さもありなんと得心させられるところなのである。
アベ・マリア、セレナーデ、子守唄、水車小屋の娘、糸を紡ぐグレートヘン、冬の旅、白鳥の歌等々。
後年、リストがこれらシューベルトの歌をピアノだけの音楽として編曲した。リストによるシューベルトを聴いていると人の声なんぞはベルカントであれ民謡調であれ、極言に聴こえるかもしれないが無用の長物と化してくるから不思議だ。
セロも良い
波の上 きらめく光
ゆれる小船の上のわたし
空から降り注ぐ光
西の木立の上から
夕陽が優しく微笑み
東の木立の下では
葦がそよぐ
2016.05.13 足立区
2016.05.14 横浜市
2016.05.18 横浜市
2016.05.19 川崎市
以下はすべてこれ、先日読んだ本からのコピーで、わたしの感想は一行たりとてなくぃのだが、わたしは、いつもここにあるこれらの文章群から、わが身の過去のすべてを現在立っている時点から、できるだけ都合のよいように書き直したり夢見たりしているのかも知れない。
私は上野駅などで見るルンペン浮浪児などをも、神秘不可思議の存在としてみている。さかしら立てて浮浪児の教化を企てるのが世の常識であるが、これを神の現われとして、仏の化身とみて、神秘的瞑想にふけるものは、今は一人もいないのだろうか・・・ドストエフスキーなどは、浮浪漢や罪人に神秘性をみて、そうした人物を作中に描いた・・・たいていの人間が世間的自己だけを表に出して生活のために通用させ、神秘的自分は奥にしまっておくように心がけている。その神秘性には、ドストエフスキーのようにおがむべきものもあれば、悪魔の系統に属するものもあるのであろう。民主主義や科学で神秘をなくそうとしても、何かの形において神秘な存在を続けるであろう。(神秘の弁 昭和22年)
人生は退屈である。生活に飽きたというようなことは、私など三十年前から、よく口にし筆にしていた。退屈しながら飽きながら生きつづけてきたわけだが、歳をとったこのごろでは退屈しどころではない。飽いたとか飽かないと云っている場合ではないようなものだ。鴨長明のような浮世離れをした暮らしは出来なくなった。老境に達した五代目団十郎は、訪問のひいき客に向かって「この歳になって、ベニやおしろいをつけて舞台で女の真似をなんかするのは、いかなる因果ぞと、昨日も顔に化粧をしながら涙を落としました」と、しみじみ云っていたそうだが、それからまもなく引退したそうだ。今日では、「この歳になって、色恋のことなんかを書き立てて、糊口の資とするのはいかなる因果ぞと落涙する」余裕なんかありはしない。役者でも小説家でも生きていたい限り60になっても70になっても、それ相当に働かねばならない。だが、老人になると、若い者に対して恐れを抱くようにもなるのである。若い者が新しい知識を取り入れ、新しい思想を理解しているのをうらやましく思ったりする。そして若い者に媚び、若い者からのけ者にされないように心がけるようになる。私自身そうなりかかっているのか、ふと気づいて、いとわしくなることがないでもない。(老人心理 昭和22年)
私は若い自分には予想もしていなかったほどに長く生きのびたのであるが、その長い間にはさまざまな人間から、直接間接に感銘を受けているのである。それらの人々から有言無言の教えを授けられている。私の社交範囲は、はなはだ狭く青年の頃から社会のいろいろな方面の人士に接触した経験は乏しいので、自分の親兄弟か、少数の親類縁者意外には、文壇人について多少知っているだけである。私は特別の世間知らずとして、私以外のいろいろと異なった社会相に通じ、さまざまな異なった男女の正体をよく知っているらしい文壇人についても、彼らの人生知識にあまり信頼しないように、このごろはなりだした。筆の上でいろんなことを知っているらしく振舞っている作家でさえも、いい加減なところで綴り合わせているに過ぎないようである。漱石は誰よりも創作力が豊かであり、鴎外は、聡明な人である。しかし、彼らの学問がどれだけのことがあるだろう。彼ら程度の学問が無学者以上に、どれだけ人生宇宙の真髄を看破したのであろう。(作家の真相 昭和24年)
私は両親に似て勤勉ではあったが保身の術もおのずから心得ていた。私は人に親しまれず、人に親しまない種類の人間であり、人の説に雷同するよりも反対したがる素質を持っているようだが、危険を冒して時代の有力な思想に反抗することは、意識的に慎むようにしていた。人間、生きるためには仮面をかぶる必要があると、私は早くから気づいていた。夏は単衣を着、冬になると、単衣を脱いで綿入れを着るのが、あたり前の生活態度であるが、思想問題もそれでいいと早くから思っていた。仮面をかぶって生きていると云うと、私が奇異な思想を有し反逆精神でも蓄えているらしく思われるが、実は大したことはないのである。自分が狂信し熱愛するほどの主義があるのなら、その主義に殉ずるのは怪事であろうが、私にはそれほどの主義はないのである。人類の歴史は苦難の歴史である。いつか平和の歴史が続くようになるかも知れないが、それは遠い遠い、さざれ石の巌(いわお)となりて苔の蒸すまでの遠い将来であろうと想像される。(我が人生観 昭和25年)
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正宗白鳥年譜 (『白鳥随想録』より)
明治12年(1879年)岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に生まれる。
江戸時代の正宗家は代々網元であり材木商も営んだ財産家であった。
明治29年(1896年)東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。
在学中に植村正久・内村鑑三の影響を受けキリスト教の洗礼を受ける。
史学科、英語科に在籍し、明治34年(1901年)文学科を卒業。
早大出版部を経て読売新聞社に入社。文芸・美術・演劇を担当した。
明治37年(1904年)処女作品となる『寂寞』を発表し文壇デビューする。
明治40年(1907年)読売を退社し本格的に作家活動に入る。
明治41年(1908年)に発表した『何処へ』は彼の代表作である。
昭和期になると、活動の主点を評論に置き、その鋭い観察眼と批評は定評を得た。
昭和11年(1936年)1月の読売新聞に小林秀雄が「作家の顔」という小論文を掲載した。
その中に、同年に正宗がトルストイについて書いた評論に対する非難が掲載されており、小林と正宗との間に「思想と実生活論争」が起こった。
昭和25年(1950年)文化勲章受章。
昭和37年(1962年)膵臓癌による衰弱のため死去。享年83。
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正宗白鳥さんは、80過ぎまで生きて聖人のごときものだね。ほんとうにあの人はソクラテスのような人だ。現代ではジャーナリズムの中にいたわけだけれど、白鳥さんが古代ギリシャにいれば樽なんかに寝ていますよ。正宗さんの小説はみなおもしろいが、正宗さんという人物がわからないと面白くもなんともない。あの人に才はないさ。才というよりはもっと違ったものを持ってしまった人だ。つまり芸というものを磨こうとしなかったし磨かなかった。(小林秀雄 「文学の四十年」より 昭和40年)
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白鳥75歳のときに書いた次のような言葉がある。「文筆生活50余年わが痛感した事は努力の効も乏しくてひとえに天分しだいであることである」。尋常な感慨ではない。50年の文筆生活を回顧すれば、まるで、己の持って生まれた性質に出会うために、人生を逆に歩いてきたようなものだと言うのである。
これが白鳥のまったく率直な告白であることを納得するのは、そんなに易しいことではない。何故かというと、出来るだけ自己に忠実に生きてきた人でなければ、このような事がいえたはずもないからだ。
数年後、「花より団子」という文が書かれているが、文中、白鳥が己の性分天分に直に触れている処がある。いずれ微妙な問題なのだ。黙って文章を読んでみるに越したことはなさそうだ。
小学校入学当時のことが回顧されている。その頃はまだ寺子屋の名残りで、「孝経」「論語」「孟子」などの素読がやらされていたが、作文の稽古もはじめられていた。あるとき「花見の記」という課題を出され、子ども心にいろいろと思案する様子が活写されている。
山にも野にも桜は咲いているので、それを見て何か書くつもりになったが、知らず知らず熱心になって見ていると、桜はどうしてこんなに綺麗なのだろうと、不思議に思われだした。
わたしの家の離れの庭には一本の八重桜があって、ほかの一重桜におくれて、その花の咲く時には、祖母が先に立って弁当を作り、孫たちと花見の宴を催すことがあった。わたしはそれを作文の種にして花見の記を作ろうとした。
それで離れの庭のまだ咲かない八重桜を見上げながら、花見の記を書こうとしたが、書こうとすると頭がごちゃごちゃになり何も書けそうになかった。よく咲いた花の下で、お婆さんや、わたしの兄弟が揃って、玉子焼きや蒲鉾や煮しめのお弁当を食べたことを、今年はまだ食べもしないのに、食べたつもりで書こうとしたが、食べもせぬのに食べたつもりで書くのがつまらなくなった。
「桜の花はどうしてあんなに綺麗なのだろう」と、今年はじめて不思議な思いをしたことを書こうかとふと思ったが、そんな事を書いちゃ悪いような気がした。それで、しかたなしに、何も書かないで白紙のまま先生の前に出すと、
「どうしたのじゃ。何も書いていないと零点だぜ」
「しょうがありません」
「何か書きなさい。今は桜の盛りじゃ。花は桜木、人は武士と云うことを君も聞いとるだろう」
「知りません」
「咲いた桜になぜ、駒つなぐ、駒がいさめば花が散ると云う唄を聞いたことはないか」
「聞きません」
「それでは花より団子。君も団子のほうが好きなのだろう。花見に行って団子をたべたと書いたらいいじゃないか」
先生にそう云われると、わたしはその通りに書こうとかと思った。桜の花を楽しむより団子でも食べたいと思いながら筆を執っているいると、桜の花が団子のように見えだした。団子が串に差されてたっているのが満開の桜の形か。私はそう思い出すと、それが面白くなった。
「花見の記」が団子の記になった。団子が咲いた咲いたと書いた。
でも、私にも団子は団子、桜は桜。団子は口にするとうまいもの、桜は目に美しいもの。
ある日隣の家からもらった団子を腹一杯食べた私は、離れの庭にぽつりぽつりと咲きだした花を、自分ひとりで見上げていたが、膨らんだ団子腹を消化させる気になったのか、その桜の木にするすると登って、咲いている花を一握りつかんで口の中に入れた。
うまいまずいの感じではなく、綺麗なものを口から喉を通して腹に入れたような感じがした。そうして、二握り、三握り、むしゃむしゃと喰ったのであった。それ以上は喰えそうではなかったが、そうしたあとで、木から飛下りて、花から花を見上げていると、こんな綺麗な花の味を誰もしるまい、とそれを面白いことのように考え出した。
いくら美しくっても、これは人間の食べ物じゃないと思われたので、誰にも云わなかった。だが、あくる日午餐のあとで、その離れの庭に出てみると、昨日にもまして花の色づいたのに心が惹かれ、またその木に登って、二握り、三握りつかみ取って、口から喉へ通した。
味がどうであろうと、綺麗なものを腹に入れたという気持ちは快かった。家の者に気づかれないうちにどれほどのものが喰われるかと、人知れぬ異様なたのしみになった。
(小林秀雄「正宗白鳥の作について」より 昭和56年)
<2007.06.22記>