新河鹿沢通信

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まぼろしの湿地と沼

2016年09月08日 | 地域
「まぼろしの湿地と沼」、このタイトルは私の生活空間からの距離せいぜい40㌔の範囲の場所。幻とあえて呼ぶのは多くの人の出入りを制限した方が良いと思ったからだ。近年自然とふれ合う愛好者が増えてきている。増えるに従い一部にマナーに疑問がつく行為が多くなってきている。私が自然や山野草に興味を持つようになったのは「鶴田知也」氏との交流からだから50数年になる。酪農業からリタイヤし少し時間がとれるようになって山野草や軽い登山を楽しむようなってせいぜい10年、この分野では初心者でしかない。

近年各地に「農産物の直売所」が生まれた。新鮮さをキャッチフレーズに山菜や野菜の他に山野草も並ぶようになった。時々珍しい山野草が並ぶ。時々乱獲を彷彿される山野草に遭遇することがある。売店のレジに尋ねると地域の生産者が栽培しているこ答える。明らかに山採りをして栽培し、繁殖していることが想像される。中には種子から時間をかけて栽培繁殖している人もいるようだ。

「クマガイソウ」は秋田をはじめ全国的に絶滅危惧1類に指定されている。私の地区には昔から「クマガイソウ」(熊谷草)の群落があった。10数年ほど前、根こそぎ盗掘されてしまった。調べて見たら著名な人が混じったグループだったことを知り愕然とした思いがある。この盗掘された「クマガイソウ」は2年後近くの直売所に並んだ。他の直売所より安いことを宣伝したちまち売り切れたという。

この事件以来、山野草や湖沼は静かに見守ることにしている。今回の湿地も沼も多くの人には知られていない。歩道等整備し管理をしている湿原等各地にある。季節ごとの散策を楽しみにしている。管理が不十分な歩道の整備されていない湿地に多くの人が入り込むとたちまち踏み荒らされてしまうのを恐れる。

今回訪れた標高319ⅿの湿地には「サワギキョウ」(沢桔梗)が真っ盛りだった。ヨシに覆われて池塘の近くには黄色の花に交じって紅花と白花の「ミミカキグサ」(耳掻き草)が生えそろっていた。。

ミミカキグサ

日本では本州以南や、中国からマレーシア、オーストラリアに分布する。湿地の湿った地面か、ごく浅い水域に出現する。多くの都道府県でレッドリストに指定されている。秋田県では準絶滅危惧種に指定されている。長さが10㎝に満たない小さな植物で、花が咲いて初めて気づく。匍匐茎から泥や泥炭の中に地下茎をのばす。この地下茎と地上葉にも捕虫嚢をつけ、ミジンコなどのプランクトンを捕食する食虫植物。花が終わった後に果実を包むような姿が耳かきに似るのが名前の由来と云われている。

タヌキモとミヤマアカネ

池塘の水面から突き出して黄色の花があった。始めてみる植物だった。同行した雄勝野草の会鈴木房之助氏の調べで食虫植物の「タヌキモ」の名がわかった。根のように見える茎はフサフサでタヌキの尻尾ににていることから名がついたという。20㎝近いこんもりとした茎を水面に下げ浮遊している。この茎をくデジカメに収めることができなかったので下記のイラストで説明すると、大きさがまちまちだったが丸いのが捕虫嚢がある。ここからミジンコやカの幼虫のボウフラ、発生初期のオタマジャクシ等を捕獲するといわれ驚かせる。「タヌキモ」は牧野富太郎氏が明治33年(1900)に命名した植物。

 引用
  
日本で最も美しい赤トンボと言われる「ミヤマアカネ」(深山茜)が「ホソバオモダカ」に静止した。ミヤマアカネの特徴でもある翅の帯とピンクの縁紋(えんもん)がスッキリとしている。この縁紋は始めは白色で成長するとピンクに変わってくる。もう少し時間がたてば全体が鮮やかな赤色になる。日本の各地に生息していると云われるが、都道府県によっては絶滅が危惧されている。

ミヤマアカネ

この湿地には大小15ケ所の池塘がある。小さいのはタタミ半分位、大きくてもせいぜいタタミ4枚ほどの大きさ。その中でヒルムシロが面白い形、タタミ一枚ほどの広さ。

池塘のヒルムシロ 

この湿地から約20K離れた沼にむかった。初めての場所。両側から草に覆われて林道をひたすら走る。g00gleマップで調べた沼、数日前の大雨で林道で少々不安もあったが走っていたら忽然と沼が現れた。標高522ⅿ地点、面積は推定で1ha程だろうか。杉林の中の沼は集落や国道から離れ、物音ひとつしない神秘的な沼。

まぼろしの沼

約半分はヨシ等で覆われ一部に浮島のが見える。奥の方の杉林から入れそうに見えたがヤブだったので見合わせた。浮島よりの沼面に生えているのは「ジュンサイ」(蒪菜)と「ヒツジグサ」(羊草)だった。「ジュンサイ」は東南アジア、アフリカやアメリカ等に分布している。食用にしているのは中国と日本だそうだ。秋田県の郷土料理で三種町は生産量日本一として知られている。東京、埼玉、沖縄では絶滅したと云われている。浮島の足跡は誰かがジュンサイを取りにきたのかもしれない。

「ヒツジグサ」の名は、昔の未の刻(今の午後2時)に花が咲くことから名づけられたというが必ずしもそうでもないらしい。花は3日ほど咲いて、終わると花柄が曲がって水中にもぐり、実が熟されると敗れて種を出す。たねは空気を含んだ浮袋のような皮で包まれ、水面に浮き上がり移動し繁殖する。

ヒツジグサと波模様

浮島を歩くと静かに揺れる。ヨシに囲まれて「ウメバチソウ」(梅鉢草)が咲いていた。いつも見慣れた姿と違って茎が長く、花も小ぶりだった。側の「コバギボウシ」(小葉擬宝珠)の花は終りを告げていた。「ヒツジグサ」は照り付ける強い日差しの中で、沼面の小さな波に独特の表情があった。奥に回れば別の山野草が見られたかもしれない。

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「ナラ枯れ」ゲリラがやってきた

2016年08月27日 | 集落
「ナラ枯れ」は秋田県では2008年にかほ市で確認されて以来9年になる。湯沢市では2009年に山形県境の院内で確認されていた。川連集落では今年の8月になって鍋釣山に「ナラ枯れ」が見られた。近年カシノナガキクイムシ(カシナガ)が媒介するナラ菌により、ミズナラ等が集団的に枯損する「ナラ枯れ」が北海道を除く都道府県に発生している。「カシノナガキクイムシ(Platypus quercivorus)とは、コウチュウ目・ナガキクイムシ科の昆虫である。広葉樹に被害を与える害虫。成虫の体長は5mm程度の円筒状であり、大径木の内部に穿孔して棲息する。穿孔された樹木は急速に衰える。葉が真っ赤に枯れ枯死してしまう」。  (引用)

私が「ナラ枯れ」に初めて遭遇したのは2008年、山形県鶴岡市の友人を尋ねて国道47号線舟下りで有名な戸沢村走行中だった。最上川の対岸の山の所々が真夏なのに紅葉のような景観に戸惑った。山が茶褐色になる「松枯れ」は見慣れた光景だったが違った。「白糸の滝ドライブイン」に停車し、良く観察してみるとどうやら松の木ではなく広葉樹だった。当時「ナラ枯れ」等と云う名は知らなかった。

秋田県の発生は2006年由利地方で発生、2008年に湯沢地方に侵入していた。当時親戚の集まりで皆瀬地区の人たちと「ナラ枯れ」の話をしたが、見たことはない「ナラ枯れ」にそれほどの関心が示さなかった。湯沢市の東部旧稲川に進出してきたのは5年前の2011年、雄長子内嶽の南側の斜面に見られた。今年は6月の末頃から駒形地区大倉、東福寺。川連地区で確認されたのは8月に入ってからだった。

三梨町飯田 2016年8月27日

駒形町大倉 2016年8月27日
鍋釣山 遠矢の松付近 8月9日 自宅から望遠で

鍋釣山の通称、遠矢の松付近と小烏(コガラシ)に8月9日に確認。翌10日田んぼの見回り中南東の方角、国見嶽の麓に自家の山がある。字名は坪漆と云う。八坂神社奥の方に位置している。写真で中央より右側に赤茶けた木を見つけた。とっさに自家の山林のミズナラとわかった。

坪漆  2016年8月10日 田んぼから

根元の状況

根元にはカシナガに食害され根元に「フラス」と呼ばれる虫糞と切削粉の混ざった「オカクズ」が散乱していた。このナラの木は樹齢100年程、ナラ枯れが進出してきたら一番最初だろうと数年前から想定していた。周囲を見渡すとさらに4本に被害があった。

2016年8月10日 川連町坪漆地内

現在集落から見える「ナラ枯れ」は上野から滝ノ沢3本、南沢3本、川連の鷹塒(タカトヤバ)3本、小鳥(コガラシ)2本、麓の鍋釣山3本、古舘1本、黒森1本、東天王1本、切崖1本の計18本。坪漆の4本は現場に行かなければ見えないので含まれていない。内沢に出向けばまだあるのかもしれない。

「ナラ枯れ」は比較的高齢で大径の樹木が多い広葉樹二次林(旧薪炭林など)で発生することが多く特にミズナラが優占する森林で被害が激甚となりやすい。また、比較的低標高の森林での被害報告が多い。まだ詳細な検討はなされていないが、被害発生のピークはその年の気温や降水量によって変化すると思われる。また、高温小雨の年には被害量も多く、逆に低温多雨の年には被害量も少ない傾向がある。

「ナラ枯れ」の歴史は古く、文献で確認できる最古の被害は1930年代の宮崎、鹿児島両県の被害である。その後1980年代までの間、散発的に山形、新潟、福井、滋賀、兵庫、高知、宮崎、鹿児島の各県で被害が報告されている。この頃の被害は比較的短期間で終息することが多く、また地域的にも現在のように広域への拡大が生じることはなかった。現在のような被害の拡大が継続するようになったのは、1980年代末以降のことである。
(引用)

カシノナガキクイムシ通称カシナガは体長は4~5ミリ、移動範囲年間1キロにも及ぶ。直径1ミリ位の穴を開け侵入する。ナラの木を養分とし、食べつくし「ナラ菌を運ぶ」。 菌がカシナガに寄生し木の中いっぱいに菌糸を広げ増殖する。 虫が運んだ「ナラ菌」が木の中で
水を吸い上げる管を詰まらせる。その結果ナラの木は枯れる。

さらに枯れ木以外 全ての木に穴を開け虫が入り込む。その数は、多い木に数万匹との節もある。虫が入り込まれた木は、枝の葉が赤く枯れ根元に「フラス」と呼ばれる虫糞と切削粉ような「オガクズ」を散らかし拡散する。

秋田県の「ナラ枯れ」状況は下記の図、美の国あきたネットから引用させてもらった。秋田県にナラ枯れが侵入してから10年、仙北市から県北の内陸市町村は今のところ侵されてはいないが昨年県北の八峰町に進出されたことから見ると、秋田県は全地域に「ナラ枯れ」が進むことになりそうだ。

美の国あきたネット (引用)

秋田県の状況と対策については下記のアドレスに詳しい。
http://pref.akita.lg.jp/www/contents/1334040533194/files/1.pdf

今のところ「ナラ枯れ」に強い森林の育成、カシナガの生息に適した大径木(高齢木)を利用(伐採)し、萌芽更新させることで小径林化を図る方法」等。今のところ決定的な対策は乏しい。

わが家の「ナラ枯れ」は現在ミズナラ5本、この量で一年の薪ストーブ用材は間に合う。他の大径木を伐採し、小径林化を図るとなれば大事業だ。ナラ類は、伐採してもその伐根から萌芽する能力を持っているが、おおよそ樹齢40年が経過してしまうと萌芽できずに枯死する株が出ると云われる。わが家のミズナラ樹齢80~100年だと萌芽はほとんど期待できない。すべてのミズナラを伐採しなければならないのかもしれない。この場所は昭和30年代に雑木林を伐採し杉林にし、一部を燃料確保で残した所だ。ミズナラ以外の樹種はヤマモミジ、ホオノキ、ブナ等がある。ブナには「ウエツキブナハムシ」で「葉枯れ」を引き起すが木は枯れないと云われてきたが、標高160mでは珍しいと云う樹齢100年のブナもミズナラの変化に対応したのか生気がない。
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「山の日」の一日 

2016年08月15日 | 地域
「山の日」は2014年平成26年)に制定され、2016年(平成28年)に施行された日本の国民の祝日の一つである。祝日法では、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことを趣旨としている。第一回「山の日」記念全国大会が長野県松本市で開かれた。

祝日として「海の日があって「山の日」がないのはおかしい等の意見は前々からあった。2013年4月に山岳関係者や自然保護団体等からの意見を受け、超党派110名の議員連盟「山の日制定議員連盟」(会長:衛藤征士郎)が設立された。当時9党のが祝日法の改正案を衆議院第186回国会に提出し、賛成多数で可決され、参議院本会議でも可決され2016年から8月11日が「山の日」となった。

休日のない「米と牛飼い」には「国民の祝日」にはほとんど無関係に過ごしてきた。近年とってつけたように祝日が増えてくるとますます関心が薄れてきていた。牛飼いから離れて数年になるが「祝日」の感は依然として鈍い。盆前の8月11日の祝日が「山の日」であることを知ったのはカレンダーからだった。

8月11日朝、某君が急遽「山の日」だから山に行こうと車で玄関前に来た。慌てて車に乗り込んで、「どこの山」と聞いたら「駒ケ岳」と云う。山菜やキノコ採りにしか山に関心のなかった某君が、「山の日」だから山に行こうと云うのだから「山の日」の祝日は効果大だったのかもしれない。総勢5人で出かけた。

アルパこまくさ登山バス停

6月~10月のマイカー規制中は、アルパこまくさ登山バス停で乗り換え、アスパこまくさには大駐車場は満杯状態。 アルパこまくさから羽後交通バス「駒ヶ岳線」八合目登山口まで25分かかる。バス切符売り場で聞くと平日の倍以上の出足と云う。

バスは満席

車のナンバーからほとんどが県外客らしい。初めての「山の日」制定で子ども達も多い。
バスの終点八合目の休憩所で昼食。標高1305ⅿ地点。緩やかな風もあって心地よい。某君等は登山歴はない。ひっきりなしに下山客がくる。登山準備はほとんどなしで8合目まで来たついでに、日窒の硫黄鉱山跡まで足を延ばした。いきなり見事な「ミヤマアキノキリンソウ」と色鮮やかな「アカモノ」と出会う。

ミヤマアキノキリンソウ (もしかしたらハンゴンソウ?)

アカモノ

しばらく歩くと薄紫のきれいな花「オクトリカブト」と「オニアザミ」。全部毒のトリカブトの妖艶な花。「オニアザミ」の花はアザ最大と云われているが、この「オニアザミ」は先月始めて目にした「ハチマンタイアザミ」より花は少し小さく見える。

オクトリカブト
オニアザミ

早朝から縦走してきたと云う人と、地元のボランティアの人と硫黄鉱山跡でしばし懇談。ここから頂上までの標高差は310ⅿ。8合目のバス停で下山する。アルパこまくさ登山バス停まで25分程。

時間も早く、その足で八幡平に向かう。八幡平アスピーテライン頂上駐車場は満車状態。さらに黒谷地湿原バス停に駐車して木道を通って黒谷地湿原に向かう。熊の泉で冷たい水をごちそうになり、黒谷地湿原展望台で休憩。途中「シロバナトウウチソウ」の赤花、「ウメバチソウ」そして見事な「エゾオヤマリンドウ」に遭遇。

ウメバチソウ
シロバナトウウチソウのベニバナ

花は白色で、ときに紅色を帯びると云う。名前がシロバナトウウチソウで紅花の呼び名、何か面白い。和名が白花唐打草、唐打とは「16本の糸で組んであり、各糸は二本浮き、二本沈む組織をしていて、芯糸のない組み目の細かい組み紐」とある。中国から来た絹糸の組紐からきた呼び名。

エゾオヤマリンドウ

登山人口は近年700万~800万人とも云われている。「山の日}制定で登山人口がさらに増えるのだろうか。今回偶然に「山の日」で駒ケ岳、八幡平の山の雰囲気を味わった。駒ケ岳8合目硫黄鉱山跡、標高1350ⅿ。八幡平黒谷地湿原、標高1445mを散策。山に関心のなかった某君、登山道でのすれ違い時のあいさつ、「こんにちは」が新鮮だったらしい。
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ニガコヤジ(赤子谷地)考

2016年08月07日 | 集落
当地方では生まれたばかりの子供を「ニガコ(赤子)」と云った。ニガコヤジ(赤子谷地)は(子棄て沼)の事である。かつて、飢饉、疫病等で子供を遺棄しなければならない事情が各地にあったと云われている。例えば寛永の大飢饉(1642~50)で、会津藩(福島県)の被害は甚大で、餓死寸前に追い込まれた百姓は、田畑や家を捨て妻子を連れて隣国に逃散したと記録されている。その逃げ散りの様は大水の流れにも等しいものであった。その際、7才以下の幼児は、足手まといになるので、川沼に投げ込まれて溺死させられたという。

宮城県白石市内を流れる「児捨川」(こすてがわ)がある。その川にかかる国道4号線の橋「児捨川橋」(全長71m)があった。この名前の橋が「昨今の児童虐待などを連想させイメージが悪い」との市民の声が寄せられるようになったため、市長が橋を管理する国土交通省と協議し「白鳥橋」に名称変更されている。蔵王山麓を水源とする川の名「児捨川」は現在もある。「児捨川橋」の名称について、いくつかの伝説の中から以下のような記述があった。

「児捨川橋」から「白鳥橋」へ -国土交通省へ提言しました-,,,,,,。その伝説の一つは「蝦夷(えみし)征伐でこの地を訪れた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の子を産んだ長者の娘が、夫から迎えがないのを嘆いて、『白鳥と化して大和の空に飛んでいく』ために、子を抱いて川に身を投じた」というものです。名称変更について、白石市文化財保護委員会へ諮問したところ、「説話に関する地名は保存すべきだが、伝説を補強する意味でも白鳥橋への改称が望ましい」との答申を受けました。市では、伝説は重んじつつも負のイメージにならないよう、白鳥になって飛んでいった伝承を生かし、「白鳥橋」という名称にしてはと11月6日、管理者の国土交通省に提言しました。現在、同省で名称変更の検討がされています。

※昭和57年に改良された国道の新しい橋の案内板の名称について提言したものであり、旧国道(現在市道)の児捨川橋の名称や、児捨川そのものの名称を変えようとするものではありません。なお、旧国道に架かる橋には伝説などを記した案内板の設置も併せて検討しています。「http://www.city.shiroishi.miyagi.jp/uploaded/attachment/514.pdf」白石市の広報(平成13年12)引用


当地方で「ヤジ」とは湿地の事を云っている。川連地区は数千年の経過で生まれた内沢の流れの扇状地上に形成されてきた。人々は1000年以上前から住み、扇状地特有の瓦礫の地を開拓してきた。扇状地の山際に住居を構え、すそ地は田んぼに変えてきたと思える。

2014.6.30のブログ『二つの古絵図「川連村、大館村」』に享保16年(1731)の文章に古絵図は慶安元年(1648)と変わりがないと書かれている。この古絵図に現在集落の下の方、通称「宿」と呼ばれている付近に湿地が記されている。下記の地図で屋敷廻、天王の場所、この湿地は幕末から明治の古地図には見られない。この湿地通称「ヤジ」は、その後の内沢の土砂の押し流されと人々が手を加え湿地を乾地に変えてきたものと思われる。

古絵図 享保16年(1731)(地名編入筆者)

近年この場所に住宅が建てられた。スウェーデン式サウンディング試験結果の報告書があり地質を知ることができた。スウェーデン式サウンディング試験とは「先端がキリ状になっているスクリューポイントを取り付けたロットに荷重をかけて、地面にねじ込み、 25センチねじ込むのに何回転させたかを測定」する。結果、N値が12.6.この場所が推定水位。その後はロッドが自沈、音は無音が続き深さ6.16mで音がジャリジャリ、ロッドが強反発し換算N値が20.0となって調査が終わっている。湿地(ヤチ)の深さは約6mと記録されている。表土は乾地化されてはいるが地下数メートルには湿地の兆候が見られる。

黒森の「ニガコヤジ」はこの場所から直線距離で約600m離れ、標高155m程でこの地から約10mも高い位置にある。この通称「ニガコヤジ」を享保16年(1731)、明治初期の古絵図にも示されていない。古絵図では妙音寺、黒森山の麓の場所。

昭和になって麓集落に残った湿地(ヤジ)は、黒森にある「ニガコヤジ」だけだった。この「ヤジ」も住宅建設で残土等の埋め立てや、昭和52年の圃場整備事業で下方に排水路が出来その面影を無くなってしまった。現在「ニガコヤジ」を知っている人は団塊の世代以上で若い世代は名も場所も知らない。

ニガコヤチ跡 2015.12.3

私の記憶にある「ニガコヤジ」の大きさは約500平方ほどでヨシが茂っていた。ドジョウなどの棲みかだった。先達の話だと昭和30年代には鯉や鮒がいたといわれている、養蚕が盛んだった川連地区では養蚕の道具洗浄や未熟な「蚕」のさなぎや、食べ残しをこの「ヤジ」に運んだと云われている。そのたびに大きな鯉や鮒が寄ってきたそうだ。誰も魚を捕ることはなかった。ニガコ(赤子)の霊を守り供養を鯉や鮒に託していたのかもしれない。

長い戦国から争いが少なくなり、新田開発等で人口の増加した江戸時代、頻繁に起こる飢饉等自然災害、冒頭の会津藩同様、各地に飢饉や疫病から生き延びるために似たような事例があったといわれている。

江戸時代には頻繁に飢饉が起こった。東北地方は、天明・天保の飢饉に宝暦の飢饉を加えて三大飢饉と呼ぶ。宝暦の飢饉( 1753年~1757年)、天明の大飢饉」(1781~1789)、「天保の大飢饉」(1832~1839)。その他、元禄の飢饉(元禄年間 1691年~1695年)、延宝の飢饉(1674年~1675年)等東北地方の被害が大きかった。

秋田藩(出羽藩)で被害の大きかったのは「天保の大飢饉」(1832~1839)、数年に渡る冷害飢饉で人口の1/4の10万人が犠牲になったといわれている。江戸時代は全期を通じて寒冷な時代で凶作や飢饉が絶えなかった。食糧事情が悪く栄養不足で基礎体力がない子供の生存率は極めて低かった。飢饉や疫病等で乳幼児の死亡率は50%前後。異常な低さは当時の乳児(ゼロ歳児)と幼児(1~5歳)の死亡率が全死亡率の70%を占めていたことが全体の平均寿命を下げていた。江戸時代の子供は7歳(満6歳)までは神の子と云い、この世に定着していないと考え人別帳(戸籍)に載せていない。7歳にして「一人前」と考えられた。平均8~10人兄弟姉妹で子供が成人(当時は15歳)までに半数は亡くなった記録もある。

集落に30数年前まで存在した「ニガコヤジ」もそのような歴史があったと云われているが詳しいことはわからない。この場所はかつての妙音寺の引導場、歴代住職の墓地も近くにある。江戸時代当地の肝煎を務めた末裔高橋氏は、忘れ去られようとしている「ニガコヤジ」を後世に伝えようとして次のように書きとめた。

「慶長19年、対馬(㐂右衛門)の分家、川連山妙音寺というお寺があった。山伏修験寺で川連には神応寺と竜泉寺があって、新しくお寺では生活できないので切支丹を広めていった。遠く杉の宮(現羽後町)まで広めた。地元の川連には毎日のように大館、久保方面から続々と信者が集まり、今でもこの通り道を切支丹通りという名が残っている。承応年間((1652~1654)の切支丹弾圧に、川連では犠牲者を一人も出さなかった。肝煎の㐂右衛門は信者一人一人を説得してまわって(踏絵等)弾圧から逃れたことによる。

それでも妙音寺は信仰を続け信者を広めていった。仕事を休んでまで信仰していったので日増しに貧困の差を増していった。その結果、破産と口べらし(子棄て)が大いに出た。ニガコヤジ(赤子谷地)に朝な朝なに赤子の泣き声とお供えが上がっていたと伝えられている。現在ニガコヤチ(口ベラシ沼)はニザエモンの所有地になっていて沼の形はない。年代とともに消えゆくので書き留めておく」。 平成25年11月


神応寺、竜泉寺は「回向寺」。江戸時代の檀家制度でお寺の経済は保たれていたが、妙音寺は「祈祷寺」で檀家を持たなかった。そのためには信者を増やすことが寺自立の唯一の勤めだった。人々の現世のしあわせを求めて「妙音寺」に多くの人が出入りした。その中には切支丹信者も多くいたとされ、住職も信者説は高橋氏の覚書に詳しい。

各地には貧しさや飢饉から、「姥捨て山」等の記録は散見されるが「子棄て」の記録はあまり多くはない。有名は遠野物語には「昔は六十を超えたる老人はすべて此連台野へ追ひ遣るの習ありき。老人は徒に死んで了ふ」。デンデラ野「遠野物語」(111)、「遠野物語拾遺」(268)等に詳しい。比較して「子捨て」については「間引き」「遠野物語拾遺」(247)等がある。本当に捨てるのではないと記録されている。

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「ウラシマソウ」の不思議 釣糸状の肉穂花軸が回る

2016年06月16日 | 地域の山野草
ヘビが好きだという人はあまりいない。先日村の先輩から「マムシグサ」を「ヘビノバッコ」と呼ばれたことを知る。探してみると杉林には「マムシグサ」に代表されるテンナンショウ属の「ヒロハテンナンショウ」、「ウラシマソウ」に出会う。一般的にはすべて「マムシグサ」か「ヘビクサ」等と呼んでいる。「マムシグサ」の茎は紫褐色のまだらな模様がある。この模様がマムシに似ていると考えられたところからこの名がつけられた。花の形、苞(仏炎苞)は紫色に近く、白線がある。なかには苞が緑色のものもある、この形もヘビのカマ口を連想されあまり好きがられていない。

近縁種に「ウラシマソウ」がある。今回「ウラシマソウ」に魅せられて数回我が家の杉林に通ってみた。「ウラシマソウ」について「ウィキペディア」に次のような解説がある。ウラシマソウ(学名 Arisaema urashima)は、サトイモ科テンナンショウ属の宿根性の多年草。ナンゴクウラシマソウ (Arisaema thunbergii Blume)の亜種 Arisaema thunbergii urashima (Hara) Ohashi et J. Murata とする説もある。

「ウラシマソウ」を昨年自宅の杉林で見つけた。花の形、仏炎苞とは「苞(ほう)とは、植物用語の一つで、花や花序の基部にあって、つぼみを包んでいた葉のこと。苞葉ともいう。また個々の苞を苞片という」。奇怪な感じがするが似た身近な植物に「ミズバショウ」等がある。「ウラシマソウ」にはここから釣糸状の肉穂花軸は一般には40~50cm伸びている。なかには70cmまで伸びるものもあるといわれている。

6月5日 ウラシマソウ 湯沢市川連町内沢

上記の写真は「ウラシマソウ」の全体。立ち上がった肉穂花軸は葉の上までのびるそうだが今回はその時期を逃してしまった。葉も独特通常1枚で、幅20~30cmほどの掌状で鳥足状(左右に分かれた葉軸の片側にだけ小葉をつけ鳥の足のようになる)に、11~17枚の小葉をつける。小葉の数が比較的多いのが特徴。

葉の全体

この写真の葉が一枚だという。小葉が17枚 不思議な形だ。

鶴田知也氏「百草百木誌」(昭和56年 角川書店)に「うらしまそう」(浦島草)に見事な画と「暗紫いろの仏焔苞から伸び出した釣糸状の肉穂花軸は、いったん立ち上がったうえでゆたかに屈曲して長々と垂れ下がる」とかいてある。

鶴田知也著「百草百木誌」引用(図をクリックすると拡大)

この図では葉の展開と同時期に仏焔苞と釣糸状の肉穂花軸が伸びている。それに比べて私の出会った「ウラシマソウ」は葉が展開が終わってしまった。釣糸状の肉穂花軸も初めの姿とは違っていたと思われる。

5月23日

糸状の肉穂花軸は5月23日には仏焔苞前面に上昇して垂れ下がっていた。先端は地についてはいなかった。鶴田知也氏の図の状態と比較して、一週間から10日も経過した姿らしい。

5月31日

5月31日に出向いてビックリした。釣糸状の肉穂花軸が仏炎苞の後ろ側に回っていた。一週間で時計まわりに回り、茎で止まった。

6月5日

そして6月5日には茎から離れ、逆回転して止まっているように見える。前の方に垂れていて先端は土についていた。この不思議な釣糸状の肉穂花軸は動いていたことになる。

6月10日  

6月10日になると釣糸状の肉穂花軸は退化し長さが10㎝程になっていた。5月23日、31日、6月5日の釣糸状の肉穂花軸は時計の針と同じに回り、茎に到達すると今度は反対周りになり仏炎苞の前でとまっている。180度ほど時計回りで回り、茎で止まりそこから130度ほど逆回転して停止している。そして釣糸状の肉穂花軸は退化が始まり6月10には13㎝程の長さになっていた。受粉の終わったと思われる仏炎苞も収縮している。約20日間の出来事。

「ウラシマソウ」の花言葉に・不在の友を思う・注意を怠るな・懐古・回想とある。その由来は定かではないが、名前にもある浦島太郎の話しと重なる言葉が多い。空けてはならない玉手箱を開けてしまった事と重なり、花言葉は「注意を怠るな」が的を得ているのかもしれない。この付属体がなぜこのように長く伸びているのか。その先端が地面や草などどこかにふれている。そしてこれを、地面を這う蜘蛛、蟻などの虫が伝い歩くこともあるらしい。どうやら受粉と関係しているのではないかとの説もある。受粉を促進させるために釣糸状の肉穂花軸が動くのだろうか。

丈は30~50センチ。地中に球茎があり、多くの子球をつくって増える(栄養繁殖)。受粉はキノコバエの仲間の働きによるとされる。キノコバエや他の昆虫を呼び寄せるために仏炎苞からある種の匂いを発散させているのか。釣糸状の肉穂花軸は、雄株の仏炎苞に導くための通り道の働きをするとしても回転しているのはなぜなのだろうか。

動くと思われる植物の代表は「ヒマワリ」、回る時刻は日の出直前だろうか。確かめたことはない。「オジギソウ」は触るとすぐ動くことは誰でも知っている。「ウラシマソウ」の長い釣糸状の肉穂花軸が他の植物よりも複雑に動いていることを知ったのは今回が初めてだ。太陽と関係があるのではないかとの説もあるがどうだろう。不思議な植物。
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薪伐り 漆の大木

2016年04月29日 | 地域

今日は雨。連日1.5k離れた里山での薪伐り作業は休み。多くの人たちは雪が消える前に薪伐りを終え、すでに薪割も済ませて積んでいる。私の場合は例年の如く雪が無くなり、軽トラを横付しての作業となる。今年の薪伐りで大失敗をしてしまった。樹齢100年程の「漆」の木が枯れ、この冬の雪で倒れてしまったので雪消え早々、薪用に細断した。当地方は800年の伝統を誇る「漆器」の町、屋敷や山際等に「漆」の木が多かった。叔父が「漆」搔きをするのをよく見ていたし、地元に漆搔きをする人がいなくなると、岩手県の浄法寺から漆搔き職人がきて案内したこともあった。「うるしかぶれ」等は他人事に思っていた。

倒れた漆の木もかつて漆掻き職人が手をかけた木だった。枯れたと云っても漆の老木にも「ウルシオール」が残っていたらしい。見事にかぶれてしまった。「アレルギー性接触皮膚炎」と言うそうだ。「あきたこまち」の種まきは季節の仕事、うるしかぶれの状態での作業。約2週間でかぶれが引いたので残っていた薪伐り作業を再開し昨日まで終わる。今年の作業は100年ものの「漆の木」、80年のミズナラ3本、雪折れ杉3本となった。暖房用の薪は常に3年分の在庫を目途としている。伐った漆の木を運ぶのを少しためらっている。

枯れて倒れた漆の木 2016.4.10

「漆の木」の伐り口は黄色できれいな木だ。何かに活用できないか等と思ってみる。ウルシオールは乾いても無くならないのかはよくわからない。漆器の町では多くの人はウルシには負けない。免疫になっている。乾いた漆器で「うるしかぶれ」等はほとんどない。

2016.4.24 樹齢100年 ミズナラ 

ミズナラ 当地方にもナラ枯れが進んできた。昨年からこの木は生気が無かった。直径50㎝はある。ナラ枯れは樹齢40年過ぎの木がやられるという。我が家のミズナラは樹齢80~100年とみられる。約10アールの所に40本ほどある。ナラ枯れの浸食はすぐ目の前。すべて被害にあうとえらいことになってしまう。侵される前に倒した。100年近くこの林を見守ってきた木を切り倒すことに済まない気がした。ミズナラの実のドングリから二世を期待している。数本幼木が生えてきている。

ミズナラも老木になるとなかなか固い。チェンソーが唸った。重いので薪の長さに伐って金矢を使いオオハンマーでたたき割る。軽くして軽トラに積みこむ。周りでは心地よい野鳥の鳴き声。少し離れた場所で葉が開いたのはブナの木、他にヤマモミジ、ホウノキが立っている。低木はユキツバキ、ヤマツツジ、ヨウラク等。集落から直線距はせいぜい500ⅿ弱。この場所に来るとホットする。隣地の杉林は間伐作業が行き届いたので山野草が復活してきた。ホウチャクソウも出てきた。近くでトンビが死んでいた。キツネの仕業だろうか羽毛が散乱している。鳥インフルエンザと関係があるのだろうか。

2016.4.26 樹齢60年 杉

3年前の豪雪の被害木。樹齢60年にもなる。平成4年から2回の間伐で残っていた杉の木だった。

2016.4.28 自宅に集積

自宅に運んだ杉、ミズナラの木の一部。山にまだミズナラと漆の木が残っている。木割作業は田植作業が終わっても続く。使用は3年後の予定だから気が向いた時やればいい。気ままな作業、時間はタップリある。


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妙音寺を偲ぶ 2

2016年04月07日 | 地域
広報いなかわNa682の「いなかわのむかしっこ」、「川連山妙音寺廃寺のむかしをしのぶ」に、羽後町飯沢の鈴木杢之助氏に妙音寺が出した古文書が残っている云われている。これは「秋田県史 第二巻 近世編、キリシタン禁制」で紹介された。

   寺出し之事

一、拙寺院内の、まつよと申す女一人、外に専太郎と申す男一人、貴殿ご支配の正左エ門  方へさしつかわし候間、当御調より貴殿お帳へお引き入れお帳合わせなされるべく    候、 此の方において出入しさい御座なく候、よって、寺出しの一筆、件の如し
       嘉永五年四月
                            川連村  妙音寺
      飯沢村   肝煎殿

この寺出し証文は、川連村から現在の羽後町飯沢村に下人奉公した者の送り状で、住居を変える場合、切支丹宗徒でないことの証明する証文といわれている。寺請証文は寺請制度において、自己の檀家証明は人々が奉公や結婚等他の土地に移る場合には身分証明書が必要であった。

上記の寺出し証文は嘉永5年は明治維新の16年前で、年号から推定して妙音寺13世智覧一曄和尚が出した証文と思われる。不思議なことに、前回も触れたように妙音寺は回向寺ではなく祈祷寺。川連の回向寺は神応寺が出した「寺出証文」ではなかった。江戸の後期になると回向寺、祈祷寺への出入りは比較的自由だったといわれている。

秋田のキリシタン事情は佐竹義宣が常陸から国替えした慶長7年(1602)前の天正18年(1590)、織田信長の第二子「織田信雄」が北条方に内通したとして所領を没収され、出羽秋田に流されたことが慶長5年(1600)に書かれた「三河風土記」に記載されている。信雄は失脚以前の天正5年(1577)に、バードレのジョアン・フランシスコの会堂を訪れ、「自分はキリシタンになりたいのだが、今戦争に行く途中であるから後日帰依する」と約束した。その翌日秋田に流された。信長は永禄12年(1569)に伺候したバードレ・ルイス・フロイスを非常な好意を見せ接待し贈り物をしていたという。「秋田切支丹研究」武藤鉄城著 翠楊社にある。

そして佐竹義宣が国替えの時、九州の大名大友宗麟の子「大友義統」が預け入りで秋田に来ている。さらに佐竹義宣の側室である西の丸がキリシタン信者であったことなどから、キリシタン禁教政策を厳しく行わなかったとの説がある。初期の佐竹秋田藩は藩財政の確立のため金、銀、銅などの減産と鉱山の衰退を嫌った。このことは秋田の鉱山に多くのキリシタン信者が潜伏していたといわれる所以だ。

江戸時代の始め、幕府は切支丹教徒を根絶するため檀家制度を作った。百姓、町人すべて家族単位で、どこかの寺院に所属する「檀徒」であることを義務づけた。檀徒一人一人は、寺が作る「宗門人別帳」に記載され、勝手に宗派を変えることは認められなかった。寺にとっては利益のことだった。檀家が所属する寺を「檀那寺(菩提寺)と呼ぶようになった。檀那の語源は旦那といわれ、古くは、梵語の「ダーナ」(お布施の意味)からきている。

元和8年(1622)仙台から「巌中」という人が稲庭にきて、大眼宗という宗教を広めているという風聞があったといわれる。稲庭の「源兵衛」というものが「巌中」の門弟として活躍し、稲庭、三梨、川連の者がそれに服した。驚いた横手城須田美濃が場外の安田原で数十人の門徒を召捕り、磔刑や斬罪に処したという宗教一揆があった。

須田美濃が詳しく取調べもなく、徒党を処刑したことに佐竹義宣がいたく機嫌を損ねたといわれてる。大眼宗は南部地方に多い秘事門徒の一つであったらしく、他の神仏を崇拝しないで、ただ日、月ばかり拝むものだった。当時この事件は西洋にも伝えられ、記録では60余人の斬罪に処された中でキリシタンは2人で、藩では両者を混同して全員をキリシタンとみてしまったと伝えられている。妙音寺は大眼宗事件のあった元和8年の9年前、慶長19年に創立されている。この騒動に大きく影響されたことが想像されるが確かなことはわからない。

寛永元年(1624)の秋田佐竹藩の弾圧で処刑された人数はきわめて多い。6月3日久保田城外三里ヤナイで男21人、女11人併せて32人、6月11日、久保田城外で50名、内25名は藩士。25名は院内で逮捕したもの。6月20日雄勝寺沢の信徒を15名を久保田場外で斬罪。7月3日仙北善知鳥の信徒13名を横手で成敗。8月6日平鹿郡臼井の信徒4名を居村にて斬首等計114人が斬首になっている。(引用 秋田切支丹研究、武藤鉄城著 翠楊社 昭和55年発行) 

この事件のから90年後の正徳2辰年(1712)、願主仙北雄勝郡宮 吉祥院住快傕門 寺号川連村相模寺で「十一面観世音」が創建されている。特定ができないが妙音寺のあったと場所に建つ「子安観音」(マリア観音)を言うのではないかと考えられる。この場所から500ⅿ程離れた場所にある石清水神社、かつてはキリシタン信仰の対象だったとの説もある。

広報「いなかわ」昭和51年6月10日号

この「マリア観音像」について「妙音寺を偲ぶ 1」に下記のように記録した。妙音寺の近くには黒滝の子安観音のお堂がある。キリシタン禁制の江戸時代に建てられた石造りのマリア像がご本尊。このマリア像のレプリカは旧稲庭城跡にある今昔館に展示されている。祈祷寺の妙音寺は、庶民の願い事を叶えることで信者を増やしてきた。住職はキリシタンとの関わりが強かったと云われ、訪れる信者は地元ばかりではなく山を越えた湯沢・雄勝、横手地方まで広まり、信者の通う道を「キリシタン通り」と呼んだと伝えられている。現在はほとんど知られていない

この「マリア観音像」は、駒形町東福寺の雲岩寺にある「マリア観音像」と同じと広報「いなかわ」昭和51年6月10日号、「町の歴史と文化、キリシタン物語(二)」にある。この観音像について、「ゆざわジオパーク」のジオサイト案内書に「白っぽい細粒の花崗岩~花崗閃緑岩を加工した石像で、湯沢市神室山や役内川に分布する花崗岩類とは岩石が異なる。観音像の花崗岩は、帯磁率8以上と比較的高い値を示している。これは、湯沢市付近にある帯磁率の低い阿武隈帯の花崗岩ではなく、むしろ北上山地の磁鉄鉱をしっかり含む花崗岩類の特徴です。雲岩寺のマリア観音像は、藩政時代にキリシタンが坑夫として潜伏(大倉、白沢鉱山)していたこと、および南部藩水沢地方と交流していたことを示唆している」とある。

大倉鉱山は延享年間(1744~1747年、白沢鉱山は宝永6年(1709年)開坑。ちなみの院内銀山は慶長元年(1596)発見されている。江戸時代、幕府はキリスト教を禁じ信者を弾圧した。弾圧を逃れるため、多くの信者が日本各地の鉱山に潜伏したといわれている。雲岩寺は白沢鉱山の経営の推移(直利)と関係していた考えられ、「マリア観音像」はそのことと強く結びついていると思われる。いつの時代かは特定できないが当時肝煎りだった高橋家によれば、ご神体が盗難にあったとの言い伝えがあるといわれている。鉱山の隆盛と潜伏信者のよりどころとして、妙音寺が寺境内に建立し、神体の「十一面観世音」を「マリア観音像」に変えたと仮説が成り立つような思えてならない。

月刊アンドナウ(引用)

この記事は、昨秋横手市のある喫茶店で読んだタウン誌「月刊アンドナウ」「ズームアップ地元!第51回 隠れキリシタン由来の像(湯沢市)を引用した。デジカメでの写真なので不鮮明で発行月日は見落としてしまった。湯沢市下院内の誓願寺、湯沢市小野の向野寺等にあるマリア観音像等が紹介されている。湯沢市には院内銀山を始め大小9ケ所に鉱山があり、キリシタンが坑夫となって潜伏していたといわれている。弾圧の中でひたすら信仰を守り続けたキリシタンの足跡がこれらの寺に残されてる。

冒頭の寺出し証文を書いた妙音寺が、キリシタンだったとう説の確かな証拠は見いだせなかった。当時の肝煎り高橋家では分家筋の妙音寺がキリシタン説を覆い隠すために大きな犠牲を払ったといわれている。各地でキリタン信者の弾圧が強まる中でこの地から殉教者を出さなかったと語りつがれている。

幕末となってかなり緩やかになったといわれているが、江戸時代、各地の肝煎りは毎年「切支丹御調帳」を提出しなければならなかった。広報いなかわ昭和51年7月10日号、町の歴史と文化 キリシタン物語(三)に安政6年(1859)「東福寺の切支丹御調帳」が掲載されている。

東福寺 切支丹御調帳 昭和51年7月10日号

「切支丹調御調帳」の書き出し起請文はほとんど同じだ。当時各地にいまでいう例文があったと思われる。角館、佐竹家蔵にある「起請文の事」があり、肝煎、庄屋等の書き出し分は次のようになっている。

「此度切支丹宗旨御調ニ付五人組引替色々御穿鑿被成候得共御法度宗旨之者男女共一人無御座候、、、、、、」となっている。各地の庄屋、肝煎にこれらの「起請文の事」が送られていたものと思われる。下記の文は久七郎が子、久治に伝えた書にあった。起請文を書き写したものらしい。

 切支丹御調條の一部

この文章は明治5年(1872)に書かれた。高祖父久七郎が10歳の子供の久治に書いたものだ。私にとって久治は4代前の曾祖父にあたる。書の形式からみて高祖父35歳の頃。体が弱かった高祖父は明治10年40歳で亡くなっている。書は往来文形式で1年の出来事、法事や祭り親戚とのつき合い方の他に田地調、年貢、切支丹御調條など多様な文を書きとめられている。切支丹御調條の起請文がどうして含まれているのはわからないでいる。前年の明治4年に9歳久治に人としての生き方を記した「太閤状」を書き残している。

明治の初期、戊申戦争等の混乱、256年続いた妙音寺は「廃仏毀釈」で廃寺となった。隣家は肝煎りの高橋家、わが家はこの頃農業の他に染物業もしていて、近隣の地域と交流が結構あったようだ。しかし、肝煎りを補佐する「長百姓」でもなかった。この地を去る妙音寺との関わりも窺い知るが裏付ける資料はまだ見つかっていない。

今回妙音寺とキリシタンの関わりに、もう少し近づけると思ったが遠かった。さらに時間をかけて調べてみたいと思っている。
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集団のスズメ達

2016年03月23日 | 地域
過去スズメの事を3回ほど記事にした。2013.12.21「野鳥もスズメも消えた庭」、2014.7.29「帰ってきたスズメとサンチェクアリもどき」、2015.1.8「雪の足跡とスズメ」と続いた。

2013年12月は11年、12年と3年続きの豪雪、毎日のように容赦なく降り続く雪の合間に部屋の外の庭木にたった一羽姿を見せたスズメはほとんど見ることはなかった。農業情報研究所06.4.21「ヨーロッパからスズメが消える?人間は何を失いつつあるのだろうか?」の記事を保管していたので2013.12.21「野鳥もスズメも消えた庭」に引用させてもらった。

一部は「イギリスからイエスズメの姿が消えつつあることは早くから知られていたが、フランスの鳥類学者の研究でパリやその他のフランスの都市でもその数が急減していることが分かった。さらに、ドイツ、チェコ、ベルギー、オランダ、イタリア、フィンランドの都市ではもっと急速な減少が見られるという。しかし、原因は分からない。英国のインディペンデント紙が伝えた」。詳細は2013.12.21「野鳥もスズメも消えた庭」。

3月15日FBに
「2年程前、自宅周辺から消えたスズメに違和感を覚え、米の消費拡大?も考慮して餌箱を設置した。朝除雪のために外に出ると集団でスズメが待っている。昨年より倍近くスズメが増えてきた量も多く「あきたこまち」特Bを毎日与えている。小さな餌箱が狭いので順番待ちで交代しながら啄んでいる」。を紹介した。これはその記事に加筆したものだ。

朝除雪の終わりを待っているスズメ

平成14年以降、朝家を出ると餌箱にクズ米を与える習慣になった。毎日続けていると数羽のスズメが近くの電線に止まり待っているようになった。平成16年の冬はいつもより羽数が多くなってきた。多いときのスズメは数えてみたら70羽もいた。餌箱は小さいのでどう見ても一度にクズ米にありつけるのは10~15羽ほどだ。

順番待ち状態

集団で来るのでスズメは順番待ちをする。餌箱の近くの屋根、庇とスズメが並んで順番を待っている。ある種のルールが確立されているようだ。見ていると絶えず餌箱から入れ替わる。



いつも植木囲いの杭の上で一羽、監視役だろうか。スズメの集団は短時間でどこかへ飛び立っていく。数羽が残ってクズ米を漁るなどとはしない。特にこの頃はいつも年より雪消えが進みエサ場が増えたのか間隔が長くなってきた。餌箱に来るのは決まって集団で来る。この冬はスズメの数が増えてきたので以前よりクズ米の与える量は多くなった。一日の量は約500グラムほど。夕方まで数回の集団で来てほとんど食べつくしてしまう。

彼岸の中日(3月20日)、びっくりする光景を目にした。100~150羽程のスズメの集団が賑やかに屋根越しに飛んでいく。それも次々と3集団、さらに1集団は隣家の槻の木にいた。どう見ても総数は5、600羽も通過したことになる。残念なことに素早い通過でカメラに収めることはできなかったが槻の木の集団の一部は撮れた。



スズメが急激に増えたのはどうしてだろう。2013年の冬はほとんど目にすることはなかった。
牛を飼っていた10年ほど前は良くスズメ達は牛舎に来ていた。牛飼いを止め、牛舎を解体したころからスズメを目にしなくなった。そのころ農業情報研究所の記事(06.4.21)「ヨーロッパからスズメが消える?人間は何を失いつつあるのだろうか?」を出会い記事を保存していた。その後の調で日本でのスズメの個体数は1960年代の10分の1、1800万羽と環境省の発表(2010.4)を知る。

これらの記事に出会ってから餌箱設置を試みてきた。この冬いつもの年の数倍になったスズメ。一昨日の5、600羽程の集団飛行は一体何だったろうか。このまま定着するのか今の処わからない。もしかしたらスズメではなく、冬鳥として秋にシベリア方面からきた渡リ鳥の「アトリ」だったかもしれない。良く考えてみれば急に5.600羽も増えることなどはあり得ない。あの日かぎりの一日の出来事、偶然通過した渡り鳥の集団飛行をスズメと間違えたことになる。
結果渡り鳥「アトリ」を知ることになった。

註 2013.12.21「野鳥もスズメも消えた庭」から「英国のインディペンデント紙」の記事全文

「イギリスからイエスズメの姿が消えつつあることは早くから知られていたが、フランスの鳥類学者の研究でパリやその他のフランスの都市でもその数が急減していることが分かった。さらに、ドイツ、チェコ、ベルギー、オランダ、イタリア、フィンランドの都市ではもっと急速な減少が見られるという。しかし、原因は分からない。英国のインディペンデント紙が伝えた。 First they disappeared from Britain. Now Europe's house sparrows have vanished,Independent,4.19
 http://news.independent.co.uk/environment/article358584.ece

イギリスのイエスズメの数はこの15年で90%減ったと信じられている。その理由については、多くの説があるがはっきりしていない。この17年で20万ー多分、10分の1ーのイエスズメが消えたパリの謎は特に深い。ここでは、様々なエキゾチックな鳥が増えているという。

自然史博物館の研究者は、何らかの病気のためなのか、生息地が減ったためなのかなどと答えを探している。 鳥類学者は、他の鳥の数と種の増加が営巣の場所と餌を食べる機会を減らし、また建築規制の強化が巣作りに利用する割れ目を閉じてしまったのではないかと言う。さらに、パリにおける猫が増加しており、その餌食になる鳥が増えている可能性もある、また移動電話からの電波とか、車による汚染のせいではないかと言う人もいる。しかし、それでは何故スズメだけが影響を受け、他の鳥に影響がないのか説明できない。

同様なパターンはヨーロッパ全体でも見られ、ハンブルグでは過去30年に50%のイエスズメが消えた、プラハでは60%も減ったという。
イギリスでは、他の鳥による駆逐、農薬、気候変動、家屋の改善など、原因をめぐる多くの説がある。デュ・モンフォート大学の研究は、昆虫の減少がスズメの飢えにつながっていることを示唆している。この影響はパリやヨーロッパ中で見られるという。

いずれにせよ、人々の住居近くで長年にわたり人間と共存してきたスズメのこのような減少は、我々の住居環境に馴染みのない、あるいは不気味な雰囲気をもたらす。数年前にフランスの山間地を訪れたとき、鳥の姿が滅多に見えず(目立つのは教会広場の鳩ばかり)、その囀りも ほとんど聞こえない(気づいたのは非常に辺鄙な山奥の1ヵ所=コンクにおいてだけだった)のに異様な感じを覚えた。こころなしか、東京郊外のわが家の周辺のスズメも大きく減っているように思われる。大樹の葉陰のスズメの大集団のうるさいほどの大合唱も、近頃聞いたことがない。

フランスの鳥類保護団体会長は、スズメ(moineau)が英国のスズメ(sparrow)と同じ運命を辿るのではないかと恐れている。「すべてのシグナルは赤だ。イエスズメは1万年ものあいだ人間と共生してきた大変に象徴的な鳥だ。アオガラのように魅力的ではないが、生物多様性のために生き残る権利がある」と言う。しかし、スズメの減少が持つ意味はこれだけでは説明できそうにない。人間とスズメの共生にはどんな意味があったのだろうか。原因は分からないが、人間はかけがえのない何かを失いつつあるようだ」 
農業情報研究所06.4.21(引用)
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一月の夕暮れ 稲川野

2016年02月02日 | 地域
2016年暖冬傾向は続いている。2月に入っても例年と比べて比較的気温は高めに推移している。2011年から4年続いた豪雪は昨年は平年並みになり、今年は近年にない暖冬気味で、現在の積雪は約100cm。

この1月秋田の県南も1月には珍しい青空の日が繰り返された。屋根の雪下ろしも一回で終わっている。好天の夕方カメラ片手に田んぼに出かけた。



私は密かに「稲川のマッターホルン」と呼んでいる、雄長子内嶽の頂上に夕日が消えようとしていた。西北の強い風で積もっていた雪の舞い上がる。



夕方の天気は変わりやすい。風が次第に強くなり、田んぼの積雪がさらに舞い上がる。忽ちに集落の家並みが視界から遠ざかった。かすかに左側に見えるのは湯沢市役所稲川庁舎。雄長子内嶽は標高470m。頂上付近も風が強そうだ。頂上に見えた夕日が雲が遮った。幻想的な光景。写真下の黒みがかっているのは道路除雪の壁。



角度を少し変えてみた。夕日は雄長子内嶽と雌雄長子内嶽の間に暮れようとしている。雌雄長子内嶽の標高は440m。



東の空と集落全景。1月にこんなに晴れた夕空は久しぶりだ。夕方の雪煙は気温低下の前触。空だけが明るい。



東の山際を北側に向ける。真中から左寄りで、夕日に照らされやや角ばった山は真人山。雪煙で駒形町東福寺、大倉方面の家並みが見えない。



さらに北は横手市、大仙市。強い風が収まり遠くに見える雲は出羽丘陵。黒い雲、秋田市方面は雪降りだろうか。この場所からだと中心から右寄りに夏だと大曲の花火「全国花火競技大会」が見える。直線距離約60㌔くらいだろうか。
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妙音寺を偲ぶ 1

2015年12月19日 | 地域
私の村の菩提寺神應寺は創建から約960年になる。集落の形成は寺創建以前、1000年以上前から形成されていた古い村。現在140戸の村だが江戸後期には大きな神社が二つ、お寺が三つあった。二つの神社の一つは「八幡神社」、天喜5年(1059)八幡太郎源義家が京都八幡大神を勧請して祀った。八坂神社は長治元年(1104)勧請、慶長4年(1599)川連城の領主の保護を受け再興されている。その後宝暦6年(1756)に現在地に建立、現在の神社は寛政12年(1800)に再建された。

三つのお寺の一つは神応寺、康平年中(1058~1066)に八幡神社の社務人が開山したといわれている。神応寺は川連城の北の登り口あたりにあって、文禄元年(1600)川連城が最上義光の軍に攻められ落城したあと現在地に移った。佐藤久治著「秋田の密教寺院」によれば「真言宗、八幡山、神応寺」として稲庭の「真言宗、金米山、長楽寺、地蔵院」、三梨の「真言宗,仏喜山、観音寺」が稲川の「真言、密教寺院」三寺院と記されている。

竜泉寺は天正元年(1573)川連城主の嫡男桂之助と、岩崎城主の息女能恵姫の祝儀の途中皆瀬川で竜神にさらわれ、菩提を弔う為に建てられたといわれている。明治22年の火災後約1k離れた野村地区に移った。明治時代に二つのお寺が無くなり、現在は神社二つとお寺が一つが集落にある。

小さな村に二つの大きなお寺があった所に,妙音寺が慶長19年(1614)に開山された。妙音寺は祈祷寺といわれているが、隠れ切支丹のよりどころだったとの説もある。慶長19年(1614)の開山から明治2年(1870)の廃物希釈で廃寺になるまで256年続いたお寺だ。

今回「妙音寺」の歴代の墓地を尋ねた。墓地は集落の近くで住宅からせいぜい100mほどしか離れていないが、ほとんど訪れる人はいない。近くに黒滝明神の祠がある。かつての銀杏は樹齢1000年と云われていたが伐採されてしまい、現在二代目の木で直径1ⅿは超える太さの雄で近くの黒滝子安観音にある銀杏は雌、あわせて「夫婦の木」と言われている。

黒滝明神の祠と大銀杏 お堂は約20年前に新しく建て替えられた 旧お堂も側にある

墓地はこのこの祠から50mほどの所にある。今回数年ぶりで訪れたら墓石が倒れていた。倒れていた墓石を元の位置に立て直したが苔で覆われ文字は見られなかった。

 倒れている妙音寺歴代墓地

五つある墓石の一つに延享2年とあった

湯沢市と合併前の稲川町広報「広報いなかわ」No682(平成5年10月10日)に佐藤公二郎氏の「いなかわのむかしっこ」に「川連山妙音寺廃寺の昔をしのぶ」がある。この文に『佐藤久治著「秋田の山伏修験」によれば、川連山妙音寺の文政8年(1825)の僧構成は、鑁隨実乗(ばんずいじつじょう)年齢32歳、先達は伊勢の世儀寺とある。

このほどわかった妙音寺歴代和尚の系図には、開山が慶長19年(1614)12月8日「源養房圓秀」で、鑁隨実乗は11世「源養院鑁隨」と思われる。10世「法教院實峯」が文政4年(1821)巳亥正月15日に亡くなっている。鑁隨実乗28歳の時となる。

佐竹義宣は慶長7年(1602)徳川家康から国替えの命を伏見で受け、水戸城家老の和田昭為に指示を出した。「秋田への随員は一門・重臣の他93騎」と制限した。93騎とは譜代93家、93の軍団を編成していた。「佐竹国替記」には331家、茨城歴史地理の会代表の江原忠明氏のよれば、系図が残っているケースだけで587家に上った。さらに常陸から移住する人が後を絶たず、3年後に院内峠に採用しない旨の立札が立てられたといわれる。引用(秋田魁新報平成2年1月から連載「時の旅-佐竹氏入部400年」から

妙音寺は常陸から佐竹義宣の国替えと一緒に来た「対馬」家(現高橋)から分かれて慶長19年(1614)12月に開山。佐竹氏が常陸から移転した天徳寺は寛永元年(1624)金照寺山の山麓に移したが、火災で焼失し寛永5年(1628)に現在地に再建されている。佐竹氏の国替えと一緒に来た系図に残っているといわれる587家は、地域に定着するまで緊密な関係にあったことは想像される。妙音寺の開山した「源養房圓秀」は、度々天徳寺の関係者を訪れ教えを被っていたといわれている。

先の広報いなかわの№682「いなかわのむかしっこ」に「妙音寺最後の和尚さんを黒滝賢瑞といい、その父は黒滝一曜である」とある。明治4年(1604)、歴代和尚を記録し本家に預けてこの地を去ったのは黒滝源造氏である。そして父の黒滝一曜は、13世智覧一曄和尚ではないのだろうか。字は違っているが「一曜と一曄」同じ人物のようだ。

10世法教院實峯 文政4年(1821)巳年正月15日と記された以降、廃仏毀釈の明治2年(1969)まで48年の間、11世 源養院鑁隨 凶父、12世黒滝禅滝和尚 卯年正月4日、13世智覧一曄和尚はこの地を離れる時は健在だったのだろうか。世源養院鑁隨 凶父と記されている背景は一体どのような状況だったかは今のところわからない。

村にあった神応寺と竜泉寺は回向寺、妙音寺は檀家を持たない祈祷寺。回向寺は先祖回向を行う寺という意味で、一般的には自分が行った善行を、他者の利益として差し向けることと言う意味で、良いことは回って戻ってくるという言葉でもある。江戸時代は檀家制度が確立され、檀家が寺院を経済的に支えるという関係性のある寺となっていた。

祈祷寺は多くは将軍や大名などが先祖供養の回向寺とは別に、利益祈願や一族の繁栄、戦の無事などを目的に建立した。庶民も江戸時代には、先祖の墓を設置し先祖供養を行った回向寺とは別に、無病息災、家内安全、商売繁盛などの個人利益をお願いしに行く祈祷寺は需要な関係にあった。江戸時代は、厳しい寺請け制度の元で厳格に管理されていたものの、二つの寺院へ出入りはそれほど規制はなく自由だったと云われている。

広報いなかわの№682「いなかわのむかしっこ」に幕末、文化、文政(1818~1829)年間の頃は「権大僧都、蜜雲権月法印」が妙音寺の修験者(山伏)であったとある。修験道は、古来、山々を神として崇拝した山岳信仰をもとに、神道・仏教・道教が融合して生まれた宗教で、険しい山にこもって難行苦行することにより、特異な法力や呪力、験力を獲得できるとされています。

広報いなかわ昭和48年7月10日号「町の歴史と文化」に「山伏・修験」に「山伏が、どれだけ秋田の文化を高めてきたかは民俗芸能や、古文書でわかる。読み書きができる山伏たちは地域社会の良き教師であり、京都との往復修業によって、地域文化の担い手となった。一般の人は、山伏は単なる宗教家、呪術使いといったイメージでとらえているが、そうではない。彼らは経を読み、祈願をし、占いをする一方、医術と教育に通じ著述と、農作業のリーダーだった。修験道を実践する行者でありながら、片方では中世文化の推進役、«生活総合コンサルタント»だった。山伏文化、修験文化を無視して歴史を語ることはできない」と「秋田の山伏・修験」の著者、佐藤久治氏の談が載っている。

妙音寺は開山の時は源養院、正徳2年(1712)の「十一面観世音」造立には川連山相模寺の名号もある。そして寛政元年(1789)に妙音寺に名を変えている。

妙音寺には遠く湯沢や羽後町からも信者が出入りしたとされる。修験者(山伏)となって各地で修業し現世の利益を庶民に説き支持されたから、慶長19年創建から明治の廃仏毀釈まで約256年間続いたものと思える。ご本尊は佐竹氏の国替えの時、常陸から一緒に持ってきた約70cmの「千手観音像」。黒滝源造氏がこの地を離れるときに本家に預けた。この像と歴代墓地に接すると「妙音寺」の栄華がしのばれる。

黒滝の子安観音 

妙音寺の近くには黒滝の子安観音のお堂がある。キリシタン禁制の江戸時代に建てられた石造りのマリア像がご本尊。このマリア像のレプリカは旧稲庭城跡にある今昔館に展示されている。祈祷寺の妙音寺は、庶民の願い事を叶えることで信者を増やしてきた。住職はキリシタンとの関わりが強かったと云われ、訪れる信者は地元ばかりではなく山を越えた湯沢・雄勝、横手地方まで広まり、信者の通う道を「キリシタン通り」と呼んだと伝えられている。現在はほとんど知られていない。

現在も集落では観音様の講の行事は続いている。この観音講は黒滝子安観音ではなく、岩清水神社を祀っている。岩清水神社を地元では観音様と云い、毎年5月上旬に講が開かれ神主が祭礼を司っている。ご本尊は石造の像右手には宝剣、左手には如意宝珠を持っている。右手の宝剣は不動明王の持物で、左手の如意宝珠は観音の持物とも云われている。一時期ご神体が盗難にあい別のものを祀ったとの説もあるが真偽は定かでない。キリシタンとの関連性については今の処わからない。

キリシタンと妙音寺について「妙音寺を偲ぶ 2」で追跡してみたい。

※ 上記の黒滝明神は旧妙音寺の跡に建てられている。この場所から150mの処に黒滝神社稲荷大明神、天正2年(1574)5月造立があったとされる。妙音寺が開山される40年前になる。現在は存在しない。廃仏毀釈で壊された可能性もある。今ある黒滝明神と関連あるのかは不明。
銀杏の大木を伐ったら禍が続き、鎮めるために祠を建てたとの説がある。
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