ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

「復活信仰」と「復活祭信仰」

2017-04-26 09:17:52 | 雑文
「復活信仰」と「復活祭信仰」

この問題は、復活について論じる場合の基本的な問題で、学者の間ではこういうことが論じられているのかということを知って頂くためにも、以前にも一度掲載したことがありますが、その点だけを抜粋して再掲載しておきます。復活について真剣に考える場合の資料の一つです。

http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/7a913297b327120376dac59c6e7ad73a

溝田 悟士
私が「復活信仰を『語りえぬこととして』<括弧>に入れなければならない」と主張しているかについて、正確な説明が必要だと思いましたので、以前掲載した私の卒論の改訂版の、前の部分を掲載しておきます。
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注)
最近新約学者佐藤研氏は「<復活>信仰の成立」という興味深い論文を『現代思想』1998.4に発表し、「復活信仰」の成立に関して「空の墓」の史実性を提唱した教会史家カンペンハウゼンの研究を論拠として新たな理解の可能性を提出しておられるが、氏の意見は、上のブルトマンの見解と鋭く対立するものであろう。
氏は御自身の論を「<復活>表象の一種の<非神話化>」であると語っており「この作業は、かの非神話論者ブルトマンが決してやろうとはしなかったことである。彼にとっては、原始キリスト教宣教の核心である<イエスの死と復活>は、非神話化の攻撃に晒されることのない聖域であった」と述べておられるが、ブルトマンが復活の伝承を分析しようとしなかったのは佐藤氏の考えているところとは別のところにあったと思われる。ブルトマンは「最初にわれわれが問わなければならないことは、あくまで、史的と考えることのできるものは何か、ではなく、キリスト教の伝承として理解できるものは何か、である。そしてこの教会伝承の問いに、史的可能性の問は、それぞれ個々の事情に応じて、組み入れられるか、あるいは従属させられるのである」(注14)と語っている。
ブルトマンを「復活」の伝承の前に立ちすくませたのは、上に述べたような知的誠実さの故であり、元来資料としての使用可能性においてデリケートな地位をしめる復活物語を極めて限定された研究範囲として適用する事にたいする危険性である。ブルトマンの復活に関する理解もその上に立っている。ただ、ブルトマンが復活の問題を非神話化「できなかった」ということは真面目に取り上げられるべきであろう。彼はこう書かれている。「この決断の行為を個々の人がどのように行い、復活祭の信仰がどのように個々の<弟子たち>において成立したのかは、伝承においては伝説のためにあいまいにされているが、内容から見ても重要な意味は持たない」。
しかし、なお次の彼の言葉は今でも強い力を持っているはずである。
「様式史研究が他のあらゆる史学的研究と基本的に異ならず、<循環論証>の一種であることを認識することは、本質的に重要である」(注15)。
つまり、ブルトマンを立ちすくませたその危険性をあえて犯し、「復活」という問題の核心への分析を進める学者としても、ブルトマンの「キリスト教の伝承として理解できることとは何か」という問が徹底して問われる「循環論証」の中で、史的経緯再現の可能性への鍵は開かれるはずである、ということに首肯するべきである。
上の佐藤氏の論文はユダヤ教の思想の大前提「心身一如」(氏はこの前提がどれだけの範囲及び、その限界はどこにあるかを考慮していない)を前提に置きすぎ、かつそれぞれの文書を分析する際、そのそれぞれ個々の文書の内証に信頼を置かずその文書の資料の問題の証拠を他の文書から求めすぎている(一つの文書についてはその文書自体の内証を)と思われる点で、ブルトマンが最大限大切にしようとした
 (1) 各福音書の書かれた順序とそれによる制約
 (2)各福音書の福音記者の執筆動機・目的
 (3)各福音書記者執筆の際、確実にもっていた伝承・資料等はなにか
 (4)各福音書記者の同一の用語・伝承・資料における使用法の差とその原因
に対する考慮を欠いているものであるといえるのではないだろうか。

溝田 悟士 歴史学が循環論証(トートロジー)であるというブルトマンの立場にはあとから限界を感じました。(だからテクストの科学や認識論が必要だと思うわけです)。しかし、ブルトマンが復活信仰そのものを「非神話化」しようとしなかったのは、「聖域」だったからではなく「もはや正確に知ることが出来る方法は存在しない」という歴史家ならではの知的誠実さの故なのだと、今でもおもいます。佐藤氏も出来ぬことを語りましたし、私もこの時点では、もう少し挑戦できる範囲があるものだと考えていました。

溝田 悟士 「最初にわれわれが問わなければならないことは、あくまで、史的と考えることのできるものは何か、ではなく、キリスト教の伝承として理解できるものは何か、である。そしてこの教会伝承の問いに、史的可能性の問は、それぞれ個々の事情に応じて、組み入れられるか、あるいは従属させられるのである」(注14)。このブルトマンの立場は、歴史をむやみに想定することなく、テクスト内容を把握することが先だという点で、極めて妥当な姿勢だと考えています。

文屋 善明 私は細かいことは分かりませんがブルトマンにおいて「復活祭信仰」と「復活信仰」とは別次元のことだと思っています。いかなる祭にしても、祭の「起源」は曖昧なもので祭において重要なことは参加すること、参加することによって自己の中で起こること、それが復活祭信仰だと思っています。

溝田 悟士 そうですね。「復活日の信仰」ということも彼は言っているんですが、それも結局は実際に見て確認し得ない(歴史学的には正確に)と考えています。確かめようがないからです。概念として違うものと理解するしかありません。この点に関して、本書97頁にスクロッグス・グルフの論文を批判していますが、まるで見てきたかのように語る姿勢が非科学的だと感じるわけです。

溝田 悟士 教会の祭儀を通して(これが復活祭の信仰でしょうね)、また聖書や伝承、神学を学ぶことを通して、さらには先輩たちの生き方を通して(これがイエスに従うこと)、復活を信じることは出来ますので、問題はそこだと思うわけですね。

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