大江戸八百八景

時雨かな銀杏ひらふ団塊の背においたるやふる里の香を


▼言葉と文学の今日この頃

2009年11月22日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
先日、久しぶりに当ブログ「新平家物語」にお顔を見せてくれた小林さんのブログの記事の中に、次のような、お話が書かれてあった。

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五十嵐茂さんという人が興味深い話をしているので紹介してみます・・・五十嵐さんの指摘によれば、ネットの時代とは「空前の<自己テキストの時代>」が始まった時代だという。リアルなコミュニケーション、ネットワークでは表現できないテキストを、自己テキストとして表現し得ることの可能性を述べているのだろう。おいらがかねてより、ネットの達人(かもめさんやみなみさん達)に対してかんじていた、考えていたキーワードを表しているとも見えた。そこには「日常からの解離」もまた存在し、ネットコミュニケーションを面白くさせている。ネットもまだまだ捨てたものではないのである。
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結論からすれば、小林さんの考えの方向性と、文中五十嵐さんのネットに対する考え方に、わたしもまったく同感したところである。わたしは文学通ではないが、文学好みであるとは思っている。「活字好き」という言葉があったが、それとは、少々違う方向で、やはり文学好きであり、ようするに新しい言葉を読みたい書きたいという欲求は隠せない日々を送っている。だからネットを金のかからない手ごろなひとつの道具と心得て、安直に使いまわしているだけだ。書籍は見ないとは言えないが、図書というものは、金がかかるし、読了するには骨を折る。ネットは安直で手ごろなのである。いまのところ、わたしのネット感は、それ以上でも以下でもない。だが文学という概念にかかわるのかどうかは知らないが、文字や言葉に対する欲求は、さらに、新しい言葉による新しい事柄を、自分の手で、なさしめてみたいという思いばかりが募りに募る。新しい言葉を読みたい、書いてみたいのである。だがそうは言っても、それが簡単に入手できないもどかしさを感じている毎日でもあって、それがまた面白いと言えるのではないかと、できないことを言い訳じみて、逆説をもてあそぶ日々なのではあるが、こればっかしは結局、人々の歴史、文化の総体がかかっているようなので、非才なわたしにどうにも、どうにも、しようのないことなのかもしれないと思って、またまた言い訳じみてくるばかりなのである。それにしても、なぜ、言葉が面白いのであろう。それこそ問題だと思っている。小林さんもそうなのだろうが、われらには、言葉なしには、一日たりとて過ごせない。不遇にも、そうなってしまったのである。そうして、この先もえんえんと、くだらないのかどうなのかは知らないが、あいかわらず安直に、歴史が作ってきてくれた言葉を弄していくのであろうと予想ぐらいは立てられる。

ここで、ひとつだけ、ネットと言葉に対する、わたしの覚悟といったものを披瀝しておきたい。別に小難しいことではないのだが、これらは、まさにネットで学んだという確信があるから述べるのである。一口で言えば、言葉は私語につきるということである。私語以外の言葉などは、捨てておこうという、よいか悪いかは知らないが、わたしの個人的な覚悟ができたということである。これが当面、文字を読み書くという行為を意味づける、わたしの方向性となるはずだ。法律も理論もそうだし、新聞、雑誌、図書の多くがそうなのだ。文学史や哲学史などという、それらしく、まとめられた文言の多くが、わたしの欲する「言葉」とはほど遠いものかということが、つい最近分かってきたのである。いささか傲慢に聞こえるだろうが、ネットを通じて思想化された方向性として、わたしは、いまや人々個々が発っしてきた、または発しつつある私語以外の美辞麗句は眼中におかないようにしている。
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