命の値段が高すぎる!―医療の貧困 (ちくま新書)永田 宏筑摩書房このアイテムの詳細を見る |
「医療がたいへんだぁ、たいへんだぁ」と騒ぎたいだけなら、岩波新書でも
立ち読みすればいいのだが、「何がどう問題でどうやって解決すべきか」に
関心のある前向きな若人には、本書の購入を強くおすすめしたい。
本書の流れとしては、小泉医療改革の総括によって、医療システムの構造的な
問題をあぶりだす。
一言でいうなら、それは医療という破綻確実なシステムへの、一大延命手術だった。
本来、一時的な疾患を想定して作られた保険制度であるが、慢性化しがちな高齢者
医療の比率が増えれば、保険料をどんどん引き上げねばならなくなる。
65歳以上の人間を、15歳以上64歳以下の現役何人で支えるかを扶養率というが、
05年時点で3.3人。これが25年には2.0になることがほぼ確定している。
つまり中学卒業直後の少年少女まで動員して、二人で一人の
高齢者の各種社会保障を面倒見るわけだ。
著者もいうように、これはもはや実現不可能なフィクションの世界だろう。
いや、これはシミュレーションではなくて、既に平均年齢の高い国保については
現実のものとなっていた。若者の多い都市部ベッドタウンと地方の国保財政格差は
拡大し、保険料は最大で5倍に達していた。事実上、国保は破綻していたのだ。
ここで登場したのが、小泉医療改革である。後期高齢者医療制度の成立など、
注目すべき改革が多く含まれた。具体的には、
・後期高齢者医療制度により、75歳以上の医療費を国保、健保組合から切り離した。
・高齢者の保険料負担を通じ、医療支出抑制に対する一定のインセンティブを確保
・一方、前期高齢者医療制度(65~74歳対象)も導入し、金の無い国保へ、
比較的余裕のある健保から金を出す仕組みも作った。※
要するに、企業も連合も自治体も国も、みんなが青天井で増え続ける高齢者の
医療費の負担を嫌がって押し付けあっていた中、なんとか共存可能な仕切り直しを
してくれたわけだ。
余談だが、健保からの高齢者向けの負担増に対しては、経団連と連合が
見事な連係プレーで反対する様子が面白い。
有権者の前でいつもやっている『階級闘争ごっこ』を
一時中止して、既得権の死守のために共闘しているわけだ。
著者は、さらなる医療の合理化と負担の平準化が必要だと説く。
そして、そういった努力に言及すらしない既存政党を厳しく批判する。
政党の中には、今でも高齢者の保険料を下げ、自己負担率も下げ、
さらに介護と年金を充実させるといった夢のような政策を掲げている
ところもある。よほど勉強不足で状況認識ができていないか、
さもなければ所詮はマニフェストと割り切っているかのどちらかであろう。
その点ではむしろ小泉内閣のほうが、はるかに現実的だったと言っていい。
そう考えると、後期高齢者医療制度の廃止を訴える政党は、
「医療制度を破綻させましょう!
若者にはぺんぺん草すら残さないようにしましょう!」
と言っているわけだ。
ただし、それでも著者は、小泉改革は抜本的な解決策ではなく、しょせんは延命策
に過ぎないとする。というより、そもそも問題の抜本的解決は不可能だと説く。
なんとも夢の無い話だが、考えてみれば当然だろう。
今から30年後、現役二人で一人の我々を支えなければならないことは間違いないし
そんなことが不可能なのも間違いない。
現在の感覚で言うと「だったら国が負担を肩代わりしろ」となるのだろうが、
その頃の日本国にも日本経済にもそんな余力は残っていないだろう。
つまり、我々は、国力に不相応な社会保障を先輩方に提供し
続けるために身を粉にして働いた挙句、自分たちは
分相応ですらない社会保障の中で死んでいくのだ。
北欧型の高福祉国家も、人口構成がバランスを取っているから維持できている
スタイルであって、日本で導入することは困難だ。こうなることは予想できていた
はずなのに、出生率が2.0を割った70年代から、日本は何一つ変えられず、
変えようともしなかった。
なぜだろう?
「失点さえなければエスカレーター式で出世できる」
「あと数年、目をつむっていればゴールできる」
ような人事制度が、やはり深く関係しているような気がしてならない。
唯一可能性があるとすれば、徹底した規制緩和で経済成長を実現しつつ、
社会保障改革で負担の平準化(つまり高齢者に一定の負担を求めつつ、各種社会保障
を積立式に移行させ我々自身が加害者になることを防ぐ)を実現することか。
いずれにせよ、一刻の猶予もないはずだ。
僕は医療を神聖視していない。時代によって、公的な保証範囲や負担は見直される
べきだろう。
「いかなる改悪も認めない、命を金に置き換えるな」というような人は、
未来に対してどう責任を負うつもりか。
現在か未来か、違いはあっても、人道上の罪にかわりはないはずだ。
そういった視点から、再度“命の値段”を問うべき時が来ているのではないか。
そういった気づきを与えてくれる良書である。
※国保は助かったが、健保はカンカンである。
よく「後期高齢者医療制度でサラリーマンの負担が増えた」と言われるのはこれ。
ただ、これをやったところで根本的に保険制度が見直されない限り、建て直しは難しいとは思いますが。混合治療の見直しとか問題が山積みですね。
私のイトコには3人子供がいますが、その子供たちが20歳になったとき、日本はどうなっているんでしょうね…
金もない、親孝行な子供もいない年寄りは、放置プレーを実施されて、一人寂しく、孤独死であの世に旅立つのさ。
夏の暑い盛りの日に、異臭に気付いた近所の住民に発見されてね。
しかし、すでに20年以上前から「何かおかしい」といった漠然とした気付きは、口には出さないにせよ、個々人が胸に秘めていたはずだ。今後、生産性の見込みのなさそうなお年寄りの医療に、どれだけのカネをつぎ込むのか、と。
戦後、正しかった理念を築き上げ、豊かな国にしてくれた世代の人たちの命の値段を問うのはやめよう。そうした理性によって口に出せなかったことが、経済危機に端を発した先の不透明さゆえにとうとう、「言ってしまったのね」というのが実感だ。
世代間闘争が本格化してきた。もっとも、「今後も生き続け、次代に引継ぎをするのは誰か」といった観点から、さらなる議論が必要だ。
これらの話題がでると態度が硬直化してしまう人々の意識はどうしたら変わるんでしょう?
宗教だから無理か
これが我々にあっている。基本的には我国社会は姥捨て方式である。あらゆるものが。
一度姥捨ての形態を調べると良いでしょうね。
そのサンプルは学校教育を調べると良い。問題は私立学校だが。
アレは卒業ではなく、学校から姥捨て去れたことである。慶応大学から、東京大学から卒業ではなく、捨てられたのである。
誰に、誰が、何処へ、どのようにして、誰と何故捨てられたかと仮定して妄想すると意外とよく見えるでしょうね。
中には自分から捨てられる人もいる。入試をあきらめるか、中退かである。
私は65才以上は公的保険はなしにすることで、後は自分の金で生きていき、若い世代には世話をかけないという姥捨て方式が良いと思っている。其れがわれわれにあっている
医療機関が困るだけで、誰も困らない。医者は半分ですむだろう。
元々うがいと手洗いをすれば、病気はかからない。
後は外科的な手術が必要なものだけである。
伝染病はない。これだけ清潔な国はないだろう。
何処に医者が必要な世界がある。
虫歯は激減している。歯医者も大量に余る。
薬はインターネットで調べれば、逆に病気が分かる。
保険の負担を半分にしても、大方困らない。社会も動いていく。困るのは医療機関だけである。
大間違い
5月も終わろうとしている。後期高齢者医療をめぐる攻防が続く。政府与党はことの本質を見誤っている。年齢は誰も選べない。75年生きれば誰もが75歳になる。それを75歳になると、長寿をお祝いでなく、逆に、社会の負担になっていることを自覚しろという扱いをすることはなんということか。。「老、病、死」はたとえ始皇帝のような大権力者でも、どんな大金持ちでも避けられない人間の宿命。お釈迦様もそのことから出家されたといわれている。老いは誰もが自然に自覚し、生き方を考えるもの。それを制度で差別するのは大間違い。
http://www.n-kan.jp/2008/05/post-1789.php
老いの問題と老いの経済問題は別である。この区別がついていない。老いは誰にでもあることだが、其れによって生じること(食料を自分で取れないこと)経済問題は別である。
この基本的な区別がついていないようでは、話にならない。他の分野の理解も同じ程度だろう。
まったく馬鹿である。元々市川房江女史の腰ぎんちゃくだから、先は見えているが、何故彼のような男が出てくるか私にはわからない。
とにかく子供を装うか、幼児性というか、卑怯というか、不真面目というか、なんとも分からない人々がいる。彼等を見ると、女の紐のようなことを主張することは確かである。其れと部分集合しか見ない。嫌になる。
私は現役だが年寄りの部類である。
私が若いころは年よりは親切で、よくおごって、いろいろ話してくれた。其れは多くは善意であった。
今はいろいろ聞くと、そのようなことはすくない。
私はまだ若い人におごり返さないと帳尻が合わない。
ほんとによく、おごってもらった。
従業員は四分の一になった。若い人はいない。