goo blog サービス終了のお知らせ 

ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.150レポート III

2025-04-03 16:50:38 | Weblog
【第二部 シンポジウム】

コーディネーター:愛知学院大学総合政策学部准教授・村田尚生
パネリスト(五十音順・敬称略)
大久保康雄(NPO法人まちの縁側育くみ隊理事)
  鬼頭弘子(NPO法人ひとにやさしいまちづくりネットワーク・東海副理事長)
  白川陽一(名城大学社会連携センター 社会連携アドバイザー)
  名畑恵(NPO法人まちの縁側育くみ隊代表理事、錦二丁目エリアマネジメント株式会社代表取締役)

  西田知也(全国福祉保育労働組合東海地方本部書記次長)

皆さん、こんにちは。愛知学院大学で主にまちづくりを教えている村田です。まちの縁側育くみ隊には発足当時から関わっていますし、ジネンカフェも先ほど大久保さんの方から最初こういうふうにスタートしたよというお話があったように、大久保さんが「ノーマライゼーション企画をやりたい」と言った段階から参加させていただいて、実際には第一回目が開かれるまでI年半ぐらいかけてみんなでコンセプトを話しあいながら漸くスタートしたジネンカフェも17年ということで20年近く関わっています。一応今日で150回目。中締めとなるのかラストになるのか、このシンポジウムの中で皆さんともディスカッションしていければと思っています。よろしくお願いします。

大久保さんの方からパネリストさんの方に三つのお題を提示して、考えてきてねとお願いされたと思います。ひとつ目は、パネリストの皆さんはゲストスピーカーとしてもジネンカフェでお話下さった方々ですので、『外からみてジネンカフェをどんなふうに捉えられていたのか?』ということ。ふたつ目は、17年間ジネンカフェを行ってきたのだけれど、先ほども大久保さんのお話にもあったようにノーマライゼーションは「障害のある方も普通の生活ができるように」というところに焦点を置く取り組みですけれど、ジネンカフェが考えたのは「普通」でなく「自然(あるがまま・ありのまま)であること」何が違うの? と思われるかも知れませんが、我々日本人は特に常識とか「みんながしているから」とか、いわゆる同調圧力が高い国民性ですので、自分が「普通」でいなければいけないという意識が強くて、そういう中で息苦しさを感じて障がいを持っていない人でも「自分は普通でいなければいけない」「普通が良いんじゃないか?」ということにひとりひとり悩んで苦しみながら生きている。そういったことに対してジネンカフェを通して障がいを持っていようといなかろうと「普通でなくても良いのではないの?」「自然という形で生きられる社会になったらいいよね?」ということがコンセプトだったのですが、果たしてその『コンセプトに近づくことができたのか?』そして三つ目の問いは、『では、どうするの?』ということで、中締めなのかこのままラストを迎えるのかという話をしましたけれど、今後どうして行けば良いのか考えて行ければと思っています。よろしくお願いします。

【外からみてジネンカフェをどんなふうに捉えられていたのか?】
先ずは感想的な形で結構ですので、ジネンカフェをどんなふうに捉えていたのかお訊きしたいのですが、ひとりひとり自己紹介していただいて、自分はどういう立場のどういう人ですとお話していただいた後にジネンカフェをどう捉えていたのかお話し下さい。先ずは鬼頭さんからお願いします。

鬼頭
こんにちは。鬼頭弘子といいます。『ひとにやさしいまちづくりネットワーク・東海』というNPO法人で副理事長をしています。大久保さんとはお話の中に出てきた『愛知県 人にやさしい街づくり連続講座』で出会いました。ノーマライゼーション紙芝居「ツトムくんシリーズ」の誕生も見届けました。風穴一座の公演をあちらこちらでしていたのですが、初期の頃はよく一緒に活動していました。ジネンカフェをどういうふうに捉えてきたのかですが、大久保さんはノーマライゼーション紙芝居からスタートしていますので、ひとつは、福祉のまちづくり運動のひとつであると認識していました。先ほど観ていただいた風穴一座の紙芝居はいろいろな子どもたちがいて良いんだよということを、皆さんに伝えたいという内容になっていますので、そういったことをジネンカフェで表現して行きたいのだろうなと思っていました。もうひとつは車いすユーザーであり、脳性まひの障がい者である大久保さんと多様な生き方をされているゲストさんが出会う場所。お互いに出会う幾つかの場所のひとつである。そんなふうに思っていました。

白川
皆さん、こんにちは。白川といいます。初めましての方もいらっしゃると思いますが、現在は名城大学の職員をしています。社会連携センターという場所があって、簡単に言うと大学の中と外をつなぐ部署で、社会連携ということなので地域を含めたNPOさんだったり、企業さんだったりとか、地域の方たちと大学の学生や教職員とをつなぐ仕事をしています。もともと大久保さんたちとの出会いは「150回の軌跡」を見ているとジネンカフェには何回か登壇させていただいているのですが、最初に登壇したのが2012年なのでもう13年前になりますよね。出身は北海道の札幌です。大学院が名古屋でしたので札幌から名古屋に来た訳ですが、名古屋特有の暑くて湿度も高い夏を過ごしていて、日陰に入ってもどんどん消耗して行くのですよね。生きてゆくのになんて過酷なところなのだろうと感じていたそんな時に、たまたま出会った人経由で大久保さんを含めたまちの縁側育くみ隊の皆さんと出会ったんです。その時は現在の仕事をしていたわけではなく、学校や教育とか若者支援育成の領域で活動していたんですが、そうした関心を育てて現在大学にご縁をいただいているのかなと思っています。

外からみてジネンカフェをどのように捉えていたのかという最初のお題ですが、最初の説明にあったようにノーマライゼーションとか地域福祉とか僕にとっては初めて触れた言葉でしたけれど、大久保さんの人柄だと思うんですが、脳性まひの障がいを持った方に会うのが初めてだったので、皆さんの大久保さんとの関わり方が結構雑なことに衝撃を受けていました。一応大学時代に支援学級の教育実習はしたことはあるんですが、そこで出会っている「お利口さん」なコミュニケーションとは違っているんですね。だって大久保さんって現在でもそうだと思うのですが、女の子が大好きじゃないですか? そういうこともいっぱい喋るのですけども、「なに言っているの、大久保さん」みたいな感じで周りとコミュニケーションしている姿が凄く自然で当たり前な風景としてみえたのですよ。そういった大久保さんが魂ならば、関わり場所はいろいろと移り変わってきてはいると思いますが、ジネンカフェを続けられて来たということもあって、ジネンカフェはみんなの場所、みんなの会でもあると共に、大久保さん自身も自分に水をやって育まれて楽しくなっている…。そんな印象でジネンカフェを眺めていたというよりは、何回かお招きしてもらっているので会う度に気楽さを感じていて、大久保さんの拡張された身体じゃないですけど、そういった雰囲気さえ感じられるものだったかな。それがいろいろな人たちにも感染して行ったのではないかと思っています。

西田
はい。私は西田と申します。仕事としては、全国福祉保育労働組合東海本部という長ったらしい名前の組合の書記次長をしています。そもそもジネンカフェに関わるきっかけになったのは、村田先生のゼミ生として何も考えずに「大学の単位を取らないといけないからボランティア行って来い」と言われ、MOMOへ行ったら隣に座っている名畑さんが赤いワインを飲んでいたという記憶しかないのですが、良い場所だなぁ〜とは思ったんです。それで良い場所だからちょっと関わってみようかなと考えて、東区の楡の小道のほとりにあったMOMOに関わり始めてジネンカフェのお手伝いもさせてもらっていて、どちらかと言えばまちの縁側活動よりジネンカフェのお手伝いの方が多かったかな。そこで大久保さんと出会い、私初めて障がいのある方に出会ったので、障がいのある人にもこんな素敵な人がいるのだと思って村田先生に言ったら「そんなことばかりではないよ」という話もされ、長久手の障害福祉課でまちづくりをされている方に出会い、他の法人でも働いていたのですが、そのうちに福祉を支える人たちが支えられなければ駄目だなと気づきました。関わり続けてきたと言っても拡大版の時だけなので穴が空いているのですよ。でも、続けてきていることが大事でやっているなということは知っていたし、出会った時のことも憶えているので、だからこそまた参加したいなと思わせてくれる場所でもありました。自分らしく活動されている方たちと出会うことも刺激にもなったのですね。外からみたジネンカフェ、いろいろな人たちがなんとなく集ってきて、いろいろとやっていることを励ましあいながら交流できる場所だと感じていました。

名畑
白川さんのお話を聞いていて、そうか…。ジネンカフェって拡張された大久保さんなのかと思って。意外に深い話だなと思っていたのですけど、自分自身が多色刷りと言いますか、皆さんもそうだと思うのですがいろいろな顔を持っていると思うんです。例えば子育てしていて、ずっとこの子と一緒に居たくて、ずっとこの子の成長を見ていたいと思う瞬間も私だし、一方でこのままだったら私社会から忘れられてしまうのではないだろうかと思うのも私だし、いっぱいあるのですよ、私が。いろいろな私が自分の中にいて、ジネンカフェでいろいろな話を聞くと、イコールで自分を肯定された気持ちになるということも結構あって、こういう自分もいたのだ、こういう自分もいたのだと、多様な考え方に触れることによって自分自身を拡張できることがジネンカフェなのだと思います。



村田
それを受けまして大久保さん、如何ですか?

大久保
はい。ありがとうございます。僕自身もジネンカフェというのは多様なアプローチや可能性を持ったプロジェクトだなと運営しながら思っていました。でも、17年間も続けられたのは、くれよんさんと、くれよんBOXという場があったおかげであると思います。行った方はわかると思いますが、あの細やかながら親密な空間の心地よさもさることながら、僕の無理な頼みや振る舞いにも応えてくれて、本当に感謝しています。

村田
はい。次のお題。コンセプト・プランニングに一年半かかって、150回を積み重ねた中でたくさんの人たちが関わっていただいたなあと思うんですけれど、そんな中でどれだけコンセプト、理想に近づけることができたのだろうか? ということを客観的な視点で鋭く抉り取っていただきたいと思います。

鬼頭
鋭くはないのですけど、よくわかりません。数字的に言うと150回行ってきたので、最低150の「普通」や「自然」や「その人らしさ」が積み重なっているのではないかと。カレーを食べるのが楽しかったという大久保さんも含めてね。その数の分だけジネンカフェの理想に、まちの縁側的な時間、場所になったのではないかと思います。私は反対に社会側からみて150回17年間も行ったので何らかの影響を及ぼしていると思うのですね。風穴一座が世の中に風穴を開けたように、影響が絶対にあると思うのですよね。見た感じ、大久保さんの周辺、甥っ子さんや姪っ子さんを含めてジネンカフェの小さな輪だったり、大久保さんの周りの一緒に活動していらっしゃる方々の周りには「普通」や「自然」がほんわかと漂ってはいるのだけれど、その外側は違うと思うんですね。それを検証できる機会があるといいなあと思うんです。例えばジネンカフェに関わって下さった方々に「その後何か変化はありましたか?」「大久保さんに何か影響を受けましたか?」などとインタビューをするとか、アンケートを取るとか、そういうことがあってどうやって広がって行ったのか、皆さんがどんな影響を受けたのか知りたいなあと思います。

白川
現在大学にいて、大学生と関わる機会が毎日あるのですけど、「居場所」というキーワードに関心が高い人は昔からいて、相変わらずそれを「つくりたい」とか「求めている」という学生によく会うのですよね。その言わんというところには意義があると思うのですが、世の中的にその居場所が必要だという論調、鬼頭さんの話に繋がると思うのですが、外側から見た場合に、「世の中おかしなことになっている。それを何とかしたい」。その方法論として、居場所を大事にしたいという風潮が高まっている気がしています。でも何かのために何かをやるというのは、ちょっと考えてしまう自分もいて、「ジネンカフェは理想に近づけたのか」というお題に対しても、じゃあ「理想に近づけるためにジネンカフェを行っていた」という説明をしようとするのがふさわしいかは、ちょっと分からないんですね。僕はよく拡大版の後半のワークショップにファシリテーターとして関わらせてもらっていたのですけど、西田さんと同じようにある時、ある時、ある時、という出入りの仕方だったので、何かを目指しているからジネンカフェをやっていましたと説明されるよりも、自然というものを体現するためにやっています。何かを目指すための目的ありきではなく、いまそういうふうにしていて、続けられるところまで続けています。という説明の方がしっくり来ています。そういう意味で理想はずっと更新続けられるものだと思いました。社会の状況も身の回りの状況も、いろいろな人たちが集まる場の意義とか、価値とかも更新続けられるものだとも思っていて、そういった意味では理想には終わりがないとも思っています。もちろん、ジネンカフェのその回、その回が理想を体現しようとやっていたという意味においては、「できていた」のではないかなと思っています。

加えて僕自身も大久保さんやジネンカフェのスタイルに影響を受けていて、具体的に言うと現在月に一回ご飯会をやっているんですね。いろいろな人が出入りしてもいいよというご飯会を月一で二年ぐらいやっているんですけれど、人が来るからやりますではなくて、やり続けること自体に意味があるのですね。実際にそこに人が来るとか来ないとかではなくて、憶えていて貰えるということが人の希望を作るのではないかとこのジネンカフェで学んだことでもあると思っています。ジネンカフェはいつもやっているんだと思えることが自分には嬉しく思えるので、そういった効果は僕にはあったし、他の人にもあったのではないかとみています。理想に近づけたかどうかは、その過程にあると思っています。

西田
理想に近づけたかどうかで言えば、僕も正直よくわからないです。ノーマライゼーションとか、そういった大きなところで言えばどうだったのだろうなとみていますが、普通に生きる社会自体が厳しいし辛いことが多いなと思っていて、福祉の仕事をやっていたからということもあって、優生思想的な話―優れた人がいい、そういう考え方がまだ強いですよね? 規・非正規の問題もありますし、労働組合やっていますから余計に気になるのですが、正規は良くて、非正規は立場的に低いみたいな話とか、最近で言うと安い人件費で女性や障害者とか受刑者、そういう人たちを人間として見ずに安く使える道具的に見ているところがあるなと思っています。そういう経済社会の中で私たちは生活しなければいけないので、多様な人たちが自分らしく生きることが簡単に出来ない世の中だなと思っても、大久保さんと出会い、ジネンカフェに集う人たちに出会って、少なくとも僕は気づかせてもらったのです。そんな世の中ではおかしいのだな、自分らしく生きるということが出来て良いのだと気づかせて貰えたので、大きい狙いのところには辿り着けてはいないけれど、やはり続けてきたことには意味があるのだろうなと思っております。

名畑
出来たこともあるし、出来なかったこともあるし…ということだと思うのですけど、出来たことでひとつ大きいなと思うことが、違いを楽しむことは凄く大事なことかなと思っていて、すべてに共感する世界は気持ちが悪いと思うのですよね。こんな生き方をしている人がいるのだということを楽しい雰囲気の中で知ることができることが私にとって大事なことだったかなと思います。自分らしく生きるということは、ある見方をするととても勇気がいることだし、我が儘だと言う人もいるかも知れない。けれど本当は誰にも責任を負わせない、格好良いことの筈なのですよね。それを自然体の楽しい雰囲気の中で知ることが出来る。それは誰にとってもとても大事なことかなと。出来なかったことのひとつとして、これは私自身の責任でもあるのですが、もっとチーム制で企画すればよかったと言うこと。運営側として大久保さんが着々とひとりで、特に女性の援助を見つけるのが上手で、ゲストさんも見つけてきて、企画してくれて…というところなのですけれど、もともと自分も構成員のひとりなのでもっとみんなで出来るとよかったなぁ〜と思います。大久保さんの負荷が大きかったかな? あと大事な事は直接参加と間接参加があると思っていて、直接参加としては毎回それほど多くないのですよね。でも、間接参加としては大久保さんの詳細録があってブログでそれを読めるということが大きな価値だと思っています。また、「本」企画もあったのですよ。でも、私も含めて縁側チームが情けないのでなかなか形に出来ていなくて、これからでもやる価値はあると思っています。

大久保
僕もまだまだ理想には程遠いと感じています。現実はとても手強いです。

村田
西田くんの話にもありましたけど、大久保さんが言う通り現実は厳しくて、何ならジネンカフェを始めた時より厳しい現実があって、確実に17年前より後退している我々の社会があるのだろうなと思っています。そういった意味でこの17年間続けてきたジネンカフェがなにがしかの爪痕を残していたらよかったのですが、「爪痕だけかい?」と言われたら「そうだね」という話でしかない。それではどうするの? というところが次のお題になるのですが、名畑さんが言っていた出版という方向性もひとつあってもっと広く知ってもらうという事、これも大事な取り組みとしてあるのだろうなあと思います。ただ、現代は情報化の時代で大量の情報が出回っていて、皆さんもいろいろと情報源を持っていらっしゃると思うのですが、その多くはSNSですよね? でも、皆さんもご存知のようにSNSの情報というのは関心のある情報しか流れて来ないのですよ。関心のある筈の情報も大量に流れて来る情報に紛れて場合によってはスルーしてしまう。そこに何らかの気づきがあったとしても、大量の情報量に埋もれて掴み損ねてしまうというのが我々の置かれている社会の実態で、見たいものしか見ない。自分にとって気づきがあるような大切な情報が流れて来ても、結局はスルーされてしまう現状がある。そういった中でここにいらっしゃる方は何かしらの気づきを得られてこの場にお越しいただいていると思うのですが、そうではないある意味多様性を失ってゆくようなことを何となく認めてしまっている社会の実態に対して、どう次の手を打って行くのかは凄く重要な事なんだろうなと思っています。そんな中で自然(ジネン)に生きるという意味を少しでも問いかけてゆくために、何が我々に出来るのだろうということをパネリストさんから少しずつ、先ほど白川さんから「ご飯会」というヒントを与えていただきましたけれど、それも含めて次のステップとしてどんなことがあるのだろうなということを、ザックバランなアイデア会みたいな感じで良いのですけど、これでなければ出来ないという答えが見つかるとは思っていないので。ただ、こういうヒントがあるのじゃないの? 多分そのヒントは我々にとっても重要ですし、皆さんにとっても次何をする? といった時にヒントになると思いますので、パネリストの皆さんから一言ずつ、キーワードみたいなものでも結構ですので。如何でしょうか?

白川
難しい問いだなと皆さんも思っているでしょう。「ご飯会」もひとつの手段だと思うのです。よく言われるように食べない人はいないから、みんなで食べましょうというのは手段のひとつかなとは思うのですけれど、あらためて訊かれて何かなと思った時に具体的な方法はまだ思い浮かばないんですけど、ひとつヒントになってくるかなと個人的に思うのは「時間」だと思います。先ほどもSNSの話がありましたけれど、今や息継ぎが出来ないぐらいにSNSで情報がバンバン行き交う中で、自分が制御しようと思わなければコントロール出来ないほどにいろいろな情報が手に入って来る。息継ぎが出来ないと次のことが出来ない感じがしていて、かなり意識的に入って来るものに対して「休む」とか「間をとる」みたいな時間が必要ですよね。でも現状では日常の中でどんどん時間が失われて行くような感じがしていて、ある意味ジネンカフェみたいないろいろな人たちと出会えるとか、話せるとか気づける場は増えているとは思うのですが、それを新しい刺激を得るためにバンバン開催すると、また情報中毒になってゆく流れに加担してしまうのではないかと思っています。ホッと出来るとか自分の時間を大切にお互いが出来るとか、そんなようなセッティングになることが大事かなと思っています。抽象的ですみません。食べるという事は、自分のペースで食べられるとかするし、その辺りヒントになったりすると思うんですけど…。

鬼頭
ノーマライゼーションから入ったので、これはデンマークの発祥ですよね? デンマークは知的障害者の入所施設がガッチリとあり、そこに皆さんが収容されていてノーマルな生活が送れない人たちがたくさんいたのですね。それをお父さんやお母さんたちがこの子たちにも普通の生活をこの子たちにもして欲しい…ということから運動を起こし、法律化されて施設が解体されたという事がノーマライゼーションの背景にあるんです。大久保さんも幼い頃から青い鳥学園に入園されて施設経験されている方なので、そういう方がジネンカフェのような包摂された空間・時間を創ろうと活動をしていて、こういう形になって行ったことを考えると、人権無視とか差別が横行するような厳しい社会の中で当事者性を持った人、大久保さんもそうなのだけど、もし私ならば女性差別を受けたことがあるとか、そういう経験を持った人が、そう思える人が大久保さんのように自分を拡張させてスペースやら時間を提供するというような運動を続けられると、ジネンカフェの理念、縁側みたいなところに皆来ていいよというような活動が続けられるといいなと思います。ジネンカフェのやり方に洗脳されていますので、次にどうしたら良いかというのは全くわからないのですが、大久保さんのような立場の人が考えて、その人が中心になってやって行くのが良いのではないかと思っています。

西田
今日ここに来る時に『X(旧Twitter)』を見ていたら、経済学者の成田悠輔さんが「なぜX(旧Twitter)ではバカほど自信満々かのか論文を書いてみたい」という投稿をされていて、それはそういう背景があったのですが、それに「AIに応えさせてみました」というコメントが付けられていて、なかなか面白いなと思ったんです。先ほどSNSには関心のある情報しか流れて来ないという話があったのですが、エコーチェンバー効果、自分の知りたい分野の共感出来る人からしか情報が入って来ないので、そこで自分が知ったつもりになっちゃうよと。それもあるのですが、匿名性が高いとかも書かれていて「ああ、なるほど」と思ったんです。無責任な発言ができちゃうし、知った知識だと思って強目に言えちゃう。いわゆる責任感のない発言、コミュニティがあるようで実際にはコミュニティになっていないのだろうなSNSは…と思ってしまいました。始まる前に村田先生とも話していたのですが、現在は人と人とのつながりが薄れちゃっている問題があると思っています。隣に住む人の顔を知らないとか、どんな人が生活しているかとか、どんな暮らしが地域でおこなわれているかとか、コミュニティが壊れちゃっているところは再生して行くような取り組みをして行かないとノーマライゼーションもそうだけど、地域で生活をすること自体も保たないのだろうなと思っています。自治体の在り方、保育園や福祉の仕事も含めて成り立って行かないんだろうなと思っているんです。ただ結局その次に思うことは、こうやって集まって話すという場を作って行くしかないよなと思っていて、結論をここに持って来ちゃうのだけど、僕はジネンカフェをこのまま途絶えさせるのは凄く勿体ないと思っているのが正直な気持ちです。ジネンカフェだけが続けば良い訳ではなくて、ここでいろいろなことを知った方がいろいろな場で、仲間で集ってお互いのことをホッと出来る関係の中で話しあえるとか、「安心して失敗できる環境」と僕は思っていますけれど、自分のことを曝け出しても良いのだと思える場所で、交流できる場をどんどん作って行くことでみんなの居場所を作りながら、いろいろな人が生活しているから多様な人が自然体で良いのだなと思える環境が培われていくのだろうなと思っています。だから次の手と言われても、続けるしかないのではと思っていますけれど…。

名畑
先ほど西田さんが私と初めて会った時に赤ワインを飲んでいたと言われたのですが、それで思い出しました。私が時々『バレエナイト』という企画を行っていまして、私バレエを観劇するのが好きなのですね。バレエを楽しむ人の人口はそれほど多くはないのですが、自分の好きなバレエダンサーを6人選んで、その6人のダンサーをイメージしたワインをセレクトして、その映像を観ながらワインを飲むという気持ちの悪い会を行っています。私「バレエの好きな方は来ないで下さい。なんか面白そうとか、ワインが好きな人だけ来て下さい」と言っているんですが、それをやるとダイジェスト映像を観ながら、「確かにこれ合うわ〜」という声が聞こえて来たりして、私が好きなのでついつい喋り過ぎるんですね。それに対して「気持ち悪い、気持ち悪い」「キモーイ」という歓声が飛ぶんです。私はそう言われることを褒め言葉として受け取っているのですが、そんな変な会を行っているんです。共感せずとも面白がる、が、多様性かな、と。何が言いたいかと言えば、たまにはワインが飲めるところで行っても良いのではないかなとか、先ほどまでひとの多様性の話や、くれよんさんの空間の素晴らしさの話もありましたが、環境をあえて変えてみる。環境にも多様性があるということを切り口に行ってみると、ひとの繋がりも爆発的になるのではないかと思っているんです。そんなことを思ったきっかけがもうひとつあって、私は川の活動も行っています。川の活動をしている人たちの発表会に参加した時に、山から海までの活動を紹介してもらったのですが、海なら海洋プラスチックの問題ですよね。山だと木が便秘状態になっていて、森林が崩壊してゆくと…。海や山の活動をされている方々がこれほどいらっしゃるのに、負荷をかけているのは都市住民なわけですよ。負荷をかけている街の人たちがその会にはいらっしゃらないので、この川の活動の発表会に街の人たちがいたらどうだったろうなと思ったりもするのですね。そう思うと一年に一回は遠足をするとか、そういうことも入れると引き継ぐ人が大変かもしれないのですが…。川でやってみようとか、山でやってみようとか、環境の多様性という意味では良いのかなと思っています。

村田
いろいろなアイデアを出していただいたのですが、会場の皆さんからもぜひご意見をいただければと思います。

F
まちの縁側育くみ隊のFです。ジネンカフェ、先ほどから大久保さんが女の人をゲストに呼ぶことが多いと言われていますが、150回の記録で数えてみると女の人が58%ぐらいで、三分の二も行ってないのですよね。ちょっと大久保さんの名誉のために…。よく見ると僕はゲストに呼ばれていないよね?

T
呼びたくなかったのだわ。僕たちのこと嫌っているもん、大久保さん。

F
先ほどしらさんが周りの人たちの大久保さんの扱いがザツで驚いたという話をしていましたけど、僕らも「エロクソ親父」とか言ったりしているから、確かにはたから見たら虐めているとみられるかも知れないけれど、それも大久保さんの人柄でね。ノーマライゼーションというもののリアルな姿を体現させてもらったよね。綺麗な言葉を並べたり、頭の中で思い描く理念とかよりも、こうやって「エロ親父」と呼ぶことによってフラットになれた瞬間があったような気がします。

T
まちの縁側育くみ隊のTです。大久保さんと村田先生が一年半かけて凄く議論してたなぁ〜というのを思い出しましたね。僕は大久保さんに「何かやれや、やれや」っていつも発
破をかけていて、大久保さんが「う〜ん」と唸るんですよね。「自然(ジネン)」と聞いた時、いいねと思いました。自然薯もあるし、良い名前を付けたなって。150回も行うとはよもや思いませんでしたが、例え150回で終わったとしてもジネンカフェのネットワークや、ここで残したことには当然意味があるからそれを現在掘り起こし中なのでしょうけれど、こういうメンバーを組み立てて、なばちゃんはまだ全国区で行くと思うし、このジネンカフェでやって来たことを更に強くしてゲストスピーカーとして自分たちの好きなまち、綺麗な子がいるまちに大久保さんが出かけるというのはどうかと思ったんですが…。

村田
ありがとうございます。他にどなたか…。自分がしていらっしゃる活動も含めて、こんな展開もあるよねということを一言二言。純粋にこれまで聞いていて質問でも良いです。

O
今日初めて来ました。初めて来たのが最終回、あれ? みたいな…。私、趣味で畑をやっているのです。常々私畑のコミュニティを作りたいと思っているのですが、土地を持っていなくて。たまに無料で使ってくれてもいいよって言ってくれる人もいますが、メッチャ広いのです。そういうところは望んでないのです。こじんまりしていて、畑の隣に小屋があってキッチンとトイレがあったら集まれるなあ〜って。天気が良かったら外でBBQでもしながら、いま収穫したものを焼いて食べるみたいなことをやりたいなと思っているのですけれど、ずっと思っていてずっと夢が叶っていないという状態です。

T
125回のゲストでお話させていただいたTです。現在、大曽根商店街で喫茶はじまりというお店をやっています。お店を始めるきっかけもジネンカフェにゲストとして呼んでいただいて、初めてずっと頭の中に思い描いていたお店のイメージを口にしたことがきっかけで、そこから2018年だったのでもう7年経っていますが、結構あの時話したままの風景が出来上がりつつあって、この間写真を撮ったら、ジネンカフェで喋った時にイメージに合う画像が見つからなくて私スケッチブックにイラストを描いて持って行ったことを思い出したのです。その時のイラストに近い写真が撮れてよかったなぁ〜というのと、やはり私のまち、大曽根でもまだまだ本当にお客さんと喋っていると、めちゃくちゃ凄い才能や好きなことを隠し持っている人がたくさんいるので、私も地域の人たちがいろいろ喋れることが出来る場所を大曽根で作って行きたいと思っています。

B
私は緑区の有松で活動しているBと申します。私も今日はじめて来ましたが、初めてが最終回という、先ほどの方と同じ思いです。でも、来て良かったと思っています。私が今日来たのは村田先生が登壇されるということで、有松でも村田先生に凄くお世話になって、『30年後の有松を考えよう』というワークショップをそれこそ5,6年前、2019年から3年間関わって、ファシリテーションをいろいろアドバイスいただいたのです。その時にいただいた言葉が物凄く印象に残っていて「不易流行」という言葉なのですけれど、有松のまちも歴史のあるまちで、私は名古屋に生まれても仕事で関わるまで知らなかったのですが、住んでいる方々は凄くまちにプライドを持っているのですね。そういうところがいいなと思って、現在飛び込んで活動しているのですが、そういういいなと思うところも大切にしながらも新しいものを受け入れる。そんな多様性を持たないと駄目だよとおっしゃっていらしたのが印象に残っているのです。ジネンカフェが長く続いて来たのも「不易流行」を追求して、それをみんなで共有している。そんな場だったのだろうなと思います。もし150回以降、有松でもやっていただいても良いなあと思いました。

I
ジネンカフェは、くれよんBOXで結構やってもらっていたのですが、大久保さんに問いたいことが…。くれよんBOXというのは、まちの縁側なのでしょうか? 基本的にはそのような活動をしたいという想いはあってやっているのですが、そんなに地域の人が来てくれるわけでもないし、入りにくい空間であったりして、現在2階でNゲージをやっているのですが、半年やって小学生が5人ぐらいしか来なくて、なかなか地域やまちに開かれている感じではないのですね。こちらからもそんなに大きなイベントを仕掛けているわけでもなく、現在2階が空いちゃって誰か借りてくれないかなぁ〜と探してはいるのですけど、なかなかそういう人も見つからず、一緒にまちの縁側をやってくれる人はいないかなと。そこで再び問います。くれよんBOXは、まちの縁側なのでしょうか?

大久保
僕は、まちの縁側であると認識しています。あの細やかながら親密な空間もさることながら、部外者の僕なんかがひょっこり行ってもウェルカムで、そのくせ放置されることもあり、その空気感がいいのですよ。ベタベタされるよりも素っ気ない方が心地よいのですよ。まあ、その人によりけりでしょうけどね…。

村田
いろいろなまちの縁側があっても良いということですよ。うちのゼミ生に訊きたい。若い人は今日の話をどう思った?

N
村田ゼミのゼミ生のNです。今日のお話を聞いていて、私は村田先生を追って大学に入った人なのですが、村田先生の授業を聴いていてノーマライゼーションとか、まちのお話は自分の中で興味があったし、関心を持っている方だと思っていたんですよ。でも、まだまだ知らないことがたくさんあるなということを感じました。未熟さも感じましたし、もっと知りたいことがたくさんあるなとも感じました。それと同時に自分の地元・岡崎にはこういう活動はみないなと思っていて、自分はちょっと前に演劇の部活をやっていたのですけど演劇の活動もみなかったし、まちづくりのいろいろな人が集まることはあっても、その人たちの話を聞く機会ってあまりなくて、有松に持って行きたいという話もありましたが、岡崎にも持って行きたいと思いました。私はこの4月で就職するのですが、その就職先で活かせるかどうかわからないのですけれど、今後出来たら面白いなと思いました。

G
先ほどの外国人の夫は現代アートのアーティストなのですが、パレード作品を創るというアート活動をやっておりまして、それもただパレードすることが目的ではなくて、地域の人と地域の物語をリサーチして創る過程こそが大切だと。先ほどから言われているようないろいろな人が持ち寄って、違う人、違う文化が出会うことによってクリエイティビティが生まれると、彼の故郷トリニダード・トバコの文化が伝わるのですけれど…。そのパレードに大久保さんが参加して下さって、私も大久保さんに惹かれちゃって今日来させてもらっているのですが、お訊きしたかったのは大久保さんにですけど、二つあって先ほど先生が17年前に比べて状況が確実に悪くなっていると言われたのは、私はちょっと違うかなと思っています。もしかしたら私の見方が悪いのかも知れませんが、17年前に私が黒人の夫と結婚して子どもを作ろうとしたら多分物凄い障壁があったと思うのですが、現在子ども二人いて社会に出るのも理解されるようになって来ていると思うし、女性が子どもを持ちながら働くのも当たり前のこととして変わって来ていると思うのです。でも私が見えていないところで悪くなっているところも確かにあるので、やはり見えていない部分があるのだろうなあと思っているのですけれど、個人的にはどの時代にも大変なことがある中で生きていくしかないのかなと思っているのですね。そこで大久保さんが17年前と比べて悪くなっていると感じているのかと、もう一つは大久保さんのメールって、頭良いのですよ。そこが女子を惹きつけるコツだと思うのですが、読書家なのか、その豊かさはどこから来るのか? マーロンがトークショーをした時にも来て下さったのですけど、マーロンが物凄く難しい、よくわからないことを言うのですよ。アーティストだから。私はもっと分かりやすく伝えた方が良いと思っている時に、それにも食いついて来てくれてアーティストはこうして作品にしているのだと言葉にして感想を下さって、ものを受け止めて言語化する能力とか、ジネンカフェの記録も残っているそうですが、その背景となる読書の土台があるのか、どうしてそう言う能力を大久保さんがあるか? その二点をお訊きしたいです。

大久保
先ず一点目の17年前に比べて現在の社会を僕がどう捉えているかですが、僕は「変わっていない」と感じています。確かにハード的なバリアは完全ではないにしても解消されています。でも、心のバリアは相変わらずです。ただ、昔は人権侵害とか差別があっても表沙汰にされなかったけれど、今はそうではない。ちょっとしたことでも、報道機関が騒いで問題が表に出やすくなっている。だから余計に世の中が悪くなったように見えるのだと思っています。忘れられないのですが、昔は街を歩いているだけで「税金泥棒」って罵倒されたものですが、今はそんなことはありません。そういう点では良くなったとも言えますが、表面的にはそう見えるだけなのかも知れません。本質的には17年前も今も変わっていないと感じています。二点目は僕は幼い頃からこの体でしたので外に出て遊ぶということが出来ませんでした。当然のことながらインドア派になり、本ばかり読んでいました。現在でも読むのも書くのも好きですよ。地方の文学賞ですが、2度ほど入賞したこともあります。

村田
話すと辿々しく聞こえるのですけれど、文章をみると本当に…。ぜひブログのジネンカフェの記録を読んで貰うと良いと思います。

T
紙芝居の物語は最初に作った時には大久保さんが一週間で短編の物語を書いてきて、それを一週間で紙芝居として完成させたのです。そういう能力をお持ちの方です。

O
今回司会をさせてもらっているOです。私自身ジネンカフェに関わるのは15年、もっとなのかなあ〜と思うぐらいなのですが、大久保さんと知りあって20年近くになるんですかね? 先ほどお話の中に出てきた『カレーなる晩餐会』にも関わっていました。私自身いままでジネンカフェには関わっていたのですが、他のことや地域活動にも関わりもせずに生きてきたのですが、私も大曽根に住んでいますので「喫茶はじまり」さんには行けてはいないけれど、地域コミュニティの中でなんとなく知っていて、ちょっと行ってみたいと思っている場所なのです。私、子どもが産まれたこともあって地域コミュニティってすごく大切だなと思うことが増えていて、きっかけは今年町内会の組長になったのですね。自分の中では良いきっかけになったなと思っていて、地域コミュニティの大切さはそれでないとわからない部分がたくさんあるのですね。私が住んでいる地域はお年寄りがすごく多い。若い方もいらっしゃるのですけれど、マンション暮らしで町内会には表立って出て来ない方々が多いのです。餅つき大会とか現在まだそういう行事が残っています。でも担い手がいないから今後出来なくなるかも知れないとか、搗き手募集していますとか、そんな話をよくされていて、盆踊りとかいろいろまちの行事があるのですけれど、それが今後衰退して行くと思うと淋しいのです。それでは自分たちが担い手に…と思うけれど、子育てを始めると難しい反面もあって、私自身はいろいろやりたいのですが、夫がそういう活動に協力的ではない。私はこういう場によく参加していますし、町内会も私が出て行っているのですが、夫は面倒臭い、自分のためになるかどうかわからない、そういう有用性をあまり感じることがないという価値観の違いを感じることが多い。経験によって人の価値観は育って行くものだと思っているので、こういう会の有用性はたくさんあるなあと思っています。このまま続いてくれるのは嬉しいなと思っている反面、なかなか参加出来ないとか、今日も子ども連れて来てもいいよと言われたので参加出来たのですけれど、そういう子どもに優しいところ、個人的に困るのが今日は私子どもをハイハイさせていたんですけど、歩く前の子どもを連れて行くのが大変なんです。歩いてしまえば一緒に歩けばよいのですが、それまでが物凄く大変で何か会を開く時にオムツ替えのスペースや授乳スペースとか、ハイハイ出来たり遊べるスペースがあると嬉しいなと思っています。

村田
そろそろお時間なのでまとめに入りますが、その前に村田もいろいろとやっているのでひとつだけ紹介します。先ほど「食べる会」というのがありましたけれど、村田がやっているのは焚き火です。『街中焚き火カフェ』と言って長久手のイオンの前に公園があるのですが、市役所の許可を得ながらその公園で焚き火をするんです。焚き火をしながら、ちょっとしたものを食べながら、いろいろ話が出来る会をやっています。よろしければご参加下さい。村田自身は割りと田舎に住んでいて、岐阜県恵那市の里山に暮らしているので使ってない畑もあります。BBQもいくらでも出来ますし、私自身猟師もやっていますので鹿や猪の肉も提供出来ます。まあ、それはそれで…。まとめに入りたいと思います。幾つかのヒントをいただきました。ご質問の中にあった情勢について良くなっているのか? 悪くなっているのか? 日本の社会の中で現在多様性(ダイバーシティ)という言葉は割りと一般的に了解されるようになっているように思います。それは17年前より確実に浸透して来ています。ただ本当の意味でダイバーシティになっているかといえば、ちょっと怪しいのかなと思っています。何故かと言えばみんな逆にバラバラになったので自分とは関係ないからそこにいてもいいよという感じで存在が認められる社会になっているのではないかと思います。例えば大久保さんとこんなふうに出来るのかと言われると、「いや、こんな人知らないから」とか「会ったことがなかったから」と、障がい者やもう少しマイノリティと呼ばれている人たちと直接コミュニケーションしたり、関わることがないから良いんじゃないの? というような社会のような気がしていますし、確実に言える のは子どもたちの同調圧力はめちゃくちゃ強くなっている気がします。それは深いコミュニケーションをしないから、相手のことを知るチャンスがどんどん減っていて「空気読めよ」という感覚はかなり厳しいものがあるのかな。逆に関わらなければ自由だよねという選択をするように感じています。今日いろいろと話を聞いていて大久保さんという存在はすごく重要だったと改めて気付かされたのですけど、大久保さんの何が凄いのかと言えば身体性を持って我々にあたって来てくれる。言葉の辿々しさもそうですけれど、電動車いすでガーと来て我々とコミュニケーションするということ。身体性を持っているコミュニケーションが本当の意味での多様性を産むのだろうなということを改めて感じさせていただきました。大久保さんの電動車いすで足を踏まれることが多々ある中で、そういったことを改めて感じられたと思います。もう一つジネンカフェが自分も何か出来るかも知れない。自分の地域でも欲しい。というようなお話が今日何人かの人からありました。大久保さんが最後のまとめのところで「種」という話をされていましたけれど、まさにこの17年間150回続けてきたジネンカフェが「種を蒔く」活動だったのだな。そしてひとりひとりの心の中で芽を出し、花を咲かせ、更にまた次の種を育んでゆくというような繋がりがこの中から生まれて来るとすれば、その次のジネンカフェ、ジネンカフェというかどうかはわからないけれど、我々が描いてきた大きな足跡なのではないかなと思いました。お時間ですのでこれにて終了とさせていただきますが、ぜひ皆さんいろいろなところで芽が出て来ますので見逃さないように。そしてみんなでお互いに支えあい、繋がって行ければ良いなと思っています。長い時間ありがとうございました。

ジネンカフェVOL.150レポート II

2025-04-03 16:38:55 | Weblog
【第一部 基調講演『多様な人々が活躍するまちの縁側〜ジネンカフェ17年間の振り返りと全国の縁側より』

名畑恵氏パート
NPO法人まちの縁側育くみ隊の代表をしている名畑恵と申します。これから1時間ほど私たちまちの縁側育くみ隊が応援してきた全国のまちの縁側、居場所をご紹介した後で、ジネンカフェの話をして行きたいと思っています。よろしくお願いします。先ず改めて「まちの縁側ってなに?」という話なのですが、皆さんに答えていただきたいと思っています。「よくわかる・やっているよ」という人はグー、「なんとなく大切そうだなあ」と思う方はチョキ、「よくわからない」という人はパー、グー・チョキ・パーで手を挙げて下さい。行きますよ。セーの。はい、ありがとうございました。手を下ろして良いですよ。いつもはグーの人が殆どいなくて、チョキとパーの人が半々ぐらいなのですが、今日はさすがにパーが2人ぐらいで、グーとチョキが半々ということで、何となく大切そうだなと感じていただいていると思います。今日の一日で「よくわかった」と思っていただけたらいいなあ〜と思うのですが…。
【まちの縁側育くみ隊の変遷】
 私たちまちの縁側育くみ隊が名古屋で立ち上がったのは、もともとは橦木館というお屋敷の保全運動から始まっています。橦木館に行ったことがある方はいらっしゃいますか? 殆どの方が行ってらっしゃいますね。橦木館が当時ひょっとしたら取り壊されてしまうかも知れないという危機的な状況の時に、それぞれの市民活動団体が集まって「この場所は大事だよ」というメッセージをいろいろな活動で示すということをしていて、私たちもその中の一員でした。そもそも私は大学で建築を学ぶ学生だったのですが、「素敵なお屋敷があるから来てみない?」と居酒屋でバイトしている時にお客さんから誘われたのです。いわゆるナンパなんですけど、今日も来てくれている坪井さんがナンパしてくれて橦木館に出会ったのです。その時は建築に興味があって橦木館に行ったのですが、むしろそこで活動している人、大久保さんもいました。様々な人が集っていて、そういうお屋敷ですから当然バリアフリーでもなく、でもチェアウォーカーの方を自然と手伝う雰囲気が醸し出されていて、お庭ではお芝居やいろいろなことが行われていました。そこで活動している、そんな人たちが格好いいと思って益々のめりこんで行き、現在に至っています。当時は「橦木館育くみ隊」と名乗っていたのですが、こうして様々な市民活動団体さんたちが市民の居場所が大事で重要だということを、加えて自分たちのまちは自分たちで守り育んで行くのだということを実践してみせた訳ですよね。それで橦木館は取り壊されることなく守られることになり、市の公共施設としてオープンするという流れになって行きました。それと共に「橦木館育くみ隊」は一定の役目を終えたということで「まちの縁側育くみ隊」と名称を変更し、そのような市民の居場所、まちの縁側を全国に広めて行こうよということで法人化したという経緯です。

【まちの縁側とは?】
発足当時の代表は延藤安弘さんという人でした。延藤さんは「人が育つことでまちも育ってゆくんです」とおっしゃっていて、もともとは都市計画・建築の先生ですけれど、ハードよりもひとのハートが大事だというような先生でした。そんな環境を育むにはまちの縁側は凄く大事なものなんだよということで「まちの縁側」のキーワードを世に提起したのですが、こんなふうにおっしゃっています。「まちの縁側とはヒト・モノ・コトのゆるやかなつながりを通して、ひとりひとりの生命の欠如をあたたかさで満たしてくれる居場所のことを言う」凄く哲学的でわからないかも知れませんが、様々な現場を今日紹介させてもらって、何となくああこう言うことだなと思っていただければと思います。本日のお話の組み立ては、まず絵本を紹介します。その後にまちの縁側の様々な事例について紹介して行きたいと思います。

【何のためのまちの縁側か? 絵本『わたしたちの天国バス』】
では、何のためのまちの縁側かと言うことで、一冊の絵本を持ってきました。『A BUS CALLED HEAVEN(和訳タイトル:わたしたちの天国バス』なぜこの絵本を紹介するのかと言いますと、まちの縁側絵本としてこの洋書絵本を見つけた時、延藤先生はぜひ日本でも紹介したい、日本でも出版したいと思い、何とその思いが余って自ら和訳して出版社に持ち込みました。出版社も「この本は素晴らしいですね。ぜひ和訳して出版しましょう! でも和訳はプロの絵本作家にお願いしましょう」と言うことで、自分の原稿は没原稿になったのです。因みに没原稿になった延藤先生による和訳のタイトル、何だと思います? 『極楽やん』。こういうタイトルで和訳して持ち込んだのですが、どうして「極楽やん」なのかといいますと…。

ある町はずれに捨てられた一台のバスがありました。それをまちの人たちが覗き込んでいます。外もボロボロ、中もボロボロの廃バスなのですが、まちの人たちはそのバスの中に入って「わぁ、これは私たちのバスだわ」と言って大喜び。せっせせっせと自分たちのところまで運んで行き「ここを私たちの居場所にしよう!」と、中を掃除したり調度品を整えたり、まちの人たちの居場所らしくなって行きました。このお話の主人公・女の子のステラは、その廃バスのエンジンルームに燕が巣を作っていることに気づきます。そんなある日、トラブルが起こるのです。やんちゃな男の子たちがその廃バスに落書きをしています。こんな時「あんたら、何してるの!」と叱って追い出してしまいがちなのですが、そこにやって来たステラのお母さんは「あんたら、絵上手いやん。明日も来て」と逆にその振る舞いを誉めたのです。男の子たちはその言葉通りに翌日も来て、ステラが描いた絵を廃バスに描いたのでした。この絵本が生まれたイギリスでは当時若者による環境破壊が社会問題化していた時期なのですが、彼等にも活躍の場があるという一幕が挿入されています。他にも自分の居場所として心地よくなるようにいろいろなアイテムを持ち込んでいるまちの人たち。そうして廃バスはみんなにとっても居心地の良い居場所になって行きました。その廃バスが置かれたステラの家の前庭には多様な人種や世代が集まるような場所になりました。しかし、またまたトラブルが起こります。ある日レッカー車が来て、そのバスを持って行ってしまったのです。実はその廃バスはステラの家の前庭に置かれていたのですが、車体が歩道にはみ出していたため『道路交通法違反』で警察が手配してレッカー車が出動したという訳です。担当者は「こんな粗大ゴミはスクラップ場に持って行き、スクラップにしてしまうぞ」と大声で怒鳴っています。ステラは一計を巡らせてどこからともなく卓上で遊ぶサッカーゲームを持ってくると、その担当者に「これで勝負しましょうよ。あなたが勝ったらバスをスクラップにしても構わないわ。だけど私が勝ったらバスは返してよね」と条件を提示し、交渉します。ステラは稚いながらも逞しい女の子なのです。そうしてステラは見事に勝利し、約束通りレッカーされた廃バスは戻ってきたのでした。それだけではなくステラはどうしてそのバスが大事なのか担当者に説明をします。エンジンルームの中で燕が卵を孵したこと。そうしてステラたちは自分たちの居場所を取り戻したのですが、今度は通行人や車の迷惑にならないように裏庭へと運び、ステラの家だけではなく両隣3軒が塀を解いて裏庭を開放しバスを置いたのでした…。

この絵本はまちの縁側絵本としてとても大事だよねと延藤先生が発信されてきたわけですが、皆様はどんなことを読み取られたでしょうか? 例えば私が思うに4点ほどヒントがあったのかなと思います。その1は多文化共生の居場所作り。沢山の多様な人たちがいましたよね? その2は地域のつながりの中で若者やステラの想いを形にするとか、子どもを育むことの大切さ。その3は幾つかのトラブルがありましたが、そのトラブルをエネルギーに変えるため多様な人たちが活躍出来るのが地域なんだということ。もう一つは持ち寄り型ですよね。自分の必要なものを持ち寄ってその場が出来てゆく、持ちつ持たれつがあるということが「まちの縁側」らしいなあと思いました。あなたの発見した気づきはきっとこの絵本を読み解いてもらうとまだまだ掘り下げられると思いますので、ぜひ手に取っていただきたいです。

【自宅の門を開いてベンチをおく/ふらりと寄れる居場所〜『長野の縁側』】
それでは現場のお話をして行きたいと思います。今日持ってきた「まちの縁側」は10個です。時間の関係で全部は紹介できなくて飛ばし飛ばしになってしまうかも知れませんがよろしくお願いします。これから紹介する事例は小さなお話がたくさん出てきます。細やかなのだけれどまち育てとか地域福祉など大きな役割の一端を担っていると思って私は紹介するんですね。皆さんもぜひ「こういうところが素敵だなあ」とか、「これなら真似が出来るかも?」とか、何かヒントがありそうだと思って観ていただければと思います。まずは長野から行きます。自宅の門を開いてベンチを置くということから始めた人がいます。石川さんは自宅の門を開け放してそこにベンチを置いているんですね。立て札には「病院の帰りや買い物帰りに腰掛けて休んで行って下さい」なぜこんなことを始めたかと言いますと、石川さんのご自宅の前の通りが病院や買い物の行き帰りなどに使われるのですね。ある日ご自宅の前でお年寄りが蹲っていた。それを見つけて助けた石川さんはご自宅に座っていただいたんですが、「そうか」と気づきを得た石川さんは、次の日から門扉を開け放してお庭にベンチを置いた訳です。これなら誰にでもできそうですが、実はこれには後日談もあって石川さんはそれまで家に帰って寝るだけが生活の全てだったんです。地域と繋がりもなかった。でも、こういうことを始めて「石川さんのお庭のベンチ」が世間話の場になったり、地域コミュニティの繋がりの場になって行きました。その後何が起きたかと言うと、石川さんは園芸が得意なんですね。ふとした話の流れからご近所の植木鉢を預かって花が咲くところまで育てて、花が咲いたら返すという活動を始められたんです。そうやって自分の得手を地域の中で活かすことで、石川さん自身も生き甲斐を見出して行くというストーリーが、明日からでも出来そうなことから生まれて行ったという事例です。残念ながら石川さんはもう亡くなられてしまいましたが、石川さんのストーリーは私たちが目指すまちの縁側の原点に当たるように思います。

【自宅の居間を週に1回開放/朝ごはんを食べる居場所〜『ホットサロン矢野さんち』】
今度は近くで名古屋市北区の『ホットサロン矢野さんち』に行ってみましょう。名古屋城の北側にあるんですが、居間を開放して朝ご飯をみんなで食べる会をやっていて、この時に大事にしていることは勉強会をしてから朝ごはんを食べるのですね。週に1回100円で朝食が食べられ、その後で世間話も出来るということで、私がお邪魔した時にも「血管を若々しく」というテーマの勉強会をやっていました。足を引き摺っているおばあちゃんがいらしたので「どうされたんですか?」と尋ねたら、「この前まで入院していたのよ。87歳のこの歳で足の骨を折って入院なんてすると、もうダメかなぁと思ったんだけれど、ここに来たい一心でリバビリを頑張ったんです」とおっしゃられていました。そんなふうに地域の人々の細やかな生き甲斐になっていたり、お裾分けの場になっていたりしているところです。

【自宅のゆとり空間改造・開放/子どもを中心とした地域の居場所づくり〜『浜田のまちの縁側』】
次は島根県は浜田のまちの縁側へ行ってみましょう。ご自宅のゆとり空間を開放してまちの縁側にしたケースなのですが、ある日島根県の浜田市に住む栗栖さんから電話が掛かってきました。「ご自宅にゆとり空間があり、そこを地域に開放したい。まちの縁側というコンセプトに共感したので手伝って頂けませんか?」というご相談を受けまして、建築家の坪井さんを筆頭に縁側チームが向かいました。その時に栗栖さんが思うまちの縁側ではなくて、地域の人や子どもたちも含めてワークショップを行ったのです。どんな居場所があったら良いかなあ〜という感じですね。その地域には子育て中の若いお母さんが結構たくさんいらっしゃって、一方では元気なお年寄りもいらっしゃることがわかったわけですね。というわけで、地域の子どもたちをお年寄りたちが見守り、お母さんたちは子育て中の悩みを子育ての先輩としてのお年寄りに教えを乞う。そんな時に子どもたちも居心地のよい空間で遊んでいられるという居場所になりました。子どもたちが遊んでいる空間は元々押し入れでした。「子どもコーポラティブ」と呼んでいるようで、子どもたちの中にも社会があって一緒に作り上げてゆくような世界なのでしょう。この浜田のまちの縁側は昨年20周年だったのですが、それだけ地域の中で子育て環境を支える大切な場所になっているということです。

【住まないシェアハウス持ち寄り企画型〜『place la Bon』】
今度はまた名古屋に戻ります。住まないシェアハウスというコンセプトで、伊藤早苗さんが運営する『place la Bon』を紹介したいと思います。ここは先ほど『わたしたちの天国バス』のところでも紹介した持ち寄り型の居場所に近いようなところで、そこに住んではいないんだけれど自分の趣味を持ち込んでホームパーティーが出来るような場所です。居間をみんなでシェアしているイメージ。延藤先生なども『おとなの絵本カフェ』と銘打ってご自分のお好きな絵本を持ち込んで展示会をして、絵本に登場する食べ物をみんなで作ってみんなで食べながら自分の好きな絵本を語ろうという会を開いていました。『place la Bon』は今まで3回場所が変わっているのですが、三つ目の場所の時に私の家から古い押し寿司の箱や道具が出てきたんですね。この箱を活かせないかなあと思っていたら、料理研究家の谷さんが「欲しい」と言われたので差し上げました。そうして早速「押し寿司を作る会」を開いて、みんなで思い思いの押し寿司を作り食べました。こんなふうに『place la Bon』は開くときその時その時自分のコンセプトで、自分の企画を持ち込むことが出来るという場所です。ある時は「黄色い料理を作ろう」ということで、黄色い料理を思いついた人たちがレシピを持ち込んで作っていました。私自身もこういうまちの居場所に救われていて、時々息子も連れて行くんですけれど、みんなが手を貸してくれたり、息子の世話を焼いてくれるんですね。そのお返しというわけでもないのでしょうが、彼も一仕事してくれているようです。『placeラ・ボン』の床をずり這いして床掃除をしてくれているんですね。(笑)

【自宅建替え・開放/地域の人の生き甲斐の場〜『池上台ハウス』】
もうひとつ、名古屋の事例行きましょう。緑区にある『池上台ハウス』地域の人たちの生き甲斐を作るということで、山田佐智子さんがもともとご自宅を南医療生協の活動や町内会に貸し出していたのですが、老朽化してきたのでみんなが集まるのに心配だわということで立て替えてまで地域に開放している素晴らしいお方です。ご自分の家だから好き勝手にする訳ではなく、地域の中で運営協議会を作って運営するということで正に公益のため、地域貢献のためにこの場をオープンにされています。その山田さんがされていらしゃるのは「お客さんはいない。みんなに活躍してもらう」ということ。地域の人が自宅で穫れた野菜の余りを持ってきて売ったり、ご飯を食べる時も自分で作ってみんなで食べるみたいな感じの居場所です。私も時々寄せていただくのですが、一切お客様扱いされなくて何かしら仕事をさせられるのですね。みんなの活躍する場を作ることが佐智子さんのとても上手な運営の仕方で、みんなが生き生きして自分の役割を全うしている、そんな居場所です。

【商店街の空き店舗をコミュニティカフェに/地域活性型『三八カフェ』】
もうひとつ紹介しましょう。ここも私たちNPO法人まちの縁側育くみ隊がお手伝いしたコミュニティ・カフェ。一宮の『三八カフェ』ここでは「一宮ブルワリー」という一宮の名物になるようなビールの醸造をしながら、カフェとバーを営業しているというところです。オーナーは星野さんという方なのですが、日常的にカフェを地域の居場所として運営されながら、「三八市」という日本を代表するようなクラフト市を仕掛け、開催しています。そういう大きなイベントと、日常の小さな営みとを以って地域を耕そうとされている方です。この事例を持ってきた意図は、日常的に営業されているカフェも居場所になってゆくということと、商店街の空き店舗もよい感じに開かれて居場所として活用出来るよということで紹介させていただきました。

【公民館活用型―ふれあい農園・三世代学び舎型】
続いては公民館。公民館も居場所になるよという事例を紹介したいと思います。沖縄の糸満市の市民農園を居場所にした事例です。この地域というのは産業が何もなくて、若者たちが働くためにドンドン外に出て行って高齢化が進んでいるという地域なのですね。なので空き地がゲートボール場になっていたのですが、全戸配布アンケートを行うとやはり子どもたちが都会へ働きに出て行っても、外に稼ぎに行ってもまた帰って来たくなるような、故郷のような地域を育みたいという意向が見えて来たのですね。そのためには三世代が一緒に出来ることが良いのではないかという意見が挙がっていました。そこで公民館の空き地をゲートボール場から市民農園として耕すことにしたのです。中心人物は3人の女性なのですが、すごく良いことをおっしゃられていて「長く続けるコツは出来る人が、出来る時に、出来る分だけ…ということを、みんなが大らかに解りあっていることが大事なんだよ。どうしても特定の人に仕事が偏りがちになるんだけれど、そういう時にも大らかに構えていることが大事なんだよ」ということです。「具体的にどういうことですか?」と尋ねると、「水やりとか日常的な地味な作業には人が集まらないけれど、収穫祭やカレーパーティーをすると人がどっと集まる。それでも良いからまた来られる時に来てね! と大らかに構えていると、どんどん繋がりが広がって世話人も増えてきたんです」ということでした。そのように地域の中で温度が上がって来ると行政の支援も入って来て、公民館のキッチンを改修することも叶い、みんなで収穫物を持ち寄って料理をすることが出来るようになったということです。

【音楽や子どもの居場所の多機能型〜『みつや交流亭』】
時間が来てしまったので飛ばしますね。大阪の『みつや交流亭』ここのユニークなところは、大阪市職員組合の活動から発展して、商店街と協力し、NPO法人化している点です。子どものグループなどに開放し、タイムシェアリングをして大阪市で活動する団体に使ってもらいながら、アフターファイブは市役所の職員さんが来られたり居場所として運営して、音楽祭も開いたりしています。面白い事例としてご紹介しました。

【自分発信の居場所がみんなの居場所に〜『ケア・ド・カフェ』】
もうひとつ、岩倉の『ケア・ド・カフェ』も自分発信の居場所です。自分の旦那さんが認知症になりかけている、そうした時に『ケア・ド・カフェ』という認知症アドバイザーの資格を取られた方々が運営するカフェをウチで開いて下さいと、ご自宅のリビングを開放して地域の人たちの居場所にされた方がいらして、始まりは旦那さんのためだったけれども、そうして開いた場所で支えられる人が広がっているということでした。私がお邪魔した時も若い男性がいまは心に悩みを抱えていて会社をお休みされているんだけれど、カフェが開かれる時には講座トークの文字起こしをお手伝いされていて、地域の中で何かしらの痛みを抱えつつも自分の役割を務めようとされている。そういった人々が集まっている居場所でした。

【まち育て拠点としての〜『喫茶・スペース七番』】
たくさんご紹介して来てこれを最後にしたいと思いますが、皆さんが今日お集まりのここ七番、一階は喫茶店、二階がここ『スペース七番』ですね。ここも地域のみんなで会社を創って運営している場所になっています。地域の人たちで株式会社エリアマネジメントという会社を立ち上げているんですけれど、株主が町内会とか地域の人たちで地域活動には無料でこういうところが使えて、ビジネスとか他の目的で利用するには一定の市場価格でお貸しするということをしています。民間で立ち上げた公民館のようなものですね。そんな居場所になっています。一階の広場では絵本の読み聞かせが行われたり、映画館とコラボして映画会を行ったりしています。特に子ども向けのものには力を入れていて、もともと子どもが全然いなくなってしまった時期があり、そこから徐々に増えて来てこのマンションが出来たりしたので、私たちは夏祭りとか子どものための取り組みを積極的に行っています。地域の大人が子どもをご招待するというコンセプトで、出店を出してもらったり、子どもの居場所を育んでいます。

【「私」から始まる居場所づくり】
今日は駆け足になってしまったのですが、「まちの縁側ってなに?」というと、ひとつの答えがあるわけではなく、人によっては防災拠点になったり、ある人にとっては心が晴れる場所であったり、或いは飲んで食べて歌って笑えるところなのだと言われるかも知れません。様々な居場所があるのですが、私が最後に強調したいのは居場所を運営されている人たちに質問をしてみると、「自分が楽しいことをしていたら地域問題解決の端緒にいた」ということで、地域問題を解決するにも、居場所を運営するにしても、繋がりが増えることが大事かなと思っています。今日ご紹介した事例は自分が楽しいこと、趣味を持ち寄ったりとか、自分が課題だと思っていることを地域に開いたり、そんなふうにして「私」から始まるということを大事にしている人たちが運営されている事例でした。

【ジネンカフェの17年間を振り返って】
次は「私」から始まるという意味においては、大久保さんの問題意識から発意して、仲間と共にジネンカフェを続けてきたこの17年間を振り返るお話をしたいと思います。今からは大久保さんと私(名畑)でお話を進めて行くのですが、大久保さんの資料もあります。A4サイズの今日のレジュメがお手元にあると思いますが、それを数ページめくっていただくと『ジネンカフェの17年間を振り返って』というタイトルの大久保さんのレジュメが出てきます。ここからスライドも交えながら進めて行きますけど、皆さんお手元にA3の「ジネンカフェの軌跡」と題された資料があると思います。これだけの膨大な人と、膨大なテーマで17年間行ってきたわけなのですが、今日は17年間を振り返るということでジネンカフェの誕生までをもともとの大久保さんの問題意識を含めてお話伺っても良いですか?

大久保
「はい。こんにちは。大久保です。ジネンカフェはそもそも私の個人的に持っていた問題意識からスタートしたプロジェクトです。私は愛知県主催の『愛知県人にやさしい街づくり連続講座』がきっかけで市民活動を始めたのですが、もともとが文系人間でしたので「障がい者や高齢者が安心して暮らせるにはハード系の整備も必要だけど、その人たちに対する理解も大切ではないだろうか? と思っていたのですね。ただ、理解が大切とはいうものの、障がい者や高齢者にもいろいろな方がおり、様々な障がいを持った方がいます。同じ障がいでも出来ることや出来ないことが違うこともあり、目には見えない障がいを抱えている人たちもいるんですよ。それをいちいち理解するのは難しいですよね。先ずはそういう人たちに慣れること。理解はそれからでよいと思うのです。そうはいうものの現在でこそ街で障がいをもつ方を見かけることも多くなりましたが、それでも出会いや親しくなる機会は極めて低い。どうすれば障がいがある人とたない人たちが自然に出会うことが出来るのだろうか? 福祉系のイベントでは当事者、あるいは関係者や福祉に関心を持つ方しか集まらない傾向があります。そうではなくて属性や職業や役職、障がいのあるなしに関わりなく集え、自然体で出会える場が望ましい。それには何かしらの「仕掛け」が必要でしょう。また、もともと「福祉」とは特定の人たちだけのものではなく、誰もが幸せに暮らしていけるための考え方であり、実践なのだから「まちの縁側」とは親和性がある。

【「普通とは何だろう? が、ジネンカフェの誕生のきっかけ】
ここまで考えて「では、どんなことをすれば良いのか?」をまちの縁側育くみ隊の有志と、くれよんBOXさんとかたひらかたろうさんと一年間ほどかけて話し合いました。その中でノーマライゼーションのいう「社会的に立場が弱い人たちの生活を、通常の社会環境に近づけ、誰もが普通の生活が送る権利がある」の「誰もが送る権利がある普通の生活」って何だろう? という疑問にぶちあたった。「普通の生活」それは人によって基準が違って来るし、どうして「普通」でなければいけないのか? 障がいも個性のひとつとするならば、その個性を輝かせながら生きる生き方を伝えたい。自分が持ったものをありのままに、あるがままに生きる。そうすることにより障がいの有無に関わりなく、様々な要因で「普通」に縛られて生きにくさを感じている人たちも生きやすくなるのではないのか? そんな社会が一朝一夕で叶えられるとは思えないけれど、自分らしく生きている人たちをゲストに招いて、その人の生き方をお話してもらうことによって、参加者が生きやすくなるヒントが得られるのではないか? 同時にくれよんさんで行うことにより、障がいをもつ人ともたない人との出会いの場も作れる…。「ありのまま、あるがまま」=自然(ジネン)+カフェ、それがジネンカフェの誕生の瞬間でした。

【夢を実現されたゲストさん】
ジネンカフェの誕生まで長かった筈なのにサラリと紹介してくれた形なのですが、人にやさしい街づくりで集まった皆さんも大久保さんの仲間になり、ジネンカフェ誕生の時には「まちの縁側」と「くれよん」さんと「かたひらかたろう」さんの三者で始めたという形ですよね。最初の頃企画をしている時には100回続けられれば良いよね〜と言っていたら、150回まで来ちゃったということで長期プロジェクトになったんですが、その辺りのことは後程お訊きするとして、ここから150回続けてきた中で印象的だった回についてご紹介して行こうということなんですけど、先ずは「夢を実現されたゲストさん」をご紹介して下さるということですが…。

大久保
はい。今日もお越し下さっている高野仁美さんですね。高野さんは当時喫茶店にパンを卸す会社に勤められていて、社内に社員さんのための憩いの場「社内カフェ」を作られ、将来的にもまちの縁側のような喫茶店を作りたいとおっしゃられていました。その夢は本当に実現し、一昨年の8月に大曽根商店街で喫茶「はじまり」をオープンさせ、営業しています。

名畑
私が行った時も地域の人が自分の得意な会合をされていたり、持ち寄り企画もあったりしてすごく縁側らしい場所だなあと思いました。大久保さん、次、行く? 嬉しかった出来事もあったようです。

【嬉しかった出来事】
大久保
名畑氏の回ですね。前半は普通に名畑氏の半生を語ってもらったんですが、後半に文章のない絵本に自分なりのストーリーをつけて発表して行くワークショップを行ったんです。それ自体も楽しかったんですが、その時にたまたまくれよんさんのお庭で待ち合わせをされていた子ども連れの若いママたちが「楽しそうだから」と飛び入り参加して下さいました。こんなことが出来るのもジネンカフェならではだと思います。

名畑
そうですね。既定の出来事だけではなく、偶然の出会いが起きたりするのも「まちの縁側」らしいですよね。この絵本ワークショップは私が文字のない絵本を持ち込んで、それぞれが思い描くストーリーを発表しあうという面白いもので、同じ絵を見ていてもみんなこんな発想をするんだ…という、それぞれの違いを楽しむようなところがありました。

【カレーなる晩餐会】
名畑
これは3回もやったんですね。『カレーなる晩餐会』

大久保
3回とも初秋の頃に夕方から集まってやっていましたね。2回目までは『まちの縁側MOMO』『くれよんBOX』『かたひらかたろう』の3拠点で作ったカレーを持ってきて食べ比べをして楽しくワイワイやろうという趣旨でやっていたのですが、和歌山の毒カレー事件があってそれぞれに作って来るのは…ということで最後の1回はMOMOで用意した具材で隣のどんぐり公園にテーブルを運んでカレーを作り食べたり、いろいろな企画を行って楽しみました。地域の子どもたちも何の違和感もなく参加してくれていましたね。これもまちの縁側がなせる力でしょう。残念ながら諸般の事情もあり、3回で終わってしまいましたが…。

名畑
その諸般の事情がなかったら続けたかった? みんなで食卓を囲むのって楽しいよね? どんぐり公園、懐かしいよねぇ〜。私たちまちの『縁側MOMO(後のGOGO)という居場所を運営していたんですけど、東区にあってここがすごく名古屋らしい場所で角地にあり、楡の小道(名古屋市のコミュニティ道路第1号)が前を通っていて、向かいにはどんぐり広場(名古屋独特の公園。行政と地域で設置をする遊び場で、地権者の人が地域に提供してその分の税金を免除される制度になっている)があり、それがうちの法人の直ぐ目の前だったので、よくこういう使い方をしていましたね。MOMOのお隣はミシュランの星を持っているフレンチレストランで、環境的に物凄く良い場所だったんです。そういう公共的な空間も使いながら行ってきたということですね。MOMOも行政的な力を借りて改修したりしましたね。

【印象的な言葉たちI】
名畑
続いては『印象的な言葉たち』ということですが…。先ずはVOL.079の原さんですね。原さんも今日来て下さっています。

大久保
やはり僕は文系人間なので、その人の言葉が気になるんですよ。正直に言ってデザインのことは、僕にはよくわからないのですが、アートなら少しは理解出来る。なるほど、そういうものなのか…と、直感的本質的なものを伝えてくれているのかなと思って、それ以来忘れられない言葉になりました。
「アートとデザインの違いは、デザインには社会的な目的があるが、アートにはそれがない。こころに訴えかけるのがアートで、からだに訴えるのがデザインである」

【印象的な言葉たちII】
大久保
続いて再び原さんです。この言葉は原さんのお話のテーマが『「共に創る」がうみだすものー参加から参画へー』ということで、前の言葉と同様原さん自身の体験を通して紡ぎ出された言葉だと思うのですが、これは僕にもよくわかるんですね。「生きる」と「生きてゆく」とでは同じような意味でも違うんですね。それと同じですよね。
「ひとは誰もが生まれると共に地域社会の一員となる。でも、それは地域に参加しているということに過ぎない。地域社会のために何が出来るのかを考え、行動する。それが参画というもの」

【印象的な言葉たちIII】
名畑
もうひとつは加藤博子さんですね。

大久保
これはVOL.111『違いは個性、多様性の中で光る個性―自己と他者、みんな違って、みんないい』の中でお話下さった加藤博子先生の言葉ですね。「子どもは本能的に相手の本質を見抜くし、こころで会話をする」これは僕も甥や姪や、その子どもたちと一緒に生活しているのでよくわかるんですね。彼らは生まれた時から僕を見ているので、障害を持っていようといなかろうとそんなこと関係ないんですね。困っていたら助けてくれるし、普通に日常的に会話していますし…。まあ、彼らが小さい時、遊んでいて「隠れんぼしよう」と言われた時には困りましたけどね。

名畑
隠れるところがないからね。本当にそうですね。子どものうちからいろいろな人に出会うって、凄く大事なことですよね。ありがとうございます。

【おしまいに】
名畑
ちょうどI時間経ったところでラストになりました。

大久保
故・延藤先生はよく「終わりは始まりでもあるんやで」とおっしゃっていました。なるほど、野に咲く草花が朽ちて土に還ろうとも、その種子が土の上に落ちてまた新たな生命が育まれてゆくように、理念や想いを継ぐ者たちがいる限り、ジネンカフェは朽ちません。その種子がまた新たなる土壌を得て育まれ、美しい花を咲かせてくれることを切に願っております。明日のきみに温かい子犬を届けるために…。

名畑
今までの記録は
VOL001〜VOL.013  http://www.engawa.ne.jp/project_Jinen-cafe.htm
VOL014〜VOL.149   https://blog.goo.ne.jp/jinencafeに記録として載せられていますが、これまでの149回分を本当に丹念にまとめられていて(VOL001〜VOL.013は簡単な記録)、これはすごい宝物なんですね。参加しなかった人にとっても、読み応えのあるものに大久保さんが仕上げてくれていますので、何か迷ったことがあったら、例えば私だったら「子育て スペース ジネンカフェ」と入れて検索すると、何かヒントが見つかったり、そんなふうにしてジネンカフェのブログをこれからも使っていただけたらなあ〜と思いますし、VOL.129は実は大久保さん自身が喋られている回なんですよね。私はこのVOL.129の記録を読むと、やはり先ほどの「明日のきみに温かい子犬を届けるために…」というフレーズが書かれていて、そこで毎回泣いてしまうんです。というぐらい大久保さんの想いが籠ったブログになっていますので、これからも活き続けるのかなあ〜と思います。










ジネンカフェVOL.150レポート I

2025-04-03 16:29:09 | Weblog
2007年に産声をあげたジネンカフェも150回を数え、筆者がプロデュースするのもこの日が最後となった。まだまだ続けようという気力は残っているものの、この2月に66歳を迎え身体的な無理が祟って障害が重くなってしまったということもある。まあ、金属疲労のようなものだ。手術をすれば治るかも知れないが、筆者のような脳性麻痺の患者を手術するのは極めて難しいのだそうだ。手術は出来ても患部を固定することが難しい。脳性麻痺の障害特性として不随意運動というものがあり、それがなかなかの曲者で自分の意思に関係なく体が動いてしまうのだ。だから固定が難しいというわけだ。今は血流を良くする内服薬とビタミンE剤を飲んで神経の通り道を広げる治療と、リハビリの成果か麻痺していた右手の肘から下の部分は動くようになったが、これ以上無理は出来ないと思い、17年間背負ってきたジネンカフェのプロデューサーという看板を下ろすことにしたのである。幸いにして後継者が名乗り出てくれた。彼にバトンタッチをして、今後筆者は相談役・後方支援に徹しようと思う。これからもシン・ジネンカフェをよろしくお願いします。その前にジネンカフェVOL.150のレポートをお届けしよう。

【復活! ミニコンサート&ランチタイム】
17年間行ってきたジネンカフェ拡大版のお楽しみは、ミニコンサートであり、ランチだ。心地よい音楽に耳を傾けながら、大勢でランチを摂る。参加者の皆様に音楽で心と体をリラックスしてもらい、美味しいランチでお腹を満たしてもらう。初めのうちはアイスブレイクのつもりで組んだプログラムだったのだが、そうすると午前中から始めなければならなくなり、会場整備なども含めると10時間ほども費やすことになる。これはさすがに疲れるという批判もあり、いつ頃からか午後から開催することにしてこの部分を省くことになった。やがてコロナ渦になり、ますます飲食を絡めたイベントが開きにくい状況になった。そして今回は最終回ということで、昔のようなお楽しみを復活させたいとの思いで、ミニコンサート&ランチタイムを復活させることにしたのだ。ただし、訳あって今回ランチは錦の料理屋「黒潮」さんのお弁当。ドリンクはいつも通りのくれよんBOXさんと分散型になった。
音楽を奏でてくれるのは、ジネンカフェではお馴染みのユコこと中村裕子さんと、下山智輝さんと、我が法人の理事・黒野雅好さんのコラボで懐かしい唱歌、ポピュラー、ビートルズの名曲「Let It Be」そして最後に我が法人の理事・加藤武志さん作詞・作曲「まちの縁側ソング」を奏で歌って閉めて下さった。また、ミニコンサートの合間に「ジネンカフェのオリジナルソングを作ろうワークショップ」を敢行。ワークショップとは言っても、「ジネンカフェ」というイメージを絵にしたり、言葉にしたり、前に描いた人のイメージに加えたり、重ねたりしてゆくだけなのだけれど…。

なお、ユコさんからはこの日のアンケート結果も求められたが、そこから歌詞のヒントを得られたそうだ。どんな曲になるのだろう。完成発表が楽しみだ!!

【ツトムくんの春 初恋編】
40分間の休憩の間、筆者にとっては市民活動の原点でもある『愛知県人にやさしい街づくり連続講座』から派生した風穴一座の紙芝居の第二作目「ツトムくんの春」を、進行役の大野弥穂さんとまちの縁側育くみ隊代表・名畑恵さんにより上演された。自分で言うのもおかしいけれど、このシリーズはノーマラゼーション、心のバリアフリーをテーマに子どもたちにも伝わるように面白おかしいストーリーを展開しながらも、ホロっと来る紙芝居になっている。愛知県内各地の行事や商店街やお寺のイベント、学校の福祉実践教室などに招かれ、一番忙しい時期で年間30公演ほどもこなしていたが、様々な要因で活動休止状態になり、そのまま自然消滅してしまった。筆者の性格上ケジメをつけたい方なのでこの消滅の仕方はいかにも残念だったが、そこで燃焼しきれていなかった分をジネンカフェにぶつけていたのだろうと自分ながらに思っている。そう、筆者的には風穴一座の活動の延長線上に「ジネンカフェプロジェクト」があるのだ。

ジネンカフェVOL.142(2023年6月 )レポート

2024-02-28 09:25:10 | Weblog
今年の梅雨入りは早かった。その上エルニーニョ現象の影響なのか台風が早くも発生し、前線を刺激して災害級の雨が降る。日照時間の短いこと。こんな時には食べ物も黴びる恐れがあるが、ともすれば人間も黴びて来てしまいそうだ。こんな時には爽快な生き方をされているゲストさんをお呼びして、お話を聞くのが一番だ! というわけでもないが、6月・ジネンカフェVOL.142のゲストは、(公財)名古屋国際センター事業課主事の池田昌代さん。これをお読みになられている中にも、国際センターって名古屋市営地下鉄の駅名にもなっているけれど、実際にどんなことをされている機関なのかご存知ない方もいらっしゃるだろう。実は私もその口で、駅には何度も降りたことはあり、待ち合わせのために建物の中に入ったこともあるのだが、3Fのセンターには出入りしたことがないのでどんなことをされているところなのか知らないのだ。その謎も後半で明らかになる。題して『知らない場所で生きるには〜予定はミテイ、脱線はハッテン』はじまり、はじまり。

【教員志望でも勉強嫌いな女の子】
池田昌代さんは豊川市(旧音羽町)のご出身。2008年からカナダへ行っている間に音羽町が豊川市と合併したので、行く前は音羽町民だった筈なのに、帰って来たら豊川市民になっていたという市町村合併の洗礼を受けたひとりである。カナダに行く前は会社員をされていたそうだ。もともと教員志望だったので大学も教育学部に通っていたのだが、勉強がそれほど好きではなく、教員採用試験の勉強もあまりしていなかったので、周りが採用試験に合格してゆく中、池田さんだけ、教員免許はあるものの採用されることはなかったという。

【カナダからの帰国後、外国籍児童担当教員として勤める】
大学卒業後、会社員を6年ほどされていたが、英語や海外には興味があったので一念発起で退職し、ワーキングホリデーの制度を使ってカナダへ渡ったそうだ。そこで一年半過ごし、帰国されてからはせっかくの教員免許を活かそうと思い、たまたまポストが空いていた外国籍児童担当教員として勤めることになった。豊橋や豊川には外国にルーツを持つ子どもたちが多く、愛知県からそのための講師雇用に予算がつけられている。そのポストに空きがあり、年度途中の9月から学校勤めをすることになったのだ。クラス担当というわけではなく、多い時で一時間に4〜5人、多様な学年でルーツもバラバラな子どもたちがひとつの教室に集まって、日本語やいろいろな教科の勉強をする。そのための先生であった。

【もう一度教師採用試験を受けようと考えたけれど…】
池田さんはその仕事が好きだった。この仕事をずっと続けて行きたいと思い、もう一度教員採用試験を受けようと考えたほどに。しかし、受けるのであればもっと教員として当たり前のこともしなければいけなくなるだろうとも考えた。つまりクラス担任である。当時も常勤で働いていたのだが、クラス担任になると仕事量が半端ではない。この頃から既に教師不足が指摘されていて、池田さんも二年続けて「来年はクラス担当をしてもらうからね」と言われていたのだ。そんな働き方は自分には無理だと思った。それに何よりも池田さんは、外国籍児童に教えることが好きだったのである。始業前のこれからどんなことを教えてもらえるんだろうという好奇心と期待とが混ざったような瞳。知識を学んで行くに連れて喜びと次は何?と言わんばかりに輝くように綻ぶ顔。

【運命を変えたJICA研修参加】
丁度その頃JICA中部が行う『開発指導者研修』、それと並行して行われながら夏休みには現地研修へ行く教員向けの『教師海外研修』について知り、池田さんは即座に参加することに決めた。その年の現地研修先の1つがブラジルで、外国籍児童担当教員として日系ブラジル人の子どもたちを教えることが多かった池田さんは、彼らのルーツの国を体感してみたいと思ったのだ。
その研修で、JICAの日系社会青年ボランティア(現在は青年海外協力隊に統一されている)について知ることになる。
                                                                                                                                            
【日系社会青年ボランティアへの挑戦】
JICAの現地研修は池田さんにとってよい経験だったし、その時に知りあった先生方とも今もお付き合いがあるのだが、彼らは当時皆正規採用の教員だった。JICAのボランティア(海外協力隊)には現職教員のままでも参加できる制度があるが、学校や地域の教育委員会の推薦等を経て希望を出してから3年〜5年後にやっと行けるか行けないか、というところだそうだ。でも池田さんの場合は当時常勤講師で一年ごとの契約だったので、講師を辞めれば直ぐにでも参加できる立場だった。
一方その頃池田さんが豊川でしていた外国にルーツのある方に日本語を教えるボランティアのグループの中に、青年海外協力隊経験者の方が二人いらした。とても素敵な方々で、その人たちからもお話を聞いたりしてますますJICAボランティア参加への想いを募らせていく。
ブラジルでボランティア活動や生活をしてくれば、帰国してからもまた外国籍児童担当教員として働くための大きな糧になるのではないかとまだ見ぬ未来への期待を膨らませ、研修同期の現職教員たちや地元の先輩たちに背中を押され、池田さんは研修から導かれるように日系社会青年ボランティアへの応募を決意した。

【選考試験に通り、晴れてブラジルへ】
その年の募集でブラジルからは1つだけ「文化」という幅広い要請が出されていた。普通日系社会だと「日本語教師」とか「特定のスポーツ指導が出来る人」(池田さんの同期にはバドミントンの指導者がいらした)、日本文化であっても「エイサー(沖縄と奄美群島に伝わる伝統芸能)」「和太鼓」等々特定分野の知識や経験が求められるそうだが、この時に要請されていた「文化」は、要件が「何かの指導経験がある人」だったという。指導経験と言えば池田さんも二年半教員として勤めてきたわけだから当然応募資格はあるだろう。そうはいうもののJICAの選考試験は極めて厳格で、細やかな健康チェックはもちろん、面接も行われ様々なことを質問される。「茶道経験あり」と書いたものの池田さんは高校時代にかじった程度だったので「申し訳ありません。わかりません。勉強してきます」と答えた。池田さん曰く、謙虚な姿勢と応募者が少なかったことが幸いし、晴れて合格となり、ブラジルに行けることになった。

【日系コミニティー・タウバテ】
ブラジルの日系社会は、100年以上も前に始まった移民政策で日本からブラジルに渡った人たちがそこで家族を作り、二世、三世と世代が代わってゆく中で、学校や日本語学校を自分たちで運営していたという。そういったブラジル全土にある日系コミュニティに池田さんたち同期の30余名が散り散りバラバラに飛ぶことになった。
池田さんが入ることになったタウバテの街の日系コミュニティでは、既に4名が2年ずつ、合計8年、JICAボランティアの日本語教師が活動しており、受け入れ先のタウバテ日伯文化協会が次に5人目の日本語教師を呼べるかどうかわからないので、「文化」という幅広い分野で要請を出したのではないか、と池田さんは思ったそうだ。

【初カルチャーショック】
池田さんがタウバテの日本語学校に入って初めての行事が〈運動会〉であった。日系の方々が日本式の〈運動会〉を行うということで池田さんも参加されたのだが、運動会定番の種目〈綱引き〉競技の仕方が独特で驚かされたという。日本の場合、綱を引き合う双方の力が均等になるように予め人数を揃えたり、男女差や大人と子どもの割合を整えたりしてから競技を行うものだけれど、そこではそんなことにはお構いなく目一杯〈綱引き〉を楽しんでいる感じだった。綱を引き合う双方のバランスもバラバラで釣り合いが取れていないばかりか、盛り上がってきたなと思ったら周りで見ていた人たちまでも参加し始め、左右のバランスも何もない状態。圧倒されている間に勝敗が決し、勝った方のチームは当然喜んでいるが、負けたチームもそれほど悔しそうではなく、むしろ「楽しかったね」と笑い合っている。池田さんはその時「なんだこれは?!」とショックを受けた。「凄いところだな〜。こういうところで2年間生活するんだ」と思ったそうだ。最初は圧倒されたものの、池田さんには次第にそのことが好ましく思えてきた。日本のようにキッチリ行うのも良いが、多少の不均衡は狡いなどと思わずにみんなが楽しいことを分かちあい、誰もが笑顔を浮かべている。これはいい、と。ただ、これまで自分が経験して来たことと全く異なる光景を目の前にしてただ単純に戸惑ったのだ。JICAの研修でも「日本とは文化が違うから、自分の考えだけで動くな」と言われたが、その言葉の意味を実際に体験したのはこの時が最初だった。

【自分はクロージングの仕事をしに来たんだな】
タウバテの日系社会は成熟していて、ボランティアの受け入れもしっかりしたところに池田さんは入った訳だが、やはり協会の人たちも、一応JICAには要請は出したものの、もう8年間もボランティアに来てもらっているので、他のコミュニティにも譲らなければいけないかなと思われていたらしい。自分はクロージングの仕事をしに来たんだな、ボランティアがいなくても回るようにするとか、何かを残してゆくことが役割なんだな、とぼんやりと思ったという。そんなことを思いながら、主に週末に開催される日本語学校では、子どもたちに手遊びをしながら日本の歌を教えたり、茶道も書道も算盤もひと通り齧っていたのでそれら教えたりしていたそうだ。また、日本語教師資格はもっていなかったが、教師をしていたという経歴からもう少し歳の大きな子どもたちにも日本語を教えていたとか。
ブラジルの日系社会はその地域によって様々な特色があるが、池田さんが入ったタウバテは工業地帯で、ブラジルの航空機会社のエンブラエルや、フォルクスワーゲンの工場があり、豊川に似た規模の街であった。日系人と現地の方のカップルのお子さんも多く、日本語学校には、全く日本にルーツはないけれど日本語を教わりたいという子もいれば、日系人だけれど日本語を勉強するというよりは遊びに来るように通って来ていた子どももいたそうだ。

【ブラジルの学校事情】
その傍で池田さんは、帰国してから何かの役に立つかも知れない、と、現地の子どもたちが通っている学校を見学させてもらいに行ったという。文化協会に現地校の先生がいらして、その方にお願いして見学させてもらったのだ。ブラジルは午前中の授業で終わり、午後の授業だけで終わり、という感じが多く、日本のように一日中授業をすることがあまりなかった。だから先生方の働き方も様々で、午前中・午後・晩〜夜間とそれぞれの時間帯で違う学校を掛け持ちして働いている方もいらっしゃるとか。池田さんは現地の子どもたちと一緒に折り紙で折り鶴を折ったり、日本語の挨拶や文字などの紹介をしたそうだ。

【お年寄りの仲良し会】
タウバテ日伯文化協会にはお爺ちゃんやお婆ちゃんの会もあり、日本語で話す機会を求めて『仲良し会』と言う集まりを持っている。日本人一世の方もいれば、二世の方もいらっしゃり、二世の方の中にも日本語の方が得意という方もおられるとか。皆さん持ち寄りパーティーやビンゴが好きで、食べ物を一品ずつ持ち寄ったり文化協会のキッチンでお料理を作り、池田さんたちが提供する川柳や習字、体操などのアクティビティをされたりして、ビンゴゲームをして帰る…みたいなことをされていたという。

【日本語教師?としての2年間】
日本で国語の教員免許を持っている池田さんだが、国語を教えるのと日本語を教えるのは別物で、先生だから日本語を教えられる、日本人だから日本語を教えられるというものではないという。しかし、ネイティブの日本人は貴重な存在、要請の職種は日本語教師ではなかったが、結局協会の日本語学校で日本語を教えることも仕事になり、2年間の任期中は同期派遣の仲間に助けてもらっていたとか。隣町にも同期がいて、池田さんが困っている時には「こういう教材を使ったらいいよ」「こんなふうに仕掛けると面白いよ」と教えてくれたり、アマゾンなどブラジル各地にいる同期もオンラインで「こんなのやったらどう?」と教えてくれた。
日本語を教えること以外にも、突然シャワーが出なくなったり便座が割れたりなど、困るけれど面白おかしい事態に何度も遭遇したそうだが、本当に周囲の人たちに助けられながら2年間異国の地で過ごしていたという。

【ゲートボールデビューを果たす】
ブラジル滞在中、池田さんは協会の人たちに誘われてゲートボールにも挑戦し、サンパウロ大会にも出場したそうだ。日本ではゲートボールというと高齢者のスポーツというイメージが強いが、ブラジルでは結構若い人も競技しているらしい。日系人だけではなく、現地の方々も楽しまれているという。しかし、まさか自分の人生の中でゲートボールをすることになるとは、池田さん自身も思ってもいなかったとか。

【ブラジルの食卓】
タウバテの池田さんが住んでいた家の程近いところに、日系の方が経営されていた『シバタ』というスーパーがあり、ブラジルで栽培されている日本米が販売されていて、白米は食べられた。最も池田さんは和食だろうが、洋食だろうが、美味しいものなら何でも食する人なので、食べることには困らなかったという。ただ、任地に入った初日に「ご飯をご馳走しましょう」と連れて行ってもらったお店で、定番の『ポルキロ』をご馳走になったそうだが、これはお皿に取った料理の量り売りで、どれも美味しそうで量をあまり考えなかったことと、材料として使われているデンデヤシの油が体にあわなかったらしく、初日からお腹を壊したそうだ。でも食で困ったのはそれぐらいで、後は何でも美味しく食べられた。ブラジル料理として有名なシュラスコは家庭でごく普通に行うもので、基本的には男性がホスト役になることが多く、シュラスケイラという専用の場所を設置している家はそこで焼くものなのだそうだ。日本のBBQとは違うようだ。

【昌代先生、どのバナナが好き? 何が好き?】
食べることが好きな池田さん、食に関する話はまだ続く。タウバテの日本語学校の先生方や協会の人たちの多くは日系の方達で和食を作られることも多く、池田さんのところにも届けたり分けたりもしてくれたそうだ。また、日本ではまずあり得ない話なのだが、「先生、うちのバナナ採れたのでどうぞ」と言って、枝のままバナナを貰ったこともあったという。これには池田さんも驚いたのだが、ブラジルでは畑などの風よけにバナナの木を植えている家があり、枝ごとボキッと折ったりするそうで、ブラジルでは普通なんだと思い直したそうだ。市場にはバナナだけを販売しているスタンドがあり、ある時「昌代先生、どのバナナが好き? 何が好き?」と訊かれて〈え? バナナはバナナじゃん。〉と思ったが、ブラジルではバナナでもいろいろな種類があるのだ。大久保調べではオウロバナナ(いわゆるモンキーバナナ、小さくて濃厚)・マッサンバナナ(少し小さめでリンゴのような香りが特徴的。甘味もコクもあっさりしている)・プラッタバナナ(少し小さめで甘味もあっさりしている)・ナニカバナナ(日本でも見かける一般的なバナナ)・テッハバナナ(生食できない料理用バナナ)など。日本にいるとモンキーバナナとフィリピン産バナナの違いぐらいしか分からないのだが、ブラジルに行ったら「どのバナナが好き?」と訊かれ、“これも日本語の勉強に使わなくては”と考え、『どれが好きですか?」とか『どの(名詞)が好きですか?』を教える時や、日本風に『これ、つまらないものですが…』とものを贈る時の練習にもバナナの枝の絵を使うなど、バナナと現地での経験をしっかり使って帰って来たという。

【トラブルを楽しむようになるにはトラベルに出なければ】
こうして2年間の任期を終えて帰国した池田さんだったが、苦しいこともあったけれど同期にも恵まれて楽しかったという。池田さんは大丈夫だったけれど、住んでいた近くでも殺人事件があったり、銀行強盗が起きたりしたそうで治安は確かに日本と比べて悪く、同期にも強盗に遭って履いていたナイキのスニーカーと、買ってきたばかりのヨーグルトを盗られた子がいたそうだ。その時は「怖かった」と言っていたその同期の子も、別の同期の子に「凄いネタ拾ったじゃん」と明るく励まされ、その強盗にあった子も明るい性格だったから「そうだよね。ネタだよね。生きてるもんね」と切り返していた。もともとネガティブな性質の池田さんが、現在ポジティブに見えているのはこうした海外でのトラブルを楽しんできた体験が大きいのではないかとご自分で分析されている。

【やはり自分は裏方向きではないか?】
帰国後も外国籍児童担当教員として学校に勤めたいと思ってブラジルに行った池田さんではあったが、同期の隊員が皆いろいろな企画をたくさん考えたり、人を呼んでくるようなことが上手で、どちらかと言えば池田さんはその後方支援・裏方仕事が得意、それで「ありがとう」と言われることが嬉しいとさらに強く感じていた。教員にはなりたいけれど、なればきっとクラス担任をしなければならないだろうし、兎にも角にも今は裏方仕事がしたい!と思いながら帰国したのだった。帰国してすぐに、派遣前の教員研修を一緒に受けた方が産休に入るのでその間だけ自分の代わりに非常勤でも良いから入ってくれない? と言われ、非常勤講師として勤めたのだそうだ。その時は特別教科で1年生から6年生まで日本人の子どもを教えていたのだが、ご自分でも授業が下手だなと思ったし、日本人の子ども達とのコミュニケーションも楽しかったけれどあまり上手くいかないなぁ、やはり自分は裏方向きだ、と改めて思い、外国籍の子どもと関わるのはボランティアでも出来るからと、事務職の仕事を探し始めたそうだ。

【名古屋国際センターの嘱託職員になる】
すると、たまたま名古屋国際センターの『事務職。一年契約。更新有り』という募集があり、国際センターという言葉の響きに事務職、「ここ、いいじゃん。」と軽い気持ちで応募した。その年度が約7年ぶりの採用試験だったそうで、久しぶりということでか応募者が少なかったらしい。池田さんは補欠合格だったので「これはダメだな」と思っていたら、運が良いことに合格者の中に辞退者が出た。こうして晴れて池田さんは名古屋国際センターの嘱託職員として働くことになったのだった。

【名古屋国際センターに入職してみたら】
しかし、入ってみたら仕事は事務だけではなかった。事務仕事ももちろんあるが、企画や調整、交渉といった仕事もある。人影に隠れてその人を輝かせるための事務仕事がしたかったのに…と思ったが、企画をしたりイベントをしたり。ロクに下調べもせずよくわからない団体で仕事を始めてしまった…と、池田さんは思った。学生時代にキチンと就職活動をしていれば受験する会社のこともしっかり調べるけれど、ご本人曰く、教員採用試験受からなかった組の池田さんは急いで就職しなければと求人広告を見て応募した会社にラッキーにも採用されたみたいな人だったので、就職活動がどんなものかもあまり知らなかったという。この時も国際センターのことを知らないまま受験したが、それでも受かったのは、履歴書に「カナダに行ってました」とか「ブラジルに行ってました」と記して、〈趣味・特技〉の欄に〈趣味〉程度のつもりで「ポルトガル語」と書いたのを〈特技〉だと思われたのかも知れない、と笑っておられた。

【名古屋国際センターとは何しているところ?】
そもそも名古屋国際センターとは何をしているところなのか? ざっくりと言うと、在留外国人の方々の相談を受けたり、名古屋圏にお住まいの市民の方々に異文化理解をしてもらう、多文化共生について知ってもらう、そういう意識を持ってもらうよう働きかける。そんなことを仕事としているところだ。名古屋国際センターでは情報を多言語発信されており、昨年度までは紙媒体で日本語版の『NIC NEWS』、英語版の『NAGOYA Calendar』、WEB上でポルトガル語と中国語の『NAGOYA Calendar』を発行していたが、今年度から紙媒体のものは辞めてWEB上のみで見ていただくものになっているという。子ども向けには『子どもニック・ニュース』を紙で発行していて、こちらは名古屋市内の小学校の高学年の子ども達に配布しているそうだ。また、多言語相談対応は今年度からは日本語と英語を含めて11言語対応になっているという(日本語、英語、ポルトガル語、スペイン語、中国語、ハングル(韓国語)、フィリピン語、ベトナム語、ネパール語、インドネシア語、タイ語)。ただ各々の言語のスタッフさんが来られる曜日や時間が限られているので、いつも対応できるとは限らないという。要確認ということだろう。

【在留外国人の方にとって心の拠り所であり、心強い機関】
池田さんたちセンターの職員さんが相談に乗ることも多々あるのだが、名古屋国際センターには専門相談員さんがいらっしゃる。行政相談員さんが毎日必ずお一人、教育相談員の先生が週に三日間、行政書士会から行政書士の先生は週に二日午後のみ来て下さり、弁護士会から弁護士の先生も週に一回午前中に来て下さる。行政書士、法律相談、教育の相談は、要予約になっているそうだ。いずれも通訳さん付きで相談出来る。外国の方が日本で暮らすためには必ず在留資格というものが必要で、相談の内容によっては在留資格が大きく関わってくる。相談を受ける時にはまず在留資格を伺って、その人の在留資格に応じた対応をお話しなければならない。入国管理局の方も月に一度来て、入管相談ということで在留資格そのものに関する相談にも乗ってくれるという。これも予約が必要だということだ。その他、難民支援本部さんもセンターとの共催で難民の面接などもしているし、こころの相談もカウンセラーの先生がスペイン語・英語・ポルトガル語・中国語で直接話を聴いてくれるという(要予約)。
名古屋圏にお住まいの在留外国人の方にとっては心の拠り所であると共に、これほど心強いセンターはないだろう。

【情報発信や相談の他にもいろいろしてます】
前述したように名古屋国際センターでは情報発信や相談対応の他に、イベントや研修も行っている。
若者向けのグローバルユース事業は、35歳までの人たちが集まってイベントしようとか、こんな感じで勉強しようとかやっている。池田さんはその部署から離れてしまったので現在どんな感じなのかよくわからないのだそうだが、若い職員が担当となり、とても良い雰囲気で盛り上がっているなぁと思って見ているという。
日本語教室は、ボランティアさんが先生になって子ども向け・高校生向け・大人向けの三教室を日曜日に行っている。高校生向けの教室は近年新しく出来たのだが、親御さんが先に日本にいらしていて、後から子どもを呼び寄せるケースの場合、子どもさんが現地で中学を卒業しているかいないかは大きなポイントで、日本に来られた時に次のステップに進むためにも中学卒業資格を持っていれば高校受験が出来(日本語の勉強や受験勉強は必要になってくるにせよ)、進路の取り方が変わって来る。中学を卒業していないのに、中学卒業年齢になっている子どももいる。そういう子たちは高校進学のために中学卒業資格を取得しなければいけないので、例えば中学卒業認定試験の勉強もしなければならなくなる。そのため高校生日本語教室に関しては、高校生と、高校には行ってないけれど高校に行きたい子たちが通って来ているとか。その他にも名古屋国際センターでは、まちづくり事業として地域の方と一緒にお祭りやイベントなどもされていたそうだ。

【災害時のために】
また、災害時の対応や防災について。外国の方は日本人のように学校で防災訓練をしたという経験もないし、母国とは気候も全然違うし、地震がある国・ない国から来られている訳で、地震のない国の方は地震のことをご存知ない。日本では建物の耐震が結構しっかりしているので、地震が起きてもすぐに外に出てくださいとは言わない。先ずは机の下など頭や体を保護できるところに隠れて、素早く火の始末をし、ドアや窓を開けて逃げ道の確保を図ると言うことが手順なのだが、国によっては崩れやすい建物のところもあるので地震が起きたらすぐ建物の外に逃げて下さいという対応をとっている。そういう日頃からの災害への意識や知識、日本での対応の仕方などの防災普及啓発の事業も行っている。毎年9月には名古屋市の総ぐるみ防災訓練があり、国際センターの職員もどこかの区の防災訓練に外国の方とともに参加しているという。

【やさしい日本語啓発】
これも災害時の対応がきっかけで生まれた啓発事業。災害時に難しい日本語で情報を貰っても、外国の方はわからない。池田さんたちがよく例として使うのが「高台に避難して下さい」という言葉。「高台」と「避難」二つの難しい言葉が使われているが、これをやさしい言葉に言い換えるとどうなるか?  正解はないのだけれど、例えば「高いところに逃げて下さい」。これにジェスチャーや顔の表情などを加えると一層わかりやすくなるそうだ。「飲食厳禁」と壁に貼ってあって例えカナがふってあっても、読めるけれど意味がわからない。「食べたり飲んだりしてはいけません」とか「食べてはいけません。飲んでもいけません」にし、絵を添えたりしてもわかりやすい。相手に伝わるように書き換える、言い換えるのが、やさしい日本語だ。国際センターは出前講座の形で、学校とか非営利団体さんとかに出向いての啓発活動も行っている。

【海外の子どもたちの識字教育のために】
日本ユネスコ協会連盟さんが進めておられる途上国への識字支援に、(公財)名古屋国際センターの自主事業として募金をしている。書き損じのハガキを集めてそれを現金化し、日本ユネスコ協会連盟さんを通じて海外の子どもたちの識字教育のために役立てていただくという。

【国際センターのライブラリー】
名古屋国際センタービルの3階に情報サービスカウンターがあり、そこに常時職員が2名いて、英語と日本語で対応されている。お客様がみえるとそこで用件を伺って、日英以外言語ご希望の方はそう言えば、中で翻訳作業をされているスタッフがいるのでその職員が対応して下さるそうだ。
また同じフロアのライブラリーには、『国際協力』とか『多文化共生』『異文化理解』に関するものや各国・地域の書籍等々、日本語のものも外国語のものも置いているという。このライブラリーは出入り自由で、飲食は基本出来ないけれど静かで、ここで読書をしている人も多いという。面白い書籍を取り揃えていて、例えば『日本紹介』のコーナーには、話題になった『日本人の知らない日本語(マンガ)』とか『名古屋弁』『日本史』『日本の暮らし』『英語落語で世界を笑わす』などもある(これらの書籍はもしかしたら普通の図書館にもあるかも知れないけれど、とのこと)。他にも日本語教材(日本語の教科書)も別のコーナーで取り揃えているという。

【似ている言葉】
今回、時間に余裕があればライブラリーの書籍を紹介できたらと思い、本好きな同僚に「お薦めの本選んで」とお願いしたところ、3冊のシリーズ本を選んでくれたので、と実際に持参された。そのうちの1冊が『似ている言葉』という本。例えば「サンデー」と「パフェ」の違いはなんだ? 他にも「あんみつ」と「みつまめ」の違いとか、「糸こんにゃく」と「しらたき」、「はす」と「睡蓮」の違いとか。みなさんはおわかりになるだろうか?国際センターのライブラリーでぜひ同書を手に取ってみてほしい。ちなみに同じシリーズで英語を取り上げたもあり、「ビック」と「ラージ」との違いは、「ビック」は「わぁ、大きいと思うもの」で、「ラージ」は「他と比べて大きいもの」だそうだ。

【言語は難しい、日本語も難しい】
昨年度(2022年度)から池田さんは、多言語翻訳のコーディネートをされている。名古屋市からの行政文書や名古屋国際センター内の文章の翻訳依頼を調整して多言語スタッフさんに翻訳の依頼を出し、戻って来たものをチェックして名古屋市やセンター内の担当部署に納品する仕事だ。その中で池田さんが感じていることは、言語って難しい、日本語って本当に難しい!ということだそうだ。そこでライブラリーで目についたのが『翻訳できない世界の言葉』と『翻訳できない世界のことわざ』の二冊。例えば『翻訳できない世界の言葉』の中には日本語が4つ載せられている。「木漏れ日」「ボケ〜っと」「侘び寂び」「積読」。ちなみに、池田さん自身の思う翻訳できない日本語の最たるものは「よろしくお願いします」だという。英語でも、ポルトガル語でも、それに対応する言葉はないらしい。

【池田さんが好きだったポルトガル語】
ブラジルで話されているポルトガル語で同書に載っているのは「サウダージ」。ポルノグラフィティの曲のタイトルにも使われていて、「郷愁」とか「淋しさ」とか「哀愁」といった意味合いをもつ言葉。恋しい訳ではないけれど、遠く離れていて長年会ってなかったりすると「ああ、サウダージ」と言ったりするそうだ。
ポルトガル語と言えば、池田さんがブラジルで覚えて好きになったポルトガル語単語は「アプロベイタール(aproveitar)」という動詞。使われていた状況からすると、何かをする時ついでに何かをして利益を取ってくる、得する感じ。日本にも「行きがけの駄賃」という言葉があるが、例えば誰かがどこかに行くのに車を出すから一緒に乗せて行ってもらう時に「アプロベイタしたら」という感じで使っていたそうだ。

【チラカスカして、トマカフェしましょ】
話は流れでポルトガル語単語からブラジル滞在中の言葉についてに。
ブラジル日系社会は、文章は日本語、名詞や動詞をポルトガル語にした「コロニア語」と呼ばれる混ぜこぜの日本語で話をしたりする。池田さんがよく憶えているのは「チラカスカしたら、トマカフェしましょ」というひと言。「チラ」はチラール「剥く」という意味で、「カスカ」は「皮」のこと。「トマール」は英語の「ハブ」或いは「ティク」で「カフェ」は「コーヒー」。つまり「皮を剥いたらコーヒー飲みましょう」という意味だとか。どうしてこの言葉をよく聞いたのかと言えば、日系人協会で資金集めのお祭りなどをする時には日本食を作ってそれを売ったり、会費制のパーティーで日本食の提供をし、みんな大好き・ビンゴもして、お金を集める、ということをよくしていたからだ。そういう時には朝早くから出掛けて行って料理の準備をする。ニンジンの皮をめちゃくちゃ剥いて散らかす。それが終わったらコーヒー飲みましょう。休憩しましょう…みたいな感じで、日系の方々はポルトガル語と日本語を混ぜて使われていたそうだ。池田さんは、このような言語生活の中で名詞はわかるものが増えたけれど、動詞の活用となると全然わからないそうで、文章にならない。だからポルトガル語は話せないという。

【ライブラリーには絵本もあります】
さて、話は国際センターに戻る。今回このような機会をいただいて、せっかく錦二丁目のスペース七番で話すのだから、時間があったら会場に縁のある故・延藤先生がお好きだった本の話題も出したいと思っていたそうだ。ライブラリーには絵本も配架されていて、月に1~2回程度ボランティアさんによる外国語と日本語、2~3の言語での絵本の読み聞かせも行っている。この6月はジネンカフェvol.096ゲストの伊藤早苗さんのところで知りあったスウェーデンの方に読み聞かせボランティアの話をしたら、ご本人も奥様も「いいね」「素敵ね」と言ってくださり、旦那さんが読みに来てくれるそうだ。コロナ前は会場に何人入っても気にせず、マットを敷いて子どもさんはそこに座わり、親御さんはお子さんと寄り添って座ったり後ろで見守ったりして参加している感じだったという。コロナ中はなかなかそれが出来ず、5人とか10人までとか人数を制限して行っていたが、前回から参加定員を増やしたという。
ちなみに延藤先生と言えば、延藤先生が早苗さんのところで紹介された『わたしたちのてんごくバス』の英語版を池田さんは自分で買って、その本の話を小学校で絵本の読み聞かせ活動をされている知りあいに話したら、その人がご自分で日本語版を買われて学校で読み聞かせをし、子どもたちに好評だった、ということもあったとか。

【ライブラリーには洋書もあります】
ライブラリーの絵本コーナーの反対側には洋書のコーナーもある。これら外国語の絵本や書籍には市民のみなさんからの寄付本も多く、貸出本として出せる状態のものはライブラリー内に配架をし、来館者に読んでいただいたり、借りていただけるようにしているが、寄付が配架本と重複する場合や、読むのには差し支えないものの損傷や書き込みなどがある場合は、ブックバザーを実施して来館者に差し上げる代わりに、前述の日本ユネスコ協会連盟が行っている「世界寺子屋運動」(大久保が某高校ボランティア同好会の学外講師をしていた頃、同好会の顧問の先生が学生さん達と一緒に取り組んでおられた)とライブラリー維持費への現金寄付をお願いしている。このバザーのことは結構知られていて、コロナ前は1日で行なっていたそうだが、大きな部屋にダンボール箱に詰めた書籍やビデオテープなど寄付本等を並べていた。それを目当てにスーツケースを転がして開場前から列を作っていらっしゃる方もいた。コロナ禍では不特定多数の人を一箇所に集めることが難しくなってしまったため、1日での実施ではなく期間を長くされているそうだ(今年度は6~8月)。先日も「ダウンサイジングをするんだ」と言われて年配の外国の方が、英語だったりスペイン語の本を持ってきてご寄付下さったという。スペースは小さくなるが、コロナ禍で常設のリサイクルコーナーも作られたとのことなので、興味のある人はぜひ訪れてほしい。


ジネンカフェVOL.149レポート

2024-02-25 12:20:13 | Weblog
2月に入った。昨年末から私的なことでバタバタしていたが、漸く落ち着いてきたようだ。年齢を重ねるということは、体のあちらこちらにトラブルを抱えるようになるということで、それでも筆者がこうして活動していられるのは、サポートしてくれる家族や周りの人たちのおかげであろう。感謝あるのみである。筆者に限らず人は自分ひとりでは生きて行くことは出来ない。この世に生を受けて子どもから大人になってやがては土に帰るまで、人は一体何人の人たちと出会い、そして別れて行くのだろう? 仏教の教えに『生者必滅会者定離』という言葉がある。筆者もいままで何度も経験しているけれど、現世に生きとし生けるものは必ず滅する。どれほど愛しくても、親しくしていても、別れは必ずやってくる。せっかく出会っても、その出会いは永遠ではないのだ。まさに諸行無常なのである。でも、だからこそその生がほんの瞬間的な輝きであったとしても、一期一会の出会いであったとしても、その刹那的な繋がりを大切にしてゆきたいものだとつくづく思う今日この頃である。
さて、ジネンカフェVOL.149のゲストは、名古屋市中区錦二丁目で育ち、現在は東京の大学でまちづくりを学んでいる黒部真由さん。後述するが黒部さんが10歳の頃にあいちトリエンナーレが錦二丁目長者町を主会場に開催されたことがきっかけで、自分が住むまちと関わりを持つようになり、現在も全国をフィールドワークで周りながら錦二丁目にも関わって活動をしておられる。この4月からは一橋大学の院生になられるという。お話のタイトルは『錦のまちに伝えたいこと〜私の今までとこれから〜』さあ、行ってみよう。

【黒部真由さんはこんな人】
黒部真由さんは名古屋生まれで高校生まで錦二丁目に育ち、現在は東京女子大学を経てこの4月から社会学を軸にまちづくりの研究をされるため一橋大学の大学院に進まれる。これまで[まちの縁側育くみ隊][錦2丁目エリアマネジメント会社][一般社団法人コンセンサスコーディネーターズ][有楽町アートアーバニズム(YAU)]それに伴った[フロントヤード株式会社]等々でインターンとしてお世話になったという。[錦2丁目エリアマネジメント会社]では名畑さんや阿部さん等とワークショップをしたり、[まちの縁側育くみ隊]では名畑さんと長久手市のリニモテラス開発のワークショップにも関わっている。また、東京有楽町の[有楽町アートアーバニズム(YAU)]でも議事録を作成したり、主に事務仕事をされてきた。

【まちの会所と碁盤目状の街並み】
黒部さんのご実家は錦二丁目にあるお寺で400年間、錦二丁目の会所として現存している。もともと、会所とは室町時代の京都などでは、お茶会や歌会や寄り合いの場として、武士も平民も刀を下ろして平等に集える場所として機能していた。江戸時代になってもその精神は受け継がれ、みんなの憩いの場として、または武士の集い場として、いわば社交場としての機能を果たすことになる。そういう歴史的な位置付けを持つ環境で育てられたということが自分にとって一番大きいところだと黒部さんは言う。錦二丁目でも『まちの会所』という概念はHOTなワードになのだが、江戸時代の古地図で名古屋城下を見てみると、名古屋城を頂点に城下は綺麗な碁盤目状に区分けされている。それが現代の錦二丁目にも引き継がれているのだ。そうした歴史的な意味を知った上で、碁盤目状に区分けがなされた街並みを自分のルーツとして大切にしてゆきたいとも思っている。

【なぜ、まちづくりを志したのか?】
大学でも、これから進まれる院でもまちづくりを研究し、フィールドワークをしてゆきたいと思われている黒部さんだが、どうして〈まちづくり〉を志したのかと言えば、2010年代辺りから錦もホテルが急増して来たり、問屋だったところの空きビル化だったり、高層マンションが増えて来たり、チェーン店の台頭だったり、碁盤目状に区割りがされた街並みに代表される伝統や文化の形骸化だったり、住民や地権者に対して開発の説明がどれぐらい行き届いているのか不確かなところを黒部さん自身も感じて来た。多様な団体や機関がある中でそのような様々な立場の方々を繋げる人になりたいと思い、まちづくりを学ぼうと思われたのだそうだ。

【延藤先生との縁を辿って東京女子大学へ】
加えて延藤安弘先生の影響も大きい。錦二丁目のまちづくりは、名古屋市からの紹介により2000年代からNPO法人まちの縁側育くみ隊の延藤安弘先生がコーディネーターとして関わり、住民や繊維問屋の若旦那たちを中心に取り組んで来られたのだが、その延藤先生は残念ながら2018年にお亡くなりになられてしまわれた。黒部さんが高校三年生にあがる年だ。没後に延藤先生を偲ぶ会があり、東京女子大の桑子先生が弔辞を読まれた。その折りに東京にも延藤先生と繋がりがある先生がいらっしゃるのだなと思って東京女子大学への進学を決められたのだそうだ。

【延藤先生の著作を読んで「これは自分だな」と…】
延藤先生には直接学んだことはない黒部さんだが、著書によれば〈モノ・カネ制度〉ではなく、〈ヒト・クラシ・イノチ〉が大事。「ひとりの子どもが自ら日常的にまちと関わって、その子の成長にあわせてまちも変化してゆく。そのまち育て活動が住民によってなされて行くことが大切だ」と書かれていた。その文章を読まれた時に「これは自分だな」と思ったという。錦のまちの中で育って、自分が成長してゆく中で錦も知らないうちにどんどん変わって来ている。自分と錦のまちとの関係性が、正に延藤先生の文章そのものだなと感じて、まちづくりを志したというところもあるのだ。

【まちの再生に必要なものとは?】
延藤先生の著作には、まちづくりには5つの力が必要であると書かれてある。『だんどり力』『逃げない力』『地域資源の活用』『弱い立場を思いやる力』『生活感の表現力』そしてまちの再生の基礎的部分として大事だとあげているのが『喜び』『共生』『意思』『必死のパッチ』の4つである。とりわけ『意思』は「何をめざして生きるんや?」というワードで先生がよく使われておられたが、何を目指してゆくのかという方向感をみんなであわせるということ、まちのトラブルをエネルギーに変えてゆく力が『意思』だと先生はおっしゃられておられた。加えて『必死のパッチ』というのは、とことん粘り強く状況に挑戦する態度のことで、決定的な何かを待つのではなく、事態を変えるために自ら動こうと、現実と向き合って行こうとするひたむきな姿勢を貫いて行くことで、この二つは大事だよと挙げられていた。

【黒部さんが思う錦の現状と延藤先生の言葉】
改めて延藤先生が挙げている5つの力に焦点を当ててみると、「住民のあきらめをやる気に」というワードは、現状の錦に当てはまっているのではないかと黒部さんは思っている。自分達が関わらなくてもいいかな。自分達が関わらなくてもまちは変わって行くかなというあきらめに近いような部分を持っている人もいらっしゃると思うけれど、ひとつ目の『だんどり力』は「私発協働」私から発信してみんなで協働してゆく力のことで、まちの小さな行事のひとつひとつの遂行が大きなまちを変え、まちの再生に繋がってゆくということをおっしゃられている。

【自立性と協働性の結合とまちの宝物】
二つ目の『逃げない力』は、行政任せではなく自立性と協働性の結合が大事。三つ目の『地域資源(地域の宝)の活用』というのは、空間・景観・歴史・文化・人間のことで、空間と景観は似たようなものなのだが、錦においたら碁盤目状の町割りだったり、七番の開発だったりも含めて現在HOTなところだと思うので改めて注目して行きたいと黒部さんは思っている。

【亡き延藤先生、黒部さんに影響を与える】
四つ目は『弱い立場を思いやる力』東京女子大の桑子先生は「弱い立場」を女性と子どもとおっしゃっていたが、最も弱い立場の人々が安心して出来る状況づくり、つぶやく力とそのつぶやきをキャッチする力(聞く力)のどちらもまちには大事だと延藤先生はおっしゃられていた。最後の『生活感の表現力』は、いろいろな人がいるこのまちの多様性の混ざりあいだったり、ひとりひとりの特異性の混ざりあいだったりを、協働することによって共に育んで行こうということだ。ここまで延藤先生のお話をしてきたが、前述したように黒部さんにとって「延藤先生を偲ぶ会」に出席したことは、自分の人生を大きく変えるぐらいに大事な出来事であった。自分もゆくゆくは研究者になりたいという夢を持っているのだが、延藤先生のまち育ての哲学を実践して行けるような人材になりたいと考えているという。

【子ども時代に感じたまちに対する親和性の変化】
黒部さんが子ども時代、錦二丁目長者町は閉鎖的な街で子どもが遊ぶ場もなく、まちに対して少し恐怖心を持っていたという。それが変化したのが2010年、2013年のあいちトリエンナーレであった。黒部さんが10歳〜13歳の頃だ。まちの人たちと触れあう機会が増えて来て、自分が暮らしている家(寺院)が地域から求められていることを知った。トリエンナーレの木造の作品が境内に展示されたり、トリエンナーレのアーティストさんの作品である山車がトリエンナーレ後も地域の山車としてえびす祭の度に旦那衆が集まって組み立てられて曳き回されたり、非日常的な繋がりがまちの日常の関係性を構築していることを知ったのだそうだ。現在はえびす祭り自体がなくなってしまったのだが、毎年秋に繊維問屋の人たちが一般客にも商品を開放することを目的の一つとして開催されていて山車を曳く機会があったり、子どもながらにまちと関わる機会が多かったかなと思われているという。普段はまちの方と関わらないようなところでも、そうしたイベントでお会いしたり、そのイベントで会った方と現在も繋がっていたりする。2013年のトリエンナーレで境内を舞台に踊ったダンスユニットの方とも現在でも繋がりがあるし、愛知県美術館の館長や学芸員の方とも、この夏に黒部さんが学芸員の資格を取る際に実習でお世話になったそうだ。

【エリアマネージメント会社のインターン生として】
振り返ってみれば2020年は大変な年だった。せっかく志を持って入った大学の授業はコロナ渦で全部オンラインになってしまい、全国的に緊急事態宣言が発令されたりした。黒部さんは何かしら自分でもやりたいなという思いから錦二丁目エリアマネジメント会社の名畑氏に相談をしたところ、「錦でもこういう活動あるからオンラインでも良いからやってみない?」とか、「近くだから一緒にやろうよ」と快く引き受けてくれ、エリアマネジメント会社のインターン生としてまちの勉強会の議事録づくりやHPの記録などを作成したりしていた。東京大学都市工学科の村山先生の研究室で行われたワークショップにも参加し、他の大学の人とも触れあう機会もあって、産学連携が錦におけるワードのひとつかなと黒部さんは思っているという。

【錦二丁目での活動】
様々な地域でフィールドワークをされている黒部さんだが、地元錦二丁目での活動としては2021年から続いている名古屋市の環境局とのSDGsの取り組みがある。「400年の歴史が400年の未来へと続いてゆく」ということを提言させていただいたら、参加者が素敵な文章にしてくれた。加えて住民としての提案だったり、実家の書院を開放し、話し合いの場として使ってもらっているという。

【芋人プロジェクト】
また、2022年から錦二丁目では佐藤敦さんたちと〈長者町で芋から焼酎を作ろう〉という『芋人プロジェクト』にも参加されている。これは佐藤さんの『ハチミツプロジェクト』との繋がりで東京銀座のハチミツプロジェクトの方達とも連携して行われているものだ。長者町で育った芋から焼酎を作り、それを飲食店に卸したり、コロナ渦における飲食店支援を兼ねて、また新たな繋がりを紡ぎだそうと活動されているプロジェクトだ。まちに関わっている方の子どもたちも芋を植える時に参加してくれたり、秋の収穫時にもその子どもたちのために鬼饅頭を作るのだそうだ。一緒に芋を植えたり収穫したり、焼酎や鬼饅頭を作ることによって共感力を高めて貰おうという狙いもある。巣鴨や宝塚でも同じようなプロジェクトをされていて、毎年年末にどこの地域が一番大きい芋が獲れたか競う『イモリンピック』が開かれる。2022年は錦二丁目長者町が入勝したという。

【隠岐島、熊本、高千穂でのフィールドワーク】
東京女子大の桑子敏雄先生は島根県の隠岐島にフィールドを持っている方で、黒部さんもフィールド調査について行ったことがある。西郷港の再開発のための立ち退き、再開発による住民の合意形成の話しあいの場だったり、住民の合意形成って凄く難しいのだが、先生のファシリテーションのお手伝いをして実践的に勉強させていただいたり、役所との会議でも書記をさせていただいたそうだ。隠岐島は高校生がどんどん島の外に出て行き、大人になって島に戻って来た時に「うちの島に戻って来た」という帰属意識を高めて貰うための〈桜〉を植えようという主旨の植樹祭が2020年にあって、黒部さんも参加させてもらったとか。2020年と言えばコロナ渦の真っ只中で首都圏は非常事態宣言が出されており、横浜に住む桑子先生は行けなくなってしまったので、名古屋にいた黒部さんひとりだけ頼まれて出席された。これはチャレンジングな経験で、この時の経験があったからハートが強くなったと笑う。まちづくりの仕事は強靭な体力とハートがないとやっていけない仕事だなと、黒部さんはその時に感じたという。黒部さんのフィールドワークは隠岐島に止まらず、熊本や宮崎の千穂町でも地方創生会議に参加させてもらったりもされている。

【東京有楽町アートアーバニズム(YAU)】
有楽町アートアーバニズム(YAU)は、東京大手町・丸の内・有楽町エリアでアートファン層ではない方々とアーティストとの交流の場を提供する。例えば、勉強会やワークショップだったりするそうだ。大学生のうちに地元の地域だけではなく、様々な地域で学習しておきたいという思いから参加させてもらったのだとか。これがきっかけになって卒論も「アートとまちづくり」をテーマにしたという。

【アーバニストキャンプ東京】
東京丸の内で〈都会で人間の再野生化を考えよう〉という主旨の下で主催している取り組み。東京の大丸エリアを社会人の先輩方と議論して、チームで人間の再野生化を目指したプログラムを提案するというものだ。

【官・民・学連携での魅力発信事業】
黒部さんが通っていた東京女子大学は杉並区にあるのだが、近隣の武蔵野市には成蹊大学がある。最寄駅は東京女子大学が西荻窪で、成蹊大学は吉祥寺になるのだが、この二つの大学の学生と各行政と一般企業の方が共同プロジェクトで実際に街を歩いてまちの魅力を発信するマップづくりもされ、このマップはJRや両大学で配布される予定だそうだ。黒部さんのお勧めは東京女子大学の近くにお店を構えるパティスリー『レリアン』だという。

【日本橋】
2023年の10月からは、日本橋エリアで活動する学生団体にも所属し始めた。日本橋横山町は錦二丁目長者町、大阪船場丼池筋と並んで日本三大繊維問屋街と呼ばれていた歴史を持ち、老舗の問屋も根強くあるので錦二丁目と似ているというか、課題が似ている。さらに、母方の祖母が昔京橋で働いており、幼い頃から日本橋の思いで話を聞いていて親近感を持っていたことから日本橋にもフィールドを持つようになったそうだ。300年〜400年の歴史をもつ老舗店舗の方々にヒアリングをしたり、日本橋は今後再開発のエリアに指定されているので、そういう方々は再開発をどう思われていらっしゃるのか、デベロッパーとどういう関係性を築いていらっしゃるのか、生の声を聞いたりされているという。また、日本橋地区の小学校へ出前授業に行って、子どもたちと40年、50年後の未来を考えようという授業を担当させていただいたり、室町一丁目という地区のお祭りでは餅つき大会があったのだが、餅が蒸される間に子ども向けのワークショップを企画し、日本橋の老舗和紙店の商品を使ったランプシェードを作ったりしたそうだ。

【アートマネジメントと地域づくりの関係性】
こうして様々な地域でまちづくりのフィールドワークをされてきた黒部さんだが、東京女子大を卒業するにあたっての卒論は、前述したように黒部さんの原点でもある「アートマネジメントと地域づくりの関係性」をテーマに取り上げた。そもそもなぜ錦二丁目長者町では『あいちトリエンナーレ』はアートプロジェクトになり得たのか? 結論から言えばあいちトリエンナーレはまちづくりを目的とした芸術祭ではなかったということ。現在全国でまちづくりを目的とした芸術祭はあるのだが、愛知県の担当者にインタビューしたところ、「愛知県にはそういう目的はなく、長者町が独自にまちとしてアートプロジェクトを進めて来たんだよ」というお話だったという。日本では1990年代から全国的にアートプロジェクトが勃興して来たのだが、まだそこにはまちづくり的な側面はなく、2010年辺りからまちづくりを目的としたアートプロジェクトが増えて来たそうだ。

【長者町の歴史を振り返ってみると】
東京・大阪に並ぶ日本三大繊維街として70年代は栄えていたが、2000年代初頭のバブル崩壊と共に繊維業が衰退したことでまち自体も衰退して行き、有識者(延藤先生等々)によるまちの再生支援事業が始まった。その時に織物協同組合(原・名古屋長者町組合)を中心にした長者町えびす祭りが立ち上がり、しかしこの時はまだ組合の青年団がまちづくりに参画する機会も少なかったが、2010年のトリエンナーレがきっかけになり、まちと関わる機会を作ったというところがあいちトリエンナーレの特徴かなと黒部さんは思っている。この春には名古屋長者町組合が解散するため、長者町えびす祭りも中止になって山車も組合が管理(保管されているのは黒部さんのご実家の境内)していたので、今度はどこが管理するのだろう? また、本町通りにアーチ状に立っている看板を撤去するのか残すのか? 撤去するにせよ残すにせよ、どこが費用を出し、管理・補修してゆくのか? 議論が続いている。錦二丁目長者町は現在正に変遷期にあるなと感じている。

【長者町のアートプロジェクトと各地域のアートプロジェクト】
そのように2010年から始まった錦二丁目長者町のアートプロジェクトはまちづくりにまで繋がったのだが、2023年にまちを調査してみると伏見駅の青いペインティングもその名残であるにも関わらず風化してしまっている。同じような2010年代に始まったプロジェクトで現在も続いているところを選定して調査したという。別府のアートプロジェクトではたまたま長者町エリアを担当されていた方が現在活動されていたり、名古屋市港区のMAT名古屋にも長者町エリアでアートディレクターをされていた吉田ゆりさんがいらっしゃるのでインタビューをしに行ったそうだ。また、卒論を書いている時期に東京ビエンナーレが開催されていたので、東京ビエンナーレはどんなものだろうと調査をした。大手町エリアにあるペインティングも10年も経つと伏見駅みたいになるのかどうなのか? 関心は尽きない。

*ビエンナーレ=2年に一度催される芸術祭
*トリエンナーレ=3年に一度催される芸術祭
*どちらも定期的に催されるが、恒常的なものではない。

【地域型アートプロジェクト調査】
千葉県松戸市のPARADAISE AIRは、一般社団法人PAIRが運営されているアーティストのレジデンス組織で、PARADAISE AIRのディレクターをされている方が有楽町のアートアーバニズム(YAU)でお世話になっている方で、その方に卒論の話をしたところ「うちにも調査しに来たら?」と言ってくれたという。ここはレジデンス事業を行なっていて、アーティストに空きビルを貸して利活用するというプロジェクトをされている。東京千代田区のアート千代田3331は、現在はもう千代田区との契約が切れて新たなところになっているのだが、一昨年までは千代田区の空き校舎になった中学校を利活用するというレジデンス事業を行なっていらっしゃるところだという。

【まちづくりとアートの関係性〜調査後の結論】
これらの方々に昨年の7月〜10月末まで黒部さんは実際に現地に赴いてヒアリング調査をしてきたそうだ。調査項目としては①地域連携の重要性 ②計画段階で地域連携を主眼にしていたかどうか? ③企画遂行後に地域づくりが発展したかどうか? ①の地域連携の重要性は同じアートプロジェクトと言ってもいろいろな性質を持ったプロジェクトがあって、MAT名古屋や別府などはそもそもまちづくりのためにアートプロジェクトをしている。まちづくりのためにアートを活用している。それに対して東京ビエンナーレやアート千代田3331やPARADAISE AIRはアーティスト支援が主眼にあって、まちづくりはそれを成功させるための必要な要素という立場を取っている。では、あいちトリエンナーレはどうかと言えば、地域連携はそれほど重要視されてなく、あくまでも契機づくり。錦二丁目長者町においては初めにアートを美術館以外のところに展示しようという目的があり、それに適した環境がたまたま長者町にあったから選定されたということだ。それぞれ各地域のアートプロジェクトは趣旨の方向性に相違はあるけれど、どの場合も企画遂行後に地域づくりに発展したのでまちづくりとアートは切っても切れない関係性にあると調査の結果黒部さんは感じている。

【持続可能なアートプロジェクトには何が大事か?】
それでは持続可能なアートプロジェクトとは何か? 持続可能であるべきかどうかは別問題として、調査した上で気づいたことはアーティスト側にとって重要な点と地域にとって重要な点がそれぞれにあり、アーティスト側にとって重要な点はプロジェクトの目的と使命を明確に持って単なるイベントに終わらせない。全国いろいろなアートイベントがあるけれど、単発ではなくしっかりとした目的を持ったものでないとアーティストの方もうやむやになってしまう。芸術祭を開催するという意味においては、必ずしもまちづくりにつながらなくても価値はあると思うが、一般的に街でイベントを行おうという時にも単にアート作品を置くだけでは意味がないかなとは黒部さんは感じているという。活動目的を明確に持つことと、地域と日常的にコミュニケーションを取ることが必要になってくるので、別府でインタビューをした方がおっしゃられていたのは、お祭りやイベントなどのハレの日にもまちには行くけれど、日常からまちの人たちと常にコンタクトを取り続けていると、「ちょっとここ掃除して欲しいんだけど…」みたいな時にも一緒に掃除してくれたり、win-winな関係性を構築してゆくことが重要な点だという。

【アートやアーティストと街の人たちを繋ぐ第三者の役割も大事】
スタッフが働きやすい労働環境も大事で、アート界は職業地位としてそれほど高くないと言う話もあり、継続的に給料を一定額支払い続けることもスタッフの働きやすい環境づくりには欠かせない要素だという。加えてライフステージに応じた福祉面でも一般企業に比べたらまだまだ伸び代があるところなので、そこもアーティスト側にとって重要な点になる。地域側にとって重要な点は、アートそのものを受け入れてゆく地盤を整えてゆくこと。アートプロジェクトとは何なのかと言うことと、その利点を認識すること。自分事としてアートプロジェクトを捉えてゆくこと。錦でもアーティストの方が何かプロジェクトをやりたいという時に、まちの人たちは「アートってなに? 」と言うところがあるので、取っ掛かりを作ってゆく第三者の役割も大事かなと最近黒部さんは思い始めた。そういう点でアーティストと地域との間に立つ第三者の役割として、PARADAISE AIRやMAT名古屋や別府は機能していたという。

【黒部さん個人的な課題意識】
いままで錦をベースにいろいろな地域でフィールドワークをされてきた黒部さんだが、錦で言えば2010年代のコミュニティと現在のそれとは全く異なっている。まちを構成する団体が黒部さんでも追い切れないぐらいにいろいろな団体がいて、それが細分化されている。その中で協力体制は取れているのかなと個人的に純粋な疑問として持っているという。延藤先生は〈地域のゆるやかな連携が大事〉と著書の中に書かれていたが、その連携は現在でも図られているのかなと。いろいろなまちの勉強会やイベントはあるけれど、そういう時にどれくらい連携が保たれているのか? 例えばいろいろなイベントをしていても同じような人しか来なかったら意味がない。いつも来ていない人たちをどう巻き込んで行くかというのは難しい話だけれど、まちづくり協議会やいろいろな団体のそれぞれの存在意義を今一度しっかりと把握しておくことが黒部さんのベースになっている課題意識である。

【黒部さんが考える錦二丁目の課題】
① コミュニティの賑わいづくり
現在でもマルシェとかイベントをたくさんされてはいるが、個人事業主だったり、企業だったり、住民の連携を一層強化して行く必要性があると思っている。その理由としては肌感覚として地域活動に対する住民の関心が薄れていて、地域のイベントを知らないお年寄りがいらっしゃる。それでも住民参加と言うのならば住民参加の意義とは何? 本当に実現出来ているの? と疑問視されているところだという。
② 地域を動かす人材の確保
黒部さんの知人から聞いたこととして、もっとイベント等の時に動かす人が欲しいという声があった。以前のようなゆるやかな連携が失われつつある現在、まちに関わろうとする意思を持っている人自身が減少しているのではないか? 地域づくりをするプロフェッショナルが減少しているとの声も聞くので、今の自分はまだまだそこまで到達してはいないけれど、ゆくゆくは地域づくりを担えるほどの力をつけることをご自分の目標にされているそうだ。
③ 地域経営とコミュニティづくりの両立
地域組織の黒字経営とコミュニティづくり、どちらも大事なのだけれど、どちらかに偏ってもいけないということで、長期的な経営の地盤を整えることと、いまはここにはいない、でも関わっている目に見えない人と人との繋がりが重要だと思っている。経営的     な視点で話すと、一般的にも、その場にいる人たちだけで話が進んでいくような気がするんだけれど、まちにはその場にいる人以外にも大勢の人たちが生活しているので、それらの人たちとの繋がりも大事にしたいと思っている。
④ 豊かな暮らしから離れてしまっているのではないか?
既存の街並みや住民の存在と商業地としての開発。これはビジネス街の錦二丁目ならではの問題観点かなとは思うのだが、建坪率の問題だったり、日照権の確保だったり、室外機の騒音や熱風問題だったり、民法では隣家とは境界線から50cm離れていないと建物は建てられないことになっている。しかし商業地開発を理由にして、それが正当な理由かどうかは別にして守られていない事例もあったり、住民との合意形成を重視していらっしゃるところももちろんあるが、それが必ずしも100%ではないところもある。加えて既存の住民とマンション開発の暮らしの共存。マンション開発は必要なことだと思っていて、今後のマンション開発と既存の住民の暮らしの共生はどちらも大事なものだから、開発段階における事業者と住民の関係性も対立的に描かれがちだけれど、必ずしも対立的である必要はないと思っていて、話し合いの場の提供だったり、着実に合意形成をして行く必要がある。室外機の問題に関しては、調査している大学の人もいるが、夏場は夜中30c゜を肥えていた。そばにある植物も枯れてしまったり、錦二丁目は低炭素モデル地区として選定されているけれど、実際は室外機が出す熱風によって植物も枯れてしまっている現実もある。黒部さんが都市政策に進んだ理由もそこにあって、工学的には当たり前でデーター的には良しとされることでも、実際の暮らしはどうなの? 実際の他者との繋がりはどうなの? というところを学問的にアカデミックな方向性で関わって行きたい…という想いから進路選択に大きく影響したという。
⑤ 歴史・文化の保全
江戸時代からの碁盤割りの街並みは絶対に崩してはいけない。それは何故かと言うと、その街並みがあることによって400年の歴史があったり、動線がある。日本橋の老舗の方々にインタビューすると、やはり街にとって一番大事なのは動線の確保なんだと言われたそうだ。何か建物が建つことによって人の流れが変わる。それによって客足が減って営業が成り立たなくなってしまった店舗もあり、そういう小さな店にも焦点を当てるべきだという声もあったので、街並みや会所の認知度をもっと高めて行かないといけないと思っている。単に旧いものを残せというのではなく、それを活用して行かないといけない。現状は「碁盤目があるよ」と言わなければ「あっ、碁盤目だ」とはわからないかも知れない。でも、まちを歩くだけで「あっ、ここ碁盤目だね、確かに」と体感してもらえるような街になると嬉しいし、そういうような活動を何かしらアイデアだったりをもっと皆さんと共有して行きたいなと黒部さんは夢見ている。また、“会所”という意味を今一度皆さんと共有する機会があればと思っているし、2010年代に盛んだった文化・芸術活動支援も今後立て直して行きたいなとも思っているという。
⑥ わがごととしてまちに携わる仕組みづくり
どうしてわがごととして捉えることが大事なのか? まちに住む人たちの大半が、「自分以外の人が動いてくれているから」と考えがちで、黒部さんも小さな時はそう思っていたそうだ。でも、それでは駄目だ、自分が動いて行くことが大事だと、実体験を通して思ってきた。それをしっかり解ってないと言葉だけが先行してしまい、実態が追いついていないというか乖離が生まれてしまうので、そこの乖離を生まないためにも地域課題の解決を誰が主体的に行うのかという意識を皆が共有することが大事かなと考えているという。他の地域で活動している時、黒部さんはよそ者として活動しているのだが、錦に帰ると自分が生まれ育った場所だという帰属意識はある。でも、他のまちでも我が事として自分が関わって行くことって大事だなと思っていて、例えば日本橋は黒部さんにとって遠い存在だったのだけれど、住民の方に話を聴いたり、学生メンバーの中にも日本橋で育った子もいるのでそういう子たちと肩を並べて話しあってみると、自分とは縁がなかった土地でも自分が関わる以上は我が事として関わって行くということは大事だなと思ったのだそうだ。

【修士課程における三つの柱】
この4月から黒部さんは一橋大学大学院社会学研究科の修士課程に進まれる訳だが、そこでは三つの柱を持っていて、
① 「既存の計画や組織のあり方を再度検証して、あたりまえに良いこととして考えられた事柄を考え直したい。住民参加というワードが免罪符として使われないために、その真の価値を計ることが大事」
② 住民の望ましさと行政や団体の望ましさとは違うのではないか? そこにどれくらいの差があるのか? その差を問いたい。住民の声を聞くことが大事だよという話もあるけれど、その住民とは誰のことを指しているのか? 町内会長だけ? 集められたのがどこかの長だけみたいな事例も錦に限らず一般的によくあることなので、それで本当に「住民の声を聞くこと」になるのかな? と、個人的に検討する事項だと思っている。
③ 地域経営は綺麗事だけではなく大変なこともたくさんあると思うので、持続可能な地域経営の手法を探って行きたい。黒部さんが進む社会科学は「都市工学」がhow(どうやって)という手法を問う学問であれば、「社会科学」はwhy(なんでそんなことが起こったの)を考えてゆく学問だよと次の研究室の堂免先生から教えられていて、でもwhyを知ったからこそhowが生まれる。先に挙げた①②をしっかり基礎堅めしてから、ゆくゆくは地域経営の方にも携わって行きたいという大きな夢を抱いているそうだ。

【修士課程を終えたら、どうする?】
修士課程を終えたら博士過程まで進学することを一番に目指してはいるものの、博士課程に行く前にどこかの企業に勤めるかも知れないし、まちに入るかも知れない。それは未確定要素なのだけれど、遠い将来最終的にはまちを構成する既存組織・地権者・寺社仏閣・個人事業主・行政・一般企業・芸術家・住民等々…。いろいろな機関を繋げる専門家になりたいという大きな夢を高校生の頃から持っているそうだ。

【本日のまとめ】
黒部さんは、錦二丁目長者町に生まれ育ったことは自分にとって一生の宝物だと思っている。6つの課題意識を挙げたけれど、いまの自分があるのは錦に生まれ育ったおかげでもあるので、ビルに囲まれてはいても故郷の景色に変わりがなく、東京に戻っても夕方に夕陽を見たりすれば〈ああ、錦も同じ時間でこんなふうに夕陽に包まれているんだ〉と思い浮かべる空でもある。少しでも地元の力になりたいと思って勉強をして来て、その間もまちの開発はどんどん知らないところで進んで行くし、学生の自分が関われないような事案も数えきれないほどあるので、環境も関わってゆく人も変わってゆく現在、自分はこれからどうしていこうかなというところだそうだ。前述したように将来は現場を大切にして、自分の足で動く研究者になることで錦二丁目長者町をはじめ、日本全国のまちづくりを資する人材となって行きたい。「ひとりが呟き、呟きをキャッチし、みんなが対話することが大事」という延藤先生の言葉があるけれど、それを胸に名畑さんや大先輩たちのようなコーディネーターを目指したいと黒部さんはいう。

※大きな成長は小さな行動を積み重ねること。小さな行事を重ねることで大きな成長に繋がってゆく。
※「もうちょっとで出来るのに」を諦めない。錦の活動に限らず、いままでの活動で全国的な事例で側からみると後少しで出来るけれど…というところで経営が難しいから諦めちゃおうみたいな、あと一歩のところを諦めないことが大事。口で言うのは簡単だけれど、それを実際に行うことが難しいから諦めちゃっているのでしょうが、中途半端な状態のまま空中分解させないことが持続可能なコミュニティには大事だと思っている。
※一緒にまちを育てている人のことを考える。まちはひとりの人間だけでは育たないし、自分がどれだけ考えていても実現は出来ないので、協調力などが必要不可欠。
※やる気。住民の諦めをやる気に変えて、何を目指しているのか方向感を合わせること。
※理由を考えて「なぜ?」の視点を重視して、現行の計画が何故よしとされているのかをしっかり考えることで、気づいたら知らない間にまちが変わってしまったと言っている住民を置き去りにしない。まちが変わってゆくことは大事なこと。新陳代謝も必要だが、久しぶりに帰って来て「このまち変わったね」ではなく「このまち変わってしまったね」にならないように。住民全員が幸せな街になったと実感出来ることは難しいかも知れないけれど、明るい未来に向けて何が出来るのか? 錦二丁目長者町は商業のまちでもあるが、その中にもうちのようにお寺だったり、普通の住民の方や何十年、何百年も事業されている方がいらっしゃるので、そういう方と連携を取って行きたいと思っている。また、新住民の方をどうやって巻き込んで行くかというところも今後の伸び代だと思っている。

この黒部さん自身の「今日のまとめ」を頭韻要約をすると『おもいやり』になる。

ジネンカフェVOL.148レポート

2024-01-30 13:23:56 | Weblog
2024年が明けた。今年は正月早々能登を震源として大地震が襲い、甚大な被害を齎した。被災された方々、生命を落とされた方々、地震そのものではなくても関連死された方々に心よりお悔やみを申し上げたい。無慈悲な自然災害の前では人間の力なんてまるで赤子のように無力だ。しかし、人間には過去のデーターや記憶を積み重ねたデーターから導き出される知識や想像力と、他者の痛みを我が事のように感じられる共感力や呼応力があり、何よりも被害を最小限に食い止めるためにはどうすれば良いのかと考える知恵がある。日本に生まれて住んでいれば地震は避けられないし、南海トラフや東南海トラフ地震もいつ起こってもおかしくないと云われている。今一度地域のハザードマップや家にある備蓄品や災害グッズを確認してみよう。
 さて、1月のジネンカフェVOL.148のゲストは、NPO法人地域福祉サポートちた代表理事・市野恵さん。お話のタイトルは『私の居場所づくりから、想いを形にするお手伝いへ』
さあ、行ってみよう

①自己紹介
【文武両道の子ども時代】
市野恵さんは忍者の里としても有名な三重県伊賀市のご出身。家は、両親だけの小商いゆえに赤ちゃんの頃から保育園に預けられ、幼少期はよく祖父母の家や祖父母の隣家に上がって遊んだ記憶がある。今思えば、孤独な子ども時代を過ごしていたのかもしれないという。床屋さんというところはお寺と並んで江戸時代から地域の社交場でもあり、様々な情報が行き交う場でもある。実家の隣にある床屋さんには情報通のおばちゃんが働いていて、彼女には障害施設に入所している長男がいた。彼が自宅に戻って来るとおばちゃんから「めぐちゃん、遊んだってよ」と言われて一緒に遊ぶ。そんなこともあってか、子どもの頃から障害のある人を分け隔てすることはないそうだ。小学校に上がってからも、市野さんを取り巻く環境は変わらなかったけれど、算盤や習字などの習い事のほか、日曜学校、子ども合唱団やサッカーチームにも入っていた。5,6年生にはガールスカウトに参加していたそうだ。姉の影響もあって、中学ではバレーボール部に入部。めきめきと身長が伸びて高校生時代には身長が177cmもあったので、選抜チームに選出されたそうだ。

【魂を売り渡した気持ち】
高校卒業後は、バレーボール選手としてスカウトされたトヨタで働きながら、退社後にはトヨタスポーツセンターでチームの仲間と汗を流す、二足の草鞋を履くことになった。そんな日々を市野さんご本人は嫌だったという。バレーボールは好きだったが、その情熱は高校で燃え尽きてしまっていて、本当は美大に行きたかったのだ。実際高校での選択科目はすべて美術で、大きなキャンバスに向かい、絵の具を重ね描く油絵に夢中になっていた。しかし、ご両親の反対に遭い、トヨタに就職することになったのだ。ご両親にしてみれば自分達は自営業だし、トヨタなんていう日本を代表するような大企業に娘が就職出来るチャンスがあるのだから、それを逃すことはないと思っていたのだろう。しかし、ご本人は油絵を極めたい気持ちもあり、それが叶わなくても中学校の美術の先生になりたいと思っていたという。当時の思いを市野さんは「魂を売り渡した気持ち」と吐露されておられる。

【骨折、退職、再就職、結婚、子育て、3B体操クラブ】
そんな日々も二年でピリオドが打たれる。元々足首や腰も悪かったが、半月板を剥離骨折してしまったのだ。トヨタを辞めて伊賀市に帰ってきた市野さんは、自動車学校に通ったり、半年くらい叔父さんの土地家屋調査兼設計事務所を手伝い、再就職したINAX上野工場では主に事務仕事をされていたそうだ。それまでバレーボール中心の生活だったので、どんな仕事でも新鮮に感じられ、それに加えてINAX の社風は自由で、何でもやらせてもらえたので面白かったという。職場結婚もあって5年間で退職、その後も会計事務所に勤めたが、お子さんを授かったこともあり、子育てに専念されていたそうだ。しかし、子育てばかりしていては体にも精神衛生的にもよろしくない。市野さんご夫婦は実家の近くのアパートに住みながら、時折子どもを両親に預け、幼稚園の父母会クラブ『3B体操』で健康づくりとコミュニティづくりに勤しんでいたそうだ。

【3B体操と忍ジャーズダンス】
3B体操とは、子どもからお年寄りや障害のある方までを対象に、幅広い世代に親しまれることを目指して作られた体操である。特徴は「ボール」「ベル」「ベルター」の3種類の道具を使って音楽に合わせて体を動かすことにより体が解れ、健康になってゆくというものだ。使う3つの道具の頭文字を取って「3B体操」と名付けられたのだろう。その『3B体操クラブ』で指導されていた先生から、上野観光協会が忍者のコスプレをして踊る『忍ジャーズダンス』のメンバー募集を知らされ、市野さんも応募してメンバーに入ったそうだ。そんなダンスの縁もあって、ヘアーショウモデルとしてランウェイを歩いたことは、いい思い出だったという。

【ご主人の転勤に伴い愛知県へ、そして3B体操の縁からサポートちたへ】
やがてご主人の本社勤務に伴って、平成14年に愛知県知多市に引っ越しをすることになるのだが、生まれ育った伊賀上野を離れることが悲しかったという。引っ越して来た当初は知り合いもなく、成すこともなく市野さん自身も暇で寂しかったが、この頃一番辛かったのは、関西弁が原因で、子どもさんが学校で虐められていたことがわかったことだった。しかし、その環境を変えてくれたのがNPO法人地域福祉サポートちたであった。その当時の事務局長・今井さんとは3B体操を通して繋がりがあり、引っ越して半年後に誘われ、当時の事務所のトイレや階段の掃除、書類の印刷等々を手伝うようになった。スタッフの皆さんとの会話が楽しく、帰りにどこで買い物をしているの? 病院はどこが良いの? そんな情報も欲しかったし、息子のことも聞いて欲しかった。とにかく誰かと喋りたいという思いが強かった。何よりも日常的でたわいのない会話が市野さんには楽しく嬉しかったのだ。

【あなたはここで何がしたいの?】
そんな日々が続いていたある日、当時、サポートちた代表の松下典子さんから「あなたはここで何がしたいの?」と尋ねられたという。市野さんにしてみれば、見知らぬ土地に移って来て、知り合いもなく不安な中で、サポートちたで何かをしたいというよりは、自分の時間を消費出来ればそれで良かったのだ。伊賀にいる時は生まれ育った故郷ということもあって周りから「めぐちゃん」と呼ばれていたのに、知多市に来てからは旦那さんの付属品としての〈市野さんの奥さん〉とか、母親としての〈市野くんのお母さん〉と呼ばれることに違和感を覚えていた。社会と繋がり、社会に貢献して役に立ちたい。それは、個人としての存在価値を求めると同時に、孤独をかき消すためだったかもしれない。松下さんには「ここで子育て中のお母さんたちや自分のような他所から来た人たちも安心して話せる居場所である、あーだこーだと話ができる関係性が作れるようなカフェを作りたい」と答えると、すぐに「応援するわ」と言われ、すぐにカフェ作りがスタートしたという。

【子育て中のママたちのカフェ(居場所)づくり】
NPO・ボランティア情報ひろばの一室には何もなかったので、松下さんがポケットマネーで換気扇を取り付けたり、やかんや冷蔵庫など、ありとあらゆるものをサポートちたに繋がっているNPOや個人に声をかけ集めてくれた。そうして市野さんの主宰する、子育て中のママたちのカフェ(居場所)Ada-coda(あーだ・こーだ)が出来上がった。現在から20年前のことだ。カフェたるもの、コーヒーや紅茶の仕入れから淹れ方の知識が必要だが、見かねたサポートちたのスタッフさんが東浦町にある社会福祉法人愛光園に連絡を取り、ひかりのさとファーム(障害福祉事業)の中島さんに一から教えてもらった。いまもコーヒー豆の仕入れはここからだそうだ。

【非常勤から常勤職員、そして事務局長から代表へ】
『手づくりカフェ Ada-coda』がスタートして間もない頃、サポートちたでは成年後見業務を引き受ける準備が始まり、平成20年4月には成年後見事業がNPO法人化される。これを機に、サポートちたの事務局体制は大きく変わっていく。そんな頃に市野さんは常勤職員になる。その後、サポートちたの代表が、松下さんから岡本さんへ交代する。それに伴い、松下さんに言われるがまま事務局長を引き受けた。7年前に、岡本さんから代表を引継ぎ、市野さんが代表になって7年が過ぎた。

②【NPO法人地域福祉サポートちたって?】
NPO法人地域福祉サポートちたの定款第3条に、〈福祉の心と市民意識をもつ人材を養成する〉ことを目的に掲げる法人である。トップダウンによる政策や誰かの利害に合わせて暮らすのではなく、自分達の住む土地柄や文化などをよく理解し、それを大事にしたいと願う住民の暮らしを、自分達の声をまちづくりに活かしたい。そこに福祉の心をもった市民運動を広げてゆく装置としてサポートちたは作られたという。ここでいう〈福祉〉とは制度上の社会福祉ではなく、広義の地域福祉のことだ。誰もが自分らしく幸せに生きられる権利を持ち、在りたい姿を描いて発信してゆける地域社会。それはしかし黙っていては何も変わらない。幸せも待っていても手には入らない。自らが動き、発信しなければ何も変わらない。それに気がついた人から活動に参加して行きましょう。そうして市民の手によって新しい価値を生み出してゆくのが市民活動だとして、そのお手伝いも含めて、サポートちたの存在意義があるのだと市野さんは言う。

【サポートちたの歴史】
NPO法人地域福祉サポートちたの歴史を辿ると、平成2年の市民互助型在宅福祉サービス団体の設立にさかのぼる。この頃の福祉は措置制度といって、身寄りのないご高齢者や低所得者が対象の時代であって、在宅を支える制度はなかった。そんな時代に、東海市で家事援助のボランティア活動がスタートしたのだ。名古屋市に隣接する東海市、知多市は50〜60年前に人口が倍増している。その社会背景には、中京工業地帯を支える労働力を全国から募り、北海道や東北、北九州などから人が集まっている。当時、単身もしくは夫婦で移り住んだ人たちが親戚縁者のない土地で、地域での暮らしを維持してゆくために作られた互助の仕組み。それがサポートちたの前身だった。だから、半田市で困っている人がいれば半田市の人が支える。例えば、人となりが分からない他人を家に上げ、居室の掃除や冷蔵庫にあるもので食事を作ってもらうことに抵抗感をもつ人も多いだろう。やはり地域の中で知りあいを作り、その人たち同士で助け合って行く。それこそが地域福祉なのだ。東海市で産声を挙げたその理念や組織づくりのノウハウは、NPOのリーダーの意見交換や勉強会によって、知多市・大府市・東浦町・半田市・常滑市…と文字通り知多半島各地へと広がっていった。この動きは、国の介護保険制度導入に向けた先進事例の一つとして取り上げられたと聞いている。ちなみに、この意見交換や勉強会の当初は、NPOリーダーの持ち回りで開催していたが、平成11年に専従職員を雇ったことが中間支援組織としてのサポートちたの始まりでもある。サポートちたの勉強会では、介護保険制度への参入か否か、制度参入ならば、どの法人格が自分達の活動や理念にマッチしているのだろうかと喧々諤々と話し合ったそうだ。平成10年に『特定非営利活動促進法(NPO法)』が施行され、市民による市民のためのまちづくりを大切にする知多半島の多くの団体は、NPO法人格を選択し取得したという。

③【福祉の人材を育てる上で大切なこと】
NPO法人地域福祉サポートちたでは福祉人材を育むために、介護職員初任者研修や強度行動障害支援者養成研修等を行なっている。いわゆるヘルパーさん。自閉症の特性を理解して適切な支援を行うための資格講座なのだが、その担当職員さんに「福祉人材を育てる上で大切なことは何ですか?」と尋ねたところ、「コミュニケーション」という答えが返ってきたそうだ。人が人をサポートするには、そこにコミュニケーションが介在する。その場合のコミュニケーションとは、SOSが発信出来る自己開示力であり、そのSOSを受けて「そうだね。力になれることは何だろうね」と寄り添い、相手を承認する力。それに加えて、支援者が支援を抱え込まないようにすること。プライベートとお節介のさじ加減は難しいが、「自分さえよければ」ではなく、「周りのみんなもよくなるように」という意識を持ってもらいたい。だから、福祉とまちづくりは切っても切れないし、大事にしたいそうだ。

④仕事をしていて…
【初めて会う人と価値観や世界観を共有することが好き】
サポートちたの仕事をしていて、市野さんが一番嬉しいことは、見知らぬ人たちとの出会いにより自分の世界が広がることだという。今日もジネンカフェに招かれて御器所駅に初めて降りたし、初めてお会いする方との話しからその人の価値観を共有している。NPO活動をしている方達の世界観が面白く、それを知ることが好きなのだと市野さんは言う。それに加えて自分を〈利用〉してほしいのだという。例えば数年来、会っていなかった人から突然連絡が来て相談をされたり、話し相手になる。ああ、まだ忘れられていなかったな…と思う。それが嬉しいのだ。忘れられたくないし、誰かの、何かの役に立ちたい。それが市野恵さんの生きる上でのモチベーションになっているのだろう。

【仕事をされていて嬉しかったこと】
対話から生まれる意見から物事が繋がったり、ひらめきが重なったり、それを実際に実行して行くようになったりとか、自分が考えていることが文章化出来たり、そういうことが嬉しかったりするという。

⑤目指しているもの
【サポートちたが目指す地域共生社会】
サポートちたがどんな社会を目指しているのか? 昨年2023年11月11日〜12日に北海道で第10回生活困窮者自立支援全国研究交流大会に参加、その基調講演に奥田知志さんと、北海道の社会福祉法人浦河べてるの家の向谷地生良さんとの対談があった。この会の共同代表をされている奥田知志さんは東八幡キリスト教会の牧師さん。学生時代に釜ヶ崎(現・あいりん地区)で路上生活者や日雇い労働者の支援を経験され、昭和63年に会を発足、平成12年に北九州ホームレス支援機構を立ち上げ、現在も北九州を拠点に活動する認定NPO法人抱樸(ほうぼく)の代表として日本各地を奔走されている。ホームレスとは路上生活者を指すが、何らかのトラブルにより働けなくなり、生活が著しく困難になっている人のことを言う。その中で大切だなと思ったことを市野さんなりにまとめると、制度支援の『生活困窮者自立支援法』では居住と就労が出来ると支援終了となる。それが成果だから、実施主体は支援件数の達成が求められる。だから支援者の目的が支援の終了になってしまうが、本人が抱えるトラブルの根本を解決していなければ振出しに戻るならば、それは、自立とは違うのではないか? 一概に支援と言っても十把一からげではなく、それは、形や大きさが異なった瓶に注ぎ込む液体のようにその形に添わすごとく、その人に応じた支援をして行かなければいけないのだ。「支援って何でしょうね? 支援する人・支援される人ではなく、どちらもその地域に住む人たちですよね? その中で出来ることって何でしょうね?」という奥田知志さんからの投げかけが心に響いているという。

【べてるの家の場合】
べてるの家の向谷地生良さんは、イタリアのように精神病院をなくして精神疾患を抱える人たちが地域で暮らせるように起業され、いろいろな事業を展開されている。お医者さんだけど、まちづくりを目指されている。そこにはアフガニスタンで聴診器を片手に持ちながらも住民の人たちと一緒に井戸を掘ったり、街のインフラを整備に尽力した中村哲さんの哲学に通じるという。「地域に住む人たち全員が生業を持って自分達で暮らして行く力を持たない限り、その地域の生活環境は改善して行かない。そんなふうに地域全体が活性化され、元気になるのが大切なんじゃないかな」と。そして、「大事なことは、病気の有無の健康さではなくて、困った時に困ったと誰かが言い、それを誰かが聞いて一緒に相談し、何かにチャレンジしてその結果を謙虚に受け止め、様々な工夫を凝らしながら出会いや挫折もあるかも知れないけれど、コツコツと正直に人に困ったことだけを言い続けることによって繋がり、地域が徐々に豊かになってゆく」とおっしゃっておられたそうだ。べてるの家では当事者研究ということも行われていて、困り事を書いてテーブルの上に置いて議論するのだとか。困ったことというのは別にその人の責任ではなく、何らかの要因でそうせざるを得ない状況に追い込まれてしまった面(社会)もあるならば、皆の困り事として皆で検討する。最近では健常者が何も言えなくて抱え込んでしまって自ら生命を絶ってしまったり、適応障害になる若者が増えている。それならこのようなカフェに来て誰かに話したら解決はできなくても気持ちは幾分なりとも楽になる。実はそれもジネンカフェプロジェクトを始める動機の一部だったりするのだ。

【市野さんが目指しているもの】
市野さんが目指しているもの、それは、前野隆司さんの幸せの4因子を常に心がけている。それによって市野さん自身が幸せを感じられることでもある。①やってみよう=冒険心・好奇心。②なんとかなる=楽観性。③ありのままに=健康。④ありがとう=持続性・柔軟性。しかしながらそれはご自分一人では成し遂げられないことなので、もう少しNPO活動を通していろいろな人たちと繋がって、もう少しだけ頑張りたいと思っているという。

ジネンカフェVOL.147レポート

2024-01-05 20:21:00 | Weblog
師走に入ったというのに、全く師走感が薄い。確かに街にはクリスマスツリーが飾ってあり、煌びやかなイルミネーションが瞬いている。テレビのニュースでも早くも門松が建てられたと話題に取り上げられていた。商店街やデパートなどでは年末セールとか、クリスマスセールなども始まっているに違いない。しかし、気候は寒い日と暖かい日が三、四日周期で繰り返している。どうも調子が狂う。まるで春先か初冬のようだ。気候に文句をつけても仕方がない。世界的にも大旱魃が起きている地域もあれば、大洪水で甚大な被害が出ている地域もある。やはり地球環境はおかしくなっている。人類の叡智を結集して元通りの環境に戻せないものだろうか? 愚痴をこぼしても仕方がない。さて、今月のジネンカフェVOL.147のゲストは、愛知県の南知多町に拠点を置く一般社団法人onenessの理事で、就労支援継続B型「うらら」の職員・山本和弘さん。山本さんは「うらら」で職員をする傍ら、毎朝すぐ目の前の内海海岸の清掃作業をボランティアでされている。その時に熊手で砂浜に大きな砂絵を描かれ、砂絵師ジャッカルの二つ名も持っている方だ。お話のタイトルは『日本人としての矜持』

【就労支援継続B型「うらら」について】
山本さんが職員をされている南知多町の就労支援継続B型「うらら」には、18歳〜68歳までの障害のある方々が働いている。4年前に山本さんが職員になられた頃は12.3名だったが、現在17名と増えたそうだ。仕事は農作業、地域の公園や海岸、公衆トイレの清掃、野菜のパッキング作業(農家さんが収穫した野菜を袋に詰めて、値札とか産地が書かれたシールを貼り、それを業者さんに運んでもらい、名古屋やいろいろなところのイオン15店舗ほどに出してもらっている)、お菓子の袋(海老せんべい・ポン菓子)のシール貼りをされている。

【映画監督とボクサーに憧れて】
山本さんのご出身は兵庫県。19歳の時に『プラトーン』や『7月4日に生まれて』のオリバー・ストーン監督に憧れた山本青年は、映画監督になるべく上京し、助監督をしていたそうだ。助監督というと言葉の響きは良いが、監督の助手なのでつまるところ雑用係である。理不尽なことばかりで、映画の仕事に時間はないに等しく早朝から深夜までとか、あれやこれやと頼まれたことをいろいろなところに出向いて訊いてきたり、そんな雑用をこなしていた。ただ、『ロッキー』にも憧れてプロボクサーにもなりたかった山本さんは22歳の時に映画監督への道に見切りをつけ、日本のプロボクシングジムの中でも日本チャンピオンを一番輩出している角海老宝石ボクシングジムの門を叩いたのだった。

【チャンピオンにはなれなかったけれど…】
ただ、山本さんはあまり運動神経が良い方ではなく、トレーナーに「お前は絶対にプロにはなれない」と言われたとか。それでも続けて25歳の時にプロとしてリングに立つことができた。それから29歳までプロボクサーとしてリングに立ち続け、成績は8戦して4勝4敗。プロになる前に練習としてアマのリングにも上ったのだが、10戦して5勝5敗。つまりアマ・プロ併せて18戦して9勝9敗のイーブン。夢見ていたチャンピオンにはなれなかったけれど、夢を追い続けた7年間はやり遂げた感があって楽しかったという。

【ボクサー時代に身についた掃除の習慣】
日本のボクシングジムには専属のトレーナーがいて、そのトレーナーが所属しているボクサーの練習を見るという方式のところが多いが、欧米ではジムはただ練習の場所を提供するだけで、トレーナーは各選手との契約で来ていることが多い。だから契約しているボクサー以外には教えない。角海老宝石ボクシングジムは日本では珍しくその欧米方式を取り入れたところだった。山本さんもジムに通い始めて最初の三ヶ月は一人でサンドバッグを叩いて練習をしていたが、やがていかにも弱そうな人を教えているトレーナーに「すみませんけれど、僕にも教えて欲しいんですけど…」と頼みに行ったら「あんた、誰?」と言われてしまった。以前にもその人と話したことがあるのだが、憶えてくれていなかったらしい。改めて名乗ったら「教えても良いけれど、先ずは掃除からだ。ジムに来たら掃除しろ」と言われたという。野球でもそうだけれどイチローや大谷とか一流の選手は、バットとかグローブなど自分の商売道具を粗末にはしないし、手入れも怠らない。それらの一流選手が言うには道具にも魂があって大切にしていると、自分がミスショットをしたなと思ってもバットの方からボールに当たりに行ってくれ、良い結果が出ることがあるそうだ。それと同じで「ジムに来たら先ずは掃除をして、終わる時も道具を大事にして磨いて拭かなければボクシングは教えん」と言われて、それから自分でも掃除をするようになったという。掃除をするのはそのトレーナーが教えている人だけで、他の人たちはしていなかった。それが良かったのかボクサーを引退してからも仕事の空いた時間に職場の掃除をしたりして、後々掃除の大切さを痛感することになるのだが、ボクサー時代にそういった習慣が身についたのだ。

【会社員時代は働くことに生き甲斐を感じられなかった】
プロボクサーを引退した山本さんは建設会社に就職して、30歳の時に名古屋へと転勤になった。飛び込みのりフォームの営業である。それなりに成績も上げてお金は入ってくるけれどボクサー時代のような夢も希望もなく、ビジネスの交流会などにも出たりもしたが、それが悪いとは言わないけれど仕事をもらうための関係というか、人間関係があまり深くないような感じで違和感を覚えていた。自分の仕事は他人に喜んでもらうよりも、どちらかと言えば営業で成績を上げる方を優先してしまい、営業なのでお客様は大事にはするけれど契約を取らないと怒られるし、そのプレッシャーたるや半端なものではなかったという。それでちょっと成績が良くて会社で褒められても、世間に出ればただの人間だし、ノルマを達成したら次のノルマが課せられるような感じ。山本さんはそこに働くことの生き甲斐を感じられず、収入はあっても全然楽しくなかった。
【福祉の世界への転機】
そんな山本さんに転機が訪れる。35歳の時、ある福祉施設から「放課後ディサービスに来ている子どもたちにボクシングを教えてほしい」という依頼が来た。それまで福祉には全然興味がなかったが、これが山本さんが福祉の世界に入るきっかけになったのだ。放課後ディサービスに来ている子どもたちとはいっても様々なタイプの子がいて、乱暴な子や悪さをする子もいる。だからボクシングで躾をして欲しいと頼まれ、二週間に一度の割合で7年ほど続けていたという。教えていると子どもたちが変わってくるのが分かり、その頃に教えていた言うことを聞かなかった子も現在では働いていて、たまに連絡が来て一緒にご飯を食べに行くこともあるそうだ。そうして障害をもつ子どもにボクシングを教えて行く中で、山本さんは健常児に教えるのとは違って丁寧にゆっくり繰り返して教えて行けば上達はするし、〈分かりやすく〉と言うことを学ばせてもらったという。粗暴な子だけではなく真面目な子でも自分に自信を持てなかった子が自信を持ってくれたりした。そこから山本さんは標準に合わせるのではなく教える方のレベルを下げて、一個一個丁寧にゆっくり時間をかけて教えてゆくことが大切だと気がついたのだ。それと〈若いから〉〈子どもだから〉〈障害もあるから〉と礼儀を教えられていなかったり、タメ語で話したり、靴も揃えて置いていなかったりする。家族から教えられている子もいれば、放課後ディ施設の職員さんも〈子どもだし、障害もあるからそれぐらいは許してあげよう〉という空気感を漂わせている。でも、レッスンを始める前にそれをしっかり気をつけてやり、先ずは人間同志の礼儀として挨拶することを教えたという。挨拶は対人関係の基本で、これが礼儀として出来ていればどこに行っても可愛がられたりするのだ。そのような指導のおかげかその放課後ディの中ではボクシングのクラスは人気が殺到してきて、最初は数名だったのが二十名近くになったという。

【onenessの理事長・磯部和美さんと出会う】
それがきっかけで〈素人に形だけミット打ちを体験してもらう〉ことをやっている時に、たまたま半田でもやってくれないかという依頼があり、一般の主婦の方や高齢の方とか、その参加者の中に一般社団法人onenessの理事長・磯部和美さんもいたのだ。磯部さんからも「うちの施設でもやってほしい」と頼まれて、42,3歳の時にonenessの施設に行って、その後度々頼まれて行くことになった。

【あらゆることが上の人から懇願されることを引き受けると運が開ける】
そうこうしているうちに今度は磯部さんから「職員になってくれないか?」という誘いがあった。生活の拠点を名古屋に置いていた山本さんは断り続けていたのだが、onenessにもいろいろなことがあり、以前から知り合いのもう一人の理事の石井計義さんからも頼まれたこともあって、人生の先輩で経験も仕事もあらゆることが上の人から懇願されることを引き受けると運が開けるということを経営の勉強をしている時にいろいろな方から聞いていたので、自分の人生を考えた時に都会での生活も東京や名古屋でもう十分楽しんできたし、営業の仕事もお客様のためとはいえ所詮は営業成績を上げるためにして来たこと。ここら辺で人のためになる人生を選んでみようと思い、45歳の時にonenessが運営する就労支援継続B型施設「うらら」の職員になり、南知多町に引っ越して来たのだった。

【人の縁や地域の活動が自分の生活を心豊かにしてゆく】
山本さんは、本当にそれで運がより良くなられたという。Onenessの活動だけではなく、4年前から石井計義さんに誘われて「絆の会」という地域のまちおこし活動の防災部に所属して活動をしているそうなのだが、そのおかげで地域の人から信頼されたり、頼まれごとをされたりして、人から喜ばれる場が増えて豊かな生活をさせてもらえているとか。

【ゴミ拾いと人の縁】
それと名古屋で経営の勉強をしている時に、イエローハットの社長・鍵山秀三郎さんが唱えて60年以上も実践してきた「掃除を通して、世の中から心の荒みをなくしていきたい」という理念を聞いて山本さんもゴミ拾いをやっていたが、気持ちが良いという。現在は海岸の目の前に住んでいるので道路のゴミ拾いや海岸清掃を毎朝していると、皆さんが注目して下さって新聞に何度も取り上げられたり、地域の活動になったりとか、愛知県から賞をいただいたり、話題になって広がって行って皆が「新聞見たよ」とか「ありがとうございます」と言ってくれて、生きていて嬉しいという。南知多町は人口が4年前は18,900人ほどいたのだが、現在は16,000人ぐらいで、来年には15,000人になるのではないかと言われている。ことほど左様に過疎化が進んでいて、知多半島の美浜にある大学「日本福祉大学」も半田や東海市にもキャンパスがあり、福祉が系統的に学べる社会福祉学部は美浜に残っていたが、それも4 年後には東海市に移され、美浜に残るのはスポーツ学部だけだという。それだけ若い人が減少しているということだろう。山本さんが日本福祉大学の先生と話したところ、やはり大学は都会にないと厳しいらしい。半田や東海市でも危ないとか。そんなこんなで益々南知多町の人口は減っていくけれど、その分人の縁は密になって来ているのではないかと、山本さんは感じている。

【都会と田舎ではゴミ拾いへの関心度が違う】
ゴミ拾いは名古屋でもしていたが、近所の人たちは見ても「ああ、いるな」という程度の関心しか抱かないようだったが、南知多では明らかに関心の度合いが違う。「あの人、やってくれている」とか注目を浴びるようになって「ありがとう」と声をかけられるようになった。都会でも感謝してくれている人はいるだろうけれど話しかけにくいということもあるかも知れない。都会でもゴミを拾っている人や会社はあるけれど、そこで完結してしまって広がりがないのが特徴的だろうか。ひとりで始めた山本さんの海岸清掃は、現在では5〜6名の有志が手伝いに来てくれたり、まちの中のゴミ拾いをする人たちも増えて来たという。まちがちキレイになると治安が良いとか、社会貢献になるとか、まちをキレイにすることで犯罪率が減少した例とかよく報告されている。

【海岸清掃のついでに砂絵アート】
山本さんは海岸清掃のついでに熊手で砂浜をキャンバスに絵を描かれる。題材は魚から動物や昆虫、オードリー・ヘップバーンまで自由自在。アートには関心があっても、自分では描かない筆者には到底真似が出来ないほどの出来栄えである。これも何度も新聞やテレビにも取り上げられているが、きっかけは海岸清掃の時にペットボトルや紙ゴミなどの人工的なゴミは手で拾うものの、どこからともなく流れくる夏場の流木や海藻は熊手で拾い集めている。熊手を使えば砂浜に線が出来るのだ。その線を使って砂絵を描き始めたというわけだ。それが話題を呼んでいろいろなメディアで紹介されるようになり、山本さんは一躍注目をされることになった。南知多町の広報にまで紹介されて、用事で役場へ行くと会う人会う人に挨拶をされるようになり、イベントの相談も受けたりもされている。町に移り住んだばかりの人間に、本当にありがたいことだなあ〜と山本さんは思っている。それもこれも人の縁を大切にしてきた証なのだろう。絵は別に誰かに教えてもらったわけでもなく、小さな頃から既存の絵をなぞって描いていたら上手く描けるようになったという。何事も模倣から入るのが上達する基本だと言われるが、それは真実なのだとその山本さんの逸話を聞いて思った。

【捨てられたものにも魂は宿っている】
ゴミを拾うと運が良くなるとか、心が美しくなるとかいろいろな人から聞くのだが、山本さんが体験的に思うこともある。心が綺麗になるかどうかは目には見えないから正直に言ってわからない。ゴミを拾っているから良い人かどうかは、別だと山本さんは思っている。けれども、ゴミを拾ったら必ずその人に良いことがあると信じているのだ。ゴミと呼ばれるものたちは流木や海藻は別にして、大概が人工物なのである。人に役立つために造られて生まれてきた製品で、それが人のために役立って使い終わった後に捨てられて行くというのは淋しい。日本古来からの神道などでは森羅万象に魂が宿ると言われているが、現代の物理の世界・量子力学でも全ての物質に意思があると言われている。だから人に役立つために生まれて来た製品が使われた後にゴミとしてポイ捨てされるのは、そのものも淋しいし悲しいし、辛いのではないか。人間で例えるならば生きて亡くなった後に野晒しになって誰もその人を供養してくれなかったら、その魂は淋しいと思う。それは物も同じでそのポイ捨てられたゴミを拾って然るべき処分してあげれば、感謝してくれてこの人のために何かしてあげたいと思うのではないか。それがたくさん積み重なって奇跡というか、良いことが起きると山本さんは思っている。それは道端で行き倒れになっている人の魂も同じで、その人の魂自体は悲しいけれど、きちんと供養してあげたり、手を合わすだけでもその魂は恩返ししたいと思うのではないか。そこには悪人も善人も関係がない。誰にでも良いことが起きてくる。だからひとつひとつのものを大事にしてゆきたいと山本さんは思っているのだ。

【些細なことにも幸せを感じて、笑いあって楽しく生きて行こう】
南知多町に引っ越してから、太陽を見て、月を見て、空を見たり、海を見て、山とか自然に囲まれて、その豊かさに一個一個感謝して、「田舎に行ったら飽きるでしょ? 」と言われるのだが、毎日風景は同じようでも違うので飽きないという。田んぼにしても日に日に稲の長さも変わってくるし、森羅万象がそこかしこに息づいているなという感じがして、全然飽きないのだ。日本人は昔から人の縁とか物を大事にしてきた言われているけれど、現代においてはそういうことがなくなって来ているのかなと寂しい気持ちを山本さんは感じている。江戸時代に欧米の圧力に負けて開国した日本だが、その欧米の人々の日記によれば「日本人というのは些細なことにも幸せを感じて、笑いあって楽しく生きている。世界一幸せな民族である」と書かれてある。日常の些細な当たり前の出来事に感謝していたのに、明治時代になって西洋文明が入ってきて上へ上へと、価値が上がることが大事になってきて競争社会とか、経済とか、そういう方面に目が行き出した。それも時代の流れのひとつだから悪くはないけれど、よりよい収入を得てとか、そういうところに幸せを見出す。それもバブルが崩壊してからまた日本人が心の幸せを求める時代になって来ているのかなと、山本さんは感じている。




ジネンカフェVOL.146レポート

2023-12-04 10:33:06 | Weblog
つい先日まで暑かったのに、11月も半ばになってさすがに冷えてきた。しかし、「秋」という季節を素通りして「冬」が来てしまったような感じで、体が戸惑っている。戸惑っているのは人間だけではなく、植物もらしい。世の中がまだ暑かった時期に、TVでどこかの桜が狂い咲きしたと報道していた。あの桜、今どうしているだろう? そして来年の春にはいつも通りに花をつけることができるのだろうか?
 さて、今月のジネンカフェVOL.146のゲストは、錦二丁目のビルの屋上で養蜂をし、蜂蜜を瓶に詰めて販売したり、近在の飲食店に卸してメニューにしたり、教育機関やイベントで講演をされている他にも、錦二丁目長者町バンドのボーカルだったり、ラジオのFM放送でDJをされたりといろいろな顔を持っているNPO法人マルハチプロジェクトの理事・佐藤敦さん。タイトルは『長者町の…よそ者、若者、ばか者』「よそ者、若者、ばか者」とは故・延藤安弘氏がまち育てのキーパーソンに挙げていた人たちで、佐藤さんはご自分のことをそんなふうに思われているのだ。生前の延藤先生も佐藤さんのことをそう思われていたらしい。
というのも佐藤さんはもともと長者町の外から来た人で、また、繊維業界の人でもなく、当時は三十代であり、自他共に認める歌舞伎者だったからだ。歌舞伎者とは本来常識とか伝統などに捉えられず、新しい試みや風変わりな衣装で歩く人のことをいう。それに加えて佐藤さんは物事に対する反応が速い。つまりこういう人たちには、停滞しているまちの雰囲気に刺激を与え、活性化させる起爆剤になり得るというのだ。後から述べるようにそれにはリスクも伴うが、得られるものも大きい。前置きが長くなった。では、始まり、始まり…。

【佐藤さんと錦二丁目長者町との出会い】
前述したように佐藤敦さんはもともと錦二丁目の人ではなく、繊維業界の人でもなかった。前職は緑区で広告代理店に勤めていて、独立はしたのだがどこか良い物件が見つかるまでその広告代理店のご好意で企業内企業のような形で3月、4月、5月、6月と置いてもらっていた。物件探しは仕事の傍ら続けていたのだが、小さくても広告代理店なのだから栄を中心に探していたものの、栄には小さなオフィスはなく賃貸料も保証金も高い。とても手が出せない。名駅も同じだろうと思い新栄に行ったり、今池に行ったり、ふらふらしていた。ふと錦三丁目から二丁目に足を運んだところ『長者町繊維街』という看板が目に止まった。「長者町」って知らない人もいるけれど、日本三大繊維問屋街としてそこそこ有名だし、栄や名駅ほどではないけれど、一応住所は「錦」だし、道路一本渡ると札幌のススキノ、博多の中洲と並んで有名な歓楽街として知られた「錦三」で、あちらはネオンキラキラ。こちらはそんなこともないけれど「錦」には変わりない。長者町という音の響きにも少し惹かれていた。2007年の初夏のことだ。

【堀田さんを呼んであげようか?】
そうしてふらっと長者町を歩いていると、当時は現在と異なってシャッター街だったのだが、「ゑびすビルPART3」というビルに目が止まった。ゑびすビルはPART1〜PART3まであり、佐藤さんが目に止めたPART3の1Fには『グルマン』という岐阜のパン屋がお店を出していた。何故だか吸い込まれるように2Fに上がると、そこにはアート系の方が活動されるギャラリースペースがあった。その奥では雑誌などの仕事でモデルさんを撮ったりする有名なカメラマンさんがフォトスタジオを経営されていた。3Fに上がると手前の部屋は空いていて、奥は綺麗な事務所仕様なっておりコンサルタント会社のオフィスが、4Fは古着などを扱う繊維業の方が入っていた。佐藤さんはまず2Fのギャラリーの方に話かける。を聞きに行き、「3Fが空いていますよね? ちょっと見てきて良いですか?」と尋ねると、気さくに「ああ、いいよ、いいよ。見て来なよ」という感じだったようだ。佐藤さんはその3Fの空き部屋が気に入った。今度は3Fの奥の会社を訪ね、自分は何者で、ここが気に入ってお借りしたいんだけれど…などと捲し立てていたら、先方から「堀田さんを呼んであげようか?」と言われたそうだ。「えっ、堀田さん?」「このビルは堀田さんが管理しているから、堀田さんを呼んであげるわ」そんなやりとりがあったが、その時は「またちゃんとご挨拶に来ますから…」ということで、今度は4Fに上がり、古着屋さん相手に自己紹介をして、また「僕、3Fを借りたいんだけど…」と話したら「いいじゃん、いいじゃん、やって、やって」てな感じで歓迎され、「堀田さん、呼んであげるわ」とまたもや堀田さんの名前を出されたので「今日は良いです。堀田さんですよね? 今度ご挨拶に行きます」と言いつつ、再び2Fに戻ってきて「どうだった?」と尋ねられたので「いいよね。ここ。入りたい!」と答えたら「じゃあ、堀田さんを呼ぼうよ」と言われ、「いや、いや、突然だから出直します」と言ったら、「せっかくだからコーヒーをいれてあげるから、飲んできな」「はあ、それじゃあいただきます」「コーヒー飲む時間があるのなら、堀田さんをに連絡してあげるわ」という展開で、その直後に喫茶店当時近くにあったカフェで噂の堀田さんと会うことになったのだ。それは不動産屋さんからの紹介も情報もなくして辿り着いた長者町繊維街でリノベーションされた古いビルでの出来事だった。

【噂の堀田さんとは、なんと誕生日が一緒だった】
当時、堀田勝彦さんは錦二丁目長者町青年会の会長を務めていて、シャッター街になりつつあった長者町をどうにか復活させようと街づくりに取り組んでいた。その日のうちに喫茶店カフェで堀田さんと対面した佐藤さんは自己紹介から始まり、またもや熱い想いを捲し立て、名刺を渡して「メールで契約書を送るから、また送り返して」と言われつつ、携帯番号を教える時に何気なく「下4桁を誕生日に合わせて7288にしました」とポロッと言ったら、堀田さんが驚いて「えっ、8月8日生まれなの? 僕も8月8日が誕生日だよ」と声を挙げ、今度は佐藤さんを驚かせた。「アニキじゃん! 俺、絶対に来る長者町に」という感慨だったという。それが2007年の5月か6月のことである。(34才当時)

【長者町の人たちの想い】
こうして同じ年の7月7日に契約書を交わし、佐藤さんは錦二丁目長者町に拠点を構えることになった。後から聞いた話によれば、繊維問屋が時代とともに廃業して行き、空きビルが増えて来ていた当時、ビルを手放すとその先何が入るのか解らない。つまりどんな街に変化しても不思議ではない。本町通り一本挟んだ向こうは錦三丁目。ネオンが輝く夜の街。通りを一本挟んでいるとは言え繊維街として栄えた長者町が、どう変化していくのかを危惧された街の方々が街を護ろうとしていたのだ。具体的にどうしていたかといえば、街の人たちが費用を出しあって『まちづくりカンパニー』という会社を作っていたのだ。

【歴史ある長者町を守れ!】
長者町の人たちがそこまで神経質になった背景には、苦い前例がをあるからだ。現在では風営法で住宅地や病院や幼稚園、学校などの公的施設の周囲に風俗店は出店出来ないことになっているが、法規制が間に合わず、長者町通りから一本入った道沿いに風俗ビルが出来てしまったことがある。当時は長島通りに幼稚園があり、そのためそのエリア一帯は風俗業界の侵食から護られていたのだが、その幼稚園が廃園するのと同時に錦二丁目のにも風俗店が入ってしまったのだ。法規制される前に。それを見た長者町の人たちは「ヤバい」と思ったのだろう。よく言えば地域を守るとかブランドイメージと言うけれど、下手すれば地価が下がるかも知れない。公的施設で言えば国道19号を挟んで錦一丁目にも二、三年前まで御園小学校があったが、そこも丸の内三丁目にあった名城小学校と統合されてしまった。佐藤さんは仕事柄御園小学校にはよく行っていたが、全校生徒が 50名ほどだったという。それほどまでに子どもの数が激少しているのだ。つまり都心居住ならではの地域コミュニティの難しさである。

【唐突にバンドのボーカルに指名される】
長者町に越してきて一ヶ月経つか経たないかの頃、夜の8時か9時ぐらいに堀田さんから電話がかかって来た。現在と異なって2007年当時の長者町は繊維問屋街の趣きが残っていたので、飲食店舗も少なく夕方の5時頃になると問屋営業しているお店もシャッターを降ろしてしまい通りは暗かったが、夜型人間の佐藤さんは午後から出社して、深夜の24時頃まで事務所にいることが普通だった。佐藤さんの借りていたオフィスは長者町通り沿いに面していたので、窓から灯りが煌々と洩れており、まだオフィスに残っているのは丸わかりだったのだろう。堀田さんの電話は「今青年会のみんなで飲んでいるので、佐藤くんを紹介したいから来れない?」と言うお誘いだった。指定されたお店に行ってみると、そこは錦三のカラオケスナックだった。スタッフが接待するような店ではなく、酒を飲みながらカラオケを楽しむようなお店で、店の中にいる人たち全員が長者町青年会のメンバーなのかどうかも解らないうちに誰かが入れたと思わしきカラオケのイントロが流れてきた。尾崎豊だったか、スピッツだったか、ミスチルだったか…。すると青年会のメンバーからマイクを渡され、まだ席にも着いてないうちから「歌え」と言われたという。そんな無茶振りに当然「えっ?」となるが、空気を読んだ佐藤さんは誰かが入れたかも知れないその曲を何とかワンコーラス歌ったそうだ。すると「はい、長者町バンドのボーカル決定!」と言う声が…。訳がわからず「はっ?」となるが、一曲歌い終わって「こんなもんでよかったですか?」と誰彼ともなく尋ねたら「おい、何言ってるんだ。もうボーカル決定したぞ!」と言われ、再び「はっ?」となったが、「こっちこい、こっちこい」と言われるまま話し込むまれ、よく分からないままボーカリストになることになった。後で分かったことだが、そのスナックにいた長者町青年会(青長会)のメンバーは10名ぐらいで、佐藤さんが歌わされた曲もメンバー以外のお客さんが歌う為の選曲だったとか。

【青長会に入会する】
そんなふうに堀田さんに呼び出され、お店に着いた途端に歌を歌わされ、青長会に入会するとも言ってないのに「バンドのボーカル決定!」だなんて、何のこっちゃ? と思いながらもこの日も何時まで引っ張られたのか憶えていないという。近所付き合いも必要だと思い話を聞いてみると、いろいろと気付かされたそうだ。この人たちは錦三でただ飲み遊んでいるだけではなく、青年会のメンバーと組合のメンバー何人かでまちづくりカンパニーと言う会社を作り、そこで廃業したビルを一棟借りしてリノベーションしいろいろな人たちを募集していたところに何も知らない佐藤さんがフラっと入って来たと言うわけだった。結局佐藤さんは青長会に入会することになる。

【エフェクトの佐藤くん】
それから一ヶ月が経ち、呼ばれたところが錦二丁目内にあった焼肉屋さんだった。初めて会う人もいて、その年の青年会の会長さん・佐織屋の山田さんもその一人。山田さんがはギターを弾いていて、長者町バンドのバンマスだった。山田さんが言うには「この町にも年に一回ゑびす祭と言うお祭りがあり、そこで賑やかしにバンド等々を呼んで盛り上げているんだけれど、地元の俺らがバカやらなあかんだろう」つまりステージの締めをするのが長者町バンドというわけだ。しかし、このバンドにはボーカルがいない。毎年近所のカフェのバイトの子に歌わせたり、錦三のスナックのママさんに歌いに来てもらったり、持ち時間30分あるよと言いながら、いろいろな人に歌ってもらっていたのだ。山田さんは酒を飲まない人なので錦三のスナックにはいらしてなかったのだが、他のバンドのメンバーが何人かいて佐藤さんを即時指名したわけだ。山田さんに会った瞬間「待ってたよ。エフェクトの佐藤くん」と声をかけられたという。〈エフェクト〉とは佐藤さんの会社名で、「エフェクター」とはエレキギターの音を様々に増幅させる機器で、ギタリストの足元に置かれていて、ギタリストはギターの弦を弾きながら足でこの機器を操作して音色を自在に変えているのだ。つまりは効果音である。会社を作る時に音楽好きということもあるのだが、クライアントの要望を自分たちのフィルターを通してデザインをしてゆく。そんな会社を作ったつもりなのだけれど、バンマスの山田さんはギタリストだから「エフェクト」が意味しているところがわかったのだろう。「歌も歌えるらしいから音楽好きなんでしょう?」という感覚で迎えられたのだとか。

【練習するスタジオはエビスビルパート3の目の前】
現在名古屋のバンドマンたちが使っている〈リフレクトスタジオ〉というレンタルスタジオは、もともとは長者町が発祥の地で、佐藤さんの会社が入っているエビスビルの長者町通りを挟んだ目の前に建つビルの息子さんが空いている地下にスタジオ機材を入れて〈スタジオ〉と言い始めたのがそもそもの始まりだったとか。そんな体裁なのでどこにスタジオがあるのかわからない。友達しか借りに来ないし、レンタル料などもスタジオメニューもないから何時間借りようが適当。長者町バンドの方達はそこで練習をしていたのだ。佐藤さんはそんなところにスタジオがあるとは知る由もなく「今度練習するから来いよ」と言われ、「行きます、行きます。どこに行けば良いですか」と尋ねたら「目の前」と言われ、当日会社から歩いて30秒ぐらいのそのスタジオに行ったらミスチルやスピッツ、当時流行っていた曲を突然歌わされてつつ、お祭りバンドの練習は繰り返されていった。

【ゑびす祭り実行委員会】
バンドメンバーから言われたのは「ゑびす祭りの実行委員会の会議に出ろ」佐藤さんはゑびす祭りがどんなお祭りなのか分からないまま実行委員会に出ることになった。織物協働組合ビルの2階の会議室で実行委員会は開かれ、毎年長者町の各飲食店舗から協賛金を募っていたのだが、その協賛金を受け取りに行く分担を決めることになった。当時ゑびす祭りの折込チラシは赤一色で作っていて、表がどこかのバイトの子が描いてくれた絵、裏には長者町の地図が描いてあり、飲食店に番号が振ってあって紹介されていた。その店名を載せるのに飲食店が協賛金を出す仕組みになっていたのである。佐藤さんは長者町に越してきたばかりで、知っている飲食店もランチや夕食を食べに行ったり、飲みに行く数軒に限られているので自ら5軒ばかりの店名を挙げ、協賛金を受け取りに行くことにした。昨年も参加してくれていたお店だからと軽く考えていたそうだ。

【祭りの協賛金を巡って】
お祭りの協賛金に関しては、どこの市町村でも似たようなもので「出す」「出さない」のトラブルはつきものだろう。それは飲食店に限ったことではなく、筆者の住むまちでも一般家庭にお祭りや年末助けあい運動などへの協賛金が回って来たりする。当然「どうして出さなければいけないの?」「あなたもこのまちの住人だから…」「私たちはお祭りに興味がないし、カトリックだから…」「でも、これは決まり事だから…」というトラブルになったりする。これは多様性が叫ばれる現代において地域コミュニティが抱える課題だろうと思うが、長者町の場合はより複雑な背景があった。繊維の街として栄えていた頃から続いている対立構造。その中に繊維業界人でもなければ、飲食業界人でもない佐藤さんは、ただただ戸惑いながらも自分に課せられた役割を果たそうともがいていた。結局、佐藤さんが担当した5軒の飲食店は、ゑびす祭りへの協賛金を例年通り出してくれることになったのだが、繊維問屋と飲食店の溝にハマり苦労したそうだ。他にも赤一色だった手書きのチラシにデザインを施しフルカラーに…。それらが功を奏したのか、佐藤さんはゑびす祭りの実行委員長になり、おまけにあいちトリエンナーレが長者町で開催されるなど一気に地域を担うべき者の一人として巻き込まれることになってゆくのだ。当時を佐藤さんは「よく街に遊んでもらった」と振り返る。街に溶け込むスピードには驚くばかりだが、それにしてもさすがの「馬鹿者発言」

【延藤安弘学外研究室】
丁度その頃だったか、佐藤さんが借りていたビルの2階に入っていた画廊が出て行かれた後に建築家で住民参加のまちづくりをコーディネートなどもされて、日本のみならず世界的に活躍されていた延藤安弘氏の学外研究室が出来た。延藤安弘氏は名古屋市から紹介されて錦二丁目のまちづくりをコーディネートされていて、その人が漸く長者町に拠点を持つということでまちの人たちは大いに盛り上がっていたのだ。長者町のビルの構造は表通りから見ると入り口が狭いのに奥が深くなっているという、まるで京都の町屋のような造りになっている。佐藤さんが3階にある自分の会社に行くには1階のパン屋さんの店の中を通り抜け、奥の階段を上ってゆき、2階の延藤安弘氏の研究室を通ってまた階段を上って3階の自分の会社に辿り着くという感じだった。佐藤さんは3階から上の階の人たちがお互いに気を使わず階段を使えるように3階と4階との間に仕切り壁を儲けたが、延藤研究室との間は通り抜けのままだったので、そこに延藤先生が在室していようと不在であろうと毎日のように研究室の中を通り抜けてゆくことには変わりがなかった。延藤先生はもう亡くなられてしまったのだが、当時は愛知産業大学と愛知淑徳大学で教えられており、ゼミの学生さんや院生やNPO法人の事務局スタッフなど若い人たちがいつも出入りしており、夜遅くまで議論をしたり、模型を作ったりしていた。やがて延藤研の若い人たちも佐藤さんもお互いに声をかけあうようになり、佐藤さんもまちづくりに関心を持つようになって行った。と言うか巻き込まれたようだ。

【酔っぱらいの一言で…】
佐藤さんの中でそうして〈まちづくり〉が朧げに根付いて行きつつあった一年ぐらい過ぎた頃、ゑびす祭り実行委員会の会議の後、青年会のメンバー4,5人と会社の前の地下のバーで飲んでいた時、カウンターで飲んでいた一人のおじさんが声をかけて来たという。「佐藤くん、お前らまちづくりだのなんだのって言っているのなら、蜜蜂ぐらい飼えよ」言った方も言われた方も酔っ払いだから、何が何だか訳がわからない。当然佐藤さんの反応は「はっ? 蜜蜂を飼え? なんですか、それ?」となる。その人は東京の帰りだったらしく、銀座のビルの屋上で蜜蜂を育てて採れた蜂蜜を使ってハニーハイボールなどカクテルを作ったりして地域づくりを頑張ってそれを発信している話を聴いてきたのだろう。そのおじさんが言うには、「銀座といえば知らない人はいない東京を代表する街で、そんな銀座がそういう小さなことから頑張ってるんだ。ここは長者町だろ。まちづくりが…とか偉そうなことを言ってるんなら蜜蜂ぐらいやれよ」それを聴いた佐藤さんはすぐに反応した。そのおじさんから〈銀座の蜜蜂〉の話を聞くなり、「俺がやる! 」と意気込んだのである。何故って彼の誕生日が8月8日だからである。翌日同じ誕生日の長者町の兄貴にも養蜂を宣言したことは言うまでもない。
(後日談としてそのBARは佐藤さんが経営する店となる。長者町内で繊維街と飲食店の間のミゾにハマった経験から、飲食店側の立場にも立てる事に魅力を感じたからだとか)

【覚王山ハチミツ】
意気込んだのは良いが、どうやって蜜蜂を育てれば良いものかわからない。ネットで調べたら「養蜂セット」は売っているのだが、届いてもどう飼えば良いのか? 犬猫でもあるまいし。取り敢えず長者町の人々に「養蜂をするから」と言うことを事あるごとに言い回っていた。調べてみたら銀座のビルは20階建てとか高層のビルが多いのに比べ、長者町のビルは精々5,6階建て。そこで蜂を飼ってもし被害でも出したら処分しなければいけなくなる。それも嫌だなと思っていたとか。そんなこんなで「蜂を飼う」決心をした佐藤さんは覚王山の参道の中程にある『メルクル』というチーズとハチミツの店がやっている覚王山蜂蜜の存在を新聞で知る。銀座よりも近いし、覚王山なら毎日でも通えると思った佐藤さんは、ある日の仕事中にそこに行き〈覚王山ハチミツ〉を買って店員に話しかけたという。来店した理由を話すと、店員が「あなたのような人は初めてだわ。見たいという人は多いけれど、その殆どが冷かしで、私たちはその度にお店を閉めて立ち会わなきゃいけなくなるので商売にならないんだわ」「いや、冷やかしではなく、長者町のビルの屋上で蜜蜂を飼いたいので養蜂を教えて欲しいだけなんです」と言うと、「面白いね。オーナーがフランスから帰って来たら電話させます」との言質を取り付けたのだった。『メルクル』ではチーズとハチミツの店だけあり、世界中のチーズやハチミツを取り扱っていて、そのためにオーナーは世界中を飛び回っているのであった。


【養蜂を学ぶために一年間知多半島に通う】
『メルクル』のオーナーから連絡があったのはその数日後のことだった。想いが通じたのかどうかも分からぬまま、呼び出されたのは覚王山ではなく知多半島の小野浦であった。覚王山でも飼っているのだが、そこはマンションのベランダなので教えづらい。そこで佐藤さんは小野浦に通って1年間養蜂について学んだという。そして2010年の春にミツバチの巣箱を4箱、長者町のビルの屋上に設置することになったのだ。2007年7月に長者町に来てからまだ3年未満である。

【知多半島まで遊びに通っていた一年間】
とは言うものの、佐藤さんは養蜂についてはほぼ独学で、週に何度も知多半島までハーレーダビットソンで通って何をしていたかと言うと、オーナーが佐藤さんのハーレーに乗ったり、佐藤さんがジェットスキーをやったことがないと言うと乗せてくれ、運転の仕方を教えてくれたり、免許を取って来いと言われるままジェットスキーの免許を取ってくると3台ある中の一台を譲って貰ったり、よくある海の家の営業を手伝ったり、漁船に乗らされ地元のお手伝いなど、佐藤さんに言わせれば、遊んでいる方が多かったらしい。遊びの感覚と言い切る佐藤さんはココでも馬鹿者ぶりを発揮。そのオーナーは覚王山の『メルクル』の他にも『海のみえるカフェ』を経営しつつ、その二階でフランス人の画家の私設美術館みたいな、お客さんが来たときだけ開けるみたいなことをもされながら、その同じ建物でバイカーやチャリダーのための素泊まりできる民宿のようなことをされている方で、佐藤さんは利用者と共に海の水を何度も何度もバケツに汲んできて(バケツを抱えて足を取られる砂浜を行き来するのは大変)、それを薪が炊かれた鉄板の箱の中に入れて海の水を沸騰させて塩作りの学びまで体験したそうだ。もちろん養蜂も学んだそうだが、それ以上に多くの事を学んでいたようだ。これも遊んでいただけ?

【生物多様性とネオニコチノイド】
2010年の春に蜜蜂の巣箱を4箱から長者町の屋上でスタート。この年は名古屋でCOP10が開催された年でもあり、生物多様性ということで蜜蜂もフィーチャーされ始めた年でもあった。佐藤さんはそんなことは全く知らず、酔っ払いの挑発についつい乗って養蜂を始めるに至った訳なのだが、ミツバチが減少している原因の一つとしてネオニコチノイド系の農薬が挙げられていて、ネオ=新しい、ニコチノイド=ニコチン、ということでニコチン入りの農薬がいけないのではないかと言われている。人体には害はないと言われつつ、ミツバチには影響があるわけで、ミツバチにはニコチンを避ける習性があるけれど、新しいものなのでミツバチにはそれがわからないのだという。なのでそれを浴びてしまったり、農薬を撒いた田圃の水を飲んでしまったりしてどんどんやられてゆく。いずれは崩壊するのではないかと言われているそうだ。

【地球上からミツバチがいなくなったら、人間もその4年後には絶滅する】
人体には害はないと言われつつも、ネオニコチノイド系の農薬は海外ではすでに使われていないという現状があり、それでなくてもニコチンは体に良くないと言われ続けている。煙草を吸っている人が皆肺がんになるかと言えばそんなこともなく、ただ癌になるリスクが一定数高いのも確かである。しかし、日本は民営化されたとはいえ、かつては国が堂々と煙草を販売してきたし、現在でも煙草税を取り続けている。真っ白い米を守るためにネオニコチノイド系の農薬を推奨しているのはJAという実情もあり、生物多様性と言いながらも人間のエゴによって他の生物が駆逐されてゆく現状もある。20世紀最大の知と云われたアインシュタイン博士が「地球上からミツバチがいなくなったら、人間もその4年後には絶滅する」と言ったとか。ミツバチはいろいろな花や農産物の蜜を集めて来ると共に、受粉の手助けをしてくれているのだ。もちろん風や鳥も受粉の手伝ってはいるのだが、確率的に言えばミツバチの方が圧倒的に多いそうだ。つまりミツバチがいなくなるだけで、この世の植物の生態系が成り立たなくなってしまうということなのだ。とは言え本当に4年で人類が絶滅するとは思えないが、自然界においてミツバチが果たす役割はそれぐらい大きいということだろう。がしかし自然界でも人間界でも受粉という使命を世界中で担ってくれているのがミツバチであることの重要性が目に見えないほどに分かりづらい。例えばイチゴ狩りのビニールハウスの中には必ずミツバチの巣箱も置いてあるという。ビニールハウスの中では風も吹かないし、鳥も入って来られない。ミツバチを使って受粉させないと、イチゴが実をつけないからだ。人間がひとつひとつ受粉させてゆくのは効率的ではなく、ミツバチに任せた方がビニールハウスの中を飛び回り、受粉しまくってくれるのだ。とは言えそれが自然界に例えられないしそんな小さな事が…とついつい思ってしまう。

【地域密着型養蜂でいいよね】
そんなこととは知らないまま、長者町のビルの屋上で養蜂を始めた佐藤さんだったが、なぜかCOP10の白鳥会議場に都会でミツバチを飼っている〈銀座ミツバチプロジェクト〉〈名古屋学院大学〉〈マルハチプロジェクト〉と共に、〈長者町ハニカム計画〉も呼ばれたという。名古屋学院は水野先生というまちづくりの教授が飼われていて、佐藤さんと同じタイミングで養蜂を始められたそうだ。名古屋学院が日比野に移った時に、日比野の商店街の活性化に良いのでは? と思って飼い始めたとか。〈マルハチプロジェクト〉は丸の内3丁目に本社ビルがあった三晃社という広告代理店内の屋上で立ち上げたNPO法人。佐藤さんの〈長者町ハチミツ〉も地域の料亭河文やパン屋さんなど飲食店に使って貰ったり、CAFÉやBARでもメニュー展開や小瓶に入れて販売して貰ったりしていたが、さすがに三晃社さんの〈マルハチプロジェクト〉は松坂屋のハチミツ専門店で〈丸の内ハチミツ〉として販売されていたりしていた。佐藤さんは長者町に呼び込む為にも長者町だけで販売したかった。それが地域密着型でいいよねという評価をされることになったのである。ミツバチを飼うことで、養蜂の技術的な勉強はもちろんのこと、地域貢献はハチミツでの話題作りに留まらず、食育や環境教育、さらには見学会に参加される方々の見せる表情に突き動かされるように活動は広がりをみせている。酔っ払いの勢いで始まった養蜂がどこまで広がりを見せるのか佐藤さんは全く予想していなかったようだが、8月8日生まれの直感も馬鹿者の成せる技である。堀田さんにも「いちいち許可取りに来なくてもいいで、大概佐藤くんが思いつくことは間違ってはいないから、何やってもいい。すごい打率でいろいろとやってくれてるから、思いついたら直ぐにやってもいいよ。何でも好きにやりゃぁ」と言われたそうだ。

【長者町ハニカム計画のハニカムってなに?】
佐藤さんがやられている養蜂には〈長者町ハニカム計画〉という名称が付けられている。ハニカムとは正六角形、または正六角柱を隙間なく並べた構造体のことをハニカム構造体と呼ぶのだが、それは蜂の巣の形から来ているのだ。その蜂の巣は何千匹もの蜂が飛んで行って集めて来たものを自らがこねて作っていて、その一つ一つの六角形の中にまた運んできたミツを貯めているのだそうだ。人間からすると目にも見えないほど小さなものを集めて来て必死に作っている。目に見えない小さなものを一匹一匹の蜂が繋がり、連結させることによって蜂の巣は出来ていて、その巣に溜まるのがハチミツなのだ。それを人間の世界に置き換え時に都心のコミュニティが希薄になって行っている現状があり、働いている人は多いけれど住んでいる人が少ない。そうすると近所付き合いがなくなってゆくのだ。それが故に「ここは飲食街じゃない」とか「もうここは繊維街じゃない」とかのいざこざが生まれてくる。錦二丁目界隈の昼間人口は2万人を超えているが、夜間人口は数百人と言われていた。しかもその多くはワンルームマンション。そんな都市部だからこそ、長者町のいろいろな「人々」や「もの」や「事」を紡いで繋がってゆくことによって、ミツバチの世界の蜂蜜以上にように何か重要なものが生まれてくるのではないか…。そんな想いで〈長者町ハニカム計画〉と名付けたという。

(注)
現在はマルハチプロジェクトが長者町ハニカム計画へ合流し一つになりました。
団体名をNPO法人マルハチプロジェクトとして長者町で都市養蜂を続けています。


【長者町のシンボルが消える?】
佐藤さんが所属している『長者町協同組合』も、かつては『織物協同組合』と名乗っていたように長者町はもう繊維の街ではなくなりつつある。組合自体も来年には解散するそうだが、その前に果たさなければいけないことがあるそうだ。長者町のシンボルでもあるアーチ型看板の撤去である。あれは組合の持ち物で管理もしているので、その組合が解散するのだからあの看板も管理者がいなくなるのと同じで、なにぶんにも旧いものなのでもし災害が起きて倒れたり、錆びてボロボロになって車の上に落ちたり、通行人が被害に遭ったりしたら大変な事態になる。そもそも現在の法律では違法建築物なのだ。なので組合が解散する来年の三月までに撤去しなければならないのである。しかし、撤去するにも費用がかかる。それも5基あるので撤去するにも何千万単位の費用が必要となる。組合側はもう撤去する方向性で一致しているけれど、組合に所属していない一般の人たちからは残してほしいという声もあり、先日町内会でアンケートを行ったそうだ。結果的にどうなるのか? 長者町に拠点を持つNPO法人の理事として、このまちに親しみを持つ筆者としては、事態の推移を見守りたいと思う。

【ハチミツを抜く作業は、ハチの立場からすればコソ泥にしか過ぎない】
ビルの屋上で養蜂をするには実際にどうするのかと言えば、蜂の巣箱には九枚の板が入っていて、一枚の板に表裏合わせて二千匹のミツバチが群がっている。つまり一箱に一万匹以上のミツバチが巣を作っているのである。それを一週間に一度、毎週土曜日に一枚ずつ取り出し、ハチミツを取り出してゆく。ハチからすればせっかく目に見えないほど細かい花粉や花のミツを集めて必死にハチミツを溜めているのに、一瞬のうちに抜き去るコソ泥にしか過ぎないのだ。ハチが人の言葉を使えるのなら「何してくれるんだ、お前〜」という感じだろう。冬を越すために自分たちの餌としてハチミツを一生懸命溜めているのに、それをごっそり抜かれたら、「俺たちに死ねということか」と言いたくなるのではないか? 

【ハチが可愛くて仕方がない】
養蜂を始めて最初のうちは必死でそんな余裕もなかったが、現在では近くの公園や花々の植わっているところへ飛んで行き、目には見えないものを必死に持ち帰ることを繰り返しているハチが愛おしく感じられるようになって来た。足に何色の花粉団子を着けて帰ってくるのか?を見ているのはとても楽しい。季節や月毎に持ち帰って来るもの花粉の色も変わってくる。そんなハチの姿を見ていると、楽しくて仕方がないという。そんなミツバチの巣箱の毎週の内検は怠れない。相手は生き物であり状況変化によって対応が変わるからだ。ミツバチだってエサや飲水は必要だし、病気もすれば、害虫も発生する。対応不可能な強敵だってやってくる。心配せずにはいられないと言うのだ。
巣箱の上空を飛び回る無数のツバメ。かわいいし嫌いじゃないが、餌場にされている証拠。
さすがに対応が出来ないがこれも生態系だからと一定の諦めも持ちながら、スズメバチに対しては全力で阻止すべく頑張ってるんだとか。

【ミツバチの世界は過酷】
巣箱の中にいるのは女王蜂1匹と、あとはほとんどが働き蜂と少しのオスバチだ。働き蜂は全部メスなのだが、卵は産まない。卵を産むのはたった1匹の女王蜂だけ。つまり巣の中にいる働き蜂は全て一匹の女王蜂が産んでいるのだ。その数一万匹以上。蜂の寿命は一ヶ月だから、女王は一日平均数百個もの卵を産まなければならない計算になる。ちなみに女王蜂の寿命は3〜4年。巣の中には女王が生んだ卵を格納する箇所、ハチミツを溜めておく箇所、蜂の餌となる花粉を溜めておく箇所と分かれており、巣の下の方には王台と呼ばれる次の女王が生まれて来る特別な箇所があり、蜂の巣の中の世界は一ヶ月周期で世代交代が行われている。新しい女王が生まれると、前の女王は群れの半分を引き連れて新しい巣を求め、その巣を出てゆくそうだ。

【プチ解説】
巣箱内で交尾はしない。
王台から産まれた処女女王蜂は数日後に巣箱から飛び立ち処女飛行を行い空中でオスバチ
との交尾を繰り返す。(オスバチは交尾をしながら次々と死んでゆく)交尾飛行を終えた女王蜂は巣箱に戻り、二度と交尾飛行には出かけない。戻ったその日から毎日数百個の産卵をし続けるが人間や他の生物と違い、一度の交尾飛行だけで3年間産卵を続けるのが女王蜂。つまり、巣箱内のオスバチと交尾する必要がない。巣箱内のオスバチは働かず餌を食べるのみ。毎日散歩に出掛けてナンパ待ち。運良く処女女王蜂の処女飛行と遭遇した瞬間に交尾飛行にチャレンジ(成功すれば即死)。女王蜂の出すフェロモンは超凄いらしい!

【プチ解説その2】
働きバチの卵と女王蜂の卵は同じと言われています。
ハニカム6角形内に産み落とされれば働きバチになる。(産卵できず寿命1ヶ月)
巣の下方に出来る王台に産み落とされれば女王になる。(毎日産卵&寿命は3〜4年)
違いはローヤルゼリー。
王台の中はローヤルゼリーで満たされる為、産まれてきた卵はローヤルゼリーを食べて育つ。→女王蜂になる。寿命が何十倍にもなり産卵しまくり!

これを知った人間がローヤルゼリーは凄い!となり、美容や栄養ドリンクなどに入れてるって事です!!マジでアンチエイジング!!(脱線失礼しました)

【養蜂とは手間ひまのかかる作業である】
養蜂とはそういうことも注意深く観察し、バランス良く制御しながらも、その都度対応しなければならない手間ひまのかかる作業なのだ。作業を怠ると巣の中のバランスが崩れ、ミツバチは激減してゆく。だからこそ毎週暑い夏場は地獄だが、短パンTシャツでは出来ないので防護服を着つつ作業しているのだ。採れるハチミツは、季節ごとに色合いも味も濃度も全然違って来る。極端なことを言えば毎月違っている。それはミツバチが自然界でとって来る花粉とかミツによって変わって来るのだが、一匹の働き蜂が一生のうちに集めて来られるミツの量は、紅茶などを飲む時に使うティー・スプーン1杯分だという。筆者も幼い頃からホットケーキなどにハチミツを垂らしてその味わいを楽しんできた。飲食物を食べたり飲んだりする時「いただきます」と口にするが、それはその食べ物や飲み物を作ってくれた人に対する礼の意味でもあり、「私」のために生命を落とした生き物への感謝の念も含んでいる言葉だという。これからハチミツを口にする時には、養蜂家のご苦労や一生をかけてそのハチミツを運んだ蜂のことを思いつつも、ありがたく味わいたいと思う。

ジネンカフェVOL.145レポート

2023-09-28 11:11:01 | Weblog
今年の夏はちょっと異常だ。9月に入って朝晩は風が涼やかな日があったりもするが、日中は相変わらずの暑さだ。長期予報によれば、このまま11月頃まで暑さが続くらしい。地球温暖化の影響で、この先日本から「春」や「秋」という季節がなくなり、熱帯のような「夏」と極寒の「冬」しか存在しなくなるのではないかという学者もいたりして、それは極端にしてもただでさえ短い「春」と「秋」という快適な季節が更に短くなるのは勘弁してもらいたい。

さて、9月9日に行ったジネンカフェVOL.145は、いつもとは趣を異にファシリテーターにまちの縁側育くみ隊の名畑代表を迎えて、『あなたが生き方を学び、影響を受けた本』ワークショップを行った。要するにブックカフェ、今風に言うならビブリオバトルである。ただ、バトルはしない。参加者の皆さんが生き方を学んだり、影響を与えられた本について紹介しあう。ただそれだけだ。それだけのことなのだが、性別も年代も様々な背景を持った皆さんが、いろいろな分野の本を自分なりに紹介して、それに対して好き勝手に話をしてゆく。そこにその人らしさが出たりして、これぞ正しくインクルージブな世界線であり、多様性の時代に求められていることではないかと手前味噌ながら思うのだ。さて、それではひとりずつ、みて行きましょう。

【大久保康雄―サン・テグジュベリ著『星の王子さま』】
この本は僕が人間関係に関して指針にしている本です。タイトルも挿絵も一見すると児童向けのように思えますけれど、作者のサン・テグジュベリ自身も「これは子ども向けに書いたものではない」と言っているように、とても深い寓話です。砂漠に飛行機で不時着した「ぼく」は、明け方にどこかの星から来た王子さまに「羊の絵を描いて」と声をかけられ、起こされる。聞けばその王子さまの星には彼の他にはバラの花が一輪咲いているだけの、とても小さな星なのだとか。それ以降、「ぼく」と王子さまは友達になり、いろいろと話をするようになり、もちろん喧嘩もした。王子さまは地球に来る前にいろいろな星を周り、様々な大人たちに会ってきたが、星に残してきた一輪のバラの花のことが気になっているようだった。しかし、気位の高い花で王子さまが世話を焼かなければ枯れてしまうというのに、高慢な物言いばかりするので腹が立って、王子さまはその花をひとり残して星を飛び出してきたのだった。やがて王子さまには「ぼく」以外の友達ができた。キツネとヘビである。この二者からいろいろなことを学んだ王子さまは、地球上に群れて咲いているバラの花よりも、たった一輪だけ咲いている王子さまの星のバラの方が美しくて特別な存在なのだと気づく。さよならの言葉を告げに来た王子様にキツネが大切なことを教える。「大切なものは、目には見えない」「君は一度関わりを持ったものには責任を持たなければいけない」これが対人関係における僕の基本になっています。先方から関わりを絶たれるのは仕方がない。けれど、こちらからは縁を断ち切るということは滅多にありませんね。

【山本茜さんー伊藤亜紗著『目の見えない人は世界をどう見ているのか』
今日は生き方を学んだ本をということで、いろいろと子どもの頃から遡って思い出した。私はものの考え方はその人それぞれに見え方があり、そこに優劣はないというふうに捉えていて、そんなふうに考えられるようになったターニングポイントになった本です。この本は目が見えない人にとってものがどう見えているのかを福祉の観点ではなく、美学の観点から捉えている。福祉モデルで「見ること」を〈情報ベース〉と呼んでいて、〈情報ベース〉でみると「目が見えない」ということは、得られる情報量が少ない。だから情報を沢山あげなきゃいけない。というふうに、どちらかが与えなければいけないという感じになってしまう。そうではなく「目が見えない」という立ち位置にいるからこその情報の見え方もあり、その人が立っている(置かれている立場)によって、見え方も違ってくる。そうした〈意味ベース〉でみてみると、世界はもっといろいろなふうに見えるのではないか? 例えば眼が見えない人と『大岡駅』という駅で待ちあわせて駅前を一緒に歩いていたら、その眼が見えない人が「やっぱりここって山になっていて、斜面を降りているんですね」と言ったとか。でも、眼が見えている人(著者)にとっては歩いている道が平面に見えている。そんなふうに眼が見えない人にとっては細かい情報が入っていないので、その空間全体を俯瞰するように地域を捉えている。情報量が少ないからこそ見えていることがあるみたいな。なので優劣ではなくて差異、違うことを面白がる眼差しがあるともっと豊かになれる。図書館のことをやっていた時に、情報ってこういうことだなあ〜と思って。図書館は情報や物語が集まる館なのだけれど、本の並びがその人がどんな立場にいるかによって、その本がどんなテーマの本かが変わったりする。意味が変わる。そこからあるひとつの分類の棚に並んでいるから全部そのテーマの本ではなくて、そこから「私」がどんな意味を見出すかによって本から受け取るものは変わるのだ。そういうことを理解してアレジメントするのがライブラリアンの仕事。この本によって「情報の捉え直し」をするきっかけになったなと思っています。ここから環世界(虫の視点から見た世界)論に興味が湧いて来て、文化人類学とか違いを楽しむ感性の入り口になったのがこの本です。

環世界=生物がそれぞれ独自の時間・空間として知覚し、主体的に構築した世界のこと。1900年代の初めにドイツの生物学者・ヤーコブ・フォン・ユクスキュルが提唱した。(参考・Google)
例:例えば生き物が生殖活動をする時には、こういう色の餌が自分には必要だと周りをみていて、野原などにいても自分に必要な情報は蝶々と犬では全然違ったりする。世界は一つではない。そんな感じ。

【山本茜さんーレイチェル・カーソン著『センス オブ ワンダー』】
上記の本に関連して、私は大学が保育科で子どもに対してこういう眼差しで接して行きたいと思った本。出てくる言葉が「知ることは、感じることの半分も重要ではない」とか、「もしあなた自身が自然への知識をほんの少ししか持ってないと感じていたとしても、親として子どもに沢山のことをしてあげることが出来ます。例えば子どもと一緒に空を見上げてみましょう。そこには夕焼けや黄昏の美しさがあり、流れる雲、夜空に瞬く星があります。子どもと一緒に風の音を聞くことが出来ます。それが森を吹き渡るゴォー、ゴォーという声であろうと、家の庇やアパートの角のヒューヒューという風のコーラスであろうと、そうした音に耳を傾けてゆくうちに、あなたの心は不思議と解き放たれてゆくでしょう」子どもを前にすると何か豊かな自然、知識を教えてあげないといけないのではないかと思うんだけれど、そんなことは全然重要ではなくて、「ああ、空が綺麗だね」と言って一緒に見上るだけ。そうしたセンス・オブ・ワンダー。美しいものに驚く、目を見張る感性があることが先ず大事だということは、インパクトを与えられた。当時は大学生だったので、自分が子どもをもつのかわからなかったけれど、子どもに接する仕事に就く時も、自分としてもこうして生きて行きたいと思っていたし、子どもをもった時にもまたそのことを思い出していました。私がいま住んでいるところは都心部なので森林が豊かでもないけれど、蟻は地を這っているではないですか…みたいな感じで。

【加藤博子さんー監修 斎藤孝 絵 川原瑞丸『ふわふわとちくちく』】
プラスの言葉ってありますよね? ポジティブな言葉とか、言い換えたら気持ちを引き上げてくれるような言葉。そういう言い換え言葉の本って、いまいっぱい出ていますね。マザーテレサに「言葉が変わると習慣も変わって性格も変わって人生も変わる」という言葉もありますが、ある時お友達から「孫からこんなことを言われたの」と教えてくれました。お孫さんから「バァバ、それはねチクチク言葉だから言わないで。ふわふわ言葉にして」と言われたそうな。お友達は初めて聞く「チクチク言葉・ふわふわ言葉」という言葉に「それ、なあに?」と尋ねたら「この本で勉強した」と3歳児に言われたとか。『にほんごであそぼ』の監修をされている斎藤孝さんの著作で、それを聞いた時「なんだ、それ」となった。保育園・幼稚園の先生たちの研修でよく「ポジティブな言葉を使おう」と言うのは聴くんだけれど、こういう感性の日本語で子どもから大人が学ぶということは素敵なことだと思って。出たばかりの本なので、まだ知られてはいないんですけどね。これを午前中の研修に使いました。あなたはどちらを使っている? って。言葉選び絵本、ちょっと躾的要素もあるのかも。「ふわふわ言葉は相手の心が元気になったり、楽しくなったりする言葉。あなたもきっと笑顔になるよ。だけどチクチク言葉は相手の心が痛くなったり、切なくなったりする言葉。あなたをきっとしょんぼりとさせちゃうよ」大人も言葉使いが悪いことがあるじゃないですか? 「マジ?」とか「ウソ?」「やばい!」保育の世界では禁句になっているんですが、感性でこうして子どもから学ぶと、「チクチク」と「ふわふわ」それだけで何も難しいことは要らない。子どもから学ぶことってとても多いということで、これが世界に広がったらすごく幸せな気分になれるし、幸せな世界になっていくのではないかと思って、一押しの本です。殊に[チクチク言葉をふわふわに変えてみようよ]というページがあり、1人の子どもがピンク色をした象を描いた時にそれを「変なの?」と言うより「面白いね」と表現した方が肯定的な言葉になり、つまりはチクチクからふわふわへと変換されたことにもなるわけ。多様性とか、みんな一緒ではないとダメとか、そうした偏見についても「こんな見方もあるよね」ということを気づかせてくれる1ページで、このページが一番好きです。自分の周り全てがふわふわだと幸せだろうなぁ〜と思っています。

【名畑惠さんー西加奈子著『くもをさがす』】
出版されたばかりの本なんですけれど、もともと西加奈子さんの小説が大好きで、愛と優しさで溢れてるんです。ヒットした作品だと『i』とか『漁港の肉子ちゃん』とか個性的な小説を書いている人なんですけど、すごく個性豊かなキャラクターがいろいろ小説の中に出てきて、様々な人たちが細やかな日常の中で描かれているんだけど、どの人も優しさで溢れているわけ。この人の小説を読む度に大泣きしている。作家に興味があるというか、どういう生活をしていればこんなに人間愛に溢れた人になれるんだろう? みたいに思っていたところ、初めて自分のことを書いたエッセイが出たんですよ。最近カナダに移住されたんだけれど、カナダで乳がんになってしまった。しかもコロナ禍という状況の中で、自分自身が苦しい日常を送っている。そのものを書いているんです。それで初めてこの人の私生活がわかったというか、こういう生き方をしていたんだとわかって、何がお得かと言うとこの本の中に、この人が読んでいる本の引用が沢山出てきたり、今の現状を支えてくれたセリフや音楽も出てくるんですけど、それが日記のように書かれていて、まるでこの人の脳内を覗いている感覚になるんです。なるほどね…と思うんだけど、最後にその引用文献がズラリと載っていて、全部買いたくなってしまう。そう思わせてくれるお得さがあって、最後の方は1年間分泣いたのではないかと思うほど大号泣したんだけれど、いろいろな作品の中で登場人物を肯定してきたこの人が、初めて自分のことを肯定した文章なんですよ。乳がんになって、患部を切り取って全て失ってしまったけれど、現在の自分一番カッコいいなという自己肯定を思考の中から編み出してゆくんです。この本の帯には「カナダでがんになった。あなたにこれを読んでほしいと思った」と書かれていて、買う時は「ふう〜ん」と思って読み始めるんだけど、最後の方になると「これ、私のために書いてくれたんだ」と思わせられるの。それに気づいた時に、もう号泣。小説もそうなんだけど、ポットキャストでお悩み相談みたいなこともされていて、VOGUEでも各界の注目の著名人を呼んで読者のお悩み相談をしているコーナーがあって、その中に西加奈子さんも呼ばれていて何回かやっているんですけど、多分がんになる前だと思うんですが、「人間関係に悩んでいます」とか「仕事と何かの両立に悩んでいます」とか、本当に細やかな読者投稿なんだけれど、それに対する返答が深すぎて、優しすぎて「あんた、よくやってるよ」と肯定してからの「この本を読むといいよ」という処方箋になる本を一冊、二冊を紹介してくれるの。これ以上のお悩み相談コーナーもないなと思うぐらい。この人の人間性はどうなっているの? と思っていたら、間もなくがんになって、この本だから…。なんかねえ〜、尊敬しています。

【一柳三知代さんー神沢利子著 林明子 挿絵『いってらっしゃい、いってきます』】
チラシにはいままで生きてきた中で糧になった本を紹介して下さいとなっていましたが、私が本を読み始めたのは高校生の頃の図書館だったので、その頃に感銘を受けた本が家にあったり、なかったりしますので、お話会などで年に一度お薦めの本を紹介して下さいと言われることがあって、その時の一番最後に紹介するのがこの絵本です。保育園の送り迎えの時を描いているんだけど、視点がナオちゃんという子どもの視点になっていて、送り迎えの時に子どもがこういうような状態で子どもがいるんだということを忘れないでいようとか、
そういうことを思うようにしています。でも、現役のママの時はそれが出来てなかったので、いま若いママさんたちにお伝えしています。

【一柳三知代さんー山本悦子著『神様のパッチワーク』】
これは児童書なんですけど、山本悦子さんという半田市在住の元小学校教諭で『宿題忘れました』とか『感想文が書けません』など、いろいろな児童書を出している方。この本の内容は特別養子縁組のお話なんです。児童書というものは子どもの目線で書かれているものと捉えるとわかりやすいんだけど、子どもの目線で特別養子縁組のことで学校の中で虐めが
あり、それに対して子どもがどう応えているかとか、そういう視点で描かれている本。大きい字だから直ぐに読めるんですけど、絵が佐藤真紀子さん。私この人の絵が好きで、あさのあつこさんの『バッテリー』とかの表紙の絵を描いている方で、今度このふたりの講演会があるからそれを楽しみにしているんだけど、ちょうど山本さんとのコンビの本が出たから買ったんです。この中に先ほどの「ふわふわ」と「チクチク」言葉のことも今風の若者言葉として出てきて、ああ、やはりこの人は学校の先生だったんだなあ〜と思って。でも、いつも思うんだけど、学校の先生が作家になるのは、自分が現役の先生の時にやれなかったことを作品の中で昇華しているのかなって?

【宮崎貴文さんー井崎英典著『教養としてのコーヒー』】
個人的にコーヒーが好きなのでこういう本を選んだんですけど、この著者自身がバリスタで猿田彦珈琲のオーナーでもある方で、コーヒーの歴史からビジネスに至るまでが描いてある専門書のような本です。珈琲ビシネスにどうやって関わって行けば良いのかとか、平成のコーヒーブームの話や深煎りとか浅煎りの違いとか、抽出方法とか、珈琲好きにはたまらない一冊。本当にコーヒーを楽しむためには、どのような器具を揃えれば良いのかとか、その豆が採れる産地(国)とか。一番興味深いのは外国でのコーヒーの歴史や、日本に伝わってからの変遷とか書いてあるところです。この本を読みながら昔家族でハワイに行った時、ハワイにはアイスコーヒーがなくて面食らったことを思い出していました。

【宮崎貴文さん―ファンキー末吉著『大陸ロック漂流記』】
本自体はもう捨てちゃったんですけど、爆風スランプのドラマーの方が人気絶頂期にバンドを解散させて、友人の鍼治療に便乗する形で中国に渡るのですが、そこで「黒豹」というグループの音楽に出会って、どっぷりハマって現在も中国にいられるとか。もう随分昔に買った本で、タイトルを見て「漂流記」って何だ? と思ってジャケ買いしたら結構面白かったです。

【大久保康雄―チャールズ・M.・シェルツ著 谷川俊太郎訳『スヌーピーの幸せはあたたかい子犬』】
主催者自身がルール違反をしてしまって申し訳ないのですが、僕はこの絵本を本当は読んでないのです。この絵本は延藤先生の幻燈会で知ったのですが、僕の人生を変えてくれた本なので、紹介させてもらおうかと思います。そもそも延藤先生と出会ったのも、一宮の宮前ひろばづくりWSがきっかけでした。当時人にやさしいまちづくり連続講座から派生した、オリジナル紙芝居をあちらこちらで披露しながら「心のバリアフリー活動」をしていた僕は、その仲間の坪井俊和さんに誘われて尾張一宮の宮前ひろばづくりWSに参加したのです。そのWSのコーディネーターをされていたのが、当時千葉大学の教授だった延藤先生で、その初っ端に見せられたのがこの絵本の幻燈でした。まちづくりのWSなのに、スヌーピーとその仲間たちが幸せについて哲学している。しかもバリバリの関西弁で…。現在ならわかるのですが、当時の僕は「なんやろ? このおっちゃんは?」と疑問ばかりが頭の中に渦巻いて、でも後々坪井さんに誘われるまま、そのおっちゃんのまち育てを広めるべくNPOの理事になり、ジネンカフェを続けているのですから、僕の人生を変えた一冊と言っても過言ではないのです。

【山本茜さんークラウス文 センダック絵『あなはほるもの おっこちるとこ』】
この前名畑さんにセンダックで大好きな絵本があるからと話していたんですけど、そもそも私は絵本を勉強したくて大学に行ったんです。私が行った大学に絵本を専攻している先生がいたんですね。その人に学びたくて大学に入り、児童図書館員になるぞみたいな構想で、保育士になる気はなかったんですよ。保育士になりたくない学生は私ぐらいで、でも保育士の資格は取ったんです。その時に子どもへの眼差しとか、考え方とか、文化の考え方がセンダックは素晴らしいと思っていて、大好きなんです。ユーモアを持って子どもたちが物事を捉えることを描いているんだけど、「マッシュポテトは誰でも好きで食べられるもの」
「顔はいろんな顔をするためにあるの」「犬は人を舐める動物」「手は繋ぐためにあるの」「手は僕にやらせてと上に挙げるためにあるの」「あなはほるもの」「地面はお庭を作るためにあるの」「草は地面の上にあって、下に土が付いていて、クローバーが混ざっているもの」「穴の中に何か隠すことできるよ」「こんにちはと言って握手をすることをパーティーという」「パーティーはちいちゃい子どもたちを喜ばせるためにある」「抱き合うために腕があるのよ」「親指はひょこひょこ動かすもの」「耳はピクピク動かすもの」「どろんこは飛び込んで、滑り込んで、ほっころりんのシャンシャンとやるところ」「お城は砂場で作るもの」「あなは入って座るとこ」「夜は眺めているといろんなものが見えることを夢って言うんだよ」子どもたち自身の瑞々しい言葉で説明してあって、子ども一人一人がいろいろな格好をしていて、変な格好もしていたりもするんだけど、そう言う子どもの姿を大事に思っていて、子どもたちが持っている力は生きるため。苦しいことや辛いことを自分の中で昇華するための力としてファンタジーを心の中に持っている…それを大事にしよう。絵本ってそのためにあるんだな…ということを学んだ。センダックの話を名畑さんとしていて、延藤先生の本棚にもこの本があるのではと思っていたが、ちょっと見つけられなくて紹介したかったんです。






ジネンカフェVOL.144レポート

2023-08-10 09:23:16 | Weblog
こういうことを書くと年代が丸わかりになってしまうのだが、筆者の若い頃森村誠一氏の『人間の証明』という作品が映画化され、作中にも登場する西条八十氏の『麦藁帽子』の一節がCMで流れされていた。

「母さん、ぼくのあの帽子どうしたでせうね? ええ、夏、碓氷から霧積へいくみちで、渓谷へ落としたあの麦藁帽子ですよ」

そう、現在は8月夏の真っ只中。「夏」という季節から連想されるものは幾つもあるが、旧い人間の筆者はその代表格に「麦藁帽子」をイメージしてしまう。でも、吉田拓郎氏も歌ったように最近では「麦藁帽子」をかぶった子ども達を見掛けない。風鈴の音も聞こえて来ないし、蚊取り線香特有のあのにおいも漂って来ない。聞こえてくるのは今を生命の盛りと鳴く蝉の声ばかり。街から季節的な情緒が失くなって久しいが、今月のゲスト・萩平乃愛さんは夏らしい、涼しげな装いで登場して下さった。そう、今月は夏休み企画として学生さんに登場してもらおうと思って、高校生の乃愛さんに白羽の矢を立てさせていただいた。筆者と乃愛さんの出会いについては、ご自身がお話されているのでそちらの方に委ねたい。お話のタイトルは『「生きづらさ」から生きやすい社会へ』

【人を笑顔にすることが好き】
萩平乃愛さんは現在17歳、愛知県立刈谷高等学校の3年生。趣味は映画鑑賞と可愛い服やパフォーマンスを見ること。乃愛さんは小さな頃から人を笑顔にすることが好きだったのだが、最近になって要するにそれは「人の役に立つこと」が好きなんだろうなと気づいたという。

【英語が使いたくて、名大のプロジェクトに参加する】
ディズニーが好きだった乃愛さんは、高校に入学するまで就職するのならディズニーに入社したいと考えていた。でもディズニーはアメリカに本部を置く企業なので英語力も必要だと思い、高校に入学して英語にも力を入れようと決意を固めていた。そんな時に学校から名古屋大学で『英語を用いて地球規模の問題に取り組もう』というプロジェクトの紹介があった。本来そのプロジェクトの肝は〈地球規模の問題を考える〉ことにあったのだろうが、当時の乃愛さんは〈英語を使う〉というところに目が行ってしまい、応募資格が英検2級以上(高校卒業程度)となっていたにも関わらず、とりあえず応募してみたら選考に通り、名古屋大学のプロジェクトに参加することになったのだった。

【自分の視野の狭さを思い知らされる】
そのプロジェクトでは名古屋大学だけではなく、いろいろな大学の教授の社会問題に関する講義があり、提示された問題について各グループで考えてプレゼンテーションをしたり、3カ月程度で社会問題についての研究をしていたという。集まった人たちはそれぞれに社会問題に関心のある人ばかりで、その中にいて乃愛さんはご自分の視野の狭さを思い知らされることになる。また、このプロジェクトに参加して社会問題に関心のある人がこんなにたくさんいるということも知ったし、その問題自体もこれまでとは違って身近に感じられるようになったという。

【乃愛さん、キャリア支援を知る】
乃愛さんのグループはソーラーパネルの設置と、設置する時の環境破壊を含めた地元の人たちとの摩擦をどれだけ軽減して再生可能エネルギーを作り出して行くかという研究をしていた。その一環で環境活動家の方にインタビューをしている時に、たまたま偶然子どものキャリア支援をされている方がいらして、そこで初めて乃愛さんは〈キャリア支援〉というものを知ることになったのだ。

【キャリア支援プログラムにエントリーする】
名大のプロジェクトは1年間で終了したのだが、高校2年生になった乃愛さんは1年前の自分とは違っていろいろな社会問題に目を向けるようになり、もともと自分が好きだった「人を笑顔にしたい」という気持ちもより一層強くなっていたので、それを叶えるためにまた何か活動したいと思っていたところに、名大のプロジェクトの時に知りあった子どものキャリア支援をされている方から声をかけて貰い、キャリア支援プログラムにエントリーしたのであった。

【サービス業は今の自分の気持ちとはちょっと違うな】
最初はディズニーなどのサービス業の仕事について知りたいと思っていたので、サービス業の方々にインタビューを行っていたのだが、人を笑顔にする点やサービス業にも興味はあったものの、何となく自分がやりたいこととはちょっと違うなと感じていた。そんな乃愛さんの戸惑いに気づいたのか、そのキャリア支援の講師の方が「自分のモヤモヤとか気になることとか、自分が助かったらいいな、自分はこういうことがあると助かるなということをテーマに考えてみたら?」というアドバイスをして下さったという。

【みんながそれぞれに生きづらさを持っている】
そうして考えている時に、現在は大分考え方が変わったけれど、自分の最初のポイントは「人を笑顔にしたい」ということだったので、障がいのある方やマイノリティーの方々をお手伝いできることがないかと考えていたのだ。しかし迷いもあった。例えばよく聞くようにバスの中で高齢者と思しき人に座席を譲ろうとしたら、その人のことを返って高齢者としてみていることになり、失礼になってしまうのではないか? そういうどうすれば良いのかわからないモヤモヤを解決できるようなことがあると良いなと思って、活動されている方にインタビューをしてゆく中で筆者とも知りあったのだ。それがマイノリティーとか、バリアフリーとか、乃愛さんが最近考えている「みんながそれぞれに生きづらさを抱えているな」と思うきっかけにもなったという。

【自分の生きづらさにも気づき、他者の生きづらさをも感じる】
「みんながそれぞれに生きづらさを抱えている」と気づきを得たのには、もう一つのきっかけがあった。最初はマイノリティーの方々の役に立ちたいと思っていた乃愛さんだったが、キャリア支援プログラムの中には〈自分についても目を向ける〉という題目もあり、そうして行くうちにそれまでご自分の長所でもあり、生きる軸だと思ってきた〈人の役に立ちたい〉という性質は、二律背反で自分を苦しめていることに気付いたという。自分では大丈夫だと思ってきたことでも、学校の先生たちから言われて初めて自分は大丈夫ではなく、苦しかったのだと気付いたのだという。人の役に立ちたい気持ちが強く、自分のことを犠牲にしてまで動いてしまうところがあり、それは多分に家庭環境から影響を受けていたのだろう。人というのは不思議なものだ。どんな環境下にあってもそれが日常的になっていれば至極普通のこと、当たり前のように意識下に刷り込まれる。しかし、一旦それが普通ではない特殊なことなのだと指摘されるや、もう以前のようにその環境が普通のことだとは感じられなくなるものだ。当人にとってどちらが幸せなのか、それは当人にしか解らないことだろう。しかし、筆者は乃愛さんが自分が置かれた特殊な環境に気付けて良かったと思う。前に進めるからだ。その上、名大のプロジェクトやキャリア支援のプログラムによるインタビューにより、悩んでいたり、苦しんでいるのは自分だけではないことも知った。そして同じ悩みや苦しみや生きづらさでも、その人によって度合いが違ったり、大変だと思っていることも違うことも。では、そのそれぞれの悩みや苦しさや生きづらさをどうすれば解決させられるのだろうか? 百人いれば百通りの苦しみや生きづらさがあるから、一律に解決できるものではないだろうが…。

【SNS全盛期だけど繋がりづらい現在の世の中】
乃愛さんは現在のご時世、コロナ禍ということもあって、なかなか人と話しづらいなと感じているそうだ。ジネンカフェのようなそれぞれの生き方を知って、自分の中に多様な視点や価値観を取り入れられる場があれば良いけれど、友達同士では「自分はこんなふうに生きてきました」なんて話し合うことは出来ないと思うし、そういう場がないと自分の価値観しかわからないから、実際には苦しんでいても自分は別に大丈夫だと思って余計に苦しくなってしまうという。それと名大のプロジェクトに参加して思ったことなのだが、SNSが普及してきているからプロジェクトの参加もリモートが多く、グローバルな視点からみると全国や世界各国から参加出来て良いのだが、ネットやSNSをしていない子からすると飛び出しづらいのではないかと思う。乃愛さん自身はたまたま学校で告知があったから参加出来たのだが、それがなかったら名大のプロジェクト自体にも参加していなかっただろうし、スマホも高校生になってから持ち始めたので使い方も解らなかったし、それで何かを調べる発想もなかったという。今思えば中学生の頃は本当に狭い世界で生きてきた感じがして、出ようと思えば出られるとは思うけれど、そこに出るという発想が持ちづらく、方法も限られるので〈出られる人〉と〈出られない人〉がいたりする。SNS全盛期ではあるけれど、現在は返って繋がりづらい社会でもあるなと十代の乃愛さんは思っている。

【ジネンカフェのような「場」があればいいな】
まだ17歳と若い乃愛さんの将来的な夢は、いろいろな人たちの考え方や価値観が共有出来る場があれば、もっと生きやすくなるかなと考えているという。堅苦しい感じではなく、ジネンカフェのように集まって気軽に話せるような「場」。帰り道とかに〈ちょっと楽になったな〉と思えるような「場」が出来ると良いなと思っている。そこで「してあげる」のではなく、自分も「あったらいいなあ」と思っている方なので提供するのではなく、一緒に作れるような「場」。仕事にするのではなく、みんなと一緒に出来たら嬉しいし、それをするには自分もまだ学ぶことも多いと思うので、いろいろと学んで行きたいと思っているという。