ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.142(2023年6月 )レポート

2024-02-28 09:25:10 | Weblog
今年の梅雨入りは早かった。その上エルニーニョ現象の影響なのか台風が早くも発生し、前線を刺激して災害級の雨が降る。日照時間の短いこと。こんな時には食べ物も黴びる恐れがあるが、ともすれば人間も黴びて来てしまいそうだ。こんな時には爽快な生き方をされているゲストさんをお呼びして、お話を聞くのが一番だ! というわけでもないが、6月・ジネンカフェVOL.142のゲストは、(公財)名古屋国際センター事業課主事の池田昌代さん。これをお読みになられている中にも、国際センターって名古屋市営地下鉄の駅名にもなっているけれど、実際にどんなことをされている機関なのかご存知ない方もいらっしゃるだろう。実は私もその口で、駅には何度も降りたことはあり、待ち合わせのために建物の中に入ったこともあるのだが、3Fのセンターには出入りしたことがないのでどんなことをされているところなのか知らないのだ。その謎も後半で明らかになる。題して『知らない場所で生きるには〜予定はミテイ、脱線はハッテン』はじまり、はじまり。

【教員志望でも勉強嫌いな女の子】
池田昌代さんは豊川市(旧音羽町)のご出身。2008年からカナダへ行っている間に音羽町が豊川市と合併したので、行く前は音羽町民だった筈なのに、帰って来たら豊川市民になっていたという市町村合併の洗礼を受けたひとりである。カナダに行く前は会社員をされていたそうだ。もともと教員志望だったので大学も教育学部に通っていたのだが、勉強がそれほど好きではなく、教員採用試験の勉強もあまりしていなかったので、周りが採用試験に合格してゆく中、池田さんだけ、教員免許はあるものの採用されることはなかったという。

【カナダからの帰国後、外国籍児童担当教員として勤める】
大学卒業後、会社員を6年ほどされていたが、英語や海外には興味があったので一念発起で退職し、ワーキングホリデーの制度を使ってカナダへ渡ったそうだ。そこで一年半過ごし、帰国されてからはせっかくの教員免許を活かそうと思い、たまたまポストが空いていた外国籍児童担当教員として勤めることになった。豊橋や豊川には外国にルーツを持つ子どもたちが多く、愛知県からそのための講師雇用に予算がつけられている。そのポストに空きがあり、年度途中の9月から学校勤めをすることになったのだ。クラス担当というわけではなく、多い時で一時間に4〜5人、多様な学年でルーツもバラバラな子どもたちがひとつの教室に集まって、日本語やいろいろな教科の勉強をする。そのための先生であった。

【もう一度教師採用試験を受けようと考えたけれど…】
池田さんはその仕事が好きだった。この仕事をずっと続けて行きたいと思い、もう一度教員採用試験を受けようと考えたほどに。しかし、受けるのであればもっと教員として当たり前のこともしなければいけなくなるだろうとも考えた。つまりクラス担任である。当時も常勤で働いていたのだが、クラス担任になると仕事量が半端ではない。この頃から既に教師不足が指摘されていて、池田さんも二年続けて「来年はクラス担当をしてもらうからね」と言われていたのだ。そんな働き方は自分には無理だと思った。それに何よりも池田さんは、外国籍児童に教えることが好きだったのである。始業前のこれからどんなことを教えてもらえるんだろうという好奇心と期待とが混ざったような瞳。知識を学んで行くに連れて喜びと次は何?と言わんばかりに輝くように綻ぶ顔。

【運命を変えたJICA研修参加】
丁度その頃JICA中部が行う『開発指導者研修』、それと並行して行われながら夏休みには現地研修へ行く教員向けの『教師海外研修』について知り、池田さんは即座に参加することに決めた。その年の現地研修先の1つがブラジルで、外国籍児童担当教員として日系ブラジル人の子どもたちを教えることが多かった池田さんは、彼らのルーツの国を体感してみたいと思ったのだ。
その研修で、JICAの日系社会青年ボランティア(現在は青年海外協力隊に統一されている)について知ることになる。
                                                                                                                                            
【日系社会青年ボランティアへの挑戦】
JICAの現地研修は池田さんにとってよい経験だったし、その時に知りあった先生方とも今もお付き合いがあるのだが、彼らは当時皆正規採用の教員だった。JICAのボランティア(海外協力隊)には現職教員のままでも参加できる制度があるが、学校や地域の教育委員会の推薦等を経て希望を出してから3年〜5年後にやっと行けるか行けないか、というところだそうだ。でも池田さんの場合は当時常勤講師で一年ごとの契約だったので、講師を辞めれば直ぐにでも参加できる立場だった。
一方その頃池田さんが豊川でしていた外国にルーツのある方に日本語を教えるボランティアのグループの中に、青年海外協力隊経験者の方が二人いらした。とても素敵な方々で、その人たちからもお話を聞いたりしてますますJICAボランティア参加への想いを募らせていく。
ブラジルでボランティア活動や生活をしてくれば、帰国してからもまた外国籍児童担当教員として働くための大きな糧になるのではないかとまだ見ぬ未来への期待を膨らませ、研修同期の現職教員たちや地元の先輩たちに背中を押され、池田さんは研修から導かれるように日系社会青年ボランティアへの応募を決意した。

【選考試験に通り、晴れてブラジルへ】
その年の募集でブラジルからは1つだけ「文化」という幅広い要請が出されていた。普通日系社会だと「日本語教師」とか「特定のスポーツ指導が出来る人」(池田さんの同期にはバドミントンの指導者がいらした)、日本文化であっても「エイサー(沖縄と奄美群島に伝わる伝統芸能)」「和太鼓」等々特定分野の知識や経験が求められるそうだが、この時に要請されていた「文化」は、要件が「何かの指導経験がある人」だったという。指導経験と言えば池田さんも二年半教員として勤めてきたわけだから当然応募資格はあるだろう。そうはいうもののJICAの選考試験は極めて厳格で、細やかな健康チェックはもちろん、面接も行われ様々なことを質問される。「茶道経験あり」と書いたものの池田さんは高校時代にかじった程度だったので「申し訳ありません。わかりません。勉強してきます」と答えた。池田さん曰く、謙虚な姿勢と応募者が少なかったことが幸いし、晴れて合格となり、ブラジルに行けることになった。

【日系コミニティー・タウバテ】
ブラジルの日系社会は、100年以上も前に始まった移民政策で日本からブラジルに渡った人たちがそこで家族を作り、二世、三世と世代が代わってゆく中で、学校や日本語学校を自分たちで運営していたという。そういったブラジル全土にある日系コミュニティに池田さんたち同期の30余名が散り散りバラバラに飛ぶことになった。
池田さんが入ることになったタウバテの街の日系コミュニティでは、既に4名が2年ずつ、合計8年、JICAボランティアの日本語教師が活動しており、受け入れ先のタウバテ日伯文化協会が次に5人目の日本語教師を呼べるかどうかわからないので、「文化」という幅広い分野で要請を出したのではないか、と池田さんは思ったそうだ。

【初カルチャーショック】
池田さんがタウバテの日本語学校に入って初めての行事が〈運動会〉であった。日系の方々が日本式の〈運動会〉を行うということで池田さんも参加されたのだが、運動会定番の種目〈綱引き〉競技の仕方が独特で驚かされたという。日本の場合、綱を引き合う双方の力が均等になるように予め人数を揃えたり、男女差や大人と子どもの割合を整えたりしてから競技を行うものだけれど、そこではそんなことにはお構いなく目一杯〈綱引き〉を楽しんでいる感じだった。綱を引き合う双方のバランスもバラバラで釣り合いが取れていないばかりか、盛り上がってきたなと思ったら周りで見ていた人たちまでも参加し始め、左右のバランスも何もない状態。圧倒されている間に勝敗が決し、勝った方のチームは当然喜んでいるが、負けたチームもそれほど悔しそうではなく、むしろ「楽しかったね」と笑い合っている。池田さんはその時「なんだこれは?!」とショックを受けた。「凄いところだな〜。こういうところで2年間生活するんだ」と思ったそうだ。最初は圧倒されたものの、池田さんには次第にそのことが好ましく思えてきた。日本のようにキッチリ行うのも良いが、多少の不均衡は狡いなどと思わずにみんなが楽しいことを分かちあい、誰もが笑顔を浮かべている。これはいい、と。ただ、これまで自分が経験して来たことと全く異なる光景を目の前にしてただ単純に戸惑ったのだ。JICAの研修でも「日本とは文化が違うから、自分の考えだけで動くな」と言われたが、その言葉の意味を実際に体験したのはこの時が最初だった。

【自分はクロージングの仕事をしに来たんだな】
タウバテの日系社会は成熟していて、ボランティアの受け入れもしっかりしたところに池田さんは入った訳だが、やはり協会の人たちも、一応JICAには要請は出したものの、もう8年間もボランティアに来てもらっているので、他のコミュニティにも譲らなければいけないかなと思われていたらしい。自分はクロージングの仕事をしに来たんだな、ボランティアがいなくても回るようにするとか、何かを残してゆくことが役割なんだな、とぼんやりと思ったという。そんなことを思いながら、主に週末に開催される日本語学校では、子どもたちに手遊びをしながら日本の歌を教えたり、茶道も書道も算盤もひと通り齧っていたのでそれら教えたりしていたそうだ。また、日本語教師資格はもっていなかったが、教師をしていたという経歴からもう少し歳の大きな子どもたちにも日本語を教えていたとか。
ブラジルの日系社会はその地域によって様々な特色があるが、池田さんが入ったタウバテは工業地帯で、ブラジルの航空機会社のエンブラエルや、フォルクスワーゲンの工場があり、豊川に似た規模の街であった。日系人と現地の方のカップルのお子さんも多く、日本語学校には、全く日本にルーツはないけれど日本語を教わりたいという子もいれば、日系人だけれど日本語を勉強するというよりは遊びに来るように通って来ていた子どももいたそうだ。

【ブラジルの学校事情】
その傍で池田さんは、帰国してから何かの役に立つかも知れない、と、現地の子どもたちが通っている学校を見学させてもらいに行ったという。文化協会に現地校の先生がいらして、その方にお願いして見学させてもらったのだ。ブラジルは午前中の授業で終わり、午後の授業だけで終わり、という感じが多く、日本のように一日中授業をすることがあまりなかった。だから先生方の働き方も様々で、午前中・午後・晩〜夜間とそれぞれの時間帯で違う学校を掛け持ちして働いている方もいらっしゃるとか。池田さんは現地の子どもたちと一緒に折り紙で折り鶴を折ったり、日本語の挨拶や文字などの紹介をしたそうだ。

【お年寄りの仲良し会】
タウバテ日伯文化協会にはお爺ちゃんやお婆ちゃんの会もあり、日本語で話す機会を求めて『仲良し会』と言う集まりを持っている。日本人一世の方もいれば、二世の方もいらっしゃり、二世の方の中にも日本語の方が得意という方もおられるとか。皆さん持ち寄りパーティーやビンゴが好きで、食べ物を一品ずつ持ち寄ったり文化協会のキッチンでお料理を作り、池田さんたちが提供する川柳や習字、体操などのアクティビティをされたりして、ビンゴゲームをして帰る…みたいなことをされていたという。

【日本語教師?としての2年間】
日本で国語の教員免許を持っている池田さんだが、国語を教えるのと日本語を教えるのは別物で、先生だから日本語を教えられる、日本人だから日本語を教えられるというものではないという。しかし、ネイティブの日本人は貴重な存在、要請の職種は日本語教師ではなかったが、結局協会の日本語学校で日本語を教えることも仕事になり、2年間の任期中は同期派遣の仲間に助けてもらっていたとか。隣町にも同期がいて、池田さんが困っている時には「こういう教材を使ったらいいよ」「こんなふうに仕掛けると面白いよ」と教えてくれたり、アマゾンなどブラジル各地にいる同期もオンラインで「こんなのやったらどう?」と教えてくれた。
日本語を教えること以外にも、突然シャワーが出なくなったり便座が割れたりなど、困るけれど面白おかしい事態に何度も遭遇したそうだが、本当に周囲の人たちに助けられながら2年間異国の地で過ごしていたという。

【ゲートボールデビューを果たす】
ブラジル滞在中、池田さんは協会の人たちに誘われてゲートボールにも挑戦し、サンパウロ大会にも出場したそうだ。日本ではゲートボールというと高齢者のスポーツというイメージが強いが、ブラジルでは結構若い人も競技しているらしい。日系人だけではなく、現地の方々も楽しまれているという。しかし、まさか自分の人生の中でゲートボールをすることになるとは、池田さん自身も思ってもいなかったとか。

【ブラジルの食卓】
タウバテの池田さんが住んでいた家の程近いところに、日系の方が経営されていた『シバタ』というスーパーがあり、ブラジルで栽培されている日本米が販売されていて、白米は食べられた。最も池田さんは和食だろうが、洋食だろうが、美味しいものなら何でも食する人なので、食べることには困らなかったという。ただ、任地に入った初日に「ご飯をご馳走しましょう」と連れて行ってもらったお店で、定番の『ポルキロ』をご馳走になったそうだが、これはお皿に取った料理の量り売りで、どれも美味しそうで量をあまり考えなかったことと、材料として使われているデンデヤシの油が体にあわなかったらしく、初日からお腹を壊したそうだ。でも食で困ったのはそれぐらいで、後は何でも美味しく食べられた。ブラジル料理として有名なシュラスコは家庭でごく普通に行うもので、基本的には男性がホスト役になることが多く、シュラスケイラという専用の場所を設置している家はそこで焼くものなのだそうだ。日本のBBQとは違うようだ。

【昌代先生、どのバナナが好き? 何が好き?】
食べることが好きな池田さん、食に関する話はまだ続く。タウバテの日本語学校の先生方や協会の人たちの多くは日系の方達で和食を作られることも多く、池田さんのところにも届けたり分けたりもしてくれたそうだ。また、日本ではまずあり得ない話なのだが、「先生、うちのバナナ採れたのでどうぞ」と言って、枝のままバナナを貰ったこともあったという。これには池田さんも驚いたのだが、ブラジルでは畑などの風よけにバナナの木を植えている家があり、枝ごとボキッと折ったりするそうで、ブラジルでは普通なんだと思い直したそうだ。市場にはバナナだけを販売しているスタンドがあり、ある時「昌代先生、どのバナナが好き? 何が好き?」と訊かれて〈え? バナナはバナナじゃん。〉と思ったが、ブラジルではバナナでもいろいろな種類があるのだ。大久保調べではオウロバナナ(いわゆるモンキーバナナ、小さくて濃厚)・マッサンバナナ(少し小さめでリンゴのような香りが特徴的。甘味もコクもあっさりしている)・プラッタバナナ(少し小さめで甘味もあっさりしている)・ナニカバナナ(日本でも見かける一般的なバナナ)・テッハバナナ(生食できない料理用バナナ)など。日本にいるとモンキーバナナとフィリピン産バナナの違いぐらいしか分からないのだが、ブラジルに行ったら「どのバナナが好き?」と訊かれ、“これも日本語の勉強に使わなくては”と考え、『どれが好きですか?」とか『どの(名詞)が好きですか?』を教える時や、日本風に『これ、つまらないものですが…』とものを贈る時の練習にもバナナの枝の絵を使うなど、バナナと現地での経験をしっかり使って帰って来たという。

【トラブルを楽しむようになるにはトラベルに出なければ】
こうして2年間の任期を終えて帰国した池田さんだったが、苦しいこともあったけれど同期にも恵まれて楽しかったという。池田さんは大丈夫だったけれど、住んでいた近くでも殺人事件があったり、銀行強盗が起きたりしたそうで治安は確かに日本と比べて悪く、同期にも強盗に遭って履いていたナイキのスニーカーと、買ってきたばかりのヨーグルトを盗られた子がいたそうだ。その時は「怖かった」と言っていたその同期の子も、別の同期の子に「凄いネタ拾ったじゃん」と明るく励まされ、その強盗にあった子も明るい性格だったから「そうだよね。ネタだよね。生きてるもんね」と切り返していた。もともとネガティブな性質の池田さんが、現在ポジティブに見えているのはこうした海外でのトラブルを楽しんできた体験が大きいのではないかとご自分で分析されている。

【やはり自分は裏方向きではないか?】
帰国後も外国籍児童担当教員として学校に勤めたいと思ってブラジルに行った池田さんではあったが、同期の隊員が皆いろいろな企画をたくさん考えたり、人を呼んでくるようなことが上手で、どちらかと言えば池田さんはその後方支援・裏方仕事が得意、それで「ありがとう」と言われることが嬉しいとさらに強く感じていた。教員にはなりたいけれど、なればきっとクラス担任をしなければならないだろうし、兎にも角にも今は裏方仕事がしたい!と思いながら帰国したのだった。帰国してすぐに、派遣前の教員研修を一緒に受けた方が産休に入るのでその間だけ自分の代わりに非常勤でも良いから入ってくれない? と言われ、非常勤講師として勤めたのだそうだ。その時は特別教科で1年生から6年生まで日本人の子どもを教えていたのだが、ご自分でも授業が下手だなと思ったし、日本人の子ども達とのコミュニケーションも楽しかったけれどあまり上手くいかないなぁ、やはり自分は裏方向きだ、と改めて思い、外国籍の子どもと関わるのはボランティアでも出来るからと、事務職の仕事を探し始めたそうだ。

【名古屋国際センターの嘱託職員になる】
すると、たまたま名古屋国際センターの『事務職。一年契約。更新有り』という募集があり、国際センターという言葉の響きに事務職、「ここ、いいじゃん。」と軽い気持ちで応募した。その年度が約7年ぶりの採用試験だったそうで、久しぶりということでか応募者が少なかったらしい。池田さんは補欠合格だったので「これはダメだな」と思っていたら、運が良いことに合格者の中に辞退者が出た。こうして晴れて池田さんは名古屋国際センターの嘱託職員として働くことになったのだった。

【名古屋国際センターに入職してみたら】
しかし、入ってみたら仕事は事務だけではなかった。事務仕事ももちろんあるが、企画や調整、交渉といった仕事もある。人影に隠れてその人を輝かせるための事務仕事がしたかったのに…と思ったが、企画をしたりイベントをしたり。ロクに下調べもせずよくわからない団体で仕事を始めてしまった…と、池田さんは思った。学生時代にキチンと就職活動をしていれば受験する会社のこともしっかり調べるけれど、ご本人曰く、教員採用試験受からなかった組の池田さんは急いで就職しなければと求人広告を見て応募した会社にラッキーにも採用されたみたいな人だったので、就職活動がどんなものかもあまり知らなかったという。この時も国際センターのことを知らないまま受験したが、それでも受かったのは、履歴書に「カナダに行ってました」とか「ブラジルに行ってました」と記して、〈趣味・特技〉の欄に〈趣味〉程度のつもりで「ポルトガル語」と書いたのを〈特技〉だと思われたのかも知れない、と笑っておられた。

【名古屋国際センターとは何しているところ?】
そもそも名古屋国際センターとは何をしているところなのか? ざっくりと言うと、在留外国人の方々の相談を受けたり、名古屋圏にお住まいの市民の方々に異文化理解をしてもらう、多文化共生について知ってもらう、そういう意識を持ってもらうよう働きかける。そんなことを仕事としているところだ。名古屋国際センターでは情報を多言語発信されており、昨年度までは紙媒体で日本語版の『NIC NEWS』、英語版の『NAGOYA Calendar』、WEB上でポルトガル語と中国語の『NAGOYA Calendar』を発行していたが、今年度から紙媒体のものは辞めてWEB上のみで見ていただくものになっているという。子ども向けには『子どもニック・ニュース』を紙で発行していて、こちらは名古屋市内の小学校の高学年の子ども達に配布しているそうだ。また、多言語相談対応は今年度からは日本語と英語を含めて11言語対応になっているという(日本語、英語、ポルトガル語、スペイン語、中国語、ハングル(韓国語)、フィリピン語、ベトナム語、ネパール語、インドネシア語、タイ語)。ただ各々の言語のスタッフさんが来られる曜日や時間が限られているので、いつも対応できるとは限らないという。要確認ということだろう。

【在留外国人の方にとって心の拠り所であり、心強い機関】
池田さんたちセンターの職員さんが相談に乗ることも多々あるのだが、名古屋国際センターには専門相談員さんがいらっしゃる。行政相談員さんが毎日必ずお一人、教育相談員の先生が週に三日間、行政書士会から行政書士の先生は週に二日午後のみ来て下さり、弁護士会から弁護士の先生も週に一回午前中に来て下さる。行政書士、法律相談、教育の相談は、要予約になっているそうだ。いずれも通訳さん付きで相談出来る。外国の方が日本で暮らすためには必ず在留資格というものが必要で、相談の内容によっては在留資格が大きく関わってくる。相談を受ける時にはまず在留資格を伺って、その人の在留資格に応じた対応をお話しなければならない。入国管理局の方も月に一度来て、入管相談ということで在留資格そのものに関する相談にも乗ってくれるという。これも予約が必要だということだ。その他、難民支援本部さんもセンターとの共催で難民の面接などもしているし、こころの相談もカウンセラーの先生がスペイン語・英語・ポルトガル語・中国語で直接話を聴いてくれるという(要予約)。
名古屋圏にお住まいの在留外国人の方にとっては心の拠り所であると共に、これほど心強いセンターはないだろう。

【情報発信や相談の他にもいろいろしてます】
前述したように名古屋国際センターでは情報発信や相談対応の他に、イベントや研修も行っている。
若者向けのグローバルユース事業は、35歳までの人たちが集まってイベントしようとか、こんな感じで勉強しようとかやっている。池田さんはその部署から離れてしまったので現在どんな感じなのかよくわからないのだそうだが、若い職員が担当となり、とても良い雰囲気で盛り上がっているなぁと思って見ているという。
日本語教室は、ボランティアさんが先生になって子ども向け・高校生向け・大人向けの三教室を日曜日に行っている。高校生向けの教室は近年新しく出来たのだが、親御さんが先に日本にいらしていて、後から子どもを呼び寄せるケースの場合、子どもさんが現地で中学を卒業しているかいないかは大きなポイントで、日本に来られた時に次のステップに進むためにも中学卒業資格を持っていれば高校受験が出来(日本語の勉強や受験勉強は必要になってくるにせよ)、進路の取り方が変わって来る。中学を卒業していないのに、中学卒業年齢になっている子どももいる。そういう子たちは高校進学のために中学卒業資格を取得しなければいけないので、例えば中学卒業認定試験の勉強もしなければならなくなる。そのため高校生日本語教室に関しては、高校生と、高校には行ってないけれど高校に行きたい子たちが通って来ているとか。その他にも名古屋国際センターでは、まちづくり事業として地域の方と一緒にお祭りやイベントなどもされていたそうだ。

【災害時のために】
また、災害時の対応や防災について。外国の方は日本人のように学校で防災訓練をしたという経験もないし、母国とは気候も全然違うし、地震がある国・ない国から来られている訳で、地震のない国の方は地震のことをご存知ない。日本では建物の耐震が結構しっかりしているので、地震が起きてもすぐに外に出てくださいとは言わない。先ずは机の下など頭や体を保護できるところに隠れて、素早く火の始末をし、ドアや窓を開けて逃げ道の確保を図ると言うことが手順なのだが、国によっては崩れやすい建物のところもあるので地震が起きたらすぐ建物の外に逃げて下さいという対応をとっている。そういう日頃からの災害への意識や知識、日本での対応の仕方などの防災普及啓発の事業も行っている。毎年9月には名古屋市の総ぐるみ防災訓練があり、国際センターの職員もどこかの区の防災訓練に外国の方とともに参加しているという。

【やさしい日本語啓発】
これも災害時の対応がきっかけで生まれた啓発事業。災害時に難しい日本語で情報を貰っても、外国の方はわからない。池田さんたちがよく例として使うのが「高台に避難して下さい」という言葉。「高台」と「避難」二つの難しい言葉が使われているが、これをやさしい言葉に言い換えるとどうなるか?  正解はないのだけれど、例えば「高いところに逃げて下さい」。これにジェスチャーや顔の表情などを加えると一層わかりやすくなるそうだ。「飲食厳禁」と壁に貼ってあって例えカナがふってあっても、読めるけれど意味がわからない。「食べたり飲んだりしてはいけません」とか「食べてはいけません。飲んでもいけません」にし、絵を添えたりしてもわかりやすい。相手に伝わるように書き換える、言い換えるのが、やさしい日本語だ。国際センターは出前講座の形で、学校とか非営利団体さんとかに出向いての啓発活動も行っている。

【海外の子どもたちの識字教育のために】
日本ユネスコ協会連盟さんが進めておられる途上国への識字支援に、(公財)名古屋国際センターの自主事業として募金をしている。書き損じのハガキを集めてそれを現金化し、日本ユネスコ協会連盟さんを通じて海外の子どもたちの識字教育のために役立てていただくという。

【国際センターのライブラリー】
名古屋国際センタービルの3階に情報サービスカウンターがあり、そこに常時職員が2名いて、英語と日本語で対応されている。お客様がみえるとそこで用件を伺って、日英以外言語ご希望の方はそう言えば、中で翻訳作業をされているスタッフがいるのでその職員が対応して下さるそうだ。
また同じフロアのライブラリーには、『国際協力』とか『多文化共生』『異文化理解』に関するものや各国・地域の書籍等々、日本語のものも外国語のものも置いているという。このライブラリーは出入り自由で、飲食は基本出来ないけれど静かで、ここで読書をしている人も多いという。面白い書籍を取り揃えていて、例えば『日本紹介』のコーナーには、話題になった『日本人の知らない日本語(マンガ)』とか『名古屋弁』『日本史』『日本の暮らし』『英語落語で世界を笑わす』などもある(これらの書籍はもしかしたら普通の図書館にもあるかも知れないけれど、とのこと)。他にも日本語教材(日本語の教科書)も別のコーナーで取り揃えているという。

【似ている言葉】
今回、時間に余裕があればライブラリーの書籍を紹介できたらと思い、本好きな同僚に「お薦めの本選んで」とお願いしたところ、3冊のシリーズ本を選んでくれたので、と実際に持参された。そのうちの1冊が『似ている言葉』という本。例えば「サンデー」と「パフェ」の違いはなんだ? 他にも「あんみつ」と「みつまめ」の違いとか、「糸こんにゃく」と「しらたき」、「はす」と「睡蓮」の違いとか。みなさんはおわかりになるだろうか?国際センターのライブラリーでぜひ同書を手に取ってみてほしい。ちなみに同じシリーズで英語を取り上げたもあり、「ビック」と「ラージ」との違いは、「ビック」は「わぁ、大きいと思うもの」で、「ラージ」は「他と比べて大きいもの」だそうだ。

【言語は難しい、日本語も難しい】
昨年度(2022年度)から池田さんは、多言語翻訳のコーディネートをされている。名古屋市からの行政文書や名古屋国際センター内の文章の翻訳依頼を調整して多言語スタッフさんに翻訳の依頼を出し、戻って来たものをチェックして名古屋市やセンター内の担当部署に納品する仕事だ。その中で池田さんが感じていることは、言語って難しい、日本語って本当に難しい!ということだそうだ。そこでライブラリーで目についたのが『翻訳できない世界の言葉』と『翻訳できない世界のことわざ』の二冊。例えば『翻訳できない世界の言葉』の中には日本語が4つ載せられている。「木漏れ日」「ボケ〜っと」「侘び寂び」「積読」。ちなみに、池田さん自身の思う翻訳できない日本語の最たるものは「よろしくお願いします」だという。英語でも、ポルトガル語でも、それに対応する言葉はないらしい。

【池田さんが好きだったポルトガル語】
ブラジルで話されているポルトガル語で同書に載っているのは「サウダージ」。ポルノグラフィティの曲のタイトルにも使われていて、「郷愁」とか「淋しさ」とか「哀愁」といった意味合いをもつ言葉。恋しい訳ではないけれど、遠く離れていて長年会ってなかったりすると「ああ、サウダージ」と言ったりするそうだ。
ポルトガル語と言えば、池田さんがブラジルで覚えて好きになったポルトガル語単語は「アプロベイタール(aproveitar)」という動詞。使われていた状況からすると、何かをする時ついでに何かをして利益を取ってくる、得する感じ。日本にも「行きがけの駄賃」という言葉があるが、例えば誰かがどこかに行くのに車を出すから一緒に乗せて行ってもらう時に「アプロベイタしたら」という感じで使っていたそうだ。

【チラカスカして、トマカフェしましょ】
話は流れでポルトガル語単語からブラジル滞在中の言葉についてに。
ブラジル日系社会は、文章は日本語、名詞や動詞をポルトガル語にした「コロニア語」と呼ばれる混ぜこぜの日本語で話をしたりする。池田さんがよく憶えているのは「チラカスカしたら、トマカフェしましょ」というひと言。「チラ」はチラール「剥く」という意味で、「カスカ」は「皮」のこと。「トマール」は英語の「ハブ」或いは「ティク」で「カフェ」は「コーヒー」。つまり「皮を剥いたらコーヒー飲みましょう」という意味だとか。どうしてこの言葉をよく聞いたのかと言えば、日系人協会で資金集めのお祭りなどをする時には日本食を作ってそれを売ったり、会費制のパーティーで日本食の提供をし、みんな大好き・ビンゴもして、お金を集める、ということをよくしていたからだ。そういう時には朝早くから出掛けて行って料理の準備をする。ニンジンの皮をめちゃくちゃ剥いて散らかす。それが終わったらコーヒー飲みましょう。休憩しましょう…みたいな感じで、日系の方々はポルトガル語と日本語を混ぜて使われていたそうだ。池田さんは、このような言語生活の中で名詞はわかるものが増えたけれど、動詞の活用となると全然わからないそうで、文章にならない。だからポルトガル語は話せないという。

【ライブラリーには絵本もあります】
さて、話は国際センターに戻る。今回このような機会をいただいて、せっかく錦二丁目のスペース七番で話すのだから、時間があったら会場に縁のある故・延藤先生がお好きだった本の話題も出したいと思っていたそうだ。ライブラリーには絵本も配架されていて、月に1~2回程度ボランティアさんによる外国語と日本語、2~3の言語での絵本の読み聞かせも行っている。この6月はジネンカフェvol.096ゲストの伊藤早苗さんのところで知りあったスウェーデンの方に読み聞かせボランティアの話をしたら、ご本人も奥様も「いいね」「素敵ね」と言ってくださり、旦那さんが読みに来てくれるそうだ。コロナ前は会場に何人入っても気にせず、マットを敷いて子どもさんはそこに座わり、親御さんはお子さんと寄り添って座ったり後ろで見守ったりして参加している感じだったという。コロナ中はなかなかそれが出来ず、5人とか10人までとか人数を制限して行っていたが、前回から参加定員を増やしたという。
ちなみに延藤先生と言えば、延藤先生が早苗さんのところで紹介された『わたしたちのてんごくバス』の英語版を池田さんは自分で買って、その本の話を小学校で絵本の読み聞かせ活動をされている知りあいに話したら、その人がご自分で日本語版を買われて学校で読み聞かせをし、子どもたちに好評だった、ということもあったとか。

【ライブラリーには洋書もあります】
ライブラリーの絵本コーナーの反対側には洋書のコーナーもある。これら外国語の絵本や書籍には市民のみなさんからの寄付本も多く、貸出本として出せる状態のものはライブラリー内に配架をし、来館者に読んでいただいたり、借りていただけるようにしているが、寄付が配架本と重複する場合や、読むのには差し支えないものの損傷や書き込みなどがある場合は、ブックバザーを実施して来館者に差し上げる代わりに、前述の日本ユネスコ協会連盟が行っている「世界寺子屋運動」(大久保が某高校ボランティア同好会の学外講師をしていた頃、同好会の顧問の先生が学生さん達と一緒に取り組んでおられた)とライブラリー維持費への現金寄付をお願いしている。このバザーのことは結構知られていて、コロナ前は1日で行なっていたそうだが、大きな部屋にダンボール箱に詰めた書籍やビデオテープなど寄付本等を並べていた。それを目当てにスーツケースを転がして開場前から列を作っていらっしゃる方もいた。コロナ禍では不特定多数の人を一箇所に集めることが難しくなってしまったため、1日での実施ではなく期間を長くされているそうだ(今年度は6~8月)。先日も「ダウンサイジングをするんだ」と言われて年配の外国の方が、英語だったりスペイン語の本を持ってきてご寄付下さったという。スペースは小さくなるが、コロナ禍で常設のリサイクルコーナーも作られたとのことなので、興味のある人はぜひ訪れてほしい。


ジネンカフェVOL.149レポート

2024-02-25 12:20:13 | Weblog
2月に入った。昨年末から私的なことでバタバタしていたが、漸く落ち着いてきたようだ。年齢を重ねるということは、体のあちらこちらにトラブルを抱えるようになるということで、それでも筆者がこうして活動していられるのは、サポートしてくれる家族や周りの人たちのおかげであろう。感謝あるのみである。筆者に限らず人は自分ひとりでは生きて行くことは出来ない。この世に生を受けて子どもから大人になってやがては土に帰るまで、人は一体何人の人たちと出会い、そして別れて行くのだろう? 仏教の教えに『生者必滅会者定離』という言葉がある。筆者もいままで何度も経験しているけれど、現世に生きとし生けるものは必ず滅する。どれほど愛しくても、親しくしていても、別れは必ずやってくる。せっかく出会っても、その出会いは永遠ではないのだ。まさに諸行無常なのである。でも、だからこそその生がほんの瞬間的な輝きであったとしても、一期一会の出会いであったとしても、その刹那的な繋がりを大切にしてゆきたいものだとつくづく思う今日この頃である。
さて、ジネンカフェVOL.149のゲストは、名古屋市中区錦二丁目で育ち、現在は東京の大学でまちづくりを学んでいる黒部真由さん。後述するが黒部さんが10歳の頃にあいちトリエンナーレが錦二丁目長者町を主会場に開催されたことがきっかけで、自分が住むまちと関わりを持つようになり、現在も全国をフィールドワークで周りながら錦二丁目にも関わって活動をしておられる。この4月からは一橋大学の院生になられるという。お話のタイトルは『錦のまちに伝えたいこと〜私の今までとこれから〜』さあ、行ってみよう。

【黒部真由さんはこんな人】
黒部真由さんは名古屋生まれで高校生まで錦二丁目に育ち、現在は東京女子大学を経てこの4月から社会学を軸にまちづくりの研究をされるため一橋大学の大学院に進まれる。これまで[まちの縁側育くみ隊][錦2丁目エリアマネジメント会社][一般社団法人コンセンサスコーディネーターズ][有楽町アートアーバニズム(YAU)]それに伴った[フロントヤード株式会社]等々でインターンとしてお世話になったという。[錦2丁目エリアマネジメント会社]では名畑さんや阿部さん等とワークショップをしたり、[まちの縁側育くみ隊]では名畑さんと長久手市のリニモテラス開発のワークショップにも関わっている。また、東京有楽町の[有楽町アートアーバニズム(YAU)]でも議事録を作成したり、主に事務仕事をされてきた。

【まちの会所と碁盤目状の街並み】
黒部さんのご実家は錦二丁目にあるお寺で400年間、錦二丁目の会所として現存している。もともと、会所とは室町時代の京都などでは、お茶会や歌会や寄り合いの場として、武士も平民も刀を下ろして平等に集える場所として機能していた。江戸時代になってもその精神は受け継がれ、みんなの憩いの場として、または武士の集い場として、いわば社交場としての機能を果たすことになる。そういう歴史的な位置付けを持つ環境で育てられたということが自分にとって一番大きいところだと黒部さんは言う。錦二丁目でも『まちの会所』という概念はHOTなワードになのだが、江戸時代の古地図で名古屋城下を見てみると、名古屋城を頂点に城下は綺麗な碁盤目状に区分けされている。それが現代の錦二丁目にも引き継がれているのだ。そうした歴史的な意味を知った上で、碁盤目状に区分けがなされた街並みを自分のルーツとして大切にしてゆきたいとも思っている。

【なぜ、まちづくりを志したのか?】
大学でも、これから進まれる院でもまちづくりを研究し、フィールドワークをしてゆきたいと思われている黒部さんだが、どうして〈まちづくり〉を志したのかと言えば、2010年代辺りから錦もホテルが急増して来たり、問屋だったところの空きビル化だったり、高層マンションが増えて来たり、チェーン店の台頭だったり、碁盤目状に区割りがされた街並みに代表される伝統や文化の形骸化だったり、住民や地権者に対して開発の説明がどれぐらい行き届いているのか不確かなところを黒部さん自身も感じて来た。多様な団体や機関がある中でそのような様々な立場の方々を繋げる人になりたいと思い、まちづくりを学ぼうと思われたのだそうだ。

【延藤先生との縁を辿って東京女子大学へ】
加えて延藤安弘先生の影響も大きい。錦二丁目のまちづくりは、名古屋市からの紹介により2000年代からNPO法人まちの縁側育くみ隊の延藤安弘先生がコーディネーターとして関わり、住民や繊維問屋の若旦那たちを中心に取り組んで来られたのだが、その延藤先生は残念ながら2018年にお亡くなりになられてしまわれた。黒部さんが高校三年生にあがる年だ。没後に延藤先生を偲ぶ会があり、東京女子大の桑子先生が弔辞を読まれた。その折りに東京にも延藤先生と繋がりがある先生がいらっしゃるのだなと思って東京女子大学への進学を決められたのだそうだ。

【延藤先生の著作を読んで「これは自分だな」と…】
延藤先生には直接学んだことはない黒部さんだが、著書によれば〈モノ・カネ制度〉ではなく、〈ヒト・クラシ・イノチ〉が大事。「ひとりの子どもが自ら日常的にまちと関わって、その子の成長にあわせてまちも変化してゆく。そのまち育て活動が住民によってなされて行くことが大切だ」と書かれていた。その文章を読まれた時に「これは自分だな」と思ったという。錦のまちの中で育って、自分が成長してゆく中で錦も知らないうちにどんどん変わって来ている。自分と錦のまちとの関係性が、正に延藤先生の文章そのものだなと感じて、まちづくりを志したというところもあるのだ。

【まちの再生に必要なものとは?】
延藤先生の著作には、まちづくりには5つの力が必要であると書かれてある。『だんどり力』『逃げない力』『地域資源の活用』『弱い立場を思いやる力』『生活感の表現力』そしてまちの再生の基礎的部分として大事だとあげているのが『喜び』『共生』『意思』『必死のパッチ』の4つである。とりわけ『意思』は「何をめざして生きるんや?」というワードで先生がよく使われておられたが、何を目指してゆくのかという方向感をみんなであわせるということ、まちのトラブルをエネルギーに変えてゆく力が『意思』だと先生はおっしゃられておられた。加えて『必死のパッチ』というのは、とことん粘り強く状況に挑戦する態度のことで、決定的な何かを待つのではなく、事態を変えるために自ら動こうと、現実と向き合って行こうとするひたむきな姿勢を貫いて行くことで、この二つは大事だよと挙げられていた。

【黒部さんが思う錦の現状と延藤先生の言葉】
改めて延藤先生が挙げている5つの力に焦点を当ててみると、「住民のあきらめをやる気に」というワードは、現状の錦に当てはまっているのではないかと黒部さんは思っている。自分達が関わらなくてもいいかな。自分達が関わらなくてもまちは変わって行くかなというあきらめに近いような部分を持っている人もいらっしゃると思うけれど、ひとつ目の『だんどり力』は「私発協働」私から発信してみんなで協働してゆく力のことで、まちの小さな行事のひとつひとつの遂行が大きなまちを変え、まちの再生に繋がってゆくということをおっしゃられている。

【自立性と協働性の結合とまちの宝物】
二つ目の『逃げない力』は、行政任せではなく自立性と協働性の結合が大事。三つ目の『地域資源(地域の宝)の活用』というのは、空間・景観・歴史・文化・人間のことで、空間と景観は似たようなものなのだが、錦においたら碁盤目状の町割りだったり、七番の開発だったりも含めて現在HOTなところだと思うので改めて注目して行きたいと黒部さんは思っている。

【亡き延藤先生、黒部さんに影響を与える】
四つ目は『弱い立場を思いやる力』東京女子大の桑子先生は「弱い立場」を女性と子どもとおっしゃっていたが、最も弱い立場の人々が安心して出来る状況づくり、つぶやく力とそのつぶやきをキャッチする力(聞く力)のどちらもまちには大事だと延藤先生はおっしゃられていた。最後の『生活感の表現力』は、いろいろな人がいるこのまちの多様性の混ざりあいだったり、ひとりひとりの特異性の混ざりあいだったりを、協働することによって共に育んで行こうということだ。ここまで延藤先生のお話をしてきたが、前述したように黒部さんにとって「延藤先生を偲ぶ会」に出席したことは、自分の人生を大きく変えるぐらいに大事な出来事であった。自分もゆくゆくは研究者になりたいという夢を持っているのだが、延藤先生のまち育ての哲学を実践して行けるような人材になりたいと考えているという。

【子ども時代に感じたまちに対する親和性の変化】
黒部さんが子ども時代、錦二丁目長者町は閉鎖的な街で子どもが遊ぶ場もなく、まちに対して少し恐怖心を持っていたという。それが変化したのが2010年、2013年のあいちトリエンナーレであった。黒部さんが10歳〜13歳の頃だ。まちの人たちと触れあう機会が増えて来て、自分が暮らしている家(寺院)が地域から求められていることを知った。トリエンナーレの木造の作品が境内に展示されたり、トリエンナーレのアーティストさんの作品である山車がトリエンナーレ後も地域の山車としてえびす祭の度に旦那衆が集まって組み立てられて曳き回されたり、非日常的な繋がりがまちの日常の関係性を構築していることを知ったのだそうだ。現在はえびす祭り自体がなくなってしまったのだが、毎年秋に繊維問屋の人たちが一般客にも商品を開放することを目的の一つとして開催されていて山車を曳く機会があったり、子どもながらにまちと関わる機会が多かったかなと思われているという。普段はまちの方と関わらないようなところでも、そうしたイベントでお会いしたり、そのイベントで会った方と現在も繋がっていたりする。2013年のトリエンナーレで境内を舞台に踊ったダンスユニットの方とも現在でも繋がりがあるし、愛知県美術館の館長や学芸員の方とも、この夏に黒部さんが学芸員の資格を取る際に実習でお世話になったそうだ。

【エリアマネージメント会社のインターン生として】
振り返ってみれば2020年は大変な年だった。せっかく志を持って入った大学の授業はコロナ渦で全部オンラインになってしまい、全国的に緊急事態宣言が発令されたりした。黒部さんは何かしら自分でもやりたいなという思いから錦二丁目エリアマネジメント会社の名畑氏に相談をしたところ、「錦でもこういう活動あるからオンラインでも良いからやってみない?」とか、「近くだから一緒にやろうよ」と快く引き受けてくれ、エリアマネジメント会社のインターン生としてまちの勉強会の議事録づくりやHPの記録などを作成したりしていた。東京大学都市工学科の村山先生の研究室で行われたワークショップにも参加し、他の大学の人とも触れあう機会もあって、産学連携が錦におけるワードのひとつかなと黒部さんは思っているという。

【錦二丁目での活動】
様々な地域でフィールドワークをされている黒部さんだが、地元錦二丁目での活動としては2021年から続いている名古屋市の環境局とのSDGsの取り組みがある。「400年の歴史が400年の未来へと続いてゆく」ということを提言させていただいたら、参加者が素敵な文章にしてくれた。加えて住民としての提案だったり、実家の書院を開放し、話し合いの場として使ってもらっているという。

【芋人プロジェクト】
また、2022年から錦二丁目では佐藤敦さんたちと〈長者町で芋から焼酎を作ろう〉という『芋人プロジェクト』にも参加されている。これは佐藤さんの『ハチミツプロジェクト』との繋がりで東京銀座のハチミツプロジェクトの方達とも連携して行われているものだ。長者町で育った芋から焼酎を作り、それを飲食店に卸したり、コロナ渦における飲食店支援を兼ねて、また新たな繋がりを紡ぎだそうと活動されているプロジェクトだ。まちに関わっている方の子どもたちも芋を植える時に参加してくれたり、秋の収穫時にもその子どもたちのために鬼饅頭を作るのだそうだ。一緒に芋を植えたり収穫したり、焼酎や鬼饅頭を作ることによって共感力を高めて貰おうという狙いもある。巣鴨や宝塚でも同じようなプロジェクトをされていて、毎年年末にどこの地域が一番大きい芋が獲れたか競う『イモリンピック』が開かれる。2022年は錦二丁目長者町が入勝したという。

【隠岐島、熊本、高千穂でのフィールドワーク】
東京女子大の桑子敏雄先生は島根県の隠岐島にフィールドを持っている方で、黒部さんもフィールド調査について行ったことがある。西郷港の再開発のための立ち退き、再開発による住民の合意形成の話しあいの場だったり、住民の合意形成って凄く難しいのだが、先生のファシリテーションのお手伝いをして実践的に勉強させていただいたり、役所との会議でも書記をさせていただいたそうだ。隠岐島は高校生がどんどん島の外に出て行き、大人になって島に戻って来た時に「うちの島に戻って来た」という帰属意識を高めて貰うための〈桜〉を植えようという主旨の植樹祭が2020年にあって、黒部さんも参加させてもらったとか。2020年と言えばコロナ渦の真っ只中で首都圏は非常事態宣言が出されており、横浜に住む桑子先生は行けなくなってしまったので、名古屋にいた黒部さんひとりだけ頼まれて出席された。これはチャレンジングな経験で、この時の経験があったからハートが強くなったと笑う。まちづくりの仕事は強靭な体力とハートがないとやっていけない仕事だなと、黒部さんはその時に感じたという。黒部さんのフィールドワークは隠岐島に止まらず、熊本や宮崎の千穂町でも地方創生会議に参加させてもらったりもされている。

【東京有楽町アートアーバニズム(YAU)】
有楽町アートアーバニズム(YAU)は、東京大手町・丸の内・有楽町エリアでアートファン層ではない方々とアーティストとの交流の場を提供する。例えば、勉強会やワークショップだったりするそうだ。大学生のうちに地元の地域だけではなく、様々な地域で学習しておきたいという思いから参加させてもらったのだとか。これがきっかけになって卒論も「アートとまちづくり」をテーマにしたという。

【アーバニストキャンプ東京】
東京丸の内で〈都会で人間の再野生化を考えよう〉という主旨の下で主催している取り組み。東京の大丸エリアを社会人の先輩方と議論して、チームで人間の再野生化を目指したプログラムを提案するというものだ。

【官・民・学連携での魅力発信事業】
黒部さんが通っていた東京女子大学は杉並区にあるのだが、近隣の武蔵野市には成蹊大学がある。最寄駅は東京女子大学が西荻窪で、成蹊大学は吉祥寺になるのだが、この二つの大学の学生と各行政と一般企業の方が共同プロジェクトで実際に街を歩いてまちの魅力を発信するマップづくりもされ、このマップはJRや両大学で配布される予定だそうだ。黒部さんのお勧めは東京女子大学の近くにお店を構えるパティスリー『レリアン』だという。

【日本橋】
2023年の10月からは、日本橋エリアで活動する学生団体にも所属し始めた。日本橋横山町は錦二丁目長者町、大阪船場丼池筋と並んで日本三大繊維問屋街と呼ばれていた歴史を持ち、老舗の問屋も根強くあるので錦二丁目と似ているというか、課題が似ている。さらに、母方の祖母が昔京橋で働いており、幼い頃から日本橋の思いで話を聞いていて親近感を持っていたことから日本橋にもフィールドを持つようになったそうだ。300年〜400年の歴史をもつ老舗店舗の方々にヒアリングをしたり、日本橋は今後再開発のエリアに指定されているので、そういう方々は再開発をどう思われていらっしゃるのか、デベロッパーとどういう関係性を築いていらっしゃるのか、生の声を聞いたりされているという。また、日本橋地区の小学校へ出前授業に行って、子どもたちと40年、50年後の未来を考えようという授業を担当させていただいたり、室町一丁目という地区のお祭りでは餅つき大会があったのだが、餅が蒸される間に子ども向けのワークショップを企画し、日本橋の老舗和紙店の商品を使ったランプシェードを作ったりしたそうだ。

【アートマネジメントと地域づくりの関係性】
こうして様々な地域でまちづくりのフィールドワークをされてきた黒部さんだが、東京女子大を卒業するにあたっての卒論は、前述したように黒部さんの原点でもある「アートマネジメントと地域づくりの関係性」をテーマに取り上げた。そもそもなぜ錦二丁目長者町では『あいちトリエンナーレ』はアートプロジェクトになり得たのか? 結論から言えばあいちトリエンナーレはまちづくりを目的とした芸術祭ではなかったということ。現在全国でまちづくりを目的とした芸術祭はあるのだが、愛知県の担当者にインタビューしたところ、「愛知県にはそういう目的はなく、長者町が独自にまちとしてアートプロジェクトを進めて来たんだよ」というお話だったという。日本では1990年代から全国的にアートプロジェクトが勃興して来たのだが、まだそこにはまちづくり的な側面はなく、2010年辺りからまちづくりを目的としたアートプロジェクトが増えて来たそうだ。

【長者町の歴史を振り返ってみると】
東京・大阪に並ぶ日本三大繊維街として70年代は栄えていたが、2000年代初頭のバブル崩壊と共に繊維業が衰退したことでまち自体も衰退して行き、有識者(延藤先生等々)によるまちの再生支援事業が始まった。その時に織物協同組合(原・名古屋長者町組合)を中心にした長者町えびす祭りが立ち上がり、しかしこの時はまだ組合の青年団がまちづくりに参画する機会も少なかったが、2010年のトリエンナーレがきっかけになり、まちと関わる機会を作ったというところがあいちトリエンナーレの特徴かなと黒部さんは思っている。この春には名古屋長者町組合が解散するため、長者町えびす祭りも中止になって山車も組合が管理(保管されているのは黒部さんのご実家の境内)していたので、今度はどこが管理するのだろう? また、本町通りにアーチ状に立っている看板を撤去するのか残すのか? 撤去するにせよ残すにせよ、どこが費用を出し、管理・補修してゆくのか? 議論が続いている。錦二丁目長者町は現在正に変遷期にあるなと感じている。

【長者町のアートプロジェクトと各地域のアートプロジェクト】
そのように2010年から始まった錦二丁目長者町のアートプロジェクトはまちづくりにまで繋がったのだが、2023年にまちを調査してみると伏見駅の青いペインティングもその名残であるにも関わらず風化してしまっている。同じような2010年代に始まったプロジェクトで現在も続いているところを選定して調査したという。別府のアートプロジェクトではたまたま長者町エリアを担当されていた方が現在活動されていたり、名古屋市港区のMAT名古屋にも長者町エリアでアートディレクターをされていた吉田ゆりさんがいらっしゃるのでインタビューをしに行ったそうだ。また、卒論を書いている時期に東京ビエンナーレが開催されていたので、東京ビエンナーレはどんなものだろうと調査をした。大手町エリアにあるペインティングも10年も経つと伏見駅みたいになるのかどうなのか? 関心は尽きない。

*ビエンナーレ=2年に一度催される芸術祭
*トリエンナーレ=3年に一度催される芸術祭
*どちらも定期的に催されるが、恒常的なものではない。

【地域型アートプロジェクト調査】
千葉県松戸市のPARADAISE AIRは、一般社団法人PAIRが運営されているアーティストのレジデンス組織で、PARADAISE AIRのディレクターをされている方が有楽町のアートアーバニズム(YAU)でお世話になっている方で、その方に卒論の話をしたところ「うちにも調査しに来たら?」と言ってくれたという。ここはレジデンス事業を行なっていて、アーティストに空きビルを貸して利活用するというプロジェクトをされている。東京千代田区のアート千代田3331は、現在はもう千代田区との契約が切れて新たなところになっているのだが、一昨年までは千代田区の空き校舎になった中学校を利活用するというレジデンス事業を行なっていらっしゃるところだという。

【まちづくりとアートの関係性〜調査後の結論】
これらの方々に昨年の7月〜10月末まで黒部さんは実際に現地に赴いてヒアリング調査をしてきたそうだ。調査項目としては①地域連携の重要性 ②計画段階で地域連携を主眼にしていたかどうか? ③企画遂行後に地域づくりが発展したかどうか? ①の地域連携の重要性は同じアートプロジェクトと言ってもいろいろな性質を持ったプロジェクトがあって、MAT名古屋や別府などはそもそもまちづくりのためにアートプロジェクトをしている。まちづくりのためにアートを活用している。それに対して東京ビエンナーレやアート千代田3331やPARADAISE AIRはアーティスト支援が主眼にあって、まちづくりはそれを成功させるための必要な要素という立場を取っている。では、あいちトリエンナーレはどうかと言えば、地域連携はそれほど重要視されてなく、あくまでも契機づくり。錦二丁目長者町においては初めにアートを美術館以外のところに展示しようという目的があり、それに適した環境がたまたま長者町にあったから選定されたということだ。それぞれ各地域のアートプロジェクトは趣旨の方向性に相違はあるけれど、どの場合も企画遂行後に地域づくりに発展したのでまちづくりとアートは切っても切れない関係性にあると調査の結果黒部さんは感じている。

【持続可能なアートプロジェクトには何が大事か?】
それでは持続可能なアートプロジェクトとは何か? 持続可能であるべきかどうかは別問題として、調査した上で気づいたことはアーティスト側にとって重要な点と地域にとって重要な点がそれぞれにあり、アーティスト側にとって重要な点はプロジェクトの目的と使命を明確に持って単なるイベントに終わらせない。全国いろいろなアートイベントがあるけれど、単発ではなくしっかりとした目的を持ったものでないとアーティストの方もうやむやになってしまう。芸術祭を開催するという意味においては、必ずしもまちづくりにつながらなくても価値はあると思うが、一般的に街でイベントを行おうという時にも単にアート作品を置くだけでは意味がないかなとは黒部さんは感じているという。活動目的を明確に持つことと、地域と日常的にコミュニケーションを取ることが必要になってくるので、別府でインタビューをした方がおっしゃられていたのは、お祭りやイベントなどのハレの日にもまちには行くけれど、日常からまちの人たちと常にコンタクトを取り続けていると、「ちょっとここ掃除して欲しいんだけど…」みたいな時にも一緒に掃除してくれたり、win-winな関係性を構築してゆくことが重要な点だという。

【アートやアーティストと街の人たちを繋ぐ第三者の役割も大事】
スタッフが働きやすい労働環境も大事で、アート界は職業地位としてそれほど高くないと言う話もあり、継続的に給料を一定額支払い続けることもスタッフの働きやすい環境づくりには欠かせない要素だという。加えてライフステージに応じた福祉面でも一般企業に比べたらまだまだ伸び代があるところなので、そこもアーティスト側にとって重要な点になる。地域側にとって重要な点は、アートそのものを受け入れてゆく地盤を整えてゆくこと。アートプロジェクトとは何なのかと言うことと、その利点を認識すること。自分事としてアートプロジェクトを捉えてゆくこと。錦でもアーティストの方が何かプロジェクトをやりたいという時に、まちの人たちは「アートってなに? 」と言うところがあるので、取っ掛かりを作ってゆく第三者の役割も大事かなと最近黒部さんは思い始めた。そういう点でアーティストと地域との間に立つ第三者の役割として、PARADAISE AIRやMAT名古屋や別府は機能していたという。

【黒部さん個人的な課題意識】
いままで錦をベースにいろいろな地域でフィールドワークをされてきた黒部さんだが、錦で言えば2010年代のコミュニティと現在のそれとは全く異なっている。まちを構成する団体が黒部さんでも追い切れないぐらいにいろいろな団体がいて、それが細分化されている。その中で協力体制は取れているのかなと個人的に純粋な疑問として持っているという。延藤先生は〈地域のゆるやかな連携が大事〉と著書の中に書かれていたが、その連携は現在でも図られているのかなと。いろいろなまちの勉強会やイベントはあるけれど、そういう時にどれくらい連携が保たれているのか? 例えばいろいろなイベントをしていても同じような人しか来なかったら意味がない。いつも来ていない人たちをどう巻き込んで行くかというのは難しい話だけれど、まちづくり協議会やいろいろな団体のそれぞれの存在意義を今一度しっかりと把握しておくことが黒部さんのベースになっている課題意識である。

【黒部さんが考える錦二丁目の課題】
① コミュニティの賑わいづくり
現在でもマルシェとかイベントをたくさんされてはいるが、個人事業主だったり、企業だったり、住民の連携を一層強化して行く必要性があると思っている。その理由としては肌感覚として地域活動に対する住民の関心が薄れていて、地域のイベントを知らないお年寄りがいらっしゃる。それでも住民参加と言うのならば住民参加の意義とは何? 本当に実現出来ているの? と疑問視されているところだという。
② 地域を動かす人材の確保
黒部さんの知人から聞いたこととして、もっとイベント等の時に動かす人が欲しいという声があった。以前のようなゆるやかな連携が失われつつある現在、まちに関わろうとする意思を持っている人自身が減少しているのではないか? 地域づくりをするプロフェッショナルが減少しているとの声も聞くので、今の自分はまだまだそこまで到達してはいないけれど、ゆくゆくは地域づくりを担えるほどの力をつけることをご自分の目標にされているそうだ。
③ 地域経営とコミュニティづくりの両立
地域組織の黒字経営とコミュニティづくり、どちらも大事なのだけれど、どちらかに偏ってもいけないということで、長期的な経営の地盤を整えることと、いまはここにはいない、でも関わっている目に見えない人と人との繋がりが重要だと思っている。経営的     な視点で話すと、一般的にも、その場にいる人たちだけで話が進んでいくような気がするんだけれど、まちにはその場にいる人以外にも大勢の人たちが生活しているので、それらの人たちとの繋がりも大事にしたいと思っている。
④ 豊かな暮らしから離れてしまっているのではないか?
既存の街並みや住民の存在と商業地としての開発。これはビジネス街の錦二丁目ならではの問題観点かなとは思うのだが、建坪率の問題だったり、日照権の確保だったり、室外機の騒音や熱風問題だったり、民法では隣家とは境界線から50cm離れていないと建物は建てられないことになっている。しかし商業地開発を理由にして、それが正当な理由かどうかは別にして守られていない事例もあったり、住民との合意形成を重視していらっしゃるところももちろんあるが、それが必ずしも100%ではないところもある。加えて既存の住民とマンション開発の暮らしの共存。マンション開発は必要なことだと思っていて、今後のマンション開発と既存の住民の暮らしの共生はどちらも大事なものだから、開発段階における事業者と住民の関係性も対立的に描かれがちだけれど、必ずしも対立的である必要はないと思っていて、話し合いの場の提供だったり、着実に合意形成をして行く必要がある。室外機の問題に関しては、調査している大学の人もいるが、夏場は夜中30c゜を肥えていた。そばにある植物も枯れてしまったり、錦二丁目は低炭素モデル地区として選定されているけれど、実際は室外機が出す熱風によって植物も枯れてしまっている現実もある。黒部さんが都市政策に進んだ理由もそこにあって、工学的には当たり前でデーター的には良しとされることでも、実際の暮らしはどうなの? 実際の他者との繋がりはどうなの? というところを学問的にアカデミックな方向性で関わって行きたい…という想いから進路選択に大きく影響したという。
⑤ 歴史・文化の保全
江戸時代からの碁盤割りの街並みは絶対に崩してはいけない。それは何故かと言うと、その街並みがあることによって400年の歴史があったり、動線がある。日本橋の老舗の方々にインタビューすると、やはり街にとって一番大事なのは動線の確保なんだと言われたそうだ。何か建物が建つことによって人の流れが変わる。それによって客足が減って営業が成り立たなくなってしまった店舗もあり、そういう小さな店にも焦点を当てるべきだという声もあったので、街並みや会所の認知度をもっと高めて行かないといけないと思っている。単に旧いものを残せというのではなく、それを活用して行かないといけない。現状は「碁盤目があるよ」と言わなければ「あっ、碁盤目だ」とはわからないかも知れない。でも、まちを歩くだけで「あっ、ここ碁盤目だね、確かに」と体感してもらえるような街になると嬉しいし、そういうような活動を何かしらアイデアだったりをもっと皆さんと共有して行きたいなと黒部さんは夢見ている。また、“会所”という意味を今一度皆さんと共有する機会があればと思っているし、2010年代に盛んだった文化・芸術活動支援も今後立て直して行きたいなとも思っているという。
⑥ わがごととしてまちに携わる仕組みづくり
どうしてわがごととして捉えることが大事なのか? まちに住む人たちの大半が、「自分以外の人が動いてくれているから」と考えがちで、黒部さんも小さな時はそう思っていたそうだ。でも、それでは駄目だ、自分が動いて行くことが大事だと、実体験を通して思ってきた。それをしっかり解ってないと言葉だけが先行してしまい、実態が追いついていないというか乖離が生まれてしまうので、そこの乖離を生まないためにも地域課題の解決を誰が主体的に行うのかという意識を皆が共有することが大事かなと考えているという。他の地域で活動している時、黒部さんはよそ者として活動しているのだが、錦に帰ると自分が生まれ育った場所だという帰属意識はある。でも、他のまちでも我が事として自分が関わって行くことって大事だなと思っていて、例えば日本橋は黒部さんにとって遠い存在だったのだけれど、住民の方に話を聴いたり、学生メンバーの中にも日本橋で育った子もいるのでそういう子たちと肩を並べて話しあってみると、自分とは縁がなかった土地でも自分が関わる以上は我が事として関わって行くということは大事だなと思ったのだそうだ。

【修士課程における三つの柱】
この4月から黒部さんは一橋大学大学院社会学研究科の修士課程に進まれる訳だが、そこでは三つの柱を持っていて、
① 「既存の計画や組織のあり方を再度検証して、あたりまえに良いこととして考えられた事柄を考え直したい。住民参加というワードが免罪符として使われないために、その真の価値を計ることが大事」
② 住民の望ましさと行政や団体の望ましさとは違うのではないか? そこにどれくらいの差があるのか? その差を問いたい。住民の声を聞くことが大事だよという話もあるけれど、その住民とは誰のことを指しているのか? 町内会長だけ? 集められたのがどこかの長だけみたいな事例も錦に限らず一般的によくあることなので、それで本当に「住民の声を聞くこと」になるのかな? と、個人的に検討する事項だと思っている。
③ 地域経営は綺麗事だけではなく大変なこともたくさんあると思うので、持続可能な地域経営の手法を探って行きたい。黒部さんが進む社会科学は「都市工学」がhow(どうやって)という手法を問う学問であれば、「社会科学」はwhy(なんでそんなことが起こったの)を考えてゆく学問だよと次の研究室の堂免先生から教えられていて、でもwhyを知ったからこそhowが生まれる。先に挙げた①②をしっかり基礎堅めしてから、ゆくゆくは地域経営の方にも携わって行きたいという大きな夢を抱いているそうだ。

【修士課程を終えたら、どうする?】
修士課程を終えたら博士過程まで進学することを一番に目指してはいるものの、博士課程に行く前にどこかの企業に勤めるかも知れないし、まちに入るかも知れない。それは未確定要素なのだけれど、遠い将来最終的にはまちを構成する既存組織・地権者・寺社仏閣・個人事業主・行政・一般企業・芸術家・住民等々…。いろいろな機関を繋げる専門家になりたいという大きな夢を高校生の頃から持っているそうだ。

【本日のまとめ】
黒部さんは、錦二丁目長者町に生まれ育ったことは自分にとって一生の宝物だと思っている。6つの課題意識を挙げたけれど、いまの自分があるのは錦に生まれ育ったおかげでもあるので、ビルに囲まれてはいても故郷の景色に変わりがなく、東京に戻っても夕方に夕陽を見たりすれば〈ああ、錦も同じ時間でこんなふうに夕陽に包まれているんだ〉と思い浮かべる空でもある。少しでも地元の力になりたいと思って勉強をして来て、その間もまちの開発はどんどん知らないところで進んで行くし、学生の自分が関われないような事案も数えきれないほどあるので、環境も関わってゆく人も変わってゆく現在、自分はこれからどうしていこうかなというところだそうだ。前述したように将来は現場を大切にして、自分の足で動く研究者になることで錦二丁目長者町をはじめ、日本全国のまちづくりを資する人材となって行きたい。「ひとりが呟き、呟きをキャッチし、みんなが対話することが大事」という延藤先生の言葉があるけれど、それを胸に名畑さんや大先輩たちのようなコーディネーターを目指したいと黒部さんはいう。

※大きな成長は小さな行動を積み重ねること。小さな行事を重ねることで大きな成長に繋がってゆく。
※「もうちょっとで出来るのに」を諦めない。錦の活動に限らず、いままでの活動で全国的な事例で側からみると後少しで出来るけれど…というところで経営が難しいから諦めちゃおうみたいな、あと一歩のところを諦めないことが大事。口で言うのは簡単だけれど、それを実際に行うことが難しいから諦めちゃっているのでしょうが、中途半端な状態のまま空中分解させないことが持続可能なコミュニティには大事だと思っている。
※一緒にまちを育てている人のことを考える。まちはひとりの人間だけでは育たないし、自分がどれだけ考えていても実現は出来ないので、協調力などが必要不可欠。
※やる気。住民の諦めをやる気に変えて、何を目指しているのか方向感を合わせること。
※理由を考えて「なぜ?」の視点を重視して、現行の計画が何故よしとされているのかをしっかり考えることで、気づいたら知らない間にまちが変わってしまったと言っている住民を置き去りにしない。まちが変わってゆくことは大事なこと。新陳代謝も必要だが、久しぶりに帰って来て「このまち変わったね」ではなく「このまち変わってしまったね」にならないように。住民全員が幸せな街になったと実感出来ることは難しいかも知れないけれど、明るい未来に向けて何が出来るのか? 錦二丁目長者町は商業のまちでもあるが、その中にもうちのようにお寺だったり、普通の住民の方や何十年、何百年も事業されている方がいらっしゃるので、そういう方と連携を取って行きたいと思っている。また、新住民の方をどうやって巻き込んで行くかというところも今後の伸び代だと思っている。

この黒部さん自身の「今日のまとめ」を頭韻要約をすると『おもいやり』になる。

ジネンカフェVOL.148レポート

2024-01-30 13:23:56 | Weblog
2024年が明けた。今年は正月早々能登を震源として大地震が襲い、甚大な被害を齎した。被災された方々、生命を落とされた方々、地震そのものではなくても関連死された方々に心よりお悔やみを申し上げたい。無慈悲な自然災害の前では人間の力なんてまるで赤子のように無力だ。しかし、人間には過去のデーターや記憶を積み重ねたデーターから導き出される知識や想像力と、他者の痛みを我が事のように感じられる共感力や呼応力があり、何よりも被害を最小限に食い止めるためにはどうすれば良いのかと考える知恵がある。日本に生まれて住んでいれば地震は避けられないし、南海トラフや東南海トラフ地震もいつ起こってもおかしくないと云われている。今一度地域のハザードマップや家にある備蓄品や災害グッズを確認してみよう。
 さて、1月のジネンカフェVOL.148のゲストは、NPO法人地域福祉サポートちた代表理事・市野恵さん。お話のタイトルは『私の居場所づくりから、想いを形にするお手伝いへ』
さあ、行ってみよう

①自己紹介
【文武両道の子ども時代】
市野恵さんは忍者の里としても有名な三重県伊賀市のご出身。家は、両親だけの小商いゆえに赤ちゃんの頃から保育園に預けられ、幼少期はよく祖父母の家や祖父母の隣家に上がって遊んだ記憶がある。今思えば、孤独な子ども時代を過ごしていたのかもしれないという。床屋さんというところはお寺と並んで江戸時代から地域の社交場でもあり、様々な情報が行き交う場でもある。実家の隣にある床屋さんには情報通のおばちゃんが働いていて、彼女には障害施設に入所している長男がいた。彼が自宅に戻って来るとおばちゃんから「めぐちゃん、遊んだってよ」と言われて一緒に遊ぶ。そんなこともあってか、子どもの頃から障害のある人を分け隔てすることはないそうだ。小学校に上がってからも、市野さんを取り巻く環境は変わらなかったけれど、算盤や習字などの習い事のほか、日曜学校、子ども合唱団やサッカーチームにも入っていた。5,6年生にはガールスカウトに参加していたそうだ。姉の影響もあって、中学ではバレーボール部に入部。めきめきと身長が伸びて高校生時代には身長が177cmもあったので、選抜チームに選出されたそうだ。

【魂を売り渡した気持ち】
高校卒業後は、バレーボール選手としてスカウトされたトヨタで働きながら、退社後にはトヨタスポーツセンターでチームの仲間と汗を流す、二足の草鞋を履くことになった。そんな日々を市野さんご本人は嫌だったという。バレーボールは好きだったが、その情熱は高校で燃え尽きてしまっていて、本当は美大に行きたかったのだ。実際高校での選択科目はすべて美術で、大きなキャンバスに向かい、絵の具を重ね描く油絵に夢中になっていた。しかし、ご両親の反対に遭い、トヨタに就職することになったのだ。ご両親にしてみれば自分達は自営業だし、トヨタなんていう日本を代表するような大企業に娘が就職出来るチャンスがあるのだから、それを逃すことはないと思っていたのだろう。しかし、ご本人は油絵を極めたい気持ちもあり、それが叶わなくても中学校の美術の先生になりたいと思っていたという。当時の思いを市野さんは「魂を売り渡した気持ち」と吐露されておられる。

【骨折、退職、再就職、結婚、子育て、3B体操クラブ】
そんな日々も二年でピリオドが打たれる。元々足首や腰も悪かったが、半月板を剥離骨折してしまったのだ。トヨタを辞めて伊賀市に帰ってきた市野さんは、自動車学校に通ったり、半年くらい叔父さんの土地家屋調査兼設計事務所を手伝い、再就職したINAX上野工場では主に事務仕事をされていたそうだ。それまでバレーボール中心の生活だったので、どんな仕事でも新鮮に感じられ、それに加えてINAX の社風は自由で、何でもやらせてもらえたので面白かったという。職場結婚もあって5年間で退職、その後も会計事務所に勤めたが、お子さんを授かったこともあり、子育てに専念されていたそうだ。しかし、子育てばかりしていては体にも精神衛生的にもよろしくない。市野さんご夫婦は実家の近くのアパートに住みながら、時折子どもを両親に預け、幼稚園の父母会クラブ『3B体操』で健康づくりとコミュニティづくりに勤しんでいたそうだ。

【3B体操と忍ジャーズダンス】
3B体操とは、子どもからお年寄りや障害のある方までを対象に、幅広い世代に親しまれることを目指して作られた体操である。特徴は「ボール」「ベル」「ベルター」の3種類の道具を使って音楽に合わせて体を動かすことにより体が解れ、健康になってゆくというものだ。使う3つの道具の頭文字を取って「3B体操」と名付けられたのだろう。その『3B体操クラブ』で指導されていた先生から、上野観光協会が忍者のコスプレをして踊る『忍ジャーズダンス』のメンバー募集を知らされ、市野さんも応募してメンバーに入ったそうだ。そんなダンスの縁もあって、ヘアーショウモデルとしてランウェイを歩いたことは、いい思い出だったという。

【ご主人の転勤に伴い愛知県へ、そして3B体操の縁からサポートちたへ】
やがてご主人の本社勤務に伴って、平成14年に愛知県知多市に引っ越しをすることになるのだが、生まれ育った伊賀上野を離れることが悲しかったという。引っ越して来た当初は知り合いもなく、成すこともなく市野さん自身も暇で寂しかったが、この頃一番辛かったのは、関西弁が原因で、子どもさんが学校で虐められていたことがわかったことだった。しかし、その環境を変えてくれたのがNPO法人地域福祉サポートちたであった。その当時の事務局長・今井さんとは3B体操を通して繋がりがあり、引っ越して半年後に誘われ、当時の事務所のトイレや階段の掃除、書類の印刷等々を手伝うようになった。スタッフの皆さんとの会話が楽しく、帰りにどこで買い物をしているの? 病院はどこが良いの? そんな情報も欲しかったし、息子のことも聞いて欲しかった。とにかく誰かと喋りたいという思いが強かった。何よりも日常的でたわいのない会話が市野さんには楽しく嬉しかったのだ。

【あなたはここで何がしたいの?】
そんな日々が続いていたある日、当時、サポートちた代表の松下典子さんから「あなたはここで何がしたいの?」と尋ねられたという。市野さんにしてみれば、見知らぬ土地に移って来て、知り合いもなく不安な中で、サポートちたで何かをしたいというよりは、自分の時間を消費出来ればそれで良かったのだ。伊賀にいる時は生まれ育った故郷ということもあって周りから「めぐちゃん」と呼ばれていたのに、知多市に来てからは旦那さんの付属品としての〈市野さんの奥さん〉とか、母親としての〈市野くんのお母さん〉と呼ばれることに違和感を覚えていた。社会と繋がり、社会に貢献して役に立ちたい。それは、個人としての存在価値を求めると同時に、孤独をかき消すためだったかもしれない。松下さんには「ここで子育て中のお母さんたちや自分のような他所から来た人たちも安心して話せる居場所である、あーだこーだと話ができる関係性が作れるようなカフェを作りたい」と答えると、すぐに「応援するわ」と言われ、すぐにカフェ作りがスタートしたという。

【子育て中のママたちのカフェ(居場所)づくり】
NPO・ボランティア情報ひろばの一室には何もなかったので、松下さんがポケットマネーで換気扇を取り付けたり、やかんや冷蔵庫など、ありとあらゆるものをサポートちたに繋がっているNPOや個人に声をかけ集めてくれた。そうして市野さんの主宰する、子育て中のママたちのカフェ(居場所)Ada-coda(あーだ・こーだ)が出来上がった。現在から20年前のことだ。カフェたるもの、コーヒーや紅茶の仕入れから淹れ方の知識が必要だが、見かねたサポートちたのスタッフさんが東浦町にある社会福祉法人愛光園に連絡を取り、ひかりのさとファーム(障害福祉事業)の中島さんに一から教えてもらった。いまもコーヒー豆の仕入れはここからだそうだ。

【非常勤から常勤職員、そして事務局長から代表へ】
『手づくりカフェ Ada-coda』がスタートして間もない頃、サポートちたでは成年後見業務を引き受ける準備が始まり、平成20年4月には成年後見事業がNPO法人化される。これを機に、サポートちたの事務局体制は大きく変わっていく。そんな頃に市野さんは常勤職員になる。その後、サポートちたの代表が、松下さんから岡本さんへ交代する。それに伴い、松下さんに言われるがまま事務局長を引き受けた。7年前に、岡本さんから代表を引継ぎ、市野さんが代表になって7年が過ぎた。

②【NPO法人地域福祉サポートちたって?】
NPO法人地域福祉サポートちたの定款第3条に、〈福祉の心と市民意識をもつ人材を養成する〉ことを目的に掲げる法人である。トップダウンによる政策や誰かの利害に合わせて暮らすのではなく、自分達の住む土地柄や文化などをよく理解し、それを大事にしたいと願う住民の暮らしを、自分達の声をまちづくりに活かしたい。そこに福祉の心をもった市民運動を広げてゆく装置としてサポートちたは作られたという。ここでいう〈福祉〉とは制度上の社会福祉ではなく、広義の地域福祉のことだ。誰もが自分らしく幸せに生きられる権利を持ち、在りたい姿を描いて発信してゆける地域社会。それはしかし黙っていては何も変わらない。幸せも待っていても手には入らない。自らが動き、発信しなければ何も変わらない。それに気がついた人から活動に参加して行きましょう。そうして市民の手によって新しい価値を生み出してゆくのが市民活動だとして、そのお手伝いも含めて、サポートちたの存在意義があるのだと市野さんは言う。

【サポートちたの歴史】
NPO法人地域福祉サポートちたの歴史を辿ると、平成2年の市民互助型在宅福祉サービス団体の設立にさかのぼる。この頃の福祉は措置制度といって、身寄りのないご高齢者や低所得者が対象の時代であって、在宅を支える制度はなかった。そんな時代に、東海市で家事援助のボランティア活動がスタートしたのだ。名古屋市に隣接する東海市、知多市は50〜60年前に人口が倍増している。その社会背景には、中京工業地帯を支える労働力を全国から募り、北海道や東北、北九州などから人が集まっている。当時、単身もしくは夫婦で移り住んだ人たちが親戚縁者のない土地で、地域での暮らしを維持してゆくために作られた互助の仕組み。それがサポートちたの前身だった。だから、半田市で困っている人がいれば半田市の人が支える。例えば、人となりが分からない他人を家に上げ、居室の掃除や冷蔵庫にあるもので食事を作ってもらうことに抵抗感をもつ人も多いだろう。やはり地域の中で知りあいを作り、その人たち同士で助け合って行く。それこそが地域福祉なのだ。東海市で産声を挙げたその理念や組織づくりのノウハウは、NPOのリーダーの意見交換や勉強会によって、知多市・大府市・東浦町・半田市・常滑市…と文字通り知多半島各地へと広がっていった。この動きは、国の介護保険制度導入に向けた先進事例の一つとして取り上げられたと聞いている。ちなみに、この意見交換や勉強会の当初は、NPOリーダーの持ち回りで開催していたが、平成11年に専従職員を雇ったことが中間支援組織としてのサポートちたの始まりでもある。サポートちたの勉強会では、介護保険制度への参入か否か、制度参入ならば、どの法人格が自分達の活動や理念にマッチしているのだろうかと喧々諤々と話し合ったそうだ。平成10年に『特定非営利活動促進法(NPO法)』が施行され、市民による市民のためのまちづくりを大切にする知多半島の多くの団体は、NPO法人格を選択し取得したという。

③【福祉の人材を育てる上で大切なこと】
NPO法人地域福祉サポートちたでは福祉人材を育むために、介護職員初任者研修や強度行動障害支援者養成研修等を行なっている。いわゆるヘルパーさん。自閉症の特性を理解して適切な支援を行うための資格講座なのだが、その担当職員さんに「福祉人材を育てる上で大切なことは何ですか?」と尋ねたところ、「コミュニケーション」という答えが返ってきたそうだ。人が人をサポートするには、そこにコミュニケーションが介在する。その場合のコミュニケーションとは、SOSが発信出来る自己開示力であり、そのSOSを受けて「そうだね。力になれることは何だろうね」と寄り添い、相手を承認する力。それに加えて、支援者が支援を抱え込まないようにすること。プライベートとお節介のさじ加減は難しいが、「自分さえよければ」ではなく、「周りのみんなもよくなるように」という意識を持ってもらいたい。だから、福祉とまちづくりは切っても切れないし、大事にしたいそうだ。

④仕事をしていて…
【初めて会う人と価値観や世界観を共有することが好き】
サポートちたの仕事をしていて、市野さんが一番嬉しいことは、見知らぬ人たちとの出会いにより自分の世界が広がることだという。今日もジネンカフェに招かれて御器所駅に初めて降りたし、初めてお会いする方との話しからその人の価値観を共有している。NPO活動をしている方達の世界観が面白く、それを知ることが好きなのだと市野さんは言う。それに加えて自分を〈利用〉してほしいのだという。例えば数年来、会っていなかった人から突然連絡が来て相談をされたり、話し相手になる。ああ、まだ忘れられていなかったな…と思う。それが嬉しいのだ。忘れられたくないし、誰かの、何かの役に立ちたい。それが市野恵さんの生きる上でのモチベーションになっているのだろう。

【仕事をされていて嬉しかったこと】
対話から生まれる意見から物事が繋がったり、ひらめきが重なったり、それを実際に実行して行くようになったりとか、自分が考えていることが文章化出来たり、そういうことが嬉しかったりするという。

⑤目指しているもの
【サポートちたが目指す地域共生社会】
サポートちたがどんな社会を目指しているのか? 昨年2023年11月11日〜12日に北海道で第10回生活困窮者自立支援全国研究交流大会に参加、その基調講演に奥田知志さんと、北海道の社会福祉法人浦河べてるの家の向谷地生良さんとの対談があった。この会の共同代表をされている奥田知志さんは東八幡キリスト教会の牧師さん。学生時代に釜ヶ崎(現・あいりん地区)で路上生活者や日雇い労働者の支援を経験され、昭和63年に会を発足、平成12年に北九州ホームレス支援機構を立ち上げ、現在も北九州を拠点に活動する認定NPO法人抱樸(ほうぼく)の代表として日本各地を奔走されている。ホームレスとは路上生活者を指すが、何らかのトラブルにより働けなくなり、生活が著しく困難になっている人のことを言う。その中で大切だなと思ったことを市野さんなりにまとめると、制度支援の『生活困窮者自立支援法』では居住と就労が出来ると支援終了となる。それが成果だから、実施主体は支援件数の達成が求められる。だから支援者の目的が支援の終了になってしまうが、本人が抱えるトラブルの根本を解決していなければ振出しに戻るならば、それは、自立とは違うのではないか? 一概に支援と言っても十把一からげではなく、それは、形や大きさが異なった瓶に注ぎ込む液体のようにその形に添わすごとく、その人に応じた支援をして行かなければいけないのだ。「支援って何でしょうね? 支援する人・支援される人ではなく、どちらもその地域に住む人たちですよね? その中で出来ることって何でしょうね?」という奥田知志さんからの投げかけが心に響いているという。

【べてるの家の場合】
べてるの家の向谷地生良さんは、イタリアのように精神病院をなくして精神疾患を抱える人たちが地域で暮らせるように起業され、いろいろな事業を展開されている。お医者さんだけど、まちづくりを目指されている。そこにはアフガニスタンで聴診器を片手に持ちながらも住民の人たちと一緒に井戸を掘ったり、街のインフラを整備に尽力した中村哲さんの哲学に通じるという。「地域に住む人たち全員が生業を持って自分達で暮らして行く力を持たない限り、その地域の生活環境は改善して行かない。そんなふうに地域全体が活性化され、元気になるのが大切なんじゃないかな」と。そして、「大事なことは、病気の有無の健康さではなくて、困った時に困ったと誰かが言い、それを誰かが聞いて一緒に相談し、何かにチャレンジしてその結果を謙虚に受け止め、様々な工夫を凝らしながら出会いや挫折もあるかも知れないけれど、コツコツと正直に人に困ったことだけを言い続けることによって繋がり、地域が徐々に豊かになってゆく」とおっしゃっておられたそうだ。べてるの家では当事者研究ということも行われていて、困り事を書いてテーブルの上に置いて議論するのだとか。困ったことというのは別にその人の責任ではなく、何らかの要因でそうせざるを得ない状況に追い込まれてしまった面(社会)もあるならば、皆の困り事として皆で検討する。最近では健常者が何も言えなくて抱え込んでしまって自ら生命を絶ってしまったり、適応障害になる若者が増えている。それならこのようなカフェに来て誰かに話したら解決はできなくても気持ちは幾分なりとも楽になる。実はそれもジネンカフェプロジェクトを始める動機の一部だったりするのだ。

【市野さんが目指しているもの】
市野さんが目指しているもの、それは、前野隆司さんの幸せの4因子を常に心がけている。それによって市野さん自身が幸せを感じられることでもある。①やってみよう=冒険心・好奇心。②なんとかなる=楽観性。③ありのままに=健康。④ありがとう=持続性・柔軟性。しかしながらそれはご自分一人では成し遂げられないことなので、もう少しNPO活動を通していろいろな人たちと繋がって、もう少しだけ頑張りたいと思っているという。

ジネンカフェVOL.147レポート

2024-01-05 20:21:00 | Weblog
師走に入ったというのに、全く師走感が薄い。確かに街にはクリスマスツリーが飾ってあり、煌びやかなイルミネーションが瞬いている。テレビのニュースでも早くも門松が建てられたと話題に取り上げられていた。商店街やデパートなどでは年末セールとか、クリスマスセールなども始まっているに違いない。しかし、気候は寒い日と暖かい日が三、四日周期で繰り返している。どうも調子が狂う。まるで春先か初冬のようだ。気候に文句をつけても仕方がない。世界的にも大旱魃が起きている地域もあれば、大洪水で甚大な被害が出ている地域もある。やはり地球環境はおかしくなっている。人類の叡智を結集して元通りの環境に戻せないものだろうか? 愚痴をこぼしても仕方がない。さて、今月のジネンカフェVOL.147のゲストは、愛知県の南知多町に拠点を置く一般社団法人onenessの理事で、就労支援継続B型「うらら」の職員・山本和弘さん。山本さんは「うらら」で職員をする傍ら、毎朝すぐ目の前の内海海岸の清掃作業をボランティアでされている。その時に熊手で砂浜に大きな砂絵を描かれ、砂絵師ジャッカルの二つ名も持っている方だ。お話のタイトルは『日本人としての矜持』

【就労支援継続B型「うらら」について】
山本さんが職員をされている南知多町の就労支援継続B型「うらら」には、18歳〜68歳までの障害のある方々が働いている。4年前に山本さんが職員になられた頃は12.3名だったが、現在17名と増えたそうだ。仕事は農作業、地域の公園や海岸、公衆トイレの清掃、野菜のパッキング作業(農家さんが収穫した野菜を袋に詰めて、値札とか産地が書かれたシールを貼り、それを業者さんに運んでもらい、名古屋やいろいろなところのイオン15店舗ほどに出してもらっている)、お菓子の袋(海老せんべい・ポン菓子)のシール貼りをされている。

【映画監督とボクサーに憧れて】
山本さんのご出身は兵庫県。19歳の時に『プラトーン』や『7月4日に生まれて』のオリバー・ストーン監督に憧れた山本青年は、映画監督になるべく上京し、助監督をしていたそうだ。助監督というと言葉の響きは良いが、監督の助手なのでつまるところ雑用係である。理不尽なことばかりで、映画の仕事に時間はないに等しく早朝から深夜までとか、あれやこれやと頼まれたことをいろいろなところに出向いて訊いてきたり、そんな雑用をこなしていた。ただ、『ロッキー』にも憧れてプロボクサーにもなりたかった山本さんは22歳の時に映画監督への道に見切りをつけ、日本のプロボクシングジムの中でも日本チャンピオンを一番輩出している角海老宝石ボクシングジムの門を叩いたのだった。

【チャンピオンにはなれなかったけれど…】
ただ、山本さんはあまり運動神経が良い方ではなく、トレーナーに「お前は絶対にプロにはなれない」と言われたとか。それでも続けて25歳の時にプロとしてリングに立つことができた。それから29歳までプロボクサーとしてリングに立ち続け、成績は8戦して4勝4敗。プロになる前に練習としてアマのリングにも上ったのだが、10戦して5勝5敗。つまりアマ・プロ併せて18戦して9勝9敗のイーブン。夢見ていたチャンピオンにはなれなかったけれど、夢を追い続けた7年間はやり遂げた感があって楽しかったという。

【ボクサー時代に身についた掃除の習慣】
日本のボクシングジムには専属のトレーナーがいて、そのトレーナーが所属しているボクサーの練習を見るという方式のところが多いが、欧米ではジムはただ練習の場所を提供するだけで、トレーナーは各選手との契約で来ていることが多い。だから契約しているボクサー以外には教えない。角海老宝石ボクシングジムは日本では珍しくその欧米方式を取り入れたところだった。山本さんもジムに通い始めて最初の三ヶ月は一人でサンドバッグを叩いて練習をしていたが、やがていかにも弱そうな人を教えているトレーナーに「すみませんけれど、僕にも教えて欲しいんですけど…」と頼みに行ったら「あんた、誰?」と言われてしまった。以前にもその人と話したことがあるのだが、憶えてくれていなかったらしい。改めて名乗ったら「教えても良いけれど、先ずは掃除からだ。ジムに来たら掃除しろ」と言われたという。野球でもそうだけれどイチローや大谷とか一流の選手は、バットとかグローブなど自分の商売道具を粗末にはしないし、手入れも怠らない。それらの一流選手が言うには道具にも魂があって大切にしていると、自分がミスショットをしたなと思ってもバットの方からボールに当たりに行ってくれ、良い結果が出ることがあるそうだ。それと同じで「ジムに来たら先ずは掃除をして、終わる時も道具を大事にして磨いて拭かなければボクシングは教えん」と言われて、それから自分でも掃除をするようになったという。掃除をするのはそのトレーナーが教えている人だけで、他の人たちはしていなかった。それが良かったのかボクサーを引退してからも仕事の空いた時間に職場の掃除をしたりして、後々掃除の大切さを痛感することになるのだが、ボクサー時代にそういった習慣が身についたのだ。

【会社員時代は働くことに生き甲斐を感じられなかった】
プロボクサーを引退した山本さんは建設会社に就職して、30歳の時に名古屋へと転勤になった。飛び込みのりフォームの営業である。それなりに成績も上げてお金は入ってくるけれどボクサー時代のような夢も希望もなく、ビジネスの交流会などにも出たりもしたが、それが悪いとは言わないけれど仕事をもらうための関係というか、人間関係があまり深くないような感じで違和感を覚えていた。自分の仕事は他人に喜んでもらうよりも、どちらかと言えば営業で成績を上げる方を優先してしまい、営業なのでお客様は大事にはするけれど契約を取らないと怒られるし、そのプレッシャーたるや半端なものではなかったという。それでちょっと成績が良くて会社で褒められても、世間に出ればただの人間だし、ノルマを達成したら次のノルマが課せられるような感じ。山本さんはそこに働くことの生き甲斐を感じられず、収入はあっても全然楽しくなかった。
【福祉の世界への転機】
そんな山本さんに転機が訪れる。35歳の時、ある福祉施設から「放課後ディサービスに来ている子どもたちにボクシングを教えてほしい」という依頼が来た。それまで福祉には全然興味がなかったが、これが山本さんが福祉の世界に入るきっかけになったのだ。放課後ディサービスに来ている子どもたちとはいっても様々なタイプの子がいて、乱暴な子や悪さをする子もいる。だからボクシングで躾をして欲しいと頼まれ、二週間に一度の割合で7年ほど続けていたという。教えていると子どもたちが変わってくるのが分かり、その頃に教えていた言うことを聞かなかった子も現在では働いていて、たまに連絡が来て一緒にご飯を食べに行くこともあるそうだ。そうして障害をもつ子どもにボクシングを教えて行く中で、山本さんは健常児に教えるのとは違って丁寧にゆっくり繰り返して教えて行けば上達はするし、〈分かりやすく〉と言うことを学ばせてもらったという。粗暴な子だけではなく真面目な子でも自分に自信を持てなかった子が自信を持ってくれたりした。そこから山本さんは標準に合わせるのではなく教える方のレベルを下げて、一個一個丁寧にゆっくり時間をかけて教えてゆくことが大切だと気がついたのだ。それと〈若いから〉〈子どもだから〉〈障害もあるから〉と礼儀を教えられていなかったり、タメ語で話したり、靴も揃えて置いていなかったりする。家族から教えられている子もいれば、放課後ディ施設の職員さんも〈子どもだし、障害もあるからそれぐらいは許してあげよう〉という空気感を漂わせている。でも、レッスンを始める前にそれをしっかり気をつけてやり、先ずは人間同志の礼儀として挨拶することを教えたという。挨拶は対人関係の基本で、これが礼儀として出来ていればどこに行っても可愛がられたりするのだ。そのような指導のおかげかその放課後ディの中ではボクシングのクラスは人気が殺到してきて、最初は数名だったのが二十名近くになったという。

【onenessの理事長・磯部和美さんと出会う】
それがきっかけで〈素人に形だけミット打ちを体験してもらう〉ことをやっている時に、たまたま半田でもやってくれないかという依頼があり、一般の主婦の方や高齢の方とか、その参加者の中に一般社団法人onenessの理事長・磯部和美さんもいたのだ。磯部さんからも「うちの施設でもやってほしい」と頼まれて、42,3歳の時にonenessの施設に行って、その後度々頼まれて行くことになった。

【あらゆることが上の人から懇願されることを引き受けると運が開ける】
そうこうしているうちに今度は磯部さんから「職員になってくれないか?」という誘いがあった。生活の拠点を名古屋に置いていた山本さんは断り続けていたのだが、onenessにもいろいろなことがあり、以前から知り合いのもう一人の理事の石井計義さんからも頼まれたこともあって、人生の先輩で経験も仕事もあらゆることが上の人から懇願されることを引き受けると運が開けるということを経営の勉強をしている時にいろいろな方から聞いていたので、自分の人生を考えた時に都会での生活も東京や名古屋でもう十分楽しんできたし、営業の仕事もお客様のためとはいえ所詮は営業成績を上げるためにして来たこと。ここら辺で人のためになる人生を選んでみようと思い、45歳の時にonenessが運営する就労支援継続B型施設「うらら」の職員になり、南知多町に引っ越して来たのだった。

【人の縁や地域の活動が自分の生活を心豊かにしてゆく】
山本さんは、本当にそれで運がより良くなられたという。Onenessの活動だけではなく、4年前から石井計義さんに誘われて「絆の会」という地域のまちおこし活動の防災部に所属して活動をしているそうなのだが、そのおかげで地域の人から信頼されたり、頼まれごとをされたりして、人から喜ばれる場が増えて豊かな生活をさせてもらえているとか。

【ゴミ拾いと人の縁】
それと名古屋で経営の勉強をしている時に、イエローハットの社長・鍵山秀三郎さんが唱えて60年以上も実践してきた「掃除を通して、世の中から心の荒みをなくしていきたい」という理念を聞いて山本さんもゴミ拾いをやっていたが、気持ちが良いという。現在は海岸の目の前に住んでいるので道路のゴミ拾いや海岸清掃を毎朝していると、皆さんが注目して下さって新聞に何度も取り上げられたり、地域の活動になったりとか、愛知県から賞をいただいたり、話題になって広がって行って皆が「新聞見たよ」とか「ありがとうございます」と言ってくれて、生きていて嬉しいという。南知多町は人口が4年前は18,900人ほどいたのだが、現在は16,000人ぐらいで、来年には15,000人になるのではないかと言われている。ことほど左様に過疎化が進んでいて、知多半島の美浜にある大学「日本福祉大学」も半田や東海市にもキャンパスがあり、福祉が系統的に学べる社会福祉学部は美浜に残っていたが、それも4 年後には東海市に移され、美浜に残るのはスポーツ学部だけだという。それだけ若い人が減少しているということだろう。山本さんが日本福祉大学の先生と話したところ、やはり大学は都会にないと厳しいらしい。半田や東海市でも危ないとか。そんなこんなで益々南知多町の人口は減っていくけれど、その分人の縁は密になって来ているのではないかと、山本さんは感じている。

【都会と田舎ではゴミ拾いへの関心度が違う】
ゴミ拾いは名古屋でもしていたが、近所の人たちは見ても「ああ、いるな」という程度の関心しか抱かないようだったが、南知多では明らかに関心の度合いが違う。「あの人、やってくれている」とか注目を浴びるようになって「ありがとう」と声をかけられるようになった。都会でも感謝してくれている人はいるだろうけれど話しかけにくいということもあるかも知れない。都会でもゴミを拾っている人や会社はあるけれど、そこで完結してしまって広がりがないのが特徴的だろうか。ひとりで始めた山本さんの海岸清掃は、現在では5〜6名の有志が手伝いに来てくれたり、まちの中のゴミ拾いをする人たちも増えて来たという。まちがちキレイになると治安が良いとか、社会貢献になるとか、まちをキレイにすることで犯罪率が減少した例とかよく報告されている。

【海岸清掃のついでに砂絵アート】
山本さんは海岸清掃のついでに熊手で砂浜をキャンバスに絵を描かれる。題材は魚から動物や昆虫、オードリー・ヘップバーンまで自由自在。アートには関心があっても、自分では描かない筆者には到底真似が出来ないほどの出来栄えである。これも何度も新聞やテレビにも取り上げられているが、きっかけは海岸清掃の時にペットボトルや紙ゴミなどの人工的なゴミは手で拾うものの、どこからともなく流れくる夏場の流木や海藻は熊手で拾い集めている。熊手を使えば砂浜に線が出来るのだ。その線を使って砂絵を描き始めたというわけだ。それが話題を呼んでいろいろなメディアで紹介されるようになり、山本さんは一躍注目をされることになった。南知多町の広報にまで紹介されて、用事で役場へ行くと会う人会う人に挨拶をされるようになり、イベントの相談も受けたりもされている。町に移り住んだばかりの人間に、本当にありがたいことだなあ〜と山本さんは思っている。それもこれも人の縁を大切にしてきた証なのだろう。絵は別に誰かに教えてもらったわけでもなく、小さな頃から既存の絵をなぞって描いていたら上手く描けるようになったという。何事も模倣から入るのが上達する基本だと言われるが、それは真実なのだとその山本さんの逸話を聞いて思った。

【捨てられたものにも魂は宿っている】
ゴミを拾うと運が良くなるとか、心が美しくなるとかいろいろな人から聞くのだが、山本さんが体験的に思うこともある。心が綺麗になるかどうかは目には見えないから正直に言ってわからない。ゴミを拾っているから良い人かどうかは、別だと山本さんは思っている。けれども、ゴミを拾ったら必ずその人に良いことがあると信じているのだ。ゴミと呼ばれるものたちは流木や海藻は別にして、大概が人工物なのである。人に役立つために造られて生まれてきた製品で、それが人のために役立って使い終わった後に捨てられて行くというのは淋しい。日本古来からの神道などでは森羅万象に魂が宿ると言われているが、現代の物理の世界・量子力学でも全ての物質に意思があると言われている。だから人に役立つために生まれて来た製品が使われた後にゴミとしてポイ捨てされるのは、そのものも淋しいし悲しいし、辛いのではないか。人間で例えるならば生きて亡くなった後に野晒しになって誰もその人を供養してくれなかったら、その魂は淋しいと思う。それは物も同じでそのポイ捨てられたゴミを拾って然るべき処分してあげれば、感謝してくれてこの人のために何かしてあげたいと思うのではないか。それがたくさん積み重なって奇跡というか、良いことが起きると山本さんは思っている。それは道端で行き倒れになっている人の魂も同じで、その人の魂自体は悲しいけれど、きちんと供養してあげたり、手を合わすだけでもその魂は恩返ししたいと思うのではないか。そこには悪人も善人も関係がない。誰にでも良いことが起きてくる。だからひとつひとつのものを大事にしてゆきたいと山本さんは思っているのだ。

【些細なことにも幸せを感じて、笑いあって楽しく生きて行こう】
南知多町に引っ越してから、太陽を見て、月を見て、空を見たり、海を見て、山とか自然に囲まれて、その豊かさに一個一個感謝して、「田舎に行ったら飽きるでしょ? 」と言われるのだが、毎日風景は同じようでも違うので飽きないという。田んぼにしても日に日に稲の長さも変わってくるし、森羅万象がそこかしこに息づいているなという感じがして、全然飽きないのだ。日本人は昔から人の縁とか物を大事にしてきた言われているけれど、現代においてはそういうことがなくなって来ているのかなと寂しい気持ちを山本さんは感じている。江戸時代に欧米の圧力に負けて開国した日本だが、その欧米の人々の日記によれば「日本人というのは些細なことにも幸せを感じて、笑いあって楽しく生きている。世界一幸せな民族である」と書かれてある。日常の些細な当たり前の出来事に感謝していたのに、明治時代になって西洋文明が入ってきて上へ上へと、価値が上がることが大事になってきて競争社会とか、経済とか、そういう方面に目が行き出した。それも時代の流れのひとつだから悪くはないけれど、よりよい収入を得てとか、そういうところに幸せを見出す。それもバブルが崩壊してからまた日本人が心の幸せを求める時代になって来ているのかなと、山本さんは感じている。




ジネンカフェVOL.146レポート

2023-12-04 10:33:06 | Weblog
つい先日まで暑かったのに、11月も半ばになってさすがに冷えてきた。しかし、「秋」という季節を素通りして「冬」が来てしまったような感じで、体が戸惑っている。戸惑っているのは人間だけではなく、植物もらしい。世の中がまだ暑かった時期に、TVでどこかの桜が狂い咲きしたと報道していた。あの桜、今どうしているだろう? そして来年の春にはいつも通りに花をつけることができるのだろうか?
 さて、今月のジネンカフェVOL.146のゲストは、錦二丁目のビルの屋上で養蜂をし、蜂蜜を瓶に詰めて販売したり、近在の飲食店に卸してメニューにしたり、教育機関やイベントで講演をされている他にも、錦二丁目長者町バンドのボーカルだったり、ラジオのFM放送でDJをされたりといろいろな顔を持っているNPO法人マルハチプロジェクトの理事・佐藤敦さん。タイトルは『長者町の…よそ者、若者、ばか者』「よそ者、若者、ばか者」とは故・延藤安弘氏がまち育てのキーパーソンに挙げていた人たちで、佐藤さんはご自分のことをそんなふうに思われているのだ。生前の延藤先生も佐藤さんのことをそう思われていたらしい。
というのも佐藤さんはもともと長者町の外から来た人で、また、繊維業界の人でもなく、当時は三十代であり、自他共に認める歌舞伎者だったからだ。歌舞伎者とは本来常識とか伝統などに捉えられず、新しい試みや風変わりな衣装で歩く人のことをいう。それに加えて佐藤さんは物事に対する反応が速い。つまりこういう人たちには、停滞しているまちの雰囲気に刺激を与え、活性化させる起爆剤になり得るというのだ。後から述べるようにそれにはリスクも伴うが、得られるものも大きい。前置きが長くなった。では、始まり、始まり…。

【佐藤さんと錦二丁目長者町との出会い】
前述したように佐藤敦さんはもともと錦二丁目の人ではなく、繊維業界の人でもなかった。前職は緑区で広告代理店に勤めていて、独立はしたのだがどこか良い物件が見つかるまでその広告代理店のご好意で企業内企業のような形で3月、4月、5月、6月と置いてもらっていた。物件探しは仕事の傍ら続けていたのだが、小さくても広告代理店なのだから栄を中心に探していたものの、栄には小さなオフィスはなく賃貸料も保証金も高い。とても手が出せない。名駅も同じだろうと思い新栄に行ったり、今池に行ったり、ふらふらしていた。ふと錦三丁目から二丁目に足を運んだところ『長者町繊維街』という看板が目に止まった。「長者町」って知らない人もいるけれど、日本三大繊維問屋街としてそこそこ有名だし、栄や名駅ほどではないけれど、一応住所は「錦」だし、道路一本渡ると札幌のススキノ、博多の中洲と並んで有名な歓楽街として知られた「錦三」で、あちらはネオンキラキラ。こちらはそんなこともないけれど「錦」には変わりない。長者町という音の響きにも少し惹かれていた。2007年の初夏のことだ。

【堀田さんを呼んであげようか?】
そうしてふらっと長者町を歩いていると、当時は現在と異なってシャッター街だったのだが、「ゑびすビルPART3」というビルに目が止まった。ゑびすビルはPART1〜PART3まであり、佐藤さんが目に止めたPART3の1Fには『グルマン』という岐阜のパン屋がお店を出していた。何故だか吸い込まれるように2Fに上がると、そこにはアート系の方が活動されるギャラリースペースがあった。その奥では雑誌などの仕事でモデルさんを撮ったりする有名なカメラマンさんがフォトスタジオを経営されていた。3Fに上がると手前の部屋は空いていて、奥は綺麗な事務所仕様なっておりコンサルタント会社のオフィスが、4Fは古着などを扱う繊維業の方が入っていた。佐藤さんはまず2Fのギャラリーの方に話かける。を聞きに行き、「3Fが空いていますよね? ちょっと見てきて良いですか?」と尋ねると、気さくに「ああ、いいよ、いいよ。見て来なよ」という感じだったようだ。佐藤さんはその3Fの空き部屋が気に入った。今度は3Fの奥の会社を訪ね、自分は何者で、ここが気に入ってお借りしたいんだけれど…などと捲し立てていたら、先方から「堀田さんを呼んであげようか?」と言われたそうだ。「えっ、堀田さん?」「このビルは堀田さんが管理しているから、堀田さんを呼んであげるわ」そんなやりとりがあったが、その時は「またちゃんとご挨拶に来ますから…」ということで、今度は4Fに上がり、古着屋さん相手に自己紹介をして、また「僕、3Fを借りたいんだけど…」と話したら「いいじゃん、いいじゃん、やって、やって」てな感じで歓迎され、「堀田さん、呼んであげるわ」とまたもや堀田さんの名前を出されたので「今日は良いです。堀田さんですよね? 今度ご挨拶に行きます」と言いつつ、再び2Fに戻ってきて「どうだった?」と尋ねられたので「いいよね。ここ。入りたい!」と答えたら「じゃあ、堀田さんを呼ぼうよ」と言われ、「いや、いや、突然だから出直します」と言ったら、「せっかくだからコーヒーをいれてあげるから、飲んできな」「はあ、それじゃあいただきます」「コーヒー飲む時間があるのなら、堀田さんをに連絡してあげるわ」という展開で、その直後に喫茶店当時近くにあったカフェで噂の堀田さんと会うことになったのだ。それは不動産屋さんからの紹介も情報もなくして辿り着いた長者町繊維街でリノベーションされた古いビルでの出来事だった。

【噂の堀田さんとは、なんと誕生日が一緒だった】
当時、堀田勝彦さんは錦二丁目長者町青年会の会長を務めていて、シャッター街になりつつあった長者町をどうにか復活させようと街づくりに取り組んでいた。その日のうちに喫茶店カフェで堀田さんと対面した佐藤さんは自己紹介から始まり、またもや熱い想いを捲し立て、名刺を渡して「メールで契約書を送るから、また送り返して」と言われつつ、携帯番号を教える時に何気なく「下4桁を誕生日に合わせて7288にしました」とポロッと言ったら、堀田さんが驚いて「えっ、8月8日生まれなの? 僕も8月8日が誕生日だよ」と声を挙げ、今度は佐藤さんを驚かせた。「アニキじゃん! 俺、絶対に来る長者町に」という感慨だったという。それが2007年の5月か6月のことである。(34才当時)

【長者町の人たちの想い】
こうして同じ年の7月7日に契約書を交わし、佐藤さんは錦二丁目長者町に拠点を構えることになった。後から聞いた話によれば、繊維問屋が時代とともに廃業して行き、空きビルが増えて来ていた当時、ビルを手放すとその先何が入るのか解らない。つまりどんな街に変化しても不思議ではない。本町通り一本挟んだ向こうは錦三丁目。ネオンが輝く夜の街。通りを一本挟んでいるとは言え繊維街として栄えた長者町が、どう変化していくのかを危惧された街の方々が街を護ろうとしていたのだ。具体的にどうしていたかといえば、街の人たちが費用を出しあって『まちづくりカンパニー』という会社を作っていたのだ。

【歴史ある長者町を守れ!】
長者町の人たちがそこまで神経質になった背景には、苦い前例がをあるからだ。現在では風営法で住宅地や病院や幼稚園、学校などの公的施設の周囲に風俗店は出店出来ないことになっているが、法規制が間に合わず、長者町通りから一本入った道沿いに風俗ビルが出来てしまったことがある。当時は長島通りに幼稚園があり、そのためそのエリア一帯は風俗業界の侵食から護られていたのだが、その幼稚園が廃園するのと同時に錦二丁目のにも風俗店が入ってしまったのだ。法規制される前に。それを見た長者町の人たちは「ヤバい」と思ったのだろう。よく言えば地域を守るとかブランドイメージと言うけれど、下手すれば地価が下がるかも知れない。公的施設で言えば国道19号を挟んで錦一丁目にも二、三年前まで御園小学校があったが、そこも丸の内三丁目にあった名城小学校と統合されてしまった。佐藤さんは仕事柄御園小学校にはよく行っていたが、全校生徒が 50名ほどだったという。それほどまでに子どもの数が激少しているのだ。つまり都心居住ならではの地域コミュニティの難しさである。

【唐突にバンドのボーカルに指名される】
長者町に越してきて一ヶ月経つか経たないかの頃、夜の8時か9時ぐらいに堀田さんから電話がかかって来た。現在と異なって2007年当時の長者町は繊維問屋街の趣きが残っていたので、飲食店舗も少なく夕方の5時頃になると問屋営業しているお店もシャッターを降ろしてしまい通りは暗かったが、夜型人間の佐藤さんは午後から出社して、深夜の24時頃まで事務所にいることが普通だった。佐藤さんの借りていたオフィスは長者町通り沿いに面していたので、窓から灯りが煌々と洩れており、まだオフィスに残っているのは丸わかりだったのだろう。堀田さんの電話は「今青年会のみんなで飲んでいるので、佐藤くんを紹介したいから来れない?」と言うお誘いだった。指定されたお店に行ってみると、そこは錦三のカラオケスナックだった。スタッフが接待するような店ではなく、酒を飲みながらカラオケを楽しむようなお店で、店の中にいる人たち全員が長者町青年会のメンバーなのかどうかも解らないうちに誰かが入れたと思わしきカラオケのイントロが流れてきた。尾崎豊だったか、スピッツだったか、ミスチルだったか…。すると青年会のメンバーからマイクを渡され、まだ席にも着いてないうちから「歌え」と言われたという。そんな無茶振りに当然「えっ?」となるが、空気を読んだ佐藤さんは誰かが入れたかも知れないその曲を何とかワンコーラス歌ったそうだ。すると「はい、長者町バンドのボーカル決定!」と言う声が…。訳がわからず「はっ?」となるが、一曲歌い終わって「こんなもんでよかったですか?」と誰彼ともなく尋ねたら「おい、何言ってるんだ。もうボーカル決定したぞ!」と言われ、再び「はっ?」となったが、「こっちこい、こっちこい」と言われるまま話し込むまれ、よく分からないままボーカリストになることになった。後で分かったことだが、そのスナックにいた長者町青年会(青長会)のメンバーは10名ぐらいで、佐藤さんが歌わされた曲もメンバー以外のお客さんが歌う為の選曲だったとか。

【青長会に入会する】
そんなふうに堀田さんに呼び出され、お店に着いた途端に歌を歌わされ、青長会に入会するとも言ってないのに「バンドのボーカル決定!」だなんて、何のこっちゃ? と思いながらもこの日も何時まで引っ張られたのか憶えていないという。近所付き合いも必要だと思い話を聞いてみると、いろいろと気付かされたそうだ。この人たちは錦三でただ飲み遊んでいるだけではなく、青年会のメンバーと組合のメンバー何人かでまちづくりカンパニーと言う会社を作り、そこで廃業したビルを一棟借りしてリノベーションしいろいろな人たちを募集していたところに何も知らない佐藤さんがフラっと入って来たと言うわけだった。結局佐藤さんは青長会に入会することになる。

【エフェクトの佐藤くん】
それから一ヶ月が経ち、呼ばれたところが錦二丁目内にあった焼肉屋さんだった。初めて会う人もいて、その年の青年会の会長さん・佐織屋の山田さんもその一人。山田さんがはギターを弾いていて、長者町バンドのバンマスだった。山田さんが言うには「この町にも年に一回ゑびす祭と言うお祭りがあり、そこで賑やかしにバンド等々を呼んで盛り上げているんだけれど、地元の俺らがバカやらなあかんだろう」つまりステージの締めをするのが長者町バンドというわけだ。しかし、このバンドにはボーカルがいない。毎年近所のカフェのバイトの子に歌わせたり、錦三のスナックのママさんに歌いに来てもらったり、持ち時間30分あるよと言いながら、いろいろな人に歌ってもらっていたのだ。山田さんは酒を飲まない人なので錦三のスナックにはいらしてなかったのだが、他のバンドのメンバーが何人かいて佐藤さんを即時指名したわけだ。山田さんに会った瞬間「待ってたよ。エフェクトの佐藤くん」と声をかけられたという。〈エフェクト〉とは佐藤さんの会社名で、「エフェクター」とはエレキギターの音を様々に増幅させる機器で、ギタリストの足元に置かれていて、ギタリストはギターの弦を弾きながら足でこの機器を操作して音色を自在に変えているのだ。つまりは効果音である。会社を作る時に音楽好きということもあるのだが、クライアントの要望を自分たちのフィルターを通してデザインをしてゆく。そんな会社を作ったつもりなのだけれど、バンマスの山田さんはギタリストだから「エフェクト」が意味しているところがわかったのだろう。「歌も歌えるらしいから音楽好きなんでしょう?」という感覚で迎えられたのだとか。

【練習するスタジオはエビスビルパート3の目の前】
現在名古屋のバンドマンたちが使っている〈リフレクトスタジオ〉というレンタルスタジオは、もともとは長者町が発祥の地で、佐藤さんの会社が入っているエビスビルの長者町通りを挟んだ目の前に建つビルの息子さんが空いている地下にスタジオ機材を入れて〈スタジオ〉と言い始めたのがそもそもの始まりだったとか。そんな体裁なのでどこにスタジオがあるのかわからない。友達しか借りに来ないし、レンタル料などもスタジオメニューもないから何時間借りようが適当。長者町バンドの方達はそこで練習をしていたのだ。佐藤さんはそんなところにスタジオがあるとは知る由もなく「今度練習するから来いよ」と言われ、「行きます、行きます。どこに行けば良いですか」と尋ねたら「目の前」と言われ、当日会社から歩いて30秒ぐらいのそのスタジオに行ったらミスチルやスピッツ、当時流行っていた曲を突然歌わされてつつ、お祭りバンドの練習は繰り返されていった。

【ゑびす祭り実行委員会】
バンドメンバーから言われたのは「ゑびす祭りの実行委員会の会議に出ろ」佐藤さんはゑびす祭りがどんなお祭りなのか分からないまま実行委員会に出ることになった。織物協働組合ビルの2階の会議室で実行委員会は開かれ、毎年長者町の各飲食店舗から協賛金を募っていたのだが、その協賛金を受け取りに行く分担を決めることになった。当時ゑびす祭りの折込チラシは赤一色で作っていて、表がどこかのバイトの子が描いてくれた絵、裏には長者町の地図が描いてあり、飲食店に番号が振ってあって紹介されていた。その店名を載せるのに飲食店が協賛金を出す仕組みになっていたのである。佐藤さんは長者町に越してきたばかりで、知っている飲食店もランチや夕食を食べに行ったり、飲みに行く数軒に限られているので自ら5軒ばかりの店名を挙げ、協賛金を受け取りに行くことにした。昨年も参加してくれていたお店だからと軽く考えていたそうだ。

【祭りの協賛金を巡って】
お祭りの協賛金に関しては、どこの市町村でも似たようなもので「出す」「出さない」のトラブルはつきものだろう。それは飲食店に限ったことではなく、筆者の住むまちでも一般家庭にお祭りや年末助けあい運動などへの協賛金が回って来たりする。当然「どうして出さなければいけないの?」「あなたもこのまちの住人だから…」「私たちはお祭りに興味がないし、カトリックだから…」「でも、これは決まり事だから…」というトラブルになったりする。これは多様性が叫ばれる現代において地域コミュニティが抱える課題だろうと思うが、長者町の場合はより複雑な背景があった。繊維の街として栄えていた頃から続いている対立構造。その中に繊維業界人でもなければ、飲食業界人でもない佐藤さんは、ただただ戸惑いながらも自分に課せられた役割を果たそうともがいていた。結局、佐藤さんが担当した5軒の飲食店は、ゑびす祭りへの協賛金を例年通り出してくれることになったのだが、繊維問屋と飲食店の溝にハマり苦労したそうだ。他にも赤一色だった手書きのチラシにデザインを施しフルカラーに…。それらが功を奏したのか、佐藤さんはゑびす祭りの実行委員長になり、おまけにあいちトリエンナーレが長者町で開催されるなど一気に地域を担うべき者の一人として巻き込まれることになってゆくのだ。当時を佐藤さんは「よく街に遊んでもらった」と振り返る。街に溶け込むスピードには驚くばかりだが、それにしてもさすがの「馬鹿者発言」

【延藤安弘学外研究室】
丁度その頃だったか、佐藤さんが借りていたビルの2階に入っていた画廊が出て行かれた後に建築家で住民参加のまちづくりをコーディネートなどもされて、日本のみならず世界的に活躍されていた延藤安弘氏の学外研究室が出来た。延藤安弘氏は名古屋市から紹介されて錦二丁目のまちづくりをコーディネートされていて、その人が漸く長者町に拠点を持つということでまちの人たちは大いに盛り上がっていたのだ。長者町のビルの構造は表通りから見ると入り口が狭いのに奥が深くなっているという、まるで京都の町屋のような造りになっている。佐藤さんが3階にある自分の会社に行くには1階のパン屋さんの店の中を通り抜け、奥の階段を上ってゆき、2階の延藤安弘氏の研究室を通ってまた階段を上って3階の自分の会社に辿り着くという感じだった。佐藤さんは3階から上の階の人たちがお互いに気を使わず階段を使えるように3階と4階との間に仕切り壁を儲けたが、延藤研究室との間は通り抜けのままだったので、そこに延藤先生が在室していようと不在であろうと毎日のように研究室の中を通り抜けてゆくことには変わりがなかった。延藤先生はもう亡くなられてしまったのだが、当時は愛知産業大学と愛知淑徳大学で教えられており、ゼミの学生さんや院生やNPO法人の事務局スタッフなど若い人たちがいつも出入りしており、夜遅くまで議論をしたり、模型を作ったりしていた。やがて延藤研の若い人たちも佐藤さんもお互いに声をかけあうようになり、佐藤さんもまちづくりに関心を持つようになって行った。と言うか巻き込まれたようだ。

【酔っぱらいの一言で…】
佐藤さんの中でそうして〈まちづくり〉が朧げに根付いて行きつつあった一年ぐらい過ぎた頃、ゑびす祭り実行委員会の会議の後、青年会のメンバー4,5人と会社の前の地下のバーで飲んでいた時、カウンターで飲んでいた一人のおじさんが声をかけて来たという。「佐藤くん、お前らまちづくりだのなんだのって言っているのなら、蜜蜂ぐらい飼えよ」言った方も言われた方も酔っ払いだから、何が何だか訳がわからない。当然佐藤さんの反応は「はっ? 蜜蜂を飼え? なんですか、それ?」となる。その人は東京の帰りだったらしく、銀座のビルの屋上で蜜蜂を育てて採れた蜂蜜を使ってハニーハイボールなどカクテルを作ったりして地域づくりを頑張ってそれを発信している話を聴いてきたのだろう。そのおじさんが言うには、「銀座といえば知らない人はいない東京を代表する街で、そんな銀座がそういう小さなことから頑張ってるんだ。ここは長者町だろ。まちづくりが…とか偉そうなことを言ってるんなら蜜蜂ぐらいやれよ」それを聴いた佐藤さんはすぐに反応した。そのおじさんから〈銀座の蜜蜂〉の話を聞くなり、「俺がやる! 」と意気込んだのである。何故って彼の誕生日が8月8日だからである。翌日同じ誕生日の長者町の兄貴にも養蜂を宣言したことは言うまでもない。
(後日談としてそのBARは佐藤さんが経営する店となる。長者町内で繊維街と飲食店の間のミゾにハマった経験から、飲食店側の立場にも立てる事に魅力を感じたからだとか)

【覚王山ハチミツ】
意気込んだのは良いが、どうやって蜜蜂を育てれば良いものかわからない。ネットで調べたら「養蜂セット」は売っているのだが、届いてもどう飼えば良いのか? 犬猫でもあるまいし。取り敢えず長者町の人々に「養蜂をするから」と言うことを事あるごとに言い回っていた。調べてみたら銀座のビルは20階建てとか高層のビルが多いのに比べ、長者町のビルは精々5,6階建て。そこで蜂を飼ってもし被害でも出したら処分しなければいけなくなる。それも嫌だなと思っていたとか。そんなこんなで「蜂を飼う」決心をした佐藤さんは覚王山の参道の中程にある『メルクル』というチーズとハチミツの店がやっている覚王山蜂蜜の存在を新聞で知る。銀座よりも近いし、覚王山なら毎日でも通えると思った佐藤さんは、ある日の仕事中にそこに行き〈覚王山ハチミツ〉を買って店員に話しかけたという。来店した理由を話すと、店員が「あなたのような人は初めてだわ。見たいという人は多いけれど、その殆どが冷かしで、私たちはその度にお店を閉めて立ち会わなきゃいけなくなるので商売にならないんだわ」「いや、冷やかしではなく、長者町のビルの屋上で蜜蜂を飼いたいので養蜂を教えて欲しいだけなんです」と言うと、「面白いね。オーナーがフランスから帰って来たら電話させます」との言質を取り付けたのだった。『メルクル』ではチーズとハチミツの店だけあり、世界中のチーズやハチミツを取り扱っていて、そのためにオーナーは世界中を飛び回っているのであった。


【養蜂を学ぶために一年間知多半島に通う】
『メルクル』のオーナーから連絡があったのはその数日後のことだった。想いが通じたのかどうかも分からぬまま、呼び出されたのは覚王山ではなく知多半島の小野浦であった。覚王山でも飼っているのだが、そこはマンションのベランダなので教えづらい。そこで佐藤さんは小野浦に通って1年間養蜂について学んだという。そして2010年の春にミツバチの巣箱を4箱、長者町のビルの屋上に設置することになったのだ。2007年7月に長者町に来てからまだ3年未満である。

【知多半島まで遊びに通っていた一年間】
とは言うものの、佐藤さんは養蜂についてはほぼ独学で、週に何度も知多半島までハーレーダビットソンで通って何をしていたかと言うと、オーナーが佐藤さんのハーレーに乗ったり、佐藤さんがジェットスキーをやったことがないと言うと乗せてくれ、運転の仕方を教えてくれたり、免許を取って来いと言われるままジェットスキーの免許を取ってくると3台ある中の一台を譲って貰ったり、よくある海の家の営業を手伝ったり、漁船に乗らされ地元のお手伝いなど、佐藤さんに言わせれば、遊んでいる方が多かったらしい。遊びの感覚と言い切る佐藤さんはココでも馬鹿者ぶりを発揮。そのオーナーは覚王山の『メルクル』の他にも『海のみえるカフェ』を経営しつつ、その二階でフランス人の画家の私設美術館みたいな、お客さんが来たときだけ開けるみたいなことをもされながら、その同じ建物でバイカーやチャリダーのための素泊まりできる民宿のようなことをされている方で、佐藤さんは利用者と共に海の水を何度も何度もバケツに汲んできて(バケツを抱えて足を取られる砂浜を行き来するのは大変)、それを薪が炊かれた鉄板の箱の中に入れて海の水を沸騰させて塩作りの学びまで体験したそうだ。もちろん養蜂も学んだそうだが、それ以上に多くの事を学んでいたようだ。これも遊んでいただけ?

【生物多様性とネオニコチノイド】
2010年の春に蜜蜂の巣箱を4箱から長者町の屋上でスタート。この年は名古屋でCOP10が開催された年でもあり、生物多様性ということで蜜蜂もフィーチャーされ始めた年でもあった。佐藤さんはそんなことは全く知らず、酔っ払いの挑発についつい乗って養蜂を始めるに至った訳なのだが、ミツバチが減少している原因の一つとしてネオニコチノイド系の農薬が挙げられていて、ネオ=新しい、ニコチノイド=ニコチン、ということでニコチン入りの農薬がいけないのではないかと言われている。人体には害はないと言われつつ、ミツバチには影響があるわけで、ミツバチにはニコチンを避ける習性があるけれど、新しいものなのでミツバチにはそれがわからないのだという。なのでそれを浴びてしまったり、農薬を撒いた田圃の水を飲んでしまったりしてどんどんやられてゆく。いずれは崩壊するのではないかと言われているそうだ。

【地球上からミツバチがいなくなったら、人間もその4年後には絶滅する】
人体には害はないと言われつつも、ネオニコチノイド系の農薬は海外ではすでに使われていないという現状があり、それでなくてもニコチンは体に良くないと言われ続けている。煙草を吸っている人が皆肺がんになるかと言えばそんなこともなく、ただ癌になるリスクが一定数高いのも確かである。しかし、日本は民営化されたとはいえ、かつては国が堂々と煙草を販売してきたし、現在でも煙草税を取り続けている。真っ白い米を守るためにネオニコチノイド系の農薬を推奨しているのはJAという実情もあり、生物多様性と言いながらも人間のエゴによって他の生物が駆逐されてゆく現状もある。20世紀最大の知と云われたアインシュタイン博士が「地球上からミツバチがいなくなったら、人間もその4年後には絶滅する」と言ったとか。ミツバチはいろいろな花や農産物の蜜を集めて来ると共に、受粉の手助けをしてくれているのだ。もちろん風や鳥も受粉の手伝ってはいるのだが、確率的に言えばミツバチの方が圧倒的に多いそうだ。つまりミツバチがいなくなるだけで、この世の植物の生態系が成り立たなくなってしまうということなのだ。とは言え本当に4年で人類が絶滅するとは思えないが、自然界においてミツバチが果たす役割はそれぐらい大きいということだろう。がしかし自然界でも人間界でも受粉という使命を世界中で担ってくれているのがミツバチであることの重要性が目に見えないほどに分かりづらい。例えばイチゴ狩りのビニールハウスの中には必ずミツバチの巣箱も置いてあるという。ビニールハウスの中では風も吹かないし、鳥も入って来られない。ミツバチを使って受粉させないと、イチゴが実をつけないからだ。人間がひとつひとつ受粉させてゆくのは効率的ではなく、ミツバチに任せた方がビニールハウスの中を飛び回り、受粉しまくってくれるのだ。とは言えそれが自然界に例えられないしそんな小さな事が…とついつい思ってしまう。

【地域密着型養蜂でいいよね】
そんなこととは知らないまま、長者町のビルの屋上で養蜂を始めた佐藤さんだったが、なぜかCOP10の白鳥会議場に都会でミツバチを飼っている〈銀座ミツバチプロジェクト〉〈名古屋学院大学〉〈マルハチプロジェクト〉と共に、〈長者町ハニカム計画〉も呼ばれたという。名古屋学院は水野先生というまちづくりの教授が飼われていて、佐藤さんと同じタイミングで養蜂を始められたそうだ。名古屋学院が日比野に移った時に、日比野の商店街の活性化に良いのでは? と思って飼い始めたとか。〈マルハチプロジェクト〉は丸の内3丁目に本社ビルがあった三晃社という広告代理店内の屋上で立ち上げたNPO法人。佐藤さんの〈長者町ハチミツ〉も地域の料亭河文やパン屋さんなど飲食店に使って貰ったり、CAFÉやBARでもメニュー展開や小瓶に入れて販売して貰ったりしていたが、さすがに三晃社さんの〈マルハチプロジェクト〉は松坂屋のハチミツ専門店で〈丸の内ハチミツ〉として販売されていたりしていた。佐藤さんは長者町に呼び込む為にも長者町だけで販売したかった。それが地域密着型でいいよねという評価をされることになったのである。ミツバチを飼うことで、養蜂の技術的な勉強はもちろんのこと、地域貢献はハチミツでの話題作りに留まらず、食育や環境教育、さらには見学会に参加される方々の見せる表情に突き動かされるように活動は広がりをみせている。酔っ払いの勢いで始まった養蜂がどこまで広がりを見せるのか佐藤さんは全く予想していなかったようだが、8月8日生まれの直感も馬鹿者の成せる技である。堀田さんにも「いちいち許可取りに来なくてもいいで、大概佐藤くんが思いつくことは間違ってはいないから、何やってもいい。すごい打率でいろいろとやってくれてるから、思いついたら直ぐにやってもいいよ。何でも好きにやりゃぁ」と言われたそうだ。

【長者町ハニカム計画のハニカムってなに?】
佐藤さんがやられている養蜂には〈長者町ハニカム計画〉という名称が付けられている。ハニカムとは正六角形、または正六角柱を隙間なく並べた構造体のことをハニカム構造体と呼ぶのだが、それは蜂の巣の形から来ているのだ。その蜂の巣は何千匹もの蜂が飛んで行って集めて来たものを自らがこねて作っていて、その一つ一つの六角形の中にまた運んできたミツを貯めているのだそうだ。人間からすると目にも見えないほど小さなものを集めて来て必死に作っている。目に見えない小さなものを一匹一匹の蜂が繋がり、連結させることによって蜂の巣は出来ていて、その巣に溜まるのがハチミツなのだ。それを人間の世界に置き換え時に都心のコミュニティが希薄になって行っている現状があり、働いている人は多いけれど住んでいる人が少ない。そうすると近所付き合いがなくなってゆくのだ。それが故に「ここは飲食街じゃない」とか「もうここは繊維街じゃない」とかのいざこざが生まれてくる。錦二丁目界隈の昼間人口は2万人を超えているが、夜間人口は数百人と言われていた。しかもその多くはワンルームマンション。そんな都市部だからこそ、長者町のいろいろな「人々」や「もの」や「事」を紡いで繋がってゆくことによって、ミツバチの世界の蜂蜜以上にように何か重要なものが生まれてくるのではないか…。そんな想いで〈長者町ハニカム計画〉と名付けたという。

(注)
現在はマルハチプロジェクトが長者町ハニカム計画へ合流し一つになりました。
団体名をNPO法人マルハチプロジェクトとして長者町で都市養蜂を続けています。


【長者町のシンボルが消える?】
佐藤さんが所属している『長者町協同組合』も、かつては『織物協同組合』と名乗っていたように長者町はもう繊維の街ではなくなりつつある。組合自体も来年には解散するそうだが、その前に果たさなければいけないことがあるそうだ。長者町のシンボルでもあるアーチ型看板の撤去である。あれは組合の持ち物で管理もしているので、その組合が解散するのだからあの看板も管理者がいなくなるのと同じで、なにぶんにも旧いものなのでもし災害が起きて倒れたり、錆びてボロボロになって車の上に落ちたり、通行人が被害に遭ったりしたら大変な事態になる。そもそも現在の法律では違法建築物なのだ。なので組合が解散する来年の三月までに撤去しなければならないのである。しかし、撤去するにも費用がかかる。それも5基あるので撤去するにも何千万単位の費用が必要となる。組合側はもう撤去する方向性で一致しているけれど、組合に所属していない一般の人たちからは残してほしいという声もあり、先日町内会でアンケートを行ったそうだ。結果的にどうなるのか? 長者町に拠点を持つNPO法人の理事として、このまちに親しみを持つ筆者としては、事態の推移を見守りたいと思う。

【ハチミツを抜く作業は、ハチの立場からすればコソ泥にしか過ぎない】
ビルの屋上で養蜂をするには実際にどうするのかと言えば、蜂の巣箱には九枚の板が入っていて、一枚の板に表裏合わせて二千匹のミツバチが群がっている。つまり一箱に一万匹以上のミツバチが巣を作っているのである。それを一週間に一度、毎週土曜日に一枚ずつ取り出し、ハチミツを取り出してゆく。ハチからすればせっかく目に見えないほど細かい花粉や花のミツを集めて必死にハチミツを溜めているのに、一瞬のうちに抜き去るコソ泥にしか過ぎないのだ。ハチが人の言葉を使えるのなら「何してくれるんだ、お前〜」という感じだろう。冬を越すために自分たちの餌としてハチミツを一生懸命溜めているのに、それをごっそり抜かれたら、「俺たちに死ねということか」と言いたくなるのではないか? 

【ハチが可愛くて仕方がない】
養蜂を始めて最初のうちは必死でそんな余裕もなかったが、現在では近くの公園や花々の植わっているところへ飛んで行き、目には見えないものを必死に持ち帰ることを繰り返しているハチが愛おしく感じられるようになって来た。足に何色の花粉団子を着けて帰ってくるのか?を見ているのはとても楽しい。季節や月毎に持ち帰って来るもの花粉の色も変わってくる。そんなハチの姿を見ていると、楽しくて仕方がないという。そんなミツバチの巣箱の毎週の内検は怠れない。相手は生き物であり状況変化によって対応が変わるからだ。ミツバチだってエサや飲水は必要だし、病気もすれば、害虫も発生する。対応不可能な強敵だってやってくる。心配せずにはいられないと言うのだ。
巣箱の上空を飛び回る無数のツバメ。かわいいし嫌いじゃないが、餌場にされている証拠。
さすがに対応が出来ないがこれも生態系だからと一定の諦めも持ちながら、スズメバチに対しては全力で阻止すべく頑張ってるんだとか。

【ミツバチの世界は過酷】
巣箱の中にいるのは女王蜂1匹と、あとはほとんどが働き蜂と少しのオスバチだ。働き蜂は全部メスなのだが、卵は産まない。卵を産むのはたった1匹の女王蜂だけ。つまり巣の中にいる働き蜂は全て一匹の女王蜂が産んでいるのだ。その数一万匹以上。蜂の寿命は一ヶ月だから、女王は一日平均数百個もの卵を産まなければならない計算になる。ちなみに女王蜂の寿命は3〜4年。巣の中には女王が生んだ卵を格納する箇所、ハチミツを溜めておく箇所、蜂の餌となる花粉を溜めておく箇所と分かれており、巣の下の方には王台と呼ばれる次の女王が生まれて来る特別な箇所があり、蜂の巣の中の世界は一ヶ月周期で世代交代が行われている。新しい女王が生まれると、前の女王は群れの半分を引き連れて新しい巣を求め、その巣を出てゆくそうだ。

【プチ解説】
巣箱内で交尾はしない。
王台から産まれた処女女王蜂は数日後に巣箱から飛び立ち処女飛行を行い空中でオスバチ
との交尾を繰り返す。(オスバチは交尾をしながら次々と死んでゆく)交尾飛行を終えた女王蜂は巣箱に戻り、二度と交尾飛行には出かけない。戻ったその日から毎日数百個の産卵をし続けるが人間や他の生物と違い、一度の交尾飛行だけで3年間産卵を続けるのが女王蜂。つまり、巣箱内のオスバチと交尾する必要がない。巣箱内のオスバチは働かず餌を食べるのみ。毎日散歩に出掛けてナンパ待ち。運良く処女女王蜂の処女飛行と遭遇した瞬間に交尾飛行にチャレンジ(成功すれば即死)。女王蜂の出すフェロモンは超凄いらしい!

【プチ解説その2】
働きバチの卵と女王蜂の卵は同じと言われています。
ハニカム6角形内に産み落とされれば働きバチになる。(産卵できず寿命1ヶ月)
巣の下方に出来る王台に産み落とされれば女王になる。(毎日産卵&寿命は3〜4年)
違いはローヤルゼリー。
王台の中はローヤルゼリーで満たされる為、産まれてきた卵はローヤルゼリーを食べて育つ。→女王蜂になる。寿命が何十倍にもなり産卵しまくり!

これを知った人間がローヤルゼリーは凄い!となり、美容や栄養ドリンクなどに入れてるって事です!!マジでアンチエイジング!!(脱線失礼しました)

【養蜂とは手間ひまのかかる作業である】
養蜂とはそういうことも注意深く観察し、バランス良く制御しながらも、その都度対応しなければならない手間ひまのかかる作業なのだ。作業を怠ると巣の中のバランスが崩れ、ミツバチは激減してゆく。だからこそ毎週暑い夏場は地獄だが、短パンTシャツでは出来ないので防護服を着つつ作業しているのだ。採れるハチミツは、季節ごとに色合いも味も濃度も全然違って来る。極端なことを言えば毎月違っている。それはミツバチが自然界でとって来る花粉とかミツによって変わって来るのだが、一匹の働き蜂が一生のうちに集めて来られるミツの量は、紅茶などを飲む時に使うティー・スプーン1杯分だという。筆者も幼い頃からホットケーキなどにハチミツを垂らしてその味わいを楽しんできた。飲食物を食べたり飲んだりする時「いただきます」と口にするが、それはその食べ物や飲み物を作ってくれた人に対する礼の意味でもあり、「私」のために生命を落とした生き物への感謝の念も含んでいる言葉だという。これからハチミツを口にする時には、養蜂家のご苦労や一生をかけてそのハチミツを運んだ蜂のことを思いつつも、ありがたく味わいたいと思う。

ジネンカフェVOL.145レポート

2023-09-28 11:11:01 | Weblog
今年の夏はちょっと異常だ。9月に入って朝晩は風が涼やかな日があったりもするが、日中は相変わらずの暑さだ。長期予報によれば、このまま11月頃まで暑さが続くらしい。地球温暖化の影響で、この先日本から「春」や「秋」という季節がなくなり、熱帯のような「夏」と極寒の「冬」しか存在しなくなるのではないかという学者もいたりして、それは極端にしてもただでさえ短い「春」と「秋」という快適な季節が更に短くなるのは勘弁してもらいたい。

さて、9月9日に行ったジネンカフェVOL.145は、いつもとは趣を異にファシリテーターにまちの縁側育くみ隊の名畑代表を迎えて、『あなたが生き方を学び、影響を受けた本』ワークショップを行った。要するにブックカフェ、今風に言うならビブリオバトルである。ただ、バトルはしない。参加者の皆さんが生き方を学んだり、影響を与えられた本について紹介しあう。ただそれだけだ。それだけのことなのだが、性別も年代も様々な背景を持った皆さんが、いろいろな分野の本を自分なりに紹介して、それに対して好き勝手に話をしてゆく。そこにその人らしさが出たりして、これぞ正しくインクルージブな世界線であり、多様性の時代に求められていることではないかと手前味噌ながら思うのだ。さて、それではひとりずつ、みて行きましょう。

【大久保康雄―サン・テグジュベリ著『星の王子さま』】
この本は僕が人間関係に関して指針にしている本です。タイトルも挿絵も一見すると児童向けのように思えますけれど、作者のサン・テグジュベリ自身も「これは子ども向けに書いたものではない」と言っているように、とても深い寓話です。砂漠に飛行機で不時着した「ぼく」は、明け方にどこかの星から来た王子さまに「羊の絵を描いて」と声をかけられ、起こされる。聞けばその王子さまの星には彼の他にはバラの花が一輪咲いているだけの、とても小さな星なのだとか。それ以降、「ぼく」と王子さまは友達になり、いろいろと話をするようになり、もちろん喧嘩もした。王子さまは地球に来る前にいろいろな星を周り、様々な大人たちに会ってきたが、星に残してきた一輪のバラの花のことが気になっているようだった。しかし、気位の高い花で王子さまが世話を焼かなければ枯れてしまうというのに、高慢な物言いばかりするので腹が立って、王子さまはその花をひとり残して星を飛び出してきたのだった。やがて王子さまには「ぼく」以外の友達ができた。キツネとヘビである。この二者からいろいろなことを学んだ王子さまは、地球上に群れて咲いているバラの花よりも、たった一輪だけ咲いている王子さまの星のバラの方が美しくて特別な存在なのだと気づく。さよならの言葉を告げに来た王子様にキツネが大切なことを教える。「大切なものは、目には見えない」「君は一度関わりを持ったものには責任を持たなければいけない」これが対人関係における僕の基本になっています。先方から関わりを絶たれるのは仕方がない。けれど、こちらからは縁を断ち切るということは滅多にありませんね。

【山本茜さんー伊藤亜紗著『目の見えない人は世界をどう見ているのか』
今日は生き方を学んだ本をということで、いろいろと子どもの頃から遡って思い出した。私はものの考え方はその人それぞれに見え方があり、そこに優劣はないというふうに捉えていて、そんなふうに考えられるようになったターニングポイントになった本です。この本は目が見えない人にとってものがどう見えているのかを福祉の観点ではなく、美学の観点から捉えている。福祉モデルで「見ること」を〈情報ベース〉と呼んでいて、〈情報ベース〉でみると「目が見えない」ということは、得られる情報量が少ない。だから情報を沢山あげなきゃいけない。というふうに、どちらかが与えなければいけないという感じになってしまう。そうではなく「目が見えない」という立ち位置にいるからこその情報の見え方もあり、その人が立っている(置かれている立場)によって、見え方も違ってくる。そうした〈意味ベース〉でみてみると、世界はもっといろいろなふうに見えるのではないか? 例えば眼が見えない人と『大岡駅』という駅で待ちあわせて駅前を一緒に歩いていたら、その眼が見えない人が「やっぱりここって山になっていて、斜面を降りているんですね」と言ったとか。でも、眼が見えている人(著者)にとっては歩いている道が平面に見えている。そんなふうに眼が見えない人にとっては細かい情報が入っていないので、その空間全体を俯瞰するように地域を捉えている。情報量が少ないからこそ見えていることがあるみたいな。なので優劣ではなくて差異、違うことを面白がる眼差しがあるともっと豊かになれる。図書館のことをやっていた時に、情報ってこういうことだなあ〜と思って。図書館は情報や物語が集まる館なのだけれど、本の並びがその人がどんな立場にいるかによって、その本がどんなテーマの本かが変わったりする。意味が変わる。そこからあるひとつの分類の棚に並んでいるから全部そのテーマの本ではなくて、そこから「私」がどんな意味を見出すかによって本から受け取るものは変わるのだ。そういうことを理解してアレジメントするのがライブラリアンの仕事。この本によって「情報の捉え直し」をするきっかけになったなと思っています。ここから環世界(虫の視点から見た世界)論に興味が湧いて来て、文化人類学とか違いを楽しむ感性の入り口になったのがこの本です。

環世界=生物がそれぞれ独自の時間・空間として知覚し、主体的に構築した世界のこと。1900年代の初めにドイツの生物学者・ヤーコブ・フォン・ユクスキュルが提唱した。(参考・Google)
例:例えば生き物が生殖活動をする時には、こういう色の餌が自分には必要だと周りをみていて、野原などにいても自分に必要な情報は蝶々と犬では全然違ったりする。世界は一つではない。そんな感じ。

【山本茜さんーレイチェル・カーソン著『センス オブ ワンダー』】
上記の本に関連して、私は大学が保育科で子どもに対してこういう眼差しで接して行きたいと思った本。出てくる言葉が「知ることは、感じることの半分も重要ではない」とか、「もしあなた自身が自然への知識をほんの少ししか持ってないと感じていたとしても、親として子どもに沢山のことをしてあげることが出来ます。例えば子どもと一緒に空を見上げてみましょう。そこには夕焼けや黄昏の美しさがあり、流れる雲、夜空に瞬く星があります。子どもと一緒に風の音を聞くことが出来ます。それが森を吹き渡るゴォー、ゴォーという声であろうと、家の庇やアパートの角のヒューヒューという風のコーラスであろうと、そうした音に耳を傾けてゆくうちに、あなたの心は不思議と解き放たれてゆくでしょう」子どもを前にすると何か豊かな自然、知識を教えてあげないといけないのではないかと思うんだけれど、そんなことは全然重要ではなくて、「ああ、空が綺麗だね」と言って一緒に見上るだけ。そうしたセンス・オブ・ワンダー。美しいものに驚く、目を見張る感性があることが先ず大事だということは、インパクトを与えられた。当時は大学生だったので、自分が子どもをもつのかわからなかったけれど、子どもに接する仕事に就く時も、自分としてもこうして生きて行きたいと思っていたし、子どもをもった時にもまたそのことを思い出していました。私がいま住んでいるところは都心部なので森林が豊かでもないけれど、蟻は地を這っているではないですか…みたいな感じで。

【加藤博子さんー監修 斎藤孝 絵 川原瑞丸『ふわふわとちくちく』】
プラスの言葉ってありますよね? ポジティブな言葉とか、言い換えたら気持ちを引き上げてくれるような言葉。そういう言い換え言葉の本って、いまいっぱい出ていますね。マザーテレサに「言葉が変わると習慣も変わって性格も変わって人生も変わる」という言葉もありますが、ある時お友達から「孫からこんなことを言われたの」と教えてくれました。お孫さんから「バァバ、それはねチクチク言葉だから言わないで。ふわふわ言葉にして」と言われたそうな。お友達は初めて聞く「チクチク言葉・ふわふわ言葉」という言葉に「それ、なあに?」と尋ねたら「この本で勉強した」と3歳児に言われたとか。『にほんごであそぼ』の監修をされている斎藤孝さんの著作で、それを聞いた時「なんだ、それ」となった。保育園・幼稚園の先生たちの研修でよく「ポジティブな言葉を使おう」と言うのは聴くんだけれど、こういう感性の日本語で子どもから大人が学ぶということは素敵なことだと思って。出たばかりの本なので、まだ知られてはいないんですけどね。これを午前中の研修に使いました。あなたはどちらを使っている? って。言葉選び絵本、ちょっと躾的要素もあるのかも。「ふわふわ言葉は相手の心が元気になったり、楽しくなったりする言葉。あなたもきっと笑顔になるよ。だけどチクチク言葉は相手の心が痛くなったり、切なくなったりする言葉。あなたをきっとしょんぼりとさせちゃうよ」大人も言葉使いが悪いことがあるじゃないですか? 「マジ?」とか「ウソ?」「やばい!」保育の世界では禁句になっているんですが、感性でこうして子どもから学ぶと、「チクチク」と「ふわふわ」それだけで何も難しいことは要らない。子どもから学ぶことってとても多いということで、これが世界に広がったらすごく幸せな気分になれるし、幸せな世界になっていくのではないかと思って、一押しの本です。殊に[チクチク言葉をふわふわに変えてみようよ]というページがあり、1人の子どもがピンク色をした象を描いた時にそれを「変なの?」と言うより「面白いね」と表現した方が肯定的な言葉になり、つまりはチクチクからふわふわへと変換されたことにもなるわけ。多様性とか、みんな一緒ではないとダメとか、そうした偏見についても「こんな見方もあるよね」ということを気づかせてくれる1ページで、このページが一番好きです。自分の周り全てがふわふわだと幸せだろうなぁ〜と思っています。

【名畑惠さんー西加奈子著『くもをさがす』】
出版されたばかりの本なんですけれど、もともと西加奈子さんの小説が大好きで、愛と優しさで溢れてるんです。ヒットした作品だと『i』とか『漁港の肉子ちゃん』とか個性的な小説を書いている人なんですけど、すごく個性豊かなキャラクターがいろいろ小説の中に出てきて、様々な人たちが細やかな日常の中で描かれているんだけど、どの人も優しさで溢れているわけ。この人の小説を読む度に大泣きしている。作家に興味があるというか、どういう生活をしていればこんなに人間愛に溢れた人になれるんだろう? みたいに思っていたところ、初めて自分のことを書いたエッセイが出たんですよ。最近カナダに移住されたんだけれど、カナダで乳がんになってしまった。しかもコロナ禍という状況の中で、自分自身が苦しい日常を送っている。そのものを書いているんです。それで初めてこの人の私生活がわかったというか、こういう生き方をしていたんだとわかって、何がお得かと言うとこの本の中に、この人が読んでいる本の引用が沢山出てきたり、今の現状を支えてくれたセリフや音楽も出てくるんですけど、それが日記のように書かれていて、まるでこの人の脳内を覗いている感覚になるんです。なるほどね…と思うんだけど、最後にその引用文献がズラリと載っていて、全部買いたくなってしまう。そう思わせてくれるお得さがあって、最後の方は1年間分泣いたのではないかと思うほど大号泣したんだけれど、いろいろな作品の中で登場人物を肯定してきたこの人が、初めて自分のことを肯定した文章なんですよ。乳がんになって、患部を切り取って全て失ってしまったけれど、現在の自分一番カッコいいなという自己肯定を思考の中から編み出してゆくんです。この本の帯には「カナダでがんになった。あなたにこれを読んでほしいと思った」と書かれていて、買う時は「ふう〜ん」と思って読み始めるんだけど、最後の方になると「これ、私のために書いてくれたんだ」と思わせられるの。それに気づいた時に、もう号泣。小説もそうなんだけど、ポットキャストでお悩み相談みたいなこともされていて、VOGUEでも各界の注目の著名人を呼んで読者のお悩み相談をしているコーナーがあって、その中に西加奈子さんも呼ばれていて何回かやっているんですけど、多分がんになる前だと思うんですが、「人間関係に悩んでいます」とか「仕事と何かの両立に悩んでいます」とか、本当に細やかな読者投稿なんだけれど、それに対する返答が深すぎて、優しすぎて「あんた、よくやってるよ」と肯定してからの「この本を読むといいよ」という処方箋になる本を一冊、二冊を紹介してくれるの。これ以上のお悩み相談コーナーもないなと思うぐらい。この人の人間性はどうなっているの? と思っていたら、間もなくがんになって、この本だから…。なんかねえ〜、尊敬しています。

【一柳三知代さんー神沢利子著 林明子 挿絵『いってらっしゃい、いってきます』】
チラシにはいままで生きてきた中で糧になった本を紹介して下さいとなっていましたが、私が本を読み始めたのは高校生の頃の図書館だったので、その頃に感銘を受けた本が家にあったり、なかったりしますので、お話会などで年に一度お薦めの本を紹介して下さいと言われることがあって、その時の一番最後に紹介するのがこの絵本です。保育園の送り迎えの時を描いているんだけど、視点がナオちゃんという子どもの視点になっていて、送り迎えの時に子どもがこういうような状態で子どもがいるんだということを忘れないでいようとか、
そういうことを思うようにしています。でも、現役のママの時はそれが出来てなかったので、いま若いママさんたちにお伝えしています。

【一柳三知代さんー山本悦子著『神様のパッチワーク』】
これは児童書なんですけど、山本悦子さんという半田市在住の元小学校教諭で『宿題忘れました』とか『感想文が書けません』など、いろいろな児童書を出している方。この本の内容は特別養子縁組のお話なんです。児童書というものは子どもの目線で書かれているものと捉えるとわかりやすいんだけど、子どもの目線で特別養子縁組のことで学校の中で虐めが
あり、それに対して子どもがどう応えているかとか、そういう視点で描かれている本。大きい字だから直ぐに読めるんですけど、絵が佐藤真紀子さん。私この人の絵が好きで、あさのあつこさんの『バッテリー』とかの表紙の絵を描いている方で、今度このふたりの講演会があるからそれを楽しみにしているんだけど、ちょうど山本さんとのコンビの本が出たから買ったんです。この中に先ほどの「ふわふわ」と「チクチク」言葉のことも今風の若者言葉として出てきて、ああ、やはりこの人は学校の先生だったんだなあ〜と思って。でも、いつも思うんだけど、学校の先生が作家になるのは、自分が現役の先生の時にやれなかったことを作品の中で昇華しているのかなって?

【宮崎貴文さんー井崎英典著『教養としてのコーヒー』】
個人的にコーヒーが好きなのでこういう本を選んだんですけど、この著者自身がバリスタで猿田彦珈琲のオーナーでもある方で、コーヒーの歴史からビジネスに至るまでが描いてある専門書のような本です。珈琲ビシネスにどうやって関わって行けば良いのかとか、平成のコーヒーブームの話や深煎りとか浅煎りの違いとか、抽出方法とか、珈琲好きにはたまらない一冊。本当にコーヒーを楽しむためには、どのような器具を揃えれば良いのかとか、その豆が採れる産地(国)とか。一番興味深いのは外国でのコーヒーの歴史や、日本に伝わってからの変遷とか書いてあるところです。この本を読みながら昔家族でハワイに行った時、ハワイにはアイスコーヒーがなくて面食らったことを思い出していました。

【宮崎貴文さん―ファンキー末吉著『大陸ロック漂流記』】
本自体はもう捨てちゃったんですけど、爆風スランプのドラマーの方が人気絶頂期にバンドを解散させて、友人の鍼治療に便乗する形で中国に渡るのですが、そこで「黒豹」というグループの音楽に出会って、どっぷりハマって現在も中国にいられるとか。もう随分昔に買った本で、タイトルを見て「漂流記」って何だ? と思ってジャケ買いしたら結構面白かったです。

【大久保康雄―チャールズ・M.・シェルツ著 谷川俊太郎訳『スヌーピーの幸せはあたたかい子犬』】
主催者自身がルール違反をしてしまって申し訳ないのですが、僕はこの絵本を本当は読んでないのです。この絵本は延藤先生の幻燈会で知ったのですが、僕の人生を変えてくれた本なので、紹介させてもらおうかと思います。そもそも延藤先生と出会ったのも、一宮の宮前ひろばづくりWSがきっかけでした。当時人にやさしいまちづくり連続講座から派生した、オリジナル紙芝居をあちらこちらで披露しながら「心のバリアフリー活動」をしていた僕は、その仲間の坪井俊和さんに誘われて尾張一宮の宮前ひろばづくりWSに参加したのです。そのWSのコーディネーターをされていたのが、当時千葉大学の教授だった延藤先生で、その初っ端に見せられたのがこの絵本の幻燈でした。まちづくりのWSなのに、スヌーピーとその仲間たちが幸せについて哲学している。しかもバリバリの関西弁で…。現在ならわかるのですが、当時の僕は「なんやろ? このおっちゃんは?」と疑問ばかりが頭の中に渦巻いて、でも後々坪井さんに誘われるまま、そのおっちゃんのまち育てを広めるべくNPOの理事になり、ジネンカフェを続けているのですから、僕の人生を変えた一冊と言っても過言ではないのです。

【山本茜さんークラウス文 センダック絵『あなはほるもの おっこちるとこ』】
この前名畑さんにセンダックで大好きな絵本があるからと話していたんですけど、そもそも私は絵本を勉強したくて大学に行ったんです。私が行った大学に絵本を専攻している先生がいたんですね。その人に学びたくて大学に入り、児童図書館員になるぞみたいな構想で、保育士になる気はなかったんですよ。保育士になりたくない学生は私ぐらいで、でも保育士の資格は取ったんです。その時に子どもへの眼差しとか、考え方とか、文化の考え方がセンダックは素晴らしいと思っていて、大好きなんです。ユーモアを持って子どもたちが物事を捉えることを描いているんだけど、「マッシュポテトは誰でも好きで食べられるもの」
「顔はいろんな顔をするためにあるの」「犬は人を舐める動物」「手は繋ぐためにあるの」「手は僕にやらせてと上に挙げるためにあるの」「あなはほるもの」「地面はお庭を作るためにあるの」「草は地面の上にあって、下に土が付いていて、クローバーが混ざっているもの」「穴の中に何か隠すことできるよ」「こんにちはと言って握手をすることをパーティーという」「パーティーはちいちゃい子どもたちを喜ばせるためにある」「抱き合うために腕があるのよ」「親指はひょこひょこ動かすもの」「耳はピクピク動かすもの」「どろんこは飛び込んで、滑り込んで、ほっころりんのシャンシャンとやるところ」「お城は砂場で作るもの」「あなは入って座るとこ」「夜は眺めているといろんなものが見えることを夢って言うんだよ」子どもたち自身の瑞々しい言葉で説明してあって、子ども一人一人がいろいろな格好をしていて、変な格好もしていたりもするんだけど、そう言う子どもの姿を大事に思っていて、子どもたちが持っている力は生きるため。苦しいことや辛いことを自分の中で昇華するための力としてファンタジーを心の中に持っている…それを大事にしよう。絵本ってそのためにあるんだな…ということを学んだ。センダックの話を名畑さんとしていて、延藤先生の本棚にもこの本があるのではと思っていたが、ちょっと見つけられなくて紹介したかったんです。






ジネンカフェVOL.144レポート

2023-08-10 09:23:16 | Weblog
こういうことを書くと年代が丸わかりになってしまうのだが、筆者の若い頃森村誠一氏の『人間の証明』という作品が映画化され、作中にも登場する西条八十氏の『麦藁帽子』の一節がCMで流れされていた。

「母さん、ぼくのあの帽子どうしたでせうね? ええ、夏、碓氷から霧積へいくみちで、渓谷へ落としたあの麦藁帽子ですよ」

そう、現在は8月夏の真っ只中。「夏」という季節から連想されるものは幾つもあるが、旧い人間の筆者はその代表格に「麦藁帽子」をイメージしてしまう。でも、吉田拓郎氏も歌ったように最近では「麦藁帽子」をかぶった子ども達を見掛けない。風鈴の音も聞こえて来ないし、蚊取り線香特有のあのにおいも漂って来ない。聞こえてくるのは今を生命の盛りと鳴く蝉の声ばかり。街から季節的な情緒が失くなって久しいが、今月のゲスト・萩平乃愛さんは夏らしい、涼しげな装いで登場して下さった。そう、今月は夏休み企画として学生さんに登場してもらおうと思って、高校生の乃愛さんに白羽の矢を立てさせていただいた。筆者と乃愛さんの出会いについては、ご自身がお話されているのでそちらの方に委ねたい。お話のタイトルは『「生きづらさ」から生きやすい社会へ』

【人を笑顔にすることが好き】
萩平乃愛さんは現在17歳、愛知県立刈谷高等学校の3年生。趣味は映画鑑賞と可愛い服やパフォーマンスを見ること。乃愛さんは小さな頃から人を笑顔にすることが好きだったのだが、最近になって要するにそれは「人の役に立つこと」が好きなんだろうなと気づいたという。

【英語が使いたくて、名大のプロジェクトに参加する】
ディズニーが好きだった乃愛さんは、高校に入学するまで就職するのならディズニーに入社したいと考えていた。でもディズニーはアメリカに本部を置く企業なので英語力も必要だと思い、高校に入学して英語にも力を入れようと決意を固めていた。そんな時に学校から名古屋大学で『英語を用いて地球規模の問題に取り組もう』というプロジェクトの紹介があった。本来そのプロジェクトの肝は〈地球規模の問題を考える〉ことにあったのだろうが、当時の乃愛さんは〈英語を使う〉というところに目が行ってしまい、応募資格が英検2級以上(高校卒業程度)となっていたにも関わらず、とりあえず応募してみたら選考に通り、名古屋大学のプロジェクトに参加することになったのだった。

【自分の視野の狭さを思い知らされる】
そのプロジェクトでは名古屋大学だけではなく、いろいろな大学の教授の社会問題に関する講義があり、提示された問題について各グループで考えてプレゼンテーションをしたり、3カ月程度で社会問題についての研究をしていたという。集まった人たちはそれぞれに社会問題に関心のある人ばかりで、その中にいて乃愛さんはご自分の視野の狭さを思い知らされることになる。また、このプロジェクトに参加して社会問題に関心のある人がこんなにたくさんいるということも知ったし、その問題自体もこれまでとは違って身近に感じられるようになったという。

【乃愛さん、キャリア支援を知る】
乃愛さんのグループはソーラーパネルの設置と、設置する時の環境破壊を含めた地元の人たちとの摩擦をどれだけ軽減して再生可能エネルギーを作り出して行くかという研究をしていた。その一環で環境活動家の方にインタビューをしている時に、たまたま偶然子どものキャリア支援をされている方がいらして、そこで初めて乃愛さんは〈キャリア支援〉というものを知ることになったのだ。

【キャリア支援プログラムにエントリーする】
名大のプロジェクトは1年間で終了したのだが、高校2年生になった乃愛さんは1年前の自分とは違っていろいろな社会問題に目を向けるようになり、もともと自分が好きだった「人を笑顔にしたい」という気持ちもより一層強くなっていたので、それを叶えるためにまた何か活動したいと思っていたところに、名大のプロジェクトの時に知りあった子どものキャリア支援をされている方から声をかけて貰い、キャリア支援プログラムにエントリーしたのであった。

【サービス業は今の自分の気持ちとはちょっと違うな】
最初はディズニーなどのサービス業の仕事について知りたいと思っていたので、サービス業の方々にインタビューを行っていたのだが、人を笑顔にする点やサービス業にも興味はあったものの、何となく自分がやりたいこととはちょっと違うなと感じていた。そんな乃愛さんの戸惑いに気づいたのか、そのキャリア支援の講師の方が「自分のモヤモヤとか気になることとか、自分が助かったらいいな、自分はこういうことがあると助かるなということをテーマに考えてみたら?」というアドバイスをして下さったという。

【みんながそれぞれに生きづらさを持っている】
そうして考えている時に、現在は大分考え方が変わったけれど、自分の最初のポイントは「人を笑顔にしたい」ということだったので、障がいのある方やマイノリティーの方々をお手伝いできることがないかと考えていたのだ。しかし迷いもあった。例えばよく聞くようにバスの中で高齢者と思しき人に座席を譲ろうとしたら、その人のことを返って高齢者としてみていることになり、失礼になってしまうのではないか? そういうどうすれば良いのかわからないモヤモヤを解決できるようなことがあると良いなと思って、活動されている方にインタビューをしてゆく中で筆者とも知りあったのだ。それがマイノリティーとか、バリアフリーとか、乃愛さんが最近考えている「みんながそれぞれに生きづらさを抱えているな」と思うきっかけにもなったという。

【自分の生きづらさにも気づき、他者の生きづらさをも感じる】
「みんながそれぞれに生きづらさを抱えている」と気づきを得たのには、もう一つのきっかけがあった。最初はマイノリティーの方々の役に立ちたいと思っていた乃愛さんだったが、キャリア支援プログラムの中には〈自分についても目を向ける〉という題目もあり、そうして行くうちにそれまでご自分の長所でもあり、生きる軸だと思ってきた〈人の役に立ちたい〉という性質は、二律背反で自分を苦しめていることに気付いたという。自分では大丈夫だと思ってきたことでも、学校の先生たちから言われて初めて自分は大丈夫ではなく、苦しかったのだと気付いたのだという。人の役に立ちたい気持ちが強く、自分のことを犠牲にしてまで動いてしまうところがあり、それは多分に家庭環境から影響を受けていたのだろう。人というのは不思議なものだ。どんな環境下にあってもそれが日常的になっていれば至極普通のこと、当たり前のように意識下に刷り込まれる。しかし、一旦それが普通ではない特殊なことなのだと指摘されるや、もう以前のようにその環境が普通のことだとは感じられなくなるものだ。当人にとってどちらが幸せなのか、それは当人にしか解らないことだろう。しかし、筆者は乃愛さんが自分が置かれた特殊な環境に気付けて良かったと思う。前に進めるからだ。その上、名大のプロジェクトやキャリア支援のプログラムによるインタビューにより、悩んでいたり、苦しんでいるのは自分だけではないことも知った。そして同じ悩みや苦しみや生きづらさでも、その人によって度合いが違ったり、大変だと思っていることも違うことも。では、そのそれぞれの悩みや苦しさや生きづらさをどうすれば解決させられるのだろうか? 百人いれば百通りの苦しみや生きづらさがあるから、一律に解決できるものではないだろうが…。

【SNS全盛期だけど繋がりづらい現在の世の中】
乃愛さんは現在のご時世、コロナ禍ということもあって、なかなか人と話しづらいなと感じているそうだ。ジネンカフェのようなそれぞれの生き方を知って、自分の中に多様な視点や価値観を取り入れられる場があれば良いけれど、友達同士では「自分はこんなふうに生きてきました」なんて話し合うことは出来ないと思うし、そういう場がないと自分の価値観しかわからないから、実際には苦しんでいても自分は別に大丈夫だと思って余計に苦しくなってしまうという。それと名大のプロジェクトに参加して思ったことなのだが、SNSが普及してきているからプロジェクトの参加もリモートが多く、グローバルな視点からみると全国や世界各国から参加出来て良いのだが、ネットやSNSをしていない子からすると飛び出しづらいのではないかと思う。乃愛さん自身はたまたま学校で告知があったから参加出来たのだが、それがなかったら名大のプロジェクト自体にも参加していなかっただろうし、スマホも高校生になってから持ち始めたので使い方も解らなかったし、それで何かを調べる発想もなかったという。今思えば中学生の頃は本当に狭い世界で生きてきた感じがして、出ようと思えば出られるとは思うけれど、そこに出るという発想が持ちづらく、方法も限られるので〈出られる人〉と〈出られない人〉がいたりする。SNS全盛期ではあるけれど、現在は返って繋がりづらい社会でもあるなと十代の乃愛さんは思っている。

【ジネンカフェのような「場」があればいいな】
まだ17歳と若い乃愛さんの将来的な夢は、いろいろな人たちの考え方や価値観が共有出来る場があれば、もっと生きやすくなるかなと考えているという。堅苦しい感じではなく、ジネンカフェのように集まって気軽に話せるような「場」。帰り道とかに〈ちょっと楽になったな〉と思えるような「場」が出来ると良いなと思っている。そこで「してあげる」のではなく、自分も「あったらいいなあ」と思っている方なので提供するのではなく、一緒に作れるような「場」。仕事にするのではなく、みんなと一緒に出来たら嬉しいし、それをするには自分もまだ学ぶことも多いと思うので、いろいろと学んで行きたいと思っているという。

ジネンカフェVOL.143レポート

2023-07-19 15:13:54 | Weblog
あ、あ、暑い。まだ7月が始まったばかりだと言うのに、この暑さ。何か年々夏が凶暴化してはいないか? 今年の夏はコロナはもちろん、インフルエンザやヘルパンギーナやRSウイルスなどが流行っている。季節性インフルエンザの流行って冬だけかと思いきや、そうではないらしい。ヘルパンギーナやRSウイルスは子どもに多い病気だが、大人にも感染するので皆様もお気をつけて。さて、今月のゲストは、一般社団法人南知多ユニバーサルビーチプロジェクト理事のはなさん。もちろんこれは本名ではない。本名は高倉詩織さんという。はなというのは以前小劇団に所属していた頃からの愛称で、いまでもそう呼ばれることが多いそうだ。なので、ここでもそう呼ばせてもらおう。タイトルもはなさんらしさ全開で『はなの解体新Show!』とぶっ飛んでいる。さあ、始まり、始まり…。

【実はいいところのお嬢さん?】
はなさんの出身地は大分県の日田市。大分県の北西部に位置しており、福岡と熊本との県境の市である。ご実家は料理屋を営んでいたので、幼い頃から酒どっくりを持ってお客さんにお酌をして周っていたらしい。根っからのサービス精神に溢れていたのだろう。だから当然お客さんからも可愛がられ、両親と過ごす時間よりも周りの大人たちと過ごす時間の方が多かったという。それは現在でも変わらず、おじさんの方が話しやすいとのこと。高倉家にとっては四十数年ぶりに生まれた女の子ということで、何を言っても周りが思い通りにさせてくれて、他人を疑うことを知らない子だった。毎日日替わりでいろいろな人の家に泊まりに行くような、陽気で愛嬌がある子どもでもあったらしい。

【少女から大人の女性への意識的な変貌】
はなさんが4歳の頃、お母さんの実家でもある愛知県に移住することになり、その頃からやっと落ち着いて両親と弟さんと生活するようになったという。弟さんがいて、後に妹さんも生まれるのだが、そんな中で子ども心にも〈キチンとお姉ちゃんらしくしないといけない〉と思い、長女らしい性格になって行った。特にはなさんはお父さんの教えを忠実に守る子で、他人のために動くとか、他人の嫌がることを進んでするとお父さんが褒めてくれたから、歓心を引きたくて周りにあわせるような性格に変わっていったらしい。その頃のエピソードだが、6年生の時に子ども会で「小学1年生の面倒をみなさい」と言われて、同世代の子たちは自分たちだけで遊んでいたのに対し、はなさんだけは「面倒をみなきゃいけない」という意識が先に立ち、下級生たちとずっと過ごしていたそうだ。それが嫌だったとか、自分だけが犠牲になったという感覚ではなく、それはそれで自分で選択したことなので楽しかったという。それはもう「お父さんの歓心を引きたくて」というレベルを越えて、少女から大人の女性に意識的な変貌を遂げつつあったはなさんの責任感の現れではなかったろうか。

【はなさんの意識の中には…】
そのエピソードにおけるはなさんの意識の中には、6歳下の妹さんの存在もあったかも知れない。弟さんの下に生まれた妹さんは、軽度の知的障がいと難聴を持っていた。喋るのもそれほど得意ではなく、独特の世界の中で生きていて、自分には「他人のためになることをしなさい」とか、「他人が嫌がるようなことを進んでしなさい」と厳しかったお父さんも、妹さんに対しては何をしても許すような溺愛ぶりだったという。その妹さんが保育園に入園する前に大府学園(愛光園の施設)へ療育に通っていたので、はなさんも妹さんについて行って一緒にレクリエーションや行事に参加されていたのだ。そこで出会った知的障がいや自閉症の子どもたちとふれあってゆくにつれ、屈託もなく自分を慕ってくれる姿が可愛くて、自分は大人になっても障がいのある子たちと一緒に過ごす人になりたいと思った最初のきっかけであった。

【世間は合わせ鏡みたいなもの】
その想いを持ったまま学生時代を過ごし、福祉の専門学校に進みたいと思っていたが、親から反対されて、保育ならギリギリ療育もできることを調べて保育の専門学校に進み、その頃に小劇団にも入った。その後は就職したり、結婚したり、離婚したりと、ちょっと濃いめの人生を送って来ている。しかし、どのライフステージにおいても、不思議と〈悲しいなあ〜〉とか、〈苦しいなあ〜〉とか、〈どうして自分だけこんな目に…〉と思ったことが一度もないそうだ。周りの人たちによくしてもらったからだという。世間は合わせ鏡みたいなものだと思う。周りの人たちが助けてくれるのは、はなさん自身が周りの人たちを直接的・間接的問わず助けているからではないのだろうか? ご本人が自覚されているかいないのか、定かではないけれど…。

【南知多ユニバーサルビーチプロジェクト設立の経緯 その1】
南知多ユニバーサルビーチプロジェクトを理事長の入山淳さんと立ち上げたのは、そういう過去からの福祉への思いとは直接的な関係はない。友人にサーファーの人がいて、その人から「アダプティブサーフィン」というものがあるとSNSの動画を通して教えられ、「これは凄いなぁ」「面白いなぁ〜」と思ったことがきっかけだった。その投稿主を辿って行ったら、現在はもう現役を退いているのだが、世界で二連覇している内田一音さんという方で、いま思うととんでもない方に声をかけていたんだという感じなのだけれど、はなさんにしてみれば海のアクティビティーを障がいを持っているが故に出来ないことが凄く不思議で、それを出来る方向性で追求されている人がいる。その人の話を聴きたい一心で突っ走って声をかけたのだという。内田さんはそんなはなさんたちの気持ちに応え、現在は兄弟プロジェクトになっているのだが、兵庫県神戸市は『須磨ユニバーサルビーチプロジェクト』の代表・木戸さんと、東海市でカフェを経営されている車いすサーファーのマサさんを紹介してくれたという。

【南知多ユニバーサルビーチプロジェクト設立の経緯 その2】
はなさんが初めて「アダプティブサーフィン」に触れたのは、マサさんの内海で行われている『つるやピースフルカップ』で、この時は知りあいの障がいのある子と一緒に行ったわけだが、その子は5月に脳の病気を発症して車いすの生活になったので、お母さんは毎年5月が来る度に凄く辛かったそうだ。5月は我が子の病気が発覚した月だと思い込んでいて、毎年5月になる度に憂鬱になっていたけれど、その「アダプティブサーフィン」のイベントに来て5月の思い出が幸せなものに変わった。いままで辛かった5月が来るのが楽しみになりましたという話を聞き、凄く感動したそうだ。ただ海に入れたというだけでこんなにいろいろな人が感動出来るんだということで、どうしてもこの活動を続けて行きたいという想いが強くなり、入山さんと一般社団法人南知多ユニバーサルビーチプロジェクトを立ち上げるに至ったのである。

【障がいがあってもなくても一緒に楽しめる方法の追求】
2019年6月26日に第一回目のユニバーサルビーチを行い、いろいろな方の協力を受けつつ活動を続けている。南知多ユニバーサルビーチプロジェクトと名乗るぐらいなので海の活動がメインではあるものの、田んぼや畑の収穫体験やパラスポーツ体験などもされていて、障がいがあってもなくても一緒に楽しめることがモットーなので、出来ないことがあればどうしたら出来るのかとか、その人が楽しく出来る方法を追求されているという。

【はなさんにとって普通のこと】
パラスポーツの体験会をしていると、子どもたちが車いすに触れることで車いすの生活の大変さはもちろん、どういう工夫をして生活しているのかなとか、どんな風にしたらもっと暮らしやすくなるのかなとか、自分で体験して考えてくれる。もし自分がこれから先に障がいが出てきて車いす生活になっても楽しめることがあるよとか、友達や家族が車いすの生活になった時でもいろいろな体験が出来るよということを知っていて、そこから波及して自分達が想像もつかないような、いろいろな可能性を若い人たちが考えるきっかけになればいいなと思い、活動しているとか。先天的に障がいのある人が危ないからやらなくてもいいよと言われて、選択できない狭い世界ではなくもっと可能性があり、はなさんが出来ないことでも出来ることが多いこともあるし、はなさんの方が障がいのある人に助けてもらう場合もある。そんなふうに社会の一員同士として助けたり、助けられたりすることが自然で、はなさんにとっては普通のことなのだと思っていて、ボランティアに来る若い子たちにもそんなふうに伝えているという。

【支援という言葉への違和感の正体】
そんなはなさんは現在障がい児支援の現場で働きながら、これまた障がい児・者支援と呼ばれる団体で活動しているわけだが、ご自身では支援という言葉に違和感を感じているらしい。ご自分では友達がたまたま障がいを持っていたり、車いすを使っているとしか考えられないので、その友達の全てを支えてあげようとは思ってないという。仕事のことで知的に障がいを持つ人に分かりやすく伝えることは大切なことだけれど、もうよい大人なのに子どもに話すような口調で伝えるのはどうかと思い、「それは大人としてどうなんですか?」と怒る時もあり、コンプライアンスの関係で上司から注意されることもあるとか。

【障がい者は社会的弱者か?】
これは筆者も以前経験があるのだが、友人同士の障がいのある人とない人が遊びに行き、カフェとか食べ物屋に入ってオーダーすると、お店によってはレシートを障がいのない人の側に置いてゆくところがある。恐らくそれは障がいのある人とない人が友人同士とは思わずに〈庇護される側〉と〈庇護する側〉という図式で捉えているからで、当人同士の責任ではないものの、中には〈障がいのない人〉にお金を払って貰うのは当然だという〈障がいのある人〉もいるから話は複雑になる。でも、それもこれもその人が悪い訳でもなく、そんなふうに思わせる社会風潮がおかしいのだと思う。学校で行う福祉教室などもはなさんたちの時代は障がいのある人たちのことを〈社会的弱者〉と捉え、〈助けてあげなければいけませんよ〉という言葉が何度も出てきたような気がする。確かに出来ないことも多いけれど、そこだけをクローズアップして障がいのある人たちを〈弱者〉と呼ぶのは如何なものかと、はなさんは思っている。小さな子に優しくするような感覚で障がいのある人にも優しく接しようということなのだろうが、〈優しくしよう〉というところの伝え方が、全てをやってあげようという解釈になってしまっている。それが偏った福祉を生み出す土壌になっているのではないか?

【〈きょうだい児〉のデメリット面ばかり取り上げてどうする?】
はなさんがそういう感覚で〈障がいのある人〉をみられるのは、〈きょうだい児〉だったからで、最近各マスコミが〈きょうだい児〉をクローズアップして、いかにも可哀想なもののように報道しているのを視るに連れ、そんなに〈きょうだい児〉のデメリット面ばかり取り上げてどうするんだと思う。もちろん〈きょうだい児〉だから出来なかったこともあるとは思う。南知多ユニバーサルビーチプロジェクトのイベントにも「お姉ちゃんに重度の障がいがあるので、その弟くんは海に来たことがなかった」「海に行きたいとは思っていても、お姉ちゃんのことを考えると言えなかった」「それがこのイベントのおかげで家族揃って海に来ることが出来た」そんな〈きょうだい児〉もいるけれど、それは一つの事象であって、それを可哀想なことのように捉えてしまう周りがいることで、〈きょうだい児〉は可哀想だという流れになる。そうではなく〈きょうだい児〉だからこそのスキルやメリットにも目を向けるべきではないかと、はなさんは思うのだ。例えば〈きょうだい児〉であるが故に言葉が分かるとか、どういうところで困っているのか想像が出来るとか…。「〈きょうだい児〉だから大変だったね」ではなくて、「〈きょうだい児〉なんだ。すごいね。いろいろなことを知ってるね」という流れになる方が自然なのではないかともはなさんは思っている。

【福祉とは何だろう?】
そうは言うものの、改めて「福祉とは何か?」と問われると、答えが見つからない。はなさんも福祉実践教室に行かれるということで、児童や生徒さんに伝える側として学ぶこともあるのだが、皆さんが一応に言われるのは「ふだんの くらしの しあわせ」だとか。確かに福祉という漢字には「福」も「祉」も「しあわせ」という意味がある。誰の幸せかと言えば、誰でもない総ての人たちの幸せを希求する、その取り組みのことを一般的に「福祉」というのだろう。しかしそれを調えるのは行政の話だし、家庭の貧富の問題も出て来るのでそこら辺はフラットにみられないところがあるが、同じような経済状況の家庭では優も劣もないので、男性だろうが女性だろうが、若かろうが高齢だろうが、障がいがあろうがなかろうが得手不得手があるし、自分の得意なところは皆んなに伝えて行けば良いし、不得手なことは出来ないと訴えて助けて貰えば良いし、お互いに支えあう。もっと自然に、呼吸するように「ああ、出来ない」「わかった。やっておくよ」という感じが福祉の理想なのではないか? あとは行政的な部分で足りないところは行政が補ってくれれば…と、はなさんは思っている。

【公共交通機関の割引制度も謙虚な気持ちで…】
その行政的な配慮の部分で過剰になり過ぎてはなさんが不思議に思っているのは、公共交通機関の割引制度だという。割引を受けられるのは障害者手帳を持っていて、その等級が一種(重度)か二種(中程度)の人に限られる。また、各交通機関や地域によっても多少割引率が違ってくるが、不可解なのは鉄道の場合。障がい者が1人で利用する場合乗車距離が100Kmを越えなければ割引(子ども料金)にはならないのに対して、介助者が付き添っている場合はたった1駅の乗車でも割引になるのだ。つまり介助者が付き添っている時は二人で一人分の乗車賃になるということだ。それに比べて地下鉄やバスは、1人で乗車しても例え1区間でも割引(子ども料金)が受けられる。もともとは経済的に不利益を被ることが多い障がい者の外出に関わる負担を軽減し、社会参加の機会を増やすことを目的とした割引き制度なのだが、どうして各公共交通機関によってこんなにバラつきがあるのか? また、鉄道を1人で利用する場合乗車距離が100Kmというのは、何を基準にした数字なのだろう? 筆者も若い頃からよく1人で外出していたので、鉄道(私鉄)は正規の乗車賃で乗り、地下鉄は割引き乗車券で乗っていたが、最近は時々病院に行く時など家族が付き添ってくれることがあり、「いいのかな?」と思いながらも二人で一人分の割引き運賃で乗っている。中には「半額になって得だから…」という感覚の人も多いが、それは先方の配慮であって当たり前のことではないということを当事者の方も分かってくれるといいなと、はなさんは思っている。

【障がい児・者支援界の異端児?】
ここまで読んでこられてはなさんの人柄や福祉観などお分かりいただけたかと思うが、福祉へのご自分の理想と現実とのギャップはあっても、ご自身のやりたいことを貫き通してしまっているので、現場でも異端児扱いされているという。「はなさん、それはダメだよ」と言われることが多いらしい。はなさん曰く「他の人たちの福祉観や支援観が間違っているとは思ってない。誰かにいろいろとやってあげることも大事なことだし、最初にそういう気持ちで入って行くのも否定することはない。でも、障がい者支援は子育てと同じでやり過ぎてしまうと、その人を殺してしまう。何も出来ない人にしてしまうと思うんです。どこかで手を引かなければいけないところはあるので、それをどこまでするかは人それぞれ違って来る。子育てにしても過干渉の親もいれば、放任主義でも全部子どもの自主性に任せるという親や、大事なことだけ口を挟んでくる親もいる。いろいろなタイプの親がいるように、支援者にもいろいろなタイプがいて、それに合う子が当てはまって行けば良いかな。あとは人材が集まると良いですよね。そうすれば障がいのある方達の可能性の部分、自分らしく生きやすくなるのではないかな。選択肢が少ない気がします。施設にしても…」

【よそ者・若者・馬鹿者の発想力を福祉界にも】
かくいう筆者もはなさんと同じような福祉観を持っている。大学で福祉を学んだからといって福祉の道に進まなくても良いと思っていて、その逆に学校で福祉を学んでいない人でも福祉の世界に入って来ても構わないのではないかと思っている。もっとも筆者も系統立てて福祉を学んだ訳でもない。ただ、障がい当事者として感じていることを発信したり、自分を信じたまま市民活動をしているだけの人間なので口幅ったいのだが、まちづくりの世界ではその地域をより良くして行くには、よそ者・若者・馬鹿者の視点や発想力が必要だといわれている。それはどの分野にも言えることで、先入観がなくフラットな視点でその世界をみられる人に関わってもらった方が、その世界がもっと広がり、より良いものになって行くような気がするのだ。

【深淵を覗く者は、その深淵からも覗かれている】
もちろんそれには弊害もあるだろう。例えば現在はなさんは知的に障がいを持つ人たちとカフェで働いているのだが、お客さんから「あなたも大変だね〜。カフェをしながらこの子たちのお守りをしないといけないもんね」と言われるという。はなさんは心の中で「この子たちはお給料を貰ってるんだけどな。だから働けるところは働いて貰うし、そこには優もなく劣もない、私はこの子たちのお守りをしているつもりもないんだけど…」と思いながらも、やはり周りの人はそういう目で見るんだなと感じているという。また、はなさんが掛けられて嫌な言葉に「いいことしてるね」という一言がある。はなさんにしてみれば、「ご覧の通り日焼けして、私も一緒に遊んでますけど…」と思われているとか。電動車いすを使っている筆者も、障がいのない友人と遊びに行くこともある。当人同士は友人だから一緒にいたり、話したり、食事をしたりして楽しんでいるのだが、周りの人からみたら完全に〈介助者〉と〈介助される人〉だよなと笑えてくる時もある。若い頃はそれが気になっていた。しかし、いつの頃からか〈そんなふうにみたい人はそうみればいいや〉と思うようになった。そうなのだ。〈障がいがある者〉〈障がいがない者〉という視点を気にしていたのは、なんていうことはない、自分自身だったのである。ドイツの哲学者ニーチェも言っているではないか。深淵を覗く者は、その深淵からも覗かれていると。考えてみれば当人同士の関係性など、見知らぬ他人が知らないのは当たり前のことなのだ。そんなふうに思えるようになったら、なんだか肩の荷が降りたようで楽になった。筆者も時々街の中で見知らぬ人から「頑張ってるね」と声をかけられることがある。そういう時にはまた来たかと思い、ニッコリ笑って「はい。ありがとうございます」と応えることにしている。声をかけて来てくれた人には罪はない。本当にそう思われていらっしゃるのか、いい人アピールなのかは知らないけれど。

【将来的にはお節介を焼くお婆さんになって、笑いの絶えない居場所を作りたい】
はなさんは南知多ユニバーサルビーチプロジェクトの活動を通じて、いろいろなボランティアの子たちが関わってくれて、福祉の考え方を伝えて行ければ…と思われている。いま来てる子たちははなさんの考え方が面白くて好きだと言ってくれて、他のボランティア団体ではなくうちが一番楽しいと言ってくれる子がいたりして、それははなさん自身の励みにもなるし、そういう子がどんどん増えて行けば良いと思っているそうだ。それにははなさんも若い感覚や感性のまま活動して行けたらと思っている。個人的には小さくて汚い小料理屋をやって、いつも同じ人が居る…みたいな場所を作りたいそうだ。常連さんしか来ないような、行くところがない人しか来ないから癖が強い人しかいないような、そんな小料理屋さんで「あんた、最近野菜食べてないでしょう?」とかお節介を焼くお婆さんになって、笑いの絶えない居場所を作りたいという。

ジネンカフェVOI.141レポート

2023-06-08 09:47:47 | Weblog
長かった…。140回目のジネンカフェを開催したのはいつのことだったろうか? 二年前? 三年前? 季節は確か秋だったような記憶がある。あれから新型コロナウィルスの感染爆発が始まり、いやもう始まっていたのか? とにかくコロナは世界的なパンデミックを起こし、ジネンカフェをも飲み込んで行った。しかし、明けない夜は決してないのだ。いよいよ再開する日が来た。これはこの事業をプロデュースしている私としても素直に嬉しい。やはり私は「人」が好きなんだな、「人の生き方」を聴くことが好きなのだなと改めて思い知らされた年月でもあった。

再開後最初のジネンカフェVOL.141のゲストは、社会福祉法人浜松市社会福祉事業団 浜松市発達医療総合福祉センター 就労継続支援施設「はばたき」施設長の加藤真理子さん。加藤さんは2017年の拡大版にゲストスピーカーのおひとりとしてお招きしており、それ以降も幾度か参加者としてお越し下さっている、いわばジネンカフェのことをよくご存じの方で、再開後最初のゲストさんとして白羽の矢を立てさせていただいた。加藤さんも福祉の大学を卒業後障がい福祉の現場に就められて丁度20年目を迎えられるそうで、ご自身のその半生を振り返る機会にもなるということで快くお引き受けいただいた。お話のタイトルも『障がい福祉の現場や出会いからみえてきたもの〜私が大切にしていきたいこと〜』

【加藤真理子さんとは?】
現在生活の拠点を浜松市に置き、社会福祉法人浜松市社会福祉事業団 浜松市発達医療総合福祉センター 就労継続支援施設「はばたき」施設長兼サービス管理者をされている加藤真理子さんの出身地は、愛知県安城市。日本のデンマークと呼ばれている田園都市である。浜松のその社会福祉法人に就職されてから今年で11年目になるそうで、最初は肢体不自由児の保育士として採用されたのだが、次にケアプランを立てる専事業所に相談支援専門員として配属され、今年の4月から現在の施設へと移動になった。趣味はカフェやマルシェ巡り、ライブに行くこと、人と出会うこと、最近はそれに芸術祭を観に行くことが加わったそうだ。

【浜松市発達医療総合福祉センターって?】
加藤さんのお勤めの社会福祉法人浜松市社会福祉事業団は浜松市の外郭団体で、その中核をなす浜松市発達医療総合福祉センターは、総合福祉センターの前に発達医療という名称が付けられていることからも解るように、センターの中に診療所もある。主に発達障がいの子どもさんが多いそうだが、1歳半検診で「専門的に診てもらった方が良いかな」と診断されたお子さんから中学生までを対象に診ている。加えて加藤さんが最初に勤めていた通園施設である「児童発達支援センター」。リハビリの理学療法士さんや作業療法士さん、言語聴覚士さん、心理士さんなどがいらっしゃる「療育センター」。大人の方の施設では、現在加藤さんが施設長をしていらっしゃる「はばたき」と、知的障がい者の方の生活介護と就労支援B型がひとつになった「多機能型施設」。重度心身障がい者の方の「生活介護施設」があり、その他浜松市内に「親子の通園施設」や、もう一ヶ所の診療所を持つ、かなり多角的に支援を行なっている法人である。

【就労支援施設とは?】
この4月から加藤さんが施設長になられた就労支援施設とはどんなところなのか? 障がい者福祉に明るい方はご存じだと思うが、就労支援施設にはA型とB型がある。一昔前の作業所・授産施設と呼ばれていたところが制度と共に名称が替わっただけなのであるが、就労支援A型とは一般就労に近く利用者さんひとりひとりと雇用契約を結んでいる形の施設であり、B型とはひとりひとりの利用者さんと雇用契約を結んでいない形の施設のことだ。

【就労支援施設はばたきの授産製品 その1「軒花」】
「はばたき」で利用者さんが生み出している製品の数々を紹介する。まずは「軒花」愛知県ではあまり見かけないけれど、お祭りの時に玄関先に飾る和紙製の5本組の花のことをこう呼ぶらしい。この和紙の花を染料で染めて、町内会やお祭りをしている地域の家々に買っていただくのだそうだ。これは平成6年から続いているロングセラー商品で、3本組みと5本組みとあり、1本55円で注文を受け付けているそうだ。多い時はこれが年間7万本から8万本受注があり、利用者さんも残業したり、職員も休日出勤して作っていた。しかし、新型コロナウィルスの蔓延によって受注が7千本台まで落ち込み、それに伴なって工賃も激変したそうだ。この5月からコロナウィルスの区分が2類から5類になり、祭りもあちらこちらで再開されるようになって来ていて、受注もぼつぼつと戻りつつあり、現在は利用者さんひとりずつのペースで作っていただいているとか。「はばたき」の利用者さんは登録されている30名のうち、毎日通われている方が20名から多い時で23名ぐらい。利用回数も週一回の方もいれば、週5回の方もいらっしゃる。また、他の地域活動支援センターと併用されていらっしゃる方もおられるそうだ。

【就労支援施設はばたきの授産製品 その2「陶芸品」】
「はばたき」では陶芸品も作っている。大きいお皿から豆皿の他に、利用者さんの好みに応じて猫が好きな方なら招き猫のようなものとか、箸置きや母の日用のお花を持った猫の陶人形やら、端午の節句の兜など季節に応じて作っている。高次脳障がいで片麻痺の人も片手で作陶し、爪楊枝で模様を付けたり、作る度に模様を変えたりして、ひとつひとつ工夫されておられるそうだ。今年はセンターの祭りも復活し、大河ドラマで『どうする家康』が放送されているということもあるので、この兜も作り続けてゆくという。

【就労支援施設はばたきの授産製品 その3 カフェとマルシェ】
授産製品ではないが「はばたき」ではカフェも営業されていて、週に一度センターで催されるマルシェの時に浜松の隣町・森町で収穫される甘甘娘(トウモロコシ)を仕入れて販売をされている。これが結構な売上になるそうだ。

【大学を卒業後初めて就職したのは…】
加藤真理子さんが保育士の資格もとれる大学の社会福祉学部を卒業され、初めて就職した先は知的障がい者の入所施設だった。ご本人曰く、大学の学部を選ぶ際も「福祉」と言えば高齢者のイメージしか思い浮かばず、どんなところで働きたいかというイメージもあまりなかったのだとか。ただ自分の先入観だけで忌避するのは嫌だなと思っていたので、学生時代に各分野の施設を一通り見学したり、研修に行ったりした。それでも「これだ!」とは決められなかったという。最終的には大学4年生の時に名古屋市で「福祉の仕事総合フェア」という催し物があり、そこで決めようと思って加藤さんも出かけたのだが、一番最初に座ったブースの担当者がやる気がなさそうに「別にうちでなくても良いんだよ」というような言われ方をされたそうだ。それが逆に加藤さんの気持ちに油を注ぐことになった。そのフェアには土曜日に出かけて、1日置いた月曜日の朝一番にその施設に履歴書を出しに行ったとか。そこは多角的な分野の施設を経営されている大きな法人で、あちらこちらに施設が点在していたが、加藤さんは実家からも近い豊田の知的障がい者の入所施設を選択して配属されることになった。とはいえ入所施設ということもあり、宿直などもあったので結局は実家を出て、その施設の近くで生活することにしたそうだ。

【なにも考えずにピンクのジャージで…】
その入所施設は家でケアすることが難しいほどの最重度の知的障がいの方達が入所されている施設で、職員のユニフォームは男性は紺色のジャージで、女性はピンクのジャージだった。入所施設とは言ってももちろん〈喫茶外出〉や〈買い物外出〉など入所者さんが外出する機会もある。そういう時にも付き添って行くのだが、とにかく入所者さんたちから目を離してはいけない。外出自体を早く終わらせたくて着替えることもないまま、施設の外に出て喫茶店とかジャスコ(現在のイオン)に入ってゆく。その頃はお店の従業員さんや他のお客さんは施設から買い物に来ている入所者さんにだけ目を向けているのだろうなと思っていたが、今思ええばそのピンクや紺のジャージを着た自分達も見られていて、「支援する側」「支援される側」という二極構造を図らずも見せてしまっていたのではないかと思っている。当時はなにも考えられず、その施設を辞める直前になって着替える時間を作って行った記憶があるそうだが、最初の頃はとにかく必死だった。福祉の業界に入って来る方達は、誰かの役に立ちたいという想いで入って来る方が多いと思うのだけれど、その頃の加藤さんは社会をよくして行こうとか、変えて行こうとかというよりも、目の前の入所者さんを自分達が見守らなければならないという思いの方が強かったのだ。

【入所施設に疑問を感じて】
それと同時に加藤さんには疑問に思うこともあった。入所施設というところは、入所者さんの生活全般を交代勤務はあるにしても基本的には限られた職員がみることになり、入所者さんにとってはメリハリがないというか、四六時中見られている感じがするのではないか? また、入所者さんは自分達の生活しか知らないわけだから、施設外の人たちの生活と比べてどうなのかと思うことがないのではないか? それはある意味怖い話で、でもそういう生活を作っているのも自分たち職員だよな…。このままで良いのかな…? という思いが加藤さんの中にはあった。しかし、大きな施設の中で一人の職員が状況を変えられるわけでもなく、とりあえず休みの日に別の施設へ見学に行き、よい取り組みを提案しながら違う風を入れてみようと試みたのだが、一、二年目の職員に大したことが出来るはずもなかった。良い取り組みを提案しても否定されることはなかったけれど、自分自身も視野が狭くなって行くように感じて、加藤さんはその法人に入って一年半を過ぎた辺りから嫌悪感が差してきた。そういう施設の有り様も嫌だったし、でもその施設には自分が担当している入所者さんもいるわけで、嫌悪感を感じながらもケアをしているその入所者さんたちに申し訳ない気持ちがして、加藤さんはその施設を二年で辞められたという。

【障がい福祉制度の転換】
その当時、障がい者福祉の制度において画期的な転換があった。措置制度から支援費制度への転換である。それまで障がい者の生活や福祉サービスをお役所が決めていたのだが、それを本人もしくは代理人が決められ、それに対してお役所(国)が支援をするという利用者目線に立った改革だ。それに加えて福祉サービスを提供する側の門戸も広がった。つまりこれまで福祉を業態として来なかった民間企業が、福祉業界に参入してくることになったのである。これには当然メリットもデメリットもあり、トラブルも起きているが、何よりも押しつけられた生活よりも、利用者の選択肢が広がったという意味では評価に値するものがあろう。

【一緒に楽しいことをしているだけでお給料が貰えるなんて最高だな】
豊田の知的障がい者入所施設を退職した加藤さんが、学生時代にスタッフをされていたボランティアグループの繋がりで「職員を募集しているらしいよ」という情報を得て次に就職したのは名古屋の株式会社が運営する地域活動支援センターだった。現在はもうその事業自体が行われていないそうなのだが、小規模作業所などで働いている利用者さんを迎えに行って、入浴と夕食を提供して自宅へと送り届けるイブニングのディサービスをされていたそうだ。そこには7年間働いて、6つの事業を担当させてもらったという。イブニングのディサービス事業の他に、就労移行支援事業、タイムケア事業(現在でいう放課後ディを自主事業として実費でしていた)、ヘルパー、ショートスティ、ケアホームの世話人。それを同時並行的に行なっていたこともあったが、入所施設に比べて自由度が広がり、余暇支援を謳っていた事業所でもあったので、支援を「する側」「される側」という感覚ではなく一緒に楽しんでいる感覚だった。利用者さんと一緒に楽しいことをしているだけなのに、これでお給料を貰えるなんて最高だな〜と加藤さんは思いながら働いていたという。その事業所のスタッフは全員二十代だったので、ほぼ部活感覚だった。夜遅くまで働いて、その後カラオケに行ったりもしていた。自分たちが楽しめないと、利用者さんたちも楽しくないだろうとも思っていたのだ。

【自分自身を高め、深めるための学び】
そこで7年間働くことになるのだが、楽しく働きながらも若さゆえの悩みとかその日の体調など、自分や他のスタッフさんたちを見て、自分たちの状態によって利用者さんに与える影響も変わって来るのではないかなと思ったり、障がい当事者が訓練などを頑張らなければならないというのはどうなのかな? と思い始めたという。当事者が頑張るのではなくて支援者や家族など周りの人々が良好な状況にあれば、障がい当事者も自ずと良好な状態になるのではないか? そうだとすれば他者の支援よりも、自分自身を高めたり、掘り下げて深めてゆくことも大切だろうと考えたのだ。思ったことは即座に行動に移す。それが加藤さんである。その当時名古屋のボラみみが催していたボランティア講座のファシリテーション体験学習プログラムを受講してファシリテーションや、自分で心理学、NLP(神経言語プログラミング)を学び、自分自身の現状把握と、それが場に与える影響について体験学習で学んだという。

【福祉施作が改正されて…】
福祉制度というものは、その時代の社会状況によって見直されて変化して行くものだ。障がい福祉のフィールドもその例外ではなく、その頃は総合福祉法によって支援費もそれまでは湯水のように使えていた時間も国から出るお金も、限られて来るようになった。そう、おそらく日本中を狂想と熱気の渦に巻き込んだバブル景気が弾けた辺りだろう。それで割を食ったのは福祉サービスを提供する側のみならず、利用者さんも同じであった。余暇活動に使えていた時間も支援費も限られて来てしまったのだから…。

【組織に疲れてきて】
国から降りて来るお金が限られて来ると、それまで割と自由に任せてもらえていた事業費も管理されるようになり、事業所内の雰囲気もギクシャクし始めた。また、ここまで10 年間、大きい法人組織が運営する入所施設、それよりは自由な雰囲気の民間の株式会社が運営する地域活動支援センターで働いてきたが、どちらにしても利用者さんに対する支援の悩みはあるにしろ、それにも増して悩ましいのは他のスタッフさんとの意思疎通が計れないところもあり、加藤さんは組織というものに疲れてきていた。組織には属さずに1人で動いた方が良いのかも知れないと思ったりもした。そのために自分に足りない資格を取りに行ったりもしていた。
【起業したいとは思ったものの】
そうして七年半働いたその施設を辞めることになるのだが、加藤さんは支援者支援(親御さんや施設職員へのコンサルタント)をしたいと思い、それに必要な資格を取りに行ったりしたのだが、施設を運営するわけではないのでコンサル料なども自分で設定しなければならない上に、施設に属していない自分が1人で動くと親御さんたちが1割負担ではなく実費を支払わなければならなくなる。どこまで出してくれるのか正直解らなかった。また、施設にコンサルに入ると言っても〈現場経験がありますよ〉だけがウリでは難しいかも知れない。要するに起業したいと思ったものの、自分に自信がなかったという。

【健常児の育ちを経験する】
自分に足りないものは何だろうと考えるうちに、加藤さんは気がついたことがあった。自分は大学を出てから10年間障がいのある子どもたちの育ちを見て、寄り添い、支援をして来たけれど、障がいのない健常児がどんなふうに育つのか、どんな感じでハイハイして、自立してトイレに行けるようになるのか知らない。保育士の資格は持ってはいるものの研修に行った訳でもないからだ。健常児の育ち方を知らないのに、障がい児の育ちを支援するのはろちょっとまずいのではないかと思ったのだ。そこでまたも即行動に移して、名古屋のベビーシッター会社で働くことにした。利用者さんの家を訪ねたり、子どもさんを自分のところに預かる形ではなく、名古屋市が委託している家庭保育室で0才児〜2才児の保育を経験することにしたのだ。そこの施設長には「自分はもともと障がい福祉がやりたいのだけれど云々…」という話は予めしておいて、〈次のところが見つかるまで〉ということを了承してもらって働いていたという。

【次なるステージへの模索】
家庭保育室で働きながらも、加藤さんはなおも障がい福祉の支援者として自分に足りないものは何かを探していた。以前の二つの施設では学齢期の子どもさんから大人の方までを支援することが多かったが、それ以前、自分たちの子どもに障がいがあると解ってから小学校に上がるまでが、親御さんたちが結構悩んできた時期だったりするのだが、自分はある意味そういう悩みを越えてきた親御さんにしか出会ってないので、そこを経験出来るところを探していたという。

【デジャブを感じて】
そういう視点でネットサーフィンをしていた1月のある日、現在の職場である浜松市発達医療総合福祉センターの職員募集の応募要項をみた。2月に書類選考があると書いてあった。加藤さんはその当時卒業された大学の近くに住んでいたので、卒業証明書を直ぐに取りに行き、応募書類を送ったところ、書類審査は通って面接に来て下さいとの返答が返ってきた。浜松という見知らぬ土地に赴くことには、何の躊躇いも逡巡もなかった。面接を受けに行ったところ、「あれ? ここ来たことがある」と感じたそうだ。というのも面接を受けに行ったのは3月だったのだが、その前年の12月にTV番組の『探偵ナイトスクープ』でその施設の近くの公園の遊具が取り上げられていて、大晦日に友人と豊川稲荷へお礼参りに行ったついでに、浜松の公園までその遊具を観に行ったのだ。その際、道が不案内で間違えて入って行ったのがその施設で、友人と「ここ福祉施設みたいだね」と言っていたのだ。ネットサーフィンはしていても募集要項ばかりに目が行き、その時点では他にも志望動機とか考えなければならないことが多く、施設の外観までは気が回らなかったという。

【人は理不尽な生き物であるか?】
その時の採用試験内容が面白かったそうだ。当然ながら一般教養試験もあったのだが、作文もあってそのお題が800字(つまり400字詰め原稿用紙2枚)で「最近あなたが感動したこと」を書きなさいだったという。集団討議という試験科目もあり、8人の採用試験受験生の中に3人の面接官が入り、ひとつのお題について20分で討議をするというもの。その時に出されたのは「人は理不尽な生き物である」ということに関して討議をしなさいというお題だった。先ずは進行役を決めて、進行役が「このお題についての賛否を挙手で表明しましょう」というところから討議がスタートした。最初の結果は採用試験受験生8人のうち7人がそのお題に対して「賛」と答え、加藤さんだけが「否」と答えた。加藤さん自身もその結果には一瞬驚いたが、〈まあ、意見が被らなくてよかったわ〉と思ったそうだ。他の7人の意見を聞いてみると、他人に理不尽なことをされた体験ばかりを言い募っている。加藤さんはそれに対して「お題は、人は理不尽な生き物であるということでしたけれど、皆さんは他人から理不尽なことをされたという話ばかりしていますよね。ここからも解るように理不尽って思うのはされた側の人間が抱く思いなのではないですか? 人間の思いや欲求は他人を不幸にさせたいために抱くものではなくて、自分をより良くするため、幸福にするために抱くものであり、それがたまたま受け取る側にとっては理不尽な話だったりするだけなので、人が理不尽な訳ではないと思う」という意見を述べたという。最後にもう一度進行役が挙手を求めたところ、7人のうち半分ほどが「否」に宗旨替えしたそうだ。そうして加藤さんは浜松市発達医療総合福祉センターに就職することが出来たのだ。

【相談支援は中間支援】
最初は保育士として入ったのだが、途中から相談支援員として移動することになった。加藤さんとしては現場で直接利用者さんと関わって支援して行くことにやり甲斐を感じていたこともあったし、相談支援というと一日中座ったまま話を聞いたり、まとめたりするお役所の窓口っぽいイメージがあり、一番やりたくない仕事だと思っていた。しかし、その反面これまで経験したことや、学んできたことを活かせる仕事でもあるので、来るべきして回ってきた仕事かなと思いもあった。相談の件数は軒並みに増えて行き、一番多い時期で200名のクライアントを抱えていた。それも利用者さん本人だけではなく、家族もいて学校もある。施設もある。それらを繋いで一人の利用者さんの生活を円滑にまわして行くために延べ1,000人以上の人と会い、情報をインプットし、会う人ごとに切り替えて行かねばならない。でも、そのおかげで〈ケースワーク〉というものを学ぶことが出来たという。当事者にとっての問題は何で、どこが詰まっていて、どこが上手く流れれば、その問題が解決するのか?
それを状況を見つつ、間に入りながら模索して行く。中間支援という感じ。それが経験出来たのは、加藤さんにとってとても大きかったそうだ。

【相談支援員は個人事業主みたいなもの】
相談支援の仕事は、施設の仕事とは違って時間から時間へと決まっているわけでもなく、自分でアポイントを取ってこなしてゆく感じなので、ほぼ個人事業主みたいなもの。自分の仕事を自らマネージメントしてゆくので、休みも自分の仕事に支障をきたさない限りガッツリ取れたという。だから相談支援員をしていたこの8年間に、よく海外へ行ったそうだ。それまでも海外へは一度か二度行ったことはあったものの、日常で満足していたこともあり、あまり海外に行く意味がわからなかったが、コロナ前のこの時期にフィンランドに2回、ネパールに2回、アメリカに1回行ってきたそうで、スケールも文化も違うし、日本との比較するという意味でも、やはり若いうちに行った方が良いと思ったそうだ。

【アールブリュットとの出会い】
現在も浜松に生活の基盤を置いている加藤さんだが、愛知県の安城市のご出身で大学も名古屋であったということもあり、現在でも名古屋にいらっしゃる学生時代の先輩や友人の方が多く、ご実家に帰ったり、所用で愛知県に来る時にはそれらの方達とも親交があったりする。ある時、名古屋のパルコで障がいをもった方達がデザインされた雑貨を販売するという情報を聞きつけた加藤さんは、休みの日に行ってみた。もともと雑貨好きでもあり、とりわけ障がいをもつ方達がデザインされた商品は1点ものが多く、色彩も鮮やかで目を惹くものが多いのだ。世の中とは広いようで狭いものだ。その日たまたまレジ係をされていた方が、以前歌手活動もしている先輩が主宰するライブで隣の席に座られた方で、その方が実は浜松の職場の人ともつながっていたことが判明したのである。業界あるあると言ってしまえばそうなのだが、加藤さんはそこに不思議な縁を感じたらしい。そこから障がい者のアトリエ活動をされていた〈蟲36〉という団体の中心になっていた人に、名古屋の施設の職員さん達を集めた飲み会みたいな場に誘われて浜松から参加したのが、加藤さんとアールブリュットとの出会いであった。

【アールブリュットとは何か?】
アールブリュットとは、ボーダーレスアートとも、アウトサイダーアートとも呼ばれている、正規の美術教育訓練を受けず、伝統や技法にも左右されずに自身の内側から湧きあがる衝動のまま表現した芸術を指し、主に障がい者や子どもや素人芸術家の作品のことを言う。
【アールブリュット沼にハマる】
その飲み会に参加されていた施設の職員さん達は、利用者さん達と絵を描いたり、作品作りをされていて楽しい活動をしていて、作品も面白いものが出来上がり、それを多くの人々に喜んでもらっている。それは障がい者施設で利用者さんを指導するとか、療育をする立場からするとこれまでのそういう職員の姿勢に比べてとても自由度が高くて、利用者さんがその人らしくあり続けることをサポートしている施設の体制が魅力的に思えたという。それ以来、加藤さんはアールブリュットにハマったという。ご自身は絵は描かないけれど、絵を観て心を動かすことは出来る。感性を研ぎ澄まして作品を評価することは出来る。また、そのような活動をされている施設が作品づくりのワークショップをオープンにしているのも、加藤さんにとっては好ましいものに映っていた。日本の障がい者を取り巻く環境は、どこか閉鎖的だ。障がいのある人とそうでない人たちが出会う機会も極端に限られているし、施設の中でどんなことをしているのか、その施設の職員以外知らない状態だ。ご近所さんに障がいのある方が住んでいることすら知らない人も未だにいらっしゃる。そのような状況の中で施設をオープンにすることで周りに理解しやすく、入りやすいようにされているのは格好良いし、羨ましいなと思っていたそうだ。

【団体がなければ作ればいいーヘルシンキの〈Japan Weeeek〉へ】
そんな頃、旅行会社に勤めている弟さんから「うちの会社が今度〈Japan Weeeek〉という海外で日本を紹介する企画をしていて、今年はそれをフィンランドのヘルシンキで行うことになった。紹介できる良い団体を知らない?」と尋ねられた。その頃加藤さんも福祉先進国というレッテルを抜きにして、北欧の雑貨に興味があったので至極単純にフィンランドに行きたいと思いながらも、でも行ける感じしないわね…などと言っていたところだった。生憎と紹介してもよい団体は知らないけれど、知らなければ作ってしまえば良いのでは? と思った加藤さんは、またもや即実行に移した。弟さんを〈蟲36〉の飲み会に連れて行き、メンバーに〈Japan Weeeek〉の話をしたところ、全員「行きたい」ということになり、そこにデザイナーさんや雑貨屋さんなどが混ざりながらヘルシンキの〈Japan Weeeek〉に行くことになったそうだ。

【日本とフィンランドの福祉や施設の違い】
〈Japan Weeeek〉の一週間、加藤さんたちの団体は作品の展示をしたり、ワークショップを開催したりした。施設見学にも行きたいと要望したが、旅行社には高齢者施設への伝手しかないようで、それは自分たちで探してツアーに組み入れてもらった。それはアトリエ活動をされている施設だったり、ダウン症の方達がオシャレなカフェで普通に働いている施設で、支援員は確かにいらっしゃるのだけれど、その方達に付いているわけでもなく、ひとりひとりのペースに任せている感じ。アトリエ活動をされている施設も利用者さんが7〜8人に対して、支援員が2人だった。それも介助されているとかではなく、それぞれがそれぞれの活動をされているのだ。織り物をされていた利用者さんなどは落ち着くからと地下の作業室に織機があって、そこでヘビーメタルを聴きながら作業をされていた。その施設にいる支援員も福祉を学んだ人ではなくて、アーティストさんで「自分たちは障がいに対する知識があるわけではないのです」と堂々と言ったりする。「作品に対してこういう風にした方が良いと指導することはあるのですか?」と訊いてみたら、「この人たちは既にすばらしいから、私たちが言うことは特にないです」という答えが返ってきたという。加藤さん達も質問をするものの、日本とは全く違いすぎて愚問でしかなく、施設への通い方もタクシーを利用する方が多く、そのタクシーも無料だったりする。その代わりに税金が20%としっかり収められているから、それだけ手厚く出来るという側面もあるのだ。また、日本の作業施設とは異なり、時間から時間へという縛りがないという。「時間に区切りがあるなんて学校みたいではないですか? 学校のような動き方は学校までで良いのではないんですか?」と、逆に言われてしまったそうだ。自分のやりたいことは自分で決めて、自分の進路も相談しながら自分で決める。フィンランドでは一次が万事そんな感じで、加藤さんはそれに衝撃を受けたという。

*ヘルシンキで行われたJapan Weeeekの詳細は、ジネンカフェVOL.98 山口光さんの回のまとめも参照下さい。

【福祉とは、誰もが自分らしく生きられるための取り組み】
忙しい相談支援の合間に、フィンランドでそんな経験をしてきた加藤さんは、改めて福祉の原点を思い出した。国語辞典で調べてみると分かるように〈福祉〉という言葉は〈福〉も〈祉〉も〈幸せ〉という意味なのだ。その〈幸せ〉は誰のための〈幸せ〉なのか? 誰かのためでもない、世の中の全ての人のための〈幸せ〉なのだ。だから福祉がよくわからないとか、関心がないと言っている人たちは、幸せがわからない、幸せに関心がないと言っているのと同じなのだ。誰もが自分らしく生きられる。そのために何が出来るか? を考えて実行することが福祉の〈支援者〉の在り方で、高齢者福祉とか障がい者福祉とか細かくカテゴライズすること自体なんだかな? と加藤さんは感じているそうだ。

【創立30周年記念祭りの実行委員長になって】
昨年(2022年)、浜松市発達医療総合福祉センターは創立30周年を迎えた。センターではもともと祭りは行っていたのだが、周年記念の祭りはどんな企画をしても良いことになっていて、祭りの担当者になったことがなかった加藤さんは、面白そうだと思い実行委員に立候補した。日常の仕事の上に祭りの実行委員の仕事は負担に思うのか、100人もいる職員の中で募集に手を挙げたのは加藤さんだけだったという。そういう流れで実行委員長になり、誰もやりたくないということはどんなことをやりたいとか、なにをやりたいとか意見がない訳だから、自分がやりたいことが出来るのではないか? と、加藤さんの心は踊った。

【仕事には、二つのそうぞう力が大事】
加藤さんには大まかなイメージが既にあったのだ。うちの施設は障がい児・者の施設ではあるものの、障がいがあるとかないとかではなく、近在には様々な方々が住んでおられる。そういう地域の方々にも楽しんでもらえるイベントにしたい。そうして多様性を謳いながら行いましょうということになった。しかし、そこからが大変だった。仕事というのは大体がマニュアル化されていて、それに沿って行ってゆくことが多い。その方が効率的だし、なにも考えなくても良い。でも、それでは詰まらない。本来仕事というものはベースになるものはあるにしても、そこから工夫をし、創造するものなのではないか。支援の仕事でも目の前の人がどんな方で、どんなことを思って、本当はどんなことがしたいのか想像する力。その二つの〈そうぞう力〉が必要なのではないか。だからこそ何もないところからイベントを創り、それを施設の職員に経験して貰うことも大事だなと思っていたのだ。

【具体的に何やるの攻めに遭う】
そうは言うものの福祉支援をされている職員さんは真面目な方々が多く、そうしたイメージを伝えても「その感じは面白そうで良いのだけれど、結局具体的には何をやるの?」という〈具体的に何やるの〉攻めに遭ったという。「だから具体的に何をやるかは自由なんだよ。テーマに沿って自分たちで考えれば良いんだよ」と言っても、枠組みの中で仕事をしている施設の職員さん達はブレーンストーミングができない感じになってしまっている。上手にはみ出せないのだ。

【なるほど、そんな感じなのね】
結局9ヶ月をかけてブレーンストーミングを重ね、準備をして30周年イベントは賑々しく行われた。その会場も車がないと来られないような街外れのいつものセンターではなく、浜松の街中、ツインで建っている遠鉄百貨店の間のSORAMOという吹き抜けの場所を借りることになった。円形ステージも作りたかったのだが、それは構造上難しくて実現できなかった。でも、加藤さんとしては〈ここからはイベント関係者以外立ち入り禁止〉とか、あまりキッチリとカテゴライズされた会場にはしたくなかったので、そんなイメージも伝えていたという。施設の職員さんと話をしていると〈上手いこと運営ができるか?〉とか〈安全か?〉とか〈苦情は来ないか?〉という危機管理的な話しかならない。もちろんそこも最終確認としては大切なことだけれど、最初の構想段階からそんな安全面の話をされるとワクワク感が萎んでゆく気がして、〈なるほど、そんな感じなのね〉と苦々しく思ったという。

【足りない資金はクラファンで集めよう!】
イベント予算も足りずに苦労したそうだ。通常の年のイベントなら各部署が1万円ずつ出すのが決まりになっているそうだ。周年記念だからそういう規模でやることではないと頑張ったのだが、予算には限りがあるということでそこは覆らなかった。なので加藤さんはクラウドファンディングで、足りない資金を集めようと思った。友達がクラウドファンディングをやっていてそれを応援した経験があったので、これを使わない手はないと思ったのだ。しかし、クラウドファンディングという言葉自体を知らない職員さんも多く、知らないのならネットで調べれば良いし、調べてもよくわからなければ仕方がないけれど、そういうものにちょっと疎くて…という声が多かった。また、資金を集めたいとは言っても、自分達がどんなことをしたいのかが伝わらないと応援はしてもらえないので、クラウドファンディング用のサイトを作成し、先ずはそのページに辿り着いて貰うための声がけをして行きましょうと話した。それでも「お金をもらうのはちょっと苦手…」みたいな反応をされたりしたそうだ。仕方がないので加藤さんは自分が持っている人脈やツールを使ってDMを送ることにした。

【200通のDMを送る】
そのDMの内容も肝心の資金を集めるための定型文はあるのだが、ひとりひとりに対するメッセージはその人ごとに作り替えた。〈あなたとはこういう繋がりで、Facebookもいつも拝見しています。今はこういう活動されていてすごいですね〉そんなことを書いて送るのだ。それを200通。主にSNS(Facebook、Instagram、LINE)で繋がっている人たちなのだが、気が遠くなりそうな作業である。クラウドファンティングに参加してくれる人たちにも様々なタイプがいて、自分もクラウドファンティングで応援してもらったことがある人たちは気軽に。加藤さんが関わっているから支援する方には三タイプいて、「すぐやるね」と言ってくれる人、「ページ見ておきますね」という人、「ありがとう。わかった…」みたいな感じの人。加藤さんの感触としては「ページ見ておきますね」の人までは既に応援してくれる人だと判断していて、この人たちはご自分の中でリスト化しておくのだそうだ。そして締切の10日前にまた「見ていただけました?」というDMを送ったのだそうだ。もちろん応援してくれた人にはすぐにお礼のメールを送ったという。

【YouTubeを使ったイベントのライブ配信を決断する】
そうして応援してくれる人たちが増えるに連れて、イベントの規模も変化して来るのだが、30周年記念イベントはまだ日本中がコロナによって右往左往していた昨年(2022年)の7月に企画されていたので、状況次第では開催できるかわからなかった。結果的に開催はできたのだけれど、クラウドファンディングで応援して下さった人の中にも来られない方達もおられるとの連絡を受けた。支援してもらった誰もが楽しめないイベントをする気もなかった加藤さんは、YouTubeを使ったイベントのライブ配信を決断した。隣の市にジュビロ磐田のホームゲームなどをライブ配信しているネット会社があり、そこに内容や企画を話したら「それは面白そうですね。やりましょう」ということになったのだ。それにも費用がかかるのでクラウドファンディングで集めた資金を使い、また外から刺激を与えて欲しいという想いもあり、障がいのことを知っているか知らないかよりも、こういう楽しい場を作りたいということに賛同して下さる方にキチンと支払いたい気持ちもあったので、どのみちクラウドファンディングで資金を集めるのは避けられない方法だったのだ。

【デットストック工務店とのコラボ】
30周年記念イベントには、目玉がもう二つあった。建築現場の廃材などを使って新しい価値を作り出す『デットストック工務店』という建築家集団がいらっしゃるのだが、加藤さんがたまたま蒲郡市の『森、道、広場』というイベントに出かけた時、筏を作っていたそうだ。「面白い人たちがいるね」と友人と話していたら、中心になっている人がたまたま加藤さんの同僚の従兄弟の旦那さんだったという。デットストック=ゴミを使って新しい価値を創り出す。それは障がい児・者福祉も同じで、生産性があるとか、ないとかと言われている中で、どんなものでも見せ方や活用方法など伝え方によって見え方も違ってくるよというメッセージを発信したいと思ったのだ。この人たちとコラボ出来れば面白いと思ったのだが、メンバーが全国に散らばっているので、その人たちの旅費や宿泊費等々もかかる。でも、その人達が魅力的なアイデアを出してくれるのだ。「30周年ということはそれだけ親御さんもいらっしゃるだろうし、当事者の方もいらっしゃる。その方達を巻き込んで何かできないか」と提案して下さったのだが、それに対してセンターの職員は「私たちが頑張ります。当事者さんを巻き込むと、私たちの負担が増えます」とか、「親御さんに物資を出してもらったり、車を出してもらったりして事故が起きたらどうするの?」という、やはり危機管理の話になってしまう。

【多様性の時代と云うものの】
外側の方達が折角そういう提案をして下さっても、支援者側が閉ざしてしまう。社会側に理解がないという話もあるが、今の世の中理解のある人たちや一緒にコラボすることを厭わない方々も多く、多様性の時代と言われているのに福祉の方が守りに入っているようだ。「そんなこと本当にできるの?」と、頭だけで考えて新たな試みに対して懐疑的になっている。「だからやってみるんじゃん」という話なのだが、様々なコラボ経験があるのとないのとではこうも違うのかと、加藤さんは思ったという。

【オリジナルソングを作ります】
もう一つの目玉テーマとして考えていたのは、〈みんなで一緒に取り組むもの〉を作りたいということだ。それは音楽とダンス。得手不得意はあると思うものの、本来音楽もダンスも楽しむもので、楽しいから歌ったり、音楽に乗って踊るもので、そこに上手いとか下手とかの評価されるものではない。競技として競っている場合もあるが、本来はそういうものではなくて、誰がどのように楽しんでも構わない。『デットストック建築工房』のメンバーさんにはセンターの不要なものや空き缶を使って構造物(建築物)を造ってもらい、音楽とダンスは〈残すもの〉が欲しいという話だったので、加藤さんはオリジナルソングを作りますと宣言した。知りあいに障がい当事者から言葉を集めてそれを曲にするということをしている人がいたので、詞は簡単に集まるだろうと思っていたのだ。

【身近なところにいらっしゃる救いの神】
ところが思いがけずこれが結構難渋したのだ。広く公募すればよかったのだが、センターに通ってくる当事者もたくさんいらしたので、その人達に詞になってなくても一言でも良いのでお寄せて下さいと呼びかけたのである。しかし、気持ちに余裕がないと詞や言葉は生まれてこないものだ。絵を描いてきてくれる人はいても、詞となると一人か二人、それもたったの一言だけだったりした。でも、そのたったの一言が素敵だったりしたので、これを活かしたいと思い、仕方がないので加藤さんが日常的に感じていることをメモにしたものから言葉を選び出したのだが、それらを繋いで組み立てて一つの歌詞にすることはできない。すると当事者さんのご家族に言葉を組み立てる(頭韻法)ことが上手な方がいらして、その方にお願いしたらほんの二時間で組み立てて下さった。曲はもともと関わってくれていた音楽教室の先生にお願いして作ってもらったという。

【ダンスの振り付けも…】
ダンスの振り付けはどうしたかと言うと、加藤さんがたまたまカフェで出会った人が東京ディズニーランドとユニバーサルスタジオで踊っていて、まだ構想段階の時に話をしたら好感触だったので、名刺を交換したまましばらく連絡していなかったのだが、いよいよ曲が出来上がってDMを送ったら憶えてくれていて「お願いできますか」と尋ねたら、「やります」と言ってくれて振り付けをつけてくれたという。

*YouTube EnsanTV参照


ジネンカフェVOL.140レポート

2020-10-19 17:29:10 | Weblog
今年は新型コロナウイルス感染拡大のためにジネンカフェも変則的な開催になっているが、またもや二ヶ月ぶりの開催である。8/1に開催する予定になっていたVOL.140を、今月10/3に行った。ゲストは、身内も身内、NPO法人まちの縁側育くみ隊の事務局・金森菜月さん。金森さんは昨年の11月から事務局に入ったフレッシュな方である。こういう若い方がNPO業界に入っていただけるのは極めて貴重なことであろう。しかし、この金森さん、実はこれまでまちの縁側育くみ隊と全く縁がなかった訳ではないのだ。そこら辺は追々と明らかにして行こう。タイトルは『デザインと市民活動とわたし』

【戦場カメラマンに憧れて…】
金森菜月さんは名古屋学芸大学の出身。大学ではデザインではなく、写真や映像関係を学んでいた。それというのも金森さんはカメラマンの長倉洋海さんに憧れて、戦場カメラマンになって世界の紛争地を飛び回りたかったのだという。長倉洋海さんは紛争地帯の子どもたちの写真を撮られていて、写真集なども何冊か出版されておられる。しかし、それをお母様に話したら「そんなことはやめてくれ」と泣かれてしまったそうだ。それはそうだろう。戦場カメラマンは紛争地に出向いて、そこで起きていることをカメラに収め、真実の姿を世界に発信してゆくのだ。絶えず危険が付きまとう。ましてや金森さんは女性だから、親としては二重の意味で気が気ではなかったであろう。小さな頃から身体が弱く、心配をかけたお母さんに泣かれしまった金森さんは、そこまでして戦場カメラマンになろうとは思わず、かといってこの先写真で生きてゆくにはどこかのフォトスタジオに入らなければ食べてゆけない現実もあった。

【トリエンナーレ、まちの縁側育くみ隊との出会い】
そんな折も折、名古屋の中心部・錦二丁目エリアが街まるごと『あいちトリエンナーレ2013』の会場になることが発表され、NPO法人まちの縁側育くみ隊もそのアートの祭典を盛り上げるため、あいちトリエンナーレ2013まちなか展開拡充事業共同事業体の事務局として協力することになったのである。幾つかのコースを選定して期間中まち歩きをしたり、百人の参加者さんが各自お気に入りの名古屋の風景を使い切りカメラで撮って、それをコンテスト形式で発表する名古屋百人百景を行った。その共同事業体「まちトリ」のスタッフとして、当時大学を卒業したばかりだった金森さんも応募して働いてくれていたのである。まち歩きの案内人はもちろん、様々なチラシやパンフレット、記録集の編集・作成に関わってくれていたのだ。

【フォトスタジオかNPOの事務局か】
時は経ち、2019年のこと。NPO法人まちの縁側育くみ隊の新代表になった名畑恵氏から「事務局としてNPOに関わってくれないか?」という打診があった。まちの縁側育みく隊の事務局になるということは、即ち錦二丁目エリアマネジメント株式会社のスタッフも兼ねるということだ。NPOだけではとても真っ当な人件費も出せないからである。しかもNPO法人の事務局の仕事は多岐に渡っており、雑多な仕事をこなさなければならない。〈わたしに務まるのか?〉〈名畑さんはなぜわたしに声をかけてくれたのだろう?〉〈けれども、あのトリエンナーレ以来、まちづくりに興味を持ち始めているのも確か…〉そんないろいろな想いが錯綜していたが、金森さんには「声をかけられ、頼られた以上、最善を尽くそう!」というモットーがあり、まちの縁側育くみ隊の事務局に入局したのであった。

【彼女の感性はどこから来ているのか?】
入局してからもうすぐ一年になるが、目覚ましい活躍ぶりである。デザインの仕事だけでまちの縁側育くみ隊の収入の5〜6割程度は稼いでくれているのではないだろうか? 今年2月に催したジネンカフェ拡大版のチラシも、彼女の手になるものである。デザインが全く出来ない私が言うのもなんだが、金森さんのデザインにはストーリ性を感じられるのだ。もっとわかりやすく表現すると、どうしてこういうデザインにしたのか、なぜここにこのようなアイテムを置いたのか、その意図がわかりやすいのだ。もちろんそれはクライアントの意図を汲んでそうしているわけで、想いやテキストをデザインとして表現できる感性は身びいきではなく実に凄いことだと思う。金森さんのこのような感性はどこから来ているのだろう?

【一日中でも図書館にいられるほどの本好き】
金森さんの両親は共働きで、幼い頃から近くに住む祖父・祖母の家に預けられることが多かったという。その祖父・祖母の家にはそれはそれは大きなスライド式の本棚があり、そこにいろいろな本がギッシリと並べられていた。その本たちを一冊一冊本棚から抜き出しては表紙を眺めたり、本の匂いを嗅いだり、ページをパラパラ捲ったりして遊ぶことが少女の頃の金森さんの日課であった。もちろん字が読める年頃になると、そこにどんなことが綴られているのか興味津々で読み耽ったことだろう。そうして金森さんはいつしか本好きになり、いまでは一日中図書館にいても平気な大人になった。テキストからクライアントの想いや意図を読み取る能力、それは幼い頃からのこうした読書体験から来ているのではないだろうか。それに加えて写真の構図を学んだこと、〈まちトリ〉での経験、それらが糧となって現在の金森さんのデザイン力を育んでいるのではないだろうか? そう、人生には無駄な経験などひとつもないのだ。

【本が好き過ぎて…】
私自身が本好きだから解るのだが、本好きにも二種類のタイプがいるように思う。本という存在、そこに綴られている物語や文体を読むことが好きで、読書することが食事をするとか、飲み物を飲むとか呼吸をするとかと同じになっているようなタイプの人間と、とにもかくにも装丁を含めた本という存在が愛しくてたまらない人間。前者はそれが別に本という形でなく、最近流行の電子書籍みたいなものでも読めれば構わないと思うだろうし、後者は断然紙の本に拘りを感じているだろう。金森さんは後者なのだ。そして本が好き過ぎるあまりに自分で装丁して本を作ってしまったという。その本の装丁は鉛シートで設えた箱の中に写真と文章とでコラージュされたカードを30〜40枚程組み込んだ作品で、中身の本の内容は「記憶をテーマに構成した、誰かの日記やモノローグのようなもの」だそうだ。『the last thing』と題されたその本は、《日本ブックデザイン賞2017》コンペに応募し、ブックデザイン・セルフパブリッシング部門で入選を果たしたという。
http://apm-nagaoka.com/bookdesign/jbd2017/
授賞式の前後に作品の展示会があり、金森さんも自分の作品を観に行かれたのだが、それ以来ご無沙汰をしているそうだ。

【機会があれば今後も装丁の仕事に関わりたい】
金森さんはNPOまちの縁側育くみ隊事務局や錦二丁目エリアマネジメント株式会社の事務局スタッフの仕事もこなしながら、機会があればまた本の装丁に関わりたいという。長年懸案になっているジネンカフェ本、まだ出版出来るのか定かではないのだが、もし出版されることが決まれば彼女に装丁をお願いしても良いかと思っている。