ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.109レポート

2017-01-20 18:57:30 | Weblog
12月のゲストは〈NPO法人子ども&まちネット〉の西村健さん。西村さんは大阪府出身。小学生時代から愛知県へ。大学生の頃から地震防災啓発活動を行い、愛知万博に企画出展。この頃に「こどものまち」という子どもの社会体験イベントに出会う。卒業後は行政コンサルに就職、行政計画策定や市民アンケート調査等に従事。その後、大阪のキャリア教育関連のNPO法人で「こどものまち」を企画。また、地域ラウンドテーブルの立ち上げや地縁団体と市民活動団体のマッチングイベントを企画。2014年から愛知に戻り、青少年施設に勤務後、市民活動推進センターに勤務。現在はNPO法人スタッフと並行して、行政の嘱託職員として自治会支援に従事していらっしゃる。お話のタイトルは『ニシムラタケシ解体新書~建築、防災、子ども・若者、地域と仕事』

【子どもの頃からの理系】
西村健さんは、現在33歳。小学生の頃から算数や理科が好きで、高校の時に自分が将来的に理系の道に進むだろうと信じていたが、それでも何か社会と関わることもしたいなと思っていたという。一概に社会と関わる理系の仕事といってもいろいろとあり、研究をして飛行機を作ったり、自動車を作ったりするのもそうだが、西村さんはもっと人に近い分野は何だろうと考え、大学では〈建築〉を専攻していたそうだ。

【いきなり学祭の実行委員をすることに…】
名古屋大学建築学部に入学した西村さんは、入学早々学校祭の実行委員に選ばれた。名大の学祭は毎年6月に開催され、それぞれの学年、学部から実行委員が選出されて実行委員会が組織されるのだが、誰も立候補する人がいなかったのでジャンケンで決めることになったのだ。そう、西村さんはジャンケンに負けて、実行委員をすることになったのである。しかし、学祭の実行委員とはいうものの、4月に立ち上げて6月か本番なので、正味なところ活躍の場がなかったのだ。そこで燻っていた胸の内を「学内だけではなく、地域に出て何か活動したい」と実行委員会の先輩に話したところ、その先輩の友人で防災教育を行う学生のサークルを立ち上げようとされている人を紹介され、誘われて西村さんもそのサークルに参加することにしたという。2003年の秋のことだ。

【震災ガーディアンズ】
こうして〈震災ガーディアンズ〉というサークルに参加した西村さんは、地震防災の啓発活動を三年間ほどされていた。東日本大震災や2007年の中越沖地震、山越村が全村避難した2004年の中越地震、この辺りから日本全体の地震防災に対する気運が高まって来ているが、西村さんがサークルに参加された頃は、ちょうど防災に対する意識が社会的な波としてさざ波立っている時期で、その潮流に乗って活動する機会はいろいろあったとか。2005年の愛知万博で企画出展されたり、新聞に取り上げられたり、FMラジオにも出演したりしたそうだ。
【つまらないことを面白く】
震災ガーディアンズの活動におけるモットーは「つまらないことを面白く」というもので、防災教育というものは必要なものだけれど、子どもたちにとってはあまり面白いものではない。それをどう面白く子どもたちに伝えるか? 学生のサークルだったので、専門家の先生や行政とは違った切り口で取り組みたいと思ってもいた。いろいろと試行錯誤した結果、《すごろく》というものに辿り着いたのだという。防災をすごろくに落とし込んで、地域の防災訓練で大人たちが消火訓練などをしている横で、このすごろくで子どもたちに遊んでもらう。つまりすごろくを通して、防災の知識を身につけてもらうというワークショップを行っていたのだ。カードを使ったり、防災グッズも値段が高いイメージがあるが、要は備蓄のためのもので、避難所の生活も簡単に言えばサバイバルキャンプと見做し、そのキャンプ用品を100円均一ストアーで揃えられないかと考えて、缶詰やミネラルウォーターやレジャーシートなどを買ってきて、実物を使いながらゲームをされていた。

【すごろく研究所】
この活動をしているうちに〈双六〉というものが防災以外のテーマでも活用出来るのではないかと考え、2006年頃にまた新しい学生のサークル『すごろく研究所』を立ち上げたという。このサークルでは幾つかの双六を作ったり、双六を作ってもらうワークショップを行っていたそうだ。防災双六もはじめは西村さんたちサークルのメンバーが作り、それをワークショップで体験してもらうということをしていたのだが、「作る」過程も楽しく、コンテンツだけではなくプロセスも参加者の皆さんに体験してもらえないかということで、小学生地震に関する双六を作ってもらったりされていた。学校内とか登下校路を歩いて、ポラロイドカメラで危険な箇所を写真に撮り、それを双六にまとめ、その双六で実際に遊ぶ…ということをしてきたという。防災の他にもまち歩きをして双六を作った例として、衣・食・住をテーマにして三回ワークショップを行ったことがあった。地下鉄の駅を起点に幾つかに分かれてまち歩きをしてもらい、テーマにあわせて、そのまちの特徴を拾って来られないかと考えたのだ。

【人生ゲームをつくる-世代間のギャップを埋める可能性も】
双六形式のボードゲームで一番ポピュラーなのは『人生ゲーム』だが、『人生ゲーム』を自分たちで作るというワークショップも行った。これまでの人生を振り返って楽しかったことや、大変だったこと、自分に影響を与えた社会的な事件などを書き出して行き、その一方で参加者ひとりひとりの将来の夢とか希望とかも書き出して行って、参加者全員の人生をまとめて双六に落とし込んでゆく…というワークショップをしたという。参加者が同じ世代であれば「小学生の時に流行ったゲームって、こんなのだったよね?」というような会話が出来る。一方で世代が違っても実は小学生時代に同じことをして遊んだ経験があるよねといった、世代間のギャップがあるようでない会話が生まれる。そうしたお互いのことを語りあうようなワークショップもしていたそうだ。

【建築からまちづくりへ指向の変化】
そんなふうにサークル活動を行っているうち、西村さんはその道に進みたいと思っていた建築に興味を失してゆき、その代わりまちづくりに関心を寄せるようになっていた。建築では当然のことにハードをどう建てるのかが中心になるのだが、その建物をどう使うのかといった、ひとにフォーカスするような方向に興味が向いて行ったのだ。

【全身タイツ姿でゴミ拾い】
それと時を同じくして西村さんは、名古屋駅西口前で戦隊物ヒーローの全身タイツを着てゴミ拾いをされている〈NGOアース〉の活動にも共感を寄せ、自身も活動をするようになって行った。〈震災ガーディアンズ〉の活動におけるモットー「つまらないことを面白く」というのは、実はこの活動をされている時のモットーでもあり、ゴミ拾いというつまらないことを、このNGOの活動では戦隊物ヒーローのタイツを身につけることにより、楽しくさせていたのだ。西村さん自身も実際にタイツを身につけて、活動に参加したことがあるそうだ。まちの中で全身タイツ姿でゴミ拾いをしていると、いろいろなひとからの視線に晒されるため、変身するのを躊躇うひともいるのだが、顔も覆面で覆われているので誰なのかは解らない。また、戦隊物ヒーローのタイツ姿で活動していると、通りがかりのひとから手を振られたり、握手を求められるという。普通の生活をしていては、赤の他人から手を振られたり、握手を求められるなんてことはないだろう。その姿のまま、地下鉄に乗ったこともあったそうだ。2010年の5月30日、いわゆる「ゴミゼロの日」がちょうど日曜日だったので、いつもの名駅西ではなく栄で大きなイベントを行ったこともある。戦隊物ヒーローのタイツだけではなく、いろいろなコスプレをした人たち300余名も集合してもらい、地下鉄に分かれて乗り、様々な目的地でゴミ拾いをして、また栄に戻って来るという大掛かりなものだった。

【廃高架線下にまちを作ろう】
大学時代のサークル活動、地域活動ではそんなことをしていた西村さんだが、一応建築の勉強もされていたので、ここでもまちを歩いたり、眺めたりしていた。名古屋市営地下鉄名港線の六番町駅と東海通駅の中間辺りにURの九番団地がある。その北側に使われなくなった貨物線の高架がぶつ切れにされて残されている。現在東京方面から来る貨物列車が貨物ターミナルがある中島に入るには、わざわざ稲沢まわりで名古屋駅、笹島を通って中島貨物ターミナルへ入るそうだ。それを大府の辺りから南まわりのルートでターミナルに入れられるような貨物路線を計画していた。9割作った時点で周辺の反対運動に遭ったり、国鉄がJRグループに分割されたりして、この計画は頓挫してしまったのだ。そういう理由から無責任にも高架線は残されたままになってしまったのだが、車が通る幹線道路の上はコンクリートが崩れると危険なので、ところどころぶつ切りにされて、現在でも野ざらし状態になっている。そこに西村さんは目をつけ、名古屋港が近い土地柄でもあるのでコンテナを高架下に据え、窓をつけたり、ペィンティングしたりしてひとが住めるようにし、これを幾つも作って高架線下にまちが作れないかという提案をしたそうだ。

【NPO法人子ども&まちネットとの出会い】
防災すごろくで活動されていた頃、名古屋都市センターの助成金を申請することになり、そのプレゼンで「子ども向けにこんなことをします」と話したところ、同じくプレゼンに来ていた〈子ども&まちネット〉の代表・伊藤さんから「あなたたちの活動はよいけれど、子どものことをどれだけ知っているの?」と尋ねられ、確かにあまり知らなかったのでそう答えたら、「一度うちにボランティアに来なさい」と言われたという。そうして西村さんたちは〈子ども&まちネット〉にもボランティアに行くようになったのだ。

【こどものまち】
その子ども&まちネットが2007年の年末に中村児童館において、「こどものまち」のイベントを行った。「こどものまち」とはドイツのミュンヘン市発祥の、子どもたちが自分たちで会議を開いてまちの規模や機能やルールを作り、お店も自分たちで手作りして運営をするイベントで、職業体験と社会参画体験の側面もあるワークショップである。西村さんはその年の「こどものまち」にボランティアとして関わり、現在でもこれを仕事に出来ないかと思うほど衝撃を受けたという。お店とはいうものの、商品は子どもたちが作るものなので、あまり大したものは出来ない。折り紙で折った手裏剣などの部類。それとやはり商品の消費がしやすい飲食店が多いという。それでもその年の「こどものまち」で、飲食店以外で唯一黒字になった店があった。それは意外にも「財布屋」さんだったという。もともとその店は「財布屋」さんではなく、「本屋」さんだったのだ。コピー用紙を二つに折ってホッチキスで留め、そこに子ども自身が絵を描いて「本」として販売していたのだが、正直売れるわけがない。一計を案じたその「本屋」の店長は、そのまちの住民や訪れる人たちにとって必要なものは何かということを考えた。「子どものまち」では、そこでしか使えない紙幣でものの売買がされているのだが、その紙幣を持ち歩くことに困っているひとが多い。そんなことを自分で気づいたのか、誰かに訊いたのかは解らないが、即座に「本」と同じ材料で「財布」を拵え、販売したところ飛ぶように売れたという。

【偶然が呼ぶ奇跡の物語】
まるで偶然が呼ぶ奇跡の物語である。そんな場面を目の当たりにした西村さんは感動し、この「こどものまち」に魅せられてしまったという。いまも名古屋市の事業を受けている〈NPO法人子ども&まちネット〉で「こどものまち」を続けさせてもらっているし、大阪の〈Cobon(こぼん)〉というNPOで行ったり、大阪の別の団体で行ったり、いろいろなところで「こどものまち」を行っているそうだ。2010年に名古屋の吹上ホールで行われた時には、二週間で20,000人の子どもたちが訪れたとか…。今年(2016年)は、12月24・25日というクリスマスに行うという。

【行政とNPO、協働の限界や可能性】
西村さんが関わっている〈NPO法人子ども&まちネット〉は、主に子育て支援の活動をされているのだが、最近は「子ども」「若者」の定義の対象年齢が上がって来ている。文部科学省が定義する「若者」は34歳まで。厚生労働省によると39歳までになるそうだ。子ども&まちネットが子どもと若者の支援活動をする中で、青少年交流プラザ(ユースクエア)の三年間の指定管理を取り、その一年目に西村さんもスタッフとして入った。「こどものまち」でも少しは関わりがあったのだが、この青少年交流プラザでは指定管理ということで行政との関係が西村さんの中で大きくなってきたという。行政とNPOとの協働でどんなことが出来るのか? その限界や可能性を感じた一年でもあったそうだ。

【大阪時代の仕事】
これまでの人生の中で6回ほど転職している西村さんだが、実は2年半ほど大阪に戻っていた時期がある。地域団体、名古屋でいえば学区連絡協議会や町内会とか自治会などの団体を顧客として仕事をしていたことがあるそうだ。大阪市コミュニティ協会という法人が大阪市からの業務委託を受けて募集していた地域まちづくり支援員にとして関わった仕事である。西村さんとしては、その時まで町内会や自治会は興味はそれほどなかったそうだが、当時大阪でお世話になっていたNPOもそれほど大きな団体ではなく、この先給料が十分支払える状態ではないということで困っていたところ、募集していたのだ。応募してみたら運良く採用されたという偶然のなりゆきだった。具体的な仕事としては、全国的にそうなのだが、地域組織である町内会・自治会は様々な原因から疲弊してきていて、特に西村さんが関わった地域は名古屋でいう南区のようなイメージで、大きな鉄工所があったのだが、そこが廃炉になったのがきっかけになり、ここ20年で人口が7万人と減ってきていた。人口が7万人で地域にIKEAがあるので週末ともなると3万人集まるというところでもある。海沿いなので地下鉄がそれほど延伸出来ず、大阪市内で唯一急行バスが走っているという地域だった。

【地域組織とNPOの弱点を補い合う】
これは全国的にみてそうなのだが、この地域の問題も人口が減少していることに加えて町内会・自治会の役員が高齢化して来ていて、いろいろな問題も発生したりする度に大変な事態に直面することにあった。しかし、その一方で大阪にはNPOが多く、NPOはその問題点を解決するノウハウを持っていたり、開発してきたりしている。しかしながらそのNPOもそれほど大きくないため、実際に活動する場所とか、対象とする人が見つけられない状況があった。それならばこの両者が手を携えれば、両者が抱える問題も解決出来るのではないか?

【地域組織とNPO団体とのお見合い】
しかし、そうはいうものの、当時はまだ「NPOってなに?」という人たちが多い時代だった。そこで町内会・自治会などの地域組織と、NPO団体とのマッチング・イベント『地域活動見本市』を企画したという。地域活動の紹介をしてもらったり、福祉系や災害支援、子どものキャリア教育を行っているNPOの代表や、区長さんにお話をいただいたり、パネルディスカッションをしたり…。西村さんが関わったのは4年前の一年間だけだったのだが、現在でもそのイベントは続いているそうだ。

【現在の仕事】
建築・地震防災・子ども関係・地域支援と渡り歩いてきた西村さんだが、次に何をしようかと考えていた時に、現在の仕事である〈コミュニティサポーター〉制度が今年(2016年)の9月から始まった。8月まではボランティアやNPOの所管をしている名古屋市市民活動推進センターに勤めていたのだが、他の業務もあって西村さんが思ってる、地域とNPOとのマッチングがなかなか事業展開出来ないでいた。〈コミュニティサポーター〉という制度は、新しい制度なので市の職員自体も「こうして行こう」というものが固まっていない状況で、ゼロベースで始まる部署であれば、自分が思ってきたことが出来るのではないか? と考え、応募したら今回も採用されたという形だという。9月にスタートして一月間は研修だったので、実際には10月から働いて二ヶ月が過ぎたところである。(2016年12月時点)

【具体的にはこんなことをしています】
具体的な動きとしては、広報誌やWebサイトのような広報媒体を持っている学区などがあるのだが、それをどう活用してゆけるのか? みたいなことで、名古屋も地域組織の役員さんが高齢化しており、担い手もあまりいないので、こういったことも若い人たちにバトンタッチして行きたいという話を聞いて、現在提案をしているところだそうだ。また、津波の被害が想定されている地域で、津波に強い地域をどう作ってゆけばよいのか? 津波に対して地域が対応するには、どういう訓練をすればよいのか? 等々を地域の人たちと一緒に考えているという。しかし、この〈コミュニティサポーター〉制度は始まって二ヶ月ということもあり、地域からの依頼がまだ14件しかない状況であるという。名古屋には266もの学区があるのだが、そこからの依頼がないと仕事がないので、もう少しこの制度の認知度を拡げて行きたいと、西村さんは思っている。


【雲南ゼミ】
行政と地域ということで言えば、今年(2016年)の9月末頃にNHKスペシャルで『消滅日本』という刺激的なタイトルで特集が組まれていた。名古屋のような大都市であればそこまでの危機感はないのだが、中山間地に行くと人口減少、若者離れによって小学校も廃校になり、中学校もなくなってゆきます。50年後には集落それ自体もなくなります…みたいな特集であった。その番組の中で紹介されていたところが島根県の雲南市。いろいろなところが出している日本全体の平均の人口推計の20年先を行っているぐらいの地域で、出雲や松江からもそれほど遠くはないのだが、市域が広いので愛知県でいうと豊田市のようなところだそうだ。名古屋に近くベッドタウン的なところもあれば、山間部で大変なところもある。その雲南市で『雲南ゼミ』という雲南市の取り組みを全国の人たちに知ってもらいたいという企画を立ち上げられており、西村さんもそこに参加してきたという。

【雲南市の取り組み】
この雲南市は『雲南ゼミ』を企画する前から、地域で映画を撮ったり、どぶろく特区(日本の酒税法ではどぶろくは醸造してはいけないのだが、雲南市は許されて醸造している)を取ったり、新しいことはしてきているらしい。12年前に6町村が合併した時に、これまでと同じような行政と地域の関係性は維持出来ない。職員も減らさなければならない…。地域が自立出来る仕組みに出来ないか? ということで、地域自主組織というのを雲南市全域に立ち上げようという動きが、合併と同時並行で進んで行ったのだ。現在ではそれを『小規模多機能自治』というのだが、小規模=名古屋の小学校区ぐらいの規模で、いろいろな機能をもった町内会や自治会が地域を動かしてゆく。ここでいう「多機能」を説明すれば、例えば行政が行う水道の検針等を学区が行うような感じである。学区が水道の検針を行うと、それが独居老人等への見守り事業とも繋がってゆくのだ。水道の検針に行ったついでにその家の高齢者に声をかけ、支援が必要なら福祉サービスへと繋げられる。そういう事業を受託して行ったり、自分たちで商品開発をして道の駅で販売したり、そのような新しい取り組みをしているのだそうだ。現在では本来行政が行う事業を、学区が「自分たちが行う」と提案しているほど。住民票の発行とか、そういった窓口業務ぐらいなら出来るの
ではないかというところまで進んでいるらしい。

【最近思っていること】
とにもかくにも雲南市では、町内会・自治会が行政に頼っていない。名古屋でいえば区役所みたいな行政の支所があるのだが、その支所も職員はもう要らないから減らして良いよ。自分たちが運営するから、それだけの委託料をくれ…という感じなのだとか。本庁でやるべき申請などの対応だけをしてくれればいいと、地域側から提案しているそうだ。そういう意味で先端事例が見られたかなと思っている。なかなかそういうことは、名古屋市の職員も知らないので「こんなのあったよ」とちょっと言いつつも、名古屋市役所を変えてゆきたいなということが、最近の西村さんが思っていることだそうだ。

【大久保的まとめ】
西村健さんと出会ったのは、たまたま。偶然のなりゆきであった。西村さんが青少年交流プラザの職員をしていた時、ジネンカフェ拡大版のチラシの配架のお願いにあがったところ、対応をしてくれたのが西村さんだったのだ。その年は共通の知りあいだった白川陽一さんがワールドカフェのファシリテーターをしてくれることになっていたし、テーマが確か子ども絡みであったから、二言三言言葉を交わしたことを憶えている。そうそう、延藤代表や、まちの縁側の固有名詞も出たと思う。その時はそれだけで終わったのだが、その翌年、名古屋市市民活動推進センターで職員と利用者という関係で再会したのだ。
 当時は何をしている人なのかわからなかったが、延藤先生の名前を知っていて、まちの縁側にも興味を持っていること。NPO法人子ども&まちネットが指定管理を取っている青少年交流プラザの職員をされていることから、子どものキャリア教育にも関心がある、建築・まちづくり系のひとらしいとはうすうす感じていたが、防災やまちの環境美化にまで活動されていたとは知らなかった。
 西村さんは一見堅実そうにみえるが、実際は結構自分の興味が向くままに動き、仕事も変えてゆくアナーキーなタイプなのだなということが垣間見え、興味深くお話を伺った。自分の興味が向くままに仕事を何度も変えてゆくことを、よく思わない人もいるだろう。しかし、よく考えてみてほしい。働く環境が変わるということは、恐ろしいことだ。それまで積み上げてきたものを、もう一度ゼロから積み直さなければならないのだし、場合によっては生活する環境さえも変わってしまうからだ。何度も仕事を変えるということは、それの繰り返しでもある。勇気があるな…と、私などは思う。
 しかし、その恐怖心を凌ぐほど興味深い対象に出会ったら、我が身ひとつでその対象に飛び込んでゆく。あとは海となれ、山となれ。自分ひとりなら食べてゆくぐらい何とでもなるだろうという自信が、西村さんの底流にあるのだろう。逞しくもあろう。またご一緒出来ることを心より願っている
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ジネンカフェVOL.108レポート

2017-01-12 09:13:16 | Weblog
今年も早いものであと二ヶ月を残すのみとなった。光陰矢のごとしとはよく言うが、まさにその通りだなあ~と、しみじみと実感している今日この頃である。さて、先月はお休みだったので、お久しぶりのジネンカフェ。今月のゲストは、キャリア教育をされているNPOで働きながらも、「持続可能な生き方・働き方」「そのひとらしくあること」に関心があり、福祉・心理・教育などの領域に身を置きつつ、シェアハウスを住み開いて、ゆるさをモットーに20代を中心とした「これからの未来や社会について、ソーシャルなものごとに関心がある若者がさまざまなテーマで語る会/Social × Dialogue」等を運営している後藤恵理香さん。お話のテーマも『-Past,Now,Future-内省と対話からつながる』と、後藤さんらしい。

【後藤恵理香さんというひとは…】
後藤恵理香さんは、1992年愛知県生まれ。現在24歳。4人兄弟姉妹の長女。本業は、教育系のNPOで事務や、コーディネーターのお仕事をされている。美味しいものを作ったり、食べたりすることや、映画を観たり、読書が趣味という。運動するよりも音楽とか、絵を描くなど、自分自身を表現することが好きだったそうだ。〈場づくり〉をしたり、ひとを集めてイベントを行ったり、旅行を企画してみんなをどこかに連れて行ったりもしているが、基本的にはインドア派だと自分では思っている。

【Social × Dialogue】
本業の他にも、後藤さんはいろいろな活動をされている。主なものだけでも三つあるという。その中のひとつ『Social × Dialogue』は二年ほど前、学生時代から運営されている、社会的な物事に関心のある若者たちの対話の場だ。国際貢献・交流、情報・メディア、福祉等々、社会的な問題や物事に関心を持っている若い人たちは名古屋にも結構いるのだが、各分野ごとにコミュニティが固まってしまっている傾向にある。そのコミュニティ同士の交流が出来たら面白いのではないかと思い、分野横断的にご自分の友だちを集めて始めたのだという。関心のある分野は違えど思い描いている理想は似ていたり、違ったりもするけれど、そこで話しあったりする場づくりが面白くて続けているとか。いまは東京や海外に行っている友人も多くなり、Web上での活動が増えているのが現状だが、時々はそんな仲間たちと会って情報交換をしている。

【月一ご飯会】
最近は月に一度ぐらいで『ご飯会』もされているそうだ。美味しいものが好きなので、その美味しいものをみんなで食べよう、と思い始めたという。『Social × Dialogue』に集まって来る人たちは、もともと社会的なことに関心を持っている人たちで、そうでない人にとっては敷居が高い。でも『ご飯会』であれば気軽にご飯を食べながら、「そんなこともあるんだね」とか、「そんな考え方もあるんだね」という感じで知れたり、気づけたり出来る場が作れる。それぐらいハードルを下げて「一緒にご飯を食べる」ことを目的にしてあげた方が対話しやすいのかなと思い、行っているのだそうだ。

【まちづくり】
後藤さんのご実家は、田舎暮らしに憧れたご両親の想いにより、中学生の頃に愛知県から岐阜県に引っ越しを行った。愛知県の中学校では、部活動として吹奏楽をされていたが、引っ越し先の中学校には吹奏楽部がなく、悔しい思いをしたという。音楽が好きだったので、岐阜でも音楽を楽しめる場を作ることができたらよいな、と考えていたら、同じ思いの友人もいて、その人たちと大学時代、吹奏楽サークルを立ち上げたという。そしてそのサークルは吹奏楽だけに留まらず、若者が何かにチャレンジ出来る、やりたいことが具現化出来るような場にしたくて自ら運営をされていたそうだ。現在は活動は休止されている。

【大切にしているもの その1.キャリア教育、人づくり】
そのような行動をみて、後藤さんはよく他者から「いろいろやっているね」と言われるそうだ。ご自身でも「これがやりたいから、これをしている」という感覚は特にないが、ご自分が大切にしている物事を省みてみると、4つほどのカテゴリーに分けられるという。一つ目のカテゴリーは、『ソーシャルビジネス』ここには〈キャリア教育〉や、〈人づくり〉の項目もある。ソーシャルビジネスとは文字通り、社会的課題の解決をビジネスモデルとして確立させ、仕事として展開させてゆくという業務のことである。とかく社会的課題の解決はボランティアだったり、市民団体が取り組むことが多いけれど、予算繰りの関係で事業に取り組む方が大変だったり、長くは続けられなくなってしまうものだ。それを持続可能なビジネスとして取り組んで行こうということだ。具体的な仕事内容としては、子どもたちに対して仕事に就いている大人の話を聴かせて将来の進路のイメージを持たせたり、働き方、生き方について考えさせたりするのである。また地域に出てインターンシップとして職場体験させ「社会って、仕事って、こんな感じなのだ」とか、「学校では自信がなかったけれど、社会に出てみたら私、結構対応出来ているじゃない」等々の感覚をもってもらう。そういうお仕事なのだ。

【大切にしているもの その2.場づくり、人つなぎ】
しかし、それは仕事を離れても似たようなことをされていて、それは例えば『場づくり』であり、『人つなぎ』であったりするのだが、要するに自分はそういうことが好きなのだと思うと後藤さんは言う。ひととひととが繋がったり、新しい考え方や気づきが得られ、気づきによって人が変わってゆく瞬間に立ち会えることが楽しいのだという。自分に自信がなかった、自分には何もないと思っていたけれど、こんな考え方もあったのか…と発見して帰ってゆく人がいたり、何かに行き詰まっていたけれどこういう方法があるんだ…という手段を他の人から学んで帰ったりとか、そういう瞬間を結構見たりしているので、それもあって場づくりが好きなのだという。振り返ると後藤さん自身も過去に人から多く学んだ経験があったのだ。だからこそ自分に自信がない子や、何かに行き詰まっている子を見ると、背中を押してあげたくなるのだろう。

【大切にしているもの その3.アート・表現活動】
前述の2つのカテゴリーからもお分かりのように、後藤さんは〈人が好き〉なのだ。それと同様に好きなのが『アート』であり、『表現活動』なのだという。自分で《私はひとが好きなんだな》と思ったのは中学生ぐらいだったが、絵を描くのは幼稚園の時から好きだったという。幼稚園時代の後藤さんはとにかく外に出ず室内で絵を描いているか、本を読んでいる子どもだった。友だちと遊んだりもしていたが、それよりもひとりで絵を描いている方が楽しかったのだ。中学校の時にはこの先デザイン科がある学校に行こうと思っていたぐらいで、でもそれで将来食べてゆけるかどうか解らなかったし、進路をひとつの分野に絞ってしまうことの怖さもあって普通科の高校に進学したのだそうだ。いまの自分ならば例えデザイン科に行ってその道を進まなくても、他にも選択肢はあるよと言ってあげられるのだが、その時の後藤さんの心境としては普通校に進学した方が将来の選択肢が幅広くみえていたのだ。高校でも文理選択をしなければならなくなって芸大という選択もあったのだが、芸大に入るにはそれなりの塾に通わなければいけなかったり、その塾も名古屋にあったので、岐阜から通う交通費や時間がかかるということもあり、そこまでの労力を使って自分は絵を仕事にしたいのかと自問自答した結果、その次に興味があった《ひと》に関わる学科「福祉・心理」を選び、学ぶことになったのだ。しかし、面白いもので自ら閉ざした絵やデザインの道だが、後藤さんは現在の仕事でも広報のためチラシのデザイン等をさせてもらっていて、そんなふうに自分は閉ざしても他者は自分の能力をみていてくれているものなのだなと思うと同時に、改めて自分は絵を描いたり、デザインをすることが好きなのだなと感じているという。

【大切にしているもの その4.持続可能であること】
後藤さんが大切にしているもうひとつの価値観は『持続可能であること』。大学時代に社会福祉を学んでいる時から、後藤さんは「いまの日本の社会は持続可能ではないな」と思っている。正解のない問いに対して、「どうすればよいんだろうね?」と考え続けることが必要かなと思っている。でも、それを考えるのはひとりではダメなので、周りのひとたちと一緒に考えるのも必要かなと思って、いろいろとやっているそうだ。福祉の世界で《自助・共助・公助》という言葉があるが、公助はもう限界だと思うし、自助でもやれる範囲が限られるので、共助〈共に生きる〉ところをいかに増やしてゆけるかが、自分の人生も、みんなの人生も豊かにしてゆく上で必要なのではないかと、後藤さんは思っている。

【後藤さんのアイデンティティー】
人の行動は表に出ている部分がその人の全てとは限らない。それは氷山の一角に過ぎないのだ。そしてその隠れている部分こそ、その人のアイデンティティーであり、行動や現在の活動の原動力だったりする。現在を語る上において過去の出来事は必要不可欠で、そういった意味で内省は大事だと後藤さんは言う。しかし〈私〉という存在は、自分ひとりでは何者なのか解らないのだ。自分では〈私〉を捉えることは出来ない。だから後藤さんがよく行ってきたのは、誰かと向きあって「私とあなたはここが似ているけれど、こういうところが違うよね」と対話をしたり、投げかけられた問いかけによって自分が自分のことをどう思っているのかとか、周りの人たちと自分はどう違うのかということを得ていったそうだ。そういう作業をしながらも内省しつつ、〈私〉を確立させて行ったのだという。

【マイノリティーな人生?】
そんな作業をしている時に、後藤さんはある人から「あなたは、人生がマイノリティーだね」と言われたという。「だからこんなことをしているんだね」とも。「そうなのかなあ~」と思い〈マイノリティー〉と言われた所以を振り返ってみたという。

【常に暗中模索で過ごしている】
そうやって少しずつ少しずつ、目の前にある与えられたものや、得たチャンスとか、会えた人とかに、自分として「こう思う」「ああ思う」「こうしたい」と伝えて、選んでやってみる。そしてその次に「どう感じた」「こう感じた」「こういうことがしたい」ということの繰り返しでいままで進んできたと思っているそうだ。まさかこんなことをしているなんて、昔の自分は思っていないし、いまキャリア教育の仕事をしているなんて驚きで、信じられないかも知れないという。そんなふうに常に暗中模索で、わからないなりに「とりあえずやるか」という感じで過ごしているという。

【試行錯誤しながら現在がある】
だから後藤さんは、夢を掲げて「私はこうなりたい」とその道に努力出来る人がとても羨ましかった時期があったそうだ。何になりたいとか、何者になりたいとか、この職業に就きたいとか、あまりないからだ。しかし、「こういうことは大事にしよう」とか、「こういうことは好きかな」とかは持っている。未来に「こうありたい、こうなりたい」像があってそこに行くというよりも、現在の自分が「どう感じている」とか、「どういうことをいままで大事にしてきたか」とかを積み上げてゆく感じ。いまは憧れていたソーシャルビジネスに辿り着いたけれど、そこでも葛藤があってその葛藤と向き合いながら「次はどうして行こう」「次はこうして行こう」という試行錯誤しながら現在があるのだと思っているという。

【人生がマイノリティーとは言われたけれど…】
自分のいままでの人生を「マイノリティー」とは言われたけれど、マイノリティーな人生とは何だろう…? と、後藤さんは思っている。ご自分の話をされると、そんなふうに見えないって言う人もいるけれど、どんなふうに自分のことをみているのかは知らないが、「普通」だと思っている他の人たちの話も、その人なりの哲学や倫理観とかがある。もしかしたら「自分は普通だ」とか「これが常識だ」と思っているだけかも知れない。その人の経験はその人しか経験してないし、現在している仕事や活動・趣味はどこから来て、どこへ繋がってゆくのだろうかと、皆さんも時々省みられてみるのもよいのではないかと、後藤さんは締めくくられた。(この後に参加者を交えてワークショップを行ったが、それは省略します)

【大久保的まとめ】
後藤恵理香さんとは、共通の友人から紹介をされて知りあい、ゲストとしてお越しいただいた。共通の知りあいが何人かいるのに、また「場づくり」という似たような活動をしているのに、いままで全く顔をあわせていなかったのが不思議だ。しかし、後藤さんのお話を伺ってそれもあたりまえかと思うようになった。後藤さんの「場づくり」は対象者が自分と同年代の若者に限られているようだ。それはおそらく「場づくり」の目的が様々な分野の若者を募っていろいろな社会問題を議論しあうことにあるからだろうし、その会場が完全なパブリックスペースではなく、シェアハウスという半プライベート空間で行われているという点で無理からざるところもあろう。私は後藤さんのお話を聴いても、全然驚かなかったし、マイノリティーな人生とも思わなかった。後藤さんも言われていたが、ひとりひとりの人生にはその人だけのストーリーを秘められているし、そのひとが持っている考え方や価値観はそのストーリーから培った、その人だけのものである。そういう意味では〈普通の人生〉など、どこにもないのだ。だからこそ、人は興味深く面白いのである。
後藤さんはご自分のことを「「こうありたい、こうなりたい」像があってそこに行くというよりも、現在の自分が「どう感じている」とか、「どういうことをいままで大事にしてきたか」とかを積み上げてゆく感じ。」と表現していた。確かに誰にも未来の自分がどうなっているのかなんてわからないだろう。そして未来の自分を想像することは、恐ろしいことでもある。私にしても若い頃は「福祉」とか「まちづくり」とか「コミュニティデザイン」に関わる人間になるとは思ってもいなかった。しかし、気づいてしまったのだ。未来を思わなければ、現在起きている社会問題は解決しないし、何も行動しなければ、未来は変わらないと…。この社会を変えたいと思うのなら、自らが動かなければ何も変わらないのではないだろうか…? 試行錯誤しながらでもいい。暗中模索でも構わない。後藤さんには少しずつでも「未来」を夢見る勇気を持ってほしいと思っている。
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ジネンカフェVOL.109のご案内

2016-11-09 19:32:24 | Weblog
日時:12月10日(土)14:00~16::00
場所:くれよんBOX
ゲスト:西村 健(NPO法人子ども&まちネット)
タイトル:ニシムラタケシ解体新書~建築、防災、子ども・若者、地域と仕事
参加費:500円(お茶代別途)

ゲストプロフィール:
大阪府出身。小学生時代から愛知県へ。大学生の頃から地震防災啓発活動を行い、愛知万博に企画出展。この頃に「こどものまち」という子どもの社会体験イベントに出会う。卒業後は行政コンサルに就職、行政計画策定や市民アンケート調査等に従事。その後、キャリア教育関連のNPO法人で「こどものまち」を企画。また、地域ラウンドテーブルの立ち上げや地縁団体と市民活動団体のマッチングイベントを企画。2014年から愛知に戻り、青少年施設に勤務後、市民活動推進センターに勤務。現在はNPO法人スタッフと並行して自治会支援にも従事。

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ブラブラ、ゆるゆる、気の向くまま足の向くまま、目の前の興味のあることにどんどん手を出していたら、こんなことになりました。常に、社会課題の最前線でアンテナを広げていきたいと思っています。次に僕が興味を持つものは何でしょう? みなさんと一緒に考えていきたいと思います。
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ジネンカフェVOL.107レポート

2016-10-08 09:32:13 | Weblog
秋には様々な冠かかぶせらることが多い。芸術の秋、読書の秋、食欲の秋、スポーツの秋、月見の秋、夜長の秋…。ほかの季節にはこれほど豊富な言い回しはない。それは四季の中で気候的になにを嗜むにしても、「秋」が一番適した季節だからであろう。でも、9月は秋というよりは、まだ夏の名残を感じさせる頃合いである。そんな9月初旬に行ったジネンカフェVOL.107は、いつもとは異なり、ライブハウス感覚で行った。ゲストは鍵盤弾き語りアーティストの袈裟丸祐介さん。袈裟丸さんは名古屋圏のインディーズ界でも知られているアーティストさんだが、気さくでサービス精神旺盛な方で、ライブハウスとか音楽祭とか単独ライブなどなど、多方面から声がかかって活躍されている方だ。しかし、普段のライブとは違って、自作曲やカバー曲の弾き語りあり、弥富のコーラスグループとのコラボレーションあり、生まれた時からいままでの振り返りあり、その他にも楽しい企画もあってご本人も楽しんでいただけたようだ。タイトルも『袈裟丸祐介とハピネスな音楽会~僕は音楽と歩いてゆく』

【飛騨古川町】
鍵盤弾き語りアーティスト袈裟丸祐介さんは、岐阜県の飛騨古川町のご出身。袈裟丸といのは本名ではなく、古川町に〈袈裟丸〉という地名があり、そこからつけたのだそうだ。〈祐介〉という名前の方は本名である。飛騨を代表する観光地に〈高山〉があるが、その高山の隣町が古川町で、袈裟丸さんはその町で生まれ育った。高山には観光で行ったことがあっても、古川町にまで足を伸ばすひとは少ないだろう。私(大久保)もそのひとりだが、どんな町なのかはガイドブック等で見て知っている。白壁の土蔵と瀬戸川の堀合いが町中を巡る美しい佇まいの街並みで、高山と並んで「飛騨の小京都」と称されている。小京都と呼ばれるだけあってお寺も多く、冬二月に行われる三寺参りは有名だ。町中にある三箇所のお寺を巡る、ただそれだけのイベントなのだが、道々の真ん中に雪造りの蝋燭が建てられていて、その中に本物の蝋燭が灯されているのである。それが幻想的な光景として知られているのだ。また、春四月に催される古川祭りも、お越し太鼓という巨大な太鼓をドンドンと叩きながら練り歩くお祭りとして知られている。袈裟丸さんは、そんな古川に高校を卒業するまで住んでいた。

【音楽との出会いは…】
驚くべきことだが、鍵盤弾き語りアーティストとして活躍されているにも関わらず、袈裟丸さんは譜面が読めないという。正確に言うとドレミはわかるのだが、それを指でわざわざ辿らなければ読めないのだ。つまり袈裟丸さんには俗に言う絶対音感があるのだろう。お父様もそうだったらしく、譜面が読めなくてもギターやピアノを弾いていたという。遺伝なのだろう。お父様がそういう人だったので、家にピアノやギターがあったのだ。そんな父親の姿を見ていた袈裟丸さんが、手遊びに楽器を弾くのは当然の流れであった。小学校6年生の頃には、はじめての曲を作った記憶があるという。その時に作った曲というのは歌詞がなく、勝手に「スーパーマリオの曲だよ」とか言っては、適当に演奏していたそうだ。適当だろうが何だろうが、それを曲として成立させてしまうところが袈裟丸さんの才能だろう。

【曲は作るのだけれど…】
中学校に入っても「作曲」に対する意欲は増すばかりで、曲はどんどん作るのだが、歌いたいとは全く思ってなかったという。ピアノを弾いて曲が出来る。それでもう満足だったのだ。相変わらず歌詞もついていなければ、歌うわけでもない。クラスで合唱する際にも袈裟丸さんはピアノ伴奏したり、指揮者として参加していた。そんな中学校時代だったそうだ。

【コンプレックスの氷解】
袈裟丸さんはそれまで、自分の声にコンプレックスを持っていたのだ。周りの男友だちは声変わりして低い声を出しているのに、自分は高い声のままなのではないかと思い、人前で歌を唄うなんてとても出来なかったのである。しかし、高校に入ると歌の巧い幼なじみの女の子がいて、幼なじみ同士でカラオケに行く機会もあった。その時お互いに「歌が巧いねえ~」などと言いあっていて、その頃から《歌を唄う》ことを意識するようになったという。「コンプレックス」という言葉には、もともと《複雑》とか《複合》という意味がある。憶測するに袈裟丸さんのコンプレックスの裏側には、人前で恥を掻きたくないというプライドがあり、袈裟丸さんの中でその両者が拮抗していたのだ。しかし、幼なじみの女の子から褒められることによってプライドが勝利を収め、袈裟丸さんのコンプレックスは氷解していったのだろう。

【はじめての歌詞付きの曲】
はじめての歌詞付きの曲を作ったのも、その幼なじみの女の子の言葉がきっかけだった。高校の中で唯一その子だけが袈裟丸さんの特技を知っていたので、「何か歌を作ってよ」と頼まれたのである。そう、その幼なじみの女の子がいなければ、いまの鍵盤弾き語りアーティスト・袈裟丸祐介さんは存在していなかったのかも知れない。もちろん当時はその子のキーにあわせていたので高音の曲を作っていたのだが、歌詞を入れ、メロディーを入れてひとつのテーマを作るということに興味を覚え、そこから作詞・作曲という活動をするようになったという。そうはいうものの、その高校は進学校だったので音大を目指すわけではなく、名古屋の一般的な大学を目指して受験し、合格したのだ。

【大学時代―軽音部に入部するも…】
お父様が英語の教師ということもあり、袈裟丸さんも英語教師を目指して大学に進学したものの、大学生活といえばいろいろと誘惑がつきものである。その最たるものがサークル活動で、入学式の時に各サークルがビラを配ったり、デモンストレーションをして、何とか新入生に入部してもらおうと勧誘している光景かみられるが、袈裟丸さんがサークルを探していたら、ある教室で軽音楽部がディープ・パープルの『バーン』を演奏していた。知らない人のために画いておくと、ディープ・パープルとはイギリスのロックバンドで、『バーン』は一時期、タマホームの宣伝に使われていた曲である。その曲の演奏を聴いて袈裟丸さんは衝撃を受けた。それまで聴いていた曲はポップスが多く、バンドが生演奏をしているところを見るのはこれがはじめてだったからだ。特にドラマーの方のスティックさばきが格好よくて、すぐに入部を決心した。古川町から名古屋に出てきて、ひとり暮らしを始めたばかりで、周りに友だちもいなく不安もいっぱいあったけれど、自分の殻を破ろうと思い勇気を出して軽音部に入部の手続きに行ったという。しかし、その時に対応してくれた先輩の感じの悪さに一気に熱が冷め、入部希望に氏名は書いたものの、先方からも次の活動日を教えられなかったこともあり、軽音部には結局入らなかったのだ。中学・高校とバレーボールをしていたこともあって、一年生の時のサークルはバレーボール部に入ったものの、勉強やバイトなどで忙しく辞めてしまった。

【再度、軽音部へ】
二年生になって、仲のよい友だちも出来た。その友だちとカラオケに行く中で、再度音楽への情熱が湧き上がってきた。偶然にもその友だちが、袈裟丸さんが一年生の時に入部しようとしていた軽音サークルに所属していて、誘われたこともあり、その軽音部に再入部することになったのだ。一年生の時に対応してくれた先輩とも再会し、当初はぎこちない雰囲気だったが、サークル内での交友が深まるに連れ、酒の席などで「一年生の時に僕が入らなかったのは、あなたのせいですよ」と笑い話に出来るような関係になれたという。袈裟丸さんの大学時代は、勉強も大変だったが、軽音部の活動を優先して行うようになっていった。一年生の時にその演奏を見て入部したいと思わせたドラマーの人とも仲よくなり、当時はあまり外に向けて発信しようとかではなく、みんなで和気あいあいとバンド活動が出来ればよいかなという感じだった。

【バンドで有名になりたい!】
しかし、三年生も終わりに近づくに連れ、周りが就職活動とか騒がしくなるタイミングで、自分はどうしようかと思った時に、中学生からやってきた音楽というものが身に染みついているのと、バンドの楽しさが辞められなくて、バンドで有名になりたいとしか考えられなかった。だから就職活動もしていないし、教職を取っていたので一応教育実習には行っていて、免許は取る予定なのでそうしたらゆくゆくは英語教師になるのだろうとは思っていたが、やはり音楽が頭から離れない。そういう状況で実家に帰り、両親から「これからどうするんだ」と尋ねられた時に、「就職活動もしていないし、いま音楽活動をしていていてそれが楽しいし、これを自分の武器にして頑張ってゆきたいと思っている」と正直に話したところ、ご両親から激昂されたという。それまで音楽のことなど一言も話したことがなかったので、袈裟丸さんのご両親としては「寝耳に水」だったのだろう。そこからはもう修羅場だったという。お父さんと言いあい、つかみ合いの状態になり、最終的には「ときん必ずしてくれ。音楽は趣味でやってくれ」とお父さんから言われて、大学生活を終えたのであった。

【慣れない立ち位置とバンドの解散】
大学を卒業した袈裟丸さんは就職をしながらバンド活動を続けていたのだが、学生時代に思い描いていた理想はそれほど簡単に実現する筈もなく、ステージに立って演奏する機会さえなかった。ライブをすれば緊張はするし、不安だらけで演奏も下手だったので最初の頃はファンもつくわけがなく、ライブハウスの人に怒られて、ダメ出しをされたことが何度もあったという。その時は学生時代の延長で、袈裟丸さんはギターでボーカルを務めていたらしい。子どもの頃から鍵盤をずっと弾いてきた袈裟丸さんにとって、その立ち位置での演奏は非常に難しく、思いに任せられないまま、大学を卒業して一年が過ぎた。その後、バンドは鳴かず飛ばずで、解散することになってしまった。

【バンド活動、再び】
袈裟丸さんはその後、前回の反省からギターからピアノに楽器を変えて、あとはギター、ベース、ドラムという編成のバンドを組むことになる。この二度目のバンドのメンバーは志が高かったこともあり、少しずつお客さんも増えて行った。驚くことに路上ライブもしていたという。二人組ユニットの〈ゆず〉とか〈コブクロ〉なども路上ライブをしていたことで知られているが、バンドが路上ライブをすること自体珍しい。アコースティックギターやクラシックピアノとは違い、電子楽器はアンプに繋いで音を増幅させなければならないが、アンプを使うには電源がなければならないからだ。その問題もメンバーの家に折良くお祭りの屋台が使うような発電機があったのでそれにアンプをつなぎ、大音量で路上ライブをしていたそうだ。バンドが路上ライブを行うには広さの問題もあり、よく栄の噴水広場で演奏していたそうだが、広い通りに面していて人通りも多いところでもあるので結構足を止めて聴いてくれる人も多く、その時の繋がりが現在も続いていて、ソロになった現在もライブに来ていただける方もいらっしゃるとか…。

【周りの環境と巡り合わせの中で】
そのバンドは東京の方の事務所から声を掛けられて、一度CDも全国リリースしたが、いろいろとあってバンドとしての活動は休止になってしまったという。しかし、その時に経験したことは現在にも繋がっていて活かせているし、とてもよい経験だったと袈裟丸さんは思っている。袈裟丸さんは言う。現在の自分がこうして音楽活動が出来ているのも、大学の軽音サークルに二年生ながら入部出来たおかけだし、もちろんそれで両親を困らせたり、迷惑を沢山かけしまったけれど、現在ソロになっても続けられていられるのは、本当に周りの環境がよいからで感謝しなければいけないし、自分もそうした巡り合わせの中で生きていたのかなと思っている、と…。

【袈裟丸祐介という名前を広めて行きたい】
そして現在、袈裟丸さんは鍵盤弾き語りアーティストとして「袈裟丸祐介」という名前をもっと多くの人々に広めて行けるように活動をして行こうと思っている。ライブで出会ったひと、繋がっているひと、これから出会うだろうひと、歌も、歌詞も、曲も、それぞれ好きになって下さるポイントはあると思うけれど、何でもよいのでまたお会い出来たら嬉しいと思っているという。


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ジネンカフェVOL.108のご案内

2016-09-08 14:56:52 | Weblog
ジネンカフェVOL.108
日時:11月5日(土)14:00~16:00
場所:くれよんBOX
ゲスト:後藤恵理香さん(Social × Dialogue)
タイトル:-Past,Now,Future-内省と対話からつながる
参加費:500円(お茶代別途)
ゲストプロフィール:
名古屋市内のシェアハウス在住。「持続可能な生き方・働き方」「そのひとらしくあること」に関心があり、福祉・心理・教育などの領域に身を置きながら場づくりに携わる。
NPOで働く傍ら、シェアハウスを住み開く。ゆるさをモットーに20代を中心とした「これからの未来や社会について、ソーシャルなものごとに関心がある若者がさまざまなテーマで語る会/Social × Dialogue」等を運営中。
コメント:
Social×Dialogueの派生版として考えていた、-Past,Now,Future-過去の積み重ねが、いまと、これからにつながっていく。「わたしの人生」を題材にしながら、内省と対話によってつながる場にできたら、と思います。
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ジネンカフェVOL.106レポート

2016-09-03 22:03:01 | Weblog
夏が来る前から今夏は例年にないほどの烈暑になると言われていたが、本当に暑い! 8月に入り、一層暑さが倍増したようだ。気温が35℃の真夏日はざらで、37℃~39℃台の日々が何日も続いている。全国的に熱中症で搬送される人々が後を絶たない。皆様もお気をつけて。屋内にいても油断は出来ません。さて、今月のゲストは北海道出身で、6年前に暑~い名古屋にやって来られた〈しらまこプロジェクト〉の白川陽一さん。白川さんは何も伊達や酔狂で夏場の暑い名古屋に来られたわけではない。北海道で教師をされていた白川さんは、もともと関心があったサードプレイスやファシリテーションを学ぶため、6年前に名古屋の大学の大学院へと入学されたのである。その後サードプレイスを研究しながらも、自らも実験的サードプレイス〈うずみん〉を立ち上げようとされたり、いろいろなところでファシリテーションをされたり、学校の先生をされたりして、現在は名古屋市青少年交流プラザ・ユースクエアの職員をされつつ、いろいろな対話型イベント等の企画、計画、運営、ファシリテーターとして活躍されておられる。お話のタイトルは『コミュニティづくりのその先には』

【三つの顔をもつ男】
人が誰しも生きる上において、幾つかの顔を使い分けているように、白川陽一さんには大きく分けて三つの顔がある。一つ目はユースクエアの職員としての顔。二つ目は対話と学びの場としてのイベントなどの企画・計画・運営に携わるワークショップデザイナー・ファシリテーターとしての顔。そしてもう一つは、コミュニティ難民としての顔(この言葉はアサダワタルさんが使っている表現で、知らない人には説明が必要だろう。実は寡聞にして私も知らなかったのだが、言葉の説明は後述することにしよう)。一番目の顔は勤め人としての顔だが、二番目と三番目の顔ともリンクしている。そしてそれは白川陽一さんというひとを物語るキーワードになっているようだ。

【名古屋市青少年センター・ユースクエアとは?】
現在の白川さんの職業は、名古屋市青少年交流プラザ・ユースクエアの職員である。北海道におられた時や、名古屋に来られてからも一時期学校の教師をされていたので、堅くて安定した職業から転職されたということだ。ユースクエアは名古屋市の公共施設なのだが、管理・運営を民間に委託しているので、そこの職員は公務員ではない。名古屋駅から地下鉄で20分。名古屋市営地下鉄『名城公園』から北東へ500メートルのところにあり、近くには日本の商店街の中で二番目に旧いといわれている柳原通商店街がある。どんな施設なのかは説明するよりも、ユースクエアのHPをみてもらった方が早いのでURLを載せておこう。http://www.yousquare.city.nagoya.jp/
簡単に言ってしまえば、青少年の生き甲斐や仲間づくりを後押しする施設であり、機関なのだ。独自でイベントを催したり、講座を設けたりもしている。名古屋市の条例によれば、〈社会性、主体性に富み、人間性豊かな活力あふれる青少年の育成を図る〉 教育施設ということになる。因みに〈青少年〉とは、ユースクエアによれば 小学生から34歳までのひとを呼ぶのだそうだ。貸し館業務も行っているので、それ以外の方でも利用は出来るが、主なターゲットは青少年ということだ。行っている主な業務としては、貸し館業務の他にも就活や自立支援、社会参加・参画支援の三本柱があり、白川さんが担当していのは「青少年の社会参加・参画支援」ということになる。

【ユースクエアはサードプレイス である】
サードプレイスとは、アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグ氏がその著書の中で述べておられる概念で、地域社会の中でコミュニティを育むのには、都市の中に自宅(プライベートゾーン)と職場や学校(パブリックゾーン)の中間にある第三の居場所が必要だとされているのだ。日本では昔から家々の縁側とか、床屋、銭湯、神社仏閣がそれに相当していたが、訳あって現代の住宅事情や社会風潮からそれらのところからサードプレイス的機能が失われつつある中で、新たなるサードプレイス的特質を備えた公共施設・民間施設が生まれてきている。居場所の捉え方についてはいろいろな概念があるが、ユースクエアはまさにサードプレイスだということが出来るだろう。

【都市の中で遊ぼうとすると…】
小学生から34歳までの青少年が都市の中で遊ぼうとか、時間を過ごそうとすると、家と学校、あるいは家と職場とか、家とバイト先とか、それだけで完結してしまうことって昔よりは少なくなったものの、まだまだ多いと白川さんは思っている。そういう人たちがもっと都市を楽しむにはどうすればよいかと考える時に、コモンスペースが無料で使えて、自由におしゃべりが出来たり、公共施設がそのようなサード・プレイス的な機能を提供出来ることは大事なことだと白川さんは考えていて、ユースクエアはそういう場であってほしいと思っている。

【サードプレイスのABC―A=場に対する愛着(Attachment)】
ユースクエアで行っていることを、サードプレイスの観点から白川さんなりに分析してみると三つのカテゴリーに分けられるという。A,自分の愛着が持てる場所。ユースクエアに集う若者たちに自分はここにいてもよいのだと思ってもらい、役割感とか、帰属意識が持てて親しみのある場所として利用してもらう。その結果として〈寂しくない〉とか〈勇気が出る〉〈元気が出る〉などの心理作用を促し、それがユースクエアで催すイベントを企画し、主体的に関わる「ユースクエア企画委員会」に繋がっていると白川さんは思う。また地域からユースクエアに対してボランティア要請が来た時に、地域と若者とをつなげるためにボランティアを募って派遣するという業務もしているという。白川さんは「ユースクエア企画委員会」のサポート役として会議の運営や人間関係づくりをしたり、イベント時の見守りをしたり、地域のニーズとボランティアの若者とを結ぶコーディネーターとして日々動かれているという。
【サードプレイスのABC―B=between making】
B,私発協働。白川さんの知りあいのあるひとりの高校生が、高校生同士の学びの場を高校生の力で運営したいと数年前に思い立ち、2014年にその子の想いに共感して集まってきた高校生の団体が作られた。ユースクエアとしては何も関わってはいないのだが、たまたま個人の想いに共感して集まってきたのがユースクエアだったという成り行きで、場所に対する愛着はそれほどないけれど(後々出て来るとしても)、個人の想いに共感してそれが拡散してひとが集まってきている…。ユースクエアを利用する団体さんには、結構こういう団体さんが多いのだそうだ。サークル活動のようなもので、高校生が学校の授業みたいなことをしてみようということで、白川さんは部活動の顧問のような感じで関わっていた のだ。

【サードプレイスのABC―C=Collaboration】
C,コラボレーション。Bは、あるひとりの人の想いに共感してひとが集まって来る感じだったのだが、Cは、それぞれが〈こうあればよいのに…〉という理想を抱きつつ、更にそれを高めあう関係でユースクエアという〈場〉を利用する。例えばフューチャーセッションというワークショップを通してその場限りの結論ではなく、そこに参加した者同士でアクションを起こしてゆく。そういう拠点としてユースクエアを使ってもらう。サードプレイスではあるのだが、そんなふうに社会に対してアクティブに発信してゆくポジションとしてユースクエアを利用するというのも有りなのかなと白川さんは思っている。

【ワークショップデザイナー、ファシリテーター】
白川さんの二つ目の顔は、ワークショップデザイナー・ファシリテーターとしての顔である。ジネンカフェ拡大版でもお世話になっているのだが、いろいろな機会に対話の場を設けてワークショップを行うのである。その対話の場を自ら作ったり、依頼されたり、進行役を兼ねることも多い。主に教育、看護(この秋からある看護学校の非常勤講師として人間関係づくりについて教えられるそうだ)、舞台芸術関係…。最近はこの舞台芸術関係者とのコラボレーションが多くなっているそうだ。

【舞台芸術をワークショップする】
静岡に『静岡県舞台芸術センター(SPAC)』という「専用の劇場や稽古場を拠点として、俳優、舞台技術・制作スタッフが活動を行う日本で初めての公立文化事業集団」がある。演劇舞台芸術専門の劇場(舞台芸術劇場)や、宿泊設備・稽古場を備えた公園(舞台芸術公園)を有している。その二箇所を使って、2012年から劇団うりんこの制作・平松隆之さんと合宿ワークショップを行って来ている。一回につき三日間行い、最初は劇を見終わった後のそれぞれの感想を語りあうということを、ワールドカフェで行っているのだそうだ。三日間を通していろいろなテーマで行い、好評で今年度も行うことが決定している。
その劇場(センター)では絶えず何らかの演劇が公開されているので、毎年お客さんが集まりそうな演目の時にあわせて行われることが多く、そうなると全国から演劇に関わっていたり、関心をもっている人たちが集まって来るので、そういう中でワークショップをさせてもらえるのは、白川さんにとって幸せなことだという。

【劇場を地域の中の大事な場所にしたい】
静岡県舞台芸術センターでは、単に演目を公演して観てもらうだけではなく、劇場を地域の中の大事な場所にしたいという想いがあり、観劇のみではなく話しあう場とか、舞台芸術を通していろいろな人たちが交じりあうといいなと思っていた。そこに白川さんたちが〈ワールドカフェ〉という方法論を持って行ったら好評を博し、毎年行うようになったのだという。

【ワークショップの先祖帰り】
面白いものである。「ワークショップ」とは、もともと美術や演劇や映画などの芸術分野から派生したものだが、80年代の演劇関係者の間では〈演劇の感想を求めるなんて野暮だ〉とか、〈演劇はその場だけで消え去るものだ〉という風潮があったらしい。世紀が移り、ワークショップが先祖返りをしたことになるのだろうか? しかし、演劇関係者ではなくても、映画なり、美術展なり、演劇やコンサートなどに友人と行き、その帰りにお茶でも飲みながら互いに感想などを交換する時間はとても有意義なものだし、楽しいものだ。ヨーロッパなどではオペラなどを観た帰りに一緒に観に行った人や、見知らぬ人たちとも感想を語りあいながら賑やかに食事やお茶をするのはあたりまえになっている。白川さんも自分が観劇や映画を見終わったあとに、隣の席の人たちと感想を述べ会えたら楽しいだろうな…と思っていたので、ワールドカフェ方式によるワークショップを提案したのだとか。このプログラムを導入したことにより、ただの劇場がひとつのサードプレイス的な場になって行き、観劇していた知らない者同士がそれをきっかけで知りあいになることが起こり始めているそうだ。

【縁は異なもの味なもの】
その静岡県舞台芸術センターでの〈ワールドカフェ〉という意見交換の手法が飛び火して、全国いろいろな地域から「うちでもやってよ」というオファーが来ているという。大きなものとしては東京での国際的な舞台芸術フェスティバルである〈フェスティバル/トーキョー(F/T)〉という、あいちトリエンナーレの舞台芸術版のような芸術祭があり、それにも白川さんは招かれていて、半年ぐらい付いて行うのだが、それもこれも静岡県舞台芸術センターで行った時に学生だった参加者の青年が〈フェスティバル/トーキョー〉のスタッフとして働くことになり、あの時のワークショップ体験が印象に残っているから…と縁があって昨年も今年も招いてくれたのだという。白川さん自身演劇経験は中学生の時に文化祭でクラス劇を創作した程度なのだが、それっきりになっていて、今こうした形で関わりが出来て嬉しいという。〈縁は異なもの味なもの〉という諺がある。本来は男女の縁はどこでどう結ばれるかわからず、不思議でおもしろいものであるという意味なのだが、男女の仲に限らす人と人との縁は不思議で面白い。白川さんを劇団うりんこの平松隆之さんに紹介したのは、しらまこプロジェクトのもうひとり・加藤舞美さんだし、平松さんと白川さんとの結びつきが静岡県舞台芸術センターでの〈ワールドカフェ〉を生み、そこに参加していた青年が東京の〈フェスティバル/トーキョー〉に白川さんを招いたのである。これぞ縁パワーであろう。

【演劇とワールドカフェの親和性】
演劇とワールドカフェをかけあわせている事例は、他にはないらしい。たぶん国内にもないし、海外にもないのではないかという。白川さんによれば、演劇とワールドカフェは親和性が高いという。普段から言葉にならないことを、それでも何とか言葉にしようとしている人たちが集まっていて、そういう人たちはもともと対話することの親和性が高い人たちなので、状況的には遣りやすいのだという。なお、このワークショップには、題材となる劇の演出家は入らない。あくまでも観劇者中心に展開されるのだ。もちろん、その中には一般の静岡県民も演劇好きな人もおられるし、役者志望の方や劇場の運営者の方もいらっしゃる。演出家が入ることによって、正解を求めるような話しあいになりかねないからだ。合意形成を求めず、対話と気づきを楽しむ…。それがワールドカフェというワークショップなのだ。

【コミュニティ難民としての顔】
さて、白川陽一さんのもうひとつの顔とは、「コミュニティ難民」としての顔である。「コミュニティ難民」とは、音楽構成・演奏、著述、文化プロジェクト構想 ・演出、講演・大学講師などマルチな活動をされているアサダワタルさんが使っている表現で、要するに特定のコミュニティに属さず、自由にコミュニティを渡り歩く人たちのことをそう呼ぶらしい。白川さんは活動分野としては限られた部分があるものの、どこか特定のコミュニティに属しているかと言えば、そんな意識はなくて一応ユースクエアの職員なのだが、ユースクエアだけに留まっているわけではなく、いろいろなコミュニティに顔を出している。また表現手段も〈対話〉というキーワードはあるものの、所変われば人との関わり方も変わって来ている。そういう人たちのことをコミュニティ難民というのだそうだ。白川さんは
いろいろなところで、いろいろなことをしている人なのだが、ご自分のことを分かりやすく説明する時には「ユースクエアの職員です」と言ったり、「看護専門学校の非常勤講師です」と言ったり、「NPOに属している人です」と言うこともあるそうだが、重点的に属している感じはあまりないそうで、それぞれの関わり方も全然違うという。

【コミュニティ難民とは?】
白川さんによれば、アサダワタルさんはその著書の中で、コミュニティ難民をこんなふうに定義しているという。「複数のコミュニティに分散的、流動的に属する状態。かつそれに伴い、表現手段が拡散的になる状態が長引くことで、コミュニティ難民の人は自分の生産活動の特定が困難になる」つまり、自分は何者なのか解らなくなって来る…。どのコミュニティにも片足を入れているので親密感は持っているのだが、同時に疎外感もあるというのだ。どのコミュニティにも属しているので自分は何者なのか解らない状態で、そのどのコミュニティにも親しい人もいれば、そうでもない人もいる…。北海道から名古屋にきた時の白川さんは、まさにそういう状態であったという。更にコミュニティ難民のひとは「また、そのことによって活動初期はアイデンティティーの揺らぎを基にした多少の戸惑いや精神の不安定さを伴うこともある」のだそうで、白川さんも名古屋に来られた当初、非常に精神が不安定だったという。それはまあ、自分が決めたこととはいえ、〈教師〉という安定した職業を棄てて北海道から名古屋に来られたわけだから、普通に考えても何かに寄りかかりたいとか、そういう感覚になるだろう。アサダワタルさんは更にこんなふうに続けている。「しかし、徐々にその独特な浮遊感の心地よさに気づいてしまうことで逆に開き直り、意識的にコミュニティ難民の状態を目指すようになる」白川さんも、自分はいままさにそういう状態になってきているな、このままでよいんだという開き直りが出てきていると感じているという。

【コミュニティ難民は少数派?】
しかし、その感覚というものは、年代とか未婚か既婚か、または子どもが居るのか居ないのか、人生のステージによっても変わってくるような気がする。既婚者で子どもがまだ小さかったら家と職場との往復だけで精一杯だろうし、子どもが居なくても経済的や心理的な理由からサードプレイスなど必要ではないという人もいよう。また、年代によっては人生に安定感を求める人たちが多いのに違いない。だからコミュニティ難民という人たちは、少数派なのかも知れない。しかし…と白川さんは思う。家と職場・学校との往復だけで本当によいのか? その往復だけで精一杯だからしようがないよね? と言うが、本当にしようがないのか…?と。

【しらまこプロジェクト】
そんなふうにいろいろな活動をされている白川さんだが、そのいろいろとされている活動を横糸だとすると、それを意味づけている縦糸が白川さんにはある。それが〈しらまこプロジェクト〉というわけだ。〈プロジェクト〉などというと、なにやら大人数で大掛かりなイベント等を企画し、実施してゆくイメージがあるが、そうではなく生き方や働き方や暮らし方など白川さんと問題意識が似ている加藤舞美さんとのコラボ企画というか、ふたりがもつ問題意識や関心事を検証するため、実験的なイベントを実施するユニット名のようなものなのだ。例えば3.11の東日本大震災以降、自分たちの暮らし方の揺らぎについて話をしたことがあり、どうやって暮らしてゆけばよいのだろう? このままではよくないのではないか? という疑問から〈うずみん〉が生まれたり、この震災以降SNSが飛躍的に発達したが、その一方で情報発信や情報共有とか、どういう情報をどういう方法で流したらどうなるのか整理が出来なくなって来ている現状もある中で、インターネットラジオを始めたり、テレビ的なUstreamをやってみたりもされたそうだ。「本」についても電子書籍全盛の昨今で、情報量という意味では紙の書籍より電子書籍の方が優れていると思うのに、紙の本を愛してやまない人がいるのは何故だろうという疑問から、いまの時代だからこその〈本〉って何か役割とか、機能とかあるのかなと言って本を作ってみようとしたこともあったという。〈あのひとの話を聴いてみたいよね〉と思ったら、自分たちの知っている人たちと一緒に時間を共有出来たら何か起きるのだろうかと考え、参加者からお金を集めてその人を呼んでイベントをしたり、アハ体験(脳科学の分野で注目されている体験のことで、人の脳は何かを閃いたり、何事かに気がついた時に活性化されるという)にも一定の量が必要だよね?と言っていて、どれぐらいの量を話せば閃きが訪れるのだろうと思い、不定期でただひたすらに30時間ぐらい対話をするイベントを開催しているとか。この対話の中から実現に至ったイベントもあれば、至っていないものもある。

【震災以降のコミュニティスペースづくり】
3.11の東日本大震災以降に、白川陽一さんと加藤舞美さん、森田恭平さんの三人でコミュニティスペースづくりをされたこともある。いわゆる〈うずみん〉のことだ。〈うずみん〉についてはVOL.072のレポートに詳しく書かれてあるので、そちらをご参照いただきたい。それは2012年のことで、白川さん曰く「まだ僕が安定してなかった時期」だったそうだ。もともと事務所スペースだったところを、シェアハウスが流行り始めた頃だったのでいろいろな人と暮らしを分かちあう感覚で、老若男女問わずワークショップ形式で床に木片を貼ったり、居室を区切る壁代わりの書棚やベッドを作ったり、要らない食器を砕いてそれをセメントに混ぜてシャワールームを作ろうとした。費用をあまりかけられないという事情もあり、そこら辺に余っているものをリサイクルしたのである。白川さんが使っていたまな板も、床の一部に使われたそうだ。この〈うずみんづくりワークショップ〉には、延べ411名が参加したという。その中には母娘で参加していた方たちもいらして、中学生の娘さんの奮闘ぶりをお母さんと共に、周りの大人たちも応援したり、ワークショップをする度にSNSで呼びかけると、毎回20名は集まってくれて〈コミュニティスペースを作る過程から人々が集まっている〉状況が珍しく、取材されたこともあるそうだ。また、静岡県浜松に先行事例があり、アイデアを使う許可をもらうと共にそこの人を招いて交流したこともあった。その人たちがSNSで紹介してくれて、一時はネットでお祭り騒ぎになったこともあったという。


【住める家&みんなが集まれる居場所を目指したのだけれど…】
白川さんたちが〈うずみん〉で目指したのは、自分たちが住める家&みんなが集える居場所であった。だからこそ床づくりワークショップに参加した人たちに、この場に愛着を持ってもらおうと、床の木片にワークショップ参加者の名前を印したり、助成金を取ったり、いろいろな催しを企画し、自由に振る舞えるような工夫をしたり、床の模様も前作った人のものに上書きしてもよいことにしたので、そこから様々な対話やコラボレーションが生まれて行ったりもしたが、いろいろな事情から〈うずみん〉は、活動終了した。

【コミュニティづくりの先には何がある?】
そんな白川さんだが、昔は自分のことを認めて貰いたいとか、承認欲求が強かったそうだ。しかし、最近ではそういうことよりも、「ユースクエアの職員」という肩書きを持ったが、
肩書きを持った時に出来ること、肩書きを外した時に出来ることの相違や、肩書きを持つということは権力を持つというなので、どうして権力をもつ者に従わなければいけないのかとか、ひとと何かを決める時に時間を掛けないで合意が自然に生まれる方法はないのかというところに興味を持ったり、加藤舞美さんと行っているような軽やかな実験的検証作業が出来たらいいなと思ったり、そういうところに関心が移って来ているという。居場所づくりに関しても、いまはまた新たに始めたいとはあまり思ってないという。〈うずみん〉とか〈ユースクエア〉で解ったのは、居場所づくりは精神的コスト(負荷)がかかるということ。続けるのにもエネルギーが要るし、いろいろな人の協力も必要だし、それが重いのだという。重いと一回始めたら終わりにくくなるということがあって、〈うずみんづくり〉を行っていた時は続けられたけれど、終わってしまった現在、また同じ事は出来ないというのだ。それはそうだと思う。ひとつの組織でもプロジェクトでも構わないのだが、続いているうちはモチベーションも高く、エネルギーも注ぎ込めるものだ。しかし、その組織なりプロジェクトが解散してしまえば、そこに込めたモチベーションは下がり、エネルギーも注ぎ込めなくなるのはあたりまえのことだろう。その状況からまた以前と同じようなことが出来るかといえば、その人の性格にもよるだろうけれど、限りなく難しいことのように思う。白川さんも、それだから「コミュニティづくり」の先には何があるのだろうと思っているという。

【大久保的まとめ】
約一ヶ月かかって、白川さんのお話をまとめ終えた。始めた時はまだ真夏の真っ最中だったのに、日差しは相変わらず厳しいものの、吹く風や空やそこかしこに秋の気配が感じ取れる、そんな頃合いになってしまった。冒頭の記述と現在の気候とがそぐわないのはそのためだ。お許しを。白川陽一さんと出会ったのは、4~5年前。白川さんがまだ大学院生の頃だ。紹介してくれたのは、ここでも何度かお名前が出ている加藤舞美さんであった。その後、ジネンカフェ拡大版ではもうすっかりお馴染みになったワールドカフェのファシリテーターとして関わってもらったり、〈パルル〉や〈うずみん〉の活動の紹介をジネンカフェでして下さったりもした。私にとって白川陽一さんは居場所づくりを研究されている人であり、ワークショップデザイナー・ファシリテーターとしての印象が強い。そんな白川さんが「居場所づくりは、いまは新たに考えてない」と伺って、些か意外な感じがしたが、考えてみればひとはそのライフステージごとに関心があるものが移り変わるのが普通なのだ。別に白川さんは居場所が必要ないと言っているわけではなく、自分が居場所をつくることはもういいと言っているのだ。そう、ひととは移り変わるものと、変わらないものとを身内に抱えながら生きているものだ。白川さんも自分の核となるものは変わってないと思われる。しかし同時に関心事が移りゆく自分の有り様を好ましく思っているという。それは好奇心が旺盛な証でもあり、自分を含めた生き物としてのひとの生活や営みに興味を失っていない証である。5年後、10年後、15年後、20年後の白川さんはなにをされていて、どんなものに関心を持っているだろうか? これからもご自分の関心事を社会と結びつけて、活躍されることを祈って筆を置きたいと思う。

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ジネンカフェVOL.107のご案内

2016-08-07 09:03:26 | Weblog
ジネンカフェVOL.107
日時:9月3日(土)開場13:45 開演14:00 終演17:00
場所:くれよんBOX
ゲスト:袈裟丸祐介さん(鍵盤弾き語りアーチスト)
タイトル:袈裟丸祐介とハピネスな音楽会-僕は音楽と歩いて行く-
参加費:800円(ドリンク付き)
定員:30名(定員に達した時点で締切ります)
ゲストプロフィール
岐阜県飛騨市出身。物心ついた頃には家のピアノを自己流
で弾き、作曲も行うようになっていた。名古屋の大学に進
学、卒業後も名古屋に留まり音楽活動を開始。
バンド時代を経て、現在ソロで活動中
袈裟丸祐介
http://www.kesamaruyusuke.com/

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音楽との出会いから、ぼくと音楽についてとっておきの話をしてみたいなっと思っています。もちろん弾き語りも。みなさんとハピネスな時間が過ごせますように。

お問い合わせ/お申し込み
メールのみ受付。 jinencafe@yahoo.co.jp
主催・共催:NPO法人まちの縁側育くみ隊/ NPO法人くれよんBOX
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ジネンカフェVOL.105レポート

2016-07-28 22:27:40 | Weblog
今年の夏は例年よりも強烈な猛暑になると予測されている。7月のジネンカフェ当日もどんよりとしていたものの、湿気があって蒸し暑い日であった。今月のゲストは愛知県安城市を中心にフリースクールの活動をされている飯田喜運さん。飯田さんは平成安元年、安城市生まれ。大学在学中に不登校や高校を中退した子をサポートするフリースクールでボランティア活動をしていたことがきっかけになり、そのような子どもたちのサポートを仕事にできたらと思うようになり、フリースクールを立ちあげるに至った。お話のタイトルは『高等学校卒業に向けての就学の仕方』

【フリースクールとは?】
一般的に「フリースクール」というと、どんなイメージをお持ちだろうか? 様々な事情があって公立・私立の学校に通えなくなった子どもたちが、学校の代わりとして通う教育の場。大体そんなイメージを持たれているのではないだろうか? かくいう私(大久保)も、飯田さんのお話を聴くまでそれに近い認識だった。だからフリースクールに通っていても、大検に合格しなければ大学受験資格は与えられない…と。ところがそれは私の認識不足だったのだ。飯田さんによれば、大体のフリースクールは通信制高校と提携しており、その通信制高校の生徒さんの精神面・学習面・生活面などをサポートし、確実に卒業できるようにするのがフリースクールなのだという。つまりフリースクールに通っている子どもたちの多くは、通信制高校の生徒さんでもあるのだ。もちろん通信制高校だけでフリースクールには通っていない子もいるだろう。しかし、通信制高校の生徒さんが実際に学校に通うのは年に数回で、後は自習という形になるので、自力で高校を卒業することは難しいのだ。もちろんフリースクールには、通信制高校の生徒さんだけではなく、義務教育中の子どもたち(小学生、中学生)も通っているそうだ。ただ、中学生までは教育委員会が管轄する適用教室というものがあり、不登校の子どもたちのサポートをする機関を行政側が提供していて、民間のフリースクールがその役割を担うことは低いという。

【不登校の現状について】
そのようないろいろな事情から学校に行けない子どもたちが,現在全国で小学校・中学校で約12万人、高等学校で約5万6千人と報告されているそうだ。中学生を例に挙げると、一クラス、36人に1人が不登校の状態になっていると言われているそうだ。全日制の私立高校には、不登校枠を設けているところがあり、中学校で不登校の状態でも全日制の私立高校に進学できる可能性はあるそうだ。その枠はかなり少ないらしいが…。

【全日制以外の高校と通信制高校の種類】
全日制以外の高校には「通信制高校」と「定時制高校」の二種類があり、「通信制高校」の中には全日制のそれと同じく「県立」と「私立(株式会社立)」があるそうだ。

【県立の通信制高校について】
愛知県の全日制高校がそうであるように、県立の通信制高校と私立の通信制高校とでは、入試の時のレポートや試験の難易度が違い、県立の方が難易度が高い傾向にあるらしい。                        
私立の通信制高校の中でも学校によってそれぞれ違いはあるのだが、県立と私立とではレポートや試験の難易度が違うという。また、県立の通信制高校の生徒さんは、フリースクールに入学せずに高校を卒業する子どもが多く、自分で全てを行わなければならないためか、県立の通信制高校の生徒さんの卒業率は、私立の9割に対して3割と低い数字が出ているという。


【私立の通信制高校】
通信制高校には中学校を卒業している人なら、誰もが入校出来る。中学校は義務教育期間で卒業できるので、様々な生徒が対象になる。入学試験は面接と作文で、試験結果については入学試験に落ちることはまずないそうだ。県立と異なり、私立の場合の入学時期は、新入生に関しては四月入学が基本だが、様々な事情から中学卒業後の進路が決まらなかった場合は十月入学もあるそうだ。全日制高校からの転入生の場合は、随時入学できるらしく、全日制高校に籍を置きながら通信制高校に入学する生徒さんもいるそうで、そういう場合は前籍校の単位を活かすこともできる。編入生は高校をやめてしまっている人。状況に応じては新入生の扱いになるそうだ。

【入学してから卒業するまで】
通信制高校を卒業するには、主に以下の3つの課題が必要になるそうだ。
(ⅰ)レポート提出
   卒業時に3年間高校に在籍をしていて、74単位取得していることが必要になり
転入生は転校する前の学校にいた在籍期間を含むそうだ。
(ⅱ)テスト合格          
    レポートのでき次第で、合格点は変わって来る。飯田さんのフリースクールが
提携をしている通信制高校だと100点満点中、40点取ることができれば大丈
夫だとか。         
(ⅲ)スクーリング参加
    スクーリングは、それぞれの学校が指定をしたところに、年に数回行くことに
なっているそうだ。スクーリング時にテストを行うこともあるらしい。ただ、
スクーリングは沖縄や北海道など遠方に行くことも少なくない。そのためそれを
負担に感じる子どもたちもいる。そういうことを考慮して、地元(分校…この
エリアでは名古屋)で行うことができる通信制高校(飯田さんのフリースクー
ルで言えば、本校は和歌山県にある慶風高校)もあるそうだ。
【通信制高校のそれぞれの違いと特徴】
その通信制高校にも様々な学校があるが、大きく分けて2つの違いがある。
(ⅰ)スクーリング会場
沖縄、鹿児島、北海道、滋賀県など、学校によってさまざま。前述したように地元(分校)でスクーリングを行う学校もあるが、いろいろな問題が指摘されていて、これからは分校でできる高校には監査が入り、分校ではできなくなる可能性もあるそうだ。

 (ⅱ)学費   
当たり前のことだが、スクーリングのために、遠いところへ行く通信制高校は比較的学費も高いそうだ。
     
【学費について】
学費について、飯田さんがいろいろなところの学費を比較したところ、週5日、フリースクールに通うと、通信制高校にかかる費用を含め、月換算で7万から8万程かかるところが多いことがわかったという。飯田さんは後述するように、貧困家庭の子どもたちのサポートを志してフリースクールを立ち上げられた経緯もあって、それよりは幾分抑えた金額、週5日で通信制高校にかかる費用を含め、月換算4万から5万程かかるそうだ。(家庭の状況により、フリースクールにかかる金額を減額することもある)。飯田さんのフリースクールもそうなのだが、フリースクールによっては、週2日から3日通うことができるコースを設けているところが多い。そうなると、学費は抑えることができる。            

【フリースクールに通う日数について】
その性質上、フリースクールは通信制高校に通う生徒のサポートをしているところなので、週何日通わねばならないということはない。通う日数は各自で決めればよいのだ。通信制高校だけでも高校を卒業出来る生徒さんもいるが、通信制という名称の通り、自分でいろいろと管理をしなければならず、大変な想いをするということでフリースクールの役割が出て来るわけなのだが、フリースクールによっては受け容れていないところもあるが、基本的に義務教育課程にある子どもも受け容れているところも多く、小学生から高校生に至るまで一クラスにいるという。
        
【フリースクールでの服装について】
服装は決められているところと自由なところがあるそうだ。それぞれのフリースクールが提携をしている通信制高校には制服があるので、その制服を着て来る生徒もいるとか。

【そよ風の状況】
飯田さんのフリースクール「そよ風」の生徒さんの状況は、生徒数は7人で、週2日通う生徒が多い。また、経済的な問題をはじめ、ご家庭で大きな問題を抱えている生徒が多いらしい。提携をしている通信制高校…慶風高校、ECC学園高校。ECC学園高校に籍をおいている生徒はスクーリング時に滋賀県にいくことになっている。その他、いろいろな通信制高校と提携しているため、その子に合った通信制高校に入学できるようにサポートもしているという。

【なぜ自分でフリースクールを立ち上げたのか?】
飯田さんは現在27歳である。現在社会問題ともなっているが、6人に1人の子どもが貧困状態にあると言われていて、飯田さんが関わってきた生徒さんも貧困が原因で小学校、中学校不登校になっていた子が多い。家庭に何らかの問題を抱えているケースが非常に多く、月々の授業料を減額してもその減額分さえも払えない家庭もある。フリースクールは仕事と言いながらも、現在はほとんどボランティアと同じ状態だという。それなのにどうしてフリースクールの活動を続けているのかと言えば、実は飯田さんも生活困窮世帯で育ち、祖父母のおかげで抜け出すことができた経緯があるのだ。

【現在の自分があるのは祖父母のおかげ】
飯田さんは中学校1年生の夏休みまで、両親のもとで過ごしていた。しかし、その頃に父親が職を失い、家庭は生活困窮世帯になっていた。このことによって飯田さんは小学校の高学年から同級生にいじられるようになり、学校に通いにくくなったという。それを見かねた祖父が、退職すると同時に飯田さんを引き取り、育ててくれたのであった。中学校、高校を名古屋市、大学を瀬戸市で過ごし、学校に通いにくくなったことがある経験から、大学時代にフリースクールでボランティア活動をはじめた飯田さんは、ボランティア活動を通して悩みを抱えた子どもたちにとり、見守ってくれる大人がいることは一歩踏み出す大きな力となるということを再確認することになる。現在自分があるのは祖父母のおかげであり、それに対する感謝の気持ちが強かった飯田さんは、1人の大人として生活保護世帯及び生活困窮世帯の生徒と向き合っていきたいという思いが湧き上がってきた。それが育ててくれた祖父母への恩返しになると思ったのだろう。

【それが飯田さんという人】
こうして飯田さんは大学在学中にフリースクールを立ち上げる準備をして、卒業すると同時に活動を開始された。飯田さんのフリースクールては通信制高校に通い、高校卒業資格の取得を考えている生徒が多く、フリースクールでは主に卒業のためのレポートのサポート(学習支援)をされているそうだ。そのような学習支援をされてる中で、ひとり親家庭や生活保護世帯のご家庭と出会うこともあり、フリースクールを利用したくても、利用者負担が大きく、利用できないご家庭もかなりいることを知った。知ってしまったからには、なんとかしてあげなければならない。それが飯田喜運さんという人なのだ。だから飯田さんのフリースクールでは、世帯年収が約250万円を切るご家庭の生徒に対しては、無償でサポートをされてきている。また、生活困窮の状態に加えて家庭内にDVの問題もあり、警察や女性相談の方に入ってもらって生活保護を受け、母子で生活ができるように問題解決に奔走されたこともあった。

【これからの活動は…】
飯田さんは、自分はたまたま祖父母に引き取られたおかげで生活困窮から抜け出すことができたが、サポートをしている生徒さんがどのようにしたら、現状の問題から抜け出すことができるのか? それにはどのようなサポートが必要なのかを考えることもあるそうだ。そして、フリースクールでサポートをしている生徒さんに限らず、これからは1人の大人として、生活保護世帯及び生活困窮世帯の子どもさんたちと向き合っていけたらと考えているという。

【大久保的まとめ】
飯田喜運さんと出会ったのは、共通の知りあいからの紹介だった。お話をしてゆくうちに子どもの教育に熱心な人なのだなという印象を持った。純粋で、今時こんなに人が好い青年も珍しいとも。しかし、それゆえの危うさも感じてはいた。純粋であるということはいまのご時世好ましいことではあるが、同時に危ういことでもあると思う。この人のひとの好さ、この人の熱意はどこから来ているのか知りたいと思った。ひとが何かに打ち込むには、それなりの理由がある…。今回、こうしてお話いただいて、なるほど…と納得した。飯田さんがなぜ貧困家庭の子どもたちの学習支援を、それもボランティアに近い状況でありながらも熱心にされておられるのか、よくわかった。突飛なことを書くようだが、飯田さんは三国志で言えば劉備玄徳なのだ。志は熱く、意識は高いのだが、真っ直ぐであるために、またはご自分が育てられた環境を相手に投影しすぎるために、現実がついてこないのではなかろうか? そう、劉備玄徳に諸葛亮孔明が必要だったように、飯田さんにも物事を冷静に判断してサジェストが出来る参謀が必要なのではないか? または行政やどこか福祉団体のサポートが必要だと思うのだ。幸い、飯田さんは次のステップを考えられていて、これをまとめ上げる頃には新しいコラボ事業を始められておられることだろう。劉備玄徳のように、飯田喜運さんも志を曲げることなく、様々な事情から学校に行けない子どもたちのサポートをされ続けられることを願っている。
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ジネンカフェVOL.104レポート

2016-07-19 18:43:54 | Weblog
梅雨の時季とあってこのところ天候が一定しない。激しい雨が降り続く日々があるかと思えば、太陽が顔を出して真夏を思わせるような暑さに見舞われる時もある。その繰り返しなのだが、例年に比べるとその周期が短い気がする。ジネンカフェVOL.104を催したこの日は、晴天に恵まれて気温もぐんぐん上昇していた。この日のゲストは、(株)都市研究所スペーシア取締役計画室長・浅野健さん。いわゆる〈まちづくりコンサル〉さんである。浅野さんは高校生の時に仲間と瀬戸大橋を見に旅行へ行ったことを機に建設・まちに興味を持ち、建設系の学科がある名古屋工業大学に入った。大学では戦災復興の都市計画を研究。東京の民間コンサルタント会社を目指すが、学部の卒業時はバブル崩壊の影響が就職に出るようになった最初の年で就職するのは難しいと考え、大学院へ。大学院の修士の時に阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件があってますます就職難となり、縁あって入れたのが今の会社。今や人生の半分は、久屋大通沿の事務所で暮らす毎日だという。お話のタイトルも、ずばり『〈まちづくり〉って何だろう?』

【就職氷河期・大震災・大事件】
冒頭にも触れたように、浅野健さんは大学・大学院を通して6年間名古屋工業大学で都市計画を学んでいる。大学3年生の時に〈バブルの崩壊〉があり、大学院修士の時に〈阪神淡路大震災〉や〈地下鉄サリン事件〉が起きた。就職氷河期でもあったので、就職することがなかなか難しい時代だったという。就職先があまりない上に、日本国中を揺るがした大震災や事件が起こり、世の中が騒然としていた時代であった。就活していた浅野さんも幾つかのコンサル会社の採用試験を受けたものの、窓口が狭くてなかなか就職が決まらなかったそうだ。そして漸く現在のコンサル会社の採用が出たのが、修士二年目の11月だったという。

【コンサルタント会社の仕事】
浅野さんは6年前から現在の役職に就いているそうだが、会社のメンバーは10名というから、それほど大きくはない。資本金も株式会社設立条件のギリギリのところだという。フィールドは東海三県。仕事の内容は〈計画系〉と〈再開発事業系〉という二つの分野から成り立っていて、浅野さんはどちらかと言えば〈計画系〉であり、国や自治体から調査費を貰い、いろいろな調査をしているそうだ。これは毎年コンスタントに仕事がある。もうひとつの〈再開発事業系〉というのは、スペーシアが関わった事業で言えば、大須や勝川、西春や岐阜駅ビルなどの再開発に関するコーディネート業務で、現在進行形で岐阜駅前の再開発事業二本と、新しく一本関わり始めているという。しかし、こうした再開発事業は時間がかかる。新しく変わる時は一気に変わるのだが、それまでが長いのだ。駅ビルや駅前などを新しく変えようとすると、その土地の権利を有している地権者全員が同意しなければ出来ないし、同意しただけではなく再開発のため国の補助金を受けるには役所に準じた〈市街地再開発組合〉を作らなければならない。更に県にも〈都市計画決定〉の手続きが必要になって来たりして、それらをクリアするだけで最低でも10年はかかるという。
工事自体は着工して5年ほどで完成するのだが、そこに辿り着くまでの課程に時間が要るのだ。岐阜駅の事業で今年20年目というものもある。だから同じコンサル会社でも〈計画系〉と〈再開発事業系〉とでは、事業スパンが全く 違うのだという。〈計画系〉は仕事を毎年取らなくてはいけないけれど、〈再開発事業系〉は長期間の契約で仕事を取って来るので、お金が入って来る年と入って来ない年もあるのだそうだ。経営基盤の小さな会社にとって事業収入の波があるのはあまり好ましいとはいえないが、そこら辺の難しさはあるものの、それでも1990年、浅野さんが大学生になった年に設立され、25~26年続いてきている会社だという。浅野さんの勤める会社は、一応「まちづくり・都市計画」と看板を掲げてはいるものの、それだけでは厳しいところがあるので、現在ではその都市計画で培った事業の進め方を他に転用していかないと、なかなか仕事が取れなくなって来ているという。まちの規模が大きい東京にはそれなりに仕事があり、それぞれの専門のコンサル会社もあるそうだが、東海三県では〈なんでもコンサル〉をしていかないと会社が成り立って行かないのだという。

【国や自治体の〇〇計画の裏には】
よく国や自治体が〈総合計画〉や〇〇計画を作るのだが、必ずそこにはコンサルタントが付いていると思ってもよいという。遙か遡ること戦前には県の計画なども専門の技術者が来て計画を作成していたのだ。都市計画もすべて役所の職員が作っていた。しかし、戦後になって役所のあり方も変化してきた。それに伴って職員も長くて5年、短ければ2~3年で担当部署が移動するようになり、加えて縦割り行政ということもあって、ひとりの技術者がある程度広く浅く知識をもつことは出来るけれど、技術を高めることは出来ない仕組みになっているのだ。それは大きな役所、例えば〈愛知県〉でもそうなっているそうだ。だからこそ手を動かす最後の場面、調査をしたり、統計を取ったり、分析したりという、計画を作るかなり深い部分に関わってゆくことになる。

【計画を策定するために】
どこの自治体もそうだが、計画を策定するまでに必ずコンサル会社が調査をする。そのまちの現況や課題とか、あるいは前もって人口予測までつくるそうだ。それをするためには統計状況で、国や県・市が出している、ありとあらゆるデーターを使う。そこで拾えないデーターはアンケートを採ったり、ヒアリングをする。更にまちの現況を知るために、現地を回ったりもする。それらを使い、分析を踏まえながら計画を作ることになるのだが、その計画も愛知県レベルで作るのか、市町村レベルで作るのか、もっと細かい地区レベルで作るのかによってそのグレードが違って来るという。そうしたものをいままで受託してきて、ノウハウをどんどん蓄積して行っているという。いままではコンサルタントの仕事というのはこうした調査・分析が主だったのだが、現在では当たり前のようにワークショップとか、パブリックコメント(策定した計画を案としてHP上で示し、市民の声を聞く制度)が仕事として入ってきていて、自治体では計画を作るための策定委員会を作ったりするので、それらを一式スケジューリングしてその中でコーディネートして行かねばならない。結構タイトな仕事をこなしてきているという。要するにお役所の仕事を受けて、それを形にしてゆく仕事なのだ。

【コンサルがどんな調査・作業をするのか?】
どんな調査をするのかというと、例えば長久手市の場合、5歳ごとの人口のデーターがあるのでそれを基に〈人口推計〉を出して行ったり、最近の人口の出入りなども統計から解るし、開発状況などを見ながら30年後の人口予測をするのだそうだ。5歳ごとの人口のデーターをみれば、その地域が過疎化しているか、増えているのか解るという。名古屋を中心とした30キロ圏の地価の状況も、データーだけでは解りづらいので地図上に色分けする作業をするそう。色分けに関しては、いまは国がそういうシステムを作成していて、データーを入れるだけでカラーリングが出来るようになっているが、昔は地図上に手作業で描いていたという。ワープロも現在のように性能がよくなかったので、先に文字だけを入力しておいて、地図を貼るスペースを空けておき、後から別に描いた地図を貼り付けるという
アナログな手作業をしていたそうで、その頃に比べて現在はそういう専用のソフトを使え
ば楽に出力出来るようになった。地価のデーターは毎年半年に一度、1月と7月に発表されるので毎年そのデーターを見ることにより、そのまちの地価が上がっているのか下がっているのか、そういう分析もされているという。

【アンケート調査の結果を視覚化する】
コンサルタントはニーズに応じて、そのまちの住民や観光客にアンケート調査を行うこともある。例えば下呂温泉で観光客に行ったアンケートで、〈下呂温泉で何が楽しみですか?〉という設問に「飛騨川沿いの風景」と答えた人が多かった。これも数値として見せるのではなく、グラフや図を使って視覚化してゆくのだ。数値だけみてもらっても意識には届きにくいが、その数値を視覚化することによって10代から70代のどの層からも「飛騨川沿いの風景」が魅力的だと支持されていることが解るのだ。また、〈商品開発をする上でのデザインの関心度〉を企業に尋ねたデーターもある。これに関しては、食料品や生活に密着している企業ほどデザインに関心が高く、製造業になると関心度が低くなるという結果をグラフで示したりもする。こうして文字だけではなく、グラフや図を使ったわかりやすくて見やすい資料づくりも、コンサルの仕事でもある。ある程度このようになるだろうなという予測を立てながら、アンケートの設計をして分析に使って行くのである。


【市町村の総合計画と将来計画】
だいたいどこの市町村でも中・短期の『総合計画』を策定し、一部の市町村では長期に渡る『将来計画』も策定している。どう違うのかと言えば『総合計画』の方は10年単位ぐらいの緻密な計画で、それに比べて『将来計画』の方は30年ぐらいの長期に渡るものなので「まちづくりの理念」とか「方向性」を表したものとなる。『総合計画』よりも上位の計画として『将来計画』を持つ市町村は、それに沿って『総合計画』を策定してゆく形になる。私(大久保)も半田市の『第6次総合計画』の市民委員公募に応募して策定に関わったが、いままでは調査やアンケートに基づいた基礎データーを役所の中の検討会議を踏まえて委員会で決めてゆくというパターンが普通だったのだが、半田市のように市民から委員を公募して策定してゆくという形を採ることが多くなってきている。浅野さんの会社が関わった四日市市では「若者懇談会」ということで、市内の大学や高校まで行ってそれぞれの学校にこういうことに関心のある子に集まって貰ってその子たちに意見を聴く試みを8箇所開催したり、四日市市は24箇所中学校区ぐらいに分かれていて、そこでも懇談会があったり、市民討論会と市民シンポジウムを一回ずつ開催している。市民シンポジウムはきっかけづくりで行い、ある程度煮詰まって来たら市民討論会を開き、福祉・産業・まちづくりの分野に分かれて意見を貰う場面もあったそうだ。更に計画が煮詰まった段階でパブリックコメントで2回意見をもらう機会があり、そうして二年間を費やして四日市市の総合計画は策定されたのだという。

【計画づくりは都市計画や総合計画だけではない?】
本来ならばそういった都市計画や総合計画だけを柱にして行きたいところなのだそうだが、なかなか現実は厳しいものがあり、計画づくりのノウハウを活かして、その他の分野の計画も策定のアシストをすることもあるという。計画を立てることは難しいことらしく、観光事業者も観光ツアーを組むことは出来ても、観光計画づくりには長けてない。そんな中でコンサル会社の方が調査や計画づくりのノウハウがあるので『観光計画』を策定したり、『交通計画』や『子育て計画』『産業振興計画』といったように、策定のアシストをする幅が拡がって来ているそうだ。

【名古屋の課題】
どこの都市でもそうだが、そのまちの都心部には都心部ならではの課題を抱えているものだ。名古屋でも一、二位を争う繁華街である栄のメインストリート、久屋大通の中日ビル側の歩道には無断で延々と自転車が停めてあったりする。更に交差点付近になると地下鉄への階段出入り口があるため、その付近は自転車とひとで錯綜した状況になっている。もっと歩道の幅員を広げたいところなのだが、久屋大通の車道は4車線もあり、点在するデパートなどのバーゲンの期間になると、平日の昼中でも車がズラリと並ぶ。名古屋は地下鉄やバスなどの公共交通機関が発達しているにも関わらず、未だに車社会どっぷりの街なのだなと解る事案である。名古屋でもいま交通処理のあり方が求められていて、浅野さんたちもお手伝いされて2011年に大須~栄・三越の間を周るループバスの社会実験をしたこともあったが、乗車率が高くてニーズも結構あると思うのだが、採算性の問題があって未だに実現に至っていないという。車の人もどこかに停めてきて貰い、出来るだけバスを使ってもらうとかしていかないと、なかなか都心の車は減ってはいかない。三重県伊勢市が公共施設の駐車場に車を停めておいて、そこからバスで観光地までピストン輸送をする取り組みを始めているという。名古屋でも毎月大津通りの歩行者天国をしているが、その時になると周りの道路が大渋滞を起こしているそうだ。

【コミュニティバス】
このようなまちの課題を話していると、まちづくりに関心がないひとでも、買い物に行く時などに思い出し、身近なものとしてまちのことを考えられるのではないかと思う。実際に、愛知県下でも『交通まちづくり』の視点からコミュニティバスを走らせている自治体もある。武豊町ではバス停を自分たちで手作りで造作して〈コミュニティバス〉のことを知って貰ったり、武豊には味噌蔵があるので味噌蔵案内ツアーを組んで利用して貰ったりして、「たまにはバスを使ってよね」というメッセージを含めた取り組みが行われているという。

【そもそも「まちづくり」って何だ?】
では、そもそも「まちづくり」って何だろう? 「まちづくり」にはいろいろな書き方がある。「街づくり」「町づくり」「まちづくり」。「街づくり」とか「町づくり」だとなんとなくハードな印象があるから、ひらかなで表現してみたり、行政主導のものは漢字を使い、住民参加型のものはひらがなを使うなど諸説あるが、浅野さんはこんなふうに思っている。東京の町田市や大阪府で「福祉のまちづくり」を条例化した時にもひらがなを使っている。福祉の側面から(バリアフリーとかユニバーサルデザイン)まちづくりを進めてきた自治体は全国的に多いが、そのような自治体はやはりひらがなの「まちづくり」を使っているそうだ。愛知県は建築の部署が街づくりに入っているので、漢字の「街づくり」を使っている。愛知県の中でも「ひとにやさしいまちづくり」を福祉畑で行っている市町村もあれば、建築畑で行っているところもあり、それが「まちづくり」と「街づくり」を混在させているひとつの原因だろう。因みに名古屋市は完全に福祉畑の健康福祉局が「ひとにやさしいまちづくり」を推進させているので、まちづくりをしている住宅都市局はあまり関心がないらしい。名古屋のような大都市のものづくり・建物づくりの部局がユニバーサルデザインやバリアフリーのことを知らないというのは、いろいろな意味で問題があるなと、浅野さんはいつも危惧しているそうだ。

【イギリスと名古屋の戦災復興を比較する】
浅野さんは学生時代修士の時に、イギリスと名古屋のまちづくりについて、主に戦争からの復興の比較について研究をさていて、それについて修士論文も書いている。イギリスはカンタベリーの道路の図を手書きで描いたり、名古屋の戦災復興の時に100メートル道路がどうして計画されたのか、どのように可能になったのか書いているとか。カンタベリーと言えば14世紀の詩人・チョーサーの『カンタベリー物語』で知られているが、そのカンタベリーのある地区で戦災復興のための再開発事業が持ち上がった。70年ほど前の話だ。しかし、その再開発案は「旧いレンガ造りの街並みを守りたい」という住民運動が勝ち、旧市街地はそのまま、その周りに道路を巡らせるという案に落ち着いたという。日本とイギリスの道路を通す理由がそれぞれ違っていて、日本の場合は交通渋滞を緩和させる。ひとつの道路の交通量をいくつかの道路へ分散させるために環状道路が計画されるのだが、ヨーロッパの都市はひとつひとつが「国」という形で発展してきて、その国の周りを城壁によって守ってきたという歴史がある。城壁の中が旧市街地であり、その旧市街地を守るためにその中の道路はそのまま膨らませずに、その周りを循環させるように環状道路を通すという計画に変えたのである。つまり日本の都市計画は道路行政と景観行政が全然マッチしてなく、イギリスは最初から景観ありきで、景観を守るために車を入れさせない。ヨーロッパの街並みが美しいのは、そういうことも要因のひとつとして挙げられるのだろう。名古屋の都心部は碁盤割りの街並みの中の道路幅をもう少し広げた程度なので、おそらくつくりやすかったと思われるが、それでも街中の道路をあれほどまでに広げられたのは、やはり行政のなせる技だと浅野さんは思っている。

【まちは誰がつくるのか?】
それもあって学生時代の浅野さんは、日本のまちはヨーロッパのそれとは違って、行政がつくるものだと思っていたという。しかし、社会人一年目の時に「まちづくり」という言葉の発祥の地でもあった栄東地区の話をいろいろな先生から聞いて、白壁や橦木館の活動に関わったり、世田谷区の参加のデザインということで、住民参加で公園づくりをする当時としては先進的な取り組みを全国にも広げるために世田谷区役所のまちづくり公社が行っていた研修(ワークショップ)に参加し、学んだ成果がいまの住民参加の場での運営に役立っているかなと浅野さんは振り返っておられた。このように学生時代の6年間と就職してからでは、自分の中のまちづくり観が全くと言ってよいほど変化したのだという。それは何も学生時代の浅野さんに限らず、暮らしの中でまちづくりなんて考えたことがないひとは大半だろう。しかし、いざという時にまちづくりの知識が必要になってくることもあるから、少しでも関心を持ってもらえるとよいのではないかと、浅野さんは思っている。

【一般の人たちがまちのことを考える時―家を建てる時、災害時】
一般の人たちがまちのことを考えるのは、おそらく家を建てる時だと思う。家を建てようとする時は、さすがに考えると思うのだ。どこに住まおうと。福祉系の人なら事業所をどこに建てるか考えるかも知れない。どういう地域に開くか? 最近では東北や熊本など、日本は地震国だということが浸透しているが、災害が起きて避難所に行く時も否応もなく地域のこと、まちのことを考えるだろう。避難所の環境が悪いとか、人様に迷惑をかけるから避難所へは行きたくないとか、だから「福祉避難所」という発想が出てきているが、地震国である日本は過去の経験から学ぶことが出来、常に課題を新しい動きとして取り入れているように思う。「ボランティア元年」と言われている阪神淡路大震災の時に、あの時以降ボランティアが増えて来たと言われていて、それから15~6年経った東日本大震災の後に阪神淡路よりも広域に被害を受けたので、いろいろな分野のボランティアが、いろいろな形で入って行くということが、より明確にされているような気がするという。熊本に関しては地震が狭いエリアで起きたということもあって、急場のボランティア自体はもう撤退をはじめているようだが、今後まだまだ仮設住宅を造ったり、新築の自分たちの家に戻れる人も、持ち家だった人が集合住宅みたいなところに移らなければならないかも知れない。その辺の生活再建をどうするのか、課題点はまだまだあると思うので注視して行かなければならないと思っている。

【家の前に巨大マンションが…。】
災害時などの非常時にではなく、日常的に起きるトラブルとして、自分の家の前に巨大マンションが建ってしまうということがある。日本では南から太陽の日差しが入って来るので南向きの家が多いのだが、その前や周りに大きなマンションが建ってしまうと、その北側に住んでいる人たちの家には日が差し込まなくなるので反対運動が起きる。しかし、大概の場合は建ってしまう。現在の日本の法律や制度ではマンションにしろ、一戸建ての住宅にしろ、一般の住宅地ではその敷地の100%を建物に使うことは出来ないことになっている。建坪率と容積率の問題もあるのだが、他にも民法では隣地境界線から50センチメートル空けて建てなければならないように法律で定められている。100%の敷地に対して、大雑把に言うと(最も建ぺい率が高い商業地の場合でも)80%しか家が建てられない。住宅地などではこれが60%になったりするそうだ。住宅地よりも商業地域の方が目一杯建てられるという。マンション業者は横に長いマンションを建てるよりも、縦に階層を積んだ方が価格の割合が土地より建物の方が大きくなり、税金を評価するのに土地より建物の方が低いから、土地・建物にかかる税金も安くなる。同じ戸数をつくるなら使う土地を出来るだけ狭くして、上に積んだ方が税金対策になるのだ。加えてマンションは人が集まるようなところではないと部屋が埋まらないので建てられない。そうなると土地価格もそれなりに高くなり、建設費用よりもかかるということにもなる。だからマンション業者は土地を効率的に活用するために部屋を上に積むのだという。長久手や緑区や天白区のように周りの環境もよく住みやすいところに高層マンションが続々と建てられているが、名古屋駅西には建てられていないのはそういう理由もあるのだという。

【建物の高さにも規制がある】
平面に加えて建物を建てる時には高さにも規制がある。建物の高さは容積率ということで、住宅地なら土地の面積の2倍、200%が限界なので大きな土地の方が高層化しやすいのだ。加えてもうひとつ横に長いマンションよりも、縦に高層なマンションの方が建設するのに有利な点がある。それが前述した日影規制である。東西(横)に長いマンションと、縦に高いマンションがあった場合、その北側にある家が日陰になる時間が長いのはどちらかと言えば、間違えなく前者の方なのである。これは日本で一番日照時間が短い冬至の日を基準にしている。夏場は太陽の位置が高いので落ちる影の距離も短いのだが、冬場殊に冬至は太陽の位置が低いので影の距離も長くなってしまうからだ。用途地域によって落とす影の時間的基準は異なるのだが、最低で〈3時間以内〉最高で〈5時間以内〉ということになっている。マンションとか高層ビルを建てる際には必ずそれを調べることになっていて、逆に言えばこの基準をクリアしなければマンションは建てられない。マンションやビルの高層化が増えている背景には、そのような事情もあるのだという。

【開発業者 VS 景観行政】
法規制をクリアしやすいのと、低予算で高収益があげられるということで高層マンションが続々と建てられている現状だが、他にもいろいろな問題もあって周辺住民に迷惑がかかることがあり、こんな単純な法律でよいのかということも話題になっているという。某市でマンション等の開発業者VS景観行政の訴訟があった際、最終的に勝ったのはマンション開発業者の方だった。いまの日本では個人の権利が護られているから、建築基準法や都市計画法に則っていれば、相手が行政であろうと勝ってしまうのだ。それが問題で、浅野さんたちまちづくりコンサルが住民との間に入ることもあるのだが、訴訟で勝つからには周りの景観に配慮してほしいと申し入れているのだという。何も言わないと全国どこに行っても通り一辺倒のマンションが林立することになってしまうからだ。名古屋市東区白壁地区などはその最たるもので、マンションは建っているけれど、その前に赴きのある長屋門が残っているのは住民からの声があればこそで、それがなければ風情あるあの景観は守れなかったであろう。

【知っておいた方がよい我がまちのこと】
自分が住んでいるまちのことを知っておいた方がよいと思われるものに〈防災対策〉がある。防災と言えば、東海地方では南海トラフ地震が懸念されているが、各市町の被害予測などはインターネット上で簡単にみることが出来るので、避難所の場所も含め、一度確認しておいた方がよいという。それと身近なところで意外に知られていないけれど、知っておいた方がよいと思うものに、土地の価格がある。戸建て住宅に住んでいる人は毎年固定資産税を払っているので身近な話なのだが、固定資産税は土地の価格に応じて上下するので、固定資産税が下がったら、それだけ土地の価格も下がっているということなのだ。これもネットで簡単に調べられるようになっているという。それと〈地歴〉。その土地の歴史のことだ。よく江戸時代の古地図をみると、その土地の状況が解ると云われているが、それは正しくその通りなのだ。

【名古屋の広小路は、なぜあんなに広い通りなのか?】
名古屋の駅前から栄にかけて東西に広い通りが貫いている。広小路通と呼ばれている道路なのだが、その広小路通はなぜあれほど広いのかと言えば、万治3年(1660年)に城下の半分を焼き尽くした「万治の大火」が起きたことを機に、碁盤割南端の堀切筋(久屋町~長者町間)の道幅を3間(約5m)から約15間(約27m)に広げたことに由来するという。そう、現在の広小路通のあの広さは、江戸時代からのままなのだ。そればかりではなく名古屋の都心部の区割りは、徳川家康が慶長17年(1612年)頃、それまで本拠地であった清洲から「清洲越」を行い、城下に碁盤割の町を築いたままなのだとか。(道路幅を少し広げた程度)西区の四家道もそうで、火災による類焼を防ぐための手段として道路幅をあんなに広げたのだ。また桜通も第二次世界大戦時に疎開する人が多く、やはり爆撃による類焼を恐れて木造住宅を倒して道を広げたのだ。そして戦後の復興期には市街地に数多あった寺や墓地の土地を買収し、平和公園に移転して貰ったのだという。そうして造られたのが久屋大通であり、若宮大通であり、戦後の名古屋の区画整理事業であった。道路幅を広げるためにもともと住んでいた人たちに退いてもらい、その分はお寺から買収した土地を当て、お寺には平和公園に移転してもらう。そうして出来たのが現在の名古屋のまちだそうだ。

【名古屋市の骨格】
現在の名古屋駅は、はじめは考えられてなかったので当時の街中に造ることは難しく、少し郊外に建てられた。いまや栄よりも勢いがある地域になっているが、堀川よりも低い土地に建てられているため洪水などに遭いやすい。明治時代の名古屋のまちは、笹島はギリギリ入っているが金山までで、熱田町は2000年の歴史がある熱田神宮があるので名古屋に入ることを拒絶していたらしい。しかし、名古屋港を造ることになり、熱田町も名古屋に入らざるを得なくなったのだ。こうして初めて近代的な街らしいまち、名古屋市の骨格が出来上がったのだった。

【大久保的まとめ】
浅野健さんとのつきあいも、もう17年にもなる。浅野さんも私も愛知県が主催していた『人にやさしい街づくり連続講座』の卒業生で、彼の方が一年先輩なのだが、確か私が受講した年度には別のグループのサポーターをしていたと記憶している。話したきっかけは何だったのか、もう忘れてしまったのだが、どうせ飲み会などの時にまちづくり以外の下らない話ばかりしていたのだろう。やがて私はまちの縁側育くみ隊の理事になり、浅野さんはコンサルとして働きながら、ひとにやさしいまちづくりネットワーク東海の理事として活動するようになり、一緒に仕事も活動することもなかったが、時々名古屋ですれ違ったり、何かの講演会で一緒になり、一言、二言、言葉を交わす程度の交友はあった。ジネンカフェにもこれまで「まちづくり」の活動をされているゲストさんが、ご自分がされている活動についてお話されたことは何度かあるが、仕事としてまちづくりをされているコンサルさんは、それらの方々とはまた異なった視点でまちを見て、まちづくりをされているのだろうと思った。それをぜひ聴いてみたいと思ったのだ。当日は「まちづくり」という一般のひとにあまり馴染みのないテーマだったせいか、残念ながら参加者が少なかったが、まちも、まちづくりも、至極身近なことなのだ。これを読まれた方が、ひとりでもご自分のお住まいになられているまちに関心を持ち、まちづくり活動に興味を示してくれるのなら、ゲストの浅野さんも、ホスト役の私もこれに過ぎる喜びはないだろう。
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ジネンカフェVOL.106のご案内

2016-07-06 08:53:08 | Weblog
ジネンカフェVOL.106
日時:8月6日(土)14:00~16:00
場所:くれよんBOX
ゲスト:白川 陽一さん(しらまこプロジェクト)
タイトル:コミュニティづくりのその先には
参加費:500円(カフェ代別途)

ゲストプロフィール:
名古屋市青少年交流プラザ職員。対話と学びのファシリテーター。ユースワーカー。自立や社会参画を育むための、家でも職場でもない第三の居場所(サードプレイス)づくりがテーマ。得意分野は、人が安心・安全でいられる「場づくり」。具体的には、そのような場を成立させるワークショップの企画、計画、運営(コーディネート)、進行などを行ったり、そのような場をつくりたい人のための相談役として活動しています。

コメント:
名古屋に来て6年目になりました。その間、学校の先生をしたり、大学院生をしたり、コミュニティづくりをしたり、自前のWSをしたり、そして今は名古屋市の公共施設で働いたり、様々なことを行ってきました。その中で、今でも継続し続けているのは、個人的関心の最先端を取り扱う「しらまこプロジェクト」でした。それはいつも「世の中に対するちょっとした疑問」が行動の源でした。今回は、名古屋での数々の実践を横糸、「しらまこプロジェクト」での自分の思いを縦糸として、白川陽一という布地をみなさんと眺めたいと思います。
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