ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

復活 2000.4.1

2000-04-01 16:18:35 | 嫩葉
復活
キリスト教における信仰の中心に復活信仰がある。十字架刑によって死に,墓に葬られたイエスという人物が復活し,墓を破って出てきたという信仰である。この信仰はどう考えても「信じられる物語」ではない。しかし,キリスト教の歴史の最初期の指導者である使徒パウロが「キリストが復活しなかったのなら,わたしたちの宣教は無駄であるし,あなたがたの信仰も無駄です」(コリントⅠ15:14)と言いきるほど,この信仰はキリスト教にとって絶対に譲れない信仰である。ところが,この信仰については教会側の人間,つまり信仰者たちの「わたしは復活したイエスに出会った」という証言以外には,ただ「空っぽの墓」しか証拠というべきものはない。この「空っぽの墓」をめぐって,福音書はさりげなく次のようなことを述べている。「祭司長たちは長老たちと集まって相談し,兵士たちに多額の金を与えて,言った。「『弟子たちが夜中にやって来て,我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても,うまく総督を説得して,あなたがたには心配かけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って,教えられたとおりにした。この話は,今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」(マタイ28:12-15)
「信仰」に敵対するものは「不信仰」ではなく,「悪意あるうわさ」である。「うわさ」は真実らしい装いをしている。誰が見ても,「空っぽの墓」を見れば,復活したというより「盗まれた」という方が信じやすい。「信じる」という決断は「噂に逆らって信じる」ということである。しかし,ただ闇雲(やみくも)に信じるわけではない。現実をしっかり見て,何が真実で,誰が本当のことを言っているのかということを見分ける主体性が求められる。キリスト教信仰を支える基盤はそれしかない。
今年は「ミレニアムの年」と呼ばれ世界各地で盛大な催しがなされている。これは,わたしたちの幼稚園でクリスマスごとに演じてきた,あの貧しい馬小屋で主イエスがお産まれになって以来,2回目のミレニアムを迎えたという意味である。イエスという人物については2000年間,その時代その時代の思想的影響を受けて様々に論じられ,批判され,噂されてきた。しかし,常に「信じる」人々がおり,それらの人々によって支えられてきた。(園長・牧師 文屋善明)

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