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アーカイブ☆辺見庸は変だよう♪

2006年12月21日 12時37分59秒 | 書評のコーナー


■はじめに
私は、10代の後半からの10年余り、吉本隆明と古田武彦の著述をわりと真剣に読んだ。そして、現在、私はこの両者の思想の内容と形式に対して強い反感を持つに至っている。

要は、素人に対しては専門知識の壮大な体系で臨み、玄人との議論の際にはあたかも「健全な常識を持つ市民の感性」でもって時間切れ引分を狙う(あくまでも素人の観客の目にとっての「時間切れ引分」であり、その実情はお話しにもならない完封負けなのだけれど。)、その姿勢のサモシサと文芸評論のスタイルでもって真理を語るその思考スタイルのいい加減さ、及び、その思想内容の驚くほどの貧困さに私は嫌悪感さえ感じる。彼等の文芸評論的な文章スタイルには真偽の厳しい判定から逃れたいという潜在意識を私は読み取る。

ゆえに、私は彼等の作品に専門家に対する知的コンプレックスと素人に対する倣岸不遜。而して、「悪しき日本の私小説文化」をその思想的な甘えを感じるのであり、彼等が大向こうを唸らせるような強く激しく鋭い言辞を吐くたびに論争での敗北や自己の無知を暴露されることを恐怖する小心者の心の叫びを読み取るのだ。


■辺見庸さんの文章から何を読み取るか
最近、久し振りに吉本や古田と同じタイプのものを感じた。辺見庸さんの文章にである。私のサイト、海馬之玄関のメインテーマの一つは、日本の社会思想と国語教育の吟味である。私には辺見さんの思想が大東亜戦争後の日本の社会思想の駄目さ加減を明らかにし、日本社会を再生するための社会思想を抽出するために恰好の材料のように思われた。そして、その分析と抽出を通して、日本人と日本市民の子供達に与えるべき新しい国語教育がどんな内容のものであるべきか、具体的にはどんな文章を書ける/話せる能力の養成であるべきか(少なくとも、どんな国語教育ではあってはならないか、)という点に関してもヒントが得られるのではないかと感じられた。

而して、以下、辺見さんの文章を吟味することで、大東亜戦争後を挟む日本の社会思想の脆弱さと国語教育がその機能として養成を目指す文章作成能力が如何なるものかにつき考えてみたい。題材は『サンデー毎日』(2002年11月3日号)所収の「反時代のパンセ 歴史と公正(4)」である。

<以下引用開始>
私は「からす」と題された絵を見ていた。(中略)私は長崎原爆資料館にいた。原爆は当時の在日コリアンたちの頭上にも、おちゃけたのだった。その屍の多くが放置され、からすに啄まれた。生きたコリアンだけでなく、原爆で死んだコリアンまで日本人は差別したといわれる。(中略)歴史とはかくも不公正である。祖国が植民地とされ、皇民化政策にさらされ、日本名を名乗らされ、言語を奪われ、強制連行され、重労働を強いられ、そこここで人種差別され、故国を見ないままピカドンを落とされ、屍まで差別され、あげくからすに食われる。(中略)

立場を移し替えて考えてみること。これほど大事な作業仮説・思考工程はない。試みに、拉致被害者の位置にみずからを置いてみる。その家族の立場に立つ。それだけでない、一連の出来事を見つめる北朝鮮や韓国の人々、在日コリアンの身になって今日の事態を眺めてみる。難しいけれども、何もしないよりはずいぶんいい。少なくとも、まなざしが多角化する。他者を一方的に指弾していた思考の矢印が、反転してみずからに向かってきたりもする。(中略)

金(KABU註:金正日)政権は遅かれ早かれ崩壊するのではないか。それはいたしかたあるまい。しかし、それと同時に日朝現代史の暗部、とりわけ日本にとって都合のわるい部分がなかったことにされてはならない。と、私がいくら口ごもっても、現状はすでに「あったことはなかった」風景に満ちているのである。連綿たる過去を切って捨てた薄っぺらい偏頗ないまという時。うそ寒いそこに生きる心は、言葉の真の意味で、自由ではありえない。(中略)

稲佐山に行くロープウェイのなかで考えた。日本政府は本気で北朝鮮との国交を考えるならば、有事法制を捨てるべきである。日本にとっての有事とは朝鮮有事を指す、というのが常識であった。北朝鮮の軟化でこの公算はますます小さくなっている。だとしたら、有事法制は要らないというのが、合理的判断というものであろう。(中略)

在京韓国メディアの代表らが日本メディアのあまりにも感情的な拉致報道を批判したそうだ。「韓国民の反発も招いている」、と。歴史への深いまなざしを欠いた、一大感情報道は欧米メディアからも不信をかっている。長崎港近くのホテルに夜半に電話が入った。友人の在日コリアンからだ。子どもが就職試験を受けるのだけれども、拉致問題への考え方を問われたらどうしましょう、という。えひめ丸沈没事件では米国に対してさほどに怒らなかった日本人が、なぜ北朝鮮にはこんなにも怒り狂うのでしょう。朝鮮蔑視がいままた蘇りつつあるのではないでしょうか。押し殺したような声だった。私の答えを聴かぬまま、電話は切れた。まんじりともせず、私は夜を明かした。<以上引用終り>



■辺見庸さんの文章の問題点
辺見庸さんの文章の可笑しさは、個人の思い込みや個人の体験から極めて恣意的に一般的な状況認識や原則を導き出す姿勢にある。そして、文芸評論そのものの文学的表現の多用や他者がその真偽を云々できない個人的な情報入手の舞台設定がそのレトリックを構成する。私はこのような文体こそ日本の悪しき国語教育のタマモノだと思う。その知的香り高さや偶像破壊的な知的言動の躍動感と裏腹に、それは、他者からの批判を受付けない文体と思うから。

要は、それは自己と同じ価値観を抱く者同士でしかなりたたない、傷を舐めあうような根性無しのコミュニケションのスタイルではないか。それは、異なる思想を持つ他者と競争したり協働で何がしかの知的作業(外交政策の立案などはその最たるものであろう。)を行うには圧倒的に不向きな文章であると私は思う。以下、文学的表現の多用、情報入手の極私的な舞台設定、個人的な思い込みから一般的な状況認識と政策原則の帰納の順でコメントする。

●文学表現の多用
「まなざしが多角化する」
「私がいくら口ごもっても」
「「あったことはなかった」風景」
「連綿たる過去を切って捨てた薄っぺらい偏頗ないまという時」
「うそ寒いそこに生きる心」
「歴史への深いまなざしを欠いた」
「こんなにも怒り狂う」
「押し殺したような声だった」
「まんじりともせず」

●情報入手の極私的な舞台設定
「私は「からす」と題された絵を見ていた」
「在京韓国メディアの代表らが日本メディアのあまりにも感情的な拉致報道を批判したそうだ」
「歴史への深いまなざしを欠いた、一大感情報道は欧米メディアからも不信をかっている」
「長崎港近くのホテルに夜半に電話が入った。友人の在日コリアンからだ」

●個人的な思い込みから一般的な状況認識と政策原則の帰納
①からすが朝鮮人の被爆者の方の屍を啄ばんだことが事実であったとしても(日本人の屍はからすにあまり啄ばまれなかったとしても、)そこから、皇民化政策や徴用動員が何故にアプリオリに批判されるのか? 当時、朝鮮半島は日本の領土であり朝鮮人は「日本人」であった。皇民化政策や徴用動員はその時点では明らかに国際的に全く合法な行為であったのにである。

②「立場を移し替えて考えてみること。これほど大事な作業仮説・思考工程はない」の主張には私も同意する。しかし、移し替える立場の列挙範囲が何故、「拉致被害者」「拉致被害者の家族」、「一連の出来事を見つめる北朝鮮や韓国の人々」、「在日コリアン」に限定されるのか? アメリカやヨーロッパの人々は何故登場しないのか? 否、戦後一貫して北朝鮮政権を信じてきた総連系の在日の人々の祖国に裏切られた気持ちや、北朝鮮を一貫して擁護してきた朝日新聞や毎日新聞などのマスコミ及び社民党(社会党)や共産党の購読者や支持者の戸惑い動揺する気持ちを何故に理解しようとはしないのか?

③「現状はすでに「あったことはなかった」風景に満ちている」と考える根拠は何か? 教科書検定の作業でも明らかなように、ありもしなかった従軍慰安婦や確実にあった韓国の近代化への日本の貢献を歯牙にもかけず、「連綿たる過去を切って捨てた薄っぺらい偏頗ないまという時。うそ寒いそこに生きる心は、言葉の真の意味で、自由ではありえない」などの文学的表現で、自分の日朝&日韓関係史の認識が無前提的に正しいと何故言えるのか? 辺見さん、貴方こそ、「連綿たる過去を切って捨てた薄っぺらい偏頗ないまという時」を生きているのではないか。日本の歴史を日本の文化のポジティブな側面を頭から見ようともしない貴殿の姿勢こそ「うそ寒いそこに生きる心」であり「言葉の真の意味で、自由ではありえない」のではないか?

④「日本にとっての有事とは朝鮮有事を指す、というのが常識であった。北朝鮮の軟化でこの公算はますます小さくなっている。だとしたら、有事法制は要らないというのが、合理的判断というものであろう」こんな噴飯ものの国際政治論は初めて読むものである。少なくともこの見解を「常識」であり「合理的」とは私は思わない。是非とも根拠を示して欲しいものである。ちなみに、現在の国際関係の秩序では、平和とは不可分のものであり地球の裏側の有事も朝鮮半島の有事もともに日本にとっての有事である(国際連合の平和不可分論)。更に、周辺事態法やテロ対策特別措置法さえも有事を朝鮮有事に限定してはいないではないか。

⑤「在京韓国メディアの代表らが日本メディアのあまりにも感情的な拉致報道を批判した」、「歴史への深いまなざしを欠いた、一大感情報道は欧米メディアからも不信をかっている」からなんだと言うのか? それらが事実としても(到底、それらのメディアの多数意見とは思えないけれど、)辺見さん、貴方が主張したいことの何がサポートされたと言うのか?

⑥長崎港近くのホテルに電話してきた貴方の友人の在日コリアンが、「えひめ丸沈没事件では米国に対してさほどに怒らなかった日本人が、なぜ北朝鮮にはこんなにも怒り狂うのでしょう」と本当に言ったとしても、そのことで辺見さん、貴方が主張したいことの何がサポートされたと言うのか?


<出典>平成14年11月04日, 海馬之玄関本家サイト


<追加作成後記>
辺見庸さんが世界と思想を捉える際の氏独特の姿勢について考えた。
平成15年の紀元節の日。本稿と併せて是非ご一読をたまわれば嬉しいと思います。
下記にリンク設定しています。

・映画を見るように世界を見る辺見庸
 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/CY0209.htm#cylabel15 ⬅リンク切れです😢

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1 コメント

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辺見庸の文章 (みずほ)
2007-11-14 14:40:51
要は、あなたに文学的感性が欠如しているということに尽きるのではないでしょうか。
辺見庸は通信社の記者として中国やベトナム、米国など日本人としては数多くの国に滞在し、戦争や民族紛争を取材者として数多く経験しています。でもまあ、それだって狭い個人の経験といえばそうに違いありません。しかしあなたのように凝り固まった国粋主義者の視点から「他からの批判を受け付けない」と言われてもねぇ。辺見庸は最新作の「たんば色の覚書」で、光市事件の弁護人を語る倫理の中に「あさましさを超えた地点」を見ています。これはあの裁判をめぐる言説のなかで最も核を撃ち抜いた表現ではないでしょうか。
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