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読書記録:宮田光雄『カール・バルト、神の愉快なパルチザン』(岩波現代全書)

2016-08-02 12:40:29 | 雑文
読書記録:宮田光雄『カール・バルト、神の愉快なパルチザン』(岩波現代全書)

この「嵐」の中で、地元のスイスからの批判、とくにヨーロッパ各地の平和主義者からの懐疑と反対の声が寄せられていたことも見逃せないであろう。
たとえばオランダのキリスト教平和団体「教会と平和」の婦人代表からの声は、当時の複雑な精神状況と反応を示すものとして注目を引く。彼女は、目下の「政治状況に直面して」なお平和主義の「原則」に固執すべきか、それとも、それを考え直すべきか、バルトの助言を求めてきたのだ。
「戦争は地獄です。しかし、それに劣らず独裁制は地獄です。私たちは平和を欲しています。けれども、どんな平和でもというわけではありません。一つの小国がナチ暴力という狼どものために犠牲とされて購われる、そんな平和を欲するのではありません。私たちは、いま何をしなければならないのでしょうかと。
それに直ちに答えた同じ1928年10月24日付けの手紙で、バルトはいう。
「教会は、たしかに平和を宣べ伝えることができますし、また、宣ベ伝えなけれぱなりません。しかし、教会は、いつも新しい状況の中で、その都度、神の言葉から、いま平和ということで何が理解されるベきかということを、聞きとりうるように心を開いていなければなりません。
・・・・・国家が平和を守るということは、正しい国家の任務です。しかし、まさに守るのであり、正義と自由とに仕える平和、かつ正義と自由とにおいて実現するというの平和を守るのです。ただこの平和においてのみ、じっさい、福音もまた宣べ伝えられ得るのです」。(宮田光雄『カール・バルト、神の愉快なパルチザン』(岩波現代全書)94頁)

1940年前半の数カ月間、(註:その頃スイスはナチの軍隊によって完全に包囲されていた)バルトは、ベルン州内の多くの諸教会を回って「キリスト者の武器と武具」と題して講演した。その中で、彼は、ナチズムという「反精神」(ungeist)に対して、まずエペソの信徒ヘの手紙6章(10~17節)に記された信仰の闘いのための「神の武具」——「真理の帯」 「信仰の胸当」三から 「救いのかぶと」「霊の剣、すなわち神の言葉」 など——について講解した後、スイスの自由と中立性の政治間題について具体的に論じている。
「私たちの中立性とは——その中で私たちが今日代表している孤立した姿においてであっても——私たちが世界史的に非活動であるように定められていることを意味するわけではありません」。
「私たちの中立性が意味しているのは、端的に、われわれは、われわれ自身からはいかなる戦争をも始めず、またわれわれ自身からはいかなる戦争にも介入しないであろうということなのです」。
「私たちがこの私たちの中立性を守ろうと努めるまさにそのことによって、私たちは、私たらの割当分としてヨーロッパの秩序をも守っているのです」。
講演の最後で、バルトは、極めて厳しい現実を直視すべきことを説いていた。
「神は、たしかに、ご自分の正義を防衛したまうでしょう。しかし、神は、私たちの正義を——もしくは私たちが正義とみなしているものを——防衛したまうというとはないでしょう。神は、必然的に私たちのスィス国境を、私たちの自由と中立を防衛したまうというのではないでしよう-。神は、いかなる国旗にも縛りつけられてはいないのです」。
こうした厳しい現実認識を踏まえて、なお忍耐しながら闘うことを可能にするのは、——バ ルトがつづけて語るように——「終末の日には、いよいよもって神は、「現に」私たらの味方であられるまさにその方としてあらわれるだろう」という根源的な信頼にもとづくのだ。ここでもまた、バルトの基本的姿勢は明白である。すなわち、終末論的な「慰めと警告」とのゆえに、それにもとづいて「時間の中で神に服従する」ことができる。「神への恐れは、私たちを臆病にするのではなく、勇気ある者とするのです」。
この講演がなされた頃、54歳のバルトは、みずから志願して補充予備役のスイス軍兵士となった。「第五歩哨中隊」の老兵として「おそらくあまりよい戦士でも、こわい戦士でもなかったけれども」——上官が好意的に命じる事務室勤務を断わり——ライン河の国境警備の任務についた。戦争が終わるまで「総計104日間」この勤務を果たした。
この間にバルトらしい面白い話が伝わっている。バルトが参加した野戦訓練の際、指揮した曹長殿は、たくさんの部下の名前を1度に覚え込むのが頭痛の種だった。彼は、隊列に沿って歩きながら、最後まで来ると、先に聞いたばかりの名前を再び忘れてしまうのだ。そこで各人の位置の前に名前を書いた厚紙を持たせることにした。彼は、もう1度、最前列を見て回った。「バルト」という札のところで立ち止まった。「バルトか、君はカールというのか」。バルトがそうだとうなずくと曹長は尋ねた。「君はあの有名なバルトと取り違えられたら、どうするのか」。バルト答えて日く。「そのときには、どうにも仕方がありませんね」。(宮田光雄『カール・バルト』117頁)

「いかにしてドイツ人は健康になりうるか」
5年にわたる戦争ののち、『第三帝国』は、ヒトラーの自殺とともに終わりを告げた。
1945年には、バルトは、2つの小冊子『ドイツ人とわれわれ』『いかにしてドイツ人は健康になりうるか』を公刊した。対ドイツ憎悪の冷め切らない連合国側にたいして、バルトは、まったく別のものを訴える。すなわち、「今日、われわれにあたえられている方向を歩むようにドイツの人びとを激励するという課題」に、連合国側の人びとも加わることを希望する。それは、フロマートカ宛書簡の論調とは、何と異なっていたことであろう。
爆撃で廃墟と化したドイツの街々、いっさいの社会的・政治的構造の解体、『大ドイツ』の4占領地域ヘの分割などの現実の只中で、もはや何ぴともドイツ国民の名において語ろうとは考えていなかった。こうした状況にたいして、バルトは、過ぎ去った戦争がただヒトラーの支配を打ち倒すことを目差したのであり、ドイツ国民を滅亡させるためではなかったことを明らかにする。ドイツ国民は、なるほど、ヒトラーの行為にたいして共同の政治的責任を負うてはいた。しかし、同時に、彼ら自身もまた、その最初の犠牲者だったのだ。勝利と解放が祝われるいま、ドイツの将来ということこそ連合国側の最大の関心事でなければならない、と。
こうしたバルトの言葉には、ナショナリズムや政治的プロパガンダの臭いは、まったくない。みずからの正当性におごり、罪人を断罪する姿勢とは無縁だった。ヨーロッパの平和再建のために前提されるのは、キリスト論的な和解の精神にほかならない。パリサイ主義的態度を止めて、みずからもまた神の赦しを受けとる者として、はじめて他者=ドイツ人をも許すことができよう。いわば教師として臨む代わりに、友人として振る舞うべきことを訴えているのだ。むろん、この友情にはドイツ人にたいして現実に生じた出来事について真実を語り、それによっていっさいの責任回避や言い逃れの余地を認めないということも入っている。ドイツ人は、他者に転嫁しえない自分自身の責任を引き受け、そのことを通じて政治的に成熟すベきである。
バルトは、 ドイツの新生がその罪責告白を不可欠とすることを知っていた。しかし、「福音が前面に出ることによって、心のうちに福音をもつことによって、われわれは、彼らの友人、無条件的に彼らに味方する者となることができるだろう」(『ドイツ人とわれわれ』)。(宮田光雄『カール・バルト』131頁)

バルトによれば、戦後ドイツの精神的再建のためには、ドイツ人は、いつまでも観念的・世界観的な世界にこだわり、それを自負することを止めなければならない。いつまでも「行動力乏しく、思想性に豊か」なままでありつづけるには及ばないのだ。むしろ、ドイツ人は 「日常的な政治にたずさわる能力」を身につけることが必要なのだ——「少しばかりイギリスやスイスの模範にならって」。「日常的な政治」というのは、市民社会の中で共に生きる人間仲間として共同の生活規範をつくり出していくことであろう。
「他の人と共に一つテブルにつき、互いに語りあうことが重要である。互いに哲学しあったり、(保守的、社会主義的、国家的、国際的、キリスト教的、さらに無神論的な)理念を投げつけあったりして対立するのではなく、・・・・・まさに生きるために互いに他の言葉に耳を傾け、その時々になしとげうる生の可能性の中から最善のものを、あい共に見いだし実践することだ」。
「互いに耳を傾け合い」、さらに「誰も自分の確信に反する意見を抱いたり、他者を死ぬほど苛つかせたりすることなく」、その都度、さらに一歩を進めるような 「有益で、さっぱりした、よい妥協」を見定めることができれば、何と素晴らしいことではなかろうか!」。このようにバルトが訴えているのは、多元性と他者性とに開かれた『公共的社会』の中で、自由な討議を通して多数の者が共同の世界を形成し、それに参加するにいたることである。すなわち、政治学的に言い直せば、『公的なもの』を何らかの上なる権威や国家の手に独占させた統合ではなく、真に『政治的なもの』を回復すること、それによって、醒めた思考と責任ある行動とを共になしうる『市民となること』、真に『成人した国民』を目ざす勇気をもつことなのである(E・フォルラート『政治的なものとは何か』1983年)。
(宮田光雄『カール・バルト』134頁)

註:ここに、戦後ドイツで起こった「エヴァンゲーリッシェ・アカデミー」のTagungの理念がある。ドイツ教界の方々の強い支援により、日本にも財団法人「日本クリスチャン・アカデミー」が成立し、当初、大磯に「アカデミーハウス」(後に箱根に移転)、つづいて京都に「関西セミナーハウス」、北海道白老に「アカデミーハウス」が建てられ、日本における「はないあい運動」が展開された。

ボン大学での客員講義
1946年には、——さらに翌年にも——夏学期に、バルトは、かつて追放されたボン大学から客員教授として招かれた。旧選帝侯城だつた大学の建物は、まだ戦災で半ば崩れたままであった。当時の聴講学生の回想によれば、教室の座席はもちろん、床上から出窓にいたるまで満席だった。
授業は、バルトがボン大学を追放される前と同じように、毎朝、彼がボケットから「ローズンゲン」を取り出し、その日の 「ローズングー」と 「教えのテキストー」を朗読し、 賛美歌を歌わせることから始められた。バルトは、「いずこにても、豊かに、肉の糧があたえられますように」という歌詞の入った賛美歌を好んで用いたという。「むろん、 彼は、私たちのお腹がグゥグゥ鳴っていることを御存知だったのですから、と、かつての女子学生は回想している。
こうした環塊の中で、バルトは、「厳密な下書き原稿なしに」、『教義学要綱』(1947年)について自由に講義した。彼が大学教授として講壇に立ってから、丁度50回目の学期に当たり、彼自身も「これまでで一番素晴らしい学期だったという印象をもった」と、本書の「序文」に記している。
「使徒信条」講解の形をとったこの講義は、キリストの恵みに生きるキリスト者の自由と喜びを活き活きと伝えてくれる。「信仰」とは信ずる者の側の主観的な誠実さや熱意によるものではなく、信ずる「対象」によって規定されているという断固たる主張につかれている。神の恩寵の客観性が、さまざまの表現で指摘される。すなわち、神の恵みは「信ずると否とにかかわらず」妥当する普遍性をもつ、ということが力強く繰り返される。
しかし、同時に、「信仰とは告白を意味する」。「告白」とは、イエス・キリストの真理にたいする信ずる側の主体的な信頼と認識とを「公共的に弁明すること」である。「私的状態から歩み出て、決断と責任と公共的状態の中ヘ歩みいること」にほかならない。この「告白」において、教会が世のために存在するという課題が明らかになる。教会の証しは、必然的に「一定のこの世的な態度決定」を生む。それは、バルトが教会闘争の体験を踏まえて付言するように、「政治的態度決定」となってあらわれもするであろう。

この問題については、とくに第16講「ボンテオ・ピラトの下に」の中で解明される。まず冒頭で、元来、キリスト教信仰とは縁のないボンテオ・ピラトという人物が信仰箇条の中に出てくる様子が曰くありげに語られる。「多少粗野にまた皮肉に聞こえるかも知れないが、それは、ちょうど犬が立派な部屋に入って来るようにである」と。
このエルサレムにおける「外国占領軍の軍政府の司令官」の演ずる役割は、けっして「芳しいものではない」。イエスを無罪と認めながら、「政治的顧慮」によって、「群衆の叫びに屈して」イエスを引き渡し、軍隊に命じて、十字架刑を執行させるのだ。「国家権力が、ここでは差し当たり、その否定的な姿において——その完全な人間的顛倒と不正において——示されているということは明らかである」。しかし、バルトは、 まことに独特の発想から、ピラトが結果的には、「最高の正義」を行なわざるをえなかったのだと断定するのだ。
「なぜなら、義しき方であるイエスが、不義なる人間の代わりに死にたもうということ——したがって、この人間が(バラバが!)イエスの代わりに放免されるということは、イエス~キリストにおける神の御心であったからである」。
すなわち、バルトは「国家の秩序の堕落」を代表するピラトが、結局「新約の執行人」として、イエス・キリストの勝利に手を貸さざるをえなかったという逆説的な事実を指摘する。そこから引き出されろ結論はこうだ。
「キリスト者は、 この国家の担当者のために祈る。 それゆえにこそキリスト者は、国家の秩序のために責任を負う。・・・・それゆえにこそポリスのために最上のものを求める。——能うる限り悪しき倒家を選ばず・欲せず・正しい国家を選び・欲する」。
そうしたキリスト者の「政治的態度決定」を支えているのは、「政治生活いいて神の正義が人間によって誤認され蹂躙される場合にも、神の正義は、イエスの苦しみのゆえに優越していることを確信している」 からである。
バルトが講義の最後につけ加えた次の言葉からは、ナチ・ドイツとの厳しい戦いを神の恵みによって勝ち抜いた者の誇りやかな気概の一端が、ほとばしり出ているかのようである-。「悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨をするように、<神の>配慮がなされているのである。その場合、キリスト者がどうしてピラトのような輩となることができようか」——「外国占領軍」の「制服(!)を身につけたピラト」のような輩に!
ナチ・ドイツ時代には、「制服」をまとった人間が大きな顔をして幅をきかせていた。 有名知識人の中には、「 SS(親衛隊)」高級将校の「制服」を身につけて記念撮影の写真の中に得々と収まっている人たちもいたのだ。国際連盟からのドイツの脱退に際して、ヒトラー札賛の熱弁を振るった哲学者ハイデッガーや神学者エマニュエル・ヒルシュのように。(宮田光雄『カール・バルト』143頁)

「東と西の間にある教会」
プルンナーとの論争(「自然神学論争」ではなく、鉄のカーテンの向こう側の教会についての論争)を契機として、バルトは、同じ基本線に立ちながら、問題をいっそう詳細に「東と西の間にある教会」(1949年)の中で論じている。ここには、バルトの立つ内的自由の大きさとその政治的思考の独自性が、いっそうよく示されている。
この場合、とくに注目されるのは、バルトが西の世界に生きているゆえに「西欧的偏見」の存在や「西欧的環境の圧力」にたいして、たえず自己批判をもちつづける姿勢を失わないように自戒していることだ。
「われわれ西方の判断を、直ちに、正しいキリスト教的な判断でもある、と思いこまないように用心しなければならない」と。
かつて「ロマ書」を執筆した頃、バルトは、西欧社会をキリスト教と一体化させた近代文明にラディカルな疑問を投げかけた。それが、彼の画期的な神学形成の出発点となった。その後、教会闘争の時代には、キリスト教をゲル マン精神と一体化させようとした「ドイツ的キリスト者」やナチズムと闘った。同じように、ここでは、西の世界をキリスト教社会と一体化させる反共主義の誘惑にたいして批判の目を向けようとしているのだ。そこには、たえず時代精神に抗する「被同調者(ノンコンフォーミスト)としてのバルトの姿勢があらわれている。彼自身、1948年以後10年間の自分の歩みを回顧した文章の中で、彼を誹謗するために張られてきたレッテルの中に、この言葉を入れてもいた。
「人びとは、私を隠れ共産主義者か、少なくてもその同行者という嫌疑をかけるのでなければ、政治についてはナィーヴな素人か——非難の意図をこめて、ある預言者(エレミヤ?)と比較し——市民社会を当惑させて意地の悪 い喜びを味わっている原理的な非同調者とみなした」(『バルト自伝』)。

しかし、彼は、けっして「ノンコンフォーミズム」を自分の行動原理としていたのではない。むしろ、 時代の潮流に立ち向かっていくバ ルトの自由で柔軟な精神は、つねに恵みの神ヘの信頼と希望を可能にする「キリスト論的集中」——すなわちバ ルト特有の「コンフォーミズム」——に支えられていたことを見逃してはならないだろう。バルトは、人びとが見ないもの、見ようとしないものを見るのだ。
10年前には言うことが違っていたではないか! と いう批判の声にたいして、彼は断言する。「然り、10年前には違うことを言わなければならなかったのだ」と。すなわち、ナチズムにたいしては、当時、その危険を警告し、抵抗の精神を強めねばならなかった。じっさい、10年前に緊急かつ義務でもあった「一義的な否」を表明するには、「幾ばくかの犠牲を払う」覚悟が必要だったのだ。しかし、いまや人びとは「強請する」。東の世界にたいして「昔と同じアクセントで再び語らなければならない」と。あたかも歴史上にこんな素朴な反復が存在しているかのように。(宮田光雄『カール・バルト』152頁)

『教会教義学』遺稿を読む(212~226頁)

ここでは著者は、バルトの『教会教義学』の遺稿となった部分から、
「主なき諸権力」の支配
「レヴィアタン」=政治的絶対主義
「マモン」=財神
「イデオロギー」
「地霊たち」=「地上的なもの」
の5項目を取り上げ、最後に「御国を来たらせたまえ!」で締めくくっている。

これらの遺稿については『バルト全集』の編集者エバーハルト・ユンゲルは「本書の断片的性格の故にそれを過小評価してはならないといましめ、むしろ、『教会教義学』全体の理解を促進するものがあると評している」(226頁)。
それらの中から,ここでは「レヴィアタン」と「マモン」の項を取り上げている。

「レヴィアタン」=(政治的絶対主義)
「政治的なもの」のデーモン化を論ずるために、ホップズの「リヴァイアサン」との対論が試みられている。冒頭でバルトは、ホップズの「預言者的な炯眼」について高い評価をあたえている。ホップズが「最高の哲学者的沈着さをもって語り、しかしまた予言者の抑制された情熱をもって、現実性としてのみならず、真理として、否、唯一の真理として宣べ伝えたのは、まさに古代・中世.・(とりわけ)近代の政治史全体の背景を成しているところの現実性なのであった」。
そこには、ホップズ以後、数世紀にわたって出現した多様な政治支配が「近似値的形態」において記述されているのだという。それは、ついに20世紀の「いわゆる全体主義国家もしくは独栽制国家」、すなわち,ファシズム、ナチズム、スターリニズムにおいて「自己啓示」されているものである。その典型例としてヒトラー支配を引いておこう。
「次のような政治組織体、すなわち、その構成員にとっては、「指導者たちと」同様その狂気じみた原理に酔い痴れ興奮するか、さもなくば、その構造と営みとに(すくなくとも)事実として自己を均制化するか、あるいは反対に、それに抵抗しつつ犯罪者(国事犯)となり、そのような者としてその車輪の下敷きになって轢かれて仕舞うか、いずれかしか残されていないような政治組織体という観念(イデー)。まさに以上のょうな観念こそが、あの「指導者(フェーラー)たち」を魅了、彼らに悪霊的力を吹き入れるところ権力(ゲヴァルト)であり、また、この「指導者たち」を通して、無数の人びとを魅了し、この人びとに悪霊的力を吹き入れるところ権力である。それは、すなわち、ひとつの主なき権力である。なぜなら、実にあの「指導者たち」自身がこの権力の主では全然なく、むしろ、この権力によって取り憑かれてしまっていたからである」。
ホップズは、たしかに、こうした政治的絶対主義を肯定し、また要求する思想家だった。しかし、バルトは、断同として言い切っている。ホップズとは「逆の立脚点に立ちつつ」、彼が見ていたもの 知っていたものを同じく見、かつ知ることこそ、キリスト者としての「物見の役」でなければならない、と。
バルトが国家制度の問題を法の形成とそれにもとづく統治と規定し、権力行使が法との結びつきを失うならば「政治的なものの魔性」が生じ、「人間を助け、人間の生を守り、平和をもたらす秩序」ではなくなる、と語り、「権力を規定し限定する」必然性に言及するとき、それは、「バルメン宣言」第5テーゼを思い起こさせるであろう。(216頁)

「マモン」(財神) <主なき諸権力>の第2の形態としての「マモン」が取り上げられる。
この「マモン」という言葉の語源は定かではない。しかしバルトによれば、これは「政治的なものの魔性」と同様に「神話化」し語られつつ、人間の偶像となり、その「最高に活発な悪霊どもの一つ」となった物質的資産=財産のことである。財産というものは、元来、人間の生計を保障・確保するための人間の力である。しかし、それが神から解き放たれた人間によって用いられるとき、「マモンが生まれ、その王座に就き、マモンヘの崇拝が始まる」。
経済学的に言えば、物の使用価値から交換価値が独立して、財産を貨幣として確保し、蓄積し、拡大する過程が自己目的化する。そのとき、人間は、貨幣を所有するのではなく、貨幣に所有されるという逆転が生ずる。バルトは、ここで、簡潔ながら、驚幣、さらに商品の「物神化」というマルクス的経済学の理論を要約しているのである。
貨幣は、 その媒介的機能にもとづいて——紙幣の発明から信用にる口座取引にいたるま で——抽象的な形態でも出現する。バルトは、「マモン」の現象と限界性、さらに社会過程の導管としてのその権力の展開を正面から見定めている。彼は、ますます無形態となりながら、いっさいの人間的価値を象徴する貨幣の自立化と『主なき権力性」を正確に批判する。
「この道具は、ある時は景気を上昇させ、ある時は同じ景気を下降させる。ある時は恐慌を食い止め、ある時はこれを引き起こす。ある時は平和に奉仕し、だがしかし平和の只中ですでに冷たい戦争を遂行し、流血戦争を準備し、ついには引き起こす。この道具は、ここではあらゆる種類の一時的な楽園(パラダイス)を造り出し、かしこではそれらの楽園にただあまりにも対応した地獄を造り出す」。
この引用の最後の文章には、「主なき権力」と化した貨幣の支配によって、ますます富を集積する「北」とますます貧困化していく「南」へと分極化されつづける世界の窮状が鋭く言い当てられている。しかも世界を分断し、できるだけ広く地球の各地を隷属させようとする経済的権力は、その力をいつまでも保持しつづけるために、世界支配的な政治的権力をも手中にしようと互いに競争するのを止めない。
「もしもマモンがたとえば別の悪霊、すなわち、レヴィアタン、あの政治的絶対主義と出会い、競合し、結託するようなことにでもなるとしたら、一体、そこから何が生まれるのか、見極め難いほどである!」。(218頁)

バルト神学におけるユーモア(226~228頁)

バーゼル大学の教室で
これらの章を読み進むにつれて、私には、バーゼル大学の教室の雰囲気がまざまざと思い出され、バルトの肉声や表情までよみがえってきた。とくに「地霊たち」を論じたくだりは忘れがたい。
政治・経済・思想の権力についで何が出てくるか——聴講者の意表をついて、『地霊」具体例として「流行(モード)」があげられたとき、教室中には軽いざわめきが起こった。やがて女性の衣装から男性のひげ——「カイゼルひげは、なかんずく威厳にみちています」——にいたるまで「自由世界においては」流行遅れになることは不可能である、といった諧謔まじりの講義に、教室はしばしば爆笑に包まれた。さらに「特別な地霊の遊び場」としてスボーツがあげられ、スウェーデンで開かれたサッカーのワールドカップをめぐる国際的な熱狂ぶりが詳細に説明される。 「大神学者」とすぐには結びつき難い蘊蓄の程に聴講者一同が感心していると「これは、最近、小さなサッカーの本で読んだのです」と種明かしをして、その悪戯っぽい微笑が一同の笑いをさそうという調子。
ちなみに、これらの引用は、残念ながら講義の遣稿には載っていないアドリブのユーモアであった。
バルト神学におけるユーモアの重要性に改めて注目させられる思いがした。実際、「御国を来たらせたまえ」の祈りをめぐって、バルトが再三にわたり「神の笑い」(詩2:4、註:「天に座するものは笑い、主は彼らを嘲られる」)について言及しているのは偶然ではない。バルトが「相対的可能性」の領域において、われわれ人間が「まったくの安らぎと晴朗さにおいて、自分たちのことを行なうように解放されている」というとき、バルトのユーモアのもつ政治的射程の大きさを、あらためて考えさせられるだろう。
バルトの諭文や著書を読んだだけでは、彼の活き活きした表情(ミミーク)に表われる発想の豊かさやその魅力は、十分に伝わってこないのかもしれない。これは、若き日にボンヘッファーやハインツ・E・テート教授がバルトの講義やゼミに参加したときに、すでに感知されていたものだ。「バルト本人は、その著書を超えている」と。
『和解論』の最終講義でも、全体としてみたとき、バルトが、じっに自由に、のびのびと語っているという印象を受ける。あたかも福音の喜びを語る説教のように。ここには、教義学という言葉にたいして抱かされる固さや謹厳すぎる悲壮惑といったものが、まったく認められない。それは、彼が別のところで語っている通りではなかろうか。「キリスト者は、根本的に言って、彼が喜びをもち、じっさい、自分の仕事にユーモアをもつときにのみ、よい神学を営むことができるのです。ただ不機嫌でない神学者が! ただ退屈でない神学を!」と(『公開書簡1945~1968年)。(宮田光雄『カール・バルト』228頁)

『カール・バルト』しめくくり

私の友人ゴットホルト・ミューラー(ヴュルツブルグ大学教授・故人)から、かつてバルト最晩年の面白いユーモア話を伝える手紙を貰ったことがある。彼は、当時、バーゼル大学神学部の若手講師として、いわばバルトの同僚になっていたのだ。それは、バルトが亡くなる2、3週間前のこと、ブルーダーホルツのバルト邸を最後に訪問した際に聞かされた話だという。
「私は、もうまもなくこの世を去ることになるだろうと思う。私は、いまから、こんな場面を想像できるのです。私が干し草を運搬する荷車を引いて天国の門に到着すると、例のペトロが笑いながらこう問いかけてくる。『カールさん、あなたのその荷車の上に何を載せているのかね』。私が自分の書いた『教会教義学』ですと答えると、ぺトロは腹をかかえて大笑いする。そのときの様子が今からわかるのですよ」。
これは、むろん、バルト特有の自巳アイロニーにほかならない。10数巻に及ぶ彼の「神学大全(スンマ)」の中で、バルトが心を砕いてきたのは、いっさいの人間の側からの自己主張的言説を——むろん バルト自身のものもふくめて——断固として退け、ただ神の恵みと栄光をのみ賛美するということではなかったのか。バルトは、未完こ終わったこのライフワークに打ち込んできた自分の生涯全体を笑いとばしているのだ。
すでに引いた『教会教義学』の『創造諭』の中で、「摂理」について論じた冒頭には、こう記されていた。 「信じると言うことは、福音書の意味では、疑いもなく、徹頭徹尾、まったくの子どもらしさと直接性の中で、神の摂理を堅く保持して手放すことなく、神の摂理を喜び、神の摂理に従うことを意味している」と。
神学者および同時代人としてのバルトの生涯を支えていたのは、この「子どもらしい」素直な神信頼にほかならなかったと言うことができるだろう。(宮田光雄『カール・バルト』、265頁)

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