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ぶんやさんの記録

断想:降臨節前主日(特定29)(2017.11.26)

2017-11-24 20:27:18 | 説教
断想:降臨節前主日(特定29)(2017.11.26)

王の王、主の主 エゼキエル34:11~17

<テキスト>
11 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。
12 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。
わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。
13 わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。
わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。
14 わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。
彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。
15 わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。
16 わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。
17 お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。

<以上>

1.降臨節前主日
この主日は教会暦では1年の最後の主日である。この主日について、祈祷書学の専門家で、現在の祈祷書改定の中心的役割を果たした森紀旦主教は次のように述べている。「ローマ・カトリック教会では「王であるキリスト」の主日と呼ばれています。この主日は1925年12月11日の回勅によってピウス11世(1857~1939)が制定した祝日です。(中略)この祝日はキリストが王としてあまねく支配していること、それが目に見える形で実現し、全人類がその王国で平和のうちに生きることを望むようにと、世界の歴史の最終的な目的の日の実現を祝い願う日です」と述べている(『主日の御言葉』153頁)。それをいくつかの聖公会(カナダ併用85年、南アフリカ89年等)で取り入れてきたということで、日本聖公会でも祈祷書の改定の際に取り入れたというのである(1990年)。森主教とは主教に按手する前に京都教区の聖職試験委員でご一緒しましたが、この主日についてはことのほか力を入れておられたようでした。因みに、前掲書の表紙では「王なるキリストと4福音書」の画像が描かれている。現在の祈祷書はカトリックの影響がかなり強く出ており、私はいくつかの点で疑問を持っている。その一つが、この「王なるキリスト」の祝日である。以前の祈祷書にはなかった祝日である。
伝統的には「王なるキリスト」という概念そのものは古くからあるが、キリストを「王」として認識するキリスト教は果たして正統なキリスト教であろうか。むしろ、そこにローマ以来のキリスト教の問題点が凝縮されているのではなかろうか。むしろ、私たちが受けとめているキリスト教とは「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6,7)キリストでなかろうか。私たちにとって重要な点は、私たちの主は、下僕のなかの下僕になられたキリストであり、そのキリストを「主」と告白し、その主に倣う者である。その意味ではこの主日は「王なるキリストの主日」というよりも「下僕なるキリストの主日」である、と私は考える。

2.牧者としての神
この日の福音書は、マタイ25:31~46で、そこでは「栄光に輝く人の子」の姿、最後の審判における審判者としての王の姿が描かれている。いかにも「王なるキリストの日」の福音書である。しかし、よく読んでいくと、この「王なるキリスト」の関心事は、「最も小さいな者」への私たちの配慮の問題であり、最後には「最も小さい者」に対する私たちの姿勢が「王なるキリスト」への姿勢だと述べられている。つまり、王なるキリストは「最も小さな者」の姿をしているというのである。それを受けて、旧約聖書の日課は、エゼキエル34:11~17が読まれる。このテキストが選ばれた理由について、森主教は「旧約聖書においては、神が「羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く」(17節)という句が福音書の31、32節と関連していること、また神が「失われたものを尋ね求め、追われるものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くすることは、「最も小さい者」の苦難の状況に対して愛を実践する事柄に応じている」と説明している。
聖書は正直だ。いくらキリスト者がキリストを「王の王」として高揚しようとしても、その「王」は下僕の形をしたキリストなのである。そして、私たちが社会における「最も小さい者」にどういう態度をとっているのかが、問われる。

3.「王の王、主の主」
チョット寄り道をしたい。それはこの日の特祷に出てくる「王の王、主の主」という言葉についてである。この言葉はヘンデルのオラトリオ「メサイア」に含まれている「ハレルヤ合唱曲」に出てくる言葉である。一度でも「メサイア」を歌ったことのある人なら、この「ザ・キング オブ キングス、ザ・ロード オブ ローズ」の部分を歌ったときの感動を忘れることが出来ないだろう。
その歌詞を日本語で言うと、次のようになっている。
  ハレルヤ、全能の神、私たちの神である主、ハレルヤ!
  この世の国は、我らの主と、そのキリストのものとなった。
  主は世々限りなく統治される、ハレルヤ!
  「王の王、主の主」、主は世々限りなく統治される、ハレルヤ!
この曲が、ロンドンにおいて初めて演奏されたとき、そこに臨席していた国王ジョージ2世が、感動のあまり思わず立ち上がったといわれている。それ以後、この曲が演奏されるときに、聴衆は起立する習慣になっている。
聖書には「王の王、主の主」という言葉が、あるいはそれに類似した言葉がいくつかある。先ず、テモテ第1の手紙6:15、「神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン」。ここでは終末の時にキリストが「王の王、主の主」として再臨されることを誉め称える文章である。
ヨハネ黙示録17:14では「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める」。ここでのキリストは世の終わりにこの世の悪の勢力と戦い勝利する「小羊」として描かれている。
もう一個所、ヨハネ黙示録19:16にもある。「この方の衣と腿のあたりには、『王の王、主の主』という名が記されていた」。
以上の3つのテキストを読む限り、キリストは「王の王、主の主」として悪の勢力と戦い勝利するものとして描かれている。勿論、それは神話の上での話であるが、私たちが信じているキリストは果たしてそのような王であろうか。

3.私にとって主とは何か
私たちにとってキリストは、こういう意味での「王」であろうか。そうではない。キリスト者の信仰生活においてキリストを「王」と呼ぶことはない。あるとしたら、それは特殊な場合で、例えば、東の3人の博士たちがキリスト誕生の際にヘロデ王のもとを訪れ、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」(マタイ2:2)ぐらいで、これは明らかに間違いであった。
あるいは神学的な議論の中で、キリストは「油注がれた者」として、王としての機能、預言者としての機能、あるいは祭司としての機能を持つというような議論をすることはあるが、それはあくまでもキリストの働きに関することである。
あるいは、ピラトの前での裁判において、イエスは「ユダヤ人の王」として処刑されたということをいう場合もあるが、それはむしろ「敗者」としてのイエスの姿である。
従って、イエスを、あるいはキリストを「王」として祝うという信仰には根本的な誤りがある。
その意味でいうならば、私たちにとってキリストとは、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6,7)キリストでなかろうか。私たちにとって重要な点は、私たちの主は、下僕のなかの下僕になられたキリストであり、そのキリストを「主」と告白し、その主に倣う者である。その意味ではこの主日は「王なるキリストの主日」というよりも「下僕なるキリストの主日」と呼ぶべきである。
私たち、キリスト者はイエスに向かって「主よ」と呼びかけることによってキリスト者である。従ってキリスト者がキリストに向かって「主よ、主よ」と呼びかけることは間違いではない。ただ、それは「王の王」ではない。

4.「主よ、主よ」と呼ぶもの
一年の最後に、私たちはイエスに向かって、あるいはキリストに向かって「主よ、主よ」と呼ぶものとして、次の聖書の言葉を思い返し、振り返るべきであろう。
「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう」(ルカ6:46,47)。

《ハレルヤ下僕なる主に栄光あれ、我らの模範我らの土台》
《一年の終わりに立ちて振り返る神の恵みを一つと一つ》

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