
6
再び、いくつかの山々を越えてゆくと、突然緑の陸がとだえ、広々とした有無が現れました。小さな神さまは、海原の上を走りながら、美羽嵐志彦におっしゃいました。
「にんかなは、この海のむこうにあるのか?」
「そうです。この海を越えれば、もはやすぐそこでございます」
無尽蔵の巨大な海は、子を産んだ女の乳房のように、豊かにたぽたぽと揺れていました。深緑の水はどのような思案もゆき届かぬほど広く深く謎に満ちていて、生き生きとした瞳を持ちながら石のような舌を持つ大いなる女神が、沈黙しながら広々としたお腰を水底の深淵に横たえていました。小さな神さまたちは、その女神の鏡のような青眼の上を、かしこまりながら通り過ぎました。深淵の女神は、もの言いたげに微かにほほ笑まれましたが、それは海綿の揺らぎのせいとも思え、はっきりとは分かりませんでした。やがて女神はゆっくりと瞳を閉じられました。
周囲は島影ひとつなく、ただ渺々とした海と蒼天だけが広がりました。天には昼の神が孤高の輝きを放ち、黙々と飛ぶ小さな神さまたちをじっとごらんになっていました。
小さな神さまは、不安が再び、小さな羽虫のようにお胸の中でうごめくのを感じられました。背後の気配は、もはや身を隠すところもないので、竜の尾を咬むほどの近くに身をすり寄せながら、じっと小さな神さまたちの気配をうかがっていました。
珠の中で、お三方の神が、ぎりりと緊張していました。チコネも気配を察して、縮こまっていました。小さな神さまも、もはや無視できなくなり、とうとう声に出しておっしゃいました。
「だれだ。分かっているぞ」
答えはありませんでした。しかし気配は消えるどころか一層大きく感じられました。小さな神さまは、さっと身を翻して振り向かれました。しかし、そこにはだれもいませんでした。
「何者だ。答えよ」
小さな神さまのお声が、周囲の海面を打ちました。すると背後で、何やらざわざわと音がしました。小さな神さまがもう一度振り向かれますと、何とそこには、今まで見たこともないような、美しくさえざえと高い山が、海上に忽然と現れておりました。
「これは……、にんかな?」
小さな神さまは眼前に幻のようにそびえ立つ峰をごらんになって、思わずつぶやかれました。しかし美羽嵐志彦が厳然と言い放ちました。
「ちがいます。これはにんかなではありません」
三つの珠が次々に弾け、お三方の神が、小さな神さまの周囲を固めるように現れました。小さな神さまは峰の正体を見きわめんと目に力をこめました。するとどこからか、空を割るような高笑いが聞こえました。雷雨が落ちたように、周囲の海面が泡立ちました。竜が脅えて、凍えるように縮こまりました。
いつしか黒雲が空を覆い、昼の神のお姿が消えていました。青かった峰は怪しく次々と色を変え、ざわざわと虫の這うような音が聞こえました。やがて、めりめりと峰の中央が割れて山肌がめくれ上がり、仲から巨大な一つの眼球が現れました。
峰の中ほどに現れた眼球は、ぐるぐると周囲を見回したかと思うと、不意に正眼をきめました。これが正体かと小さな神さまが身構えられますと、眼球はぐらぐらと揺れ出し、それを縁取るまつげがざわざわと伸び出し、毛皮のように峰全体をおおいました。眼球は再びつぼんで見えなくなり、代わりに伸びたまつげが中央で分かれて、その間からこの上なく美しい女神のお姿が現れました。小さな神さまがあっけにとられてごらんになっておりますと、女神は次第に年老いて醜い老婆となり、やがて干からびたされこうべになり、がらがらと朽ち果てました。かと思うと、しかばねの上からみるみるうちに大木が生え、それには二目と見られぬ醜い男の顔が、木の実のように無数に生りました。
小さな神さまは、呆然となさいました。目の前のものは、次々と様子を変えて、一時も同じ姿をしてはいませんでした。花のように美しい乙女になったと思えば次の瞬間にはおどろおどろし蛟になりました。眼涼しい王子に見えたと思えばすぐに醜怪な守銭奴になりました。小さな神さまは恐怖さえ覚えました。お三方の分け身の神はすでに剣を抜いていました。
「何者だ」
小さな神さまは声高らかに再びおっしゃいました。すると今度は、ろん、と、奇怪な音が周囲を囲みました。そのものは、耳をねじあげるような不快な声で、言いました。
「われは、マだ」
「マ?」
「マ、真、魔、ま……はははは……」
声は小さな神さまの頭を割ろうとでもするように、圧倒的な力をもってたたき伏せようとしてきました。小さな神さまは内心、これはあぶないと、感じられました。美羽嵐志彦が、叫ぶような声をあげました。
「わが神よ! これこそ、神とにんげんを引き裂くもの! にんげんに慢心を吹きこみ、疑いを植えつけ、命の核を食い物にする魔物です!」
暗雲がたちこめました。不気味な風が海面をなであげ、波は黒い大きな舌となって小さな神さまたちを何度も飲みこもうとしました。マは変化をやめ黒々とした影になり、再び天頂に眼球を灯しました。眼球は歪み、にたりと笑いました。小さな神さまは、お体の芯に棒が刺さるような驚きを感じられました。
「これか。こやつが、あれらのことの、全ての原因か」
小さな神さまは今までにごらんになった悲劇の全てを思い起こされました。過ちに陥り、神を見捨てたあげく孤独の果てに魂を飲みこまれていくにんげんたち。見捨てられ打ち捨てられながら、ただただにんげんたちのためにお心を砕かれる神。
「なぜだ! なぜおまえはそんなことをする!」
小さな神さまは叫ばれました。風がどんどんと響き、マは醜い亀裂のような口を開きました。白い牙が数珠のようにならび、赤黒い口腔を縁取っていました。マはどろどろとした声で言いました。
「なぜ? なぜそう尋ねる? わたしは何もせぬ、何をしたこともない」
「何もせぬと?」
小さな神さまが繰り返されますと、マは再びにたりと笑いました。そして背筋の寒くなるようなあざけり笑いを、ながながとひきずりました。
「にんげんを買いたいなら、そうするがよい。神とはそうしたもの。かわいがりたがるもの。だがこれだけは教えておいてやろう。にんげんは、神よりも、マの方が好きなのだ」
「なんと……」
「にんげんは神より生まれた。ゆえに神のくさりを断ち切ろうと常に試みる。自由になりたいと欲するものの願いをかなえて、何が悪い。すべてはにんげんが望んだことなのだ」
小さな神さまのうちに、憎悪が起こりました。いや果たして、神が何かを憎悪するということが、あり得るものでしょうか。神は愛するものであり、他にできることはないものです。しかし今、小さな神さまのお胸に燃えたものは、憎悪としか言いようのないものでした。悲しみは波のようにうねり、言葉は生まれる前に砕かれて防ぎようのない激情のほとばしりになりました。小さな神さまはそのほとばしりを吐き出しました。それは氷のような、炎のような、鋭い剣となり、小さな神さまはそれをお手にとられました。
(つづく)