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断想:聖霊降臨日の旧約聖書(2017.6.4)

2017-06-02 08:06:35 | 説教
断想:聖霊降臨日の旧約聖書(2017.6.4)

一つの心  エゼキエル書 11:17~20

<テキスト>
17 それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『わたしはお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。
18 彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く。
19 わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。
20 彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

<以上>

1. 「五旬祭の日の経験」
イエスの弟子たちは、五旬祭、つまりペンテコステの日、彼らは異常な経験をした。五旬祭という祭は、「7週の祭」とも呼ばれ、過越しの祭から50日目ということで、いわば「祭の結びの日」である。恐らく、昇天日から祈り始めた弟子たちの集団にも「この日」こそは、という期待もあったかもしれない。ともかく、この日に経験したことは今までに経験したこともないようなことであった。「気がふれる」ということはユダヤ人社会にもあったと思われるが、この日の経験はそれとも違っていた。室内の異常な雰囲気は外にも伝わり、大勢の人々が集まってきた。少なくとも、室内にいた弟子たちはその人々に「今、ここで」起こっていることをきっちりと説明することができた。
しかし、本当のところ、弟子たち自身「一体何が起こっているのか」ハッキリしなかったに違いない。経験した事柄自体がハッキリしてくるのは、もうしばらく経ってからだと思う。恐らく、その間に彼らがしたことは、自分たちは一体何を経験したのだろうか。これを経験した自分たち自身の集団とはどういう集団なのか、ということであろう。彼らはその問題意識をもって、旧約聖書を読み始めた。その際に、本日の旧約聖書のテキストなどは非常に熱心に読まれたのではないだろうか。

2. エゼキエル書について
エゼキエル書はイスラエル民族とっての大きな曲がり角で書かれ、語られた預言書である。預言者エゼキエルは祭司の家庭で生まれ育ち、恐らく彼自身も祭司であったと思われる(エゼキエル1:1~3)。ユダ王国がエジプトの支配下からバビロンの支配下に移ったとき(BC597)、ユダ王国のヨヤキン王とその側近たちおよび上層部の人々はバビロンへ送られた。これがいわゆる第1次バビロン捕囚で、エゼキエルもその一員であった。バビロンでの最初の5年間は、神殿もない、祭壇もな異国の地では何もすることがなかった。毎日のようにケバル川の畔でただ一人祈っていたのだろう。彼は片時も祖国のことを忘れたことはなかった。その時、祖国の将来について、いろいろな幻を見た。しかし彼は祖国のために何もすることは出来なかった。ただ幻を見ていただけである。
ユダの地に残された人たちは指導層の人たちが一気に抜けたため、親バビロン派、親エジプト派が激しく対立し、それにユダにはエルサレムがあるから神が守るという本土派との三つ巴の状態で大混乱になった。その中にあって、預言者エレミヤはバビロンによるユダの支配はユダの人々の不信仰の結果、神によって懲らしめられているのだからバビロンに完全降伏すべきだと主張した。こういう状態が第1次バビロン捕囚から10年続いた。
そんな混乱が続く中、第1次捕囚から5年目、エゼキエルに預言者としての召命が降り(8:1)、幻の中でユダとエルサレムの現状が示された。それが8章から11章に記されている。その描写があまりにも生き生きとしているので、エゼキエルは実際にエルサレムに行ったのではないかという人もいるが、その議論は学者に任せておいたらいい。この幻の中で重要な点は、10章18節で、「主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった」ということである。要するに主の栄光がエルサレムの神殿から離れたという幻をエゼキエルは見たのだ。じゃ、その主の栄光は何処に行ったのか。エゼキエル書第1章1節でエゼキエルが見た幻と20節の情景とが重なる。この幻を見てエゼキエルは確信する。主の栄光はユダヤの地からバビロンの捕囚民の上に移った。捕囚民こそがユダの将来を担うものであると確信し、捕囚からの解放を信じたのであった。
さて、この聖霊降臨日のテキストは11:17~20である。各地に散らばっているユダヤ人たちが再び集められ、新しい共同体として出発する光景が描かれている。その時にはエルサレムを初めユダヤの地からすべての「汚らわしいもの」が取り除かれ、全く新しい共同体として出発するのだ。「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える」(11:19)。
それからさらに数年経って、バビロンのネブカドネツァル王はユダの地の混乱をこれ以上放置しておくことは出来ないと思い、エルサレム攻撃を再開する(BC587)。その情報により、親エジプト派の人たちはエジプトに逃げる。その際に、預言者エレミヤを無理矢理に連れて行く。その後のエレミヤの消息は知られていない。恐らく、エジプトの地で死んだものと思われている。エルサレムの陥落の報に接し、エゼキエルの預言の内容が変わる。それまでは「警告」が主であったが、それ以後は回復の希望を語り始める。ついでながら、エゼキエルの預言活動はペルシャ王キュロスによる捕囚民の解放令(BC538)年より前、恐らく570年頃で終わっており、解放の日を見ることは無かったであろう。

3.「一つの心」「新しい霊」
聖霊降臨日の特祷に見られるような、教会の「世界性」というような理解はもっと後に生まれてきた思想であり、当初は内面的なものが支配的であったと思う。元来、聖霊の経験というものは、個人の内側への神の直接的な働きかけということである。本日のテキストで言うと「彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける」という出来事である。「心」と言えば、それは「わたしの心」であるが、ここではそれとは違った「一つの心」と言われる。一体これは何を意味するのか。みんなが「一つの心になる」ということなのか。あるいは「ある心」という特別な心なのか。はっきりしない。少なくとも、これは「わたしの心」に対して神から出てくる働きである。これを「新しい霊」という言い方もしている。

3.「石の心」からの解放
このことについて、ここで用いられている説明は面白い。「石の心を除き、肉の心を与える」という。「石の心」と「肉の心」との対比は何を意味しているのだろうか。普通、「肉の心」というと、わたしの肉体に宿る「肉の思い」「我欲」を想像するが、ここでは「石のようなかたくなな心」に対して「肉のような温かみがあり、柔らかさのある生きた心」を意味する、というように解釈される。しかし、ここでの対比されているのは、そんなに単純な事柄ではないであろう。むしろ、その後の教会の形成とか、キリスト者たちの生き方を考えると、この「石の心」とは、彼らをがんじがらめにして、身動きができないようにしている「心」、あるいは「心の有り様」である。彼らを外からも内からも規定する律法でもあるし、伝統的価値観といってもいいし、日本的なものでいうと「家」といってもいい。社会学的にいうと伝統的、自然的「共同体のしばり」から解放され、完全な「個(肉体を持つこの私)」として立ち、新しい共同体への形成力が与えられた、という言い方が最もふさわしい。

4. 世界へ
ここで語られている「新しい共同体」とは、多様な「言語」によって隔てられている世界ではなく、すべての世界を包み込む普遍的な世界である。使徒言行録では次のようにそのことが述べられている。「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」(使徒言行録2:8)。エゼキエル書では「こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(11:20)という言い方をしている。これは、イスラエルの民を特権化する言葉ではなく、「世界人」、神の普遍性に対応する人間の共同体の普遍性、分かりやすい言葉を使うと「人類」を意味する。つまり、ペンテコステにおける聖霊経験を経て、人間は初めて「人類」という地平で共同体を形成することが出来るようになった。これでも、まだわかりにくいならば、キリスト教はユダヤ教という一つの民族宗教から、世界宗教へと飛躍したといえば分かるだろうか。
民族宗教としてのユダヤ教に絶大な価値をおいていたパウロが、ユダヤ教に決別しキリスト教に転向した理由はここにある。パウロはキリスト者ひとりひとりのことを「キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされている」と語り、「墨ではなく行ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」と述べる(2コリント3:3)この言葉は明らかにエゼキエル書の預言を思い起こしている。キリスト者とは、聖霊によって世界に向けられた神のメッセージそのものである。ここにペンテコステの日の出来事を共有する一つの集団の自己理解がある。ペンテコステの出来事はあくまでもわたし自身の内面の出来事であるが、その出来事の結果は、世界に向けられた「神の手紙」そのものとしての意味が自覚されている。これが教会としての自覚である。
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