津山三十人殺し 最後の真相 | |
石川 清 | |
ミリオン出版 |
昨年に引き続き、NHK特集の『無縁社会』が話題となっている。
“無縁”の先にあるものが何なのか知っておくべきだと思うので、個人的には見て
おいて損は無い番組だと思うのだが、メディアの一部に「皆で有縁を取り戻そう」
的な回帰色が出ているのが気になる。
基本的に無縁とは我々が選んだものであり、時計の針を戻すことは不可能だ。
それを再認識させてくれたのが本書である。
中国地方の山間部の閉鎖的な村落で、つい近年まで(短時間での)殺人被害者数の
世界記録となっていた事件は起きた。事件のことは知らなくても、八つ墓村で電灯
を頭に巻いて猟銃と日本刀振り回すおじさんを覚えている人は多いはず。
あれのモデルとなったのが本件だ。
本書が優れているのは、従来の被害者側からの視点にくわえ、家族内の緊張関係や
ムラ社会との軋轢にも踏み込んでいる点だろう。
それにより、昔からある「本人異常説」や「痴情のもつれ説」といった表層的な事情の
背景に光を当てることに成功している。背後にあったものとは、ムラ社会との軋轢である。
農村のような有縁社会では、メンバーは共同体の一員として守られるが、失点を犯した
者は法とは別の論理で追及される。そういう情報は共同体内で共有されるから、
場合によっては“村八分”となってしまう。
犯罪者の家庭が事件後に夜逃げと言うのは、今でも田舎では珍しい話ではない。
その失点というのは、不祥事だけにはとどまらない。精神疾患のある家系はきつねつき、
肺病患者の出る家はろうがいすじと呼ばれ、家ごと差別されるケースも戦前まではあった。
ちなみに本件の犯人は両親が肺病で無くなり、自身も肺病により徴兵検査を不合格と
なった経緯がある。当時、兵役不適格とされた男子がムラ社会でどういう扱いを受けたか
は想像に難くない。
本当の疎外というのは、もともと縁なんて無い無縁社会ではなく、縁で形成された
有縁社会にこそ存在するのだ。
確かに縁は無いかもしれないが、その気になったら好き勝手に縁を作れる現代社会の
方が、出口の無いムラ社会よりかはなんぼかマシであるというのが、同じ中国山地の
山間で育った僕の感想だ。
※本書には(短いながら)最後の生存被害者のインタビューも収録されており、
その意味でも貴重な一冊だ。
NHKもそういう村社会の闇についても報道してほしいと思います。でもやらないでしょう。NHKがグローバル社会が嫌いな局ですから。
いつものとおり地下鉄の上がり下がりはきつく、東京の人は健康になるなあと同僚と話した。
いつも思うのは<住むなら東京だな。こじきでも、東京乞食ですむなあ>と思う。田舎から東京を見ると、住居費以外は極楽である。
世界中から人があつまってくる。日本の内実を知れば。
外国人が多い。また駅の看板に朝鮮文字と中国文字の表示があったが<何で?>とおもった、経費の無駄で、その分運賃を安くするのが筋だがと思った。
馬鹿がいるからだろう。利権をあさっている人々がいるからだろう。
地下鉄に何度も乗ったが通勤時間ではなかったからかもしれないが<老人が多い。人々に元気がない。疲れているなという印象の人が多く、服装がよくないなああ。いすに本当に首をうなだれて座っている定年間近かなという人を見た。若者の話し声が社内でぜんぜん聞こえなかった>
それでも、住むなら東京でと思う。街がとにかく大きい感じがする。名古屋の三倍が大阪、その大阪の四倍が東京かな。
在る程度銭を持って、知り合いがいて、そこそこ仕事をして生きられるなら、健康に気をつけて、適当な年まで、生きて、後はコロンと毒でも飲んで死ぬのがいいなあ。東京ではと思っている。
住むべし東京で、また住むべしと思われるように東京は努力すべし。金を使うべし、田舎より東京に。
外国人が脅威を感じないで住める町は東京だが、それは先々を考えると改めたほうがいい。
小林よしのりや共産党なんかは農村の共同体を過大評価していますね。
今でも長男は消防団強制加入なんてあるようです。
公務員のようなはぶられたら後のない職場でうつ病が多いのもそういう理由でしょう。
極めて話を単純化しちゃうと、縁のある社会と
縁の無い社会、どちらの方が満足感を得られるかって話に落ち着く気がする。
まあどちらとも極端な形になることなく、個人個人で
居たい方の社会に属すことができればいいのだろうが
実際には難しいそう。
私も田舎出身ですが、問題起こさない限りは、縁の
ある社会の方が居心地いいと感じてます。
けど、同窓はみんな都会に行っちゃうから、やはり
好き勝手に縁を作れる現代社会の方が一般的には
魅力あるんでしょう。むぅ。
縁は薬のようなもので、毒にもなる。という事をどうしても認めたくない人が多いのでしょう。
ヒトが社会的動物である以上一人で生きていけないのは当然ですが、「強制的に」繋がってしまった縁(血縁、隣人、義務教育の学校…)が本人にとって毒だった場合、悲惨の一語です。
そんなもの何の価値もない、自分が嫌なら捨てていいんだよ。
と、言ってあげられる人がいても良いと思うのです。
というのはいつか読んだ斉藤環先生の本からですが、
その通りだと思いますね。
自身、とある片田舎で育って今は地元を離れてますが、帰って実家の家族と話をするとその情報量に驚かされることがあります。
やれ、誰それの何番目の子がが結婚しただの、やれあの家の誰それが出て行ってただの、やれ誰それが仕事辞めて今は何やってるだの。
「俺も今はリーマンしてるけど辞めでもしようもんなら好き勝手言われるんだろうな~余計なお世話だけど」
なんて考えたりします。
斉藤環さんの考えを踏まえれば、無縁だなんだと有縁をピックアップしはじめる辺りが、停滞から衰退に入ったと言われる日本を象徴してるのかなと思ったり
それいつどこの話。「生贄」って何ですか。
津山36人殺しでムラを一般化されてもなあ。
ただオレも田舎生まれだが、やっぱり縁のある社会はメンドくさい。
おたがい何代もさかのぼって縁があるんだもの。