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中川八洋「国民主権」批判論の検討(上)

2010年11月10日 03時43分37秒 | 日々感じたこととか

保守派の中には、中川八洋氏の議論に影響を受けてなのか、「国民主権」、否、「主権」概念を批判・否定する向きがあるようです。蓋し、白黒はっきり言えば、「国民がそれを希望するなら、それがどんな内容であれ、ある一時期の国民の感情や気分が国家の意志とされかねない」国民主権論、そして、その前提としての「国家の政治的な意志を最終的に決めることができる権威や実力」としての主権概念に抗して、例えば、天皇制・家族制・私有財産制等々の実定法によっても、まして一時期の国民の感情や気分、偶さかの政治情勢や政治の動向によって左右されるべきではない<法>の内容を認識・認容する保守派の心性には中川「主権→国民主権」批判論は心地よく響くの、鴨。

しかし、世の中にそんな美味しい話は落ちていない。本稿は、中川「主権→国民主権」批判論の説く<現世利益論>を批判して、地道な思索と行動を保守派に呼びかけるものです。尚、中川八洋さんの主張の意義とそれが陥っている陥穽については下記拙稿をご参照ください。

・書評☆中川八洋「正統の憲法 バークの哲学」(上)(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/3c6404b4e3b5a0d8a9e8ebeabda0cbc6

・「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11148165149.html

・天皇制と国民主権は矛盾するか(上)~(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/882ff5664ee9a04196989023f7e2cb04



まだ終戦直後といってよい1947年から1949年にかけて、旧憲法から現行の日本国憲法への移行のプロセスで「主権」の所在に変化があったのかどうかを巡り、所謂「尾高-宮澤」論争が繰り広げられました。ともにハンス・ケルゼンの学風を受け継ぐ、東京大学の誇るこの法哲学と憲法の両大家はこう論じた。

尾高朝雄
主権は「ノモス=道理」にあるのであり、「与えられた具体的な条件の下でできるだけ多くの人々の福祉をできるだけ公平に実現しなければならないという筋道」たるノモスには、新旧憲法間での変更はなく、その所在の変化も認められない。

宮澤俊義
主権とは「国政のあり方を最終的に決める力」であり、主権の所在を巡る議論は、その最終的に決める力を持つ具体的人間は誰なのかという問題である。ならば、仮にノモスの主権性を承認するとしても、ではその時々のノモスの具体的な内容を決めるのは誰なのかという問題はノモス主権論ではなんら解消せず、ノモス主権論は主権の所在に関する回答になっていない。   


詳細は別にして、この論争は誰が見ても「主権」という言葉の意味をどう捉えるかという論争のスタート地点で釦の掛け違いがあったと言わざるを得ない。而して、1947年-1949年という論争の時代背景を鑑みれば「新旧の両憲法で主権の所在に変化があったのか」という問いは、すなわち、「国政のあり方を最終的に決める力を持つ具体的人間は誰なのか」という問いに他ならず、よって、この「尾高-宮澤」論争は、論争内在的というよりは論争を取り仕切る<ゲームのルール>を鑑みて論争外在的な観点からはより直截にその問いに答えた宮澤先生の勝とする判定が下されています。実際、尾高先生の高弟、井上茂・碧海純一・矢崎光圀の三先生に聞いてみても「完敗だった」との由。

国民主権、あるいは、その前提としての主権を巡る中川八洋さんの理路を俎上に載せようとする本稿の冒頭でこの「尾高-宮澤」論争を紹介したのは、「主権」という言葉の多義性についてメンションしたかったからですが、些か本稿の結論を先取りして言えば、ある実定憲法典に「国民主権」や「主権」という言葉が記されていないとしても、法概念論や法学方法論という法哲学的な視点、就中、その憲法をルール外在的な視点から観察する場合には、「主権」や「国民主権」をその憲法典に見出すことは論理的になんら間違いではないということを最初に明記しておきたかったからです(★)。

★註:憲法
憲法とは法典としての()「憲法典」に限定されるのではなく、()憲法の概念、()憲法の本性、そして、()憲法慣習によって構成されている。而して、()~()とも、「歴史的-論理的」な認識であり最終的には国民の法意識(「何が法であるか」に関する国民の法的確信)が確定するもので、それらは単に個人がその願望を吐露したものではない。そうでなければ、ある個人の願望にすぎないものが他者に対して法的効力を帯びることなどあるはずもないでしょうから。   



すなわち、例えば、フランス憲法3条1項「国の主権は人民に属し、人民はその代表者を通して主権を行使するか、または、国民投票によって主権を行使する」、ドイツ基本法20条2項「すべての国家権力は、国民より発する。国家権力は、国民により、選挙および投票によって、ならびに立法、執行権および司法の特別の機関を通じて行使される」、ベルギー憲法33条「すべての権力は国民に由来する」「権力は憲法に定められた方法により行使される」、スペイン憲法1条2項「国家の主権は、スペイン国民に存し、すべての国家権力は国民に由来する」等々とは違い、確かに、米国憲法には「主権-国民主権」の文言を欠いている。けれども、中川八洋『正統の憲法 バークの哲学』(中央叢書・2001年12月)の次のような主張は法哲学的な考察においては適切ではない、否、率直に言えば、誤謬なのです。

「日本では米国憲法に関する虚偽と神話の方が定説である。たとえば、宮沢俊義が編纂した『世界憲法集』では、米国憲法は「人民主権を前提としている」と書かれている。だが、米国にはそもそも「人民主権」はおろか「国民主権」という政治概念も存在しない。存在しない「人民主権」が米国憲法の基軸である、という説は荒唐無稽であろう」(p.13)    


国民主権と天皇制は矛盾するか。結論から言えば、それらは矛盾するものではない。「国民主権」原理の意味内容を更に押さえるべく、中川「国民主権」批判論の検討に進む前に、もう一つ、この点を確認しておきましょう。

民法上の法人、もっと具体的に言えば商法上の株式会社は、法人格を持つがゆえに、会社名義で契約したり訴訟を提起したりすることができる。而して、会社という観念的で抽象的な存在が法律行為や訴訟行為の「主体」になれ、その行為の結果たる「法律効果」は法人である会社に帰属することになる。この場合、「主体」たるその会社のことを「権利帰属主体」と呼ぶのですけれども、法人である会社には手も足もないし口も頭もない。というか、法的ルールの眼鏡を掛けない限り誰もそれを見ることも触ることもできません。

畢竟、ならば、会社に法人格を認める以上、その裏面として、「実際に具体的な誰の行為が会社の行為であるのか」を定めなければならない。つまり、(民法・商法上の「代理人」たる一般の社員の話はここでは置いておくとして)会社を代表して契約書に捺印したり訴状の提起人として署名したりする代表取締役、会社の重要な意志決定をする株主総会や取締役会等の制度が定められなければならないのです。

ちなみに、観念的・抽象的な存在である「会社」に代わってその権利を行使する具体的存在を「機関=権利行使主体」と呼ぶのですが、再度記せば、法人制度と機関制度は一つのコインの両面である。と、そう言えると思います。   

蓋し、法学的に見る場合、国家も上で説明した会社と同様な法人であり、権限を行使し、また、権利が帰属するのは国家としても、その権限と権利を行使する機関が観念的・抽象的な国家とは別に定められなければならないのです。而して、内閣総理大臣と内閣、国会、裁判所という機関、権利行使主体が憲法典によって定められる。畢竟、天皇もそのような国家の権利行使主体の一つであり、主権者たる国民がそのような天皇の法的な地位を容認・希望している以上、それは国民主権の帰結でこそあれ、国民主権と天皇制の間にはなんら矛盾は存在しないのです。





◆中川「国民主権」批判論の検討

以下、『正統の憲法 バークの哲学』を紐解きながら中川さんの「主権→国民主権」批判論を具体的に検討して行きます。


憲法を「最高権力者の意志」と見なす反・憲法原理の革命思想において【フランスの】1791年憲法は制定されたのである。この反・憲法原理の革命思想の一つに、シェイエスの「憲法を制定する権力」論があり、フランスを革命に決起させた『第三階級とは何か』(1789年1月に出版)がそれである。・・・では何が「憲法を制定する権力」なのか。シェイエスは、憲法を制定する権力は「国民」だ、と論じる。「立法機関を設立する憲法はあらゆる組織に先んじて国民意志によって創設される」(『第三階級とは何か』岩波文庫, p.85)。

「国民の意志」で憲法をつくるというのは、ルソーの「立法者のみが憲法をつくる」以上の、妄想であろう。どんな成文憲法であっても、米国憲法の原案執筆がマディソンであったごとく、一定以上の智力のあるものによって起草される。「国民の意志」という抽象的なものが起草することはありえない。仮に「国民の意志」とは「国民の意志」に基づく正当な手続を経た人物もしくは機関という意味だとしても、この「人物」も「機関」も、「国民の意志」を把握することは雲をつかむようで不可能である。また国民の99・9%以上は国家の政体についてすら知見はゼロである。国民に流動的な感情や欲望はあっても、「国民の意志」などはどこにも存在しない。(pp.137-138)   


その定義さえ明確であれば、「憲法」という言葉で誰が何を意味させようともそれは自由でしょう。よって、中川さんが、彼の理解する限りでの「バークを起原とする英米の保守主義」がインカーネートする最高法規のみを憲法と呼び、それ以外の、就中、フランスやソ連の憲法を「反・憲法原理」に貫かれたものと理解することにはなんら問題はないと思います。問題は、近代に特殊な「国民国家=民族国家」の最高法規を<憲法>と呼ぶ一般の用語法を中川さんの用語法は否定することもできないということ。

而して、法内在的と法外在的に見た場合(HLAハートの言う「内的視点」と「外的視点」を重層的に併用した場合)、中川さんが「それは憲法ではない!」と1万回叫ぼうとも、フランスの1791年憲法にもスターリン憲法にも、例えば、基本的人権の普遍性、例えば、社会権的基本権という、憲法に内在する価値と特徴的な制度が認識できるのであり、また、それらがその後の多くの国の憲法典や憲法解釈の原理として伝播継承されていることも否定できないのです。

このことは、例えば、(その規約締結国を国内法的にも拘束するに至る)国際人権規約の前文の人権が「人間の固有の尊厳に由来する」という文言、そして、国際人権規約のA規約が社会権的基本権を定めたものであることを想起すれば誰しも否定できないことではないでしょうか。簡単に言えば(憲法と国際法の効力の優位性論議は別にして)英国もアメリカも同規約を締結・批准している以上、その法価値正当化の理路と制度を受け入れているわけであり、憲法より下位のレベルとはいえこの規約がかかわる法域では、人権の普遍性を前提にその国内法は制定・解釈されることになるのですから。

而して、「国民主権」の実体たる「国民の意志」とは、国家権力と国家統合の正当性根拠としての、観念的・抽象的に想定された「全国民の意志」としての所謂「ナシオン主権」であり、中川さんの主張は全く的外れのものである。誰も「国民の意志」で物理的や具体的な人格の意志など想定していないから。と、そう言えると思います。


<続く>

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