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KABU&元KABUのブログ

新版☆AVとは何か? AVを通して日本の今を考える

2012年01月27日 09時05分13秒 | 表現とメディアの話題


昔、アラブの偉いお坊さんが、じゃなかった。昔、東京大学の偉い憲法の先生が「その出版物が猥褻物かどうかを基準にして、業界団体の自主規制や行政の指導、ならびに、警察の取締りが違憲か合憲かを区別するなどというのは論外だ! なぜなら、最大の(?)「猥褻物」は、男にとっての女であり、女にとっての男だからだ」とおっしゃいました。彼と私の憲法理解のスタンスはかなり異なっているけれど、昔から私は結構この大先生好きです。そう、護憲を掲げる憲法9条のなんたらの会のメンバーでもある奥平康弘氏。

私はAVの存在自体には反対ではないですがAVの販売規制には賛成です。昨今の少年犯罪の数と質を見るにつけ、あるいは、人身売買の横行(特に10歳未満の少女や少年をビデオ撮影するために国内外で行われる人身売買の現状)を聞くにつけAV規制やむなしの感を最近一層深くしています。まさか、パブロフの犬じゃあるまいに、AVを規制すれば少年犯罪や性犯罪が減少するとは思いませんけれど、性規範のありようを社会として示すことは必要だと思うから。


他方、AVや風俗産業に関しては(あるいは、企業の受付嬢や女性のフライトアテンダント等々に関しても)それは「性」を商品化するものであり許されないという批判があります。

曰く、AVや風俗産業に顕著な「女性性」に商品価値を持たせることにより、資本による女性の人格の分解と「女性性」の収奪(本来、分解できない一体である「女」から「女性性」を分離してその分離したものに「値札」をつけること)は人間の本性に反する歪な現象に他ならない、と。


その職業(prostitution)が「人類最古の職業:the oldest profession」と呼ばれてきたこととこの認識は些か矛盾するとも感じられるものの、この昔懐かしい70年代後半から90年代前半にかけてのフェミニズムから(というか今では「古語」になってしまいましたが「ウーマンリブ」の立場から)の批判は現在でも充分成立するとは思います。けれども、本稿ではこの古典的論点への言及はせず、事象としての日本におけるAVの歴史を素描するにとどめます。上記の古典的批判の妥当性を考える上でも「文化史的な現象としてのAVそのもの」をよく理解することが遠回りに見えても有効な手であろうと思うからです(尚、この「女性性」の商品化に対する私の考えについては、「書評」記事ですが取りあえず下記拙稿をご参照ください)。


・書評☆都立水商!
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11140899581.html


更に、ブログ運営会社の担当スタッフの方を含め皆様に対して、もう一つ前置きを追加。それは、本稿は取り上げているテーマといい内容や記述も「女性の読者」には、ある種の不愉快さを与えかねないものであることは認識しているということです。けれども、このイシューは日本の教育なり家族のあり方、否、日本のみならず大なり小なり先進国に共通して見られる、例えば「Enjo Kosai:compensated dating」の問題、加之、晩婚化や少子化の問題を考える上で、結局は避けてはいられないテーマではないか。本エントリー記事はそういう問題意識からアップロードするものであることはご理解いただきたいと思います。





それにしても、いったいAVとは何なのでしょうか? 

以下、このことを考えてみます。

先ずは「歴史」のお話しから。


そもそも、性行為が映像作品の中に収録されているもの。所謂「本番映像」というのは昔からありました。しかし、それらは極めてマイナーで日陰の作品でしかなかった(だからこそ、それ自体「古語」の範疇に入った「ブルーフイルム」というものが、洋の東西を問わず制作され、個別日本では、そう、ビデオやDVDやネットでの動画配信が普及する前の時代には温泉旅館やなんやらの非日常の時空間では、その類の8ミリフイルムが男性客に喜ばれていたのでしょうから)。

本番映像は昔からあった。けれど、
それは表の世界、日常の世界にそれが座るべき場を持ってはいなかった。


而して、この経緯は日本だけでなく実は欧米でも第二次世界大戦終了後しばらくはそうだったのです。また、蛇足ながら、本当は「本番」を物理的にしていた作品は日活・東映でも少なからずあったのですが、もちろん、「本番」と銘打って上映されてはいませんでした。日本では1970年代半ばに、愛染恭子さん主演の『白昼夢』がメジャー作品では最初の「本番作品」だったと記憶しています。





それから幾星霜。時代は今から30年前の1980年代。1980年代に入ると、建前にせよ性行為そのものではなくストーリーを<堪能>や<鑑賞>するための作品ではなく、ずばり性行為を<鑑賞>や<観察>するための作品が登場しました。而して、その次は「こんな可愛い娘がアダルトビデオに出るの」路線や「こんな普通の娘(?)がビデオに出るの」路線(笑)に続いて行く。

しかし、1980年代も末に差し掛かると、それらの路線も壁に当たる。要は、それらは素人のそのまんまの姿を撮影記録しただけのものであり、現実の中高生の性意識にAVの表現水準が逆に追い越されたというのが実情でしょう。1980年代前半にすでに投稿SM雑誌に掲載されていた屋外での淫靡猥褻かつ冒険的で小気味よいほど実験的な行為が、ごく普通の若者の、これまたごく普通の日常の所作になっていったのもちょうどこの頃の現象だったと思います。蓋し、日常的なものを高い金を出してわざわざ買う人は少ないという当たり前の状況が起こったということです。

この時、今に至るAV界の思想水準(「何を顧客に提供したいの?」「それは今までのものとどう違うの?」に対するAV業界からの解答の水準)につながる作品が登場します。その象徴が、例えば、黒木香さんと菊池エリさん松本コンチータさん。それはつまり、「完全に男性の性欲の対象として女性を描ききってみよう」というシンプルな主張を映像化したものだったと思います。

而して、このブレークスルーとは、女性の物象化であり、換言すれば、交換可能で消費可能な記号としての女性という、AVとAV女優の再定義が打ち出されたと言えるかもしれません。現在に続く、女子中高生によるcompensated datingがごく特殊な<不良少女>の特権ではなくなり、ごく普通の中高生や一部は小学校高学年の児童に広がりだしたこととこの路線、および、その路線から生まれた諸作品は(共犯関係とまでは言わないけれど)明らかに相関関係はあると私は思っています。蓋し、それは「compensated dating-service」の供給側と需要側の双方の性と家族を巡る規範意識について言えることであるとも。

★註:女子高校生の性交経験率の推移
財団法人日本性教育協会の『青少年性行動調査』によれば、女子高校生の性交経験率は、例えば、1993年−1999年−2005年の時期に、16%−24%−30%に達したとのこと。教育界では有名な「定点測定データ」である、東京都の高校教員有志による同様の調査結果も勘案して推測するに、この数値は2010年時点では間違いなく33.33%(要は、3人に一人)を越えているものと思われます。

尚、注意すべきは、(a)この数値や数値の変化率に都会と地方とではそれほど大きな差は見られないこと、(b)実は、統計データなど望むべきもない時代のことですが、室町時代や江戸時代とは言わず、明治中期と比べて、例えば、同じ「満17歳の未婚女性」を比較した場合、現在の2010年の数値が必ずしも高いとは言えないだろうということです。

傍証を一つ。「愛人バンク」として1980年代前半の世の耳目を集めた「夕暮れ族」(吉行淳之介の『夕暮れまで』(1978年)に登場した中年男性と若い女性のカップルからきたネーミングとか、)が解消したのは、当該『夕暮れ族』の発起人・筒見待子氏の1983年の摘発逮捕を契機にしていますが、それもまた、1985年前後にそんな事柄が<前衛的な人々>の間では、「際物=ある企業の特定のサービス」でなく普通に世の中に拡散したことの裏面、鴨。ちょうどその頃、韓国でも「レモン族」とかのこれとパラレルな事象が問題になったとかならなかったとか。で、それから5年後の1990年前後・・・。

そう思えば、赤川次郎さんの「三毛猫ホームズ」シリーズで、同じく「学生の売春」を舞台装置に取り入れていても、「ホームズ嬢」のデビュー作、『推理』(1978年4月)、『犯罪学講座』(1991年5月)は「女子大生」が、そして、『四捨五入』(1997年12月)では「女子高生」がそのプレーヤーであることはこの間の、1990年前後に、中高生の意識の変化というか断絶を赤川さんが感じたのが遠因、鴨。と、そう私は考えなくもないです。

蛇足ながら、赤川さんの『死者の学園祭』(1977年6月)では<性交渉>は主人公の高校生活には表だっては現れない。また、作家としての赤川さんのデビュー作にして「幽霊シリーズ」の巻頭を飾る『幽霊列車』(1976年)以来、ヒロインの女子大生と相棒である中年の警視庁の刑事の関係は、あくまでも、「恋人関係」であり「不倫関係」、すまり、「愛人関係」ではない。この人物設定もまた、今から見れば今一つ「小説にしてはおとなしい関係」のようでもあり、それも時代性のなせる技なの、鴨。




90年代半ばから2000年にかけてこの路線から現在に続く、―螳盍覯茲發里函↓AV女優の実際の経歴と個性を売り物にした作品、あるいは、それらが併用されるAVのパラダイムが生じ確立しました。顔射ものスカトロもの縛りもの、不倫ものレイプもの熟女ものロリータものナンパもの「彼氏の前で」ものが前者であり、後者の代表としては、ある意味、日本的な私小説の伝統に近い幾つかの女優さんの作品を通過して、桜木ルイさん白石ひとみさん朝岡実麗さん、あいだももさん小林ひとみさん田村香織さん、光月夜也さん日吉亜衣さん東清美さん、そして、金沢文子さん桃瀬くららさん夕樹舞子さんなんかがこの時代を代表していると思います。

では、その90年代半ば以降、この15年で何が変わったのか? これは難しい問題。しかし、思うにAVの世界と世間の性意識の境界が完全に融解し消滅したというのがポイントだと思います。要は、性的なものが持ついかがわしくも艶っぽいインパクトがAVからなくなり、料理やゴルフのレッスンビデオ、あるいは、PCスキルやビジネススキル習得ものやスポーツもののビデオとAVのとのカテゴリーの差やジャンルの差、よって、<迫力の差>が徐々になくなったのではないかということです。

要は、奥平さんが喝破された如くと言うべきでしょうか。AV女優と普通の女子高生の、「女性性」の商品価値に関する社会的な差異は消滅した。土台、AV女優とは「普通の女の子」がAVというシステムに組み込まれることで「AV女優」という相対的に特殊な、繰り返しますが、社会的に「普通の女の子」にはない商品価値が付与された存在になったものであったのでしょう。畢竟、あるシステムを通過することによる社会的な意味と価値の変化と付与というこの経緯は「AV女優」と「AKB」において何の違いもなかった。

而して、現在、AKB48を「AKB48」にしているシステムはまだまだ健在であるのに対して、AV女優を「AV女優」にするシステムは、「普通の女の子」の女性性の社会的な扱われ方の変容にともない機能停止状態になりつつあるの、鴨。と、そう私は考えます。

2010年代に入った今、現在のAVは二流アイドルのコンサートビデオとなんら変わらない。唄っているか性行為しているかだけの違いしかない。そこでは消費者は自分の好みにあった女優さんと好みのプレーというX軸とY軸のマトリックスに基づいて購入する商品を選ぶだけであり、正に、AVを消費する者にすぎない。逆に、AVはごく普通の企業のごく普通の商材になり、AV業界はインダストリーとして確立したとも。そう私は感じるのです。

2000年代半ば、群星の如く輝いた、例えば、小泉キラリくん、小澤マリアくん、早坂ひとみくん、及川奈央くん、夏目ナナくんなどは10年といわずその5年前であれば<記憶に残る作品>を演じる才能のあるAV女優さんだと思うのですが、最早、彼女達も本当に消費財の原材料でしかなかったと思います。

そして、その後の女優さん達に至っては「名前」を覚える必要もないくらい。そう、例えば、マックやマクドで食する毎回のビックマックや吉野家の牛鮭定食に、「Nao.」とか「Rin.」とか「Rio」、「桜田さくら」や「優木ルナ」や「由愛可奈」などと「名前」がついていないのとパラレルに、「黒木麻衣」とか「片桐えりりか」とか「桜花えり」、「白咲舞」や「笠木忍」や「そらのゆめ」など、2000年代後半以降のAV女優さんの<名前>は商品番号や伝票番号の類にすぎないの、鴨。





而して、この世間の日常の生活や意識とAVの描く映像世界との境界の消失や揺らぎという現象は、ある種際物のAVだけではなくTVドラマや小説にも言えることかもしれません。もし、この私の推測が満更間違いではないとするならば、そうなった状況下では、「AV」という範疇は(ということは「TVドラマ」や「小説」という範疇も!)、最早、現前の現象を考える上であまり有効な指標や情報ではなくなるでしょう。蓋し、そこでは、<個性差>や<迫力差>がなくなるに伴いカテゴリーの差異も消失し、結局、便宜的に僅かばかりのジャンルの差異だけが残るようになったということでしょうから。

畢竟、どのような意味でも見る者に、最早、(「嫌悪」や「軽蔑」の感情を含め)<感動>を与える作品ではなくなったAVは、単なる情報媒体として<女性を性行為の対象と看做す視点>を社会的に、つまり、ビジネス的に再生産していくものにすぎなくなる。他方、カテゴリーとしての独立にあくまでもこだわるAVはそれはそれで端的に違法なロリータものや暴力ものに移行していった。而して、後者は、もちろん、完全な犯罪であり論外ではありますが、社会に与える実害は前者の方が大きいし根が深いのかもしれません。それは性規範どころか性と家族を巡る法規範の効力をも掘り崩してしまいかねないからです。

AVはその歴史の最初から前者の性質や機能を間違いなく持っていたのでしょうが、個々の作品の<個性>通してそれ以外のメッセージも10年近く前までは発信していたと思います。而して、そのようなメッセージ性や<個性>をなくしたAVは<女性を性行為の対象と看做す視点>を供給するだけの、料理教室的の映像コンテンツとパラレルな情報媒体にすぎなくなるのは当然でしょう。

AVというカテゴリーの消滅、すなわち、AV映像内的の行為の日常化が社会の性規範の融解の原因なのか、逆に、この社会の性規範や性意識の変容がAVという映像作品カテゴリーの消滅の原因なのか。このどちらが原因でどちらが結果かという難しい話は置いておくとしても、いずれにせよ迷惑な話です。AVというカテゴリーの消滅と融解が社会規範の融解や変容と同時に起こっているということになるのですから。



アメリカでは、一流のモデルを目指す野心ある女性がスキンマグ系のビデオ(日本で言うAV)に出ることはあるけれど、一流の映画女優を目指す女性はあんまりAVには出ません。そう言われています。けれども、誤解なきように。一流の映画女優を目指す女性も一流の映画女優の方も、彼女達は遠慮なく躊躇なく映像の中で「本番」していますよ! 

では、「アメリカの映画女優」さんの事例でもって何を私は言いたいのか。それは、つまり、AVというカテゴリーが消滅する以前から、AVというジャンルは本格的な演技を盛るには窮屈すぎたのではなかったかということ。だから、演技力が(「不要」とまで不遜なことは言いませんが、)女優に比べれば比較的にはそれほど重要ではないモデルを目指す、モデルの卵がスキンマグに登場することがあるのに対して女優の卵はそのスキンマグという<舞台>を選ぶ傾向が乏しいのではないか、とも。

而して、もしそう言えるのならば、逆に言えば、本当のストリーテリングの力を持った監督とそのストーリーを演じる資質を持った女優が登場しない限り、これからAVはジャンルとしてさえ生き残ることはできないのかもしれません。そして、そのようにジャンルとしてさえ他と識別できなくなるAVを「AV」というカテゴリーに含めて理解する意味は全くないことは自明でしょう。

蓋し、AVのインダストリーとしての確立は、AV作品の<個性>やメッセージの喪失、換言すれば、スト−リー性の喪失という代償を支払った上で初めて可能になった。けれども、<個性>と<思想>を備えている作品という意味で芸術作品ではなくなったAV作品はAVの描く映像の世界を完全に日常的の存在にしてしまうだろうし、それはvice versaでもあるでしょう。而して、その「歴史段階」においては、AVのインダストリーとしての確立はAVの非AV化の原因としてのみ作用する。些か『春秋』の筆法になりますが、現下のカテゴリーとしてのAVの消滅の趨勢はAVの成功の結果なの、鴨。

畢竟、今の大学生の皆さんとかには信じられないことでしょうが、かって、昭和も50年代の(〜1985年より前の)この社会では、例えば、直木賞や芥川賞の発表は一大ニュースでした。それは、たとえば、比較的小規模の内閣改造に際しての新閣僚名簿の発表などよりも遙かに世間が注目した情報だったと思います。昔から文学に縁の薄い私でもそこ数年間の芥川賞作家の名前くらいは覚えていたくらいですもの。しかし、現在ではおそらくそうではない。

蓋し、それは直木賞・芥川賞の権威が低下したということでしょうが、その底流には「小説」、否、「文学」自体の社会的の影響力の衰微があるに違いない。而して、この経緯は、小説の作品世界が現実の世界に追い越され、現実と小説の世界が地続きになったことを意味しているのではないか。

実際、真面目な話、2010年代の現在では、単なる「娯楽=暇潰し」のネタとしてはもちろん、この社会の有り様やその社会で生きる人間の実存に思いを馳せる<補助輪>や<補助線>としても、桐野夏生(1997年下半期・直木賞受賞候, 1999年上半期・直木賞)、赤川次郎(1980年上半期・直木賞受賞候)、阿刀田高(1979年上半期・直木賞)の三氏等のものを除けば、芥川賞・直木賞の候補作品や受賞作品よりも、普通の推理小説や歴史小説、あるいは、SFやパスティーシュの方が遙かに参考になる。更に言えば、それら参考になる希な文学作品よりもマンガやアニメ作品の方が数段参考になるのではないかと思います。

そして、問題は(マンガ好きの私にとって、本当に「大問題」なのですけれども)、そのマンガやアニメ作品さえも、諸星大二郎・西岸良平・森雅之・川原泉・岡崎二郎といった世代の作品群を最後に、この社会とこの社会に生きる人間の実存を反芻する縁になる作品が急激に乏しくなりつつあると感じられることです(涙)。而して、その原因は、AVが、最早、「AV」としては存在しなくなっている現下の状況、すなわち、AV女優が「AV女優」としてはその存在を規定することができなくなりつつある現在の状況の背景にあるものとパラレルなの、鴨。

ならば、最早、AVが「AV」として存在しなくなるだろう極めて近い将来において、(現在ではまだ「AV」と呼ばれている諸作品の送り手を含む)日本の映像コンテンツ制作業界の人々に求められている資質は、これまた、小説やマンガの業界で求められているものと同じなのだと私は考えます。それは、読む者や見る者に対して感動を与え得る技量と情熱、すなわち、人をして感動させる作品を<豊饒なる虚構のストーリ>の上につくる才能と技術と野心であろう。

と、そう私は考えます。







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