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海馬之斬鉄剣:朝日新聞の素人憲法論を一刀両断――改憲のための改憲、所謂「改憲の自己目的化」は立憲主義と矛盾するか(下)

2017年10月31日 15時18分26秒 | 日々感じたこととか

 

◆原理としての立憲主義――あるいは、「憲法」という言葉の意味
所謂「立憲主義」なるものは――実は、「立憲主義:constitutionalism」自体、「民主主義:democracy」や「市民社会:civil society」、または、「保守―リベラル:conservatism ― liberalism」に負けず劣らず、時代とともに語義が変遷を重ね、かつ、それを用いる諸々の東西南北、上下左右の各流派によっては真逆の指示対象や表象対象をあてがわれる、名うての多義的な言葉なのですけれども(★)――、現行の占領憲法の解釈の直接の指針にはならない。なぜならば、それは<憲法>の「原理」にすぎないから。何をわたしは言いたいのか。

ここで、例えば、(A)日本の占領憲法や米国のアメリカ合衆国憲法などのそのドキュメント自体に「憲法」と明記されたテクストを「憲法典:a constitution, a constitutional code」あるいは「憲法」と表記することにして、他方、この(A)「憲法」に加えて、(B1)書かれざる憲法上の慣例(constitutional convention)、ならびに、(B2)日常用語としての「憲法」という概念から、漸次、演繹・帰納される「憲法の事物の本性:nature of things concerning constitution」を包摂するところの、ある国の実定法秩序の基盤たる、(B)「体系としての実質的意味の憲法:a whole system of all the rules of constitutional law and constitutional convention」を<憲法>と表記するとすれば、それをどのような語義で用いるにせよ、所謂「立憲主義」なるものは<憲法>の抽象度の事象を表象認識する「原理」ではあっても、例えば、個別日本の占領憲法という「憲法」の具体的な規範意味の内容を理解・解釈する指針などではないのです

蓋し、例えば、安全保障法制の合憲違憲の判定や占領憲法53条[臨時国会の召集]の具体的な法意の解明を「立憲主義」に期待するのは「立憲主義」に対する過大なクレームであり(⬅そう、実は、引っ込み思案で後輩にもビビりの渡辺麻友さんに「AKB48の16期生とチーム8の若手全員を6班くらいに分けて食事に連れていってください」というのとパラレルなくらい、鴨!)、「立憲主義」に対する贔屓の引き倒しの類いのことであろうと思います。

而して、極論すれば、それは――所謂「中世的立憲主義:constitutionalism in medieval conceptions」と対比される「近代立憲主義:modern constitutionalism」に限定した場合には、――<憲法>の統治機構に関わる主要な領域は、成文であるか不成文であるかは問わないけれども、国民・臣民の誰もが認識可能で確認可能な日常言語のテクスト形式の「憲法」でもって公共的の言説空間に公開されるべきだ、加之、国家非常時の際はもちろん除くとしても、または、敵対する諸外国のメンバーやエージェント、および、無国籍者に対してはその限りではないけれども、すべからく、国家の権力の行使はそのような「憲法」に則って行うべきだという主張。すなわち、「立憲主義」とは、元来、近代的意味の憲法を建設する作業の<足場>であってその建設物(≒憲法自体)には含まれない。換言すれば、「立憲主義」とは「憲法典」制定の要請、ならびに、その「憲法」のテクストに則った権力機構の構築および権力行使の政治思想的な主張に他ならないのではありますまいか、ありますまいか。如何。

よって、繰り返しになりますけれども、また、このブログでも度々述べてきたことですが、そんな政治思想的の主張にすぎない「立憲主義」の四文字が、――原理と憲法典各条項との言語の抽象度レベルの差異を鑑みれば、なんらかの、そして、何段階かの中間的な抽象度の媒介項が設定されない限り、占領憲法にせよアメリカ合衆国憲法にせよ、英国の憲法にせよ、――「憲法」やある国のある時代の<憲法>の規範意味を理解し解釈する直接の指針になどなりえないことは自明でしょう。

ましてや、現下、日本でリベラル派が唱えているのは極めて戦後日本に特殊な内容の「立憲主義」なるもの。それは、そう、芦別信喜さんと樋口陽一さん以降顕著になった、そして、おそらく、上で引用させていただいた高見さんや蟻川さんも念頭に置いておられるだろう「地球市民的の立憲主義」(≒「立憲民主主義:liberal democracy in Japanese style」)とも評するべき代物。そう、それは、乃木坂46の白石麻衣さんじゃなかった、NMB48の白間美瑠さんでもなかった、白黒はっきり言えば、――現在、その国の研究者コミュニティ単位では日本だけで唱えられている、日本の――リベラル派の唱える「立憲主義」。そんな、日本の「戦後の風土病的な立憲主義」が占領憲法の解釈の直接の指針などには金輪際なりえない。それに導かれて現行の占領憲法96条[改正条項]の規範意味が理解できることは断じてありえない。と、そう、わたしは確信しています。


★註:「立憲主義」の語義――「立憲主義」は七色仮面!
近代の国民国家成立以降の現在、「立憲主義:Constitutionalism」という言葉には概略次の4個の意味があると思います。

▼「立憲主義」の4個の意味
(a)所謂「基本的人権」なるものを前提とする「権利の保障」と
 「権力の分立」を要請する主張
(≒近代立憲主義)

(b)所謂「基本的人権」なるものを前提としない、しかし、
 なんらかの普遍的価値を想定した「権利の保障」と「正規の法:regular law」
 に沿った権力行使を要請する主張
(≒イギリス型の立憲主義。cf. この(b)は、近時ドイツ判例理論の
 所謂「三段階論」とも思想的にはともかくも、下記(c)とともに
 法理論的には親和性がある、鴨)

(c)所謂「基本的人権」なるものを前提としない、しかし、

 なんらかのルールで決まった権利を、かつ、社会の少数派の行動の
 自由を社会の多数派から守るための統治の仕組みを要請する主張
(日本型ではない世界標準のリベラル・デモクラシー型の立憲主義)

(d)統治機構が「憲法」や慣習に従い構成され、
 権力の行使が「憲法」や慣習に則って行われることを要請する主張
(古典的立憲主義・日本のリベラル派の言う➡「外見的立憲主義」)

これらの「立憲主義」の中で、(c)が世界的にリベラル派の、(b)が保守派が念頭に置いている「立憲主義」と言えるかもしれませんが、しかし、日本のリベラル派が想定している「立憲主義」は(c)とは似て非なるものだと思います。

尚、日本では、「古典的立憲主義」として(b)の英国流の立憲主義をそこに含め、逆に、「悪法も法なり」の悪しき法治主義に立つものとしてときに軽蔑をもって語られる旧ドイツ流の(d)の「外見的立憲主義」とその「古典的立憲主義」を区別する用語法が一般的かもしれません。けれども、本稿では憲法によって守護されるべき権利の内容と根拠に焦点をあてており上の如く分類しています。

・立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞(上)(下) 
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11767497807.html
 
 
 

 

◆立憲主義は憲法改正の制約要因ではない
本稿の帰結を先に記しておきます。而して、それは「改憲のための改憲、所謂「改憲の自己目的化」も、寧ろ、あるタイプの中庸を得た「立憲主義」とは矛盾しない場合もありうる」。と、わたしはそう考えているということです。而して、その理路の順路は奈辺。

簡単な話です。朝日新聞の社説子が日本のすべての憲法研究者を総ざらいして露払い太刀持ちに雇って、もって、以下のように力説したとしても、すなわち、

▽朝日新聞渾身の「立憲主義」称揚的言説(KABU代筆)
近代憲法の――少なくとも、OECDに加盟する先進国のほとんどの国の憲法の――根本的の原理である「立憲主義」からは、――それは、最高法規たる憲法に最高度の法的安定性を求めているはずだから――、
1)憲法典の改正には改正の必要性が不可欠であり、
2)憲法典を改正するとしても、権力を強化する改正/人権保障を
 狭める方向での改正は許されない。
3)いずれにせよ、政権を担っている権力側はもちろん、憲法典の
 改正にコミットすることになる与野党の国会議員(law makers)と
 有権者国民も――就中、現行の占領憲法99条で「憲法尊重擁護
 義務」が国務大臣、国会議員等々に課されている日本では特に、
 権力サイドと国会議員は、――日頃の権力行使においても、
 ましてや、憲法改正のプロセスに際しては憲法をないがしろに
 したり/軽んじたり、憲法を粗略に扱ったり、要は、憲法に
 対して不誠実であってはならない。憲法典に対するそのような
 態度は「違憲無効」ではないとしても「非立憲」の所作であり
 「非立憲主義」的の態度なのだから、喝・喝・喝!

と、100万回訴えたとしても。更には、朝日新聞や毎日新聞の社説のみならず、そう、日教組・自治労と岩波書店、NHKとTBS、廣島・長崎や全国の反核兵器カルトや脱原発カルト、そして、千客万来、持ってけドロボー! 野党と連合されるらしいタイプの「市民」の皆さんに沖縄の反日親特定アジア分子もスクラムを組んで、そう、日本のリベラル派が総掛かりでそのように世間や世界に訴えたところで、憲法の改正は粛々と行われうるということです。

 

敷衍します。蓋し、彼等「憲法愛」系リベラル勢力の「立憲主義=水戸黄門の印籠」を翳してなされる満腔の怒りを込めた抗議に関わらず、実際に、

(A)占領憲法96条[改正条項]および憲法改正国民投票法[日本国憲法【占領憲法】の改正手続きに関する法律]に沿って占領憲法の条項の改正、なんなら、占領憲法自体の破棄(➡例えば、①自民党改憲草案なり②旧憲法の新々憲法典としての制定、あるいは、③日本の国柄に適用可能な限りという限度でアメリカ合衆国憲法を継受借用させていただいた上で、原則、不文憲法(unwritten constitution system)に移行するとかもお洒落、鴨。)が行われ、

(K)その改正に沿った権力の行使とこの国の社会統合に実効性が備わっていて、かつ、(B)その「改正憲法」が過半の有権者国民から<憲法>の一斑であるという法的の確信を獲得するのであれば――次項(4)は(B)を裏面から述べた、トートロジーと言えなくもないけれど――、

(4)その憲法改正手続きは、日本の実定法秩序の基盤たる<憲法>からは有効かつ正当な手続きに他ならず、(8)改正憲法もしくは制定された新々憲法もまた日本国の実定法秩序の基盤体系としての<日本国の憲法>の正規の構成要素たる――実効性と妥当性を備えた(with both efficacy and validity)――憲法典に他ならないということなのです。

CHAPTER IX
AMENDMENTS
Article 96. Amendments to this Constitution shall be initiated by the Diet, through a concurring vote of two-thirds or more of all the members of each House and shall thereupon be submitted to the people for ratification, which shall require the affirmative vote of a majority of all votes cast thereon, at a special referendum or at such election as the Diet shall specify.
Amendments when so ratified shall immediately be promulgated by the Emperor in the name of the people, as an integral part of this Constitution.

第9章 改正
第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

 

要は、その決まり手が「上手出し投げ:占領憲法の改正」(狭義の改正)であるか「小手投げ:新々憲法の制定」(広義の改正)であるかどうかは、勝敗の帰趨(実定法秩序の修正の遂行貫徹の認否)において本質的な意味を持たない。蓋し、決まり手の確定などは、それは、左右を問わず憲法研究者やその道の好事家が学的関心から、あるいは、暇潰しにやられればよい類いの――「邪馬台国論争」やら「本能寺の変の黒幕談義」やら「真珠湾≒ローズベルトの罠伝説」等々とパラレルな――私的で趣味的のイシューということです。で、KABUはAKB48チームBの渡辺麻友(まゆゆ:まゆまゆ)さんの卒業コンサートで頭も気持ちも一杯ということもあり、そんな一文にもんならない非生産的な遊びはご遠慮させていただきます。 

>上手出し投げ(⬅狭義の「改正」)?
>小手投げ(⬅広義の「改正≒制定」)?
>いずれにせよ、
>稀勢の里の勝ち(➡現行の占領憲法の変更完了)!

 

 

更に敷衍します。上でも述べましたように、「法律の改正や制定、または、憲法典諸条項の許される範囲での合理的な解釈の変更で問題に対処できるならば改憲は許されず、もし、そのような改憲が行われたとすれば、それは「改正権の乱用」である」とかの「改正制約論」は別にしても、――「立憲主義」を振り翳しての謂わば「改正制約論」は児戯にも等しい戯れ言としても、――憲法改正にはなにがしかの限界があるという「改正限界論」が日本では通説であり圧倒的多数説です。蓋し、「制約論」はある意味「限界論」の亜種、少なくとも、限界論の虎の威を借りた狐か猫とは言える、鴨。

しかし、限界論の城中でも、(ⅰ)改正の限界を画するとされる、憲法の基本原則なるものを越える、あるいは、憲法の自己同一性を損なう改正があったかどうかを誰が認定するのか、(ⅱ)認定したとしてそれでその憲法改正の事実が--政治的には「負け犬の遠吠え」であることは火を見るよりも明らかとして--法的に無効になるのかどうか、という所まで行けば、大方の憲法研究者は口を閉ざす。この経緯を、例えば、リベラル派の赤坂正浩さんは正直にこう述べておられる。

憲法改正権は、成文憲法によって設置された権限として、憲法制定権力とは区別される。この前提から出発した場合、改正権者には【占領憲法96条の改正条項の改正は、就中、「改正のハードル」を下げる方向での改正は許されないとする、清宮四郎大先生や石川健治若先生の如き超有力説もあるにはあるのだけれども、】改正規定の改正権は認められるが、現行憲法の全面改正権、現行憲法の基本原理の変更権は認められないのではないか。・・・しかしいずれにせよ、裁判所による改正内容の事後審査が、事実上はもちろんのこと法的にも【その司法審査をする裁判所の司法審査権限自体がもうすでに変更された憲法から与えられているのだから、】困難だとすれば、【まして況んや、】法理論的な説明のレベルを超えた事実の世界では、憲法改正限界論には改正案への警鐘という役割だけが期待されることになるのだろう(「憲法改正の限界」『ジュリスト』2005年5月1-15日合併号所収, p.25)、と。

つまり、憲法改正の限界論さえも憲法改正に箍を嵌める論理としては限界があるということ。そして、加之、(ⅲ)もし、占領憲法9条なり96条の改正条項の改正が新憲法の制定や法学的な意味の革命だとしても、その認識が現実政治のダイナミックスを制約する<権力の矩としての神通力>を帯びるとは限らないということです。重要なことは、而して、(ⅳ)まして況んや、高見さんも明記されておられるように「憲法」外の原理にすぎない「立憲主義」なるものが、憲法改正の許容範囲を具体的に枠づけことなどは憲法論的には金輪際ありえないのです。

些か、日本ではこれ鬼面人を威す帰結のように受けとられる、鴨。しかし、「憲法の改正」と「憲法の制定」の間に――狭義と広義の憲法改正との間に――本質的な違いを認めない見解は、保守派とリベラル派をまたいでアメリカ憲法史学の現在の最大公約数的なに認識ではないかと思います。

そりゃーそうでしょうとも。現在、法曹界ならびに憲法研究者のコミュニティのみならず、――その帰結に不満な人々を含め――アメリカの有権者国民のほとんどがそれを合憲であると確信しているだろう、所謂「奴隷制」を葬ったアメリカ合衆国憲法修正13及至15条は明らかに憲法違反の改正であった。あるいは、修正14条及び(同修正条項の法意を繰り込んだとされる)修正5条の「平等」の意味について確定していた、所謂「分離すれども平等:separate but equal 」の原則を意味不明な理路で解釈改憲した連邦最高裁判決は紛うかたなき憲法違反の違憲判決(an unconstitutional judgement that violated the constitution itsef)でしょうから。

例えば、イエール大学のブルース・アッカーマン『We the people, volume 1』の「二重の民主制論」は、正に、アメリカ合衆国における「連邦憲法の変遷過程」に関して、「新憲法の制定」「憲法典の改正・修正」、そして、所謂「解釈改憲」の三者に本質的な差違を認めない立場なのだと思います。

ちなみに、「二重の民主制論」とは、(麻)政治過程を、憲法の変更に関わる「憲法政治」と、憲法の枠内で私的・公的な利害の調整が行われる「通常政治」に二分し、(友)前者に関しては、改正条項に則ったフォーマルな改憲手続きと、連邦最高裁や大統領と連邦議会が解釈の変更によって行うインホーマルな改憲手続きも憲法基礎論の観点において差はないーーすなわち、フォーマルとインホーマルなプロセスによって「変更後の憲法が帯びる正統性と正当性」に差はないーーとするアイディアのことです。ちなみに、アメリカでは大統領ひきいるアメリカ政府が持つのは「執行権」であり、「行政権」は連邦政府と連邦議会、さらには、各州政府が分有しているのですけれどもね。同論に関してご興味がおありのようなら、坂口正二郎『立憲主義と民主主義』(日本評論社・2001年2月)のご一読をお薦めします。リベラル派のものですが秀作です。

★註:Bruce Ackerman『We the people, volume 1』(1991)
本書は現在のアメリカにおける「リベラル系憲法基礎論」の一方の主柱。<敵の手の内>を知るためにも便利な一冊、鴨。南北戦争の戦後復興期とFDRのニューディル期、加之、1950年代半ば以降の「市民的権利:civil rights」確立運動期におけるアメリカの政治的規範枠組みの変遷を扱うーーよって、あの破廉恥極まる悪夢の「ウォーレンコート」がやらかしたトンデモ解釈改憲を俎上にのせて擁護するーー続編(volume 2-3, 1991-2014)も「リベラル派による必死の言い訳」が敵ながら涙ぐましくて笑える楽しい労作です。

 

 

蛇足。ここで述べた主張。すなわち、ある憲法典の改正に際して、――現行の憲法典との同一性をキープするタイプの謂わば「狭義の改正」だけでなく、最高法規の一斑としての実効性と妥当性を備え、その当該国家社会の文化・伝統・歴史に基礎づけられた社会統合のイデオロギーが憑依している限り、現行の憲法との同一性の維持をあやうくするタイプの変更をも含む謂わば「広義の改正」の意味をも、例えば、個別日本における占領憲法96条にある「改正:amendment」に読み込むとき――「憲法改正にはその改正内容においても改正の要否の面でも限界は存在しない」という私見に対しては、かくの如き批判が寄せられる、鴨。すなわち、

刑法199条や204条や235条があるにも関わらず、痛ましい殺人事件や卑劣で陰惨な傷害事件が報道されない日はないではありませんか。そして、コンビニや書店のオーナーさんにとって万引きの横行は冗談抜きに経営を危うくする脅威ですらあると聞きます。つまり、違法な行為が存在していることと、――それを違法と判定し、違法な行為を行った者には、その違法性の程度と性質、および、社会的に寄せられる非難の程度と性質に比例した、かつ、それがあらかじめ違法行為の法的要件に割り当てている法的効果としての制裁のメニューから裁判所たる裁判官が刑を言い渡すための裁判規範であり、間接的にはこの社会のひとびとの行為規範の一斑ともなる――刑法各条の示唆する法規範が存在していることは矛盾しないのではありませんか、と。これこそ、カント哲学に謂われる「存在と当為」「事実と価値」「自然法則と社会規範」、すなわち、「Sein und Sollen」の違いに起因する鉄板焼じゃなかった鉄板の法理なのですよ、と。

ならば、違憲の安保法制が施行されようが、占領憲法9条が違憲もしくは改正権の乱用としかいえない改正手続きによって変更されたとしても、また、安倍総理が憲法尊重擁護義務に反して「憲法をないがしろにしたり/軽んじたり、憲法を粗略に扱ったり、要は、憲法に対して不誠実であった」としても、それらは違憲な、もしくは、非立憲の状態が存在しているだけのことで、「巨人軍が永久に不滅」かどうか最近怪しくなってきていますが、「立憲主義」は不滅だし違憲なものはイケン、非立憲なものはアカンのです、ちなみに、AKB48の渡辺麻友(まゆゆ:まゆまゆ)さんの嫌いなものは野菜と虫、好きなものはお肉とぬいぐるみなんですよ、とも。

CHAPTER X
SUPREME LAW

Article 99. The Emperor or the Regent as well as Ministers of State, members of the Diet, judges, and all other public officials have the obligation to respect and uphold this Constitution.

第10章 最高法規

99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 

おいおい、誰に向かって鉄板焼やっとんねん。海馬之玄関ブログ相手にカント哲学講釈するてーのは、NMB48の本郷柚巴ちゃん並のえー度胸か、HKT48の田中美久ちゃん並の世間知らず、あるいは、その両方であったHKT48/STU48の指原莉乃現支配人クラスの所業やないか? と、仮想鉄板焼にお答えします。

畢竟、殺人事件やコンビニ強盗や振り込め詐偽の横行と無関係に規範の世界で「人を殺めるべからず」とか「他人のものを盗るな」「高齢者を騙すな」という規範命題が成立しているからこそ、事実と規範の見かけ上の齟齬にもかかわらず、その当該の「人を殺めるべからず」等々の命題は効力を持つのです。

而して、殺人事件や傷害事件が頻発しようが、街の老舗のスーパーや書店さんが万引き(窃盗)の横行に堪えかねて店仕舞いされようが、「殺すな/傷つけるな/盗むな:Never kill, hurt, either steal」という規範を否定する方はあまりおられないでしょう。繰り返しますけれども、違法行為の横行に関わらず当該の法規範が存在しているのは、その法規範が規範としての効力を維持しているからなのです

実際、逃げおおせた被疑者や脱走する被告人・受刑者はいるにはいるとしても、一度、司直の手に委ねられたのならばその彼なり彼女なりは法的な裁きを受けなければなりません。加之、実に「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」かもしれないけれど、そして、現に、法の網の目をくぐる輩はいるだろうにしても、日本の普通のほとんどの保守系の市民は--ちなみに政治学研究者の三浦瑠麗さんが夙に述べておられる如く、少なくとも投票行動に関する限り潜在的にせよ「日本国民・有権者の7割~8割は保守派」ということなので、ここは単にプロ市民とかを除く「日本の普通の市民」でもいいのかしらね(笑)--「天網恢恢疎にして漏らさずと」自分に言い聞かせつつ、上記、法三章のルールを否定も軽視もしていないのではありますまいか、多分。

他方、現実に、所謂「安全保障法制」が施行されても、そして、いよいよ占領憲法9条が改正されたとしても、――まして況んや、現在に至る歴代の政府解釈からもそう変更したとしても合憲とされてきた、所謂「専守防衛」や所謂「非核三原則」(⬅現状でも国際法的には「非核2.5原則」です、きっぱり!)が放棄され、敵基地先制核攻撃上等が常套になっても――、別に逃げも隠れもされていないはずなのに、安倍総理を始め与党幹部に司直の手がのびたとは聞きませんし、これからのびる気配もない(笑)。加之、自衛隊はいまや安全保障法制に基づき同盟国との協力体制を日々深化させてくれているらしい(⬅頼もしい❗)。そして、なにより、今や、有権者国民の大多数は「安全保障法制」が日本の正規の法制であると認識しているだろうし、要は、それが法であることに関する「法的確信」が広く分厚くこの社会を覆っている。

畢竟、安全保障法制は法的効力(実効性と妥当性)を帯び獲得している。この点が鉄板焼に乗った「違法なる状態の存在」のケースとは決定的に異なっているのです。蓋し、占領憲法9条の改正に際しても事態はこれとパラレルに推移するだろう。と、わたしはそう予想しています。蛇足終わり。

 

 

 

◆振り込め詐偽としての「高度なる法的安定性の要請」
◆酸っぱい葡萄としての「憲法に対する不誠実な態度」

朝日新聞の与力の高見さんによれば、立憲主義から憲法の最高法規性が基礎づけられ、その最高法規性は憲法典に対する高度の法的安定性を要請するらしい。蓋し、誰しもが不細工と感じるだろう「親亀がこけたら小亀もこける」情景が当然に予想されるのなら、そんな事態を避けるべく、――確かに、一番上位の憲法の条項が変われば下位諸階層の様々な法規も右往左往せざるをえないだろうし、――憲法典の条項をコロコロ変えるのは賢くもないだろう。なにより beautiful ではないでしょう。

而して、この程度のことを朝日新聞や高見さんが仰っておられるとすれば、――いくら、「内政外交とも、日本は、朝日新聞の主張と逆のことをやっていればまず間違いはない」という経験則がこれまでのところかなり正しかったとしても、いくら――朝日新聞の主張であろうと反対するには及ばないと思います。問題は、よって、次の4点なの、鴨。すなわち、

(▼渡辺麻友)法的安定性は法がその具現を期する唯一の価値でも最上位の価値でもない
(渡▼辺麻友)憲法の原理は立憲主義だけではないし立憲主義が最上位の原理でもない
(渡辺▼麻友)立憲主義の要請する法的安定性は憲法典の条項の形式ですでに達成されている
(渡辺麻▼友)立憲主義の法的安定性の要請は――「憲法」が制定されて以降の時空では――憲法の最高法規性を経由するのではなく、NMB48の安田桃寧ちゃんじゃなかった、寧ろ、憲法的権利の相対的な絶対性(⬅なんじゃそりゃー!)を経て憲法改正の熟慮要因となる、鴨と

 

 

憲法を含む法一般が希求するものは、ラートブルフ『法哲学』『法哲学入門』『法哲学の根本問題』を紐解くまでもなく、それは、法的安定性と具体的妥当性のバランスのとれた具現でありましょう。法的安定性は法がその具現を期する唯一の価値ではないということ。

加之、あの陰惨かつ滑稽で空虚な騒乱に過ぎなかったフランスの田舎悲喜劇(1789-1799-1814)を眺めながら、ゲーテが洞察した「人間存在は正義なるものがなくとも生きていけるけれど、秩序なきところで生きることはできないものだ」というシンプルな事実を反芻するとき。あるいは、『論語―顔淵第12』の問答を想起するとき、

子貢問政。子曰。足食。足兵。民信之矣。
子貢曰。必不得已而去。於斯三者何先。
曰。去兵。子貢曰。必不得已而去。於斯二者何先。
曰。去食。自古皆有死。民無信不立。

子貢政を問ふ。子曰はく、食を足し、兵を足し、民之を信ず。
子貢曰はく、必ず已むことを得ずして去てば、この三者に於いて何をか先にせん。
曰はく、兵を去てん。子貢曰はく、必ず已むことを得ずして去てば、この二者に於いて何をか先にせん。
曰はく、食を去てん。古より皆死あり。民信なくば立たず。

法価値の1つとしての「法的安定性」は単なる「予測可能性」や「社会の鼓腹撃壌状態」の具現ではなく、その当該の国家社会の秩序の維持確保、ならびに、「国民国家=主権国家」たる当該の民族国家への国民と善良なる外国人たる市民の社会統合をも含むものだと思います。要は、有権者国民が比較考量した結果、法的安定性の要請よりも――「汚物溜め」とまでは言わないけれど「売れないチンドン屋さんの衣装」よりはみっともない――占領憲法をなんでもいいから変えることで、この国家社会の社会統合のパフォーマンスを向上させることができるだろうし、その方が改憲しないよりもコスパが良いと判断するような場面では、法的安定性の価値は相対的に低くならざるをえないということです。

 ・安全保障関連法案を巡る論評雑感--憲法学者の違憲表明の法哲学
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c3f83e0ee381182fb5b90b0e5f0f7f0a
 
・まずは「加憲」でいいのではないですか
 ――改憲派こそ「憲法」に期待しすぎるのやめませよう
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9333930d645cf9bb127ad33d72915dd7

 

 

近代的意味の憲法は、歴史的には――個々の国家を越える「自由と平等」という人類に普遍的な価値を標榜する余興も幕間に演じつつ――国民国家/民族国家の構築、国民国家/民族国家の確立のメルクマール。それは国民国家/民族国家の実定法秩序の形成の一斑を担ったということ。

ならば、再度述べますけれども、近代立憲主義とは「憲法典」の、すなわち、国民国家/民族国家の実定法秩序建設のための足場にすぎない。それは――少なくとも、「憲法」の解釈指針としてワーク可能な抽象度の内容は――「憲法」の条項にすでにインカーネートしているのです。

ゆえに、「憲法」や<憲法>が竣工して以降は、「憲法は権力を縛るものである」とかなんとかの高い抽象度形式の立憲主義のアイデアは、憲法の研究者や好事家が――例えば、硬性憲法の存在理由とか憲法裁判所の存在意義、司法審査権の由来等々、――実定法秩序をより良くより整合的に理解するためのツールアイテムに他なりません。そう、立憲主義は、年表や地図帳、虫眼鏡や老眼鏡の仲間なのです。よって、立憲主義から高度の法的安定性を導くのは振り込め詐偽と同様な手口、鴨。立憲主義をディスっているのではありませんよ。

而して、わたしは何を言いたいのか。
はい、それは、

近代的意味の憲法は国民国家/民族国家の実定法秩序の一斑なのだから、――まして、その「憲法」竣工後は!――「憲法」まして<憲法>の原理は立憲主義だけではさらさらないということ。民主主義、国民主権、民族自決、民族の文化・伝統の恒常的な再構築、安全保障、各国なりの憲法的な権利の保障、個別アメリカにおいては「キリスト教の各会派がその自派のコミュニティを形成しつつ、相互に干渉しない社会の擁護」であるとか、なにより、個別日本では「皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」のイデオロギーの称揚も<憲法>のみならず「憲法」の構成と解釈の原理であろうし、それらが、立憲主義に劣るいわれは全くなかろうということです。

もし、リベラル派の論者が、「個人の尊厳を核とする多様な生き方をすべての市民に――可能な限り、外国籍や無国籍の市民にも――保障する、そんなタイプの憲法の基盤である立憲主義の原理は、個々の国を越えて妥当する(≒「そりゃー守らんとあかんわなぁ」と人々に思ってもらえる)のだから、国によって妥当性の度合いが異なる他の諸々の原理よりも上位の原理なのです(≒原理と原理が衝突する場合に優先されるのです)」とか抗弁してきたら、はい、次の1センテンスで秒殺。なにより、そんな地球市民的というか文化帝国主義的の「立憲主義」なんざ、占領憲法にもアメリカ合衆国憲法にも一度も草鞋さえぬいだことありませんから。

>特別法は一般法を破る
 Special law is to break the general law.

 

 

 

蓋し、現在、文化帝国主義の巣窟EUの解体も年単位の「秒読み」(笑)に入り、日本では平成の御代もあと実質1年となりつつある現在、立憲主義と法的安定性をつなぐ唯一の回路は、――実際には、「憲法」の権利条項の解釈を通してになるのですけれども――国家権力に市民の私事への容喙を抑制することを通して、反射的にせよ、社会の少数者の憲法的の権利を保障する、もって、その国家社会に多様性と自分と異質な他者に対する相互の寛容さをプロモートしメンテナンスする、権利条項の解釈指針としての立憲主義の機能というもの、鴨。

詳細は下記拙稿をご参照いただきたいのですけれども、わたしは、その立憲主義の機能は、謂わば「立憲主義・卒業コンサート」のセットリストの中で、唯一今でも「お金を払っても見聞きするに値する楽曲」であろうと思います。

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
  あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
  http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79
 
・憲法96条--改正条項--の改正は
 立憲主義に反する「法学的意味の革命」か(1)~(6)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7579ec5cfcad9667b7e71913d2b726e5

もっとも、この楽曲においても立憲主義が憲法改正の決定的な要因になることはないし、アトムなどではない固有の文化と伝統が憑依する固有名詞の有権者国民が形成する現実の各国民国家/民族国家において、またまた、NMB48の白間さんじゃなかった、白黒はっきり言えば、その「私事」の範囲確定自体に、文化と伝統による線引きが不可避なこと、――個別日本での、皇室の尊崇、公立学校の式典における国旗・国歌の尊重、九段の杜・各護国神社の参拝、神宮(=固有名詞としての「神宮」=伊勢神宮!)参拝と赤福と内宮参道で味噌汁をいただく❗ 等々のチェック項目によって、憲法訴訟によって線引きされる――多様性も寛容さにも一定程度の限界があることは当然でしょうけれども。

畢竟、卒業コンサートの立憲主義は、憲法的権利の相対的な国会の立法する法規範に対する優位性を後見するけれども、その当該の「憲法」の権利条項が改正されるか否かに関して立憲主義が熟慮要因となることはあっても、改正禁止なり停止の要因になることはありえないでしょう。

 

 

所謂「安全保障法制」の成立前後のこと。同法案、ならびに、その前哨となった「集団的自衛権」を巡るリベラル派からの「立憲主義を守れ!」批判が喧しい頃、ある行政法の大家がこのような感想を専門誌に投稿された。

政府が従来の憲法解釈を変更するのは立憲主義に反するという理屈は、それだけではあまりにも粗雑・・・従来の法制度の「運用」で対処できない場合には、あえて法改正を求めるのではなく、従来の法規の「解釈・運用」によって済ませるという行政手法は、決して珍しくない。そのすべてを「違法」と決めつけることは、ほとんど不可能・・・立憲主義は特定の政策に反対するために使う概念でもない。
(藤田宙靖「自治研究」2016年2月号所収)


ことほど左様に、「立憲主義」を援用しての朝日新聞やその与力衆の言説は、現行の占領憲法のある条項の解釈に関して、単に、安倍政権がリベラル派のそれとは異なる解釈をしていることを、

>立憲主義の原理からして決して許されない
>憲法の尊重擁護義務に反している
>憲法に対して不誠実である

とかとか、オタクなに様ものの
上から目線で、「おまえのかあちゃんでーべそ!」
言っているだけのものではないか。

そう、それは「酸っぱい葡萄」の類い。

そう、わたしは考えます。

 

以上

 


AKB48チームBの渡辺麻友さんの
卒業コンサートの日に記す

 

▼よし! 「渡辺麻友卒業コンサート~みんなの夢が叶いますように~」
 /チケット先行発売のご案内
 https://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-12315598400.html

▼いよいよ➡「渡辺麻友卒業コンサート~みんなの夢が叶いますように~」

 /チケット一般発売のご案内
 https://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-12321331137.html

▼英文読解 one パラ道場:AKB48 渡辺麻友の最後の総選挙2017スピーチ
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c55e09a9c257656371d48e182ff95c2b

 

  

 

AKB48「ハロウィン・ナイト」・・まゆゆ、いままでありがとう~! のイメージ

 

 



 

 


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