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天皇制と国民主権は矛盾するか(上)

2011年12月24日 09時50分25秒 | 日々感じたこととか

                 天照大神


昨日、12月23日は、<2011年3月11日午後2時46分>の年の、今上天皇陛下の誕生日です。要は、というか、要さなくとも「天長節」。目出度い。試練の時節の中ではありますが、否、試練の時節であればこそ一層「目出度い」の感を強く深くしています。

蓋し、日本の憲法において「天皇制」は必須の内容である。なぜならば、現在の法哲学の地平における憲法理解、すなわち、憲法を、「憲法典を含む諸々の実質的意味の成文憲法法規のみならず、憲法の概念・憲法の事物の本性、および、憲法を巡る慣習が織り成し編み上げる規範の体系。近代に特有の「主権国家=国民国家」内部で、最高の授権規範であり制限規範である規範の体系」と理解する立場からは、憲法の基盤とは、「何が憲法であるか、何が憲法規範の内容であるか」を巡る国民の法意識、換言すれば、「国民の法的確信」に他ならない。そして、そのような憲法観からは、個別日本においては天皇制こそその<憲法>の中核であろうから。そう考えざるを得ないからです。

本稿はこの経緯を些か詳らかにしようとする試み。尚、「天皇制」および「国民主権」を巡る私の基本的な認識に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。


・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/b699366d45939d40fa0ff24617efecc4

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79







◆憲法の意味

憲法とは何か? 機能論的に観察された場合、すなわち、ある国内法体系の内部においては、あらゆる下位の法規にその法的効力を付与し、他方、下位法規の内容に指針を与え制約するという、最高の授権規範であり、かつ、最高の制限規範である「憲法」は、その規範形式に着目する場合、

(甲)形式的意味の憲法:『日本国憲法』とか 『The Constitution of the United States of America』のように「憲法」という文字が法律の標題に含まれている憲法典。および、(乙)実質的意味の憲法:「憲法」という文字が名称に含まれているかどうかは問わず、国家権力の所在ならびに正統性と正当性の根拠、権力行使のルール、すなわち、国家機関の責務と権限の範囲、ならびに、国民の権利と義務(あるいは臣民の分限)を定めるルールの両者によって構成されています。

すなわち、<憲法>とは、(1)法典としての「憲法典」や他の成文法規に限定されるものではなく、(2)憲法の概念、(3)憲法の事物の本性、そして、(4)憲法慣習によって構成されている。而して、(1)~(4)ともに「歴史的-論理的」な認識の編み物であり、その具体的内容は最終的には、今生きてある現存在としての国民の法意識(「何が法であるか」「何が法の内容であるか」を巡る国民の法的確信)が動態的と構築主義的に(換言すれば、「結果論的に/泥縄的に」)確定するものです。


而して、<憲法>とその規範意味は(例えば、憲法9条教や憲法無効論というトンデモ教義を信奉する論者の如く、あるいは、無防備都市/無防備地域なるものを推進する左翼のプロ市民や「バーク保守主義」なる日本にのみ見られる謬論を唱える国粋馬鹿右翼の如く)、単にある諸個人がその願望や妄想を吐露したものではなく、社会学的観察と現象学的理解により反証可能であり記述可能な、経験的で実証的、かつ、間主観的な規範体系でありそのような規範の意味内容なのです。もし、そうでなければ、ある個人の願望にすぎないものが他者に対して妥当性と実効性、すなわち、法的効力を帯びることなどあるはずもないのですから。

尚、「憲法」の意味、そして、国際法と憲法の関係、加之、「憲法」に限らず言葉の意味ということ、
すなわち、定議論に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。


・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65200958.html


・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65231299.html




◆近代的意味の憲法

近代における憲法は、近代に特殊な「主権国家=国民国家」「国民国家=民族国家」と表裏一体のもの。よって、これまた近代に特殊な所謂「近代的意味の憲法」は、((1)トルコに次いでアジアで2番目に制定された我が国の旧憲法の条規に、就中、その告文・勅語・上諭に明らかな如く、また、(2)近代的意味の憲法の嚆矢であるアメリカ合衆国憲法の前文に示唆されている如く、加之、(3)近代の憲法においては「権力の分立」と「人権保障」が不可欠である経緯を指摘した(現在も、それはフランスの実定憲法の一部である)所謂「フランス人権宣言」の16条「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、憲法をもつものではない」に赤裸々なように)次の三者を必須の内容としていると言えるでしょう。すなわち、

(A)権力の合理的制約を定める統治機構
(B)諸個人の自由なる行動・言論の範囲の調整原理としての人権
(C)国家の正当性を巡るイデオロギーとしての政治的神話


旧憲法については下記案内記事からたどっていただければ嬉しいのですが、いずれにせよ、「統治機構・人権保障・神話」の三者こそ、実証的と社会思想的に観察・省察された場合の近代的意味の憲法の内容と言える。

・資料:英文対訳「大日本帝国憲法」の<窓口>
(付録として「告文・憲法発布勅語・上諭」の現代語訳も収めています) 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7b7946ec12aed29b5a6fed7258d5e89e


最後者の(C)について敷衍しておけば、例えば、フランス革命以前に、あるいは、アメリカ合衆国の成立や明治維新以前には(正確に言えば、南北戦争や西南戦争以前には!)この地球上に、「フランス人」も「アメリカ人」も「日本人」も存在しなかったように、近代に特有な「主権国家=国民国家」「国民国家=民族国家」は人間存在にとって自然な存在ではなく、よって、「主権国家=国民国家」「国民国家=民族国家」が<国家>として機能するためには、その正当性や正統性を広報・啓蒙する<政治的神話>としての<ナショナリズムの物語>が不可欠なのだと思います。

而して、(保守主義から見た「主権国家=国民国家」「国民国家=民族国家」の社会思想的な位置づけについては下記拙稿をご一読いただきたいのですが)この経緯をアーネスト・ゲルナーはこう述べています。

民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。確かに、ナショナリズムは、以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財の果実を利用するが、しかし、ナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも、多くの場合それらを根本的に変造してしまう。死語が復活され、伝統が捏造され、ほとんど虚構にすぎない大昔の純朴さが復元される。(中略)

ナショナリズムがその保護と復活とを要求する文化は、しばしば、ナショナリズム自らの手による作り物であるか、あるいは、原型を留めないほどに修正されている。それにもかかわらず。ナショナリズムの原理それ自体は、われわれが共有する今日の条件にきわめて深く根ざしている。それは、偶発的なものでは決してないのであって、それ故簡単には拒めないであろう。

【出典:アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(1983年)
 引用は同書(岩波書店・2000年12月)pp.95-96】


・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html


蓋し、些か途中的の帰結の前倒しになりますが、(「国家の政治的意志を最終的に決定する権威と権限を誰が掌中にしているのか」が「主権論」のαでありΩであるとした場合、)「国民主権」を専断的な君主の支配に対する対抗イデオロギーとしてではなく、外国や外国人に対する、(少なくとも、国家の政治的意志の形成と統合と確定に際しての)自国民の優位の要求として捉えることが、おそらく、大方の討議においては妥当である現在、そのような「国民主権」が「ナショナリズム」と親和的であること、少なくとも、その両者の間にはウィトゲンシュタインの言う意味での「家族的類似性」が看取できることは明らかだと思います。そして、ゲルナーの上記の認識はこの経緯をもサポートしているとも。





蓋し、現下の、<2011年3月11日午後2時46分>後の<現在>を生きている我々日本国民にとっての「憲法」とは、<憲法>に盛り込まれた、(そのいずれもが日本の歴史と伝統・慣習に鍛えられ精錬された、かつ、国民の法的確信にサポートされた、(1)憲法典やその他の成文法規の諸条項、(2)(3)憲法の概念と憲法の事物の本性、そして、(4)憲法的慣習という四個の諸形態が織り成し編み上げる、よって、そこには間主観性が憑依している)「統治機構・人権・神話」に他ならない。と、そう私は考えるのです。

憲法:
成文・不文の諸規範と論理とが織り成す「規範体系=実定法秩序」としての<憲法>に
盛り込まれ織り込まれた「統治機構・人権・神話」を内容とするルール若しくは物語



而して、上記の如き「憲法」理解は、その論者の属する流派を問わず、世界の現代の法哲学の地平においては、満更荒唐無稽のものではないと信じますが、このような「憲法の概念」からは(正確に言えば、「憲法の概念の概念」としてのメタ言語レベルの憲法の意味内容である<憲法>の理解からは)、天皇制こそ近代の「主権国家=国民国家」「国民国家=民族国家」の正当性と正統性の核心である以上、日本の憲法において「天皇制」は(換言すれば、それは究極の所「天壌無窮、皇孫統べる豊葦原瑞穂之国」の<政治的神話>とその<政治的神話>を支える諸制度の重層的な観念表象なのでしょうけれども、その「天皇制」は、)必須の内容である。否、「天皇制:天皇と皇室を巡る諸制度とイデオロギー」は日本の憲法の本質・醍醐である。そう私は考えています。

天皇制は、(手垢のついた社会思想としての所謂「国民主権」とは違った観点から、それこそが「憲法の基盤」と言える、そのような)憲法の基盤たる「国民の法的確信」にサポートされている、この社会の現行の憲法規範の意味内容の中軸、すなわち、この国の実定法秩序の中核であるとも。

ということで、蛇足かもしれませんが、
次に「国民主権」の意味について整理しておきます。






<続く>



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