ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/10/14 ~10/21

2018-10-20 08:59:48 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/10/14 ~10/21

2018 日々の聖句 10月14日㈰
モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」(民数記11:29)

彼ら(弟子たち)に息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:22)

私の黙想:
「日々の聖句」では、「わたし(モーセ)は、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望している」と改変している。
ここでモーセの話し相手はヨシュアである。
荒野で放浪しているイスラエルの民の間に食糧のことで不満が出て来た。要するにマナに食べ飽きたのである。その不満は指導者モーセに向けられた。そういう状況でふたりの若者が宿営の中で「霊を受け」、「預言を語り始めた」。その事件を受けて、 「若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、『わが主モーセよ、やめさせてください』と言った」(28節)。今日の聖句はそれに対するモーセの言葉である。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか」という言葉が省略されているので事情がわからなくなっている。今日の聖句は非常に面白い。いわゆる「万人祭司主義」を思わせる言葉である。
キリスト者として実に悩ましい事件である。まさにヨシュアの悩みである。マルコ福音書にも同じような出来事が記録されている(9:38~48)。神から「霊を受け」何らかの行動を取るということは、危険である。聖霊を受けると言うことは通常以上能力を身につけることである。だからその行動を規制する「歯止め」はどこにあるのだろうか。

2018 日々の聖句 10月15日㈪
それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。(ヨシュア24:23)

光の子として歩みなさい。(エフェソ5:8)

私の黙想:
カナンの地での生活も一応落ち着きを示し始めた頃、根が遊牧民、新しい地に入植し、今までの牧畜生活とは異なる「農業」を生業とするようになるととうぜん先住民にいろいろ教えてもらわなければなる。農業には農業独自の宗教観があり宗教生活も異なってくる。従ってイスラエルも農業を中心にしたお祭りや異教の影響を受け始める。
今日の聖句はそのころのモーセの後継者ヨシュアの人生最後の説教。前半はそのような状況を考えると分かりやすい。後半の「心を傾ける」は多少違和感を感じる。ほとんど名邦訳はいずれも「心を傾ける」と訳しているが、意味は「方向転換」である。

2018 日々の聖句 10月16日㈫
神に従い正義を行うことは、いけにえをささげるよりも主に喜ばれる。(箴言21:3)

うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。(ヨハネ7:24)

私の黙想:
他のほとんどの邦訳が「正義と公正(公平)を行うこと」としている。「神に従う」としてしまうと、この短い文章に動詞が3つも出てくる。そして最後の「いけにえを捧げること」というこの聖句のポイントがボケてしまう。ここでは前半の社会倫理と後半の宗教的行為とが対比されている。
イエスは律法の専門家に「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」(ルカ14:3)と問われた。社会倫理の実践が宗教的行為に優先する。これはいわば当然のことであり、何もイエスによってもたらされた革命的な教えでもなんでもない。この当然の論理の前に律法の専門家たちは沈黙せざるを得なかった。
問題は程度問題にすり替えられる。ところが、ここでイエスは「自分の息子が井戸に落ちたら」と実例を挙げる。それは当然であろう。では、それが「牛」だったらどうする。もちろん、「牛」の持つ「価値」をどう受け止めるかという議論はあるであろうが、まさか「自分の息子」と「牛」とを比較して答えを求めているわけではない。
要するに、社会倫理の重さという程度問題にすり替えることへの否定である。社会倫理はそれ自体として宗教的行為に優先する。今日の聖句では「よりも」という比較を意味する言葉が入っているが、これは比較の問題ではなく「主に喜ばれる」という宗教本来の目的の前に、社会的倫理のもつ宗教性が問われている。

2018 日々の聖句 10月17日㈬
彼の王国に権威は増し、平和は絶えることがない。(イザヤ9:6)

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブル13:8)

私の黙想:
ローズンゲンの聖句は長い文章の一部を切り取った短い文章である。時には一点集中の効果があるだろう。しかし今日のような文章は聖書の言葉としての力が失われてしまっている。だからローズンゲンによって黙想する場合にはできるだけ聖書自体を開いて前後の文章を読み文脈(コンテキスト)の中にその聖句をおいて考える必要がある。
今日の聖句は「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」の一部である。イザヤの現実においては「ダビデの王国」分裂し、実質的には存在しないのと同様である。従ってここでのダビデの王国も王座も非現実的な特別なものとして描かれている。
この聖句について注目すべきことは、この節の直前の5節である。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神永遠の父、平和の君」と唱えられる」。この句はクリスマスの時読まれる有名な言葉で、この句と組み合わせて、今日の聖句の意味が明らかになる。イザヤ自身はその「ダビデの王国」を見ていない。むしろ終末における幻のようなものである。
初期の教会の信徒たちは、そこに「教会」を見ていたのであろう。

2018 日々の聖句 10月18日㈭
行くがよい。主がお前と共におられるように。(サムエル上17:37)

何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(1コリント10:31)

私の黙想:
「行くがよい」などと偉そうに言ってるのはサウル王、それを聞くのは少年ダビデ。ダビデが公の場にデビューした時のセリフである。
戦う勇気を失った自国の大人たちを背に、一国の命運を背負って、敵国の豪傑ゴリアトとの一騎打ちに向かう少年ダビデに、自分の防具を着せて送り出すときのサウル王の偉そうな言葉。
結局、少年ダビデはサウル王の防具も武器も役に立たず、それらを脱ぎ捨て、裸同然の姿で手慣れた玩具のような投石袋を手にして立ち向かうことになる。
自分の防具や武器がそれほど立派なら、それを着慣れているサウル王自身がゴリアトと一騎打ちをすればいいではないか。そうすることも出来ず、怖気づいて「後方で」武器だけ提供する。言葉だけ偉そうに、一介の羊飼いの少年に自国の命運を任せる。まるで、どこかの国の様なものではないか。「主がお前と共におられるように」というぐらいなら、おまえが行ったらどうなのか、と言いたくなる。困難に立ち向かう勇気もなく、なんだかんだと言い訳をして逃げ回っているサウル王の口先だけの祝福の言葉などまったく無意味である。

2018 日々の聖句 10月19日㈮
(その世代の中で、)ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。(創世記6:9)

あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(マタイ5:16)

私の黙想:
一人の人間の評価を一言で言い表すことは非常に難しい。その難しさを表現しているのが今日の聖句である。後半はともかく前半が問題である。「無垢な人」とはどういうイメージであろうか。口語訳ではこの部分を「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった」。文語訳では「ノアは義人にしてその世の完全き者なりき」。ここでの「義人」とは何か。「全き人」とはどういう人間をイメージしているのだろう。伝統的には「義人」とか「全き人」という表現はキリスト教臭い。ノアが完全な人とは何か。アダムが完全な人であるというのとはかなり異なる。そのアダムも不完全であったことがすぐに露わになる。こういう文脈の中で「無垢の人」とは何か。まだ罪に満ちた世界にあって、罪を知らない幼子のようなイメージである。
フランシスコ会訳では「ノアは当時の人々の中で正しく、かつ非の打ちどころのない人であった」、岩波訳は「その時代にあって正しく、非の打ちどころがなかった」。この訳は参考になる。ノアの人格はあくまでも当時の人々との相対的な関係の中で「まとも」であったという意味であろう。

2018 日々の聖句 10月20日㈯
お前たちは炎の中から取り出された燃えさしのようになった。しかし、お前たちはわたしに帰らなかった。(アモス4:11)

彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。(ロマ3:3~4)

私の黙想:
「炎の中から取り出された」とは具体的に、ユダヤ人なら誰でも知っている「歴史的出来事」を取り上げている。今日の聖句の直前に「神がソドムとゴモラを覆したように、 わたしはお前たちを覆した」。「覆す」という単語がここに相応しいかどうか、議論がある。事実は火山の噴火による災害であろう。その時「塩の雨」が降り注ぎ有名な名所「ロトの妻を覚えよ」という塩の柱ができたという。これと同じようなことがアモスの時代にも起こったらしい。ヤハウェはその災害の中からイスラエルを救出なさったという。そういう災害にも拘わらずユダヤ人たちは悔い改めなかった、というのが本日の聖句である。
当時の人々にとって自然災害は神による警告であり、悔い改めの呼びかけである。現代人は賢くなりすぎて、災害をそういう意味に受けとめる感性がなくなってしまった。

最新の画像もっと見る