赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

「蝶の舌」 ホセ・ルイスダ・クエルダ

2002年03月28日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
家の中がうるさくて、確たる宛もなく昼前から外にでた。とりあえずバスに乗った。終点まで行くつもりだったが、途中で心変わりし映画館に入った。二本立てで、一本は世代の異なる三姉妹を洗練されたタッチで描くベトナム映画の『夏至』。もう一本は1999年スペイン映画『蝶の舌』。喘息持ちの8歳の少年モンチョと定年間近のグレゴリオ先生との出会いと別離を描く。春が来ると先生は生徒たちを野に連れて行く。モンチョにとっては「蝶の舌」について教えてくれた先生の言葉が忘れられないのだ。

時は1936年、スペイン内戦の前夜である。グレゴリオ先生は物静かだが、確信的な自由主義者、共和派だった。やがて反革命派の政権奪取があり共和派は迫害される。昨日までモンチョの父親も共和派だったのだ。それが反革命政権誕生とともに、昨日までの思想を隠し保身に走らねば、その町では暮らしも立たない。そればかりか父親には、息子モンチョが毎晩、その日の学校での様子を楽しそうに語ることからもグレゴリオ先生のことは、心から尊敬していたことも重々わかっていたのである。ある日、いつものように野外での授業中にモンチョが喘息の発作を起こしそうになった。とっさの判断で先生はモンチョを抱き上げ、そのまま川の中に入っていった。これで発作はおさまってしまったのである。腕のよい仕立屋でもある父親は先生へのお礼にスーツを一着仕立ててやった。だがこの父親は、先生が連れ去られるとき、まっさきに反共和派を演じてみせなければならなかった。教会から綱をつけられた先生が広場に出来てきた。トラックに乗せられ官憲に連れ去られていくシーンである。モンチョの父親は先生を「アカ!」と罵倒した。モンチョも去っていくトラックを追いかけながら「アカ!アカ!」と先生に罵声を浴びせ石を投げた。それが先生とのお別れだった。
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金髪先生冤罪事件 

2002年03月26日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
今日は千葉地方裁判所において「Y先生事件」またの名を「金髪先生えん罪事件」の判決が出る日である。所属学校の校長をして「ひき逃げ」し、よって「傷害」を与えたとして起訴され半年以上も拘留された千葉県四街道市南小学校に勤務していたYさんに罪の有無をめぐって判決が下ろされる。けれど無罪だったら、どうするのだろう。教育委員会、警察ご一統方々は。なんせ起訴されたと同時に懲戒免職である。起訴、逮捕が間違っていたというなら、Yさんを学校に戻さなければならないのが真っ当な考えだが、彼らにそれができるかどうかだ。間違っていたことを潔く認める人間ほど信用にたることはない。彼らの場合、自分が間違っていたとは死んでも言わないのが常なる習性のようだから。

私も第一回の公判より幾度か公判を傍聴してきたが、法廷での話を聞けば聞くほど「公」の象徴である学校という場が実はウソにまみれていることを痛感させられるばかりだった。「平気でウソをつくひとたち」とか言う本が売れたそうだが、まさに学校には「平気でウソをつく」人間どもが吹き溜まっている。校長しかり、PTAと名付けられ徒党している保護者集団しかり。高位高所から高見の見物をこいている教育委員会。ちょっと世間から外れた言動を行う人間をつけねらっている警察。みなして平然とウソをついて恥じることがない。そういう人種たちが子どもの前にたって何事を「教え」ようと言うのか。今回の事件は、ウソによるデッチ上げであったことは最初から明々白々であった。公安警察に教唆されてまったくケガもしていない校長がいくつかの証拠物をねつ造し訴えた。Yさんを学校から放てきする目的で。市民運動に打ち込む教師をつけねらっていた警察と校長の利害が一致したのだろう。早急に事件がデッチ上げられ、当人は逮捕された。裁判所がこれにお墨付きを与えてきたという構造だった。

お笑いなのは、こうした場合いつも、その怪異な存在が隠される、衆愚ゴロツキの存在である。南小学校PTA各位の立ち回りこそ、今回の事件の華といえば言えるだろう。一昨年、彼らはこともあろうに、Y教諭を学校から追い出そうと署名活動をおっぱじめたってんだから。これは前代未聞の話だった。それほどお上に対して衆愚が強くなったなどとは文明開化以来100数十年このかた聞いたこともない。105世帯のうち100世帯が署名したとな。署名は教育委員会への陳情ということか。すでに2年前からこうして衆愚と権力が共謀して、あげつらう材料がないかと人様のケツの穴をのぞくように、虎視眈々とYさんを狙っていたわけだ。実際、警察に尾行までされていたことが明らかになっている。さて前回の公判で、検察は懲役14ヶ月の実刑を求刑してきた。本日は、裁判官がこれをどう言い換えるのかが聞き所だが、楽観はできない。裁判官が被告を色眼鏡で見ていることは明らかだからだ。Yさんはまたの名を「金髪先生」と呼ばれているように、白髪隠しのために金髪に染めていた、少なくても逮捕時点では。不当な理由で8ヶ月も保釈が認められず拘留されてきた間に頭髪は元の木阿弥。やっと保釈されたのが先月である。娑婆にでて、さっそく金髪に染めたのは、さすが金髪先生だ。

前回の公判には金髪で出席したのだが、「どうしてまた金髪にしたのか」などと裁判官が嫌みをいってきたとのこと。彼らが、いかに人を見る目がないか。時には市井の無知蒙昧よりいっそうひどい無自覚性をさらすことになる。姿・形で人権を説明するバカはおるまい。またするべきでない。姿と権利を繋げて考えるほうがよほど違法行為ではないか。こうした御仁が黒い法衣をまとって裁判やっていてござるわけだから。泣けてもくるさ。金髪だと有罪に近いとでも言うのだろうか。実にいいかげんな法曹ご一同かということが、こうしたなにげない一言からも伺えるのだ。しかして一個の人権と世間の秩序をはかりにかけた場合、人権を剥奪しても秩序を守りたいとするのが彼らだろう。秩序を守るためなら、人一人がごとき平気で路頭にまよわし、権利を蹂躙する。その道筋をつけるため「平気でウソをつく」。だとするならば、彼らが後生大事に守りたがっている、その「秩序」の実体とはいかなるものかと問いたくもなるが、一言のもとに片づければ、これまた幻想なのである。正確に言うなら国家という幻想である。

今日は最悪な判決をまねいた悔しさよりも、醜悪な人間が法衣を着て人を裁くことの恐ろしさこそ、まざまざと知らしめられた思いである。Yさんは検察求刑通りの実刑1年2ヶ月の懲役刑である。長々と棒読みされるだけの判決理由を聞いているのは骨だったが、裁判官は被告や弁護人の話にまったく理解を示さず、警察と告訴した校長のいうことをすべて鵜呑みにして被告を断罪してきた。要するに校長がケガしたかしないかなど、最初からどうでもよいのらしい。なにより上司の言うことを聞かず、反発ばかりしているのが最大の罪だそうだ。保釈されたことを良いことに、ふたたび髪を染めたりするのは反省していない証拠だと真面目に言うのだから、ここでは傍聴人らから幾度めになるだろう、大きな失笑を買った。これでも分かるようにである。Yさんの態度が悪いのだというのだ。酌量の余地無し。悪質極まる事件であったとのこと。事件については、警察、校長サイドに都合の悪い、説明のつきにくい部分は、白を黒と言いくるめるに終始する。事件の核心はYさんが車で校長に衝突し、転倒させ傷害を負わせたか、その事実はあったのか無かったのか。起訴事実はこれだけなのだ。校長はあっちがいたい、こっちがいたい。救急車で医者に行き、診断書まであるではないか等々。これだけ聞けば、たしかにひき逃げ事件とも言えるだろう。だが、考えても見よ。なぜ幾度も衝突しなければならないのか。車にぶつけられても、また立ち上がり、車の前に立つアホがどこにいる。三度も衝突したのだという。ここに校長の大ウソと事実をねじ曲げてしまう強引な政治性が企まれている。通常の感覚では、一度車にぶつけられたなら、それで「満足」ではないか。恐くて再度車の前にたつのは「勇気」あることなのか、よほどアホかのどちらかだ。これを裁判官は「危険を省みず、堂々と校長の職務に邁進した」などと黒を白にしてしまうのである。

Yさんも証言しているように、校長は「当たり屋」を演じてYさんを貶めるために、デッチ上げ事件を自作自演したことは明白なのだ。私自身、何度も「支援ボード」の方にも書いたことだが、一度めの転びは予行演習。なんせ高橋校長は、元体操選手だったそうだ。ケガのしない転び方=受け身は専門なのである。下はコンクリートである。本人としても転んでみた感触を得ておきたかった。やってみなければケガは分からない。幾度も練習するに越したことなし。車の運転席からガラス越しに見ていたYさんは、「校長先生は、なにかふわっとゆっくり転んだようだ」と言っている。「校長はなにしているのか」と思ったそうだ。起きあがると、また車に体をよせて「下りろ」と命令してくる。と思って見ているとふたたび、転んだのである。校長は近くにいた教頭以下の教師に、カメラやビデオを用意するよう大声で命令してから、ふたたび車と「衝突」、後転した。さすがに予行演習の成果があった。十分にカメラを意識して、写り映えのするように、さらにケガのしないように上手に転んでみせたのである。救急車を呼んだのは警察の指示である。なんとサイレンが校庭に聞こえてきたのは一時間もたってからだった。さらに。どこの医者に行くかさえ、患者が指図している。ビデオでも見られるようにピンピンしている。意図通りの診断を得るために、知り合いの医者の元にわざわざ救急車を差し向けた。なにからなにまで計画的であり、警察の指図の通り動いているのだ。さらに診断書を書いてもらったのは、事件から一月もたってからだった。この診断書を提出したその日にYさんは起訴され、さらに懲戒免職処分通知を受けたわけだ。じつにあわただしい仕儀だが、警察、教委、校長等々の面々による謀議されていた背景が浮かび上がっている。三者三様になんという素早い対応か、だが、またつじつまの合わないことも多いのである。さらに数日もたたないうちにPTAがホームページを立ち上げるというおまけは滑稽だった。

こうした一連の動向の中に校長のケガの有無などふっとんでしまう事件の核心がある。今般の裁判官もまた、最後には自分がなにを裁いているのは、わけも分からなくなっていたらしい。まるで校長になりかわって言うことを聞かない教師を説教しているような、あるいは教委に代わって「いじめ」を買って出たかのごとき始末ではないか。だから三流の教育論、教師論になっちまうのだ。判決理由が全然筋が違ってきてしまうのである。Yさんはいかに教師としてふさわしくないか。いかに「不適格」か。検察官が当人の私事にわたるまであげつらい、なんとか教師としては能力不足でありふさわしくないことを口を極めて証明しようとしていたことを思い出す。今日判決を下した小池裁判長は、実は公正な裁判を放棄してしまっているのである。論はそっちに移ってきてしまうのである。「そっち」というのは事件をでっち上げてまでYさんを現場から追い出そうとした校長の心証に沿った、またはうべなった、さらには他の証拠を見ることもなく他の言うことを聞かずに校長・教委・警察の意図ばかりを鵜呑みにしたということである。彼らの言うとおりに裁判所が従ってしまったということになる。したがって極めて不当にして不正な汚れた裁判となり果てた。こうして千葉地裁での公判は終わった。もちろん被告と弁護人はさっそく控訴の手続きをとったとのこと。金髪先生は本日の公判後そのまま移送され、ふたたびぶちこまれてしまった。

千葉県四街道市にあって所属学校の校長を「引き逃げ」し「傷害」を与えたとして訴えられているY教諭の裁判も半年がたった。昨日はその第6回目の公判で、Yさんと手を携えるようにして良い教育環境を目指して活動してきたDさんが証言台に立った。Dさんは、日教組分裂という戦後の教員運動の大エポックを示した後、10年ほど前に千葉県内に新しい考えのもと上部団体を一切もたずに結成された学校関係者たちの実に小さな組合「千葉学校合同」の当初からの委員長である。また逮捕後7ヶ月に及んで接見禁止、保釈なしのまま拘留されているYさんは書記長ということだ。二人は組合結成時より堅い絆で結ばれている。わずか十数名のスモールイズベストを目指す教師たちの労働組合である。Dさんにとっても、結成当初よりかけがえのない相棒が無実の被告とされ教師の職を一方的に解かれたとあっては組合存亡の危機すら感じているに違いない。この日、実に意図的な誘導尋問で証人と被告の「教職」を貶めにかかる検察官にやや感情的になって答えていたのも無理のない話であり、その心意気こそ傍聴者にもよく伝わってきたのである。すべての証言が終わり退席する際、被告席で両側から廷吏に押さえつけられているようにして座っているYさんにDさんが半年ぶりになる間近からの笑顔の励ましを贈っていたことが印象深い。さて公判冒頭、事件を写すビデオが公開された。これまで公開された物的証拠として録音テープ、写真の2点があったが、どうもある意図のもとに編集された跡が推測され、納得しがたい部分もあったが、今回のビデオはそれら以上に事件の詳細を語って申し分のないものだった。撮影者は校長、教頭以外の同校の教諭であるらしい。中味は10分ほどだった。たいした説明もなしに傍聴者が席についたとたんの放映だったから、モニター上からは何事も断定はできないが、訴訟事実としての「衝突」「転倒」そして「傷害」を受けたとする事件現場の、直後の様子のようだった。

校長は車の前に佇立(ちょりつ)して大声を上げながら車から降りるよう説得している。フロントガラス越しに運転席にいるYさんと鼻をつきあわせているような具合である。車の中からYさんはマイクを通して屋根に設置されてあるスピーカーより「校長先生、交通妨害はやめてください」と訴えている。こうした構図がほぼビデオの大部分をしめている。新しい事実だが、この間にも、なんとYさんは危険を避けようと車をわずかづつ後進させているのである。バックする度に校長は前進し体を車にすり寄せていく。最後は、後輪がが植え込みの縁石にでも当たったのか、それ以上はバックもできないようだった。車の前面には校長が体を触れんばかりにして立っている。これでは前進させることもできず、まったく車を動かすことはできなくなった。自分から外に出ない限り、監禁状態となってしまうのは目に見えている。Yさんは車をあきらめ運転席から降りた。徒歩で勤務先に向かおうとしたのだろう。ところが歩こうとすると校長がいちいち体を当てるようにして阻止してくるのである。この状態から素早く体をひねって逃げ出すと一時、間をおいて校長ともう一人の男(たぶん教頭)が、合図しあったかのように肩を並べて追いかける。まるで短距離走のスタートのようだ。二人とも全身これバネという反射神経の持ち主であるらしい。

さて、車が後進してこれ以上は微動だに出来なくなったあたりからカメラは固定されたらしかった。以後は最後までアングルは定まって動かない。二人が追いかけていった後、画面からはしばらく誰もいなくなる。数分後Yさんを取り逃がした二人が、向こうのほうから歩きながら画面の中に入ってくる。そして放置された車のあたりでなにやら協議している。そして車から離れ、取り逃たことを悔しがっている様子もなく再度現場を眺めやっている校長の後ろから、教頭らしきもう一人の男が彼の服をはたいてやっている。おそらく転倒時についた汚れでも目についたのだろう。だがこうしたなにげない画面からさえ、学校におけるヒエラルキーな職制が露呈されていて、気持ちのよいものではなかった。このビデオが示してくれたことは、私たちが想像していた以上のものがある。すなわち校長は痛がっている様子がまったく見られないのである。当然「傷害」を受けたなどと誰が読みとれよう。むしろYさんのほうこそ、被害者である。校長から行く手をさえぎられ車に監禁されはぐってさえいるのである。以上、第6回公判で公開されたビデオこそ、Yさんが無実であり当事件が「デッチ上げ」られたものであることを、あますところなく証言してくれていたのである。<5980字>
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息子に誘われ朝の散歩

2002年03月24日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
今朝は5時起き。襖(ふすま)を開けて居間に顔を出すと次男がすでに起きていた。私はさっそくパソコンの前に座り思案していると息子が一緒に散歩しようと誘ってきた。まだ薄暗い夜明け前。いつもの通り多摩川の河原に出て、いつもの通り上流に向かって30分ほど歩き、また戻ってくる。我が子とたわいもない話を交わす至福の時。東の空が見る見る明るくなってきた。

そういえば、三日ほどまえに学校の文集に載っていた息子の作文を読んだ。

-★-★-★-

朝、目がさめると玉川あたりを走りに行きたくなるときがある。「自分にあまい性格だね」と友だちに言われた事があった。その言葉に反発する気持ちが先立っていたので、少し自分の心をたたき直してやるつもりでフトンからはね起きた。冬の終わりとはいえ、とても寒い朝。パンツ一枚になったところで、気がついた。学校にジャージを忘れてた。昨日までおぼえていたのに今日の朝は忘れてしまっていた。少しの時間だけ忘れていたのに、そのうちに今日一日の中でおそらく一番すごい決心をしてしまったような気がする。

そんな気持ちになってしまえば、今さら断念する気にもなれない。とはいえジャージの代用になる物があるだろうか。まさか普段着で走る気にはなれない。一つだけ思いつく物があった。短パンである。それなら上はどうしようか。自分が持っている長そでなど着て走ることはできない。手が冷めるといけないので、軍手をはめ、家から玉川までをかけぬける事にする。

コースは玉川にでた所より第三けいひんまで。よし、行こうと心で決め家を出るのに十分ほどかかった。家を出たらば玉川までの道のりをいっきに走り切るつもりだったのに、やはり外は寒い。半そで短パンは多少無謀すぎたかもしれない。でもなんとか行けそうな気がしたし、いまさら家に引き返すのがおそろしいほどアホくさいので、足を止める事などしなかった。

太陽も顔を出さない暗い朝。風の吹きぬける寒い道のりを街灯のみをたよりにひたすら走りまくった。走りながら対岸を見ていると川崎方面の街の灯が動いて見える。車のライトや信号やビルの上部で点滅する赤色のライト。特にきれいだと思うわけではないが、人気を感じる。

子どものころ、聞いた話を思い出した。ある目的をとげるために冬山の山頂で一糸まとわぬ姿のまま立って一晩を明かした男の話。男はただひたすら遠くの、ずっと遠くにある明かりをみつめていると不思議な事に体の芯から熱のようなものがこみあがってきたのだと言う。その話が本当なら早朝マラソンもまんざら苦行ではないのだが。

街の明かりを見つめた体に異常をきたすような現象は残念な事に何も起こらなかったが、予定していた折り返し点を遠く過ぎてしまっていた。ここからが帰り道だ。帰路につくと、ちょうど東の方向を向く事になり、障害物さえなければ玉川で一番早く日の出を見られたはずだ。空がすっかり明るくなるのがよく見えた。ここからずっと先の水門の所まで走って、あとは歩くとそう決めると、たとえ遠くても簡単に終わるような気がした。

空が明るくなるにつれ街の方からバイクのエンジンの音が聞こえてきた。新聞配達だ。すぐに分かる。音に特徴があるわけではないのだが、その日の始まりには、いつもバイクの音が聞こえてくる。

-★-★-★-


がむばれ息子18歳。数年後にはお上からのお達しによって廃校が決まっている夜のガッコの2年生。
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「ふみの会」について

2002年03月23日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
今日は「ふみの会ニュース」の編集日。しばらく私は原稿を寄せていないのだが、発送作業が終わって飲みに行くことが楽しみでみんなに会いにいく。いつものように私を加えて5人が集まる。

それにしても、20数年にわたってほとんどかかさず毎月発行してきたことは驚くべきことだ。今日の刊行をもって第255号となる。

上の写真は私が「会」に加えていただいた当時、1982年の3月号、つまりちょうど20年前の第45号の表紙である。みな若かった。この時点で「会」結成から3年半ほどたっていたことが記事から分かった。

久しぶりに引っぱり出して中味を眺めてみたのである。まだワードプロセッサーが普及する前のことで、全ページ手書き肉筆による製版である。当時は100部ほど刊行していたはずだ。現在は50部。

上の絵は、それから11年を経た1993年3月の165号である。すでに全ページがワープロによる製版で、手書き部分は表紙にしか見られない。

当時、私は長男の不登校問題から学校教育の在り方に大いなる疑念を抱き、子どもと学校の関係についてエッセイを連載していた。

今は一人で全ページ一括編集してしまう。コンピュータのおかげである。原稿は各自がテキストファイルを編集者にメールで送るだけだ。便利になったものである。さて時間がきた。みんなに会いに出かけよう。
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