ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.112レポート

2017-04-11 09:45:32 | Weblog
6年前の3.11、私たちはどこで、なにをしていただろう? 私は確か自宅にいて、午前中からPCと向かいあっていた。その日の午後、何気なくTVをつけたら、家とか車が津波によって流されて行く映像が映し出されていた。「なんだ、これ?」それが私の第一印象であった。東北で大地震が起こり、建物の倒壊や津波によって多くの被害が出ていることを知ったのはその後だ。それがあのような大災害になろうとは、想像も出来なかった。あの震災で多くの方々が犠牲になられた。いまでも行方が解っていない方々もいらっしゃる。まちの復興も、人々のこころの復興も、まだまだこれからで、福島原発も含めてあの震災が抱える問題も、まだ解決してはいない。しかし、それについて今回はテーマではない。あの大震災からこちら、日本中のあちらこちらが揺れている。まさかの御嶽山の噴火もあったが、東海地方は何故かぐらりともしない。気持ち悪いぐらいだ。こんな時だからこそ身を引き締めるべきだろう。それでなくても、東海地方でも南海トラフ地震がいつ起きてもおかしくない現状におかれている。今回は過去の災害から〈自然災害から我が身や家族の身を守るにはどうすればよいのか〉を学ぶために、災害ボランティアコーディネーターで、エンジェルランプ代表の椿佳代さんをゲストにお招きした。お話のタイトルも、ズバリ『自然災害から身を守る3つの秘策~みんなができれば怖いものなし!!』

【災害に備えて非常食も用意しておこう】
椿さんはこの日の午前中、久屋大通公園で行われる追悼記念式典の準備に行っていたそうだ。6年前の東日本大震災は、椿さんたち災害ボランティアコーディネーターにとっても衝撃的なもので、それまでは「災害時のための〈非常持ち出し袋〉を用意しておいて下さい」とは言っていたものの、「〈非常食〉を3日分用意しておいて下さい」とはっきりと言って来てはいなかったという。それにも理由があり、自然災害に遭って餓死した人はいなかったからだ。しかし、東日本大震災では食べ物がなくて亡くなられた方もいらっしゃるので、それからは食料もしっかり確保しておきましょうと言うようになったのだという。南海トラフ地震が起きた場合、もしかしたら一週間は食料が届かないかも知れないといわれているのだ。

【東日本大震災と南海トラフ地震の相違】
東日本大震災のことを考えてみると海側でドンっと起こっているが、南海トラフではもっと陸側で起きると想定されている。なおかつ距離的には同じでも、東日本大震災は岩手・宮城・福島で大きな被害が出たのに比べ、南海トラフは静岡から九州の入り口までが一緒に揺れるのだ。都市名だけでも多いし、それに加えて京阪神の工業地帯や人も、ものも多いので被害は東日本のそれよりも大きくなるだろうと予測されているという。

【災害に打ち勝つための3つの秘策】
災害に打ち勝つための3つの秘策とは言うものの、これは全然秘策でもなんでもないのだが、平常時には差し迫った生命の危険はないし、非常食を用意しましょうと言っても、食べ物がなければ財布を持ってコンビニに行けば食料は手に入る。そういう状態で生活しているのに、災害対策のために水や食料を備えましょうと言ったところで、やはり備えて貰えない。なので椿さんは防災についてお話をされる際に、〈災害に負けないという強い意志を持つ〉〈防災の知恵を身につける〉〈誰よりも備える〉この3つを「秘策」と称してお話をされているという。

【地震に打ち勝つには…】
地震に打ち勝つために必要なことは〈丈夫な家に住む〉〈家具や家電を転倒防止のためにしっかりと天井とか壁に留めておく〉〈ガラスの飛散防止フィルムを貼る〉この3つが重要で、よく「水や食料を用意しています」と言う人がいるのだが、水とか食料は揺れている時には必要がない。揺れている時には身を守らないと。車いすの方はブレーキをかけていれば少々の揺れでは動くことはないが、パーカーでも構わないので、とにかく地震が起きたら先ずは身近なもので頭を守らないといけない。阪神・淡路大震災の時はテレビが飛んで来て頭に当たり、体には何の損傷もないのに頭蓋骨の陥没骨折でお亡くなりになられた方や、机の下に潜ったのはよいのだけれど、建物の強度が弱ったためにご遺体が机の下から発見されたケースもあるそうだ。だから常に自分がいるところの状況を把握し、避難経路を考えておいてほしいという。

【幸いにして未災地にいる我々は…】
災害が起きて椿さんたち災害ボランティアが被災地に入ると、被災された人たちから一様に聴く言葉があるそうだ。「まさか自分がこんな目に遭うとは思わなかった…」「自分だけは大丈夫だと思っていた」「こんな目に遭うと解っていたら、もっと用意しておいたのに…」それはいつ、いかなる被災地においても同じだという。幸いに未災地にいる名古屋圏の人たちはまだ備える時間があるので、ぜひ防災の知識を身につけて、備えて下さいとお話を依頼される度に椿さんは伝えておられるそうだ。

【それは〈非常持ち出し袋〉になりません】
非常持ち出し袋について「夜寝る時に頭の上に置いてある」という人がいるが、災害は夜に起きるとは限らない。日中起きて避難しようとした時に、そうなるとわざわざ寝室まで取りに行かなければならないことになってしまう。非常持ち出し袋が幾つか用意出来る場合はところどころに置いておけばよいが、普通は自分が避難する時に持って出るものなので、その時にすぐ持って出やすい場所に置いておくことがよい。よく「非常持ち出し袋は用意してあるが、押入の中にいれてある」と言われる方がいるが、それでは〈非常持ち出し袋〉にはならない。同じように〈非常持ち出し袋〉に何を入れておくかも、その家庭や個人によって様々なので、非常持出袋は家族一人にひとつ用意し、自分に必要だと思うものを入れておけばよいという。

【玄関周りはさっぱりと】
そしていざ避難しようとした時に玄関周りに靴箱があり、それが地震の衝撃で倒れて逃げ道を塞いでしまったり、姿見などがあってそれも倒れて鏡が割れて飛び散ったりして足下も危険な状況になることがあるので、なるべく玄関周りには何も置かないか、置くのなら壁に固定して避難経路は確保しておいた方がよいそうだ。

【3R8Kで備える備蓄と非常食】
非常食は何日分用意すればよいかと言えば、内閣府や名古屋市や愛知県からも〈一週間分は用意しておいて下さい〉という通達が出されているそうだ。それは一週間まるごと非常食でという意味ではなく、普段から食べるものを多めに買っておき、使っては買って、使っては買ってというふうに、ランニングストックをしておきしょうということだ。3R8Kというのは、3R=冷蔵庫・冷凍庫・レトルト食品のことで、8K=米・缶詰・乾物・乾麺・カップ麺・氷砂糖・菓子・乾パン。みなさん異口同音に「非常食に乾パンを用意してあります」と言われるのだが、普段から乾パンを食べてないのに、災害時に食べられるか? という話で、普段美味しく食べているものを被災後も食べられるように在庫をストックしておいて、調理もできるようにカセットコンロとかも用意しておくとよいという。被災後に救援物資が来るようになるまでに、どういうものを家の中に置いて食べられるかを考えておくとよいと、椿さんは思っている。しかし、非常食で気をつけなければならないのは〈塩分過多〉になってしまうことだ。最近の非常食は昔と比べて美味しくなっているが、それだけに味が濃いために普段は塩分控えめな食事を心がけている人でも、塩分過多になって血圧が上がったりする危険性があるというのだ。

【自分の生命を繋ぐための手段】
健康な人はそれでなんとか一週間ぐらいなら過ごせるが、病気の人や持病を持っていて定期的に病院に通って治療を受けたり、薬を処方して貰っている人たちは、薬が途切れたら体調を維持することが難しい。そういう人たちは災害に遭ってもすぐにどんな薬を処方されているのかわかるように薬の予備や〈お薬手帳〉を持っておいて、それをみせたらすぐにその薬を貰える状態にしておくことが必要だ。また、なんらかの医療処置が必要な方や、在宅医療を受けている方たちも災害時には厳しい状況になるという。災害による負傷者が出てそちらの医療行為も必要になり、DMATも入ったりするのだが、日常的に医療行為が必要な方たちよりもそちらの方が優先されるからだ。人工呼吸器などの電子機器を使っている方たちの電源確保も重要な課題になる。東日本大震災の時には車のバッテリーから電源を取ったそうだ。電圧が不安定なので本来は医療機器には使えないのだが、緊急時ということで使用していたらしい。現在ハイブリッド車や電気自動車があたりまえになって来て、いざという時にはそこからも供給出来るようになっているが、そういう方々は自分の生命を繋ぐための手段を幾つか考え、用意しておいた方がよさそうだ。

【ペットと一緒に避難するには?】
ペットを飼ってる方の心配は、そのペットを避難所に連れて行けるかどうかだが、名古屋市の場合は一応OKになっているそうだ。しかし、そこの避難所を運営する方々の判断に委ねられているのが実情。ペットの食料やトイレの砂とかを用意してケージに入れて連れて来て下さいと言われるとか。熊本震災の時にゲージがなくて咄嗟に猫を洗濯ネットに入れたので、洗濯ネットが歩いているようにみえたという笑い話のような話があるが、咄嗟にはゲージでなくても何でもよい。宮崎の水害の時にペットを置き去りにして避難して、水が引いて掃除をするときに物陰にペットの死骸が発見され、それが原因でPTSDになってしまったという話もあるそうだ。その後、ペットの愛護団体が水害時に使える犬用・猫用の浮き輪をペットボトルで作るのをひろめていたという。人は生まれてこの世を去るまでいつの時点で災害に遭遇するか解らない。だから0歳児には0歳児の防災が必要だし、高齢者には高齢者の防災が必要になる。災害が起きてもその後の自分の余生を恙なく送れるように環境を整えておかなければ。それと同じでペットも共に暮らしている方にとっては家族も同然なのだから、災害が起こっても餌や水が食べられたり飲めて、猫としての日常生活が送れて生を全う出来るような環境を整えてあげないといけない。

【災害はTVの向こうの世界?】
人間というのは残念なことに、自分の経験値以上のことは想像つかないように出来ているらしい。何か災害が起こるといっても、「前も大丈夫だったから、今回も大丈夫だよね?」となりがちで、どこそこで災害が起きてもそれはTVの向こう側の世界で、我が事として捉えられないから、備えも出来ないのだろうという。

【出先で災害が発生したら…】
出先で災害が発生した場合、電車が動くかどうか解らないし、出先にたまたま避難所や居場所があればよいが、ない場合もあり、知りあいも誰もいない場合のことを考えて、この駅で被災した時にはどうすればよいのか? 一番近い避難所はどこかなど調べてシミュレーションしておく必要がある。介助が必要なら声に出して頼まなければいけないし、自分がどうしていると気持ちが安定しているか、精神的な面だけではなく物理的な面(バリアフリー)も含めて、考えておく必要もあるという。

【ライフラインの復旧は?】
椿さんが災害のお話をされる時に、よく尋ねられるのは『ライフライン』の復旧までに何日かかるかだという。つまり水道や電気やガス、そして電話だ。しかし、同じ地域で災害を受けていても、その地域によって復旧の時間も異なるので一概に言えないし、災害の規模によっても復旧までの日数も違ってくるので、最悪の状況を想定しながら備えるものを備えるようにしておきたい。


【トイレが流れない…さて、どうする?】
水洗トイレがあたりまえに完備されている現代にあって、ひとの糞尿処理はほとんど手を汚すことなくレバーかボタンだけで済ませられている。しかし、災害が起こって上下水道管が破損し、水道から水が出ないし、排水も流れない…となった時にどうすればよいのか?
椿さんもはじめて訊かれた時に答えられなかったという。トイレに関しては自宅が倒壊せずに残っていれば、ポリ袋を用意しておき、満杯になったらその袋を蓋付きのバケツに入れ、ゴミの収集がまわって来たらやっと出せる…みたいなところだそうだ。そういうことは知識として得られなければ解らないことで、だからこそ椿さんたちは災害に打ち勝つ秘策として、〈防災の知恵を身につける〉ことを勧めているのだ。

【運は身につけるもの】
椿さんが熊本に行った時、熊本の災害支援の方たちと話していて「運は身につけるものなのですね」と言われたという。よく「地震が来たらそれはその時の運で、死ぬときには死ぬし、怪我する時には怪我するし、生き残れる時には生き残れる。その時の運だ」と言われる方がおられるが、その熊本のひとが言ったのはそういう意味ではなく、防災の知恵を身につけておけば、いろいろな判断が出来るようになる。南海トラフが起こるとしても、お住まいの地域が震度幾つで揺れるかとか、大雨が降った時に家の近くに川がないか、避難経路上に危険な箇所はないか等々、学んでいれば生命を落とすこともないが、それがなく何となくで生きていると判断材料が少なくなり、怪我をしたり、生命を落とす結果になるという意味で「運も身についている」ということなんだと思ったという。

【避難所での生活】
熊本から帰る飛行機の中から街中をみると、ところどころの家にブルーシートが掛けられていた。これは被災後に瓦などが落ちて雨漏りが酷いのでかけられているのだが、まだシートが掛けられている家はよい方で、掛けられていない家々もあったそうだ。屋根にブルーシートを掛ける作業は、高所作業になるので特殊ボランティアの作業か業者がすることで、一般のボランティアでは出来ないのだ。どちらにしてもこの状態では住めないので避難所で寝泊まりすることになるのだが、避難所になるところは学校の体育館とか公民館などの床に布団などを敷いて、そこで何日も生活しなければならない。当然車いすの人や高齢者はベッドでないと寝起きがままならないから、そういう人たちに配慮された避難所を運営している人がいるかどうか。福祉避難所に指定されているところはいくつかあるものの、災害が起きてすぐに開設されるわけではないという。一般の避難所が立ち上がって、そこではケア出来ない人が出て来てはじめて福祉避難所が立ち上がるという仕組みなので、災害が起きたら直ぐに入れるわけではないとのこと。指定避難所でないところでもちょっと広いところでブルーシートを敷いて、みなさんがそこに集まっているところもあるし、ペットを飼っている人たちは避難所の外で寝泊まりしているという。

【避難所での食事は…】
熊本震災の時のある避難所での食事は、一ヶ月ぐらいは基本的に缶詰めに菓子パン、おにぎり、カップ麺。炊き出しがあればよい方。一ヶ月が過ぎてやっとお弁当が加わる。けれど、それも三食ではなく、一食がお弁当であとはパンという程度。その地域によって必ずしもそうではないかも知れないが、椿さんが入った地域がたまたまそういった状況だったという。

【トイレ問題】
トイレ掃除は女性だ…みたいなことになっているけれど、誰でもトイレ掃除が出来るようにしておかないと…。何故かといえば、トイレは生命と直結しているからだという。汚いトイレは万病のもとで、最近はどこのトイレでもキレイになっている。椿さんが熊本で経験した避難所のトイレには、「使用後は水を流して下さい」と張り紙がしてあった。ということは上下水道管とも壊れていない状況だと解る。その一歩前、水があまり使えない状況になると「オシッコは流さないで下さい。ウンチをした人は水を流して下さい」という状況になる。とにかく避難所のトイレは直ぐに汚くなるので、トイレをきれいにしましょうと言っているとか。簡易トイレも来るけれど、臭くて汚くてなかなか使えないそうだ。トイレが汚いと、トイレを使いたくないという理由から、トイレを我慢して、飲食も控える。そうすると免疫力の低下に繋がり、あらゆる健康被害の温床になるのだ。それが悪化すれば、死に繋がってゆく…。だから、トイレはきれいにしておかないといけないのだ。東日本大震災の時に東松島市の保健師さんが余震も落ち着いたので、各避難所をまわったところ、あるひとつの避難所を若いお母さん方が運営されていて、トイレがピカピカだったという。その避難所からはノロウイルスやインフルエンザの感染者はひとりも出なかったという。

【一番よい被災生活とは?】
そのお母さん方は、避難者のひとりひとりの様子を観察していて、「この人はちょっと元気がない」とか「動いていない」などの記録を書きためていて、医療関係者が入った時にその記録を渡し、ひとりひとりについて説明していったら、的確な医療行為や福祉避難所への移送などができたそうだ。そんなふうに人を見る目を持っている人たちが避難所を運営されていると、不安や恐怖心を抱えた避難者たちが少しでも安心出来る場になる。避難所に行かないことが一番よいのだが、それにはそれ相応の準備をしておかないといけない。それでもし余力があるのなら、自宅での生活を続けながら、避難所でお手伝いをしていただくということが一番よい被災生活だという。

【避難所の実情を知っていますか?】
避難所というのは大概地域の学校の体育館になるのだが、そこに毛布が何枚あるとか、食料はどんなものがあり、備蓄がどれぐらいあるか、知っているだろうか? 大概のひとはわからないと思う。防災講座をしていると、避難所に行けば何とかなると思っているひとが結構多いのだが、現状はそういうことでもないという。現在増やしつつはあるそうだが、基本的には一般的な避難所で毛布は50枚。その毛布をどういう人に分けるかという話しあいがなされていればよい。しかし、我先に欲しいという人たちに毛布を渡していたら、高齢者や体が弱っている方たちに行き渡らなくなってしまうというのだ。

【震災関連死は人災?】
東日本大震災では本当に多くの方が犠牲になられた。資料として被災現場の写真や動画を見せるのは簡単なのだが、お亡くなりになられた方々の気持ちを伝えることは、私たちは出来ないと、椿さんはいう。こんな目に遭うんだったら、こうしておいたのに…という伝えられないのが非常にもどかしいと…。交通事故で子どもさんを亡くされた親御さんたちが〈二度とこんな悲しい思いをしないために、こうしましょう〉という運動がある。自然災害の被害はいろいろとあって、地震で直接亡くなることを〈直接死〉といい、その後の生活の中で亡くなることを〈関連死〉という。熊本では〈直接死〉50人に対し、〈関連死〉
が177人にも上っている。それだけ多くの方が避難所生活で亡くなられているという実状があるという。確かにエコノミークラス症候群とか、災害に遭われた時に傷を負って手当を受けている最中に亡くなる方もおられるけれど、それは別に避難所へ来たからではない。そうではなく元気に避難所へ来たのに、避難所での生活の中でトイレの問題や、それに伴う免疫力の低下、生活不活発病だとか、脱水だとか、膀胱炎やノロにインフルエンザ…。避難所に来なければ亡くなられることはなかったのかも。そう考えると〈震災関連死〉というのは人災かも知れないと、椿さんは思っている。その震災関連死をなくすために災害系の人たちは考えているのだが、いろいろな条件や地域性が異なるから、過去の例を挙げても通用しない場合もあり、残念ながら未だに解消されていないという。

【税金の無駄遣いをなくすために】
国もいろいろと対策を出してはいるのだが、それが末端まで届いてない現状もある。最近椿さんが講演の中で〈税金の無駄遣いをなくすために〉というフレーズをよく使われているという。例を挙げると『ハザードマップ』などが各市区町村から配布されている筈なのだが、それを知っている人は少ない。これを読んで学べば椿さんの話を聴かなくても良いぐらいのもので、災害から身を守るための情報がぎっしりと書かれてあるのだが、重要なものとしての渡され方をされておらず、まるでデリバリーピザ屋の広告のようにポストに入れてあるだけで、何の説明もない。渡す方に「これは重要なものだ」という認識があったとしても、受け取る側にそういう認識がなければそのまま新聞と一緒に括られて、廃品回収に出されてしまう。これは名古屋市なら名古屋市の税金を使って作られているものなのだ。災害対策のものは名古屋市だけではなく、保健所から出しているものもあるし、警察からや消防や都市センターからもだされているのに、それもあまり知られていない。ゴミの減量にしてもそうだという。震災が起きると冷蔵庫などの電化製品は倒れて使えなくなる。そうするとゴミとして廃棄しなくてはならなくなるのだが、冷蔵庫を留めておけば倒れなくて、壊れないかも知れないのだ。電子レンジでも飛んで来て床に落ちたら、もう使う気にならない。また買わないといけなくなり、その分ゴミが増えてゆく。そのゴミを処分するのにも税金が使われるわけだ。つまり防災対策をすることは、税金の無駄遣いをなくすことに繋がるというわけである。おまけに余分な出費もなくなる。

【避難所では住めない?】
東日本大震災の時に宮城県七里ヶ浜町の避難所には、開設当初でも1800人~1900人ほどいたが、近くの石油コンビナートの火災があり、更に避難者が増加した。座ることが出来ず、立ったまま体育館で一夜を過ごしたという。学校の校舎やグラウンドも解放してマイカー組も受け入れたらしい。でも、マイカー組はヒーターが使えるうちはよいけれど、ガソリンがなくなるとヒーターも使えず、寒いので結局は校舎の中に入ってきたそうだ。東日本大震災の場合は日中だったので、家族が全員揃ってなく避難場所もバラバラで、自分の家族を探すのに車を使わねばならず、それも大変だったという。行方不明者も多く、ひょっとして…と、遺体安置所に確認に行き、でもガソリンが切れたのでそれもままならず、安否確認が出来ない状態で幾日も過ごさねばならなかったという。体育館のようなところに人がびっしりといるわけで、その中でトイレに行くのも一苦労。チェアウォーカーの方は顕著で、もう住めないと言って出て行かれる方もいらっしゃられたそうだ。

【帰宅困難者対策】
帰宅困難者対策も進められつつある。駅をイメージすると解るのだが、電車が次々に来るからひとも流れて行き、駅はひとで溢れかえらない。でも、電車が来ないのに人ばかり増え続ければ、駅は飽和状態になってしまう。東日本大震災の時、東京で電車が動いていないのに自宅へ歩いて帰ろうとした人たちで、車道に出て歩き出す人がいて車が走れなくなり、緊急車両が通れなくなったことがある。その教訓から東京でも名古屋でも、そういう状況に遭遇した時には出先に留まるような対策が取られるようになった。名古屋駅前の新しい高層ビル群の通路が広めにとってあるのは、災害時の帰宅困難者対策のためでもあるのだろう。

【椿さんが望むこと】
災害直後には医療関係者とか、いろいろな職能団体が入って支援をしてくれるのだが、自分たちの仕事が一段落したら帰ってしまう。気がかりな人がいるのだが、引き継ぐ人(先)がいないので何も言えない。そうするとまた次の人が診ることになる。それがドクターならよいが、介護関係の人だったりして、医療的になかなか連続性がとれなかったりする。そんな時には周りにいる人たち同士気を遣いあい、「調子よさそうじゃないけど、どうです? 一緒にご飯食べに行きません?」と誘ったり、「今日元気がないのよね、あの人」「気になるよね? 先生に言ってみようか」みたいな、避難所の中にいる人たちでこういう会話が交わせるようにしなければいけない。そのために椿さんは講演する時、災害があってもみなさんには家にいて、時々避難所へ手伝いに来て、そういう人になってもらいたいなと話をされているそうだ。「避難所に行けば何とかなる」ではなくて、生命に関わってくることなので、家の耐震性を高めて引っ越しをするとか、備えを万全に自宅で食事も出来て避難所に行ってお手伝いをする生活が望ましい。そういう人をたくさん作らないと、避難所は大変なのだ。なにしろ避難所運営をしたことがない人が、避難所を運営するのである。「避難所」というものが、どんなところなのか解らない人たちが集まって運営するのでわからないし、先読みが出来ない。それで後手後手になり、気がつけば震災関連死が出てしまう…。それをなくしたいのだという。

【その時、その地震、その場所によって】
避難所の問題はそれに留まらない。プライバシーがないし、熊本の場合は本震の前に割と大きな前震があり、その前後にも震度6以上の余震が五十数回あって、建物の中に居ること自体が怖いので車の中で生活する人たちが多かった。しかし、その結果エコノミークラス症候群を起こし、家に戻った人もいたとか。エコノミークラス症候群は中越地震の時から注目されだしたそうなのだが、熊本では本当に多かったという。そのようにその時、その地震、その場所によって、いろいろ被害の様相が違うそうだ。

【被災地で実際にあった話】
ある避難所で実際にあった話。そこの避難所は大きなところだったが、ある女性がトイレの前の通路を割り当てられた。しかし、トイレの前ということで衛生的に芳しくない。公共施設のトイレなど靴を履いたまま利用する。つまりその女性の鼻先をトイレから出てきた不特定多数のひとたちが行き交うのだ。不衛生このうえもないが、この女性は周りに気を遣ってか何も苦情を言わなかったという。この場合の対策としてはトイレの出入りにスリッパを履き替えてもらったり、車いすのタイヤの幅に濡れタオルを敷いたり、女性が寝ている周りに間仕切りを立てたり、知識があればそういうことも出来るのだ。障害があろうとなかろうと、そういう知識があれば「こうやって下さい」「こうしてあげないと、あの人たち病気になりますよ」ということが言えるだろう。

【ひとりひとりに対応する避難所は…】
ひとにはそれぞれの人生があり、ひとりひとり違うように、避難所での対応もひとりひとり異なるべきなのに「障害者」「健常者」「男の子」「女の子」「女性」「男性」と一括りにされてしまう。国際交流関係の人たちも「外国人」だけをまとめた避難所にすれば、良いのではないかと言っているひともいる。しかし、近くの人ばかりならよいが、遠くの人たちまでそこにまとめようとするには無理がある。LGBTの方たちやイスラム教の人たちの祈りの場やハラール食や特定の食物によるアレルギーの問題もある。これまでのような避難所運営をしていてはこういう問題は解決出来ないどころか混乱を招き、避難所を忌避する人たちが出て来よう。この問題を解決するには避難所を運営する人たちに防災の知識はもちろん、ひとに対する幅広い理解と見識が必要になってくる。しかし、実状は…。LGBTの人たちが全員カミングアウト出来ればよいが、出来ないひとが多いし、避難所を運営する人たちは割とお年を召した方が多く、そういう方々に理解が及ばないかも知れないので、現状では非常に難しいだろうという。

【マイノリティーな人々にも配慮する】
しかし、最近東京の渋谷区では、「渋谷区男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例」に基づいて、男女の人権の尊重とともに、「性的少数者の人権を尊重する社会」の形成を推進し、多様な組み合わせの二者間によるパートナーシップ証明書の交付申請の受付を平成27年10月28日から、証明書の交付を11月5日からはじめている。徐々にLGBTという言葉が知られるようになったことはよいことだが、その知識がある人が運営する避難所と、ない人が運営する避難所とでは大違いだという。炊き出しの講習をする際、アレルギーの方やイスラムの方のことを気遣い、椿さんは最低限のものを作り、その方が食べられるものを足して行って差し出すのだそうだ。例えば炊き出しで今日のメニューが〈うどん〉だとすると、〈お汁〉だけを作っておく。〈うどん〉も茹でておいてアレルギーのない人には〈お汁〉に〈うどん〉を入れて「はい、どうぞ」と。アレルギーの方には〈うどん〉を入れない〈お汁〉を渡して〈おにぎり〉をプラスするそうだ。肉が駄目な方がいる場合は全体的に肉を入れず、「お肉もありますけれど、どうです?」と。プラスの食事を考えているという。そうすると、誰にでもやさしい食事になるだろう。

【避難所の環境で生命を落とす】
避難所というのは何もすることがなく、一日中ボォーとしているところだという。家にいれば植木に水をあげたり、洗濯物を取り入れたり、新聞を取りに行ったり、高齢者でも子どもでも何かしらの役割はあった筈なのに、避難所に入ってしまうと家に帰ったり、行き来するのに車がなく足がなかったり、迷惑かけるといけないからと避難所にいることになり、仕事がないので一日ボォーとしている。持って来た荷物も開けずに無気力で何も出来ないという人もいるとか。地震に遭ってストレスを受けていて、苦しい想いをされていて、この先どうするんだろう? 行方不明になっている家族はどうなっているのだろう? 怪我をしていたり病気をしている人はどうしているのだろう? と考えたりしているとふさぎ込んで動きたくなくなる。いろいろ心配で眠れなくて、睡眠薬を飲む。そうして機能低下になってくるのだ。避難所の環境で生命を落とすとは、そういうことだろう。被災のショック、厳しい生活環境。体育館はひとが住むところではなく、運動する場所や人が集まって式典をする場所なのだ。東日本大震災の時には2012年の一年間で638名の方が震災関連死で亡くなられているという。しかし、これは医者が震災関連死だと認めたもので、申請書はもっと出ている。せっかく震災から生き延びた生命が、避難所の生活で亡くなるなんてあってはならないこと。エコノミークラス症候群を起こすのは、自動車の中だけではなく、避難所でじっとしているだけでもなってしまうそうだ。認知症が驚くほどに進行してしまったとか、杖をついて歩いていた人が車いすを利用するようになったとか。

【避難所を快適な環境にするために】
災害が起きた時に慌てて立ち上げるから、こういった様々な問題が起きて来るわけで、平常時に避難所運営をする人たちを集めて、避難所を運営するにはどういう機能があったらよいか、どういうものを備えておおいたらよいかという話しあいがなされていて、災害が起きていざ避難所を立ち上げましょうといった時にそのノウハウをもった人たちが集まって開設出来れば、起こる問題も少なくなるでしょうし、問題について話し合いができるということにつながる。声を出すことも大切で、酷い環境にあったり、困ったことがあっても誰に言えばよいのか、ひとりだけわがままは言えないから、自分が我慢すれば何とかなるって何も要望しない人がいる。こういうことが重なり、要望を言わないことがよしとする空気になってゆくと、高齢者の方たちも何も出来ないストレスから体調が悪くなるということに繋がってゆくという。赤ちゃんが夜泣きをするからと、お母さんが寒い中外に出て赤ちゃんをあやすことがたくさんあったと聞いている。赤ちゃんはお母さんのことを見ているから、お母さんが大きなストレスを抱えていれば、赤ちゃんもそれを感じ取り機嫌が悪くなるのは当然なのだ。お母さんが「大丈夫だよ」「楽しいね」「嬉しいね」「いい子だね」「元気だね」「可愛いね」と言っていれば、赤ちゃんもいい気分でいる。おとなでも叱られるより、褒められる方が気持ちがよいもの。そう考えるとお母さんの気持ちが安定していないといけない。そういうような環境をつくってゆかなければいけないよね…と、椿さんは若いお母さん方に言っている。

【普段ではあり得ないことが起きるのが災害時】
平常時では考えられないことが起きるのが災害時であり、避難所なのだという。家族揃って避難している子どもたちは元気だ。学校が休校になるのと、忙しい大人の目が届かないのでやりたい放題になる。静かに遊んでいれば何の支障もないのだが、そこら辺を走り回ったり、騒がしいと大人たちに「うるさい!」と叱られて、それが6年の時間を経て子どもたちにPTSDの症状として現れてくる…。そのように普段の生活ではあり得ないことが起きるのが災害時だという。温和しい子が急に暴力的になったり、怒りっぽくなったり、落ち着いていた子が落ち着きがなくなったり、赤ちゃん帰りしたりするそうだ。

【必要な情報の出し方はそれぞれに配慮する】
避難所に届けられる救援物資の配布は大混乱。物の取り合いで、今度いつ来るか解らないから、貰えるものならなんでも貰っておこう…みたいなことになり、取りあいになってしまうというのだ。情報も解りづらいという。自分の生活に必要な情報なのか、そうでないのか区別もついていないような掲示の仕方がされているとわからない。外国人に対してもやさしい日本語やイラストで示してもらえるとよいだろうし、聴覚や視覚に障害をもたれている方たちはどういう風に案内をしたらよいのか。必要な情報の出し方はそれぞれに違う。そういうことも避難所を運営する人たちが理解しているか、いないのかによって、そこに避難している人たちがきちんと情報をもらえるか、かなり左右されるそうだ。

【男女共同参画で避難所運営を】(名古屋市は男女平等参画)
東日本大震災の後に出来た防災紙芝居に、こんな場面がある。ある避難所の運営委員の中年男性、頑張って救援物資の受け渡しをしていた。そこへ若い女性が下着か生理ナプキンを貰いたくてやってくるのだが、受け渡しを行っていたのがその男性だけだったので恥ずかしくて、貰わずにそのまま帰ってゆく…。というストーリー。男性に罪はない。自分の役割をこなしているに過ぎないのだが、運営委員の中に女性が入っていれば、こんなことにはならなかったろう。それでなくても避難所の運営は町内会長とか、区長とかお年を召した方が多く、そんな方が三日三晩働き続けて、よく「どこどこの会長さん、倒れて入院しました」ということを聞くという。男女共同参画で運営しましょうというところで、男性5人が運営しているところなら、そこに女性も5人入れて10人で運営して役割分担すれば、ちょっとは楽になるのでは…と、椿さんは思っている。女性のことは女性でやりましょうよ…と女性が言って分担すれば、男性も倒れなくても済むし、女の子も救援物資の下着が貰えるわけだ。

【救援物資の担当は女性が適任】
近頃は男性も家事を手伝ってくれる機会も増えているけれど、家の備品を旦那さん(男性)がひとりで行って、ひとりで買って来ることなどあまりない。車は運転して行ってくれても、〈トイレットペーパーはこの種類のものを買う〉とか、〈台所の洗剤〉〈トイレ掃除の洗剤〉〈洗濯用の洗剤〉などを選んで購入するのは奥さん(女性)だ。なにがいるのかを書き出すのも日頃から家事をこなしている女性ならお手の物だが、男性には苦手な人が多い。だから物資の係は、女性が担当した方がよいのだ。

【仮設住宅はバリアフル】
熊本地震の時に、熊本学園大学が福祉避難所になった。それはこの大学が福祉学科を持っていたからで、インクルーシブな避難所として近隣の誰でも、障害の有無に関係なく受け入れていた。そこの人に聞いたお話によると、仮設住宅が出来た時に割り当てられた住居のトイレが狭くて車いすでは使えなかったり、お風呂が狭くて入れないとかあったそうだ。健常と呼ばれる方たちはトイレやお風呂が狭かろうと住めるが、車いすの人はそういうわけにもいかない。つまり健常者にとってお風呂もトイレもある普通の仮設住宅が、車いす使用者にとってはお風呂もトイレもない住居と同じことになってしまうのだ。何とかしてくれと言ったら、「特別扱いは出来ません」という回答が返ってきたという。お風呂もトイレもない住居なんてあり得ないし、県の事業にしても、福祉課があるのにどうしてそこと情報交換したり、一緒に進めようとしないのか? これも縦割り行政の弊害である。

【報道されない被災地もある】
福祉避難所の必要性は東日本大震災の前から言われていたのだが、東日本の場合は被災した範囲が広く、原発の問題もあったから、あまりマスコミも取り上げていなかったのだがその点熊本ではこぞって取り上げていた。名古屋でも福祉避難所の情報はなかなか公にしないところがあって、公にすると普通の健康な人も行ってしまうからとか。被災地の情報なんて100%入って来ないと思っていた方がよいという。広島の水害が起きたのとちょうど同じ時に、兵庫県の丹波市でも水害が起きたのだが、それを取り上げたマスコミは皆無に等しかった。それは何故と言えば、広島の方が水害による被害が大きかったからだという。マスコミは同時期に水害が起きていても、どうしても被害が大きい方、悲惨な方を取り上げ、報道する傾向がある。マスコミに報道されると、そこにボランティア・救援物資・義援金が集まってくるが、報道されない被災地は市民団体のネットワークを通じてしか支援の手が入らないのだそうだ。

【避難勧告、避難指示は早めに】
広島の水害があれほど甚大な被害を出した背景には、水害が起きたのが夜中で、しかも避難勧告が遅れたことによるのだが、避難勧告や避難指示というものは、本来首長が出すもので、首長の責任には重いものがある。夜中に避難指示や勧告が出されたとしても、それに気づいて速やかに避難出来た住民はどれぐらいいたのだろう。首長は災害対策の専門家ではないから、対応が後手後手になってしまったということもあるかも知れない。

【避難準備情報】
しかし、これは行政の責任ばかりを言うのではなく、私たちも自分が避難するタイミングの判断が必要だという。車いす使用者であれば大雨や台風が来る前にバリアフリーで安全なところに避難するとか、高齢者や妊産婦さんでも明るい内に早め早めの避難が大切で、それが「まだ避難しなくても大丈夫」とか「今までここにはそんな災害来てなかったから、今回も大丈夫」みたいな『正常性バイアス』というそうだが、そのような思い込みで避難する頃合いが遅れて被害に遭ってしまう人も結構いる。避難準備情報だから避難の準備をすればよいと勘違いして、玄関に座っていたおばあちゃんがいたという冗談がある。最近では『避難準備・高齢者等避難開始』と名称は変わった。それは「速く避難してくださいね」という意味で出しているもので、まだまだ理解がされていないのかなと、椿さんは感じているという。

【大川小の悲劇からの教訓】
椿さんは東日本大震災の時の石巻市の大川小学校の被害を検証した報告書を読んだそうだが、現在の学校教育の中では、どこでもあり得るようなことだと書かれてあったとか。しっかりとした防災訓練が出来ているかといえば、出来ていないところの方が多いからだという。確かに教育現場における防災教育の必要性も感じる。子どもたちのみならず、先生たちにも。大川小学校に対して、釜石市の鵜住居小学校と釜石東中学校はしっかりと防災教育を受けていたので、幼稚園や保育園、地域の人たちも巻き込んでとにかく高台へと逃れて学校にいた子どもは皆無事だった。この対比を思う度、私(大久保)は小泉八雲が実話を基に書いた『稲むらの火』の物語を思い出さずにはいられない。あれは教育現場の話ではないけれど、地震が起きたら津波が来るから高台に逃げろという、そんなあたりまえの先人の知恵が詰まった物語である。東日本大震災から6年が過ぎた今日でも、危うく難を逃れた子どもたちが被災現場の掃除に毎月集まって来るという。ここがなくなってしまったら、自分たちの思い出も消えてしまうからと…。

【日本に住まう覚悟】
過去に世界中で地震が起きたところに赤色の点を置いてゆくと、日本列島は真っ赤になる。それをみると、やはり地震が起きて当たり前だと思う。南海トラフも100年~150年周期ではない時もあるのだが、ここ20年で阪神淡路が21年目で、中越があり、能登半島があって、岩手・宮城内陸地震、中越沖地震があって、現在は東京直下型もあり、南海トラフも来る…と云われている。活断層もいっぱいあって、まだまだ%は低いけれど、動く可能性があると云われている。だからそのために備えないといけないなと思う。そうはいうものの、自分たちの学生時代の防災訓練も、緊張感に欠け半ば儀礼的に行われていたものだった。他の地域はあちらこちらで震災なり、水害なり被災しているが、名古屋圏に関しては東海豪雨以来、大きな災害は起きていない。だから〈災害ボケ〉しているのだ。熊本でも、周期的に地震が起きていて、その度に熊本城の一部が崩れ、修復されているという。地元のボランティアさんにお話を訊くと「やはりここが崩れたね」と言っている。その地中深くに地震の巣が走っていて、熊本も周期的に揺れているのだ。そうしてみると「地震が来るとは思ってなかった」という感想は、なんでかなあ~と、椿さんは不思議に思っている。名古屋市や内閣府のHPをみてみると、防災対策をしておけば亡くなる人が減りますよという数字が出ている。耐震をしたり、家具止めをしたり、揺れて避難する経路に物があって逃げられないとか、倒れた家具の下敷きになって逃げられなかったり、周りの人たちが避難してしまったら「助けて」と叫んでも助けてくれる人がいない。そういうことを考えると、やはり家具や家電をきっちり留めて、避難する経路を確保して備えていただければ…と、椿さんはお話を結んだ。

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ジネンカフェVOL.114のご案内

2017-04-10 09:27:58 | Weblog
ジネンカフェVOL.114
日時:5月13日(土)14:00~16:00
場所:くれよんBOX
ゲスト:井上満夫さん((株)テイコク)
タイトル:市民活動への関わり~なぜ関わっているんだろう?
参加費:500円(お茶代別途)

ゲストプロフィール:
大学で都市計画・交通計画を学んだ後、現在の会社に就職。そのころ様々な市民活動にも顔を出し、愛知県の人にやさしいまちづくり連続講座から派生した尾張地域を活動する市民活動団体尾張ひとまちネットに所属。第13回日本福祉のまちづくり学会全国大会刈谷大会の実行委員を務め、日本福祉のまちづくり学会東海北陸支部幹事として活動中。また、TOYOTA Gazoo Racing Netz Cup Vitz Race に参戦中でもあり、何をしているかさっぱりわからない人です。

コメント:
僕が人にやさしいまちづくりに関わるきっかけから、現在の活動について話します。子供のころ見たテレビをきっかけに障碍者を手助けできることができないか考え、また地元一宮を盛り上げようとする方々と共に何ができるか考え、そして震災の災害復興の過程も見
つめながら、街づくりを考えています。様々な現場に出向いて体験し、いろいろな人にお会いして勉強させてもらっております。現場に出向かなければやっぱりわからない。
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ジネンカフェVOL.111レポート その4

2017-03-29 20:36:09 | Weblog
『パネルトーク』が終わり、休憩を挟んで第二部は、ジネンカフェではもう定番になりつつある『ワールドカフェ』いつもの白川陽一さんに代わり、今年のファシリテーターに〈(株)対話計画〉の三田祐子さんをお迎えしてのワールドカフェだ。

三田祐子さんは、もともと土木関係のコンサルさんなのだが、多様な人々がいる中で、〈住みやすい、過ごしやすいってどんな場なんだろう?〉と問いながら都市計画設計や測量をする一方、そこでの人々の関わりに重点を置いていることから、人にやさしいまちづくり連続講座や地域のまちづくりびと養成講座や公共施設の設計における市民との対話の場でのファシリテーターを務めるなど、限りなく現場に近い活動をされている。多様な関心を持った人々が、わくわくドキドキな場で出会い、多彩なテーマで、対話や交流をする”未来茶輪”を金山で開催するなど、いろんな”つながり”を大切にした場つくりに関心があるという。

『違いは個性、多様性の中で光る個性~みんな違って、みんないい~』というテーマにあわせて、あらかじめ対話のテーマを「多様な個性を大切にしてゆくために、わたしたちはどんな未来を子どもたちに手渡したいですか?」と考えておき、最終的には『パネルトーク』の3人のゲストさんのお話を聴いてから決めようと打ちあわせていた。しかし、加藤博子先生、竹内由美子さん、加藤真理子さん、それぞれの立場からのお話を受けて、対話のテーマはやはり「多様な個性を大切にしてゆくために、わたしたちはどんな未来を子どもたちに手渡したいですか?」に決めた。

時間的な制約もあり、存分な対話は行えなかったかも知れないが、それぞれのテーブルでは真剣な対話がなされていたようで、有意義な時間であったのではと、自画自賛している。
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ジネンカフェVOL.111レポート その3

2017-03-29 20:31:54 | Weblog
『パネルトーク』ラストは、福祉相談支援の専門家でもあり、保育士でもあり、日頃から子どもたちとの接点も多いという、社会福祉法人浜松市社会福祉事業団相談支援員の加藤真理子さん。加藤真理子さんは、知的障害者入所更生施設から始まり、知的障害児者の余暇支援、就労支援、ケアホーム世話人、ベビーシッター、児童発達支援センター保育士など様々な福祉職を歴任され、現在は社会福祉法人 浜松市社会福祉事業団 浜松市発達医療総合福祉センター 相談支援事業所シグナル 相談支援専門員をされておられる。仕事以外に、障害者のアートや製品を紹介する団体OTSUに所属し、2015年にフィンランドにて展示会を行ってきたという。とにかくモットーは「思い立ったが吉日」まさに感覚で生きている人間。人と人とが関係することに最も興味を持っており、それが自分の原動力であり、ライフワークだという。

【現場を歩いて来てからの相談支援という仕事】
現在は相談支援員をされている加藤真理子さんだが、以前はずっと福祉の現場で仕事をされていて、相談の仕事をするなんて思ってもなく、また一番やりたくないと思っていたという。デスクに座って話を聴いて「ふんふん」と頷いている、動きもなにもないという勝手なイメージがあり、現場でないところなんて考えもつかなかったそうだ。しかし、たまたま最初に浜松市社会福祉事業団の児童発達支援センター(障がいのあるお子さんの通園施設)の保育士として働いていて、これもたまたま相談支援専門員の資格を取らせていただいたところで、現在の職場に移動になったという形になるのだという。自分がしてきた仕事の流れが知的障害の方の入所施設から通園施設、未就学のお子さんという現場を一通り経験させていただいたということもあって、それを踏まえた上での「相談支援」ということで〈これは流れがよいな〉と、タイミング的にもよかったのではないかと前向きに捉えているそうだ。

【相談支援という仕事】
しかし、相談支援という仕事を始めてみると、メチャクチャ忙しくて、いまの相談支援は計画支援といって、“じゃんぐるじむ“さんが使われるような福祉サービスを調整するというところでケアプランを立てさせて貰っているそうだが、利用者さんそれぞれが悩まれていることも違えば、〈こうしたい〉という要望も全然違うので、相談しに来るひとそれぞれのドラマがある中で仕事をさせてもらっているそうだ。

【相談支援事業所シグナルの理念】
加藤真理子さんが働いているところは、浜松市発達医療総合福祉センターというところで、浜松市の外郭団体なのだが、『はままつ友愛のさと』が愛称になっている。「相談支援」「医療(診療)」「通園施設(子ども)」「就労支援施設B型(成人)」の4部門あり、総合的な福祉サービスが受けられるところだ。加藤真理子さんが所属されている『相談支援事業所シグナル』には理念がある。〈ただあなたの声を聞こう 心静かに声を聞こう 一緒に語れる場所に 一緒に悩めるひとに 一緒に歩めるひとに〉ということで、忙殺される毎日を送っている。

【障害のない子どもの成長の過程】
加藤真理子さんははじめ、豊田市の社会福祉法人の入所更生施設に勤め、次に名古屋市の地域活動支援センターに勤めていた。ここでは珍しいイブニング型ディサービス事業をされていて、作業所に行っていた利用者さんを迎えに行き、夕食と入浴を提供して夜の8:30~9:00ぐらいにお送りするという仕事をされていたそうだ。夕方のアフター5というか、アフター4に出来る仕事だったので、楽しく余暇支援をされていたという。同じ会社で移動があり、日中のディサービス、就労移行支援事業所(次のステップに進むための就労支援事業所)、ケアホームの世話人を経て、この会社を退職したわけだが、福祉職とはいうものの、これまで〈障害〉のある方か、〈障害〉のある子どもさんしかみたことがないなと思い、そうではない子どもさんの成長の過程が解らなくなっている自分に気がつき(発達に障害があるかないかは1歳2ヶ月か、3ヶ月での診断で判断される)、保育士の資格は持っていたのでご縁があってベビーシッター会社にお世話になり、0歳~2歳までの健常児の保育に携わらせてもらったそうだ。ミルクを飲んでいるお子さんから、はじめて立ちましたとか、立って歩きました、トイレが成功するようになりましたとか、そういう過程を目の当たりに見せていただいて、ひとってこんなふうに段階的に育ってゆくのね…ということを知ることが出来たという。

【宣言した通りに…】
そのベビーシッター会社に就職する時に、加藤さんはそこの施設長に「私はもともと障害のあるお子さんの支援をしてゆきたいと思っていて、そのためには〈健常〉と云われるお子さんの成長の過程を知らなければと思いました。それを知った上でもう一度現場に戻りたいと考えています。その勉強をするためにここに来ました。次に行く場所が見つかれば、その時点で退職させて下さい」と正直に話をしていたという。そこで浜松市社会福祉事業団に採用された時点でベビーシッター会社を退職して、現在に至っているという。それは加藤真理子さんにとって、自然な流れなのだ。

【支援者側の想いだけではうまくいかない】
いままで働いてきたことを思い返しながら、自分の中で感じたことを幾つか挙げてみると、一つ目は「支援者側の想いだけではうまくいかない」ということ。これはもう初歩の初歩。大学で福祉を学んで直ぐに『地活』でも『就労支援型』でも働けるには働けるけれど、「福祉の店、頑張るんだ」みたいな気負いが出てくる。その気負いがくせ者で、〈誰かの支援をすることって、何かを手伝ったり、してあげるんでしょ?〉というか、「自分が何かを教えてあげないといけない。やってあげないといけない」ということで、最初の知的障害者入所更生施設では自分の想いだけを押しつけた支援をしてたのではないかと苦々しく思っているという。ご家族とはなかなか会えないし、ご本人も言葉よりも行動で意思を示すといった方たちだったので、かなり必死でその行動の意味を解ろうとしたけれど解らないという感じがあり、自分の気負いや想いだけではうまくいかなかったなあ~と、申し訳なく思っているそうだ。

【サービスはだれのもの?】
二つ目に「サービスはだれのもの?」現在支援を受ける人たちって実際の主役は誰かな?というところは、常に相談支援の中では考えられるのだそうだ。加藤さんたち相談支援員は、1歳から50歳代までの方のケアプランを立てている。ご本人と話をすることも多いのだが、お母さん方から話を伺うことがすごく多く、一つの例をあげると特別支援学校の高等部二年生のお子さんのお母さんが、いままでも放課後ディサービスを週5日間使えますということでケアプランを立てさせてもらっていたのだが、ある時「わたし、もうひとつ別の場所を土曜日に利用させていただこうと思っていて、ちょっと見学に行ったんですよ」という話を受けたという。そこはもともと通っていた放課後ディ施設とは全然違うタイプで、障害のある子のお母さんが立ち上げられた事業所で、〈その人はその人のままでよいじゃない。好きなことを好きなだけやればよいよ〉という感じの施設だったから、いままで積み上げてきた療育や教育が崩れてしまうのでは? と、学校も、もともと通っている放課後ディ施設の方たちも凄く心配されていたが、加藤さんはご本人が高等部を卒業するまでにそういう事業所を経験できるってプラスになると思って、「利用してみた感じ、また教えて下さいね」と言っていた。そのお子さんは色水を作ったり、クレヨンが大好きで絵を描いたり、ものを作ったりする子だったのだが、新たに通いはじめた放課後ディ施設ではそれを自由にやらせてくれるのだ。楽しくない筈はないだろう。しかし、学校やもともと通っている放課後ディ施設で同じことをするかといえばしなかったそうだ。つまり周囲の心配は杞憂に終わり、それまで学校や放課後ディ施設が培ってきたものは崩れていなかったのだ。というか、その人はその場その場で〈してはいけないこと〉とか〈してもいいこと〉をわきまえられるほど、しっかりしていたのであろう。

【本人が何をしたいかで、その場所を選ぶ】
そのお子さんが新しい放課後ディ施設に通い出して、加藤さんはその子のお母さんの変化に気がついたという。いつもは一時間面談して「〇〇(もともとの放課後ディサービス)に通われて、〇〇くん、どんな様子ですか?」と尋ねても、一言二言「うん、いつもと変わらない感じだねえ~」という感じなのだが、その子が新しい放課後ディ施設に通い出してからというもの、そのお母さんがお子さんの様子を「こんなこともした」「あんなこともやらせてもらった」「本当に楽しそうで…」という感じでよく話してくれるようになったのだ。それを加藤さんが指摘されると「あっ、そう」と自分でも驚いたリアクションだったという。いままでは他の兄弟姉妹もいて、その子にばかりかかりきりになるわけにもいかず、放課後ディサービスを使わざるを得なかったこともあるのだが、それはその子のためでもあったかもしれないけれど、自分のためという意味あいの方が強かったのではないか? でも週一度のその新たな放課後ディサービスは、完全に子どものために選択したんだと自分でも気づき、加藤さんにもそう言ったそうだ。加藤さんにとっては、やはり〈本人が何をしたいか?〉で、その場所を選んでゆく…ということは、こういうことなのではないかと、改めて教えていただいたというか、お母さんと共有出来た事例だという。いまはサービスありきの世の中になってきているけれど、〈誰のために、どんな場所を選択するか?〉は、加藤さんを含めて福祉相談支援員の方たちの大事な部分ではないのかと痛感しているそうだ。

【子どもを取り巻く役割分担】
支援をされている方たちって一生懸命されているのはわかるのだが、〈自分たちのところで何とかしなくては…〉という想いが強くて、それは素晴らしいことだと思う反面、その子の全体像がみえないと独り善がりな支援になりがちだという。加藤さんも施設の職員だった時はその場所の、その時間でしかその子がみられないので、その時に何とか頑張ろうと思うのだが、その子が他に関わっているところってあるのだろうか…全くみえていなかったとか。たまたま現在の職場が医療・福祉の総合的な施設なのでケース会議も頻繁に行っているし、関係機関と話しあって〈自分たちは何が出来る?〉〈自分たちが出来ることはして、後はお任せしましょう〉というような役割分担をした方が、それぞれがそれぞれの専門性を出しあった統合的な支援が出来るのではないかと思っているそうだ。

【生育環境の大切さ】
子どもさんを取り巻く生育環境も大切で、例えば障がいがある子は薬を飲んでことが多いので、学校の先生などは「薬を持たせて下さい」とか「お医者さんに薬を出してもらって下さい」とやたらと〈薬〉に拘るそうなのだが、ドクターに言わせると〈薬〉というものは対処療法に過ぎず、それとあわせてその子がどんな生育環境に置かれているのかを探り、それに対する支援をしてゆかないと、薬だけでは結果は出ないということだ。周りがその子をどういうふうに捉えるか、解りやすい提示が出来るかを、加藤さんは毎日感じているという。



【発達の段階を知っておく】
加藤さんも〈いわゆる健常児といわれるお子さんの育ち方〉を実地によって学んだように、ご本人が現在どんな段階にいて、どういうことが理解出来て、どういうことは難しいのかという質問を相談支援の中でお母さんにされているそうだ。「(本人に)何度も何度も言っているのに解らないんです」と言われるお母さんが多いそうだけれど、言葉の理解が難しくて行動で示さなければ伝わらないお子さんだったりすると、お母さんに対して「言葉ではない部分で伝えていかないと解らないよ」と諭したり、先ほどの加藤博子先生の〈褒め褒め(リフレーミン)〉で「この子、こういう部分があるんですけど…」と、どうしても課題の部分がたくさん出るのだそうだ。「でも、逆に言えばこういうことだよね」というふうに言い方を変えて「ここはこういう風に思っているのではないですか?」とか「悪戯して悪いことをしたいのではなくて、お母さんこっちをみて、みてと言っているのでは? それがそういう方法を採っているだけで、お母さん、僕のことを解ってよと言っているのではないのかなあ?」と伝えているとか。

【褒めるのも難しい】
相手を褒めるという行為も難しくて、褒めどきとか褒めるタイミングとかみたいなものがあって、難しいとお母さんたちがよく言われるのだが、日本人の気質なのか褒めるってなかなか難しくて、大袈裟に褒めるとわざとらしくて、自分が恥ずかしくなってしまうけれど、子どもさんが少しずつ何かを達成してゆく。大人としては何年生だし、男の子だし、女の子だし、出来ていてほしいなと思う気持ちも大事なのだが、いま子どもさんがそれに向かってちょっとずつ階段を上っているよというところに関して、〈いま上れたんだけど…〉と誇らしげにお母さんをみるんだけど、出来て当然みたいな反応をされると、ご本人はものすごく悲しいので、そういう細やかな目線でお子さんの成長を見ていっていただきたいと、加藤真理子さんは思われている。

【ひとの想いに寄り添う】
加藤真理子さんは相談支援員として、ご本人やご家族の想いに寄り添ってお仕事をされているわけだが、ご家族もご本人をどうみているのか? どうみていくのかというところも、相談支援員としてお伝えしているという。

【子育て、発達支援とは】
加藤さんが勤める浜松市発達医療総合福祉センターには診療所もあるので、どういった障害をもったお子さんですという情報は、加藤さんたち相談支援員にも入って来る。けれどそれは基本的にそういう特質が疾患としてはあるのだけれど、その子としてはいまこういう段階で、ここを頑張るところですよというところをみているのだそうだ。保育士さんと一緒に保育園や小学校にお母さんたちから依頼を受けて訪問することがあるとか。訪問して先生からお子さんの状況を訊いたり、相談に受けたりして「このお子さんはこういう段階なので、こういうふうな声かけだと本人に解って貰えないから、こういう形に変えるとよいですよ」というようなリフレーミングを先生たちに対して現場でされることもあるそうだ。また、頑張っているのはお子さんだけではなくお母さんやお父さんたち、ご家族も同じなのでご家族に対しての評価も大事にされているという。医療関係者はよく「数値で出せ」とか「数値にしなければわからないよ」と云われることが多いそうだが、加藤さんの知りあいに竹内由美子さんの話に出た山元加津子さんがやられている〈指談〉を、言葉のない重度のお子さんが19歳の時に取り入れたら、それが見事にはまってその子は筆談するようになったという。ホワイトボードにいろいろなことを書くそうだが、出て来る言葉が竹内さんの息子さんみたいに凄くきれいで、世の中で起こっていることも全て解っているし、特別支援学校では〈型はめ〉とか〈玉転がし〉しかしてこなかったのに、妹さんがテストの素因数分解の問題をホワイトボードで書いていたら、その問題を普通に解いたという。我々が捉えていると思っていることはその人のほんの一部分でしかなくて、その目に見えている部分だけで判断しがちだけれど、それは受けて側の捉え方によって変わるのだということを、加藤さんは彼によって教えられたという。その彼がある時急に「駅」へ行きたがった時があり、お母さんたちは〈出かけたいのだな〉と思っていたら、兄弟姉妹が好き過ぎて帰って来るのを家の中で待っていられない。だから駅に行きたかったのだということが、その筆談をするようになってわかった。つまり彼の気持ちは、お母さんたちの思い込みとは違っていたというわけだ。直ぐにパニックを起こすのも、単にホラー映画が怖かっただけだったとか…。感じていることは我々と変わらず、いまでは彼を中心に支援会議が開かれて飲み会もして、てんかんも持っているのだが、自分で医師と筆談で相談して薬の調整をされているそうで、本当に驚かされるという。お母さんもそんなふうにコミュニケーションが取れるようになって嬉しいと言ってみえ、加藤さんたち支援者側もひとりひとりにあったコミュニケーションツールを発見し、取り入れたいところではあるが、なかなか難しい。どうしても一般的なコミュニケーションの方法を使わざるを得ないところもあって、最大公約数の人たちにあわせた形で「この中で生きて下さい」という感じ。でも、そうではない場所、そうではない方法で拡がって行くことも、加藤さんは目の当たりにして自分の支援に対する考え方も変化してきたのだという。

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ジネンカフェVOL.111レポート その2

2017-03-28 22:00:45 | Weblog
パネルトーク二番手は、日進市で発達障害児とそうではないお子さんを育てながら、NPO法人の理事長としても活動されている竹内由美子さん。竹内さんは2005年5月に共助グループ[じゃんぐるじむ]を立ち上げられ、2011年5月NPO 法人格を取得する。現在は支援事業として日中一時支援事業j クラブ、放課後デイサービスJ class、地域活動支援センターじゃんぐるじむwonder・juku の3事業所を運営。当事者として必要な事業を今後も展開していく予定。次男のGくんが知的障がいを伴う自閉症で、診断当初はA 判定だったが、8歳の冬に突然言葉がでてB 判定に。目指はIQ 向上ではなく、『QOL(生活の質)向上!』を合言葉に切磋琢磨の日々を送っている。

【“じゃんぐるじむ”の名前の由来】
竹内由美子さんは、現在高校三年生と二年生の男の子のお母さん。次男のGくんには知的障害を伴う自閉症の障害がある。竹内さんが理事長をされている〈NPO法人じゃんぐるじむ〉は、障害をもった子どもの家族とその支援者の会として2005年5月に、日進市の療育施設「すくすく園」に通っていた7名の母親たちにより結成された。〈じゃんぐるじむ〉の名前由来は、公園の遊具のなかても“じゃんぐるじむ”は沢山の人数で自由に遊べる数少ない遊具であり、しかも“じゃんぐるじむ”で遊ぼうとすると、全員が上を向かないと遊べない…ということで、子どもたちはもちろん、その家族も一緒に上に向かって上って行こう。そんな想いで名付けたという。2012年5月には、NPO法人として新たなスタートを切った。

【“じゃんぐるじむ”活動のあらまし】
NPO法人として、“じゃんぐるじむ”は社会の一員として地域にあたりまえに存在したいと願っていて、子どもたちの生活環境を整え、ハード面からもソフト面からも住みやすい社会をめざし、その実現をのために5つの事業を柱にした活動をされているという。一つ目は、保護者同士だからこそ解る悩みや問題を一緒に考えてゆくことを目的とした「ピアサポート事業」。二つ目はクリスマス会やバーベキューなどの家族間の交流を深めて、お互いを理解するための機会を提供する「交流事業」。三つ目はメールやWEB、情報誌での発信を中心に福祉制度などの勉強会や、将来を見据えた施設見学を行う「情報提供事業」。四つ目は上映会や講演会などの企画・運営、大学や専門学校での講師活動や、小・中学校や高校での福祉実践教室などの「啓発事業」。2007年12月に日進市で行われた『人権を考えるつどい』を運営し、特別支援学校の先生を描いたドキュメンタリー映画『四分の一の奇跡』を上映したことがきっかけで啓発事業に取り組むようになり、山元加津子さんを描いたドキュメンタリー映画の第二作目『宙の約束』では竹内さんとふたりの息子さんが出演し、障害についてや、Gくん自身の想い、その兄としての想いを話させてもらったという。五つ目は「支援事業」として、障害のある方の日中における活動の場を提供する〈日中一時支援事業じゃんぐるじむj クラブ〉。学齢期の子どもの放課後や学校の休校日における居場所づくり、生活をするための支援を行う〈放課後デイサービス事業J class〉。障害のある方が将来就職や地域において自立した生活を送れるように、いろいろな機会を提供する〈地域活動支援センターじゃんぐるじむwonder・juku〉 の3事業所を運営されている。〈支援事業〉としては、《サポートファイル》等々支援グッズの開発を行っているそうだ。

【サポートファイルとは?】
竹内さんたち、障害をもつ子どものご家族は、周囲の人たちから何度も同じことを質問されるのだという。〈病院に行くきっかけはなに?〉とか、〈何が出来るの?〉とか、〈コミュニケーションツールは?〉とか。いろいろな相談支援の窓口に行く度に同じ質問を繰り返しされ、またそれに同じく答えなければいけない。想像するだけでも嫌気が差してくるが、それを打破したいという思いから《サポートファイル》という支援ツールを開発されたとか。A4サイズになっていて、必要な情報をコピーして支援者に渡せることが出来るようになっている。これははっきりした書体で描かれているので、ポケットに入るようなA5サイズに縮小コピーしても読み取ることができるシートになっているそうだ。その他にも日進市や長久手市から事業委託を受けて、福祉ガイドブックの作成なども手がけている。

【竹内さんが息子さんの障害を疑うきっかけ】
竹内さんが次男のGくんに障害があるのかなと気づいたのは、Gくんが1歳になる少し前だったとそうだ。長男とは年子だったので、育ち方の違いが出てきたのだ。8ヶ月ぐらいまではお座りをして、テレビをみて、眼もキラキラして、障害を疑ったことはなかったという。幼児は1歳ちょっと前ぐらいになると「いないいないばあ」をすると何らかの反応をみせるものだが、Gくんは「いないいないばあ」をしても反応してくれなかった。それから竹内さんの心はザワザワしてきて、もしかしたら…というふうに思ったという。当時の竹内さんは〈障害をもっていたら、この子は将来どうなるのだろう?〉〈わたしの人生はどうなるのだろう?〉と思って、周囲の人たちにバレないうちに何とか普通の子にしようと思い、必死だったそうだ。その当時Gくんは言葉がないタイプだったのだが、それも療育をすれば何とかなると思っていたそうだ。

【バイブルに基づいて療育に励んだものの】
それは、家の中をすべて構造化させるところから始まった。構造化というのは〈ここで勉強する〉〈ここでご飯を食べる〉〈ここで運動をする〉というように、解りやすく場面を変えてゆくことをいうのだが、家の中でもそれを実践していたのだ。でも、Gくんがよくなることはなかった。柳田節子さんが書かれた『言の葉通信』という本があり、それはやはり言葉が出なかった子どもさんの保護者の〈こういうことをしたら言葉が出た〉という経験談や事例が綴られた本で、当時の竹内さんはそれをバイブルにして持って歩いていたそうだ。しかし、Gくんが幼児の頃に話し始めることはなかったという。Gくんが話し始めたのは、小学校二年生の冬だった。

【幼稚園から長男と一緒に卒園を迫られる】
家庭ではGくんも兄のHくんと同じように成長していったのだが、幼稚園では勝手が違ったそうだ。その当時Gくんは発達教室というところに通っていたのたが、受け入れてくれるところがどこにもなかったという。そこで兄のHくんが通っていた幼稚園に年子ということもあって、発達が遅い子として入れてもらった。それでもHくんが卒園する時にGくんも卒園して下さいと幼稚園から言われ、どうしてあと1年あるのに長男と一緒に卒園しなければならないのだろうと思ったが、実は、Gくんは自分の幼稚園のクラスではなく、兄のHくんの教室で過ごしていたのである。それを竹内さんは知らなかったのだ。Hくんが卒園してしまうと、Gくんをみることが出来ないので、お兄さんと一緒に卒園してくれませんか? という話だったのだ。そこで行き場をなくしたGくんのために、竹内さんは療育施設の『すくすく園』に通うことにした。

【就学問題】
次のターニングポイントは、Gくんが『すくすく園』を卒園して、小学校にあがる時だ。その当時はまだ言葉が出てなかったので、Gくんを『特別支援学校』に通わせるか、『普通小学校』に通わせるか悩んでいたという。竹内さんは胸の内を長男のHくんに打ち明けて相談した。「もしGが同じ学校にいたら、Hは馬鹿にされるかも知れない。みんなから指を差されるかも知れない。それでもいい? Hとは違った特別支援学校に通うことも出来るんだよ」と。するとHくんから、こんな答えが返ってきたという。「ママ、僕は同じ学校の方がいいよ。遠い学校に行ったらGになにかあっても僕は助けられないかも知れない。直ぐに飛んでゆくことが出来ないかも知れない…」竹内さんは悩んだ結果、Hくんと同じ地域の学校へGくんを入れることにしたそうだ。

【PTA広報への寄稿】
すると、いろいろなことが起きた。Gくんは、やはり教室に座っていられず外へ飛び出してしまう。そうするとHくんのところに電話が入って「Gくんがいないんだけど、一緒に探してくれる?」と言われ、授業を受けていても弟を探しに校外へ出たり、そんな学校生活だったようだ。そんな時にPTAのみんなから「Gくんのことについて、みんなにもっとよく知ってもらったら? PTA広報に書いてみない?」と勧められたという。竹内さんはそこでこんな文章をPTA広報に寄せることにした。

次男のGが「他の子と何か違うかも」と疑いはじめたのは彼が1歳になる少し前からでした。家族や世間に「Gは障がいがあるのでは」と気付かれる前に、自分で何とかしよう、 “普通"に戻そう、とあの頃の私は必死でした。良いと思われることは全て実践しました。でも、それはGの“違い"を受け入れるためではなく、他人に見つかる前に“普通"にするためだったのです。あの頃の私はどん底で死にたい毎日でした。今、目の前にドラえもんが現れたなら、タイムマシーンでその当時の自分に会ってこう言いたいです。「大丈夫、大文夫、未菜のあなたは笑っているよ」 と。障がいがあったって大文夫。だって毎日、こんなに楽しくって刺激的で感動に満ち溢れているのです。今はGに限らず、全ての違いを受け入れ楽しめるようになりました。
Gは小学校二年生の冬から少しずつ言葉がでて、 話せるようになうてきました。カタコトの日本語で話せるようになったGからは、優しい言葉がたくさんたくさんあふれ出てきます。Gの夢は、全ての生さ物が、 自分らしく存在する事。全ての生き物、命あるもの、草花にも全て愛情を注ぎます。それは現在に留まらず、絶滅した動物にさえも「よみがえらせてあげるからねー」と図鑑にむかって叫びます。過去も現在も未来も、彼には関係ないのです。
ずっと飼っていた猫のポチの話です。 ネコのポチは、13年たってボケてしまい、毎日何度もあっちこっちにウンコやオシッコをたれながします。ついカッとしてしまう私に、 「人生いい時もあれば、悪い時もある、 今がその時なんだ。 ポチもいぃ時があった、 悪い時があつてもいいじゃないか」と いつも言っていました。このセリフでカッとなる心をクールダウンできました。ポチは13年と8ヶ力月で今年の初めに亡くなってしまいました。 悲しくて涙が上まらなぃ私にGは「胸の心で生きている。ほらポテはゆみこが会いたいと思えば、いつも見えるよ。見てごらん、抱きじめてごらん」と言ってくれました。
また、一つ違いの兄を強く叱:る私に対してこんなことも言います。「僕だって昔負けた事がある。泣ぃていた時先生が言ったんだ。しょげるなGよ、諦めちゃダメだ、輝く時がある、必ず:な。大切なのは諦めない心だ。先生も、校長先生もそう言ったんだ。それが正しい選択だ」と。
Gはいつも真剣です。カッコつけも、見栄も、悪口もありません。こんなGと触れ合う度、Gの人間の真実だけを伝える言葉と出会う度、私にこんな風に思う力はあるのかなって考えさせられます。Gと出会わなければ知らなかった感情です。Gの優しきに出会う度、Gが世間から言われる「障がい者」であったとしても、むしろそうで良かった、Gで良かったと、思えるのです。たまにまた打ちのめされて、立ち上がれないんじゃないかと思う時もあります。でもやはりGと出会って違いを受け入れ、今を受け入れたことで、 過去の私も今の私も許せてまた一歩進めるのです。
Gは自由だし、好きなことや嫌いなことも何も隠さずはっきり言ってしまい困ったことばかりあるように見えるかもしれません。障がいを持つ彼らはちよっとみんなと違うかもしれません。でもみんなと同じ大切な存在で、みんなと同じように、一度きりの人生を楽しく生きたいと思っています。彼らの世界を壊すのではなく、ありのままの彼らを受け止めてほしいのです。健常児も障がい児も、かわいい我が子には違いないのですから・・・。
もっともっと彼らのことを、知ってもらえたら・・・そんな思いを込めてここに書きました。
 
【Gくんが障がいと向きあった日】
竹内さんはGくん自身には〈障がいがある〉とは言ってなかったのだが、当のGくんが自分の障がいを意識した出来事があった。ある日、竹内さんが下校時間に学校へ迎えに行ったら、それまでみたことがないような怖い顔をして、Gくんは竹内さんを待っていた。そして、「ゆみこ(当時はひとには名前があるということを教えるのに一生懸命だったので、竹内さんのことも名前で呼んでいた)、教えてくれ。ゆみこしか本当のことは言えないんだ。俺は、優しくされないといけないのか? 俺が馬鹿だからか?」そんなことを訊いてきたという。竹内さんは驚いた。ちょうどPTA広報に文章を載せてもらったり、新聞にも取り上げられた頃だったので、きっと他の保護者の方が「Gくんには優しくしなきゃいけないよ」とそういった気持ちでご自分のお子さんに声をかけてくれたのだと思うが、Gくんはその対応の変化を敏感に感じ取り、「俺が馬鹿だから、優しくしなきゃいけないのか?」と訊いてきたわけだ。「2007年、俺はあすなろに入った。なんであすなろなんだ?」と。竹内さんには〈ついに来た、この日が…〉という感覚だった。動揺しながらも、竹内さんは正直に答えることにした。「Gには障がいがあるよ。でも、障がいがあるということは、良いことでも、悪いことでもないよ。Gはいま5年生だよね? 5年生の問題は難しいよね? 勉強について行けるかな? 5年生がやっている計算は出来ないよね?」「そうだ」とGくん。「でも、Gはゲームが強いよね? 本もたくさん読んでいるよね? Gにも出来ることはたくさんあるよね?」「そうだ」とGくん。そしてこう言った。「そうだ。俺は、俺だからいいんだ」と。「俺はいまが好きだから、これでよかったんだ」とも付け加えた。Gくんはそれ以来、障がいのことは一切言わなくなったという。

【俺には選択はないのかーGくんなりの抵抗】
中学生になったGくんは、小学校時代を振り返ってこんなことを言っていた。「俺の小学校の時は幼稚園だったな。俺、いまはじめて学んでいるよ」それが中学校の頃。そして現在、Gくんは高校二年生で、自分で決めて学校には行ってない。学校は卒業したという。一年生の時は一生懸命通ったのだが、もともとGくんは特別支援学校には行きたくなかったのだ。小学校6年生の頃から「兄ちゃんが大学に行くのに、なぜ俺に働け、働けとゆみこは言うんだ。18歳になったら働けって、なんで僕は言われるんだ。僕には選択はないのか?」と言っていたそうだ。中一になるとインターネットで『ルネッサンス学園』という学校を調べて、「俺はここに行く」と言ったという。学校の先生も一緒に調べてくれたのだが、「G、おまえには無理だよ。Gは高校なら支援学校しか行けないよ」と言っていた。竹内さんもそう思ったので、Gくんを長い時間をかけて説得した。特別支援学校にも入学試験がある。丁度その時に楽登くんは熱を出したという。熱があっても来て下さいと言われたので連れて行って試験を受けさせた。しかし、Gくんは解ける筈の足し算や引き算、漢字検定も8級を持っているのに、答案用紙に一切なにひとつ書かず出したという。Gくんなりの抵抗の表れだろう。

【自分で決めて学校を辞めてきた】
それでも竹内さんは、Gくんに高校生になって欲しかった。だから、特別支援学校の高等部に入学してもらったのだという。Gくんもそれに応えて一年間は通ったのだが、途中から「死にたい、死にたい」と毎日言うようになった。学校に迎えに行くと「もう死にたい。僕は死ぬことも選ばせて貰えないのか? 馬鹿だからか?」「ゆみこは俺が馬鹿だから死なないと思っているんだろう? だから頑張れ、頑張って最後まで学校に通えって言うんだろう」って、毎日言っていたそうだ。竹内さんとしてはそれても学校に通ってほしかったのだが、楽登くんが「自分で先生と話しあう。その機会をくれ」と担任と話して、その次に教頭先生と話して、その次に校長先生と話して、それでも学校を辞めることはできなかった。高校二年生になったある日、相談支援の先生に話を聴いて貰うと言って、その方と話をして「自分で決めたんなら、いいんじゃない」と言われ、Gくんはその一週間後に自分で荷物をまとめて学校を辞めてきたのだという。
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ジネンカフェVOL.111レポート その1

2017-03-28 21:52:09 | Weblog
2016年度の拡大版は昨年に引き続き、ブラザーコミュニケーションスペースを会場に、『違いは個性、多様性の中で光る個性―自己と他者、みんな違って、みんないい』をテーマに掲げ、障がいの有無に関わりなく、子どもの特性に応じた子育てや教育の必要性を学び、その後のワールドカフェにおいて、多様な参加者と「多様性の中で光る個性を大切にしてゆくために、わたしたちは子どもたちにどんな将来を手渡したいのか」を対話のなかて深めて行った。

週間予報によれば寒くなるとのことだったが、当日は比較的暖かで穏やかな日であった。ジネンカフェVOL.111の第一部は「パネルトーク」。ゲストは保育の専門家である加藤博子さん。発達障害児とそうでない子どもとを育てながらもNPOの理事長として活躍しておられる〈NPO法人じゃんぐるじむ〉の竹内由美子さん。福祉の相談支援の現場でも、そして仕事を離れても障害児と関わり続けている加藤真理子さんの三名。

トップバッターは、保育の専門家で、実践者でもある加藤博子先生。加藤先生は、幼稚園、保育園現場20年勤務後、保育養成校(短期大学、専門学校)教員、3つの新設保育園立ち上げに関わり、現在は春日井市保育園施設長を力められておられる傍(かたわ)ら、大学での「保育の魅力」講演会や保育者向けアクティブラーニング中心の研修会を実施することで「人権を大切にした保育の質向上」を唱えていらっしゃる方である。

【幼なじみの“しんちゃん”】
加藤博子さんは岐阜県の中津川市の生まれ。当時の中津川は田園風景が拡がるのどかなところで、両親とも働いていたこともあり、いまでは考えられないことだが、恵那山の麓の自宅から山道を歩いて20分もある街中の保育園に通っていたそうだ。その頃の友だちに“しんちゃん”という子がいた。早生まれだった加藤先生は4歳だったのだが、3歳のクラスに入っていたという。子ども心に〈わたし、もう4歳なのにどうして3歳のクラスに入るのだろう〉と思っていたらしい。“しんちゃん”は5歳だったので、いつも迎えに来てくれて、手を繋ぎながらふたりで保育園に通っては遊んでいたのだ。3歳と5歳のクラスは違っていたのだが、園庭で「しんちゃ~ん」と呼ぶと、教室にいても「ぼくはここにいるよ」という合図を送ってくれて、帰りは一緒に帰ったという。なんとも微笑ましい光景である。

【“しんちゃん”の謎】
そう、“しんちゃん”は、加藤先生にとって人生で一番はじめに出来た友だちであった。ある時、“しんちゃん”のお母さんが加藤先生に向かってこんなことを言ったという。「うちの“しんちゃん”体が弱いからごめんね…」加藤先生にはその意味が解らなかった。体が弱いってなんだろう…と。ご自分のお母さんにも訊いてみた。するとお母さんは「うん、体が弱いって、風邪を引きやすいということかな?」と、サラッと答えられたそうだ。でも、少女時代の加藤先生は“しんちゃん”が大好きで、いつも後を追っかけたり、保育園の登園時に一緒にいけることが楽しみだった。山道の帰り道も、保育園への行きは下り坂なのだが、帰りは登り道になる。子どもの足ではかなりキツい。ふたりは途中の土手のようなところで腰掛けてよく休憩し、おしゃべりをしていたそうだ。

【子どもはこころで会話をする】
少し大きくなってから、“しんちゃん”は知能が遅滞している子どもだったことがわかってきた。物事には、その時は解らないことでも少し時間をおいてみれば「そう言えば…」と合点がゆくことがあるものだ。“しんちゃん”は目の焦点が泳いでいて、加藤先生をみているのかわからなかったし、言葉も実は「あー」とか「うー」とかしか出せなかったのだ。しかし、4歳当時の加藤先生は何の違和感もなく、いつも“しんちゃん”とおしゃべりしていたし、“しんちゃん”の言いたいこともよくわかり、その時間が楽しくて仕方がなかったという。加藤先生自身、“しんちゃん”が言葉をあまり出せない子だったと知った時には、それではどうして自分は“しんちゃん”とお話できたのだろうと不思議だったが、“しんちゃん”は自分の意思を加藤先生に送ってくれたし、こころで話しかけてきてくれたからだと気がついた。そう、子どもは本能的に相手の本質を見抜くし、こころで会話をするのだ。子どもは凄い!

【現在の“しんちゃん”は?】
現在の“しんちゃん”は、故郷の中津川で接骨院によく通っているという。体を痛めて理学療法士さんや作業療法士さんの施術を受けているそうだが、元気に歩いているのを見かけるよと、帰郷される加藤先生が「“しんちゃん”どうしてる?」と尋ねると、そんな近況をご両親が聴かせてくれるそうだ。保育園時代の“しんちゃん”との日々は、現在でも色褪せない楽しい思い出として加藤先生の中で大切に輝いているのだ。

【リフレーミング】
「さて、今日はみなさんカフェに来られたということで、ちょっとお隣の人たちとお話をしてみたいと思います。自分の性格で嫌いな部分をひとつ、相手に伝えて下さい。例えば「わたし、大雑把なんですよ」と言うと、それを相手が褒め褒めに変えてくれます。さあ、やってみましょう」そう、これがいつも加藤先生がやられているアクティブラーニングの
手法のひとつで、〈リフレーミング〉と言うそうだ。枠を取っ払って、別の見方で物事を捉えようとする心理学を応用した技法である。私たちはついつい〈あの人ってこうよね〉とか、〈私ってこうだから…〉などという枠を作った見方をしてしまいがちだが、それを取っ払って〈あんないいところがあるわ〉とか〈こんな素敵なところもあるわ〉といった物事の見方を変えることで、世の中が暖かくなる…そんな気持ちで加藤先生は幼稚園・保育園の先生たちに伝えられているそうだ。

【グレーゾーンという言葉】
それというのも保育は現在劣悪な環境のところが多いからだ。保育士が足りない。待遇が悪い。給料が安い。ゆとりがない…。だから先生同士の人間関係も少しぎくしゃくしてしまう。今一番問題になっていることは、発達障害の子どもたちが非常に増えていることだという。もしかしたら発達障害ではないか疑わしい子どものことを〈グレーゾーンの子〉と言っているが、〈グレー〉という色を想像してみると、あまりよい印象の色ではない。日本語では〈ねずみ色〉。白に黒を少し入れて混ぜた色。絵具の中では必要な色なのだが、あまり爽やかな色彩ではないので、加藤先生は〈グレーゾーン〉という言葉を避けて、なにか違う表現はないかなと思っているという。そのように枠を取っ払って子どもたちと向かいあいたいという。

【枠を外して子どもたちと接しよう】
加藤先生が施設長をされている保育園には、部屋にじっとしてなく園内を走り回る子がいる。他の保育園から移ってきた保育士さんは、それを「脱走した」と表現されがちになるのだが、加藤先生は「この子は犯人じゃないよ。いいじゃない。好きなところに行けば」と諭しているそうだ。園内には危険な場所やものなんて何もないのだ。そしてその子に対しては「○○~ちゃん(その子の愛称)、旅に出てきたら帰って来てね。先生、ここで待っているから」と声を掛けたという。その子は走って行き、いろいろなところを探検し、高いところへも上ったりして満足したら約束通り帰って来てくれたという。多動とかADHDとか枠を作ってしまったら、枠の中にしかその子が入らなくなってしまう。だから「脱走しないようにしよう」と考えるのではなく、「○○~ちゃんにはたくさん旅をさせてあげよう。そして私たちはそれを見守ってあげよう」加藤先生が勤務されている保育園では、そんな方針の保育をされているのだ。そして子どもたち、ひとりひとりが生きやすくなる環境を作ってあけたいと思っているという。

【金平糖とパステルカラー】
(会場の大型モニターには色とりどりの金平糖が映っている)金平糖。色とりどりで綺麗な金平糖。パステルカラー。子どもたちはひとりひとりがパステルカラーに輝いている。ある子はピンクかもしれない。ある子は紫かも知れない。綺麗な色が集まって素敵な金平糖が出来ました。金平糖というのは、1456年ポルトガルから織田信長に献上された歴史のあるお菓子とされている。金平糖特有のトキトキの角が出来るには、たった1ミリでも20日間もかかるそうだ。ザラメの小さなものに糖蜜をかけて、大きなドラム缶のようなものに職人さんが定期的に糖蜜をかけて角をつくるのだとか。金平糖はそのように時間をかけて作られるのだ。しかし、7時間もかけて作業すると熱さで参ってしまうので、現在この金平糖を作る職人さんが少なくなってきていて、本当に老舗のお店しか作れなくなっているそうだ。専門の職人さん、専門の療育が出来る人の育成は急務だと加藤先生は思っている。その子が何かのパステルカラーだとしたら、そのパステルカラーを活かせる。解ってあげられる人。医師も不足しているし、療育施設も何ヶ月も予約待ち。金平糖が上手に作れる人の育成も、現在保育界全体の課題になっているという。

【わたしたちができること】
そして私たちひとりひとりが出来ることは、枠を取っ払った考えをしてみること。それぞれの背景、職場環境や家庭での人間関係、この枠を取っ払ってその人のよいところをみてあげると、物事が円滑に進むようになるのだ。加藤先生も職員の一人に「わたし、自信がないんです」と相談されたことがあった。そうした時に「でも、それって先を見通せるということだよね」と言ってあげたら明るい顔になり、現在では立派に務めておられるとか。現在直ぐにでも出来ること。枠を取っ払ってその人のよいところ、自分のよいところ、そして発する言葉もプラスにして行ったら、楽しい毎日が送れるのではないかなと、加藤先生は思われている。
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ジネンカフェVOL.112のお知らせ

2017-02-23 10:07:32 | Weblog
日時:3月11日(土)14:00~16:00
場所:くれよんBOX
ゲスト:椿 佳代さん(災害ボランティアコーディネーターなごや)
タイトル:自然災害から身を守る3つの秘策~みんなができれば怖いものなし!!~
参加費:500円(お茶代別途)

ゲストプロフィール:
平成15(2003)年の災害ボランティアコーディネーター養成講座から活動をスタートしました。外部支援者として被災地に毎年出かけた中で「一杯のラーメン」が身に染みるほどおいしかった事、東日本大震災の大槌町では、夜、顔を洗うときに水しかなくて、本当に水が冷たくつらかったことを思い出します。その時のことと、被災地の皆さんの苦しい思いを無駄にしてはいけないと防災・減災を多くの方に広めたいと講演、イベントなど活動中です!

コメント:
私たちが住む名古屋市はぐらりとも揺れず、平成16(2004)年以降は水害についても大きな被害がなく安泰にしているのが良いのか悪いのか、備えにつながらないことが非常に残念に思います。多くの方に、今後起こる南海トラフ地震は、大きな被害が出る災害であることを知っていただき、被害を少なくするために行動を起こしていただきたいと思っています。そのために私たちのようなボランティアがいるのです。有効に使っていただけると嬉しい!! 今回はありがとうございます。

お問い合わせ/お申し込み先
TEL:052-733-5955(くれよんBOX)
FAX:052-733-5956(くれよんBOX)
E-mail:jinencafe@yahoo.co.jp(ジネンカフェ専用)


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ジネンカフェVOL.110リポート

2017-02-07 20:22:34 | Weblog
ジネンカフェの2017年は、波乱な幕開けとなった。なんと予定していた日に大雪が降り、ゲストさん、くれよんBOXさん協議の末、一週間延期することになったのだ。1月のゲストは、くれよんさんの常連で、私(大久保)とも知りあいのフリーライター・山下信子さん。山下さんは80年代にデザインも学んでいて、舞台芸術の裏方をされているご主人と、息子さんとのご家族で制作された想像上の〈くれよん温泉郷〉を、くれよんギャラリーにおいてこの1月に展示されていた。コラージュの手法を駆使した楽しい作品展だったが、今回のジネンカフェVOL.110は、その作品群をバックにお話が展開された。題して『くれよん温泉ガイドツアー、ようこそ、くれよん温泉郷へ』

【80年代という時代】
山下信子さんは高校卒業後、小さなイラストを描くような仕事がしたいと思い、デザイン学校に通いながらも、小さな出版社のアルバイトをしていた。ご自分曰く、80年代によくいた〈手軽にオシャレな職業〉に憧れる若者だったという。70年代の若者はフォークソングを歌って真面目に自己主張をしたり、女性にモテたいという理由だけでギターを奏でていたものだが、80年代に入るとそれが演劇に代わった。演劇で世に出たいとか、演劇関係で手軽でオシャレに有名になれる…みたいな空気が漲っていた。実際に演劇ファンも増えて、プロダクションも売れないタレントなどを小さな劇場でぼつぼつと芝居をさせたりしていて、いろいろな劇団もあった。山下さんも当時の若者の例にもれず、演劇に夢中になっていたという。野田秀樹さんの『夢の遊眠社』や、鴻上尚史さん率いる『第三舞台』などが山下さんのお気に入りだったらしい。

【演劇関係の友だちを作るために東京へ】
しかし、山下さんの周りには演劇に興味を持ったり、実際に演劇をしている人は皆無であった。演劇関係の友だちを作る目的で山下さんは東京へ家出をして、『劇団鳥獣戯画』に転がり込んでいたそうだ。当時の劇団は実にいい加減なところが多く、そういうところは直ぐにつぶれてしまったそうだが、『劇団鳥獣戯画』は現在でも定期的に公演を続けていることからでも解るように真面目な上にクオリティーも高い劇団で、役者になろうとか脚本家や演出家になろうという目的もなく、何も出来なかった山下さんを居候させてくれ、仲間のようにいろいろなことを学ばせて貰ったという。山下さんはこの『劇団鳥獣戯画』の人々から〈自分の好きなことを貫く〉ことを学んだ。自分の好きなことをやり続けることは、お金とか名声に繋がらないけれど大事なことなのだと叩き込まれたのだ。この『劇団鳥獣戯画』は、有名ではないが演劇業界では一流劇団として認識されており、いまでもお忍びで芸能人が観に来たり、かつてこの劇団に在籍していた芸能人も数多くいるのだという。

【演劇ブームは去り…】
世の中の風潮―いわゆるブームは通り過ぎてゆく季節のように、移り変わってゆくものだ。どれほど隆盛を極めたものでも、ブームが去ってしまえば大波が引いた後の海のように穏やかになる。80年代の演劇ブームも、90年代の半ばになると下火になって行った。それと共に演劇に熱を入れていた山下さんも燃え尽きてしまったらしい。その頃から自分が出来ることということで演劇人のインタビューばかりを取っていたので、その後も雑誌に人物ルポや名古屋めしの記事を書く仕事をしていたそうだ。それと並行して芸能関係の仕事(スカウトウーマン)をしたり、芸能人の付き人をしたこともあったという。

【雑誌からネットの時代へ】
ライターとしての仕事はそこそこあったのだが、ネット時代の到来と共に雑誌が売れなくなり、次々と廃刊になって行った。ネットの記事というのは、正直誰でも書けそうな、好きな分野をあげて記事を書けば誰もが「ライター」を名乗れるお手軽な時代になったのだ。当時、ライター業界では「これからのライターはテレビに出たり、自分が目立たなくてはいけない」という風潮があり、周りの人たちからも真剣に言われたりしていた。それに対し「ライターはあくまでも裏方で、主役の引き立て役に過ぎない」と考えていた山下さんは反発を覚えていた。本来ライターの仕事というものは、作家のそれとは違ってつまらないものなのだ。それなのに自分が目立ってテレビにでたりして、自分のネームバリューで名古屋の記事を書いて生き残る人が凄い…みたいな風潮だった。対象者の取材話よりも自分の本の宣伝ばかりをする人とか、有名人の太鼓持ちのような記事を書く人とか…。そうした中で山下さんのようにたたき上げのライターさんの需要はどんどん減って行ったという。しかし、山下さんは締切を守る人だったので(雑誌の仕事で取材して三時間後に締切りなどざらにあったという)、そのような周りの風潮には馴染めなかったものの、重宝がられて雑誌から仕事をまわしてもらっていたが、息子さんが小学生の頃病気になられたことがきっかけになり、馬鹿馬鹿しくなってライターの仕事を一切辞めてしまったという。それが10年ぐらい前のことだ。

【くれよんBOXさん、私(大久保)との出会い】
山下さんがくれよんBOXさんと出会ったのは、現在20歳になる息子さんが7歳の頃。つまり13年前に遡る。別の場所で二代前の職員さんとスヌーピー繋がりで出会い、イベントに誘われて訪れたのがことの初めだったという。私と出会ったのはその一年後で、これもくれよんさんで出会ったわけではない。共通の知りあいのサイトの掲示板でお互いの存在は知ってはいたが、実際に顔をあわせたのは名古屋市社会福祉協議会のボランティア情報紙の編集委員として、記事を書く人同士として出会ったのである。当時、山下さんは名古屋の雑誌にご婦人向けの記事を書いていて売り出し中であり、私は編集委員をしていたボランティア情報紙に記事を書く仲間を探していた。それで共通の知りあいでもあったそのサイト主に「誰かいない?」と相談したところ、山下さんを紹介してくれたわけである。現在ではどちらもボランティア情報紙の編集委員を降りているが…。

【インタビューした人が自分に自信をもてるような記事を】
そうして一切の書く仕事から手を退き、もう再び戻ることはないと思っていた山下さんだったが、二年ほど前から社会的に80年代のテーストが再び流行ってきたのか、現代の若者(アーティスト)と遭って意気投合する機会が多く、昔取った杵柄でインタビュー記事を作ると「こんなの読んだことがない」と驚かれ、自分のHPに載せたいのでぜひ本格的に書いてほしいと頼まれて、インタビュー記事限定でぼつぼつと書いているそうだ。お店の取材とかはもう出来ないけれど、インタビューした人が自分に自信を持てるような、そんな記事を書いているという。

【身内ウケしていた企画展】
今回の企画『ようこそ、くれよん温泉郷へ』は、80年代にデザインを学んだ山下さんが、ご自分の感性が現代に理解してもらえるのか、お世話になっている〈くれよんBOX〉さんをモチーフに感謝の意味も込めて表現されたものなのである。コラージュの手法を用いて、遊びごころをもって制作されていた。しかし、その実は細かい目配りと拘りがあったりしたという。残念ながらその企画展はジネンカフェ当日に終了してしまった。くれよんBOXの身内ネタで構成されたような企画展だったが、その身内に結構ウケていたようだった。
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ジネンカフェVOL.109レポート

2017-01-20 18:57:30 | Weblog
12月のゲストは〈NPO法人子ども&まちネット〉の西村健さん。西村さんは大阪府出身。小学生時代から愛知県へ。大学生の頃から地震防災啓発活動を行い、愛知万博に企画出展。この頃に「こどものまち」という子どもの社会体験イベントに出会う。卒業後は行政コンサルに就職、行政計画策定や市民アンケート調査等に従事。その後、大阪のキャリア教育関連のNPO法人で「こどものまち」を企画。また、地域ラウンドテーブルの立ち上げや地縁団体と市民活動団体のマッチングイベントを企画。2014年から愛知に戻り、青少年施設に勤務後、市民活動推進センターに勤務。現在はNPO法人スタッフと並行して、行政の嘱託職員として自治会支援に従事していらっしゃる。お話のタイトルは『ニシムラタケシ解体新書~建築、防災、子ども・若者、地域と仕事』

【子どもの頃からの理系】
西村健さんは、現在33歳。小学生の頃から算数や理科が好きで、高校の時に自分が将来的に理系の道に進むだろうと信じていたが、それでも何か社会と関わることもしたいなと思っていたという。一概に社会と関わる理系の仕事といってもいろいろとあり、研究をして飛行機を作ったり、自動車を作ったりするのもそうだが、西村さんはもっと人に近い分野は何だろうと考え、大学では〈建築〉を専攻していたそうだ。

【いきなり学祭の実行委員をすることに…】
名古屋大学建築学部に入学した西村さんは、入学早々学校祭の実行委員に選ばれた。名大の学祭は毎年6月に開催され、それぞれの学年、学部から実行委員が選出されて実行委員会が組織されるのだが、誰も立候補する人がいなかったのでジャンケンで決めることになったのだ。そう、西村さんはジャンケンに負けて、実行委員をすることになったのである。しかし、学祭の実行委員とはいうものの、4月に立ち上げて6月か本番なので、正味なところ活躍の場がなかったのだ。そこで燻っていた胸の内を「学内だけではなく、地域に出て何か活動したい」と実行委員会の先輩に話したところ、その先輩の友人で防災教育を行う学生のサークルを立ち上げようとされている人を紹介され、誘われて西村さんもそのサークルに参加することにしたという。2003年の秋のことだ。

【震災ガーディアンズ】
こうして〈震災ガーディアンズ〉というサークルに参加した西村さんは、地震防災の啓発活動を三年間ほどされていた。東日本大震災や2007年の中越沖地震、山越村が全村避難した2004年の中越地震、この辺りから日本全体の地震防災に対する気運が高まって来ているが、西村さんがサークルに参加された頃は、ちょうど防災に対する意識が社会的な波としてさざ波立っている時期で、その潮流に乗って活動する機会はいろいろあったとか。2005年の愛知万博で企画出展されたり、新聞に取り上げられたり、FMラジオにも出演したりしたそうだ。
【つまらないことを面白く】
震災ガーディアンズの活動におけるモットーは「つまらないことを面白く」というもので、防災教育というものは必要なものだけれど、子どもたちにとってはあまり面白いものではない。それをどう面白く子どもたちに伝えるか? 学生のサークルだったので、専門家の先生や行政とは違った切り口で取り組みたいと思ってもいた。いろいろと試行錯誤した結果、《すごろく》というものに辿り着いたのだという。防災をすごろくに落とし込んで、地域の防災訓練で大人たちが消火訓練などをしている横で、このすごろくで子どもたちに遊んでもらう。つまりすごろくを通して、防災の知識を身につけてもらうというワークショップを行っていたのだ。カードを使ったり、防災グッズも値段が高いイメージがあるが、要は備蓄のためのもので、避難所の生活も簡単に言えばサバイバルキャンプと見做し、そのキャンプ用品を100円均一ストアーで揃えられないかと考えて、缶詰やミネラルウォーターやレジャーシートなどを買ってきて、実物を使いながらゲームをされていた。

【すごろく研究所】
この活動をしているうちに〈双六〉というものが防災以外のテーマでも活用出来るのではないかと考え、2006年頃にまた新しい学生のサークル『すごろく研究所』を立ち上げたという。このサークルでは幾つかの双六を作ったり、双六を作ってもらうワークショップを行っていたそうだ。防災双六もはじめは西村さんたちサークルのメンバーが作り、それをワークショップで体験してもらうということをしていたのだが、「作る」過程も楽しく、コンテンツだけではなくプロセスも参加者の皆さんに体験してもらえないかということで、小学生地震に関する双六を作ってもらったりされていた。学校内とか登下校路を歩いて、ポラロイドカメラで危険な箇所を写真に撮り、それを双六にまとめ、その双六で実際に遊ぶ…ということをしてきたという。防災の他にもまち歩きをして双六を作った例として、衣・食・住をテーマにして三回ワークショップを行ったことがあった。地下鉄の駅を起点に幾つかに分かれてまち歩きをしてもらい、テーマにあわせて、そのまちの特徴を拾って来られないかと考えたのだ。

【人生ゲームをつくる-世代間のギャップを埋める可能性も】
双六形式のボードゲームで一番ポピュラーなのは『人生ゲーム』だが、『人生ゲーム』を自分たちで作るというワークショップも行った。これまでの人生を振り返って楽しかったことや、大変だったこと、自分に影響を与えた社会的な事件などを書き出して行き、その一方で参加者ひとりひとりの将来の夢とか希望とかも書き出して行って、参加者全員の人生をまとめて双六に落とし込んでゆく…というワークショップをしたという。参加者が同じ世代であれば「小学生の時に流行ったゲームって、こんなのだったよね?」というような会話が出来る。一方で世代が違っても実は小学生時代に同じことをして遊んだ経験があるよねといった、世代間のギャップがあるようでない会話が生まれる。そうしたお互いのことを語りあうようなワークショップもしていたそうだ。

【建築からまちづくりへ指向の変化】
そんなふうにサークル活動を行っているうち、西村さんはその道に進みたいと思っていた建築に興味を失してゆき、その代わりまちづくりに関心を寄せるようになっていた。建築では当然のことにハードをどう建てるのかが中心になるのだが、その建物をどう使うのかといった、ひとにフォーカスするような方向に興味が向いて行ったのだ。

【全身タイツ姿でゴミ拾い】
それと時を同じくして西村さんは、名古屋駅西口前で戦隊物ヒーローの全身タイツを着てゴミ拾いをされている〈NGOアース〉の活動にも共感を寄せ、自身も活動をするようになって行った。〈震災ガーディアンズ〉の活動におけるモットー「つまらないことを面白く」というのは、実はこの活動をされている時のモットーでもあり、ゴミ拾いというつまらないことを、このNGOの活動では戦隊物ヒーローのタイツを身につけることにより、楽しくさせていたのだ。西村さん自身も実際にタイツを身につけて、活動に参加したことがあるそうだ。まちの中で全身タイツ姿でゴミ拾いをしていると、いろいろなひとからの視線に晒されるため、変身するのを躊躇うひともいるのだが、顔も覆面で覆われているので誰なのかは解らない。また、戦隊物ヒーローのタイツ姿で活動していると、通りがかりのひとから手を振られたり、握手を求められるという。普通の生活をしていては、赤の他人から手を振られたり、握手を求められるなんてことはないだろう。その姿のまま、地下鉄に乗ったこともあったそうだ。2010年の5月30日、いわゆる「ゴミゼロの日」がちょうど日曜日だったので、いつもの名駅西ではなく栄で大きなイベントを行ったこともある。戦隊物ヒーローのタイツだけではなく、いろいろなコスプレをした人たち300余名も集合してもらい、地下鉄に分かれて乗り、様々な目的地でゴミ拾いをして、また栄に戻って来るという大掛かりなものだった。

【廃高架線下にまちを作ろう】
大学時代のサークル活動、地域活動ではそんなことをしていた西村さんだが、一応建築の勉強もされていたので、ここでもまちを歩いたり、眺めたりしていた。名古屋市営地下鉄名港線の六番町駅と東海通駅の中間辺りにURの九番団地がある。その北側に使われなくなった貨物線の高架がぶつ切れにされて残されている。現在東京方面から来る貨物列車が貨物ターミナルがある中島に入るには、わざわざ稲沢まわりで名古屋駅、笹島を通って中島貨物ターミナルへ入るそうだ。それを大府の辺りから南まわりのルートでターミナルに入れられるような貨物路線を計画していた。9割作った時点で周辺の反対運動に遭ったり、国鉄がJRグループに分割されたりして、この計画は頓挫してしまったのだ。そういう理由から無責任にも高架線は残されたままになってしまったのだが、車が通る幹線道路の上はコンクリートが崩れると危険なので、ところどころぶつ切りにされて、現在でも野ざらし状態になっている。そこに西村さんは目をつけ、名古屋港が近い土地柄でもあるのでコンテナを高架下に据え、窓をつけたり、ペィンティングしたりしてひとが住めるようにし、これを幾つも作って高架線下にまちが作れないかという提案をしたそうだ。

【NPO法人子ども&まちネットとの出会い】
防災すごろくで活動されていた頃、名古屋都市センターの助成金を申請することになり、そのプレゼンで「子ども向けにこんなことをします」と話したところ、同じくプレゼンに来ていた〈子ども&まちネット〉の代表・伊藤さんから「あなたたちの活動はよいけれど、子どものことをどれだけ知っているの?」と尋ねられ、確かにあまり知らなかったのでそう答えたら、「一度うちにボランティアに来なさい」と言われたという。そうして西村さんたちは〈子ども&まちネット〉にもボランティアに行くようになったのだ。

【こどものまち】
その子ども&まちネットが2007年の年末に中村児童館において、「こどものまち」のイベントを行った。「こどものまち」とはドイツのミュンヘン市発祥の、子どもたちが自分たちで会議を開いてまちの規模や機能やルールを作り、お店も自分たちで手作りして運営をするイベントで、職業体験と社会参画体験の側面もあるワークショップである。西村さんはその年の「こどものまち」にボランティアとして関わり、現在でもこれを仕事に出来ないかと思うほど衝撃を受けたという。お店とはいうものの、商品は子どもたちが作るものなので、あまり大したものは出来ない。折り紙で折った手裏剣などの部類。それとやはり商品の消費がしやすい飲食店が多いという。それでもその年の「こどものまち」で、飲食店以外で唯一黒字になった店があった。それは意外にも「財布屋」さんだったという。もともとその店は「財布屋」さんではなく、「本屋」さんだったのだ。コピー用紙を二つに折ってホッチキスで留め、そこに子ども自身が絵を描いて「本」として販売していたのだが、正直売れるわけがない。一計を案じたその「本屋」の店長は、そのまちの住民や訪れる人たちにとって必要なものは何かということを考えた。「子どものまち」では、そこでしか使えない紙幣でものの売買がされているのだが、その紙幣を持ち歩くことに困っているひとが多い。そんなことを自分で気づいたのか、誰かに訊いたのかは解らないが、即座に「本」と同じ材料で「財布」を拵え、販売したところ飛ぶように売れたという。

【偶然が呼ぶ奇跡の物語】
まるで偶然が呼ぶ奇跡の物語である。そんな場面を目の当たりにした西村さんは感動し、この「こどものまち」に魅せられてしまったという。いまも名古屋市の事業を受けている〈NPO法人子ども&まちネット〉で「こどものまち」を続けさせてもらっているし、大阪の〈Cobon(こぼん)〉というNPOで行ったり、大阪の別の団体で行ったり、いろいろなところで「こどものまち」を行っているそうだ。2010年に名古屋の吹上ホールで行われた時には、二週間で20,000人の子どもたちが訪れたとか…。今年(2016年)は、12月24・25日というクリスマスに行うという。

【行政とNPO、協働の限界や可能性】
西村さんが関わっている〈NPO法人子ども&まちネット〉は、主に子育て支援の活動をされているのだが、最近は「子ども」「若者」の定義の対象年齢が上がって来ている。文部科学省が定義する「若者」は34歳まで。厚生労働省によると39歳までになるそうだ。子ども&まちネットが子どもと若者の支援活動をする中で、青少年交流プラザ(ユースクエア)の三年間の指定管理を取り、その一年目に西村さんもスタッフとして入った。「こどものまち」でも少しは関わりがあったのだが、この青少年交流プラザでは指定管理ということで行政との関係が西村さんの中で大きくなってきたという。行政とNPOとの協働でどんなことが出来るのか? その限界や可能性を感じた一年でもあったそうだ。

【大阪時代の仕事】
これまでの人生の中で6回ほど転職している西村さんだが、実は2年半ほど大阪に戻っていた時期がある。地域団体、名古屋でいえば学区連絡協議会や町内会とか自治会などの団体を顧客として仕事をしていたことがあるそうだ。大阪市コミュニティ協会という法人が大阪市からの業務委託を受けて募集していた地域まちづくり支援員にとして関わった仕事である。西村さんとしては、その時まで町内会や自治会は興味はそれほどなかったそうだが、当時大阪でお世話になっていたNPOもそれほど大きな団体ではなく、この先給料が十分支払える状態ではないということで困っていたところ、募集していたのだ。応募してみたら運良く採用されたという偶然のなりゆきだった。具体的な仕事としては、全国的にそうなのだが、地域組織である町内会・自治会は様々な原因から疲弊してきていて、特に西村さんが関わった地域は名古屋でいう南区のようなイメージで、大きな鉄工所があったのだが、そこが廃炉になったのがきっかけになり、ここ20年で人口が7万人と減ってきていた。人口が7万人で地域にIKEAがあるので週末ともなると3万人集まるというところでもある。海沿いなので地下鉄がそれほど延伸出来ず、大阪市内で唯一急行バスが走っているという地域だった。

【地域組織とNPOの弱点を補い合う】
これは全国的にみてそうなのだが、この地域の問題も人口が減少していることに加えて町内会・自治会の役員が高齢化して来ていて、いろいろな問題も発生したりする度に大変な事態に直面することにあった。しかし、その一方で大阪にはNPOが多く、NPOはその問題点を解決するノウハウを持っていたり、開発してきたりしている。しかしながらそのNPOもそれほど大きくないため、実際に活動する場所とか、対象とする人が見つけられない状況があった。それならばこの両者が手を携えれば、両者が抱える問題も解決出来るのではないか?

【地域組織とNPO団体とのお見合い】
しかし、そうはいうものの、当時はまだ「NPOってなに?」という人たちが多い時代だった。そこで町内会・自治会などの地域組織と、NPO団体とのマッチング・イベント『地域活動見本市』を企画したという。地域活動の紹介をしてもらったり、福祉系や災害支援、子どものキャリア教育を行っているNPOの代表や、区長さんにお話をいただいたり、パネルディスカッションをしたり…。西村さんが関わったのは4年前の一年間だけだったのだが、現在でもそのイベントは続いているそうだ。

【現在の仕事】
建築・地震防災・子ども関係・地域支援と渡り歩いてきた西村さんだが、次に何をしようかと考えていた時に、現在の仕事である〈コミュニティサポーター〉制度が今年(2016年)の9月から始まった。8月まではボランティアやNPOの所管をしている名古屋市市民活動推進センターに勤めていたのだが、他の業務もあって西村さんが思ってる、地域とNPOとのマッチングがなかなか事業展開出来ないでいた。〈コミュニティサポーター〉という制度は、新しい制度なので市の職員自体も「こうして行こう」というものが固まっていない状況で、ゼロベースで始まる部署であれば、自分が思ってきたことが出来るのではないか? と考え、応募したら今回も採用されたという形だという。9月にスタートして一月間は研修だったので、実際には10月から働いて二ヶ月が過ぎたところである。(2016年12月時点)

【具体的にはこんなことをしています】
具体的な動きとしては、広報誌やWebサイトのような広報媒体を持っている学区などがあるのだが、それをどう活用してゆけるのか? みたいなことで、名古屋も地域組織の役員さんが高齢化しており、担い手もあまりいないので、こういったことも若い人たちにバトンタッチして行きたいという話を聞いて、現在提案をしているところだそうだ。また、津波の被害が想定されている地域で、津波に強い地域をどう作ってゆけばよいのか? 津波に対して地域が対応するには、どういう訓練をすればよいのか? 等々を地域の人たちと一緒に考えているという。しかし、この〈コミュニティサポーター〉制度は始まって二ヶ月ということもあり、地域からの依頼がまだ14件しかない状況であるという。名古屋には266もの学区があるのだが、そこからの依頼がないと仕事がないので、もう少しこの制度の認知度を拡げて行きたいと、西村さんは思っている。


【雲南ゼミ】
行政と地域ということで言えば、今年(2016年)の9月末頃にNHKスペシャルで『消滅日本』という刺激的なタイトルで特集が組まれていた。名古屋のような大都市であればそこまでの危機感はないのだが、中山間地に行くと人口減少、若者離れによって小学校も廃校になり、中学校もなくなってゆきます。50年後には集落それ自体もなくなります…みたいな特集であった。その番組の中で紹介されていたところが島根県の雲南市。いろいろなところが出している日本全体の平均の人口推計の20年先を行っているぐらいの地域で、出雲や松江からもそれほど遠くはないのだが、市域が広いので愛知県でいうと豊田市のようなところだそうだ。名古屋に近くベッドタウン的なところもあれば、山間部で大変なところもある。その雲南市で『雲南ゼミ』という雲南市の取り組みを全国の人たちに知ってもらいたいという企画を立ち上げられており、西村さんもそこに参加してきたという。

【雲南市の取り組み】
この雲南市は『雲南ゼミ』を企画する前から、地域で映画を撮ったり、どぶろく特区(日本の酒税法ではどぶろくは醸造してはいけないのだが、雲南市は許されて醸造している)を取ったり、新しいことはしてきているらしい。12年前に6町村が合併した時に、これまでと同じような行政と地域の関係性は維持出来ない。職員も減らさなければならない…。地域が自立出来る仕組みに出来ないか? ということで、地域自主組織というのを雲南市全域に立ち上げようという動きが、合併と同時並行で進んで行ったのだ。現在ではそれを『小規模多機能自治』というのだが、小規模=名古屋の小学校区ぐらいの規模で、いろいろな機能をもった町内会や自治会が地域を動かしてゆく。ここでいう「多機能」を説明すれば、例えば行政が行う水道の検針等を学区が行うような感じである。学区が水道の検針を行うと、それが独居老人等への見守り事業とも繋がってゆくのだ。水道の検針に行ったついでにその家の高齢者に声をかけ、支援が必要なら福祉サービスへと繋げられる。そういう事業を受託して行ったり、自分たちで商品開発をして道の駅で販売したり、そのような新しい取り組みをしているのだそうだ。現在では本来行政が行う事業を、学区が「自分たちが行う」と提案しているほど。住民票の発行とか、そういった窓口業務ぐらいなら出来るの
ではないかというところまで進んでいるらしい。

【最近思っていること】
とにもかくにも雲南市では、町内会・自治会が行政に頼っていない。名古屋でいえば区役所みたいな行政の支所があるのだが、その支所も職員はもう要らないから減らして良いよ。自分たちが運営するから、それだけの委託料をくれ…という感じなのだとか。本庁でやるべき申請などの対応だけをしてくれればいいと、地域側から提案しているそうだ。そういう意味で先端事例が見られたかなと思っている。なかなかそういうことは、名古屋市の職員も知らないので「こんなのあったよ」とちょっと言いつつも、名古屋市役所を変えてゆきたいなということが、最近の西村さんが思っていることだそうだ。

【大久保的まとめ】
西村健さんと出会ったのは、たまたま。偶然のなりゆきであった。西村さんが青少年交流プラザの職員をしていた時、ジネンカフェ拡大版のチラシの配架のお願いにあがったところ、対応をしてくれたのが西村さんだったのだ。その年は共通の知りあいだった白川陽一さんがワールドカフェのファシリテーターをしてくれることになっていたし、テーマが確か子ども絡みであったから、二言三言言葉を交わしたことを憶えている。そうそう、延藤代表や、まちの縁側の固有名詞も出たと思う。その時はそれだけで終わったのだが、その翌年、名古屋市市民活動推進センターで職員と利用者という関係で再会したのだ。
 当時は何をしている人なのかわからなかったが、延藤先生の名前を知っていて、まちの縁側にも興味を持っていること。NPO法人子ども&まちネットが指定管理を取っている青少年交流プラザの職員をされていることから、子どものキャリア教育にも関心がある、建築・まちづくり系のひとらしいとはうすうす感じていたが、防災やまちの環境美化にまで活動されていたとは知らなかった。
 西村さんは一見堅実そうにみえるが、実際は結構自分の興味が向くままに動き、仕事も変えてゆくアナーキーなタイプなのだなということが垣間見え、興味深くお話を伺った。自分の興味が向くままに仕事を何度も変えてゆくことを、よく思わない人もいるだろう。しかし、よく考えてみてほしい。働く環境が変わるということは、恐ろしいことだ。それまで積み上げてきたものを、もう一度ゼロから積み直さなければならないのだし、場合によっては生活する環境さえも変わってしまうからだ。何度も仕事を変えるということは、それの繰り返しでもある。勇気があるな…と、私などは思う。
 しかし、その恐怖心を凌ぐほど興味深い対象に出会ったら、我が身ひとつでその対象に飛び込んでゆく。あとは海となれ、山となれ。自分ひとりなら食べてゆくぐらい何とでもなるだろうという自信が、西村さんの底流にあるのだろう。逞しくもあろう。またご一緒出来ることを心より願っている
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ジネンカフェVOL.108レポート

2017-01-12 09:13:16 | Weblog
今年も早いものであと二ヶ月を残すのみとなった。光陰矢のごとしとはよく言うが、まさにその通りだなあ~と、しみじみと実感している今日この頃である。さて、先月はお休みだったので、お久しぶりのジネンカフェ。今月のゲストは、キャリア教育をされているNPOで働きながらも、「持続可能な生き方・働き方」「そのひとらしくあること」に関心があり、福祉・心理・教育などの領域に身を置きつつ、シェアハウスを住み開いて、ゆるさをモットーに20代を中心とした「これからの未来や社会について、ソーシャルなものごとに関心がある若者がさまざまなテーマで語る会/Social × Dialogue」等を運営している後藤恵理香さん。お話のテーマも『-Past,Now,Future-内省と対話からつながる』と、後藤さんらしい。

【後藤恵理香さんというひとは…】
後藤恵理香さんは、1992年愛知県生まれ。現在24歳。4人兄弟姉妹の長女。本業は、教育系のNPOで事務や、コーディネーターのお仕事をされている。美味しいものを作ったり、食べたりすることや、映画を観たり、読書が趣味という。運動するよりも音楽とか、絵を描くなど、自分自身を表現することが好きだったそうだ。〈場づくり〉をしたり、ひとを集めてイベントを行ったり、旅行を企画してみんなをどこかに連れて行ったりもしているが、基本的にはインドア派だと自分では思っている。

【Social × Dialogue】
本業の他にも、後藤さんはいろいろな活動をされている。主なものだけでも三つあるという。その中のひとつ『Social × Dialogue』は二年ほど前、学生時代から運営されている、社会的な物事に関心のある若者たちの対話の場だ。国際貢献・交流、情報・メディア、福祉等々、社会的な問題や物事に関心を持っている若い人たちは名古屋にも結構いるのだが、各分野ごとにコミュニティが固まってしまっている傾向にある。そのコミュニティ同士の交流が出来たら面白いのではないかと思い、分野横断的にご自分の友だちを集めて始めたのだという。関心のある分野は違えど思い描いている理想は似ていたり、違ったりもするけれど、そこで話しあったりする場づくりが面白くて続けているとか。いまは東京や海外に行っている友人も多くなり、Web上での活動が増えているのが現状だが、時々はそんな仲間たちと会って情報交換をしている。

【月一ご飯会】
最近は月に一度ぐらいで『ご飯会』もされているそうだ。美味しいものが好きなので、その美味しいものをみんなで食べよう、と思い始めたという。『Social × Dialogue』に集まって来る人たちは、もともと社会的なことに関心を持っている人たちで、そうでない人にとっては敷居が高い。でも『ご飯会』であれば気軽にご飯を食べながら、「そんなこともあるんだね」とか、「そんな考え方もあるんだね」という感じで知れたり、気づけたり出来る場が作れる。それぐらいハードルを下げて「一緒にご飯を食べる」ことを目的にしてあげた方が対話しやすいのかなと思い、行っているのだそうだ。

【まちづくり】
後藤さんのご実家は、田舎暮らしに憧れたご両親の想いにより、中学生の頃に愛知県から岐阜県に引っ越しを行った。愛知県の中学校では、部活動として吹奏楽をされていたが、引っ越し先の中学校には吹奏楽部がなく、悔しい思いをしたという。音楽が好きだったので、岐阜でも音楽を楽しめる場を作ることができたらよいな、と考えていたら、同じ思いの友人もいて、その人たちと大学時代、吹奏楽サークルを立ち上げたという。そしてそのサークルは吹奏楽だけに留まらず、若者が何かにチャレンジ出来る、やりたいことが具現化出来るような場にしたくて自ら運営をされていたそうだ。現在は活動は休止されている。

【大切にしているもの その1.キャリア教育、人づくり】
そのような行動をみて、後藤さんはよく他者から「いろいろやっているね」と言われるそうだ。ご自身でも「これがやりたいから、これをしている」という感覚は特にないが、ご自分が大切にしている物事を省みてみると、4つほどのカテゴリーに分けられるという。一つ目のカテゴリーは、『ソーシャルビジネス』ここには〈キャリア教育〉や、〈人づくり〉の項目もある。ソーシャルビジネスとは文字通り、社会的課題の解決をビジネスモデルとして確立させ、仕事として展開させてゆくという業務のことである。とかく社会的課題の解決はボランティアだったり、市民団体が取り組むことが多いけれど、予算繰りの関係で事業に取り組む方が大変だったり、長くは続けられなくなってしまうものだ。それを持続可能なビジネスとして取り組んで行こうということだ。具体的な仕事内容としては、子どもたちに対して仕事に就いている大人の話を聴かせて将来の進路のイメージを持たせたり、働き方、生き方について考えさせたりするのである。また地域に出てインターンシップとして職場体験させ「社会って、仕事って、こんな感じなのだ」とか、「学校では自信がなかったけれど、社会に出てみたら私、結構対応出来ているじゃない」等々の感覚をもってもらう。そういうお仕事なのだ。

【大切にしているもの その2.場づくり、人つなぎ】
しかし、それは仕事を離れても似たようなことをされていて、それは例えば『場づくり』であり、『人つなぎ』であったりするのだが、要するに自分はそういうことが好きなのだと思うと後藤さんは言う。ひととひととが繋がったり、新しい考え方や気づきが得られ、気づきによって人が変わってゆく瞬間に立ち会えることが楽しいのだという。自分に自信がなかった、自分には何もないと思っていたけれど、こんな考え方もあったのか…と発見して帰ってゆく人がいたり、何かに行き詰まっていたけれどこういう方法があるんだ…という手段を他の人から学んで帰ったりとか、そういう瞬間を結構見たりしているので、それもあって場づくりが好きなのだという。振り返ると後藤さん自身も過去に人から多く学んだ経験があったのだ。だからこそ自分に自信がない子や、何かに行き詰まっている子を見ると、背中を押してあげたくなるのだろう。

【大切にしているもの その3.アート・表現活動】
前述の2つのカテゴリーからもお分かりのように、後藤さんは〈人が好き〉なのだ。それと同様に好きなのが『アート』であり、『表現活動』なのだという。自分で《私はひとが好きなんだな》と思ったのは中学生ぐらいだったが、絵を描くのは幼稚園の時から好きだったという。幼稚園時代の後藤さんはとにかく外に出ず室内で絵を描いているか、本を読んでいる子どもだった。友だちと遊んだりもしていたが、それよりもひとりで絵を描いている方が楽しかったのだ。中学校の時にはこの先デザイン科がある学校に行こうと思っていたぐらいで、でもそれで将来食べてゆけるかどうか解らなかったし、進路をひとつの分野に絞ってしまうことの怖さもあって普通科の高校に進学したのだそうだ。いまの自分ならば例えデザイン科に行ってその道を進まなくても、他にも選択肢はあるよと言ってあげられるのだが、その時の後藤さんの心境としては普通校に進学した方が将来の選択肢が幅広くみえていたのだ。高校でも文理選択をしなければならなくなって芸大という選択もあったのだが、芸大に入るにはそれなりの塾に通わなければいけなかったり、その塾も名古屋にあったので、岐阜から通う交通費や時間がかかるということもあり、そこまでの労力を使って自分は絵を仕事にしたいのかと自問自答した結果、その次に興味があった《ひと》に関わる学科「福祉・心理」を選び、学ぶことになったのだ。しかし、面白いもので自ら閉ざした絵やデザインの道だが、後藤さんは現在の仕事でも広報のためチラシのデザイン等をさせてもらっていて、そんなふうに自分は閉ざしても他者は自分の能力をみていてくれているものなのだなと思うと同時に、改めて自分は絵を描いたり、デザインをすることが好きなのだなと感じているという。

【大切にしているもの その4.持続可能であること】
後藤さんが大切にしているもうひとつの価値観は『持続可能であること』。大学時代に社会福祉を学んでいる時から、後藤さんは「いまの日本の社会は持続可能ではないな」と思っている。正解のない問いに対して、「どうすればよいんだろうね?」と考え続けることが必要かなと思っている。でも、それを考えるのはひとりではダメなので、周りのひとたちと一緒に考えるのも必要かなと思って、いろいろとやっているそうだ。福祉の世界で《自助・共助・公助》という言葉があるが、公助はもう限界だと思うし、自助でもやれる範囲が限られるので、共助〈共に生きる〉ところをいかに増やしてゆけるかが、自分の人生も、みんなの人生も豊かにしてゆく上で必要なのではないかと、後藤さんは思っている。

【後藤さんのアイデンティティー】
人の行動は表に出ている部分がその人の全てとは限らない。それは氷山の一角に過ぎないのだ。そしてその隠れている部分こそ、その人のアイデンティティーであり、行動や現在の活動の原動力だったりする。現在を語る上において過去の出来事は必要不可欠で、そういった意味で内省は大事だと後藤さんは言う。しかし〈私〉という存在は、自分ひとりでは何者なのか解らないのだ。自分では〈私〉を捉えることは出来ない。だから後藤さんがよく行ってきたのは、誰かと向きあって「私とあなたはここが似ているけれど、こういうところが違うよね」と対話をしたり、投げかけられた問いかけによって自分が自分のことをどう思っているのかとか、周りの人たちと自分はどう違うのかということを得ていったそうだ。そういう作業をしながらも内省しつつ、〈私〉を確立させて行ったのだという。

【マイノリティーな人生?】
そんな作業をしている時に、後藤さんはある人から「あなたは、人生がマイノリティーだね」と言われたという。「だからこんなことをしているんだね」とも。「そうなのかなあ~」と思い〈マイノリティー〉と言われた所以を振り返ってみたという。

【常に暗中模索で過ごしている】
そうやって少しずつ少しずつ、目の前にある与えられたものや、得たチャンスとか、会えた人とかに、自分として「こう思う」「ああ思う」「こうしたい」と伝えて、選んでやってみる。そしてその次に「どう感じた」「こう感じた」「こういうことがしたい」ということの繰り返しでいままで進んできたと思っているそうだ。まさかこんなことをしているなんて、昔の自分は思っていないし、いまキャリア教育の仕事をしているなんて驚きで、信じられないかも知れないという。そんなふうに常に暗中模索で、わからないなりに「とりあえずやるか」という感じで過ごしているという。

【試行錯誤しながら現在がある】
だから後藤さんは、夢を掲げて「私はこうなりたい」とその道に努力出来る人がとても羨ましかった時期があったそうだ。何になりたいとか、何者になりたいとか、この職業に就きたいとか、あまりないからだ。しかし、「こういうことは大事にしよう」とか、「こういうことは好きかな」とかは持っている。未来に「こうありたい、こうなりたい」像があってそこに行くというよりも、現在の自分が「どう感じている」とか、「どういうことをいままで大事にしてきたか」とかを積み上げてゆく感じ。いまは憧れていたソーシャルビジネスに辿り着いたけれど、そこでも葛藤があってその葛藤と向き合いながら「次はどうして行こう」「次はこうして行こう」という試行錯誤しながら現在があるのだと思っているという。

【人生がマイノリティーとは言われたけれど…】
自分のいままでの人生を「マイノリティー」とは言われたけれど、マイノリティーな人生とは何だろう…? と、後藤さんは思っている。ご自分の話をされると、そんなふうに見えないって言う人もいるけれど、どんなふうに自分のことをみているのかは知らないが、「普通」だと思っている他の人たちの話も、その人なりの哲学や倫理観とかがある。もしかしたら「自分は普通だ」とか「これが常識だ」と思っているだけかも知れない。その人の経験はその人しか経験してないし、現在している仕事や活動・趣味はどこから来て、どこへ繋がってゆくのだろうかと、皆さんも時々省みられてみるのもよいのではないかと、後藤さんは締めくくられた。(この後に参加者を交えてワークショップを行ったが、それは省略します)

【大久保的まとめ】
後藤恵理香さんとは、共通の友人から紹介をされて知りあい、ゲストとしてお越しいただいた。共通の知りあいが何人かいるのに、また「場づくり」という似たような活動をしているのに、いままで全く顔をあわせていなかったのが不思議だ。しかし、後藤さんのお話を伺ってそれもあたりまえかと思うようになった。後藤さんの「場づくり」は対象者が自分と同年代の若者に限られているようだ。それはおそらく「場づくり」の目的が様々な分野の若者を募っていろいろな社会問題を議論しあうことにあるからだろうし、その会場が完全なパブリックスペースではなく、シェアハウスという半プライベート空間で行われているという点で無理からざるところもあろう。私は後藤さんのお話を聴いても、全然驚かなかったし、マイノリティーな人生とも思わなかった。後藤さんも言われていたが、ひとりひとりの人生にはその人だけのストーリーを秘められているし、そのひとが持っている考え方や価値観はそのストーリーから培った、その人だけのものである。そういう意味では〈普通の人生〉など、どこにもないのだ。だからこそ、人は興味深く面白いのである。
後藤さんはご自分のことを「「こうありたい、こうなりたい」像があってそこに行くというよりも、現在の自分が「どう感じている」とか、「どういうことをいままで大事にしてきたか」とかを積み上げてゆく感じ。」と表現していた。確かに誰にも未来の自分がどうなっているのかなんてわからないだろう。そして未来の自分を想像することは、恐ろしいことでもある。私にしても若い頃は「福祉」とか「まちづくり」とか「コミュニティデザイン」に関わる人間になるとは思ってもいなかった。しかし、気づいてしまったのだ。未来を思わなければ、現在起きている社会問題は解決しないし、何も行動しなければ、未来は変わらないと…。この社会を変えたいと思うのなら、自らが動かなければ何も変わらないのではないだろうか…? 試行錯誤しながらでもいい。暗中模索でも構わない。後藤さんには少しずつでも「未来」を夢見る勇気を持ってほしいと思っている。
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