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年貴志学校(根岸学校)から川連小学校 2

2017年01月12日 | 地域
先のブログ「年貴志学校(根岸学校)から川連小学校」2016.11.29リリース後、その後に新たな事実に補足して年貴志学校(根岸学校)から川連小学校 2とした。

稲川町史「資料篇」の第一集は昭和40年3月3日に当時の稲庭川連町(昭和31年(1956)合併、稲川町 昭和41年(1966)に改称、平成17年(2005)湯沢市となる※)教育委員会から発行された。その後昭和51年3月31日の第十一集まで稲川町文化財保護協会が編集にあたった。この資料集を基に「稲川町史」が発行されたのは昭和59年3月31日だった。構想から約20年の歳月がかかった。稲川町史「資料篇」は一部しか保持していない。今回友人の好意で、第一集から第十一集まで読ませてもらった。この「資料集篇」で川連小学校について以下の関係する記事があった。

稲川町史「資料篇」第九集「伊藤政義文書」(その三)「高橋利兵衛家 初代から十代に至る記録」、八代高橋利平衛可寛の中に
 
 明治8年 高橋岩吉家を借し学校を創設せり 後野村にに移し又大館にも写し根岸にも人家を借り小学校とせり

とある。さらに稲川町史「資料篇」十一集 川連小学校(一)校地・校舎の変遷に

 明治09年05月26日 創立 川連学校と称し、久保村字久保に設置(根岸学校不明)
   15年09月23日 大館・野村に分校を置く
   19年04月   分校を統合 野村分校を増築し川連小学校を置く
   22年09月01日 大館に本校、根岸に分校を置く
   38年10月23日 野村に新校舎落成し移転 根岸分教室を併合

伊藤政義文書には明治8年とあるだけで月日は記されていない。稲川町史「資料編」十一集の記述より前に学校が創設されていたことになる。町史編纂作業で上記の記述が反映されていないことになる。明治8年学校創設時に「根岸学校」ありとあるが詳細は記されていない。稲川町史「資料篇」十一集の川連小学校(一)校地・校舎の変遷にある「明治9年5月26日」川連学校創立との違いはどこから生じたのだろうか。

さらに稲川町史「資料篇」十一集に(二)沿革・行事の概要に衝撃的な記述がある。
 
 明治38年10月02日 根岸充用校舎焼失・備品悉皆焼失(午後2時)

10月23日に野村に新校舎が落成され、根岸分教室が併合される直前の火災。約20年間継続していた「根岸学校」の火災、「備品悉皆焼失」の記述が強烈だ。現在この火災についての資料は見つかっていない。
下記は稲川町史「資料篇」十一集 川連小学校沿革・行事の概要のコピー。



長い間教育機関に縁のなかった村人には、授業料を負担する国民皆学の新教育制度に抵抗があったとされ、就学しても現在の一年生で退学してしまう者が多く、2年生以上に進学する者は3割に満たなかったといわれている。

明治19年4月、政府は教育令を改め、小学校令(小学校は尋常小学校4年斗高等小学校4年の二段階とし、尋常小学校4年を義務年限)を公布し、明治20年(1887)4月1日から施行した。

稲川地区で呼応して高等科を設置したのは駒形小学校が明治25年、駒形尋常高等小学校と改称している。生徒数尋常科は99名、高等科は49名。三梨小学校は明治30年で三梨尋常高等小学校と改称、尋常科108名、高等科53名。稲庭小学校は明治32年、補習科を廃し高等科(三年制)を設けて稲庭尋常高等小学校と改称している。生徒数尋常科251名、高等科43名。

川連小学校に高等科が設置されたのは大正4年。駒形に設置されてから24年後、稲庭尋常高等小学校に改称されてから16年後となった。高等科のなかった川連地区の児童は三梨、駒形尋常高等小学校へ通っていた。大正4年川連尋常高等小学校設立時の生徒数、尋常科449名、高等科25名。他地区と比べて高等科に進む生徒が少なかった。
各地区とも高等科が設置されても進学者は15~20%前後。この比率は昭和21年まで続いている。昭和22年3月31日、政府は学校教育法」公布、翌4月1日から施行され小学校6年、中学校3年の義務教育がスタートした。

※湯沢市 平成17年(2005)3月22日 湯沢市、皆瀬村、稲川町、雄勝町の合併で新湯沢
市が誕生した。合併によって旧稲川町の地区の名称は湯沢市〇〇町と昭和31年(1956)
合併前の稲庭、三梨、川連、駒形の町村名が復活した。

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川連の「ほらあな」(洞穴)ものがたり

2016年12月10日 | 集落
川連の内沢には昔「カネヤマ」探しのために掘った、「ほらあな」が三ケ所ある。かつては子供たちの探検場所として人気があった。一つは内沢の中心部「山の神」神社の近く、通称「どじょう滝」の下流、昭和61年新しく出来た土固工下から約50mの地点、内沢の左岸の場所、この洞窟に入り進むとタップリの水たまり、立て坑らしく深さがわからず気持ちが悪かった。まっすぐに進むのは危険だと注意され確かに右に曲がるとすぐ行き止まりだった。もう一ケ所は「山の神」から左に進み「ムサワ」、「タキノサワ」合流地点から左へ沢なりに約100mの場所。周りが杉林で入り口がうす暗く、少し気味悪い洞穴だった。それほど深くはなくせいぜい5m程だった。三つめは今回の「ほらあな」、内沢の奥地通称「オヤシキ」に入り、「イシカツラ」と呼ばれている内沢左岸の場所。この洞穴は沢の流れより3m程高い所にあって、石の割れ目から清水が流れ出ている。現在麓集落の数人がこの清水を約3㌔程配管をし生活用水として使っている。

「イシカツラ」以外の「洞穴」は昭和61年豪雨の復旧工事で立ち入りが危険なため入り口が閉ざされた。川連の三ケ所の外に東福寺山の「桐沢」は東福寺と川連の入会山。終戦前後ここにも一ケ所掘られた場所がある。10代の頃この場所を訪れたことがあるが、現在は立木が鬱蒼と繁りその場所は良くわからない。

内沢で入り口を閉ざさないでいた一つの「洞穴」は湯沢市ジオサイトで平成23年度に「ジオサイト:稲川15」で紹介されている。この資料では坑道跡はいつの頃掘られてたのかわからないとある。



このジオサイト:稲川15によれば、「川連の鍋釣山周辺の地質は、中新世中期(2000万年前)の火山噴火によって形成された国見嶽層の安山岩質火山碎屑岩と輝石安山岩からなる。川連の坑道跡付近は、暗灰色~帯青黒色の玄武岩質安山岩で、シリカ脈を伴っている」とある。

稲川町史には『この付近は激しい海底火山噴出の中心域を物語る。さらに注には「この変動に続くマグマ熱水の上昇によって黒鉱等の金属鉱床が形成された」、国見嶽、鍋釣山等はその火山岩体から成る。激しい海底火山噴出は西黒沢期後期には活動を終え、この地域は凝灰岩から泥岩の堆積が示す深い海となった。そして、中新世末期の船川期には、褶曲、断裂等の変動を受けつつ陸化したものと思われる』とある。

川連の北には同じ地質時代の地層に鉱脈が形成され東福寺の白沢銅山が宝永6年(1709)、大倉鉱山が宝暦3年(1753)に開口されている。川連の内沢はこの地区と地層の類異性から古くから「カネヤマ」探しに関心が高かったと思われる。

明治新政府は、明治2年( 1869) 2月20日に「鉱山開拓之儀ハ、其地居住之者共故障無之候、其支配之府藩県へ願之上、掘出不苦候、府藩祭ニ砂テモ、旧習ニ不泥、速ニ差免可申事」(行政官布告177号)と布告、鉱山に対する政府の所有権と鉱業自由の原則を宣言した。そして試掘に地主の優先権を保障、自分の所有地以外で出願するときは地主の承認を要すると云うことになっていた。

このほどわが家からこの内沢の鉱脈探査に関係すると思われる資料が出てきた。この関係資料から内沢の「洞穴」は下記の資料から明治7年の試掘願書から始まったと推定される。

試掘願書 部分 明治7年

この「試掘願書」は明治7年に大館村「黒滝源蔵組合」の名で出された。願書には黒滝源蔵、高橋藤右エ門と大館村伍長総代小野寺藤左エ門、川連村伍長総代関 主助の名がある。どうしてこの書がわが家からでてきたのか不思議だったがこのほど手がかりが出てきた。試掘には相応の経費が必要になる。試掘願書出した明治7年7月22日に「長里久七良」あての「貸地證文事」(借用証文)。受合「高橋藤右エ門」、「井上久四良」。借主「黒滝源蔵」、「高橋藤右エ門」を含む8名。「長里久七良」は私の高祖父。不思議なのは借主の8名の中に年齢12歳の曾祖父の名があるが印はない。印があるのは6名で金10円借用されている。中心の「黒滝源蔵」氏は明治の廃仏毀釈で廃寺となった妙音寺の最後の住職だった。

貸地證文事 明治7年7月22日

そして下の図はは6筆の桑畑と林を担保とした「書入れ金借用證文」で、金額は5円。「黒滝源蔵」を含む3名が川連村の「赤沢○○」当てに出され、高祖父は請合人になっている。請合とは今でいう保証人のこと。

書入れ金借用證文一部 明治8年3月27日

明治7年に「試掘願書」が出され、許可が下りて採掘がはじまったものと思われるがその経過についての書類は見つかってはいない。内沢の採掘坑道は深さが約15m程。坑道の入り口が狭く、それに水が流れ出ているので入るのが難しい。10m程進むと高くなっているで人は立てる。現在麓集落の有志が導水管で湧水を集落まで引いていて、数年毎に中に入って掃除をしている。

この2枚の証文からから推定して川連の内沢鉱脈探査の坑道は明治7年から始まったと思える。約15m掘り進むのにどれくらいの日数がかかったのかは知る由もない。当時の大工の日当は30~40銭、日雇いはその半分の16~20銭と言われている。二つの証文にある計15円は忽ち消えてしまったと思われる。その後の資金の手立てはどうだったのか、證文にある永代地の一部は現在私の家の持ち山になっている。

試掘坑道の隣地はわが家の所有地。当時は桑畑で「豆星平」と呼び、坑道のあるところは「イシカツラ」と呼ばれていた。ジオパークの資料に「石川連」とあるが、地元でかつて「イシカツラ」と呼ばれていた呼称が「石川連」なのかは判断が難しい。隣地の「豆星平」は樹齢100年過ぎた杉林、「イシカツラ」は岩の層で樹木が育たない。内沢はそのすべてが急峻な地形。「豆星平」や「桧平」等、平の付く場所が数ケ所あるが一般的な「平」のような場所ではない狭い場所。わが家の「豆星平」は所有面積は約30aあるが平の場所等はほとんどないに等しい。急峻な山は住む人々は広い場所への願望として、わずかな地にも「、、平」と名で読んだものと思われる。傾斜があるから山の畑は桑畑や萱畑等になっていた。

内沢は明治27年に大雨で集落は大水害に見舞われる。流失家屋11戸死亡者5人の村最大の被害。この記録によれば内沢のいたるところで土が流され沢が止まり堤が何十か所も生まれ、「大地波」となって集落を濁流が襲ったという。この内沢の「洞穴」の所、隣地のわが家の杉林は沢に向かって10数m崩れた場所がある。この場所から300m程上流、通称「狸岩」付近から推定15トンもある大岩が下流約600m流されたと記録にある。この大岩を集落では「雨乞石」として祀っていたが昭和61年の沢河川の工事で林道下の埋められてしまった。内沢水害についてブログ「川連村水害記」2013年9月3日に詳細。(http://blog.goo.ne.jp/kajikazawa_1942/e/75831607ad51e41678488ba17bce9809)

洞窟のある岩肌の「イシカツラ」はこの豪雨でさらに岩肌がむき出し、採掘された岩石はすべて下流に流されてしまったと思われる。明治7年「試掘願書」が出され、許可が下りて何年間内沢の山に挑戦したのか確実な資料が乏しい。各地の鉱石探しのノウハウを持っていたのは山伏や修験者だったといわれている。明治7年の「試掘願書」の代表が、廃仏毀釈で廃寺になった妙音寺住職「黒滝源蔵」氏だったことは大きな意味があった。妙音寺は祈祷寺で山伏・修験者のながれをくむお寺だった。「妙音寺」について昨年12月19日のブログ「妙音寺」1(http://blog.goo.ne.jp/kajikazawa_1942/e/e6c9c24fe38e59d0099ac8d7b218e505)に詳しい。

先のブログで紹介したように、広報いなかわ昭和48年7月10日号「町の歴史と文化」に「山伏・修験」、「山伏が、どれだけ秋田の文化を高めてきたかは民俗芸能や、古文書でわかる。読み書きができる山伏たちは地域社会の良き教師であり、京都との往復修業によって、地域文化の担い手となった。一般の人は、山伏は単なる宗教家、呪術使いといったイメージでとらえているが、そうではない。彼らは経を読み、祈願をし、占いをする一方、医術と教育に通じ著述と、農作業のリーダーだった。修験道を実践する行者でありながら、片方では中世文化の推進役、«生活総合コンサルタント»だった。山伏文化、修験文化を無視して歴史を語ることはできない」と「秋田の山伏・修験」の著者、佐藤久治氏の談が載っている。

日本では16世紀末から17世紀にかけて鉱山開発が頂点、国内のほとんどの地域が明治の初期にかけて鉱山開発が行われた。鉱山が見つかれば資金、技術、労働力が必要で江戸初期においては幕藩領主、近代においては財閥系の鉱山企業が乗り出している。

試掘許可や採掘許可が下りたとしても相応の経費がかかる。鉱山、鉱床発見の確率は極めて低かったはずだ。内沢と同じ地質時代の地層(玄武岩質安山岩)から鉱脈が開発された「白沢、大倉鉱山」は直線距離は3㌔弱の場所だったが鉱物は見つからなかった。明治の初期は、幕末から続く物価の高騰と税の金納に庶民は振り回された時代、固い岩山に挑戦した当時の熱いエネルギーが偲ばれる。
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年貴志学校(根岸学校)から川連小学校

2016年11月29日 | 集落
明治新政府は明治4年文部省を設置、翌5年学制で「自今以後一般の人民必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と宣言。これまで府県が運営してきた学校を廃校し、新規の学校を設立するとの新しい学校教育制度の実施に着手した。この交付を受けて秋田県では「與学告論」を公示し明治6年に「学区の設定」、明治6年1月、すべての男女6歳から9歳までと10歳から13歳までの人名の調査報告を指示した。

皆瀬村史から引用 雄勝教育百年史(雄勝校長会発行)

初めての学校には授業料が必要だった。「年貴志学校」(根岸学校)の一月3.5銭、各地の10銭以下だがこの学費は当時の家庭にとって負担が大きかった。一年就学しても次の年度に進めず、就学断念が多かった。秋田県下の状況は下記。


表に見られるように秋田県の就学率は全国平均の半分程。明治9年は全県学齢者107522人中、就学者19395人は18.04%の就学率だった。「秋田県教育史」によれば現在の一年生から二年生に進むのは30%程度で一年で退学してしまう者が多かった。当時子供たちも重要な働き手で、授業料負担が大きかったことがあげられている。

ちなみに明治治9年(1876)大阪では、前年来の金融逼迫と豊作により前年1石7、8円であった米価が4円まで下がり、また、地租改正により地租が金納となるなど、納税者である農民は米価安に困窮していた。明治9年の米価は60㌔は1円18銭、前年の8年は2円8銭から約半値近い暴落。当時の米の平均反収は明治18年で180㌔、明治9年平均して60㌔で3俵以下。自作農はともかくとして小作農はこの収量から半分近くが小作料、小作地も持たない戸数が30%あった時代で就学しても途中退学が多かった。明治政府は明治22年第二次小学校令、明治33年に第三次小学校令で「尋常小学校の修業年限を四か年の義務制として統一し、就学については授業料を徴収しない」と交付した。

川連小学校の沿革について稲川町史には次のような記述がある。

創立当時の学校名  川連学校
創立当時の位置   久保村字久保
創立当時の職員数と氏名 熊谷成蔵 助訓(氏名不詳) 児童数40名
明治9年(1876)5月 川連学校開校、職員2名、学級数初年度八級。通学区は字野村、大                館、久保村とす。
明治15年(1882)9月 大舘と野村に文教室、12月根岸学校を統合し根岸分校とする。
明治19年(1886)4月 野村分教室を増築し大館、野村分教室を廃し川連小学校となる。
明治24年(1891)4月 三梨小学校に統合され、川連分校となる。
明治32年(1899)8月 三梨小学校川連分校を廃し川連小学校となり、分校を根岸に置く。
明治38年(1905)10月 新校舎を野村に新築、根岸分校を廃す。
昭和7年(1932)5月  現在地に新校舎落成移転する
             
川連学校(久保)は明治9年5月19日に創立(雄勝教育百年史)とあり、「年貴志学校」は明治9年9月27日開校とある。稲川町史には明治9年5月26日 川連小学校 創立 大館村久保 人家借用 根岸学校あり。との記述がある。久保にできた川連学校の創立前に「根岸学校」が開校されていたことになる。「秋田県教育史」、「雄勝教育百年史」の記録とは違ってくる。いずれにせよ根岸学校は明治9年頃から明治38年、川連小学校に統合されるまで約30年間存在していた。

下の図はわが家の土蔵から明治前後の諸書類と一緒のところからでてきたものだ。
川連学校資金 備品 請負人等詳細 明治9年8月29日とある。年貴志学校(根岸学校)開校の一ケ月前になる。

和紙に書かれた8ページの書は紙よりで閉じられている。1ページに資本金、利子等9月から12月まで毎月2円15銭の経費計81円99銭。学校病院資本金とあり、寺宿料、小使給料等が記されている。教員の給料は書かれていない。3ページから基材等器械、テイブル、ボウルト等。名札百枚、門札、炭入れ、塵取、拍子木等計29円20銭 請負人高橋藤左衛門、沓沢寅之助の名前がある。裏表紙の「癸酉五斗三ノ一」とは何なのか解釈はできないでいる。年号の癸酉とは明治6年(1873)で、この年に秋田県では「與学告論」を公示し明治6年に「学区の設定」した。解釈の一つとして川連では学校設立に動き出していたことになる。

この書には「川連学校」とあって、「根岸学校」ではない。日付は明治9年8月29日で稲川町史にある「川連学校」は5月19日に開校されている。雄勝教育百年史にある「根岸学校」の開校9月27日に合わせたものなら書かれた内容と照合する。

この書が我が家にあることは教育熱心な高祖父(長里久七郎)がなんらか形で関係していたと思われる。私から数えて五代前久七郎は安政の頃、横手市からわが家にきた。幼少の横手時代寺小屋に通い、息子の久治(私の曽祖父)へ教育も熱心だった。久治は明治5年前後から当時の寺小屋の「読み書きそろばん」から「百姓往年豊年蔵」、「商売往来」等明治8年13歳には論語、孟子等中国の古典が多く含まれている。明治4年、高祖父久七郎は9歳の息子に「太閤状」を書き記している。「太閤状」に「太閤様被仰出三拾ケ條」「御詠哥」2、「御掟」19があり、末尾に「三拾ケ條昼夜無差別被令拝読可被守掟もの也」とある。人として生き方、教訓が細かに書かれている。他に一年間の行事等への対応等往来形式の長文、一緒に小林一茶翁の勧農詞もあった。

明治政府が明治6年「学区の設定」し対象年齢6から9歳、10から13歳の調査の時が11歳で対象年齢に含まれていたが、「川連学校」もしくは「根岸学校」の開校時、明治9年曾祖父久治は14歳で対象年齢が過ぎていた。高祖父は40歳、明治の初期に「長百姓」をしていた書もあり、寺小屋から新しい学制に関わっていたようだ。
         
明治9年設立の「年貴志学校」(根岸)学校の教員に小川為也氏の名がある。村出身の後藤喜一郎氏は明治11年6月、根岸学校の訓道。15年12月川連小学校、21年に校長となっている。さらに36年には川連村長。門人一同崇敬のしるしとして、報恩感謝して大正八年、八坂神社鳥居の側に「後藤喜一郎先生碑」を建てている。

このほどの聞き取りで明治28年生まれの方が「根岸学校」で学んだ後、高等科は「三梨小学校」に入ったことが分かった。当時「根岸学校」に高等科はなかった。小学校初等科は4年で終わった。さらに上の高等科に進むために「川連小学校」か、約4㌔離れた「三梨小学校」に通った。

当時、根岸学校は「キゼン学校」とよんでいたという。「キゼン」は「喜左衛門」家のことで現在川連の「岩蔵」宅の場所。又根岸学校は現「友吉」屋敷のあったとの説もある。又上記の書に「寺宿料」とある。開校時はお寺だった可能性がある。集落にある神応寺、また明治政府の廃仏毀釈で廃寺になったお寺、妙音寺があった。村の中で学校が生まれてから学校の場所が変わったとしか思えない。そして「年貴志学校」(根岸学校)の名前は定着しないで「キゼン学校」等の名前で呼ばれていた。

推論だが上野、川連、麓集落を併せて「根岸」の呼び名は好まれていなかった。根岸の名はいつごろから生まれたのだろう。手元にある資料では明治初期の古地図に第16大区2区大館村に支郷根岸と記されている。現在の麓で旧川連城の城下を形成されていた。明治に入って麓集落だけではなく川連、上野を加えた三集落を「根岸」または「根岸川連」等の呼称になっていた。現在根岸の呼び名は高齢者以外死語になりつつある。地元住民の多くに「根岸」の呼び名に愛着はなかった。むしろ避けていた。特に「根岸衆」は他地区から蔑んだ呼び名で嫌っていた過去がある。明治の時代も変わりなかったのではないか。だからあえて「年貴志学校」の呼び名が生まれたのではないか等思える。現在「年貴志」の名を知っている人はいない。先の資料「川連学校」の日付から何らかの理由で「年貴志学校」(根岸学校)に変えられたとすれば資料と照合できる。ただし推論に過ぎない。川連集落に学校があったと語り継がれ約30年も続いてきた学校の詳細は記憶の中から消え去ろうとしている。さらに資料を探しだして行きたいと思っている。

下図は明治38年川連小学校の建築事委員調。

建築委員長村長の酒井氏以下4名、13名中5人が上野、川連、麓の通称根岸地区から委員。場所は野村の現在七山医院のあるところ、明治38年、約30年続いた「年貴志学校」(根岸学校)が統合されて「川連小学校」としてスタートした。
 
※ 「小野寺氏の源流と興亡史」小野寺武志編 東洋書院刊(昭和63年1月)小野寺氏の諸城に川蓮城落城の後、「古舘と地名が残り大館(麓)、川連、上野の三集落は根岸と呼ばれる領内であった」との記述がみられる。根岸の名は420年ほど前から存在していたことになる。
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年貴志学校(根岸学校)から川連小学校

2016年11月26日 | 集落
ブログが削除されてしまいました。ブログ始めて以来初めてのこと。原因はわかりません。パソコンの誤操作なのだろうか。ともかくわかりません。29日に再投稿を予定しています。訪問よろしくお願いします。11月28日19時
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天声人語と赤トンボ

2016年09月29日 | 地域
2016年9月22日、朝日新聞「天声人語」は各地で絶滅の危機にある「ミヤマアカネ」の話題だった。

2016.9.22朝日新聞 天声人語

以下は天声人語全文
「俳優であり俳人でもあった渥美清さんに次の句がある。〈赤とんぼじっとしたまま明日どうする〉。詠んだのは63歳の秋。じっと動かないトンボに四角い顔を寄せ、何ごとかつぶやく名優の姿が目に浮かぶ▼先日、取材で訪ねた長崎県佐世保市で赤トンボをじっと観察した。県版レッドリストで絶滅危惧種に指定されたミヤマアカ。「深山茜(みやまあかね)」と漢字で書いても美しい。隣の佐賀県も含め生息数が減り、佐世保市では環境団体「ふるさと自然の会」が20年前から保存に努めてきた▼「休耕田が増え、苗にまく農薬が変わったのが急減の原因だと見ています」と川内野善治(かわちのよしはる)会長(68)。公務員として市役所で働くかたわら、地元の希少な動植物を調べてきた▼繁殖に欠かせないのは水の流れ。急流にはすめない。田でも水が漏れず農薬のよく効くところは向かない。最適なのは水がちょろちょろと流れ出る棚田とわかり、川内野さんは農家から棚田を借りた。食べるためではない。トンボを育てるためである▼会員の手を借りて田植え、ヒエ抜き、稲刈り、掛け干し、脱穀、精米。それでも、羽に白い印をつけて数えると、4年前に1622匹いたのが、今年は734匹どまり。「私らが棚田をやめたら県内ではもう絶滅が近い。責任は重大です」▼間近で見るとミヤマアカネはなかなか精悍(せいかん)である。お尻を太陽に向けてまっすぐ突き上げる姿など五輪の体操選手のようだ。実りの9月、棚田を歩きながらトンボと田んぼの行く末を案じた」。 引用

前回の「まぼろしの湿地と沼」で「ミヤマアカネ」のことを次のように書いた。

「日本で最も美しい赤トンボと言われる「ミヤマアカネ」(深山茜)が「ホソバオモダカ」に静止した。ミヤマアカネの特徴でもある翅の帯とピンクの縁紋(えんもん)がスッキリとしている。この縁紋は始めは白色で成長するとピンクに変わってくる。もう少し時間がたてば全体が鮮やかな赤色になる。日本の各地に生息していると云われるが、都道府県によっては絶滅が危惧されている」。極めて似たトンボ「ノシメトンボ」にはピンクの縁紋がない。長崎県は絶滅危惧Ⅰ類、東京都は絶滅危惧Ⅱ類。佐賀県、和歌山県等8県で準絶滅危惧類になっている。秋田県では全域で確認されている。

2016.9.6 稲川町 まぼろしの湿原

赤トンボというトンボはいない。秋を代表するトンボをすべて赤トンボの名で呼ばれているが住宅や田んぼで見られるトンボの多くはノシメトンボ、アキアカネ、ナツアカネ等が主になっている。稲から一日で玄米に仕上がるコンバイン刈り乾燥機体系の作業と違って、昔ながらの自然乾燥で仕上げる「赤とんぼ乾燥米」作業は、赤トンボと少し会話ができるような錯覚に陥る。トンボの大きな目は個眼と呼ばれる小さな目が1~2万個も集まっての二つの複眼と三つの単眼持ち、視覚はほぼ360度。複眼でものの形、単眼で明るさを捉えられるといわれている。

7月に田んぼで羽化した「アキアカネ」は山に移動し、稲刈り時の田んぼに下りてくる。「ナツアカネハ」は山に行くことなく周辺にたむろしている。一斉に飛び交う赤トンボは「アキアカネ」と」「ナツアカネ」が交じっているのかもしれない。成熟するとアキアカネの雌よりも雄のほうが鮮やかな赤に変化し、山から下りてきた赤とんぼの仕事は子孫を残すことで、雌雄結合したまま行動する姿は壮観だ。

 アキアカネの交尾 引用

交尾後もしもオスとメスが離れ離れになると、メスは他のオスと交尾してしまう。後から交尾したオスは、メスの体の中から前に交尾したオスの精子を掻き出して捨てるなどして、自分の精子のみが受精できるようにするするといわれ、産卵まで同行しないと自分の子孫を残してもらえない。交尾の後、連結して移動産卵まするまで、オスはメスの頭部をしっかり捕まえて離れないようにしている。

 秋空を舞う連結のアカトンボ  2016.9.22 稲川町田屋面

そらいっぱいの雌雄連結の姿は交尾後ので産卵前の行動かもしれない。この光景は曇りよりも晴天の時に多く見られる。より好条件は雨上がりの後の日差しの時、稲の刈られた田んぼに水たまりができる。連結のトンボは一斉にこの水たまりに産卵を行う。

 産卵 2016.9.24 稲川町田屋面

産卵は連結のまま、水面の上を移動しながら上下にメスが腹部先端で叩き、数個づつ産み落とす。この行動は「アキアカネ」で、「ナツアカネハ」の産卵は連結しながら打空産卵と呼び、稲刈り前の稲穂の上から卵を振り落すといわれる。産卵数は個体差があっても1000粒以上、メスは数日後新たな卵が作られ別なオスと交尾産卵を繰り返すといわれている。

産卵の終わった後は連結を解き、単独行動になる。ほとんどが午前中で終える。午後の田んぼで連結のトンボはあまりいない。私の稲つくりはコンバイン刈りではなくバインダー刈り。刈った後の稲はハサがけになる。トンボは稲杭が大好きらしい。100mで立杭が約65本、2本の倒伏防止用のクロスの杭が約12箇所で24本。計90本。30aの田んぼに2列になるから稲杭の総数は約180本。稲杭を立てると間もなく赤トンボが居住権を宣言する。そしてこの場所を死守する行動に出る。先端に止まっているトンボをめがけて他のトンボがやってくると悉く追い払い静止する。

2016.9.24 支柱の赤トンボ 稲川町田屋面

今回稲刈り作業の中で多くの赤トンボをデジカメに収めた。朝日新聞の天声人語で「ミヤマアカネ」を取り上げた。赤トンボの中で「ミヤマアカネ」は一番美しいといわれている。「ミヤマアカネ」は9月の始め幻の湿原で出会ったばかりだった。朝日新聞の天声人語で珍しく赤トンボの記事、稲刈りの赤トンボとクロスした。この記事で知った俳優のトラさんこと「渥美清」氏が俳人だったことを初めて知る。俳号を「風天」そのまま、多くの句は尾崎放哉を彷彿させる。

赤とんぼじっとしたまま明日どうする 渥美清

アカトンボが受精後雄雌連結しながら産卵、連結を解いて稲杭に静止している姿を見ると「じっとしたまま明日はどうする」の句は言い得て妙に思える。複眼と単眼の五つの目をもち360度のほぼ見渡せる赤トンボには、じっとしていても次への行動は決まっているのかもしれない。それに比べて「、、、、明日はどうする」の呼びかけは、どこかピントのずれている世情に無関心を装う者への問いかけでは等と独り言をいって苦笑(にがわらい)。

陽が西の山に傾いても支柱の赤トンボはじっと動かない。
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まぼろしの湿地と沼

2016年09月08日 | 地域
「まぼろしの湿地と沼」、このタイトルは私の生活空間からの距離せいぜい40㌔の範囲の場所。幻とあえて呼ぶのは多くの人の出入りを制限した方が良いと思ったからだ。近年自然とふれ合う愛好者が増えてきている。増えるに従い一部にマナーに疑問がつく行為が多くなってきている。私が自然や山野草に興味を持つようになったのは「鶴田知也」氏との交流からだから50数年になる。酪農業からリタイヤし少し時間がとれるようになって山野草や軽い登山を楽しむようなってせいぜい10年、この分野では初心者でしかない。

近年各地に「農産物の直売所」が生まれた。新鮮さをキャッチフレーズに山菜や野菜の他に山野草も並ぶようになった。時々珍しい山野草が並ぶ。時々乱獲を彷彿される山野草に遭遇することがある。売店のレジに尋ねると地域の生産者が栽培していると答える。明らかに山採りをして栽培し、繁殖していることが想像される。中には種子から時間をかけて栽培繁殖している人もいるようだ。

「クマガイソウ」は秋田をはじめ全国的に絶滅危惧1類に指定されている。私の地区には昔から「クマガイソウ」(熊谷草)の群落があった。10数年ほど前、根こそぎ盗掘されてしまった。調べて見たら著名な人が混じったグループだったことを知り愕然とした思いがある。この盗掘された「クマガイソウ」は2年後近くの直売所に並んだ。他の直売所より安いことを宣伝したちまち売り切れたという。

この事件以来、山野草や湖沼は静かに見守ることにしている。今回の湿地も沼も多くの人には知られていない。歩道等整備し管理をしている湿原等各地にある。季節ごとの散策を楽しみにしている。管理が不十分な歩道の整備されていない湿地に多くの人が入り込むとたちまち踏み荒らされてしまうのを恐れる。

今回訪れた標高319ⅿの湿地には「サワギキョウ」(沢桔梗)が真っ盛りだった。ヨシに覆われて池塘の近くには黄色の花に交じって紅花と白花の「ミミカキグサ」(耳掻き草)が生えそろっていた。。

ミミカキグサ

日本では本州以南や、中国からマレーシア、オーストラリアに分布する。湿地の湿った地面か、ごく浅い水域に出現する。多くの都道府県でレッドリストに指定されている。秋田県では準絶滅危惧種に指定されている。長さが10㎝に満たない小さな植物で、花が咲いて初めて気づく。匍匐茎から泥や泥炭の中に地下茎をのばす。この地下茎と地上葉にも捕虫嚢をつけ、ミジンコなどのプランクトンを捕食する食虫植物。花が終わった後に果実を包むような姿が耳かきに似るのが名前の由来と云われている。

タヌキモとミヤマアカネ

池塘の水面から突き出して黄色の花があった。始めてみる植物だった。同行した雄勝野草の会鈴木房之助氏の調べで食虫植物の「タヌキモ」の名がわかった。根のように見える茎はフサフサでタヌキの尻尾ににていることから名がついたという。20㎝近いこんもりとした茎を水面に下げ浮遊している。この茎をくデジカメに収めることができなかったので下記のイラストで説明すると、大きさがまちまちだったが丸いのが捕虫嚢がある。ここからミジンコやカの幼虫のボウフラ、発生初期のオタマジャクシ等を捕獲するといわれ驚かせる。「タヌキモ」は牧野富太郎氏が明治33年(1900)に命名した植物。

 引用
  
日本で最も美しい赤トンボと言われる「ミヤマアカネ」(深山茜)が「ホソバオモダカ」に静止した。ミヤマアカネの特徴でもある翅の帯とピンクの縁紋(えんもん)がスッキリとしている。この縁紋は始めは白色で成長するとピンクに変わってくる。もう少し時間がたてば全体が鮮やかな赤色になる。日本の各地に生息していると云われるが、都道府県によっては絶滅が危惧されている。

ミヤマアカネ

この湿地には大小15ケ所の池塘がある。小さいのはタタミ半分位、大きくてもせいぜいタタミ4枚ほどの大きさ。その中でヒルムシロが面白い形、タタミ一枚ほどの広さ。

池塘のヒルムシロ 

この湿地から約20K離れた沼にむかった。初めての場所。両側から草に覆われて林道をひたすら走る。g00gleマップで調べた沼、数日前の大雨で林道で少々不安もあったが走っていたら忽然と沼が現れた。標高522ⅿ地点、面積は推定で1ha程だろうか。杉林の中の沼は集落や国道から離れ、物音ひとつしない神秘的な沼。

まぼろしの沼

約半分はヨシ等で覆われ一部に浮島のが見える。奥の方の杉林から入れそうに見えたがヤブだったので見合わせた。浮島よりの沼面に生えているのは「ジュンサイ」(蒪菜)と「ヒツジグサ」(羊草)だった。「ジュンサイ」は東南アジア、アフリカやアメリカ等に分布している。食用にしているのは中国と日本だそうだ。秋田県の郷土料理で三種町は生産量日本一として知られている。東京、埼玉、沖縄では絶滅したと云われている。浮島の足跡は誰かがジュンサイを取りにきたのかもしれない。

「ヒツジグサ」の名は、昔の未の刻(今の午後2時)に花が咲くことから名づけられたというが必ずしもそうでもないらしい。花は3日ほど咲いて、終わると花柄が曲がって水中にもぐり、実が熟されると敗れて種を出す。たねは空気を含んだ浮袋のような皮で包まれ、水面に浮き上がり移動し繁殖する。

ヒツジグサと波模様

浮島を歩くと静かに揺れる。ヨシに囲まれて「ウメバチソウ」(梅鉢草)が咲いていた。いつも見慣れた姿と違って茎が長く、花も小ぶりだった。側の「コバギボウシ」(小葉擬宝珠)の花は終りを告げていた。「ヒツジグサ」は照り付ける強い日差しの中で、沼面の小さな波に独特の表情があった。奥に回れば別の山野草が見られたかもしれない。

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「ナラ枯れ」ゲリラがやってきた

2016年08月27日 | 集落
「ナラ枯れ」は秋田県では2008年にかほ市で確認されて以来9年になる。湯沢市では2009年に山形県境の院内で確認されていた。川連集落では今年の8月になって鍋釣山に「ナラ枯れ」が見られた。近年カシノナガキクイムシ(カシナガ)が媒介するナラ菌により、ミズナラ等が集団的に枯損する「ナラ枯れ」が北海道を除く都道府県に発生している。「カシノナガキクイムシ(Platypus quercivorus)とは、コウチュウ目・ナガキクイムシ科の昆虫である。広葉樹に被害を与える害虫。成虫の体長は5mm程度の円筒状であり、大径木の内部に穿孔して棲息する。穿孔された樹木は急速に衰える。葉が真っ赤に枯れ枯死してしまう」。  (引用)

私が「ナラ枯れ」に初めて遭遇したのは2008年、山形県鶴岡市の友人を尋ねて国道47号線舟下りで有名な戸沢村走行中だった。最上川の対岸の山の所々が真夏なのに紅葉のような景観に戸惑った。山が茶褐色になる「松枯れ」は見慣れた光景だったが違った。「白糸の滝ドライブイン」に停車し、良く観察してみるとどうやら松の木ではなく広葉樹だった。当時「ナラ枯れ」等と云う名は知らなかった。

秋田県の発生は2006年由利地方で発生、2008年に湯沢地方に侵入していた。当時親戚の集まりで皆瀬地区の人たちと「ナラ枯れ」の話をしたが、見たことはない「ナラ枯れ」にそれほどの関心が示さなかった。湯沢市の東部旧稲川に進出してきたのは5年前の2011年、雄長子内嶽の南側の斜面に見られた。今年は6月の末頃から駒形地区大倉、東福寺。川連地区で確認されたのは8月に入ってからだった。

三梨町飯田 2016年8月27日

駒形町大倉 2016年8月27日
鍋釣山 遠矢の松付近 8月9日 自宅から望遠で

鍋釣山の通称、遠矢の松付近と小烏(コガラシ)に8月9日に確認。翌10日田んぼの見回り中南東の方角、国見嶽の麓に自家の山がある。字名は坪漆と云う。八坂神社奥の方に位置している。写真で中央より右側に赤茶けた木を見つけた。とっさに自家の山林のミズナラとわかった。

坪漆  2016年8月10日 田んぼから

根元の状況

根元にはカシナガに食害され根元に「フラス」と呼ばれる虫糞と切削粉の混ざった「オカクズ」が散乱していた。このナラの木は樹齢100年程、ナラ枯れが進出してきたら一番最初だろうと数年前から想定していた。周囲を見渡すとさらに4本に被害があった。

2016年8月10日 川連町坪漆地内

現在集落から見える「ナラ枯れ」は上野から滝ノ沢3本、南沢3本、川連の鷹塒(タカトヤバ)3本、小鳥(コガラシ)2本、麓の鍋釣山3本、古舘1本、黒森1本、東天王1本、切崖1本の計18本。坪漆の4本は現場に行かなければ見えないので含まれていない。内沢に出向けばまだあるのかもしれない。

「ナラ枯れ」は比較的高齢で大径の樹木が多い広葉樹二次林(旧薪炭林など)で発生することが多く特にミズナラが優占する森林で被害が激甚となりやすい。また、比較的低標高の森林での被害報告が多い。まだ詳細な検討はなされていないが、被害発生のピークはその年の気温や降水量によって変化すると思われる。また、高温小雨の年には被害量も多く、逆に低温多雨の年には被害量も少ない傾向がある。

「ナラ枯れ」の歴史は古く、文献で確認できる最古の被害は1930年代の宮崎、鹿児島両県の被害である。その後1980年代までの間、散発的に山形、新潟、福井、滋賀、兵庫、高知、宮崎、鹿児島の各県で被害が報告されている。この頃の被害は比較的短期間で終息することが多く、また地域的にも現在のように広域への拡大が生じることはなかった。現在のような被害の拡大が継続するようになったのは、1980年代末以降のことである。
(引用)

カシノナガキクイムシ通称カシナガは体長は4~5ミリ、移動範囲年間1キロにも及ぶ。直径1ミリ位の穴を開け侵入する。ナラの木を養分とし、食べつくし「ナラ菌を運ぶ」。 菌がカシナガに寄生し木の中いっぱいに菌糸を広げ増殖する。 虫が運んだ「ナラ菌」が木の中で
水を吸い上げる管を詰まらせる。その結果ナラの木は枯れる。

さらに枯れ木以外 全ての木に穴を開け虫が入り込む。その数は、多い木に数万匹との節もある。虫が入り込まれた木は、枝の葉が赤く枯れ根元に「フラス」と呼ばれる虫糞と切削粉ような「オガクズ」を散らかし拡散する。

秋田県の「ナラ枯れ」状況は下記の図、美の国あきたネットから引用させてもらった。秋田県にナラ枯れが侵入してから10年、仙北市から県北の内陸市町村は今のところ侵されてはいないが昨年県北の八峰町に進出されたことから見ると、秋田県は全地域に「ナラ枯れ」が進むことになりそうだ。

美の国あきたネット (引用)

秋田県の状況と対策については下記のアドレスに詳しい。
http://pref.akita.lg.jp/www/contents/1334040533194/files/1.pdf

今のところ「ナラ枯れ」に強い森林の育成、カシナガの生息に適した大径木(高齢木)を利用(伐採)し、萌芽更新させることで小径林化を図る方法」等。今のところ決定的な対策は乏しい。

わが家の「ナラ枯れ」は現在ミズナラ5本、この量で一年の薪ストーブ用材は間に合う。他の大径木を伐採し、小径林化を図るとなれば大事業だ。ナラ類は、伐採してもその伐根から萌芽する能力を持っているが、おおよそ樹齢40年が経過してしまうと萌芽できずに枯死する株が出ると云われる。わが家のミズナラ樹齢80~100年だと萌芽はほとんど期待できない。すべてのミズナラを伐採しなければならないのかもしれない。この場所は昭和30年代に雑木林を伐採し杉林にし、一部を燃料確保で残した所だ。ミズナラ以外の樹種はヤマモミジ、ホオノキ、ブナ等がある。ブナには「ウエツキブナハムシ」で「葉枯れ」を引き起すが木は枯れないと云われてきたが、標高160mでは珍しいと云う樹齢100年のブナもミズナラの変化に対応したのか生気がない。
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「山の日」の一日 

2016年08月15日 | 地域
「山の日」は2014年平成26年)に制定され、2016年(平成28年)に施行された日本の国民の祝日の一つである。祝日法では、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことを趣旨としている。第一回「山の日」記念全国大会が長野県松本市で開かれた。

祝日として「海の日があって「山の日」がないのはおかしい等の意見は前々からあった。2013年4月に山岳関係者や自然保護団体等からの意見を受け、超党派110名の議員連盟「山の日制定議員連盟」(会長:衛藤征士郎)が設立された。当時9党のが祝日法の改正案を衆議院第186回国会に提出し、賛成多数で可決され、参議院本会議でも可決され2016年から8月11日が「山の日」となった。

休日のない「米と牛飼い」には「国民の祝日」にはほとんど無関係に過ごしてきた。近年とってつけたように祝日が増えてくるとますます関心が薄れてきていた。牛飼いから離れて数年になるが「祝日」の感は依然として鈍い。盆前の8月11日の祝日が「山の日」であることを知ったのはカレンダーからだった。

8月11日朝、某君が急遽「山の日」だから山に行こうと車で玄関前に来た。慌てて車に乗り込んで、「どこの山」と聞いたら「駒ケ岳」と云う。山菜やキノコ採りにしか山に関心のなかった某君が、「山の日」だから山に行こうと云うのだから「山の日」の祝日は効果大だったのかもしれない。総勢5人で出かけた。

アルパこまくさ登山バス停

6月~10月のマイカー規制中は、アルパこまくさ登山バス停で乗り換え、アスパこまくさには大駐車場は満杯状態。 アルパこまくさから羽後交通バス「駒ヶ岳線」八合目登山口まで25分かかる。バス切符売り場で聞くと平日の倍以上の出足と云う。

バスは満席

車のナンバーからほとんどが県外客らしい。初めての「山の日」制定で子ども達も多い。
バスの終点八合目の休憩所で昼食。標高1305ⅿ地点。緩やかな風もあって心地よい。某君等は登山歴はない。ひっきりなしに下山客がくる。登山準備はほとんどなしで8合目まで来たついでに、日窒の硫黄鉱山跡まで足を延ばした。いきなり見事な「ミヤマアキノキリンソウ」と色鮮やかな「アカモノ」と出会う。

ミヤマアキノキリンソウ (もしかしたらハンゴンソウ?)

アカモノ

しばらく歩くと薄紫のきれいな花「オクトリカブト」と「オニアザミ」。全部毒のトリカブトの妖艶な花。「オニアザミ」の花はアザ最大と云われているが、この「オニアザミ」は先月始めて目にした「ハチマンタイアザミ」より花は少し小さく見える。

オクトリカブト
オニアザミ

早朝から縦走してきたと云う人と、地元のボランティアの人と硫黄鉱山跡でしばし懇談。ここから頂上までの標高差は310ⅿ。8合目のバス停で下山する。アルパこまくさ登山バス停まで25分程。

時間も早く、その足で八幡平に向かう。八幡平アスピーテライン頂上駐車場は満車状態。さらに黒谷地湿原バス停に駐車して木道を通って黒谷地湿原に向かう。熊の泉で冷たい水をごちそうになり、黒谷地湿原展望台で休憩。途中「シロバナトウウチソウ」の赤花、「ウメバチソウ」そして見事な「エゾオヤマリンドウ」に遭遇。

ウメバチソウ
シロバナトウウチソウのベニバナ

花は白色で、ときに紅色を帯びると云う。名前がシロバナトウウチソウで紅花の呼び名、何か面白い。和名が白花唐打草、唐打とは「16本の糸で組んであり、各糸は二本浮き、二本沈む組織をしていて、芯糸のない組み目の細かい組み紐」とある。中国から来た絹糸の組紐からきた呼び名。

エゾオヤマリンドウ

登山人口は近年700万~800万人とも云われている。「山の日}制定で登山人口がさらに増えるのだろうか。今回偶然に「山の日」で駒ケ岳、八幡平の山の雰囲気を味わった。駒ケ岳8合目硫黄鉱山跡、標高1350ⅿ。八幡平黒谷地湿原、標高1445mを散策。山に関心のなかった某君、登山道でのすれ違い時のあいさつ、「こんにちは」が新鮮だったらしい。
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ニガコヤジ(赤子谷地)考

2016年08月07日 | 集落
当地方では生まれたばかりの子供を「ニガコ(赤子)」と云った。ニガコヤジ(赤子谷地)は(子棄て沼)の事である。かつて、飢饉、疫病等で子供を遺棄しなければならない事情が各地にあったと云われている。例えば寛永の大飢饉(1642~50)で、会津藩(福島県)の被害は甚大で、餓死寸前に追い込まれた百姓は、田畑や家を捨て妻子を連れて隣国に逃散したと記録されている。その逃げ散りの様は大水の流れにも等しいものであった。その際、7才以下の幼児は、足手まといになるので、川沼に投げ込まれて溺死させられたという。

宮城県白石市内を流れる「児捨川」(こすてがわ)がある。その川にかかる国道4号線の橋「児捨川橋」(全長71m)があった。この名前の橋が「昨今の児童虐待などを連想させイメージが悪い」との市民の声が寄せられるようになったため、市長が橋を管理する国土交通省と協議し「白鳥橋」に名称変更されている。蔵王山麓を水源とする川の名「児捨川」は現在もある。「児捨川橋」の名称について、いくつかの伝説の中から以下のような記述があった。

「児捨川橋」から「白鳥橋」へ -国土交通省へ提言しました-,,,,,,。その伝説の一つは「蝦夷(えみし)征伐でこの地を訪れた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の子を産んだ長者の娘が、夫から迎えがないのを嘆いて、『白鳥と化して大和の空に飛んでいく』ために、子を抱いて川に身を投じた」というものです。名称変更について、白石市文化財保護委員会へ諮問したところ、「説話に関する地名は保存すべきだが、伝説を補強する意味でも白鳥橋への改称が望ましい」との答申を受けました。市では、伝説は重んじつつも負のイメージにならないよう、白鳥になって飛んでいった伝承を生かし、「白鳥橋」という名称にしてはと11月6日、管理者の国土交通省に提言しました。現在、同省で名称変更の検討がされています。

※昭和57年に改良された国道の新しい橋の案内板の名称について提言したものであり、旧国道(現在市道)の児捨川橋の名称や、児捨川そのものの名称を変えようとするものではありません。なお、旧国道に架かる橋には伝説などを記した案内板の設置も併せて検討しています。「http://www.city.shiroishi.miyagi.jp/uploaded/attachment/514.pdf」白石市の広報(平成13年12)引用


当地方で「ヤジ」とは湿地の事を云っている。川連地区は数千年の経過で生まれた内沢の流れの扇状地上に形成されてきた。人々は1000年以上前から住み、扇状地特有の瓦礫の地を開拓してきた。扇状地の山際に住居を構え、すそ地は田んぼに変えてきたと思える。

2014.6.30のブログ『二つの古絵図「川連村、大館村」』に享保16年(1731)の文章に古絵図は慶安元年(1648)と変わりがないと書かれている。この古絵図に現在集落の下の方、通称「宿」と呼ばれている付近に湿地が記されている。下記の地図で屋敷廻、天王の場所、この湿地は幕末から明治の古地図には見られない。この湿地通称「ヤジ」は、その後の内沢の土砂の押し流されと人々が手を加え湿地を乾地に変えてきたものと思われる。

古絵図 享保16年(1731)(地名編入筆者)

近年この場所に住宅が建てられた。スウェーデン式サウンディング試験結果の報告書があり地質を知ることができた。スウェーデン式サウンディング試験とは「先端がキリ状になっているスクリューポイントを取り付けたロットに荷重をかけて、地面にねじ込み、 25センチねじ込むのに何回転させたかを測定」する。結果、N値が12.6.この場所が推定水位。その後はロッドが自沈、音は無音が続き深さ6.16mで音がジャリジャリ、ロッドが強反発し換算N値が20.0となって調査が終わっている。湿地(ヤチ)の深さは約6mと記録されている。表土は乾地化されてはいるが地下数メートルには湿地の兆候が見られる。

黒森の「ニガコヤジ」はこの場所から直線距離で約600m離れ、標高155m程でこの地から約10mも高い位置にある。この通称「ニガコヤジ」を享保16年(1731)、明治初期の古絵図にも示されていない。古絵図では妙音寺、黒森山の麓の場所。

昭和になって麓集落に残った湿地(ヤジ)は、黒森にある「ニガコヤジ」だけだった。この「ヤジ」も住宅建設で残土等の埋め立てや、昭和52年の圃場整備事業で下方に排水路が出来その面影を無くなってしまった。現在「ニガコヤジ」を知っている人は団塊の世代以上で若い世代は名も場所も知らない。

ニガコヤチ跡 2015.12.3

私の記憶にある「ニガコヤジ」の大きさは約500平方ほどでヨシが茂っていた。ドジョウなどの棲みかだった。先達の話だと昭和30年代には鯉や鮒がいたといわれている、養蚕が盛んだった川連地区では養蚕の道具洗浄や未熟な「蚕」のさなぎや、食べ残しをこの「ヤジ」に運んだと云われている。そのたびに大きな鯉や鮒が寄ってきたそうだ。誰も魚を捕ることはなかった。ニガコ(赤子)の霊を守り供養を鯉や鮒に託していたのかもしれない。

長い戦国から争いが少なくなり、新田開発等で人口の増加した江戸時代、頻繁に起こる飢饉等自然災害、冒頭の会津藩同様、各地に飢饉や疫病から生き延びるために似たような事例があったといわれている。

江戸時代には頻繁に飢饉が起こった。東北地方は、天明・天保の飢饉に宝暦の飢饉を加えて三大飢饉と呼ぶ。宝暦の飢饉( 1753年~1757年)、天明の大飢饉」(1781~1789)、「天保の大飢饉」(1832~1839)。その他、元禄の飢饉(元禄年間 1691年~1695年)、延宝の飢饉(1674年~1675年)等東北地方の被害が大きかった。

秋田藩(出羽藩)で被害の大きかったのは「天保の大飢饉」(1832~1839)、数年に渡る冷害飢饉で人口の1/4の10万人が犠牲になったといわれている。江戸時代は全期を通じて寒冷な時代で凶作や飢饉が絶えなかった。食糧事情が悪く栄養不足で基礎体力がない子供の生存率は極めて低かった。飢饉や疫病等で乳幼児の死亡率は50%前後。異常な低さは当時の乳児(ゼロ歳児)と幼児(1~5歳)の死亡率が全死亡率の70%を占めていたことが全体の平均寿命を下げていた。江戸時代の子供は7歳(満6歳)までは神の子と云い、この世に定着していないと考え人別帳(戸籍)に載せていない。7歳にして「一人前」と考えられた。平均8~10人兄弟姉妹で子供が成人(当時は15歳)までに半数は亡くなった記録もある。

集落に30数年前まで存在した「ニガコヤジ」もそのような歴史があったと云われているが詳しいことはわからない。この場所はかつての妙音寺の引導場、歴代住職の墓地も近くにある。江戸時代当地の肝煎を務めた末裔高橋氏は、忘れ去られようとしている「ニガコヤジ」を後世に伝えようとして次のように書きとめた。

「慶長19年、対馬(㐂右衛門)の分家、川連山妙音寺というお寺があった。山伏修験寺で川連には神応寺と竜泉寺があって、新しくお寺では生活できないので切支丹を広めていった。遠く杉の宮(現羽後町)まで広めた。地元の川連には毎日のように大館、久保方面から続々と信者が集まり、今でもこの通り道を切支丹通りという名が残っている。承応年間((1652~1654)の切支丹弾圧に、川連では犠牲者を一人も出さなかった。肝煎の㐂右衛門は信者一人一人を説得してまわって(踏絵等)弾圧から逃れたことによる。

それでも妙音寺は信仰を続け信者を広めていった。仕事を休んでまで信仰していったので日増しに貧困の差を増していった。その結果、破産と口べらし(子棄て)が大いに出た。ニガコヤジ(赤子谷地)に朝な朝なに赤子の泣き声とお供えが上がっていたと伝えられている。現在ニガコヤチ(口ベラシ沼)はニザエモンの所有地になっていて沼の形はない。年代とともに消えゆくので書き留めておく」。 平成25年11月


神応寺、竜泉寺は「回向寺」。江戸時代の檀家制度でお寺の経済は保たれていたが、妙音寺は「祈祷寺」で檀家を持たなかった。そのためには信者を増やすことが寺自立の唯一の勤めだった。人々の現世のしあわせを求めて「妙音寺」に多くの人が出入りした。その中には切支丹信者も多くいたとされ、住職も信者説は高橋氏の覚書に詳しい。

各地には貧しさや飢饉から、「姥捨て山」等の記録は散見されるが「子棄て」の記録はあまり多くはない。有名は遠野物語には「昔は六十を超えたる老人はすべて此連台野へ追ひ遣るの習ありき。老人は徒に死んで了ふ」。デンデラ野「遠野物語」(111)、「遠野物語拾遺」(268)等に詳しい。比較して「子捨て」については「間引き」「遠野物語拾遺」(247)等がある。本当に捨てるのではないと記録されている。

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「ウラシマソウ」の不思議 釣糸状の肉穂花軸が回る

2016年06月16日 | 地域の山野草
ヘビが好きだという人はあまりいない。先日村の先輩から「マムシグサ」を「ヘビノバッコ」と呼ばれたことを知る。探してみると杉林には「マムシグサ」に代表されるテンナンショウ属の「ヒロハテンナンショウ」、「ウラシマソウ」に出会う。一般的にはすべて「マムシグサ」か「ヘビクサ」等と呼んでいる。「マムシグサ」の茎は紫褐色のまだらな模様がある。この模様がマムシに似ていると考えられたところからこの名がつけられた。花の形、苞(仏炎苞)は紫色に近く、白線がある。なかには苞が緑色のものもある、この形もヘビのカマ口を連想されあまり好きがられていない。

近縁種に「ウラシマソウ」がある。今回「ウラシマソウ」に魅せられて数回我が家の杉林に通ってみた。「ウラシマソウ」について「ウィキペディア」に次のような解説がある。ウラシマソウ(学名 Arisaema urashima)は、サトイモ科テンナンショウ属の宿根性の多年草。ナンゴクウラシマソウ (Arisaema thunbergii Blume)の亜種 Arisaema thunbergii urashima (Hara) Ohashi et J. Murata とする説もある。

「ウラシマソウ」を昨年自宅の杉林で見つけた。花の形、仏炎苞とは「苞(ほう)とは、植物用語の一つで、花や花序の基部にあって、つぼみを包んでいた葉のこと。苞葉ともいう。また個々の苞を苞片という」。奇怪な感じがするが似た身近な植物に「ミズバショウ」等がある。「ウラシマソウ」にはここから釣糸状の肉穂花軸は一般には40~50cm伸びている。なかには70cmまで伸びるものもあるといわれている。

6月5日 ウラシマソウ 湯沢市川連町内沢

上記の写真は「ウラシマソウ」の全体。立ち上がった肉穂花軸は葉の上までのびるそうだが今回はその時期を逃してしまった。葉も独特通常1枚で、幅20~30cmほどの掌状で鳥足状(左右に分かれた葉軸の片側にだけ小葉をつけ鳥の足のようになる)に、11~17枚の小葉をつける。小葉の数が比較的多いのが特徴。

葉の全体

この写真の葉が一枚だという。小葉が17枚 不思議な形だ。

鶴田知也氏「百草百木誌」(昭和56年 角川書店)に「うらしまそう」(浦島草)に見事な画と「暗紫いろの仏焔苞から伸び出した釣糸状の肉穂花軸は、いったん立ち上がったうえでゆたかに屈曲して長々と垂れ下がる」とかいてある。

鶴田知也著「百草百木誌」引用(図をクリックすると拡大)

この図では葉の展開と同時期に仏焔苞と釣糸状の肉穂花軸が伸びている。それに比べて私の出会った「ウラシマソウ」は葉が展開が終わってしまった。釣糸状の肉穂花軸も初めの姿とは違っていたと思われる。

5月23日

糸状の肉穂花軸は5月23日には仏焔苞前面に上昇して垂れ下がっていた。先端は地についてはいなかった。鶴田知也氏の図の状態と比較して、一週間から10日も経過した姿らしい。

5月31日

5月31日に出向いてビックリした。釣糸状の肉穂花軸が仏炎苞の後ろ側に回っていた。一週間で時計まわりに回り、茎で止まった。

6月5日

そして6月5日には茎から離れ、逆回転して止まっているように見える。前の方に垂れていて先端は土についていた。この不思議な釣糸状の肉穂花軸は動いていたことになる。

6月10日  

6月10日になると釣糸状の肉穂花軸は退化し長さが10㎝程になっていた。5月23日、31日、6月5日の釣糸状の肉穂花軸は時計の針と同じに回り、茎に到達すると今度は反対周りになり仏炎苞の前でとまっている。180度ほど時計回りで回り、茎で止まりそこから130度ほど逆回転して停止している。そして釣糸状の肉穂花軸は退化が始まり6月10には13㎝程の長さになっていた。受粉の終わったと思われる仏炎苞も収縮している。約20日間の出来事。

「ウラシマソウ」の花言葉に・不在の友を思う・注意を怠るな・懐古・回想とある。その由来は定かではないが、名前にもある浦島太郎の話しと重なる言葉が多い。空けてはならない玉手箱を開けてしまった事と重なり、花言葉は「注意を怠るな」が的を得ているのかもしれない。この付属体がなぜこのように長く伸びているのか。その先端が地面や草などどこかにふれている。そしてこれを、地面を這う蜘蛛、蟻などの虫が伝い歩くこともあるらしい。どうやら受粉と関係しているのではないかとの説もある。受粉を促進させるために釣糸状の肉穂花軸が動くのだろうか。

丈は30~50センチ。地中に球茎があり、多くの子球をつくって増える(栄養繁殖)。受粉はキノコバエの仲間の働きによるとされる。キノコバエや他の昆虫を呼び寄せるために仏炎苞からある種の匂いを発散させているのか。釣糸状の肉穂花軸は、雄株の仏炎苞に導くための通り道の働きをするとしても回転しているのはなぜなのだろうか。

動くと思われる植物の代表は「ヒマワリ」、回る時刻は日の出直前だろうか。確かめたことはない。「オジギソウ」は触るとすぐ動くことは誰でも知っている。「ウラシマソウ」の長い釣糸状の肉穂花軸が他の植物よりも複雑に動いていることを知ったのは今回が初めてだ。太陽と関係があるのではないかとの説もあるがどうだろう。不思議な植物。
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