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「むのたけじ」氏の反戦と共に

2015年02月02日 | 足跡
反骨のジャーナリストと言われた「むのたけじ」氏が1月2日で満100歳を迎えた。地元紙秋田魁新報、東京新聞等が報道した。東京新聞は2015年1月7日朝刊で、「むのたけじさん100歳 反戦生ある限り」と次のように100歳の誕生を祝った。

「反戦を訴え続けてきたジャーナリスト、むのたけじさんが、二度のがん治療を乗り越え二日、百歳になった。「今の日本は戦争のにおいがぷんぷんする。生きている限り、戦争をなくすことに役立ちたい」。戦後七十年を迎え、放つ言葉には一層の力がこもる。

「負け戦を勝ち戦と報じ続けてきたけじめをつける」。一九四五年八月の終戦を受け朝日新聞社を退社。故郷の秋田県横手市でミニコミ誌「たいまつ新聞」を発刊し、三十年間、反戦記事を書き続けた。今、さいたま市で暮らし、講演や執筆をする。昨年の衆院選を振り返り「投票率52%なんて国は主権在民とはいえない」と一喝。「国民は自分たちの意見が反映された生きた政治にするために、考え、もだえなければいけない。それが全くない状況のままだった」と憂えた。

安倍政権が進めてきた特定秘密保護法制定や集団的自衛権行使容認に、戦争の影を感じるという。「安倍さん個人の話ではない。彼を前面に出し、日本を変えようとする政治、経済界の勢力がある。誰が何を求め、何をしようとしているのか。それを明らかにするのが記者の務めだ」。戦争の話になると口調が熱を帯びる。「人類の三大敵は病気と貧困と戦争。戦争をやめ、その分のエネルギーと金を回せば病気と貧困を解決できる、それがなぜできないのか」。危機感をあふれさせ、時に拳を振り、足を踏み鳴らした。
(TOKYO Web)DATE:2015年1月8日


「むのたけじ」先生とは20代の頃から「秋田県農村文化懇談会」で一緒だった。1960年代に農文懇がむのたけじ氏、西成辰雄氏等が中心になり結成された。私の参加は1965年頃からだった。農文懇の機関紙「炉火」が発行され、6号に「むのたけじ」氏の巻頭言「自己変革の鏡」がある。
炉火 6号 1967.5発行
「日本の教師に訴える」明治出版 1967年で、出稼ぎ農民が多くなっていく現状の中で「親と子供たちの関係」に教師がどうつきあうのか。子供将来のしあわせを願うなら親がしあわせになれ、と農村婦人の親と子の話があふれていた。炉火6号巻頭言「自己変革の鏡」に、『この本は「変革の書」として世に送ったつもりだ。人間の個人を変え、集団を変えていくための最初の原則に関する祈り、訴えを語ったつもりだ。週刊朝日の書評で「直言や激情の勇み足もある」と指摘、、、書評子のいう「勇み足」が、私にはとっては「四股を踏む」ことだ。それがないなら、この本はゼロにひとしい」。と発売直後の本について「炉火」で主張している。

そして、この本から6年後1973.4に「解放への十字路」を評論社から出版された。時論・1972年後半期、すべてを〈日本解放戦線〉へ等、問に対する返信という形で、第一信から第一六信まで続く。当時の私は出稼ぎで死亡した青年の東京地裁で裁判、日中国交回復後の訪中でのある種の衝撃、減反強化の中で経営の不安定等で混乱していた。たまたま参加していた「秋田県農村文化懇談会」で、「むの」先生に浅学を顧みずに「十字路と言われれば混乱してしまう、本のタイトルの十字路とは何ですか」等と尋ねてしまった。むの先生はしばし沈黙の後、「むのたけじが十字路にさしかかっているからかな、、、」と話した。巻末に「終わったところから始まるに〈岬〉と〈十字路〉について」がある。当時は理解するのに時間が必要だった。

「一本でありながら幾通りにも分かれ、幾通りにも分かれて一本に結ぶもの、そういう結節点が地上の生活、それは〈十字路〉なんだ」。幾通りの道から無数の十字路で結ばれる。統一戦線。多様の中に統一、、、。生活の場、生産の場に無数の〈十字路〉をつくることで促進される。

『「地方文化」とはなんだ」は「解放への十字路」の96ページにある。その中「、、、民衆を国内植民地のドレイにしてきた歴代の支配に報復する、その拠点としての「地方」であり「文化」である。屈従を強制されてきたわれわれ民衆が一人間として、一社会存在としておのれを回復していく、その創造運動としての「文化」である。両者を結ぶものは、私にとって「地方文化」ではない。「解放」である。、、、、、大事なことは、支配と被支配の歴史の縦層をえぐって、そこで自分の立場をきめることだ』。とある。

「解放への十字路」は当時衝撃の書だった。ぶしつけな質問に正面から対応してくれた。40数年前の会話が昨日ように想いだされる。

岩手農民大学・岩手県農村文化懇談会、第12回「農民文化賞」の受賞(2001.12.8)は「むのたけじ」先生でした。岩手農民大学は1989年12月に「農民文化賞」を制定している。「日本農業の危機が叫ばれているとき、わが国農業および農民が築き上げてきた文化的遺産の灯をたやすことはできない。その栄光を歴史にてらし、継承・発展させる使命は重く大きい。それゆえ、いまこそ農民文化に大きく寄与・貢献した未来感あふれる証を、秀れた実践業績の一つひとつに求めて頚影し、ふるさとの大地のするべとする」。が制定主旨という。

選考委員会はむのたけじ氏は、文筆・講演活動に優れた才能を持つ新聞人・革新的文化人・評論家、農村変革の実践家として、「高い理想・自由と解放の炬火を農の心に灯す日本のヴィクトル・ユゴー」と評価された。

農村文化サークル「虹の会」の会員を中心に、2001年12月「むのたけじ」先生の「第12回 農民文化賞」受賞を記念して祝賀会が開かれた。案内が届き参加した。あいさつの中で「まだ賞は似合わない」と受賞を強く辞退していたことを話した。さらに余生という言葉に抵抗の意を述べ「一日多く生きれば、それだけ経験を積む、学ぶべきものがあれば学ぶ、日々成長できる。死ぬるとき、そこが人生のてっぺんでなくてはならない」との想いを熱く語った。対談集「むのたけじ 現代を斬る」イズミヤ出版 2003 はこの集会がきっかけとなって出版された。

先日友人T氏からメールが届いた。以下はその全文。

「今年は雪が深そうですね。
むのさんが1月2日で満100歳になりました。お祝いの会と言うか、100歳報告会が17日に新宿で開かれ、参加して来ました。とても100歳とは思えない大音声で30分近く挨拶したむのさんに圧倒されました。岩波書店の編集者が4人、朝日が2人、NHKが3人はじめ、琉球新報や出版社の関係など40人近くが集まっていました。むのさんは現在、埼玉県の次男宅に住んでおられるようです。老人の怪気炎に、これだけ元気なら小生のことも覚えておられるかも知れないと期待しましたが、ダメでした。完全に忘れられていました。最近、むのさんの岩波新書が3冊出ていますが、いずれもそこそこ売れて版も重ねているといいます。むのさんの本が売れているとなると、日本はかなり危ないのでないかと心配になります。秋田では100歳のむのさんを囲む会など開かれているのでしょうか」。


T氏のいう、「むのさんの本が売れていることは日本がかなり危ない」の指摘が現実になってきた。

テロ行為を支援する立場ではないが、今回の人質事件は最悪の結果に陥った。フランスのパリ新聞社襲撃テロ事件直後に、世界の火薬庫ともいわれる中東へ軍事関連企業と出向き、イスラム国と敵対する国に援助すると表明した。これは結果的にイスラム国側から見れば挑発と捉えるかもしれない。真に「人道支援、難民支援」なら国際機関を通す方法があったのだ。

さらに連日、悲惨な結果に「テロリストを絶対に許さない。罪を償わせるために国際社会と連携して行く。日本がテロと屈することは決してない」。との談話がテレビ報道で繰り返されている。「罪を償わせる」とは相手からみれば「宣戦布告」とも取れる。言葉は受け取る立場で解釈が異なる。

官邸は人道支援の名のもとに自衛隊の海外派遣、戦争できる国をめざす憲法をないがしろにする方向を向いている。テロ対策の陰で巧妙にTPP、農協改革の強行、金と政治の問題等にフタを決め込んでいる。2015年予算案は防衛費の増、社会福祉予算の削減に向かった。政権との癒着を指摘され、お花畑状態を思わせていたマスコミは最悪の結末でやっと事件検証を発言しだした。本日2月2日、全国紙を始め多くの新聞は社説でこの事件を扱っている。秋田魁新報は社説に「邦人人質事件 政府対応の検証を急げ」を掲載した。

「人類の三大敵は病気と貧困と戦争」反戦 100歳「むのたけじ」






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