備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム229.玉井宮と玉比神社

2009-12-22 21:01:32 | Weblog
「玉井宮東照宮」(岡山市中区東山)のうち「玉井宮」はもと、児島郡小串村の光明崎(現・米崎)に鎮座していたが、社のある山頂から毎夜怪光が海面を照らし魚が恐れて寄り付かないことから、漁師たちが困っていたところ、神託があって、白幣が飛び立ち、現在地に立った。これにより社を遷座し、「玉の宮」または「玉井宮」と称されることになった、という(2009年6月26日記事参照)。遷座したのは応徳2年(1085年)とされるので、延喜式神名帳の成立よりは後になる。で、社伝によれば、当神社が備前国内神名帳所載の旧・児島郡「玉比神社」であるとされる。
ちなみに、旧社地とされる岡山市南区小串での伝承では、もともと祭神は豊玉姫命と玉依姫命の姉妹であり、白幣に乗って(あるいは白幣と化して)「幣立山」に移ったのは姉神のみで、妹神は旧社地に残ったという。
「米崎」という地名は、もとは「光明崎」だったのが訛った、というのは、「玉井宮」の縁起に関わるものばかりのようで、「光明」という言葉自体、何か抹香くさい気がする。多分、後世に「玉井宮」の社僧が考えたことなのではないか。本来は、潮流が込み合う「(潮)込め崎」だったようだ。「米崎」を西米崎、対岸の岡山市東区正儀を東米崎といったこともあったらしい。「光明崎」が語源かどうかは別にして、米崎の先の海が航海の難所で、米崎の明かりが目印になっていたことは十分考えられる。なお、米崎の東端には、今も灯台が設置されている。
さて、実際に米崎に行ってみる。児島半島を周回する県道74号線(倉敷飽浦線)を、県道463号線(長谷小串線)分岐の交差点を東へ(「桃太郎荘」方面の反対側)。「ポートオブ岡山」というマリーナの先に行くのだが、そこからは道が狭くなる。海に面した道路に出たところに、黒住教の「小串遥拝所」がある。ここは、教祖黒住宗忠神が小豆島への布教のため海を渡っていると、急に海が荒れ難破の危機に陥ったが、「波風をいかで鎮めん海津神 天津日を知る人の乗りしに」という自作の歌を書いた紙を海に投げ入れると、忽ち波が静まったという事蹟を記念したものである。これも、ここが海の難所であったことを示すものだろう。
その先、「東米崎港」の集落に至るが、集落に入る手前に「焚火大権現」(たくひだいごんげん)が鎮座する山上へ行く小道がある。地図で見ると、小串の岬には、根元に「梅ヶ原山」(126m)があり、その東に2つの小峰(60~70m)が見える。「焚火大権現」が鎮座するのは、「梅ヶ原山」の東隣の峰で、「玉井宮」の元宮の所在地とされるのは、東端の峰らしいが、今はその山頂に行く道もないようだし、山頂にも何も残っていないようだ。「焚火大権現」は、字は違うが、隠岐島の「焼火神社」(たくひじんじゃ)を勧請したもののようだ。どちらも、海上の安全を守る神である。

※「米崎神社」と「焚火大権現」の関係がよくわからなかったのだが、「小串村誌稿」(小磯昇、昭和59年4月)によれば、概略次のとおり。「米崎神社」は廣幡八幡宮(岡山市南区阿津2104)の境外末社で、祭神は大綿津見命だが、伝説に、この海岸に光を放つ石祠があり、これを1人の漁夫が小串の東山の山上に祀ったのが豊玉姫命・玉依姫命で、このうちの豊玉姫が白幣に乗って遷座して「玉井宮」の神魂になったとする。「焚火大権現」はもともと「権現山」(「梅ヶ原山」?)に鎮座していたが、明治8年(1875年)に祭神を玉依姫命に改めて「米崎神社」に合祀した、という。ということは、写真下の白い石の祠は正しくは「米崎神社」であるらしい(拝殿には「焚火大権現」という額が掲げられているが。)。<2009年1月31日追記>

「とことん小串」HPから:http://kogushi.jp/old/map/komezaki-obiki.html

「小串学区連合町内会」HPから(焚火大権現):http://townweb.e-okayamacity.jp/kogushi-r/takuhi.html


写真上:「玉井宮東照宮」境内の摂社「白龍神社」


写真中:「黒住教小串遥拝所」


写真下:「焚火大権現」。「白龍神社」(写真上)の説明板では「玉井宮の元地の多久火権現・・・」とある。