ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

読書記録:井上寛司「『神道』の虚像と実像」(講談社)

2017-06-07 15:29:20 | 雑文
日本における「神道」についての、非常に優れた研究
この書が論じる最も重要な点は、柳田「神道」論の批判である。その重要ポイントを書き出す。

柳田「神道」論の問題点(p.230以下)

二重の誤り
さて、これまで述ベてきたことの総括をかねて、戦後の日本において、世界的な常識と
までされるにいたった柳田国男の「神道」論、すなわち「神道は、太古の昔から現在にいたるまで連綿と続く、自然発生的な日本固有の民族的宗教である」とする理解の、どこにどのような問題が含まれているのかを、あらためて簡単に整理することとしよう。
こうした理解の問題点は、主要には次の三点、すなわち、
A 呼称
B 歴史的な「神道」の実態
C 日本の宗教の実態
の理解にあると考えられる。

まず、Aの呼称に関しては、とくに次の二点が重要だといえよう。
第一に「神道」を「シントウ」と清音で読むようになったのは中世になってから、そ
してそれが広く定着したのは中世末から近世初頭にかけてのことであって、けっして「太古の昔から」というわけではない。それ以前、そして本来の「神道」が「シンドウ」もしくは「ジンドウ」と濁音で読まれていたことに注意する必要がある。
第二に、より重要なことは、その濁音表記から清音表記ヘの転換がもった意味である。
柳田が「神道」という場合、その念頭にあったのは自然信仰としてのカミ祭りで、それを「シントウ」と呼んだのであった。しかし、Bでも述ベるように、中国伝来の「シンドウ」「ジンドウ」から日本に特有な「シントウ」への転換が起こったのは、柳田のいうそれとは別の「神道」概念にこそあったと考えなければならない。カミ祭りにおける、そのカミの実態として提示された古代天皇神話上の神々とそれについての観念的で思想的な解釈(神道教説)こそが、「シンドウ」「ジンドウ」から「シントウ」ヘの転換を促す基軸に位置していた。柳田の理解が二重の意味で誤っていることは明白だといえよう。

時代の変化にともなって

Bは、日本の歴史上に展開した「神道」が、実際にはどのようなものであったのかにか
かわる問題である。柳田は、先述のように、自然信仰としてのカミ祭りこそが日本の「神道」の本質で、それが原始古代から現在まで変わることなく維持されてきたと考えた。
しかし「神道」の概念は、柳田の理解とは異なって、時代の変化にともなって大きく変動した。
なにより重要なのは、各時代において「神道」概念の基軸を担ったのが、柳田の考えるものとは異なっていたことである。
「神道」の用語が中国から導入された古代にあっては、いまだその内容が明確なかたちで定まらず、カミ祭りにおける「神の権威・力・はたらきゃ神そのもの」という、きわめて漠然としたものであった。
それが中世への移行にともなって大きく変化するとともに、日本独自の意味をもってくる。日本の「神道」は中世にこそ成立したのである。それは、神社の祭神である『古事記』『日本書紀』などに記された天皇神話上の神々と、それについての観念的で思想的な解釈(神道教説)というものである。これに対し、カミ祭りの儀礼体系そのものも神祇道の略称として「神道」と呼ばれたが、中世にあっては右にくらベ副次的で派生的な位置にとどまった。
中世末から近世にかけて、「神道」の内容はまた大きく変化する。吉田兼倶が、唯一神道論にもとづく、より整備された新たな教義と儀礼体系を創出し、それらを結び合わせ、寺院・仏教に対抗する独自の宗教システム(吉田神道)を構築したからである。
吉田家ではあらためてこれを「神祇道」=「神道(シントウ)」と称したが、近世幕藩制の成立にともなって、政治支配思想としての「神道」教説そのものが天皇統治の理念ともかかわって独自の重要性をもつようになり、しだいにその比重を増していった。林羅山の理当心地神道などの儒家神道から始まって、山崎聞斎の垂加神道、本居宣長・平田篤胤などの国学神道(復古神道)へといたる近世「神道」論の系譜はともにこれに属するものであった。

「復古」が 「国家」ヘ
幕末から近代にかけて、「神道」慨念はさらに転換する。
欧米諸列強の脅威にさらされるなかで登場した国体思想にもとづいて国学的「復古神道」論の読み替えがおこなわれ、国家権力による強権的な神社の再編成と政治利用を通じて、民衆統治のための政治的・国家的イデオロギー(政治支配思想)としての本質をもつ「国家神道」が成立していった。
「国家神道」は、「宗教」(西欧から導入された Religion の訳語としての、キリスト教など特定の教祖・教義をもつ信仰体系)と明確に区別され、信仰の如何にかかわらず、日本国民のすベて
が実行・遵守しなければならないとされた、天皇や神社ヘの崇敬などの道徳的規範とそのための公的・国家的な儀礼のことをいう。
一方、明冶維新期における「神仏分離」と「国家神道」の成立過程を通じて、神社祭祀や神祇信仰そのものを「神道」とする捉えかたがあらためて浮上し、やがてそのうちの一部が教派神道として定着していく。しかし、政府がみずから繰り返し「神道は宗教に非ず」「神社は宗教に非ず」と表明したことにも示されているように、近代を通じて「国家神道」が「神道」慨念の中心に位置したのは疑いない。ただし、日清・日露戦争以後、とくに戦前のファシズム期も「国家の宗祀」を掌る神社への崇敬そのものが日本の「公の宗教」=「国民的宗教」=「国家神道」と読み替えられ、植民地を含む帝国臣民の全員に神社ヘの参拝が強制され、国民を戦争に駆り立てる重要な役割を担うことにもなったのであった。

性格の異なる二系統の 「神道」
以上のように、中国から伝来した「神道」の用語は、日本独自の意味を担う形で成立する中世以後、常に異質な二つの意味で用いられ、その内容も時代とともに大きく変化してきた。あらためてこれを整理すれば次のようになろう。
[中世]①神社祭神としての天皇神話上の神々とそれについての思想的解釈、②カミ祭りのための儀礼の体系(神祇道)神麗菖。①を基本とする。
[近世]①中世の①と②を結合した神社祭祀の教義と儀礼体系(神祇道=吉田神道)。②天皇神話の思想的解釈に基づく国家統治の理念=「神の道」。近世を通じて②が優勢となるとともに、①もその中に組み込まれていった。
[近代]①皇祖神アマテラスおよぴ天皇による国家統治の理念とそのための儀礼体系=「国家の宗祀」、②神社祭祀や神祇信仰そのもの、及ぴ①の下での教化集団。①を基本とする。

これによってみると、中世の①を踏まえて近世の②が、そしてそれを踏まえて近代の①が登場し、その内容も次第に整備され、肥大化していったことがわかる。これらはひとつの系列(これを(a)としよう)に連なっているのであって、それがさきの敗戦によって解体したのであった。
これに対し、中世の②と近世の①及び近代の②は、いずれも神祇道としての共通の特徴をもち(教派神道はやや性格が異なるが)、各時代にあってともに副次的な位置を占めたことが知られる。これまたひとつの系列(こちらは(b)とする)をなしているといってょいが、(a)のような時代の推移にともなう大きな質的変化は認められない。(a)と(b)は系統を異にするのみならず、その性質もまた異なっているのである。その特徴を一言でいえば、(a)が基本的には民衆統治のための政治支配思想(宗教的政治イデオロギー)という性格をもつのに対し、 (b)は神社祭祀や神祇信仰そのものであったと考えることができよう( 教派神道を除く)。日本に固有の慨念としての「神道」が成立する以前の古代信仰(カミ祭の儀札[神祇道]や神そのもとして理解された)が(b)の系列に属すのはいうまでもない。
以上の点を踏まえて、あらためて柳田の「神道」論を見てみると、戦前.戦時中の(a)系統の「国家神道」に対する批判を踏まえ、古代〜近代の(b)系統の「神祇道」の系譜の上に、「自然発生的な日本固有の民族的宗教」というまったく新たな独自の「神道」概念を導き出したと理解することができる。
柳田のこの指摘がひとつの重要な問題提起であったことは疑いないが、しかしそこには重大な問題が含まれていた。それは、柳田が異なる二系統の「神道」の存在やその質的な違いを理解せず「国家神道」を「偽の神道」として切り捨てる一方で、宣長のいう(a)系統の「神道」と(b)系統のそれをひとつに結びあわせ、混同させてしまったことである。今日にいたる、「神道」や「国家神道」の理解をめぐる混乱した議論は、ここにその歴史的起点をもつと考えられるのである。

「日本固有」というならば
Cの日本宗教の歴史的な実態についても、柳田の理解は明らかな事実誤認のうえに組み立てられている。柳田「固有信仰」論の特徴は、
(1) 仏教が伝えられる以前の素朴なカミ祭りを神祇信仰と捉え、それが日本に固有の民族的宗教だとしていること
(2) そしてそれが原始・古代から現在にいたるまで、変わることなく連綿と続いてきたとしていること
にある。しかし、日本固有というのであれば、神祇信仰のみならず、陰陽道や修験道も挙げなければならないし、仏教に関しても、浄土宗や浄土真宗・日蓮宗をはじめとして、日本で独自に成立し発展を遂げた諸宗派を含め、仏教それ自体が日本的宗教として発展してきたというのが実際で、神祇信仰だけを取り出して、それを日本固有と考えることはできない。
なにより問題なのは、柳田が神祇道を仏教などと截然と区別し、対比させることによって、それとは異なる別個の宗教と捉え、それを「日本固有の宗教」としていることである。実際は、仏教 (仏道)や神祇道・修験道・陰陽道などをそれぞれ区別しながらも、時と処に応じてそれらを適宜使い分け、ともに信仰の対象とする、「融通無碑な多神教」こそが日本の宗教のもっとも基本的な性格であり、特徴であった。
各時代を超えて連綿と続いてきたというのも、この「融通無碑な多神教」という宗教構造(その内容やありかたは時代によって異なる)なのであって、それを神社や神祇信仰だけの問題として論じるのは正しくない。しかも、それは「太古の昔から」ではなく、基本的には日本的な「神仏習合」が体制的に確立した中世以後、最大限さかのぼっても寺院や仏教に対抗して日本固有の宗教施設としての「神社」が創出され、それに見合った儀礼体系が整備されていった古代律令制成立期以後のことなのである。こうした歴史過程を、部分的な連続性の側面だけを取り出して論じることが誤りであるのは、あまりにも明白だといえよう。(p.238)

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