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三好功一著「雑物園長の記」

2014年09月30日 | 地域の山野草
三好功一氏は「雄勝野草の会」の初代会長である。会員歴6年の自分は平成3年に亡くなられた三好先生との面識はない。しかし「雄勝野草の会」に入る前、昭和50年代から先輩達から三好先生のことは聞いていた。当時農業の自立、組合の再建等の日々の連続でそれほど野草にかかわることもなく過ごしてきた。会員になってから三好先生の関係した本を探していたら、このほど一冊の「雑物園長の記」(全)が秋田の古本屋にあることを知り手に入れた。

「雑物園長の記」(全)表紙と佐竹義輔氏の推薦のことば

第三部の「早春賦」我が家前庭の「ミニ野草園」の写真があった。この写真の左下に「こちゃるめるそう」の立札がある。果実が楽器のチャルメラに似ているからこの名がついたと云われるが、カタカナ書きの山野草の名に慣れたせいか、ひらがな書きで見るとなぜか別のものにも思えてしまう。

三好功一「ミニ野草園」全景

コチャルメルソウには以下の解説がある。
コチャルメルソウ Mitella pauciflora Rosend. (ユキノシタ科 チャルメルソウ属)コチャルメルソウは本州・四国・九州に分布する多年草。落葉広葉樹林の谷や斜面下部などの湿潤な場所に生育する。地下茎があり、群落を形成することが多い。葉は長さ2~5cmで長い柄があり、浅く5裂する。両面には立った毛が散生している。4月から5月にかけ、15~20cm程度の花茎をだし、5個前後の花を付ける。花の形はおもしろく、5つの萼の間から羽状に裂けた花弁が出ている。花茎や柄には腺毛が多い。種子はすぐに稔るようで、花が咲いたものもあれば、すでに種子が稔って果実が裂開しているものもあった。春早くから葉を展開して花を咲かせ、高木が葉を展開するまでの短い期間で種まで作ってしまおうということらしい。その後はじっくりと地下茎で確実な繁茂を目指している。


コチャルメルソウの果実  引用

「果実の形が楽器のチャルメラ似」から名がつけられた、見事な観察眼に納得してしまう。

145ページに「秋海棠全滅す」の記事がある。三好先生は大好きな花の一つと云う。我が家のシュウカイドウはあまりにも増えすぎてもてあましている。この花は20年ほど前、集落で環境衛生の消毒の当番になり、各家々を動力噴霧器を背負い家の周りを消毒して歩いた。主にハエの駆除が目的だった。ある家にいったらピンクの可憐な花が咲いていた。あまりにも印象的だったので少し譲ってくれないかと話したら、数日後数株届けてくれた。当時、花の名は知らず、後になってシュウカイドウの名を知った。


シュウカイドウと蜂 2014.9.10 自宅坪庭

ウィキペディアに次の解説があった。俳句では秋の季語として詠まれる。

秋海棠 西瓜の色に 咲きにけり  松尾芭蕉

この花の色は確かにスイカの色に見える。シュウカイドウの花からスイカを連想するしたたかさに脱帽する。花言葉は、自然を愛す、恋の悩み、片思い、未熟。「片思い」はハート形の葉の片方が大きくなるところからといわれる。盆過ぎから咲きだしたこの花に接すると秋の季節を実感し、そろそろ田んぼの収穫作業の準備に入る。

「雑物園長の記」の317ページに湿原探究報告(2)「刈女木湿原」--新種ガリメギイヌノヒゲ--の記事がある。冒頭に帯屋久太郎の名歌が記されている。 

 
ふるさとを愛するものは故郷の土となれよと啼く閑古鳥  久太郎

故帯屋久太郎は湯沢市出身の歌人 歌碑は湯沢城跡本丸にある。この歌碑を噛みしめて多くの湯沢市民は地元で、また湯沢をはなれて座右の銘にしているものと想われる。故帯屋久太郎は明治の末、詩人山村暮鳥と文芸誌「北斗」を発刊した。全国から寄稿者があって俳句では萩原井泉水、久米三汀などがおり明治45年7月15号で廃刊になった。山村暮鳥は当時、協会伝道師として湯沢に滞在した。

刈女木湿原は羽後町田代梨の木峠の近くで、出羽丘陵標高350mにある約1haの湿原。この湿原には春先「ザゼンソウ」から始まり、夏の「サワギキョウ」の群落がある。当時未開拓のこの湿原を「原生花園」と呼んでたびたび足を運んだ。昭和48年(1973)三好功一氏は刈女木湿原に土田治兵衛氏と野草の調査に行った際に、土田治兵衛氏がこの湿原でホシクサ科の「イヌノヒゲ」を採集した。その時はこの種名がわからず、佐竹義輔博士鑑定をお願いした。佐竹氏は日本の植物分類の権威者でホシクサ科は専門分野だったという。(佐竹義輔氏は明治35年(1902)生まれ佐竹南家の第18代当主、植物学者。日本高山植物保護協会会長で湯沢市名誉市民。2000年3月没97歳)

佐竹義輔氏の調査の結果、イヌノヒゲの新種であり学会に発表、和名「ガリメギイヌノヒゲ」学名Taiocaulon tutidae Satake が正式に認められた。学名のtutidae Satake は土田、佐竹の名からつけられた。

ガリメギイヌノヒゲ 引用

平成26年1月7日、湯沢市グランドホテルで開かれた「創立40周年記念祝賀会」で、「雄勝野草の会」会長の土田治兵衛氏はあいさつの中で、『野草の会40年で「ガリメギイヌノヒゲ」の発見と学名につけられた名を大きな思い出』として紹介した。山野草を愛でる人は多くいる。しかし、新しい山野草を見つけ、学名に自分の名前がつくというような人はほとんどいない。昭和50年(1975)に会館した秋田県立博物館に、秋田県で発見されたホシクサ科植物 「ガリメギイヌノヒゲ」と「コケヌマイヌノヒゲ」の標本など貴重な資料が保管されている。発見から学名「Taiocaulon tutidae Satake」登録が早く関係者の熱意が見える。尚「コケヌマイヌノヒゲ」は湯沢市木地山高原にある苔沼で発見された固有種。どちらも植物学者。日本高山植物保護協会会長の佐竹義輔氏の功績は大きい。

こよなく山野草を愛でた、三好功一氏の昭和51年5月25日NHK秋田、ラジオ放送で放送した「西栗駒の湖沼群」を載せている。最後に以下のことばがあった。

 果てしない私の夢を
 それは
 ふるさとの湿原
 苔沼
 田代沼
 刈女木
 野草と語ることが余生を生きる私のたのしみ


特大な野草 オオベニタデとドガランポ

2014年09月25日 | 地域の山野草
数多くの野草の中でひときわ大きくなるものがある。「オオベニタデ」と「ドガランポ」(イタドリ)だ。真夏から初秋に。「オオベニタデ」の花は見事で、「ドガランポ」」の鬱蒼とした繁茂は夏を象徴している。

「蓼(たで)食う虫も好きずき」の ことわざがある。他に草があるにも係わらず辛い蓼を食べる虫も居るように、人の好みは様々で、一般的には理解しがたい場合もあるということの説明がある。蓼(たで)の親分みたいな「オオベニタデ」が、我家のミニサンクチャアリで異彩を放って立っている。10本ほどの塊で高さを測ってみたら250㎝もあった。7月の末ごろ頃から咲きだし、今が最盛期かもしれない。畑の雑草化したイヌタデは多くの人の目につくだろうが、この「オオベニタデ」になると異次元のものに見える。


オオベニタデ 自宅 ミニサンクチャアリ  2014.9.8

オオケタデ/オオベニタデ (大毛蓼/大紅蓼 タデ科 イヌタデ属 学名Persicaria pilosa 原産地:中国南部) 和名は大型で全体に軟毛が多いことに由来。観賞用に江戸時代に渡来したが、一部野生化して空き地や河原など庭以外のところでも見られる。 茎は太く、高さ1~3mにもなる。紅色の穂がたれるように咲き、鮮やかで目立ちます。葉は大きな卵形で長い葉柄を持ち、托葉梢の縁は無毛。夏~秋にかけて茎の先の大きな花穂に紅色の小花が密生し下垂する。花被片(萼)は5片、雄蕊7個、柱頭2個を観察。マムシの毒を解毒すると言われハデコブラの別名を持つ。毒虫に刺されたとき生葉を揉んでその青汁を患部に擦り込む民間療法がある。

始めはオオイヌタデかと思っていた。イヌタデは下記の写真で畑等に良く映える。別名アカマンマともいう。


イヌタデ 湯沢市川連町黒森  2014.9.7

「草木図誌」鶴田知也著の中に氏のイヌタデのスケッチがある。こよなく山野草に接し、細かいところまでのスケッチに脱帽してしまう。このイヌタデは多くの人の記憶にあるものと思うが、「オオベニタデ」となると植物でもなにか別格に思ってしまう。


鶴田知也「草木図誌」 いぬたで (画像クリックで大)

もう一つ巨大な野草がある。イタドリだ。イタドリ(虎杖、痛取、Fallopia japonica)とは、タデ科の多年生植物。別名は、スカンポと呼ぶ地方もある(茎を折るとポコッと音が鳴り、食べると酸味があることから)。花は白い。亜高山帯にあるのサシドリの仲間でメイゲツソウがある。メイゲツソウの花は淡紅紫色で円錐状に多数つく。 

秋田の県南ではイタドリとは言わず、「ドガランポ」という名で通っている。20年程前になるだろうか、かつての吉野鉱山で亡くなった人を弔ったという墓地で、高さが4mを超るような「ドガランポ」見てあまりにもその大きさにビックリしたことがある。その後院内銀山跡の「ドガランポ」に隠れてしまった墓地に遭遇した。「ドガランポ」の旺盛な生育に圧倒された。2.5mから3mは普通、4m以上ともなれば屋根の高さまで到達、茎の太さはチクワ並み。強風にもびくとしない強靭さに脱帽してしまう。鬱蒼の「ドガランポ」は森のような雰囲気、集団の繁茂は何か異次元の世界を形成している。

現在の吉野鉱山の墓地、院内銀山の墓地も地域の人たちが草刈をし「ドガランポ」は目立たない。きれいに管理されたてはいるが墓地はかつての栄華と悲しみを伝えている。


ドガランポ 横手清陵高校グランド東 2014.9.1

秋田県の由利地方は「さしぼ」といい、早春の芽を食用にし直売所に並ぶが横手、湯沢地方では食べる習慣はない。柳田国男著「雑草雑話」にはイタドリの方言は全国に百以上もあると記されている。イタドリの名は根茎が民間薬として使われ「痛み取り」、「疼取」からと云われて全国的に活用されたのが定着したのではと思われる。

横手市のふるさと栄会ホームページには以下の記述がある。

「草・木などの名前にみられる方言(2) どがらんぽ (いたどり/虎杖)あの戦時中、代用タバコの原料の葉となったのがこれ。≪どがらんぽ≫を知らない人はいないでしょう。植物名の「いたどり」を漢字で書くと <虎杖> をあてます。≪痛取≫からきたとする説もあって、生の若葉の薬効をいうようです。横手地方ではイタドリとはあまり言わず、もっぱら、だれでも≪どがらんぽ≫です。なんとも親しげで、たのしいひびきをもつ方言といえましょう。

『秋田方言』(昭和四年刊)に“横手・平鹿″の例として次のようにとりあげられています。

・どんから (平鹿) いたどり。
・どんがら (平鹿) いたどり。
・どんがからぽ (平鹿) いたどり。
・どんがらんぽ (平鹿・雄勝) いたどり。

『同書』には、“仙北”での用例として <でんすけ>(いたどり)をあげていますし、“由利”の例として <さしどり・さすどり>(いたどり)もあげているようです。横手・平鹿・雄勝での例としていろいろな言い方で示されていますが、ふつうの言い方として≪どがらんぽ≫が一般的なようです。県南に集中しているというのもおもしろいです。
、、、、、、、、、。

古名を「たぢひ」と言ったとある説をもとにして、『秋田方言辞典』では≪さしどり≫の項で、次のように考察しています。〔考〕 サシドリはイタドリの古名「たちひ」の転訛サシと、イタドリとの混交語であろう。[サシンドリ→サセンドリ→ササンドリ]と転ずる一方、[サシンドリ→サスンドリ→サソンドリ]、[サシンドリ→サセンドリ→サヒンドリ]と転じたもの。サシドリは[ドリ]の[ド]が鼻清音化を経て、鼻音を失うに至ったものであろう。
、、、、、、、。

この「どがらんぽ」の名付けについては不明です。解明はされていません。ですが、いかにものびのびした楽しいひびきには感心してしまうのです。≪いたどり≫は古くから漢字 <虎杖> をあてるのですが、実際太い茎のよく乾燥したものは丈夫で、山歩き用のりっぱな杖になります。 丈夫さからの名付けかも知れません。生のときは、ふとい茎は空ろになっていて、折ると音を立てます。そのよくひびく大きな音からの≪ドガラン ポン≫の名付けとばかり思ってきたものです。擬音語といえましょう。なんともたのしい名付けで、散歩道にはうってつけのひびきといえましょう。

イタドリは「疼取(いたみをとる)」で、地下茎に痛みを止める薬効があるとされての名である。タデ科 タデ属の多年草、中国、朝鮮半島、日本に分布して、日本では全国各地に生えている。オオイタドリは日当たりのよい荒地や斜面に生える雌雄異株の多年草。茎は太く中空で節があり、高さは2m近くになる。葉は広卵形でながさ6~15cmで互生し、裏面は緑色。8月~10月に、茎の先に円錐花序を伸ばし白色の花をつける。花言葉は回復、見かけによらないとある。花期8月~10月。 横手市 ふるさと栄会ホームページ(引用)

秋田県南言葉の「ドガランポ」をこよなく好きな名だ。イタドリ、メイゲツソウの名より体を表している。「ドガランポ」の名の響きは秋田県南人のある種の心意気をも表しているような気がする。「秋田のことば」秋田県教育委員会編によれば山形、福島で「どんがら」、「どてんがら」。長野で「どーとんがら」。新潟で「どんごろ」などがある。「どんがらんぽ」より「ん」の音がない、湯沢地方の「ドガランポ」は豪快な名だ。

「ドガランポ」の名の由来を知ることができないが、大胆な独善的な推論してみる。「ドガランポ」の茎は空洞になっている。中身のないことを空っぽということから、「ドガランポ」は空っぽと因果関係があると考えるのは自然なことだ。ウィキペデァアで「伽藍堂」を調べてみると『もともと伽藍神を祭る「伽藍堂」が語源といわれる。「伽藍堂のように何も無い」部屋などといわれた事から、そのように言われるようになった。本来は伽藍堂のように大きな部屋に何も無いことを指して言っていたが、近年では大きくない部屋でも「がらんどう」と言う場合も多い。 また、木の洞(きのうろ)のことも表す。樹皮がはがれて木のなかが腐るなどして隙間が開き、できた洞窟状の空間で、大きなものを指して言う』とある。

又、日本俗語辞典には『がらんどうとは建物の中に人がおらず、物もあまりない閑散としたさまを表す。がらんどうとはもともと寺院にある伽藍堂のことである。寺院のお堂は広く、人もあまりいないことからきた言葉であり、本来は寺院のように広い建物に人や物がないさまを指したが、最近では狭い部屋であってもがらんどうと言う。(「がらんとしている」の「がらん」も伽藍堂からきたものである)またこれが転じ、財布の中に何も入っていない状態、つまり無一文のこともがらんどうという』。

以上のような背景から「サシドリ又はイタドリ」の茎の空洞を「伽藍堂」と揶揄したのではとの推論も成り立つような気がする。胴が空っぽ、胴伽藍ぽにも結び付く。


ドガランポ 湯沢市 皆瀬川久保橋下 2014.9.5

「ドガランポ」のポは空っぽのポから来るものか、または本舗や舗道に使われている舗は。小学館の「大辞泉」によれば舗は「びっしりと敷きのべる」の意味があり、「ドガランポ」は単独でなく群生する。上記の写真で見るまでもなく高さが3mから4mにもなる姿は、他の野草を圧倒する大きな伽藍堂にも見えてくる。

鶴田知也著「画文草木帖」にいたどり(虎杖)の記事があり、正岡子規のイタドリの句が紹介されている。

  山かげの虎杖森の如くなり  子規  

この句に見られるように、集団で旺盛な「ドガランポ」はまさに野草の森、野草の伽藍堂と呼んでも違和感はない。

「耕作離れ」の米価格  

2014年09月19日 | 農業
9月に入って26年産米の価格がどのように推移するのか、東北各県の動向をWeb新聞で注視してきた。9月9日河北新報は宮城県米「ひとめぼれ」の概算価格は8400円と報道した。その後岩手、秋田が前年対比大幅安を報道し、9月14日全国紙朝日新聞がトップ記事として以下の報道した。全国紙で農業関係、米価格の動向についてトップ記事になることは異例なことだ。


朝日新聞 2014.9.14

「新米 安値」 新米、今年は安い 収穫上々・余る13年産・ご飯離れ…

各地のスーパーに並び始めた2014年産米(新米)が、昨秋より安い。今のところは全国では平年並み以上の収穫になるとみられ、農協が農家から買い取る新米の価格は、昨年より1割以上も下がった。高齢化と人口減でコメを食べる量も人も減っていく時代、13年産米が多く余っていることも響く。
、、、、、。

新米の作柄は日本全体では「平年並み以上」との見方が多く、店頭の安値に反映されている。大半が遅場地帯の西日本では今夏、長雨と日照不足で作柄が悪くなる恐れがあり、九州・中国地方ではカビによる病害のいもち病の発生が確認された。品質への影響も懸念されるが、東日本では8月15日現在、「良」や「やや良」が多い。以下略 朝日新聞 2014.9.14 

他の全国紙が無視する中で、唯一朝日新聞はトップ記事で報道したが状況報告で、視点はどこにあるのかと?がつく。見方を変えれば、消費税増税のドアホノミクスの状況下では米離れ加速推進報道にもなる。

農業情報研究所は2014年9月13日 以下の記事を掲載した。
米価暴落「農家がつぶれる」政府も農協もなす術しらず何が所得倍増だ
米価暴落で東北米農民が存亡の危機に立たされている。

JA全農山形が決めた2014年産米の概算金は、日本一のブランド米をめざす「つや姫」が前年を1200円下回る1万2500円、「はえぬき」が同2600円安の8500円、他の主要銘柄も8000円台だ。県内稲作農家からは、「このままでは農家をやめざるを得ない」、「政府は環太平洋連携協定(TPP)交渉妥結を目指し、米国や豪州に対抗できる大規模化を進めようとしているが、これでは大農家ほど経営が厳しくなる」などの声が聞こえる。以下略

岩手県全農県本部が決めた主力の「ひとめぼれ」の概算金も1万円を割る過去最低となった。概算金の大幅下落は農家の資金繰りに大きく影響する。生産者からは「これでは赤字になる」、「農家がつぶれる」の声が上がる。農家悲痛「対策急がなければ」 県産米の概算金下落 岩手日報 14.9.11

一関地方良質米生産確立生産者大会は、「「米価が3割も低下して生産費を大きく割り込み、生産者の生活と地域農業は瀕死(ひんし)の状態。大型経営体や集落営農組織ほど打撃は大きく、稲作は崩壊の危機だ。国の責任として主食のコメを守り、地域農業発展を目指す施策を強く要請する」との大会決議を採択」した。同県選出国会議員らに提出するという。「平泉米」拡大へ団結 一関地方生産者大会 農業強化策求め決議 岩手日日 14.9.13

しかし、今の安倍政府には、そんな声は届かないだろう。規模拡大と飼料用米拡大、自力による販路拡大で乗り切れと突き放すに決まっている。そして、悲しいことに、全能のはずの全農もこの事態を前に、なす術を知らない。外食産業との連携も、価格維持に関しては頼りにならないだろう。

何が「所得倍層」だ。政府・与党も、この錦の御旗を降ろすべきときだ。もはや、新たな産消連携の構築と拡充以外、この苦境を乗り切る道はなさそうだ。
 以上 農業情報研究所記事 引用

「あきたこまち」誕生30周年の式典を終えたばかりの秋田県知事は、9月17日の朝日新聞秋田版で「農家の自助努力で危機脱出せよ」?とコメ生産県知事とは思えない発言した。この記事「揺れる東北農業」9月16日の県議会で、「考え方が普通の商売人と同じようにならない限り農業の展望はないと思う」と述べ、さらに「商工業の方は、全体的に支援がなくとも頑張っている。これから農業も競争社会になる。食料は基幹的なもので日本の生命線だが、あぐらをかいてはダメ。できるだけ自分で努力せよ」。「食品加工分野をさらに強化する必要がある」とも付け加えた。

この方の発言で多くの農家は奮起するだろうか。米つくり県の知事にして、ほとんど生産の現場がわかっていない。農家訪問と称して、田んぼでコンバインや田植機に耕作者と並んで乗ったりしたぐらいの感覚しか持ち合わせていない。支援なしに頑張っているという商工業者も商圏のほとんどが農業関係の中で、農業の衰退と偽物の景気回復策でどのような方向に向かうだろうか。どこに「あぐらをかいている農家」がいるのか伺いたい。所詮お殿様感覚の現状認識、ピントはずれで農業県の再建などできるはずがない。かつて秋田県には「農工商一体」を掲げ県政を推進した知事がいた。

山形新聞9月13日に、吉村美栄子知事は「つや姫」が前年を1200円下回ったことについて、県農協中央会の長沢豊会長らに対し「つや姫の販売は堅調に推移している。売れるのだから、概算金を下げずにやれないのか」と詰め寄ったそうである。会長は消費低迷によるコメ余り、概算金全体の下落傾向を踏まえたことを説明したが知事は納得せず、「諸般の事情はあるだろうが、つや姫は農業を救う奇跡のコメ。この金額では生産者の落胆が目に浮かぶ」と畳み掛け、「売れるのになぜ下げるの…」と繰り返した。との報道があった。

米生産県の知事の意識の差は大きい。

「あきたこまち」の価格は昭和45、6年産とほぼ同じの価格だ。「あきたこまち」以外の価格はそれよりも低く、昭和42年産価格60K当たり7677円前後。人事院の資料によれば、当時の大卒初任給は31,306円、高卒27,300円。米60K換算で大卒4俵、高卒で3.5俵等になった。平成25年度は大卒203,600円、高卒140,100円となっている。この初任給は平成26年産米60K換算で大卒24俵、高卒で16.5俵に値する。地方では小泉、竹中、安部内閣不況で、4年生女子大卒の初任給は高卒初任給以下、派遣、臨職扱いが全国で60万人もいるとの報道がある。

平成26年産概算価格、農家が手にする60K8500円の代金は、農水省調査の再生産価格の物財費も下回る。誰が見てもこの価格では新規就農者が多くなるはずがない。40数年間の対大卒初任給比較で60k50,000円位、せめて30,000円だと給与所得とのバランスはとれる。ドアホノミクスのなれの果て、円安政策と消費税増はとてつもないくらい米生産の物財費増に直面している。その現実を直視せず、ドアホノミクスと同じ感覚のトップは「自助努力せよ」という。

収穫期に入って、出穂後の日照不足、台風11号の置き土産「褐変色」のモミは予想以上の被害になりそうだ。青米、未熟米が多く収量は昨年より悪いとの報が多い。作況予想「やや良」とは米価引き下げの操作に等しい。2011.3.11の東日本大震災で、取引材料になったコメの価格の反動は大きい。その意味では東日本大震災の直撃価格。その余震はまだまだ続く。
(青字 筆者)

「あきたこまち」誕生30周年

2014年09月12日 | 農業
「あきたこまち」が誕生して30年になる。秋田県産米の主力品種「あきたこまち」のデビュー30周年記念式典(JAグループ秋田、JA全農あきた主催)が5日、秋田市の秋田キャッスルホテルで開かれた。県内JAや県、全国の卸売業者の担当者ら約200人が出席。1984年9月に誕生した「あきたこまち」の歩みを振り返ると共に、「あきたこまちを」中心とした県産米の品質向上と販売促進に力を入れていくことを確認した。


 収穫前の「あきたこまち」 2014.9.6 川連町田屋面

朝日新聞秋田版は9月7日以下の記事を掲載した。

「県産米の主要銘柄「あきたこまち」が7日、誕生から30周年を迎える。それに先立ち6日からは秋田市内で感謝イベントも開かれている。かつては食味の良さで全国的な人気を誇ったが、近年は次々に登場する他地域の新品種に押されぎみ。関係者は食味の向上などで巻き返しを目指す。あきたこまちは、寒さに強い品種開発を目指し、県農業試験場が「秋田31号」として完成。1984年9月7日、当時の知事が「あきたこまち」と命名したのにちなみ、JAはこの日を「誕生日」とした。

デビュー直後、あきたこまちは、日本穀物検定協会の総合評価で、コシヒカリをしのぐ最高点を記録し、その記録は今も破られていない。しかし、今や西日本や北海道でも高品質米が登場し、産地間競争も激しくなっている。JAは、あきたこまちの品質向上のため、県内農家を対象に昨年初めて食味コンテストを開催。5位までの上位入賞者のコメを「ザ・プレミアムファイブ」として限定発売し、好評を博した。今年は第2弾のコンテストを検討している。

さらに、農家には、猛暑に備えて水田の水管理などに注意を促す一方、食味を良くするコツをまとめた「食味ランクアップマニュアル」を配布した。JA全農あきたの小野悟米穀販売課長は「30年で気候や土壌も変化し、農家ごとに独自の栽培方法になっている。マニュアルなどで全体レベルの底上げをしたい」と話す」。


朝日新聞秋田版 9.7

振り返ってみれば「あきたこまち」誕生直後に湯沢市、雄勝郡を対象として、仲間とともに「あきたこまち栽培研究会」を立ち上げた。「あきたこまち」誕生の昭和59年は秋田の米は「アキヒカリ」が折檻していた。当時湯沢、雄勝の農民運動でそれまで冷害に悩まされていた米つくりから脱却しようと運動をしていた中で、青森県藤坂試験場で育成されていた「ふ系104号」に着目し栽培。当時湯沢。雄勝地方に瞬く間に広がった。その後秋田県は「ふ系104号」を「アキヒカリ」として農林省の登録品種に指定、全県下に栽培が拡大した。減反政策拡大に中で圃場整備事業が全県各地で実施されたが、区画拡大の田んぼの造成に欠陥圃場が続出、劣悪な田んぼと不純な天候の中で「アキヒカリ」は当時の農家を救った品種といえる。

昭和59年はコメの消費が伸び悩んでいた時期で、政府は減反政策の強化、全期3年、後期3年計6年の新たな生産調整が始まった時期である。そこに誕生した「あきたこまち」は良食味の品種等と云われ、慣れ親しんできた「アキヒカリ」から転換の時期となった。

栽培に慣れた「アキヒカリ」から「あきたこまち」はスムーズには移行できなかった。「アキヒカリ」と比べて栽培が難しかった。うまいコメの代表の「コシヒカリ」の系統で収穫間際での倒伏は続出、それに稲作の大敵イモチ病に強い品種ではなかった。

「あきたこまち栽培研究会」は農家の独自な組織、「米作日本一」だった渡辺重博氏を会長に選出し、事務局を湯沢農業改良普及所にお願いした。「米作日本一」とは昭和24年(1949)から20年間つづいた朝日新聞主催の多収穫競励事業である。農林省や全農の支援もあり、当時の農家の増産意欲をかき立てた。 参加した農家数は毎年およそ2万人、延べ40万人に参加したという。昭和41年、渡辺重博氏は若干27歳で日本一に輝いた。米について湯沢・雄勝地方の代表だった。渡辺氏を中心にして、多収穫栽培から「あきたかまち」の特性を生かし栽培研究、首都圏の生協幹部を交えたシンポジュームの開催等、湯沢・雄勝地方に大きな広がりをもった。「あきたこまち」の登場は多収穫から消費者を意識した米つくりへと変わっていった。

同じ頃、私達は稲川農協の中に有機米研究会を立ち上げた。食味重視の「あきたこまち」の栽培を農協を中心にして活動を呼びかけ、昭和63年の結成集会に140人の組合員が集まった。JA稲川町管内は昭和30年代から肥育牛の生産が盛んで、銘柄牛「三梨牛」は畜産農家と稲作農家の間で稲わらと堆肥の交換で成り立っていた。昭和50年代は減反の拡大と米価の低迷、それに機械化が進み稲作農家は手間のかかる自然乾燥から撤退する農家が多くなってきていた。

有機米研究会は「あきたこまち」の誕生と、畜産農家の結びつきをさらに高めていこうとして設立された。当時の有機米の基準として堆肥を10a当たり2t以上使用、農薬使用回数は2回以内の減農薬栽培。全量1等米で、水分15.5~16.0%n範囲内、調整は1.85mm以上のふるい目使用で整粒歩合80%以上を目標にした。

稲川有機米研究会の発足は湯沢・雄勝では初めてで、その後羽後町の田代農協にも有機米研究会が生まれた。昭和63年稲川有機米研究会出荷の「あきたこまち」が、東京都の三多摩の卸会社で当時の食味計の検定で、90点代の驚異的な数字が記録され、会長だった私はJAの担当と秋田県経済連東京事務所の担当と訪問し栽培法に自信をもった経過がある。食味を測る器機が当時の価格で3億円もするということで、首都圏の大きな卸会社等しかもっていなかった。米の生産の秋田県に入ったのはこの時期から数年後だった。

そのような背景もあって、「あきたこまち」誕生後県内にもそれまでの多収穫栽培から、食味重視の有機米栽培へ関心が高まるようになって、秋田県経済連は有機栽培の全県統一の栽培基準がつくられた。

会発足御当時、東北で有機米生産で先頭を走る「福島県熱塩加納村農協」を研修視察。平成4年には農林水産省が選定する「続日本の米作り100選」に選ばれ、平成9年の「第三回環境保全型農業推進コンクール」東北の部で優秀賞の栄冠を得た。ちなみに第一回の最優秀賞は熱塩加納村の「緑と太陽の会」、優秀賞は有機栽培で有名な山形県高畠町の「上和田有機米生産組合」だった。県の経済連と名古屋市のコメ卸会社と三者で「あきたこまち」のふるさと訪問を企画し、消費者との交流も続いた。消費者との交流は生産地に大きな成果を残した。今から20年前だった。現在だと各地に消費者交流は盛んになったが、当時はそれほど多くはなかった。


収穫前の「あきたこまち」 2014.9.6 川連町田屋面

平成7年から始まった環境保全型農業推進コンクールは今年が第20回となった。有機栽培に取り組んでいる団体が毎年多く各地から入賞している。今では良食味の米が南は九州から北は北海道まで生産されるようになった。

うまい米の代表のコシヒカリは福井県で誕生した米の代表格である。 コシヒカリという品種は1つであるが、コシヒカリという銘柄(消費者が買う段階の商品名)にはコシヒカリ(品種)と多数の品種を含むコシヒカリBLという品種群が含まれる。現在、「新潟県産コシヒカリ」という銘柄は、9割以上がコシヒカリBLという品種群であり、コシヒカリ(品種)とは異なる。

良食味の代表格のコシヒカリ(品種)は1956年(昭和31年)、水稲農林100号「コシヒカリ」として命名登録され誕生から58年になる。「あきたこまち」の誕生30年がそれに続いている。良食味の米が各地で生まれて、それぞれの米の評価が高まっていることは日本の農業のとってうれしいことだ。そのような背景の中で、「あきたこまち」は品種の特性にあった栽培を続けてゆく限り一定の地位は続くものと思われる。

さて、「あきたこまち」誕生の30周年の今年の「あきたこまち」は、出穂後の不規則な天候に心配されたが今のところ順調な生育になっている。台風12号、11号の「鬼雨」突風で生じたモミの褐色変の影響はどう出るだろうか。稲刈り収穫直前になったが、田んぼに入って褐色変のモミを調べてみると青米が意外と多く見られる。最終収穫量はどうか、赤信号が出てきた。

農水省の平成24年度米生産費を見ると米60キロ当たり物財費9672円、労働費4108円で計13,780円。その他資本利子、地代等参入で合計15,957円と公表している。「あきたこまち」誕生以来、最低の概算金60K当たり9000円以下の米価では農家の栽培離れが進むに違いない。農水省の生産費調査の物財費(種苗費、肥料費、農薬費、諸材料費、修繕費、動力光熱費等)9672円にも届かない概算価格で生産意欲がわくはずがない。栽培委託農家は自分の食べる米さえ確保できない。さらに規模拡大した農家はこの概算価格では、経営維持ができず耕作放棄地は拡大される。



「オニノヤガラ」の塊茎

2014年09月06日 | 地域の山野草
「オニノヤガラ」(鬼の矢柄)の記事を昨年2013年07月11日 ブログに書いた。「オニノヤガラ」は秋田県で準絶滅危惧種に指定されている。今年も我家の杉林に出てきた。今年はカラ梅雨が影響したのかいつもより少ない。それでも20本は出てきた。6月の末に出てきた「オニノヤガラ」も8月になるとすっかり花も終わり下の写真のような姿になった。地上部分は枯れるが、地下にジャガイモ状の塊茎が残り、この中に含まれるナラタケの菌糸と共生しているために、オニノヤガラ自身で炭酸同化作用を行って栄養分を作る必要がないと云う。
 

 オニノヤガラ 塊茎 2014.8.9

一本の「オニノヤガラ」を掘ってみた。長さは110cm、塊茎はじゅがいも大で長さ12cm、幅8cmはある。開花したあと消滅すると云われているが写真の塊茎の先端部分は腐りかけていた。役目を終え新しい塊茎へ移行中だろうか。元の部分はまだ固かった。6~7月の開花期に、地中の塊根を掘り取り、薄く輪切りにして、天日で乾燥させたものを生薬名で天麻(てんま)といわれている。 

花の最盛期は下記の写真だから変わりようが激しい。腐生植物であり、光合成を行わず、葉緑素を持たない「オニノヤガラ」の特長かもしれない。花は黄褐色で筒状に膨らみ,茎の上部に総状に多数つけて6月から7月に咲く。


オニノヤガラ 開花 2012.7.9 湯沢市川連町坪漆

一般的には塊茎は開花した年に消滅する。表面に小さな芽を生じ、その芽が数年間地中で生育し肥大した後に、再び花茎を伸ばして花をつける。そのため生育する個体数は、年によって増減があると云われている。葉緑素がなく、葉は鱗片状でまばらにつき栄養物はナラタケ菌と共生して得ています。地上茎は黄褐色で直立し草丈は60~120cmです。花の終わったこの時期(8月)は一本の棒状になっている。

オニノヤガラ4本 花の後 2014.8.9

薬用には塊茎を用い、通常は蒸して乾燥させる。生薬名をテンマ(天麻)は強壮薬の他、頭痛、めまい、ヒステリー症、てんかん、手足のけいれん、リウマチの痛みなどの改善等に効能があると云われている。食べられると聞いたことがあるが食したことはない。未熟なジャガイモのようなザクザクした食感があり甘味もあるという。かつてはアイヌは食用にしていたとの記録がある。

昨年のブログ オニノヤガラ(鬼の矢柄)2013年07月11日で北京周報(1973)の記事を引用した。当時栽培が難しく「仙人の足」などと呼ばれていることを知り引用した。「オニノヤガラ」はナラタケ菌から栄養提供をうけて生活する菌従属栄養植物であるため、単独で鉢植えにすると栄養の供給が断たれて衰弱枯死する。しかし、共生菌を培養接種したキノコ栽培用原木を土中に埋設し、その隣に塊茎を植えつけた場合は育成が可能の記事があった。あの記事(1973)から45年も経過して中国ではすでに栽培が確立され、現在漢方薬材料として商業的に大量栽培されているといわれている。日本国内でも実験的には人工栽培が試みられているが、価格的に中国産に対抗できないため商業化はされていないという。

日本でも調査研究が行われている。ネット検索で以下の記事があった。
「オニノヤガラは共生菌が日本で最初に明らかにされた種です。共生菌は複数ありナラタケ菌のうち病原性が低い5種が知られています。これらの菌は腐生性が強い種です。オニノヤガラは種子発芽から幼株まで共生する菌と、その後親株にまで生育させる菌とが異なることがわかっています。発芽の時はシロコナカブリと共生し、薬草として栽培している中国では2種の菌を使い分けている」
北方山草会(北海道大学植物園 谷亀高弘)

秋田県で準絶滅危惧種に指定されている「オニノヤガラ」が、近くにあるのにある種の不思議さを覚える。ランの仲間というが普通栽培は難しく誰もほかのラン類のように盗る人はいない。一般的なラン類とはあまりにも違うものだから当然とも思える。集落でこの「オニノヤガラ」に関心はなさそうだ。それが中国では貴重な漢方薬材料として商業的に栽培が確立され大量栽培されている。生薬の材料としては極めて貴重だから、長年の試行錯誤で栽培が確率されたと云われている。

鶴田知也氏は著書「草木図誌」の中で『「神の矢幹」や「盗人の足」の異称がある。昔人が、これを見て、鬼だの神だのこの世にあらぬもの、あやしきものを連想したのは当然であろう。「盗人の足」について牧野図鑑に、「、、、、この種が転々として一定の場所に生えないので、足形にも見える根茎を盗賊の足にたとえてよぶ」とある。盗人の足といえば「ぬすびとはぎ」が頭に浮かぶ。このほうがもっとリアルである。その豆果が、盗人が忍び足のとき、足の側面を使うその足形に似ているからである。おそれいった観察と芸の細かい連想ではあるまいか』とオニノヤガラを取り上げている。

花色の緑青のものをのアオテンマ(青天麻、別名:アオオニノヤガラ、f. viridis)というそうだが,まだ出合ったことはない。何しろ出現率が普通見られる黄褐色の花の約10%といわれている。もしかしたら我家の杉林で、、、などと思いを巡らせている。