栃木県の北東地域を流れる那珂川は、四国の四万十川と並び称される豊かな自然を残し、様々な魚が生息し、特に、アユが有名な清流の川です。
下侍塚古墳は、この那珂川を見下ろす河岸段丘の端部にある前方後方墳です。
大田原市(旧湯津上村)は、古墳群の宝庫と呼ばれ、那須地方の6基のなかで、上侍塚古墳に次ぐ大きいものです。
水戸黄門さま(徳川光圀)は、約300年前の江戸時代、那珂川町(旧馬頭町)に度々訪れており、土地の庄屋であった大金重貞の書いた「那須記」に那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)のことが書いてあったので、黄門さまは「上・下侍塚古墳のどちらかが、古代の那須国の国造(長官)の墓だろうと思い、家来の助さんに命じ、元禄5年(1692)上・下侍塚古墳を発掘させましたが、残念ながら誰が埋まっていたかは分かりませんでした。
しかし、鏡・鎧片・鉄刀片などの出土品を絵に描いて記録し、松板箱に入れて埋め戻しました。
さらに、墳丘の崩落を防ぐために松の木を植えるなどの保存整備も行われ、この調査と調査後の遺跡の処理は、日本考古学史上特筆されるものです。
さすがは、天下の副将軍のおかげで、古墳時代に造られて、発掘から315年たった今も、いにしえの美しい姿が見られ、遥かに遠い古代の情景に思いをはせます。
私たちは、この貴重な遺産を未来に引き継ぐ責務があります。
下侍塚古墳の大きさ
墳 形 前方後方墳 全長 84m
後方部 幅 48m 高さ 9.4m
前方部 幅 36m 高さ 5m
墳丘の赤松を守るため、地元住民の人達で組織するボランティアグループ「侍塚古墳松守会」は害虫から守るため、冬季に松の幹にこも巻きつける作業を行うことが、この地の風物詩になっています。 もう「啓蟄(けいちつ)」もすぎたので、こもは外されたと思われます。
下侍塚古墳の近くを流れる那珂川には、毎年百羽を超えるコハクチョウが飛来してにぎわいを見せています。
今日はあいにくの天気で、那須岳おろしの強風で、いつもなら家族連れなどが見物に訪れるそうですが、寒さが厳しくて、見にきた人はチラホラでした。
今年は暖冬のせいか、通常の年では本県までは飛来することのない、アメリカコハクチョウが来ているとのことで見に行きましたが、私には見分けることはできませんでした。
参考文献
栃木県教育委員会作成の立て看板
なす風土記の丘資料館 見学資料参考文献