ジョッシュの日記

ジョッシュは好きな映画「big」の主人公の名前からとりました。趣味を大事にしながら長男くんと次男くんの育児に奮闘中です。

永瀬正敏さんに会った

2014年02月28日 23時50分07秒 | 映画

千葉の柏にあの映画俳優「永瀬正敏」さんが来る。

 

 

そんな情報を知って、ネットでそのサイン会のチケットを購入した。「日にちや時間を間違えないように」「場所を間違えないように」「ちゃんとチケット買えたかな」と何度もチケットを購入したホームページで情報を確認する。そして何度も「間違いない」と確認するが、当日まで永瀬正敏さんに会えるなんて実感がわかない。

 

 

永瀬正敏さんは1983年に映画「ションベンライダー」で映画デビューした。2013年で俳優生活30年。今年(2014年)が31年目という俳優人生の大きな節目に「アクターズ・ファイル」という本人のインタビューと関係者らのインタビューで構成された400ページもあるオフィシャルブックを出した。

 

その本の発売を記念してのトークショー&サイン会。生の永瀬正敏さんはスクリーンやテレビで観るそのままで「そりゃもうかっこよい」の一言です。トークショーでは「温かさ」や「優しさ」も感じた。

 

さて、まさに「これが永瀬正敏だ」と永瀬正敏さんの全てが入っているこの本。400ページもあるので読みきれてないが、帯にあるコメントから素晴らしい。

 

「彼は映画の中で生きている感じがする(山田洋次)」

「永瀬とまた一緒に仕事をしたい(ジム・ジャームッシュ)」

「日本映画界はもっともっと彼に甘えていい(浅野忠信)」

 

さすが一流の方々はコメントもシャレている。 

 

そして永瀬正敏さんを語る関係者インタビューのメンバーの中にはあの「小泉今日子」さんの名前も。小泉今日子さんが永瀬正敏さんのことをどのようにコメントしているのか。もう読んだ人からは「小泉今日子さんのコメントが一番良かった」との感想も聞いているので、これから読むのが楽しみです。

 

アクターズ・ファイル 永瀬正敏
 
キネマ旬報社

(ファンには「読む用」と「保存用」の2冊欲しくなる)

 

永瀬さんが本にサインをしてくれている時に何かしゃべらなくてはと思って、「映画「息子」を高校生の時に観てからファンです、そんな自分も今では2児の親父になりました」とド緊張しながらしゃべったら、永瀬正敏さんが何か言葉を返してくれのだが、頭が真っ白になってしまい、思い出せない。。。

 

台湾で先行公開されている永瀬正敏さん主演の野球映画「KANO」も絶対観に行くぞ。


2014年2月25日(親父の決意)

2014年02月25日 21時39分44秒 | 親父

「フォルフィリノックス」という昨年(2013年)末に保険が認可されたばかりの抗がん剤治療。

 

それは膵臓癌に大きな効き目が見込めるが、身体に合わなければ大きな副作用を伴う治療だった。

 

しかし「大きな効き目」と言っても親父の場合は先生曰く「余命3~4ヶ月が11ヶ月くらいまで伸ばせるかも」というもの。どんなに頑張ってどんなに薬が効いたとしても完治はしない。

 

酒とタバコが大好きで「俺はいつ死んでもおかしくない」と口癖のように言っていた親父がどうして病気と闘うことに決めたのか。

 

その「決断」は少し意外だった。

 

通夜や告別式に来てくれた方からは生前の自分が知らない親父の思い出が聞けた。

 

「法事の時には毎日来てくれて、自分から何かを話すでは無かったけど、ずっと居てくれた。それが嬉しかった(親父のお姉さん)」

 

「あの時、自分は兄弟喧嘩してて、その間に入ってくれた。そしてたくさん話しを聞いてくれた。おかげで今は兄弟仲良く出来ている(親戚)」

 

「車の中で40分近くも相談にのってくれて、続きは今度またって約束したのに。死ぬなんて俺は受け入れられないよ(親戚)」

 

「(親父が)お酒を持ってきて今度一緒に飲もうなって約束していたのに、今でもそのお酒は大事にしている(親戚)」

 

寡黙な親父だったが、生前は色んな人の相談や約束を受けていたそうだ。

 

意外だった「決断」はなんとか元気になって、やりかけていた「約束」を果たそうとしていたからなのかもしれない。

 

もう一つ思うことがある。

 

親父は3人の子供達を何不自由なく立派に育ててくれた。立派に生き抜いたと思う。ただ最後にもう一度だけ大きく役に立つ事を願っていたのかもしれない。

 

(病院食は美味しくないとよく言っていたな)

 

それはまだまだ数少ない「フォルフィリノックス」という抗がん剤治療の体験者となり、今後の癌治療に貢献すること。親父が最後に見せた「投薬への執念」、その姿がそう思えてならない。


2014年2月20日(子供からの手紙)

2014年02月23日 00時53分15秒 | 親父

おじいちゃんの棺に入れるため、子供達におじいちゃんへの手紙を書いてもらうことをお願いした。

 

次男くん(4才)

じいじ

大好きな「きりん」の絵。

 

長男くん(8才)

じいじへ

ぼくはじいじのことがだいすきです。

これからもてんごくにいってもがんばってね。

ぼくも、じいじのかわりにいっぱいがんばるからね。

じいじの家には、あんまり行かなかったけどがんばるからね。

ひとりがえりのときとか、じぶんのいえから学校にいくときとかてんごくでみまもってください。

 

おじいちゃんも喜んでいるかな。


2014年2月19日(あの日の後悔)

2014年02月22日 12時15分40秒 | 親父

あの日の後悔。

 

おじいちゃんが亡くなったのは自分が中学生だった。

もう25年以上も前になる。

 

おじいちゃんとは一緒に暮らしていて、孫である自分には大変優しくもあり、間違ったことには厳しく叱ってくれる人だった。

 

おじいちゃんも親父と同じ膵臓癌で亡くなっている。

 

おじいちゃんは家から自転車で行けるほど近くの病院に入院していた。しかし入院の頃の「お見舞い」の記憶がどう思い出しても2回しか出てこない。1回目は病室のおじいちゃんが元気そうにたくさんしゃべっていた様子。2回目はおじいちゃんは意識がなく声にならない唸り声しか出せなかった様子。

 

親父にも何度か「お見舞い行けよ」と言われていたが、「わかったよ」と言っては友達との遊びを選んでいた。

 

そして学校の校庭で遊んでいた時に学内放送で職員室に呼ばれ、先生から「おじいちゃんが亡くなったからすぐに帰って」と言われたこと。

 

自宅で行われたお葬式がとても慌ただしかったこと。

 

お坊さんが家に来てお経をあげてくれた後、お坊さんが「おじいちゃんはたくさんお墓参りに来てくれた大変優しい人だった」と思い出話をして思わず自分が泣いたこと。

 

何もかもが後悔ばかりの思い出。

 

親父が病気になった時に「同じ後悔はしない」と心に決めた。親父が亡くなった今、後悔が無いかと言えば、やはり後悔ばかりが出てくるが、あの時誓った事については出来たのだと思う。

 

ただの自己満足でしかないのだろう。

 

(立派な最後のステージを用意出来たと思う)

 

しかし、自分が走った後ろ姿を我が子達が見ていてくれたのなら、我が子の心の何処かに残ってくれたなら、それは意味のあることなのかもしれない。


2014年2月18日(永眠)

2014年02月20日 00時21分13秒 | 親父

前日は母親と交代して家に戻った。

 

嫌な予感もあったので、何かあってもいいようにと携帯電話を枕元に置いた。そして寝ようとするのだが、親父のことが気になって寝付けなかった。

 

何度も寝返りをしたが寝れなかったので、気を紛らわすようにラジオを付けてみたら、いつの間にか寝る事が出来た。

 

朝6:00に目覚めてすぐに携帯電話を確認するも着信は無かった。ひとまず安心して、会社に向かうための準備をしていたら妹から電話がきた。

 

「お母さんが病院から呼ばれて行っている」

 

急いで身支度をして病院に向かった。

 

病院に着くと親父の意識は無く、昨日までのような忙しい呼吸でなく、「はー、・・・・・、はー、・・・・・」という呼吸の間隔が長く、そして浅い呼吸となっていた。

 

自分が病室についてすぐに妹も病院についた。母親から「病院の先生が言っていたけど、耳は聞こえてるみたい」と聞いたので親父に「お父さん、来たよ」と声をかける。

 

しかし反応は無い。

 

そして手を握ってみたらまだ温かかった。

 

それから沈黙の時間が5分くらい経っただろうか、ふと妹が「息が止まってない?」と言ったので、親父の呼吸をずっと見て確認した。呼吸は無かった。すぐにナースコールをした。

 

2014年2月18日 7時14分 親父永眠

 

病院は霊安室に運ぶ前に家族だけの時間を作ってくれた。何があっても涙を見せなかった母親が泣いたのが引きがねとなって全員が大泣きした。

 

絶対に泣かないと決めていた自分も涙が止まらなかった。

 

(大好きだったお酒とタバコ)

 

親父の病気との戦いが終わった。


2014年2月17日(病気に屈した瞬間)

2014年02月19日 23時56分32秒 | 親父

14:00頃、親父が入院している病院から母親に電話が入った。

 

「意識が無いのですぐに来てください」

 

自分も母親からのメールで病院に行く準備をしてすぐに家を出た。

 

病院に着くと親父の意識は回復していた。それを見て少し安心したが、呼吸がとても苦しそうで酸素マスクから必死に「はー、はー、はー」と早いテンポで呼吸をしていた。

 

母親に聞くと親父がトイレに行くため立ち上がった時に意識がなくなったようで、すぐに看護婦さんがベットに戻して酸素マスクや点滴を付けて何とか意識を取り戻したようだ。

 

先生が入室してきて「もう病気の治療はやめて痛みの緩和に専念します」と言った。昨日「治療をしていきたい」と言っていた親父ももう何も言えなかった。

 

先生からは好きなものを食べても飲んでもいいと言われていたので、親父のリクエストでコーラを買って行った。「コーラ買ってきたよ」と言うと「飲みたい」と言って上半身を起こし、1口だけ飲んだ。

 

その後母親が別用で外出して親父と2人になった。

 

数分後、親父が「トイレに行きたい」と言うのでナースコールをする。来てくれた看護婦さんに親父はしっかりと「立ってトイレに行ける」と言うので看護婦の介助のもとトイレに向かったが、そこで再び親父の意識がなくなってしまった。

 

目をがっと見開き焦点の合わない親父。大きな声で「お父さん、お父さん」と声かけたが反応が無かった。看護婦さんは大きな声で他の看護婦さんを呼び、看護婦さん3人が上半身と腰を抱え、自分は親父の足を抱えてゆっくりと親父をベッドに戻した。そして素早く酸素マスクと点滴を付け、足の位置を高くして楽な姿勢を取った。すると親父は何とか意識を取り戻した。

 

あっという間の出来事だったが、これには本当に驚いた。

 

それからは意識が朦朧となったり、意識を取り戻したりを繰り返した。

 

その間の会話は

 

「テレビでも観てな(親父)」

「大丈夫か?(親父)」

「時間は大丈夫か?(親父)」

 

そして上半身を起こして、前かがみになり、

「ダメだ…ダメだ…(親父)」

 

背中をさすりながら「大丈夫」とも「頑張って」とも言えなかった。「もう十分頑張ったよ」とだけ言いたかったが、そしたら全てが終わるようでそれも言えなかった。

 

親父が病気に屈した瞬間だった。

 

背中をさすった時に親父の痩せこけた背中の骨が手に当たった。その感触がずっと手に残っている。

 

悔しい、とにかく悔しかった。


2014年2月16日(諦めない)

2014年02月19日 22時25分46秒 | 親父

外出からの帰り、電車に乗っていて、最寄り駅まであと3駅というところで妹から電話があった。

 

「お父さんが呼吸が苦しいみたい、どうすればいいかな」

 

「主治医の先生に連絡して。自分はもうすぐ駅につくから急いで行くよ」

 

そう言ってすぐに実家に向かった。

 

実家につくと親父は横になりぐったりしていた。顔は青白く、息をするのが大変そうだった。主治医の先生からは「すぐに病院に連れてきて欲しい」と言われたようだ。親父に「救急車を呼ぶから」と言って119番に電話をしようとすると、親父は微かな声で「近所迷惑だから(救急車の)音は出さないでくれ」と言っていた。「わかった」と答えたがもうそれどころではなかった。

 

思いのほか時間が経って救急車が到着した。3名の救急隊の方は手際良く血圧の確認や酸素マスクの装着をして、タンカで親父を救急車に運びこんでくれた。

 

救急車の中では救急隊の方が多くの質問を親父にしていた。親父が苦しそうに答えていたので代わりに答えてあげようかとも思ったが、意識の確認の意味もあるのだろう。

 

病院につくと親父はすぐに診断室に運ばれた。

 

自分と妹は3時間近く待合室で待った。

 

そして先生から呼ばれ個室に入ると先生は「肺炎と腹水が見られる。またカリウム値と血糖値などが異常値となっている」と言い、そして「2週間前に比べ非常に悪化している」と言われた。

 

2回目の抗がん剤投与が出来て安心していたが、実際は抗がん剤治療の効果は出てなくて、癌の進行は予想外に進んでいた。そして違う病気も併発しているとのことだった。これからの処置は上司と確認して決めるとのこと。

 

ただ、また入院となってしまった。

 

HCUと呼ばれる集中治療室のベットに運ばれて、先生から「もう痛みの緩和治療に切り替えましょう」と言われたが、親父は「まだ可能性がある限り病気の治療を試みたい」と先生に言っていた。

 

病気と戦う親父。

 

もう勝負は見えているのに、諦めようとしなかった。


2014年2月14日(2回目の抗がん剤治療)

2014年02月17日 22時47分53秒 | 親父

母親からメールがあり、

 

2回目の「フォルフィリノックス(抗がん剤治療)」が出来たとのこと。

 

しかしこの抗がん剤治療は病院で薬を投与してから48時間(帰宅しても)入れ続けるのだが、13日に病院で投与のセットをして家に戻ってみると、薬が漏れていることが判明、すぐに病院に戻って再度セットしてもらったらしい。

 

そして14日にも再び薬の漏れが判明。

激しい大雪だったが、病院にまた行ったそうだ。

 

それでも何とか2回目の抗がん剤治療が出来た。

 

ここ最近も薬の影響か体調はあまり良くない様子だったが、14日の夜には珍しく「たこ焼きが食べたい」とのリクエストがあり、母親が買ってきたものを2つか3つくらい食べたらしい。

 

少しでも食べれると体力が付き良いのだけど。


2014年2月11日(体調が悪そう)

2014年02月17日 22時36分49秒 | 親父

親父に会いに実家に戻った。

 

玄関を開けてリビングまでいくが、いつも座っている場所に親父の姿は無い。

 

母親に確認したところ、どうやら親父は部屋にいるとのこと。

 

母親も部屋のドアをあけ「ほら来たよ」と親父に声をかける。

 

いつもはそれですぐに出てくる親父だが、この日は全然出てこない。

 

仕方ないので1人リビングでテレビを見ていたら、30分くらいたってから部屋から親父が出てきた。

 

出てくるなり「動くのがつらい」と言ったその顔色は白く、また少し痩せたような印象。

 

リビングのいつもの場所になんとか座るも明らかに辛そうでこちらも会話が出来ない。

 

そしてテレビの音だけが流れる時間が過ぎ、親父は「ちょっと部屋に戻るわ」と言ってまた部屋に戻ってしまった。

 

動きたくないところに顔を出してしまい、気を遣わせてしまったようで、ちょっと申し訳ない思いがした。


2014年2月6日(抗がん剤治療出来ず)

2014年02月17日 22時24分41秒 | 親父

2/6~2/7に掛けて2回目の「抗がん剤治療」を実施する予定だったが、事前に体調の確認をしたところ熱が若干高いので、病院の先生の判断により、実施を1週間見送ることになった。

 

1回目の投与からかなりの時間が経っている。

 

「抗がん剤治療」で癌という大きな病気と闘う決心をしていた親父は「ちくしょう、こんなのんびりしてられないのに」と珍しく苛立ちを見せていた。