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感想文:京都エコーの演奏会「まるごとちはら」

2016-09-28 10:36:54 | 雑文
感想文:京都エコーの「まるごとちはら」の演奏会

去る9月25日(日)午後2時、ロームシアター京都(旧「京都会館」)にて、京都エコーの「まるごとちはら」の演奏会が開催された。私たち夫婦は前日から京都のホテルに泊まり、出かけました。私たちは京都に住んでいた頃から、京都エコーの演奏会には出来るだけ出かけてきました。まぁ、一口で言うと京都エコーの大ファンと言うところでしょうか。
先ず、今回の演奏会について第1印象としては、会場の違いということもあるでしょうが、今までとはかなり雰囲気が違うということでした。何が違うのかよくわかりませんが、何か凄くお上品になって浅井さんのダイナミックさが抑えられているという感じでしょうか。

プログラムの全体は4部に分けられ、中間の休憩時間25分を挟んで、第1ステージから第4ステージまで一寸の隙もない緊張の連続であった。合唱音楽の魅力は、会場全体に響き渡る人の声とそのハーモニーの迫力もさることながら、実は、聞こえているのか、聞こえていないのか分からない極端なピアノシモで響く声である。大勢の男声、女声が完全に一体化し、人声でありつつ、人声を超えて、一つの「うめき」となる。この緊張感はたまらない。とくに京都エコーの場合は、それがかけがえのない魅力となっている。
最初の「オラショ(キリシタンの祈り)では、それを十分に味わうことが出来た。オラショは元々はラテン語の祈りの言葉であるが、ヨーロッパからやって来たカトリックの神父たちから聞き覚え唱えられてきた。キリシタンに対する迫害が強くなり、神父たちが居なくなっても意味がわからないまま継承されてきたものである。最近では、もともとのラテン語の祈りも解読されるようになったようではあるが、日本人の声で、日本人がそれぞれ勝手に意味を込めた祈りであり、意味不明のままで唱えられるオラショが重要である。その意味で、千原英喜氏の作曲によるオラショは、京都エコーの声で、現代に響く祈りとなった。この祈りは決して暗い祈りではなく、信仰の喜びの祈りである。といって、これを爆発的な迫力で歌うべきものでもない。そのバランスが絶妙であった。

第2ステージの「千原英喜アラカルト」。音楽は作曲家によって作曲され、それを演奏家が演奏することによって「音楽」となる。特に合唱音楽の場合、人の声が音源であり、人の言葉がその出発点である。ここに選ばれている6曲は日本の叙情詩の伝統を受け継ぐ詩に、作曲家千原英喜氏の曲により命が注ぎ込まれ合唱曲となった。しかし、それはまだ音楽ではない。楽譜となり印刷される。楽譜になった合唱曲は、作曲家の手から離れ、独立して存在している。通常は、多数の合唱曲の中から演奏家が勝手に曲目を選定し、それを歌うことによって音楽となる。京都エコーの場合は浅井敬壹氏の世界である。今までの京都エコーの演奏会ではそれが当然のことであった。
しかし、今回の場合、それが違った。私たち聴衆には舞台の上に、全身をさらしている作曲家の姿を見て異常に感じた。「出る幕」のないはずの作曲家が、「出ている」。もはやそこは、演奏家たちだけの世界ではなく、作曲家と演奏家とが一体となって一つの世界を作りだしている。どの曲も、特別に迫ってくる迫力があった訳ではないが、この不思議な世界に自分たちも座っているという満足感があった。

そして25分間の休憩。

第3ステージでは団員がすべて真っ黒の衣装に身を包み登場した。これで雰囲気が一挙にレクイエムの世界となった。
「レクイエム、光の中の貨物列車よ」、プログラムには「震災復興への道のりは遠く険しい。いつ終わるとも知れない ”貨物の運搬” 、列車の無限軌道」というコピーが寄せられている。明らかに、東北大震災の風景を背景にしている、と思わせる。しかし、それはただそれだけではなく一つの人生の普遍性が秘められている。
これは「レクイエム」なのだ。通常、日本では「鎮魂歌」と訳され亡くなった人への哀悼の歌とされる。これも大震災で命を奪われた人びとのへの哀悼の意味が込められていると思われるが、実はそうではないようだ。レクイエムとは単なる「鎮魂歌」ではない。「レクイエム」礼拝用語で、死者のためのミサを意味している。「レクイエム(Requiem )」とは「安息を」という意味であり、祈りの言葉としては「主の聖徒と共に永遠の御国で安らかに憩わせてください」(日本聖公会祈祷書、344頁)である。つまり、死者も実は生者であって、永遠の憩いに向かって進んでいるという意味が込められている。
今回の演奏ではレクイエムの第1曲「永遠の憩い」だけが歌われ、後は和合亮一氏の作詩による「光の中の貨物列車よ」の5曲が歌われている。時間の関係でそれも仕方がないことであろう。しかし、この「貨物列車」は「永遠の憩い」行きであることだけは明白にしておかねばならないであろう。その意味で、繰り返される「北へ、北へ」とは永遠の憩いを意味するものと解する。
生者が生きている現実社会の「電車」は始発があり、終電がある。電車は東へ、西へ、南へ北へと急がしそうに走り回っているが、この貨物列車はひたすら北へ北へと走る。時には電車と平行して。人びとはこの貨物列車が見えない。貨物列車にはいろいろな物と共に人間も乗っている。
私は子供の頃、貨物列車、しかも屋根のない貨物列車にすしづめに押し込められ、頭の上には枝や布ぎれがかけられ、ただひたすら真っ暗な大陸の闇の中をヘッドライトも付けずに走り続けた貨物列車に乗った経験がある。1945年8月のことである。北の国境でソ連軍の戦車が国境を越えて進入してきたというニュースにより、満州の新京駅から朝鮮半島目指して逃げ出した特別し立ての貨物列車であった。いつ、どこから「敵」が襲撃してくるか分からない闇の中をガタガタと走った。昼間は危険すぎて走れない。
この曲を聴きながら、その時のことを思い出していた。レクイエムとは死者が「永遠の憩い」に向かう道中を応援する応援歌でもある。

最後のステージでも、団員は黒衣装であった。これは意外だった。タイトルが「心が愛にあふれるとき」だから、白い衣装で出てくるものと思い込んでいた。もう一つ、意外だったのは、五木寛之さんの詩だったことである。私の中では五木さんと合唱曲とがどうしても結びつかない。5曲歌われたが、どれも素晴らしい演奏であった。ということで、このステージ全体のこと、五木さんはもともと小説家であり、これらの一つ一つの詩の背景には物語がある。このステージほど、詩人が前面に顔を出すのは稀である。五木さんのかなり強いアッピールの籠もった詩に、心が震わされて、作曲家千原さんは曲を吹き込んだ感じがする。ここには詩人と作曲家とが対等に向かい合っている。しかし、それだけでは「音楽」にはならない。そこに演奏家が加わって、しかも合唱団としての演奏家が命を吹き込み、「合唱音楽」が私たちの前に現れ出る。このステージは詩人の位相と作曲家の位相と、演奏家の位相との三者が一体化して成り立っている。つまり、三位一体だ。これこそが三位一体の出現である。
第4曲めの「春を待つ」、日本人なら誰でも知っている北朝鮮の拉致被害者たちのことである。一つ一つの言葉、一句一句のイメージが強烈である。とくに「アルバムの写真もなく、読み返す手紙もない」という部分では、思わず泣いてしまった。今の今まで、そのことに気が付かなかった私自身の無知を恥じた。この曲を「涙なしで歌える」合唱団の人たちの冷静さに敬意を表したいと思う。それを繰り返し歌い込んだ賜物であろう。

最後に一言。私は浅井さんの3歳上。おそらく、これが私が京都エコーの演奏会に出かけることが出来た最後になると思う。心から、浅井さんをはじめ団員の方々に感謝したい。どれ程、私の人生を豊にしてくれたことか。本当にありがとうございました。

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