ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

松村克己が波多野精一の後継者になったいきさつ(1)

2010-08-04 16:47:43 | 小論
ここに波多野精一が石原謙宛に送った興味深い書簡がある。<全集第6巻、日付は1931年12月12日。>
個人的な書簡ではあるが、もう既に全集で公開されているので、ここでも原文のまま紹介する。
「将来の事は勿論不明であり、又軽々しく口外すべきでもありませんが、両3年中のうちに或いは右両人中のいづれかを私の講座所属の講師として選定しなければならぬようにならうかという気が致します。基督教研究の方面では目下第2回生にApostolische Vaterを研究したいと育っている男があります。ギリシア語もやって居ります。原文でどうにかよめるらしいのです。将来どんなになりますか。ゆっくり根気よく待ちませう」。
その頃、波多野は6年後にひかえた定年退官後の後継者のことで悩んでいたようである。その頃波多野は二人の卒業生に目を付けていたと思われるが、二人とも人間は真面目であるが「特に傑出したというわけにはいかない」と評している。当時すでに講師として宗教学第2講座(基督教学)で波多野を助けていた山谷省吾については、「神学も独学でやったのですから造詣は深くないことはわかっているし、もともとは法科出身であるだけに学問上の欠点も少なくない」と判断し、「講師以上には進めないこと、ほんの一時でいつやめてもらうかわからない」という条件を付けている。つまり、第2講座を委ねる対象からは外れている。
さて、この書簡で触れられている「第2回生」というのは間違いなく松村克己を指している。この頃から既に波多野が松村にひそかに目を付けていたということ、それを石原謙に報告していることは注目に値する。「ひそかに」という意味は、実は松村は宗教学科の所属ではなく「純哲」に属しており、第1の指導教授は田邊元教授である。松村自身も田邊教授に多く引きつけられていた様に思われる。松村の研究課題は1年の初めの頃から既にアウグスチヌスに焦点を合わせており、それなら波多野にもっと近づいてもよさそうであるが、そうはなっていない。当時の哲学科においては専門分野はそれ程明白に分かれていなかったのかも知れない。一方、松村の側からは波多野に対してほとんど興味はなかったように思われる。ついでにつけ加えておくと、松村の回想によると、この書簡が発せられた1931年の秋に、共助会のルートで松村は石原謙の自宅を訪問し、アウグスチヌスについて指導を受けている。(『石原謙博士の人と学問――一つの私的な回想――』「思想」No.627.1976.9)
公にされている石原謙宛の波多野書簡で次に松村に触れているのは、2年後、つまり松村の大学時代も終わりに近づいている頃のものである。昭和8年(1933)3月14日付で次の手紙が書かれている。
「今日論文に関する口頭試問を終わりました。(中略)Mの論文は頗る出来がよく、今日の口頭試問における答弁も甚だ要領を得たもので、田邊君は本年度の哲学専攻の卒業生のうち最上の出来だと言っておりました。なお、M君自身から田邊君に卒業後のことについて話をする際、奨学金を受けることや研究の事項などについても話をしたそうで、田邊君も大いに喜んでくれました。
なおM君は長男で下に4人ある様子です。母親がなかなかしっかりして居るらしく、本年高等女学校を卒業の妹と一緒に下宿屋をはじめるのだそうです。中学校卒業の弟は自活の道を求め、他の一人の弟は養われて他家をついで居る故もはや心配なく、残る一人の中学在学中の弟の世話は母と妹とでするという計画だそうです。母親は進んで本人の学問の道に志すのに同意してくれたそうです。」
この書簡から推測されることは、松村は卒業後の進路について当時哲学科の主任教授である田邊先生に相談する前に波多野先生から奨学金のことについて相談されていることである。この奨学金というのは実は第2講座を設置するに際して「渡辺資金」というものが寄付されたのである。当時の貨幣価値で13万円、昭和6年7月16日付の石原宛の書簡によると、独立の講座を維持するためには最低15万円必要であったとのことである。実は、この「渡辺資金」の外に、波多野先生は石原先生経由で毎年500円の奨学資金を預けられていた。それは将来、神学を専門とする者の育成のための資金であったらしい。前回の書簡で触れたRもZもこの奨学金を受けている。

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