ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.103レポート

2016-06-02 12:13:42 | Weblog
梅雨の走りのように続いた雨がやみ、初夏の爽やかさを通り越した気候に恵まれた5月の第二土曜日。VOL.103のゲストは、社会福祉法人あさみどりの会の職員の丹下靖さん。あさみどりの会自体が発足してもう40年ほどという、名古屋では老舗の社会福祉法人である。私も風穴一座時代、この法人が主催するボランティア講座にゲスト講師のひとりとして招かれ、参加者のみなさんに活動紹介をプレゼンしたことがあった。丹下靖さんは1962年、神奈川県横浜市生まれ。小学生で名古屋に来てから引っ越すこと10回以上、現在北名古屋市在住。高校時代に障がいのある子どもたち、障がいのある方たちの書いた詩(歌)に出会い、ボランティア活動をはじめたことが「福祉」や障がいのある人と関わりの始まりだという。わたぼうしコンサート、大阪・応援センターなどの活動を経て、大学時代はアルバイト、地域の療育活動、福祉コンサート「なないろコンサート」をはじめとして全国各地でのボランティア活動をしてきている。仕事は、名古屋手をつなぐ親の会「ちくさ小規模作業所」(現在の若水授産所)を皮切りに、師勝町社会福祉協議会「師勝町心身障害者小規模作業所(現在のセルプしかつ)」、愛光園「知多地域障害者就業・生活支援センター」の立ち上げと運営と地域における就労支援の分野で仕事をしてきた後、現在の法人本部の共同生活援助事業所総合管理責任者として勤めている。お話のタイトルは『とりとめもなく語ります、うた、ボランティア、就労・生活支援…。』

【あさみどりの会とは?】
丹下靖さん自身はその法人に勤めて5年目なのだそうだが、冒頭にも触れたように『あさみどりの会』は〈心身に障害のある人とのかかわりを通して、ボランティアの心を育み、すべての人々が共に良い人生を送れる社会づくりを行う〉ことを基本理念に、44年前に法人格を取得して事業をされている社会福祉法人である。それ以前、59年前からボランティア団体として活動していたそうで、丹下さんや私が生まれる前から障がい者支援活動をしてきているということになる。現在は名古屋市中村区と、千種区、愛西市、三好市に施設(作業所・グループホーム・入所施設)を構えている。グループホームが17軒あり、94名の方が生活をされている。丹下さんはそのグループホーム全体を統括する責任者をされているのだ。

【福祉、障がいをもつ人たちとの出会い】
丹下さんが福祉・障がいをもつ人たちと出会ったのは高校二年の秋、現在職員をされている『あさみどりの会』の発達障がい児母子通園施設〈さわらび園〉の運動会にボランティアとして参加した時のことだった。当時、青春真っ只中の丹下青年には好きな女の子がいた。その子をデートに誘ったのだが、何も返答がなく空いた時間をどうしょうかと思っていたところ、友だちから誘われて〈さわらび園〉のボランティアに行ったのだそうだ。そこには障がいのある子どもや卒園して大きくなった子どもたちが30人ほどいて、多少怖さも感じながらも運動会の旗を持ったり、白線を引いたり、誘導したりしているうちに、気がついたら丹下さんは涙をボロボロこぼしながら大泣きしていたそうだ。

【自分は、あんなふうに一生懸命走ったりしたことがあったろうか…?】
丹下さんは、それまで一度も障がい者を見たことがなかったわけではないという。当時は小・中学校の普通クラスにも体の不自由な子どもや知的・発達障がいをもった子どもたちがいたらしい。丹下さんはしかし、その子たちを虐めていた方だったのだ。それが突然こみ上げて来た感動による号泣である。障がいを持った子どもたちが徒競走で10メートルか20メートルの距離をお母さんに名前を呼ばれながら走る場面があり、それを見ているだけで自然と泣けてきたという。「自分はこんなふうに一生懸命走ったり、歩いたりしたことがあるのだろうか?」その頃は自分がなぜそんなにも感動しているのか解らなかったが、いまにして思えばそういうことだったらしい。ちょうどその頃、丹下さんは父親を亡くしている。思春期特有の「悲劇のヒーローシンドローム」に陥っていたこともあって、その子どもたちに自分を重ねて見ていたということもあったろう。こみ上げる衝動に押されるまま昼休憩に〈さわらび園〉の二階の事務所へ駆け上り、当時〈さわらび園〉が事務局をしていた『わたぼうしコンサート』のボランティアをかって出たのであった。

【初めてのわたぼうしコンサートで…】
〈わたぼうしコンサート〉とは、奈良の〈たんぽぽの家〉から発祥して、全国各地で広がりをみせている福祉コンサートである。障がいのある人から寄せられた詩に曲をつけ歌い、語りも入れたりして障がい者への理解を促す目的で催され、昨年50周年を迎えた。丹下さんはそこで山本公三さんという車いすの青年が足でタイプを打って綴った「夢」というタイトルの詞に出会う。そこには生きていれば誰もが想う異性と恋がしたい。デートがしたい。でも、車いすに乗っている自分にデートが出来るだろうか? そんなことを言ったら笑われるのではないか? だとしたら自分は車いすなんて要らない。好きな女の子と青空の下、手をつなぎ思いきり走ってみたい。緑の芝生の上でふたり仲良く寝そべってみたい…。そんな微笑ましくも素直な気持ちが綴られていたのだ。初めて大きな福祉コンサートの手伝いに関われた感動もあったが、その時に丹下さんが感じたのは「可哀想」という同情とか哀れみの感情などではなく、「自分と一緒だ」という〈共感〉であったという。自分もこの詞の作者も同じ若者で、恋人がほしい、デートがしたいと望んでいる。そう思うのは、人として当たり前のことなんだ!

【私は週休7日】
同じ頃、こんな詞にも出会った。週休7日、週休7日、楽しいなー。テレビは見放題、漫画も読み放題。だって私は学校に通ってないんだもん。テストで頭痛めることもないんだもん。毎日私は好きなことが出来る。仕事に追われることもないし、上司に気を遣うこともない。だって仕事をしてないんだもん。通勤電車に悩まされることないんだもん。だけど時々思うの。学校に通ってみたいな。友だちと勉強してみたいな、土曜日の夜のときめきを感じたいな、日曜のありがたさを味わってみたいなー。週休7日、週休7日、つまらないな…。当時はまだ就学免除の時代で、義務教育であったにも関わらず、障がいのある子どもは学校に行かなくていいと、国から体の良い〈就学免除〉を受けていた時代だった。実は私(大久保)も、一年間就学を見合わせている。私は早生まれなので本来なら同級生たちより一年早く就学している筈なのだが、いろいろな事情から一年遅らせて名古屋養護学校小学部に入学している。この詞の背景にもそういうことがあったのだろう。作者は岩井なおみさんという、現在も〈たんぽぽの家〉で語り部活動をされている方だそうだ。その後、肢体不自由児、知的障がい児の父母が運動して、どんな重い障がいがあっても教育を受けることが可能になったのだ。いまの若い人には考えられないような時代であった。

【大阪へー障害者応援センターとの出会い】
1981年、丹下さんが大学一年の時、「完全参加と平等」というテーマを掲げた『国際障害者年』がスタートした。日本もそれを契機に障害者福祉の充実に向けて大きく動き出した年でもある。その少し前に日本テレビの『24時間テレビ』がはじまり、肢体不自由児・者がぼつぼつと街やテレビに出てきた頃であった。丹下さんはと言えば、高校二年の時にお父さんが亡くなったこともあり、1年間だけ大阪に引っ越した。大阪の『障害者応援センター』や、その団体の運動と出会い、高校に通いながらここでグラフィックデザイナーの牧口一二さんらと共にボランティア活動をされていた。この団体との出会いがまた面白い。大阪は千日前の雑踏の中を歩いていた丹下さんは、募金活動をしていた一団を見かけて声をかける。「僕にも何か手伝わせて下さい」すると「いいですよ。それじゃあ来週来られる?」という返答が…。何をするんだろうとドキドキしながら指定された場所に行ってみると、そこには手動車いすが置いてあり、「今日一日、車いすに乗って下さい。何があっても絶対に降りたり、足で動かしたりしてはいけません」そうして丹下さんはこの団体で、車いすの方たちに対する生活介助のボランティアをされていたという。やがてこの『応援センター』を足がかりに『大阪ボランティア協会』や、奈良に通って〈わたぼうしコンサート〉のボランティアもするようになる。

【当時のバリアフリー事情―街に挑んだ者たち】
当時の街はまだバリアフリーなどほど遠く、街に出ようとしても段差だらけで、公共交通機関の駅でも階段しかない時代であった。そんな中で車いすのまま街に出てゆくのは、今以上に生命がけの行為であった。『応援センター』の方々も駅に行って電車に乗ろうとすると、先ず階段の下で「どなたか車いすを上げて下さい!」と叫ぶのだ。しかし、その言葉に耳を貸す人は滅多にいない。でも、階段を上らなければ電車に乗れない訳だから、一時間でも二時間でも声をかけ続ける。やっと階段をあげてもらい、改札を通ってホームまで辿りつく。丹下さんはボランティアなので一応はついて行くのだが、一切手を出すな、見ているだけだと言われていて、声をかけるのを見ている係、そんな感じであった。やがて電車が来て再び周囲の人たちに「電車に乗せて下さい」とお願いするものの、誰も手伝ってくれる人がいないとなると、なんと車いすをホームに残したまま、本人だけ電車の中に這うように乗り込むのである。一歩間違うと生命取りになり兼ねない危険な行為だし、現実問題として目的地の駅に着いても車いすがないので降りられないのだが、『障害者応援センター』の方たちはよくこんなことをして、障害者、及びバリアフリーへの理解を訴えていたという。逆に言えばそれだけのことをしなければ、世の中は変わらないという切迫
した想いを当時の『障害者応援センター』の方たちは抱いていたのだろう。そうしてホームに残された車いすを回収して、募金活動をしているところまで戻って行くのが丹下さんの担当だったという。

【絆―エモーショナルな想いが生んだ松兼功さんの生業】
その頃に出会った、現在でも鼻でタイプを打ってエッセイや作詞活動をされている松兼功さんの、筑波大学時代に綴った詞がある。松兼さんは障がい者を理解してほしいということではなく、好きな女の子に想いを届けたくて『絆』という詞を一気に書き上げたそうだ。障害者運動というよりも、モテたいとか、好きな女の子に想いを届けたいというエモーショナルな理由から文筆活動を始めたらしい。しかし、それが現在生業として成り立っているのだから、大したものである。それもこれもこの『絆』が〈わたぼうしコンサート〉で歌われて広まったおかげだと松兼さん自身感謝しているという。それはこんな意味あいの詞である。僕の額に流れる汗に、あなたはなにを思うのだろうか? 生きる力に微笑みますか? 同じ時間を生きるあなた。ここで巡り会えたあなた、ひとつだけ聞いて下さい。偽りの微笑みと見せかけの涙だけはやめて下さい。自分の心に素直になって下さい。そこからふたりの絆が出来るのだから。額に流れる汗に僕は生きる喜びを感じる。明るい僕に気がつきますか? 同じ時間を生きるふたり。ここで巡り会えたふたり。共に生きて下さい。それだけで以前とは違う、いまここで僕を知らなくても、あなたの心に素直になって下さい。そこからふたりの絆が出来るのだから…。

【一番大事な人に届けたいと想わなければ…】
「絆」の作者の松兼さんも前述のおふたりや『障害者応援センター』の方々と同じく「伝えたい」という想いで、この『絆』を書いたのだろう。ただ、その対象が「不特定多数」の人にではなく、一番大事な人に解ってほしい。この人に解ってほしい…というところではないと、夫婦にしても巧く行かないこともあるのだから、すべての人に届けるとなると、どこに向かって伝えればよいのか解らなくなるのではないだろうか? だから何か声を挙げたり、社会運動をする時にも「この人に届けたい」と思いながらでないと、伝える力が弱くなってしまうような気がすると、丹下さんはいう。

【やりたいことはやってみる】
半年間大阪に住んでいた丹下さんは、大学入学で名古屋に戻って来ることになる。国際障害者年の年だ。丹下さんは〈わたぼうしコンサート〉のボランティアを続けていたが、この年は国際障害者年で〈わたぼうしコンサート〉が忙しくて名古屋に来られなくなった。それでは…ということで、〈なないろコンサート〉という地元のコンサートを開催することになった。しかし、丹下さんは一つのところにいられない性質で、当時の〈あさみどりの会〉の園長さんに「きみはひとつのことをコツコツとやりなさい」と言われていたが、丹下さんは叱られながらも全国の『わたぼうしコンサート』に通っては、ボランティアをされていた。それも正式なスタッフではなく、おしかけスタッフだったのでスタッフが寝泊まりする部屋の床に寝泊まりをしていたそうだ。この年は国際障害者年ということで世界10カ国から障がい者が日本に来て、神戸のポートピアとか横浜、東京、博多などで『世界わたぼうしコンサート』が開催されていたのだ。丹下さんはそれに原付バイクで帯同しながら、それとは別に岩手県や東京の子どもの遊び場・プレイパークのプレイリーダーなどもされていたそうだ。やりたいと思ったことはやってみる…そんな感じだろうか。もちろん丹下さんは大学生だったので夜にアルバイトをして生活費や学費を稼いでいた。

【なないろコンサートで出会った思い出深い歌―『あっちゃんの星』】
〈あさみどりの会〉を事務局にして、名古屋で毎年催している『なないろコンサート』では、地元の音楽関係者、ミュージシャンたちとの出会いがあり、昨年もCDを制作した。その中には障害当事者だけではなく、その周りの方たちの詞も募集して、曲をつけて歌っている。当事者の心情への理解はもちろんだが、〈あさみどりの会〉は母子通園ということもあり、その親御さんや兄弟姉妹やボランティアも含めた周囲の人たちの心情も汲み取らなければ…という想いもある。その中から障がい児を持った親御さんの妹さんが、13歳で亡くなったダウン症の子どもさんを見送ったお母さんを見て、その妹さんの岡弘子さんが書かれた詞で、補作詞に一昨年の末に亡くなられた中津川のフォークシンガ・笠木透さんが手がけている。それはこんな詞で、丹下さんも思い出に残っている歌だという。「夾竹桃の赤い花が夏の日差しに燃えていた朝、闘い続けたあっちゃんが、微笑むような安らかな笑顔、ほらあそこできらきらと輝いて遊んでいるよ。あれがあっちゃん、あっちゃんの星。棺にいっぱいの赤い花を、入れてやろうと父さんが言った。よう頑張りました。褒めてやってね。涙を拭きながら母さんが言った。ほらあそこできらきらと輝いて遊んでいるよ。あれがあっちゃん、あっちゃんの星。悪口を言ってこめんな、あっちゃん。もう一緒には遊べんな、あっちゃん。ダウン症のあっちゃんは、13歳の生命で星になった。ほらあそこできらきらと輝いて遊んでいるよ。あれがあっちゃん、あっちゃんの星」

【先生と呼ばないで】
丹下さんは結婚されて今年で25年になるそうだが、子どもさんがいらっしゃらないので、子を想う親の気持ちはいまいちわからないそうで、作業所でも職員のことを親御さんがよく「先生」と呼ぶけれど、どうして「先生」と呼ぶのか未だに解らないそうだ。丹下さんも大学を出てすぐに作業所へ勤めた時に「先生」と呼ばれて、「いや、僕は大学出たばかりですけど…」と言っても、なおも「先生」と呼ばれるので、「先生と呼ばれたら帰ります」と言っていたそうだが、「丹下さんはいいわ。親じゃないもの」とか、「障がい児をもってないから、いいよね」など散々言われていた。障がい児をもつ親って酷いことを言うなあ~と思ったが、丹下さんはそれには何も言い返せなかった。しばらくそのことで悩んでいた時期もあったが、開き直るようにしたという。独身の時は「自分は独身だから親の気持ちなんてわかりません」そしていまは「子どもがいないので、親御さんの気持ちはわかりません」と言い返せるようになった。その言葉が言えるようになって、やっと障がい児・者の家族と対等につきあえるようになったかなと思っているという。

【親と子の関係は難しい…】
障がいのある子どもをもった親御さんの想いというのも大変なものがあって、子どもさんがグループホームで生活していても、「熱を出していませんか?」とか「夜は寝てますか?」とか問いあわせが来る。親御さんの想いを形にすると、グループホームであっても三メートルぐらい先でじっと寝息が聞こえるかどうか、手を当てていないといけないようなところがある。だからグループホームの職員は気が抜けないという。親御さんのいうことも聞かないといけないし、本人のいうことも聞かないといけない。しかし、そういうことを乗り越えて障がいのある人は大人になってゆく。差別が多い世の中で親御さんに護られながら成長してきたのもわかる。でも、そればかりだとなかなか家族と離れられないというか、親子ともどもに依存しあう関係になってしまう。グループホームの責任者をしながら。そんなふうに丹下さんは感じている。

【千種小規模作業所時代】
大学4年間でいろいろなボランティア活動とかアルバイトとか、人一倍社会経験をしてきた丹下さんだったが、周りからは「落ちつきなさい」とか「ひとつのことをコツコツやりなさい」とかボロカスに言われていたという。しかし、自ら認めるへそ曲がりな丹下さんは、そう言われれば言われるほど「絶対にそうなるか」と思っていた。そんな丹下青年でも就職は出来た。一番最初の就職先は、名古屋手をつなぐ親の会(現在の名古屋手をつなぐ育成会)の無認可の『千種小規模作業所』。ここの立ち上げから認可されるまでの3年間職員をして、認可を受けたら辞めたそうだ。丹下さんは基本的に飽き性だそうで、ひとつのところに居られないという。『千種小規模作業所』では親御さんの所長さんと職員の丹下さんと、14~15人の仲間たちと仕事をしていた。ちょうどその時、就職されて一年目か二年目に、千種区役所の講堂で笠木透さんや『花嫁』の作曲者で知られる坂庭省悟さんとか、現在一緒にバンド活動をしているホレホレバンドのメンバーに来てもらって『さいしょのいっぽコンサート』と題したコンサートを勝手に行ったという。その時に現在AJUわだちコンピューターハウスの森美由紀さんや小島万智さんとも出会ったのだそうだ。

【基本的に飽き性なので…】
当時の初任給が7万~8万円ほどで、家も借りていたそうでその家でよくお泊まり会とか、いろいろとしていたのだが、なにしろ飽き性なので認可されたのでもう大丈夫だろうと思って、その『千種小規模作業所』を辞めて、師勝町社会福祉協議会の小規模作業所の立ち上げに関わり、ここも無認可から認可された時点で辞め、一年間プー太郎生活をされていたとか。その後、愛光園「知多地域障害者就業・生活支援センター」の立ち上げと運営に関わり、知多半島全域の障害者小規模作業所をまわり、当時は〈就労支援〉などという言葉がない時代だったけれど、「お宅の利用者の方、就職出来るのではありませんか?」と言って、就職出来る人は社会に出て一般企業に勤めて稼いだり、いろいろな分野で活躍してもらいたかったので、ささやき商法みたいにそのような仕事をされていたそうだ。

【すべては高校生の頃に出会った障がいのある子どもたちのおかげ】
50歳になった時に、愛光園の「知多地域障害者就業・生活支援センター」を勝手定年された丹下さんだが、今振り返ってみるとこれまで就労支援とか生活支援とかグループホームとか、いろいろと仕事をして来られたけれど、結局のところ高校生の時に『さわらび園』で目にした障がいのある子どもさんが懸命に走る姿と出会ったことが全てかなと思っているという。丹下さんはとにかく飽き性で、課せられた課題を達成すると「もう、いいか」と思ってしまう。何かを立ち上げる時にはエネルギーを注げるのだが、それを維持・管理することが苦手で、それが軌道に乗ると急に熱が冷めてしまい、辞めてしまいたくなるのだそうだ。ご自分のことを、ちゃらんぽらんな人間だと思っている。もし、高校生の時に障がいのある子どもたちに出会わなければ、自分はただのちゃらんぽらんな奴で、栄あたりの繁華街で若い女性に「いいバイトあるよ」と声をかけたりする人間になっていたかも知れないという。丹下さんの青年時代はバブルがまだ弾ける前で、普通に勉強をして良い学校に行き、良い会社に入って良い奥さんをもらい良い家を建て、良い葬式をしてもらって良い墓に入る…ということが普通の社会のレールだった。現在とは事情が全く違う。いまは良い大学を出ても年収300万円貰えるかどうか。結婚も出来ない。アパートも借りられない。そんないまの時代とは異なって浮かれた時代だったが、丹下さんは『さわらび園』の子どもたちに出会ったおかげで、世間の流れとは違う生き方や価値観を教えて貰った。高校生の丹下さんにとっては、その『さわらび園』の子どもたちが人生の先生だったのだ。彼らは応援したいとか、助けてあげたいという対象ではなく、丹下さんよりも一生懸命走ったり、勉強したりして頑張っている人だったのだ。いろいろなことも学ばせて貰った。という。

【与えられたものは、返さねばならない…】
それに加えて丹下さんをいままで突き動かしていたのは、やはり高校生の頃に山本さんの『夢』と出会い、障がいを持っている方でも自分と全く同じ人間なんだと教えられたことだという。このふたつの出会いがなければ、現在の自分はいないだろうし、障がいのある人たちと気軽に話したり、冗談を言い合えることもなかったろう。そういう意味でも丹下さんは障がいのある人たちに対して感謝されているのだそうだ。だからこそ飽き性で職場を転々と変わっても、障がい者福祉の分野から離れようとは思われないのだ。与えられたものは返して行かねばならない。これも飽き性なので与えてくれた人たちへは直接返すことは難しかったけれど、障がい福祉の分野で仕事をしたり、障がいのある人たちやその周りの人たちの想いを歌っていれば、与えられたものを少しでも返すことにならないか…と、丹下さんは日々思っている。

【就労支援―どこかに自分のやるべきことや役割があるよ】
丹下さんが大事にしているものがもうひとつある。障がい者福祉とか、ボランティア活動を知る前の自分は、世の中の多くの人たちと同様に良い学校に行き、良い会社に入ってより沢山の給料を貰うことが一番だと思っていたし、それを目指してもいたという。しかし、そういうことは自分でなくても出来ることで、自分にしか出来ないことではないとも思っていた。そうしてボランティア活動や施設の職員をしてきて、いまもグループホームの管理責任者という役割が与えられている。こんなちゃらんぽらんな自分にもやれることがあるんだ。お金とか名誉とかとは違う役割を貰えた感じ。「先生」と呼ばれるのはどうにかしてもらいたいそうだが、人から「ありがとう」と言われたり、感謝されることって人として大事なことなのではないかと思う。就労支援をしている時、自分みたいな人間だから就労支援の仕事をした方がよいと、丹下さんは思ったという。頑張ってひとつのことをコツコツやり続けられる人が就労支援をするのではなくて、飽き性で転々としていても、どこかに自分のやるべきことや役割、居場所があるよと思い続けて、それを実際に経験している強みがあるからだ。

【福祉という言葉がなくなるのが本当の福祉】
丹下さんの究極の夢は、〈福祉〉という言葉がなくなることだという。福祉の仕事をしている丹下さんにとって〈福祉〉サービスや制度が消えてしまったら、収入の道を断たれるわけだけれど、制度やサービスがなくても困っている人がいたら、ヘルパーさんや施設の職員でなくても助けあえばよいわけで、それこそが本来の〈福祉〉なのではないのかと、丹下さんは思っているのだ。

【大久保的まとめ】
丹下さんに出会ったのは、もう何年も前になるのだろうか。丹下さんがまだ愛光園の「知多地域障害者就業・生活支援センター」の職員をしていらした頃だと思う。確か精神障がい者の就労を考えるセミナーか、それに類した集まりで知りあいの土田正彦さんが講演をし、ギターの弾き語りをしていたと記憶している。それまでは面識はなかったし、それ以降もあまり接点はなかったが、丹下さんの動向は風の噂で耳にしていた。また、NPO法人オリーブさんのアートワークショップ&シンポジウムの会場で、顔をあわせたこともあった。しかし、それほど接点がなかったのも事実で、丹下さんと面と向かってお話したのは、実はジネンカフェのうちあわせで『あさみどりの会』の本部にお伺いした時が初めてだった。耳にしていた動向から、面白い人らしいとは憶測していたのだが…。

丹下さんは、ご自分のことをちゃらんぽらんな人間だとか、いい加減な人間だと言われるが、ご本人が言うほどにいい加減でも、ちゃらんぽらんでもないと思う。むしろ純粋な人間なのだと思う。高校生の時に受けた感銘を忘れず、いままで障がい者福祉に携わって来られた。ご本人は懸命に走ったり、生きている姿に自分を省みていろいろ学ばせて貰ったから、その恩返しのつもりでいままで福祉に携わって来られたのだとおっしゃられていたが、それ自体丹下さんが純粋であることの証であるだろう。たまたま、ひとつのところに落ち着けない。ただそれだけのことなのだ。そのこともつまりは、自分の生理に純粋だということなのであろう。丹下さんはご自分の人生のことを、もう〈余生〉だと考えているのかも知れない。しかし、まだまだ枯れるのは早すぎると思う。まだまだ福祉には、丹下さんのような人が必要だ。そう、ひとにはそれぞれ、その人にしか出来ないことがあり、役割があるのだ。今後とも丹下さんには自分らしくいい加減に、ちゃらんぽらんに頑張って行ってほしいと思っている。


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ジネンカフェVOL.104のご案内

2016-05-17 19:57:05 | Weblog
ジネンカフェVOL.104

日時:6月18日(土)14:00~16:-00
場所:くれよんBOX
ゲスト:浅野 健さん(株式会社都市研究所スペーシア 取締役計画室長)
タイトル:「まちづくり」って何だ?
参加費:500円

ゲストプロフィール:
瀬戸大橋を見たり、高校生の時に仲間と旅行に行ったことを機に建設・まちに興味を持ち、建設系の学科がある名古屋工業大学に入る。大学では戦災復興の都市計画を研究。東京の民間コンサルタント会社を目指すが、学部の卒業時はバブル崩壊の影響が就職に出るようになった最初の年、大学院の修士の時に阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件があってますます就職難となり、縁あって入れたのが今の会社。今や人生の半分は、久屋大通沿の事務所で暮らす毎日。東海三県を対象エリアとして日々まちづくりの仕事を実践中。

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「まちづくり」という言葉を聞いても、建設や都市計画の仕事をしていないと「聞いたことがない」、あるいは「よくわからない」という人が多いと思います。道路、公園、上水、下水、あるいは図書館、公民館、市民・町民会館・ホール、公立学校などの公共公益施設は主に自治体が建設し、都市計画などのまちづくりの制度は国や自治体が決めています。でも、人々の価値観が多様化する中、こうした制度ではいい暮らしができない事態が起きています。例えば、「マンション問題」と言われるように突然住まいの真ん前に高層マンションが建設されて日当たりが悪くなった、公園は変な人が使うようになって安全でなくなったなど。あるいは、近年は地震や水害がよく起きて、その時に頼れる人がいなくて避難所にも行けずに大変な目にあったなど。「まちづくり」は国や自治体任せでなく、自分達の問題として考える必要があります。今回は「まちづくり」をテーマに、みなさんと一緒に考えたいと思います。


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ジネンカフェVOL.103のご案内

2016-04-25 19:00:55 | Weblog
ジネンカフェVOL.103
日時:5月14日(土)14:00~16:00
場所:くれよんBOX
ゲスト:丹下 靖(社会福祉法人あさみどりの会)
タイトル:とりとめもなく語ります、うた、ボランティア、就労・生活支援…。
参加費:500円(お茶代別途)
ゲストプロフィール:
1962(s37)神奈川県横浜市生まれ、小学生で名古屋に来てから引っ越すこと10回以上、現在北名古屋市在住。
高校時代に障がいのある子どもたち、障がいのある方たちの書いた詩(歌)に出会いボランティア活動をはじめたことが「福祉」や障がいのある人と関わりの始まりです。その後、わたぼうしコンサート、大阪・応援センターなどの活動を経て、大学時代はアルバイト、地域の療育活動、福祉コンサート「なないろコンサート」をはじめとして全国各地でのボランティア活動に精を出してきました。
仕事は名古屋手をつなぐ親の会「ちくさ小規模作業所」(現在の若水授産所)、師勝町社会福祉協議会「師勝町心身障害者小規模作業所(現在のセルプしかつ)」、愛光園「知多地域障害者就業・生活支援センター」の立ち上げと運営と地域における就労支援の分野で仕事をしてきました。自分勝手定年をした現在、あさみどりの会法人本部の共同生活援助事業所総合管理責任者として仕事をさせていただいています。
若いころから「パンツを選んでいますか」「(障がいのある人にも)交通事故に合う権利を」とみなさんに話す機会があると言わせていただいています。

コメント:
うた、ボランティア、就労・生活支援の話をごちゃまぜに-さてさて…何の話をしましょうか?-

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ジネンカフェVOL.102レポート

2016-04-19 20:08:29 | Weblog
春4月、これをまとめている現在は、名古屋の桜もあらかた散ってしまい、葉桜になっているが、VOL.102を行った4/2、くれよんBOXさんのお庭の桜は、まだ八分咲き程度であった。今回のゲストは、日本福祉大学非公式サークルきょうだい会のメンバー4名。兄弟姉妹に障がいのあるきょうだいをもつ学生さんたちだ。日本福祉大学にはもうひとつ大きなきょうだい会があるが、そちらとは別にひとりの学生さんが同学年の学生さんに声をかけ、同好会のような形で発足したらしい。現在7名で活動している。主な活動としては、週一度に集まり、お互いのきょうだいについてのことを話し合う機会を作ることや、障がいについての理解を深めてほしいという願いから、啓発活動の一環としてチラシの作成・配布、時には、ゲスト講師を呼び、勉強会を行っているそうだ。お話下さる4名のメンバーさんそれぞれにタイトルはついているのだが、全体のテーマは『きょうだいの気持ち』である。

【私がきょうだいであったからーUくんの場合】
一見「?」マークが点灯しそうなタイトルだが、きょうだいであったからこそ起こり得ることを伝えたい。「障害」というものは、それをもった者にしか解らない。これはきょうだいといえども同じことだが、そこからどんな影響を受けて生きてきたのか。自分の視点だけだが、話したいとの想いでこのようなタイトルをつけたという。

Uくんは三人きょうだいの長男で、お姉さんと妹さんがいる。三歳離れているお姉さんがダウン症だ。三歳離れているため、Uくんが中学に入学したのと同時にお姉さんが卒業していたので、お姉さんがどんな中学校生活を送っていたのか、Uくんには解らない。お姉さんは中学卒業後、養護学校(特別支援学校)の高等部に通い、その後生活介護事業所の運営する作業施設でクッキーを焼いたり、内職のようなことをして働いているそうだ。お姉さんは小学校低学年まで普通学校で同学年のクラスメイトたちと同じ教室に通っていたが、高学年になると特別支援学級のある学校に転校することになった。Uくんがお母さんからお姉さんの障害のことを聞かされたのは、その頃だったという。以前から薄々感じていたことだったが、そうして言葉としてお母さんから聞かされるとやはりショックだった。中学校に入ったお姉さんが通学する姿を見て、ますます他の人との違いが目につくようになったという。

大学に入ったUくんは、いろいろと振り返る機会があり、障がいをもっているお姉さんから自分が受けた影響を考えた。先ずは自分は「いい子」でいなければいけないと思っていた。親に迷惑をかけないように自分の意思を殺して、きょうだいのお世話をする。また進路など自分の将来の選択を迫られた時、福祉関係を選びがちである…ということを文献や、ほかのきょうだいの話の中で解ってきた。これは将来自分がきょうだいのお世話をして行かなければいけないという気持ちの表れであると感じたという。「福祉の道を選んだ理由」を訊かれると、「身近に障がいのある人がいて、昔から興味があった」と答える人が多いのかと思うとか。Uくん自身がそうだった。

Uくんが大学二年生になった時、お姉さんに対する接し方が以前と違ったものになっていることを感じたという。お姉さんを一層〈障がいをもったひと〉として認識するようになった。障害のことを学ぶことにより、お姉さんの可能性を潰してしまっていたのではないかという思いが湧いてきて、お姉さんのために福祉を学ぼうと入った大学が嫌になった。しかし、考え方を変えて「これからは自分のために福祉を学ぼう」と思った時、自分の肩の荷がふと軽くなった気がして、現在では福祉を学ぶことが楽しくなったそうだ。

振り返ってみれば、お姉さんが障がい者でも嫌なことばかりだったわけではない。むしろよかったと思うことの方が多いという。そのひとつとして福祉大に来て、同じ境遇のきょうだいの方たちと出会うことが出来たこと。きょうだい会の存在を知り、自分だけがこんな想いを抱えているのではないということが解り、とても安心した。また、きょうだい会
の人たちと話すことは、自分にとって何か特別なものだと感じたという。自分の話を共感して聞いてくれる仲間がいるということは、これほど大切なことなのだと改めて気づかされた。もう一つは、〈障害〉について一層興味が湧いてきたという。自分のためにと思い学んでいると自然と楽しくなってくるもので、いまではゼミも障害の分野を選び、学びを深めている。ひとの成長にはそれぞれのプロセスがあるが、障がいのあるきょうだいをもつと共通したものを思い、自分なりの答えを出してプロセスを完成してゆくものなのだなとUくんは感じている。以下はUくんが参考にした文献である。関心のある方はお読みになって下さい。

吉川かおり 発達障害のある子どものきょうだいたちー大人へのステップと支援―生活書院 2008年
白鳥めぐみ、諏方智広、本間尚史  きょうだいー障害のある家族との道のりー 中央法規 2010年
1994年 きょうだいは親になれない…けれど ぶどう社 編者「全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会」
2010年 重症児のきょうだい ねえ、きいて…私たちの声 かもかわ出版 家森百合子 大島圭介 全国重症心身障害児(者)を守る近畿ブロック

【きょうだいと家族問題―Iさんの場合】
Iさんのきょうだいは、23歳になるお兄さんである。自閉症と知的障害をもっていて、区分はA判定になっている。三歳の頃に障害が発覚し、通っていた保育園から「障がい児を受け持つことは出来ないから」と言われ、別の保育園に移ったそうだ。小学校から高校まで特別支援学校に在籍した。現在では地元の事業団が運営する生活介護施設で日々を過ごしている。趣味は多く、ビデオ・DVD・音楽鑑賞は毎日欠かさずにしていて、レンタルビデオ店にも週に一度の割で通っているそうだ。カラオケも録音したいぐらいにうまいという。ただ、大人数では歌えないので、合唱は苦手だ。そこは自閉症の特性が出ているかなとIさんはみている。ドライブも好きでお母さんに運転してもらい、夜に行っている。行き先はどこでもよいらしく、車窓を流れる景色を眺めることが好きみたいだという。

Iさんの家の家族構成は、祖父母・父母・お兄さん・Iさんの6人家族。Iさんのお母さんは特別支援学校の元教師で、障害についての理解はもともとあった。お兄さんが小学校にあがるまで教師を続けていたそうだが、小学校にあがったお兄さんの介助をするために退職し、現在は主婦をしながら地元の手をつなぐ育成会の役員をされている。お父さんは高校教師で、家にいるお兄さんには話しかけたりしているそうだが、基本的に仕事人間で家にいないことが多いのだそうだ。祖父母はお兄さんが小学生の頃は介助してくれていたが、現在は高齢ということもあって体力的な面でお兄さんの介助をすることが難しい状況にあり、障害の理解も他の家族に比べて少しギャップがある。そのような家族の中、Iさんは大学に通いながらも、お母さんのサポート役としてお兄さんの側にいることが多いそうだ。日本福祉大学で福祉を学びたいと思ったのも、お兄さんのことがあったからだという。

Iさん家族はこれまで相談援助のヘルパーサービスを利用して来なかった。なぜ利用して来なかったかというと、お兄さんの障害である自閉症特有のこだわり行動が強く、例えば「トイレットペーパーを使いすぎる」ことや「歯磨きの際に歯磨き粉を使いすぎ、水を含んで口内を洗浄するときに勢いよく水を吐き出す」ことなどがあり、行為をすること自体は止めずに、やり過ぎない程度に、配慮・注意をしている。また家を勝手に出ることはないものの、最近では一人で勝手に行動することが多く、外出先のスーパー等で自分の用事が済んだらさっさと車に戻ることが多くなり、人が多いイベントではぐれてしまって警察に捜索願を出すこともあった。今ではGPS機能を使うときもあるそうだ。ヘルパーサービスを利用していないということもあり、家族以外で兄のことを頼めるとしたら、母の妹(I
さんの叔母)にしか頼めないという。

現在日常的なお兄さんの介助は気が抜けない状態なので、お兄さんのストレスにならない程度にお母さんかIさんのどちらかが必ず側にいることにしているという。トイレや入浴介助、外出時の付き添いもふたりのうちのどちらかがしている。祖父母の役割としては、非常時(お母さんもIさんもいない時)の介助を出来る範囲でしてくれているという。お兄さんは片言ながら言葉を話して自分の意思を主張出来るので、そこから意図を読み取ってお菓子を与えたり、食事をさせたりしてくれているそうだ。また、お兄さんにとって自分の要求が一番通りやすい人たちだと認識しているらしく、何かをおねだりする時にはすぐ側にお母さんやIさんがいても、お祖母ちゃんやお祖父ちゃんのところへ頼みに行くとか…。

こうした家族の協力の下、お兄さんの日常は恙なく保たれているわけだが、前述したように家族間におけるお兄さんの障害に対する理解度の差によって家族間の関係悪化が起きてきているという。また祖父母そうだが、両親亡き後の問題も当然考えなければならない。そうなるとお兄さんのことが一気にIさんにのし掛かってくることになる。Iさんは、それを苦ではないと思いたいけれど、将来ひとりで抱え込んで万が一虐待に繋がってしまいそうで怖いというのだ。その解決策として現在考えられるのは、同じ境遇の人たちを見つけてお互いの現状を話しあうことでピア・カウンセリングになるということと、ヘルパーサービスを受けて自分自身が余裕を持つことができるようになるのではないかと考えているが、これだけではまだ不足している部分もあるので、今後の生活環境の変化に伴って考えて行きたいと思っているという。

現在大学4年生になったIさんだが、就職活動を始め、周りの環境も少しづつ変化してゆく中で思っていることがある。大学に通わせてもらい、きょうだい会の仲間とも出会うことが出来た。そこから当事者側の視点と、支援者側の視点を考えることが出来るようになれた。これから起きる問題のことも考えながら、互いに支えあえる関係性を築き、自分が家族にしてもらった分、家族の支えになりたいと考えているという。

【同じ社会で生きたいーOさんの場合】
Oさんの弟さんは現在18歳。この4月から福祉事業所が運営している『流大学』に通うことになった。ダウン症と聴覚障害をもっている。小学生の頃はOさんと同じ小学校の特別支援学級に通っていたが、中学校から特別支援学校に通うようになった。弟さんが特別支援学校に入学した時、Oさんは高校一年生だったが、〈自分とは別の世界に行ってしまった…〉と感じたという。Oさんが感じたその〈別の世界〉とは、障害のある人だけがいる〈福祉〉という世界のことだ。

Oさんにとって弟さんは確かに日本語も話せないし、他の子と比べると出来ないことが多いけれど、それが当たり前で特に障がい者と思ったことはなかった。けれと、突然特別支援学校という障害のある子どもが通う学校に行くようになり、どんどん弟さんが障がい者になって行くように感じたという。そういうこともあり、Oさんは弟さんの特別支援学校の行事に行くことが出来なかった。そうすることによって、弟さんのことをますます障がい者と認識するようになり、出来ないことばかりに目が行くようになって「自分がやってあげなきゃ」とか「将来わたしが介助して行かなきゃ」という意識が芽生えてきたそうだ。

Oさんが日本福祉大学を受験したのも、弟さんを取り戻したい。弟さんと同じ世界で生きて行くにはどうすればよいのかと考えた結果だった。しかし、大学生活や友だちとのやりとりから違和感を感じることがあったという。Oさんは友だちによく自分の弟さんの話をするそうだが、そんな時に友だちは「えっ、ダウン症? かわいいね」とか、「毎日楽しそうじゃん」という反応が返って来るのだとか。それは自分の弟をひとりの人間である前に、障がい者であり、ダウン症だという認識されているのだと感じてとても悔しかったそうだ。また、大学の講義で「福祉のこころ」を学び、どんな人でも自分らしい暮らしが出来るよう、福祉のこころを持って接して行きましょう…みたいなことが云われていたのだが、それにもOさんは〈福祉のこころを持った人しか弟は接してくれないのか?〉と思ったという。弟はいつまでも保護の対象で、何も出来ない障がい者という存在なのだなと悔しかったのだ。

弟さんを取り戻そうと思って大学で福祉を学んできたが、それが負担に感じる時期もあった。その頃インターネットなどでダウン症の方の平均寿命を勝手に調べて、その結果50歳と出た。その時Oさんは平均寿命の短さを嘆くのではなく、ホッとしたのだという。弟が50歳ならば自分は53歳、看取れるかと思ってホッとしたのだという。弟さんを取り戻そうとする気持ちが重くなって、弟さんの存在自体も負担に感じられるようになってきた。そうすると当然弟さんとの関係も悪くなって、家でもケンカばかりするようになったという。

そんな時に大学からスウェーデン研修に行ける機会があり、自分を見つめ直す良いチャンスだと思って参加することにしたのだ。そこでスウェーデンの就労支援について知ることになった。スウェーデンでは国から補助金(日本の障害基礎年金のことか?)は貰え、平均的な水準の生活は送れるけれど、それにプラスして就労も促進している。それというのもスウェーデンでは〈働く〉という意味が〈自己発達の場のリハビリ〉であったり、〈社会的役割〉として位置づけられているからだ。重度の障がい者はリハビリがその人の仕事であり、社会的役割でもあるという捉え方である。Oさんはその考え方に感激し、共感を覚えた。これこそ共生社会だし、自分の弟も取り戻すことが出来ると思ったという。

しかし、実習で日本の就労の現場を見たOさんは、スウェーデンとの施策の違いに愕然とした。日本の大半の障がい者の就労は福祉就労と言われ、障がい者は健常者に比べて能力が低いから、労働時間も短くし、賃金も安くても構わないというあり方で、〈働く〉という意味あいよりも日中看る人がいないから安全安心を図るために集めておこうという〈居場所〉的な意味あいの方が強くて、これでは社会の中で役割もないし、保護の対象のままではないかと感じている。「働く」には「カセギ」「ツトメ」の2つの要素がある(寺島実郎 2013年 『なんのために働くのか』文春新書)のであるから、一般就労や物事などを生産することだけが〈働く〉ということではない。社会をよりよくしていくための活動・運動もその中に入ると思う。障害がある人も社会の中にその人だからこそ出来る役割があり、そうしてお互いの立場から出来ることをして、支えあって行くことが共生社会ではないかと思っている。そう考えると就労支援とは、障害のある人の社会的役割を探し出したり、創り出すことではないかとOさんは考えている。

Oさんは今後、社会と障がいのある人を媒介する〈通訳者〉になりたいと思っているという。現在の福祉は障がい者と健常者を区別して、障がい者が社会から隔離されているように感じるというのだ。障がいがあっても同じ社会で生きて行けるように、社会と障がい者とを媒介する通訳者になりたいと考えていると言い、このような通訳者が増えることによって、障がい者が活躍出来る場や生活範囲が拡がって行くのではないかと考えている。弟さんにしても家族や福祉施設に守られる存在ではない。一緒に寄り添う福祉職員がプロとして通訳者になり、支援することでその能力を引き出すことが出来るのではないかと思っている。そう考えると福祉の仕事は凄いなと思うし、誰にでも出来る仕事ではないとも思うという。

きょうだいの悩みは親にも友だちにも言えないことが多い。Oさん自身も弟さんの将来についてひとりで抱え込んで、その重さに耐えきれなくなって大好きだった弟さんとの関係も悪くなった。環境を変えようと思ってスウェーデンへ研修に行ったり、ひとり暮らしを始めた。そうして弟さんと距離を置くことによって、弟さんの成長もみることが出来たし、きょうだい会でいろいろな人たちと話しをすることでとても救われたという。最近になってやっと自分には自分の人生があり、弟には弟の人生があると解りかけてきたものの、現在就職活動をしている中で一般職に行こうか、福祉職にしようか。一般職にしたとしても地域別にしようか、全国にしようか悩むところがある。その悩みも親には言えないところもあり、弟さんの将来のこともあるし、良い機会だからこの日もお母さんに来てもらおうかと思っていたが、なかなか言い出せず次の機会に来てもらおうかなと思っているそうだ。

これからは弟さんが弟さんらしい生活が送れる環境を整えてゆくことが、きょうだいに出来ることかなと思っているので、距離をまたいい感じで取りながら、そのような支援をして行きたいと、Oさんは思っている。

【きょうだいとしてできることーCさんの場合】
Cさんの弟さんは三人きょうだいの末っ子で、障がいは自閉症である。先日中学校を卒業したばかりの15歳。小学生の頃、はじめのうちは同級生と一緒に授業を受けていたが、授業の理解度により通級(普通クラスに在籍しながら、授業によって特別教室、または別の学校で指導を受ける措置)による指導を受け始め、最終的には特別支援学級ですべての授業を受けるようになった。高学年になってみんなが同じクラスで授業を受けているのに、自分だけ違うクラスで勉強していることに弟さんは疑問を持ち始めた。このときから周囲の人たちと自分は違いがあると気づき始めたようだったという。

Cさん自身は小学生の頃は〈障害〉について解ってなく、弟さんのことも友人に話せていたそうだ。しかし、中学生の時に弟さんのことで同級生から揶揄されることが多々あり、それが嫌で弟さんの話を避けるようになってしまった。弟さんが周囲から理解されない行動を取るのは障害のせいだと思い、障害に対して否定的な感情を持ち始めたのもこの頃だったそうだ。Cさんが高校生だった頃、出生前診断に関するニュースが取り上げられていた時期で、Cさんも友人と「自分が宿した生命が障がい者だったらどうする?」という話をしたことがある。友人はインターネットの某掲示板でみた障がい児とその親のコピペの話をして、絶対に障がい児を生まないと言っていた。そのコピペの内容はとてもひどい内容で、障がい児が身近にいるCさんにとっては、実際とは違うと思ったという。実際に関わった経験もないのに真偽不明の情報からネガティブなイメージを持たれてしまっていることがショックだった。弟さんのことを思い浮かべてよいところもいっぱいあるのに…と思って悲しくもなった。本当は弟さんのことが大好きだったのに、周囲に隠すようにしてしまい、自分はなんてひどいことをしているのだと、このとき思ったという。よいところもたくさん知っているのに、当時は〈弟〉としてではなく、〈障がい〉の部分が大きく見えていたのかも知れないと、Cさんはいう。弟さんのよいところ、思い出を思い浮かべながら、きょうだいの障がいについてその友人に打ち明けた。Cさんが弟さんの障がいのことを友人に話したのは、このときが初めてだったという。

中学校に入学した弟さんは、当初から特別支援学級に通っていたが、通常学級の友人たちと一緒に〈テニス部〉の活動を励んでいたそうだ。三年生になると高校進学を目指して勉強も頑張っていた。普通、特別支援学級の生徒は、通常学級の生徒とテストを受けることはない。しかし、弟さんは「マッサージ師」という自分の将来の夢を叶えるため、高校進学に向けて通常学級の生徒たちとテストを受けたりもしていた。

Cさんは大学に進学したことにより、弟さんとは別の土地で生活することになった。それがきっかけになり、身近にいた弟さんを離れた距離で見ることが出来るようになったという。弟さんが持っていたたくさんの能力や、その変化にも気づかされた。中学校生活で勉強や部活などいつも一生懸命に頑張って生きている弟さんをとても誇りに思っているそうだ。

弟さんはやると決めたことは最後までやりきる努力家だが、高校進学に向けて頑張っている途中で問題が発生した。高校進学をめぐり、両親の意見が対立しているのをCさんは何度も目撃したのである。お父さんは「普通高校に入っても、将来あの子が就職できるのか?」と言えば、お母さんは「あの子の夢を叶えるためには、普通高校に行くのが近道なの」と主張し、「これだけ頑張っているのだから、支援学校ではなく普通高校へ進学させたい。出来る筈だ」とも言っていたという。

Cさんはお母さんの主張を聞きながら、お母さんは弟のことももちろん考えてはいるだろうけれど、普通高校に行かせることに理想もあるのでは…という印象をもったという。お母さんがなぜそんな理想を抱くようになったのか? Cさんは自分なりに分析してみた。Cさん一家の場合、仕事の関係もあり学校と連絡を取るのはお母さんだった。お父さんはCさんたち子どもとはたくさん関わってくれているが、対外的な情報を得ていたのはお母さんだったと思うという。それゆえにお母さんは、息子を一番理解しているのは自分だと思っていたのかも知れない…。また、Cさんの地元では福祉が充実してなく、相談出来る機関もないことも原因にあったのではないかという。頼れるところがないため、お母さんはひとりで悩むことも多かったのではないかと思う。障がいがあっても普通高校に入学したということは、育て方が間違っていなかったという証明のような意味もあったのかも知れないと、Cさんは感じた。

進学先の高校は、弟さんが最終決定をしたそうだ。しかし、それには学校やお母さんからの進めも少なからずあったのではないかと、Cさんは推測している。Cさんは大学に進学してたまにしか弟さんと会えなくなったことから、地元へ帰省する度その成長に驚かされるそうだが、いつも一緒にいるお父さんやお母さんはその変化に気づけないこともあるかという。それにより弟さんの行動を判断するのも親になってしまうところもあるのではないかとも懸念している。弟さんの能力ならできることがあっても、大事にしているからこそ親としては自分たちが代わりにやってしまう。その根底には弟さんの成長を認め切れていない親心もあるのではないかとCさんは分析しているのだ。

しかし、それはCさんの家庭のみならず、ほかの障がい児がいる家でもみられる光景である。Cさんはお話の最後に〈いままでは両親がたくさん悩みながら子育てをしてきた。様々な場面で親が抱え込んでしまうことも多かったかも知れない〉と、両親の置かれた立場や想いを慮り、〈以前は弟さんの障がいに対しネガティブな考えを持っていた〉自分だが、いまではきょうだいだからこそできる関わり方があると思っている。それは親には不可能な自分なりのやり方で、弟さんや両親を支えながら生きてゆききたい…と結ばれた。

【大久保的まとめ】
今回のジネンカフェは、実に画期的で社会的意義のある集いだったのではないかと自負している。『障がいのある子どもの父母のネットワーク愛知』等々の先行事例はあるものの、障がいのある兄弟姉妹をもつきょうだいの気持ちを直接聞く機会はあまりにも乏しい。それは企画する側の問題なのだろうか? それとも発信者(障がい児・者をもつ家族)側の問題なのだろうか? 私はそのどちらの問題でもあるし、また一家族、一個人に帰することのない、社会的な問題であろうとも思っている。今回の企画は以前から温めていたものだが、私自身障がい当事者であるにも関わらず、障がいのある兄弟姉妹をもつきょうだいと出会う機会がなく、たまたま今回ひょんなことから出会った学生さんが〈こんな活動をしているんですよ〉と話してくれたのがきっかけになり、「それじゃ、ジネンカフェという集いできょうだいの気持ちを話してみない?」ということになったのだ。そして今回これもたまたまいろいろな立場の人が参加して下さり、ゲストとしてお話下さった学生さんたちにとっても、自分や家族のことを見直す良い機会になったのではないだろうか。ひとは誰もが自分らしく生きる権利を持っている。それは障がい児・者も、その家族も同等なのだ。家族であるがゆえに、兄弟姉妹であるがゆえに、自分の意思や気持ちを抑えて「いい子」でいなければいけなかったり、両親からの過度な期待を一身に受け、それが障がいのある兄弟姉妹をもった自分の宿命だ…みたいに思い込み、自分らしい生き方が考えられなくなってしまう。福祉サービスの地域格差もあるとは思うし、その家庭にはそれなりの事情があるだろうが、自分の将来のことも大切に考えてもらいたいと思っている。お話下さった4名の学生さんを筆頭に、全国の障がいのある兄弟姉妹をもったきょうだいやそのご家族が、自分らしく生きられるように、それを地域社会が支えてゆける、そんな社会に変革させて行かねばならないと思っている。
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ジネンカフェVOL.101レポート

2016-04-03 11:51:37 | Weblog
VOL.101のゲストは、名古屋市社会福祉協議会認知症連携担当の染野徳一さん。染野さんは福岡県のご出身。もともと地元でボーイスカウトの活動をされていて、福祉の仕事に就きたいと思っていたそうだが、染野さんが大学受験をされる頃、九州では福祉を学べる大学が少なく、日本福祉大学を受験して合格した。大学卒業後に地元へ帰ろうかとも考えたのだが、現在も昔も九州は全体的に景気が悪く、そのまま名古屋に残って名古屋市社会福祉協議会に就職した。福祉の仕事といってもいろいろあり、学生時代から福祉施設でのボランティアとか、実習も経験したこともあったが、染野さんは地域の中でみんなが安心し、楽しみながら暮らして行けるお手伝いが出来るといいなという思いから、社会福祉協議会の仕事を選ばれたという。区社協で地域の高齢者の方と仕事をしたり、名古屋市社会福祉協議会ボランティアセンターでは3.11の被災者支援をしたり、現在の認知症のことも地域の人たちと関われる仕事をさせてもらっているので嬉しく思っているという。お話のタイトルは『認知症、いっしょに知って、学んで、考えよう』

【認知症は誤解されている】
テレビの健康番組などでもよく取り上げられている認知症だが、まだまだ世の中に誤解されている点が多いのではないかと、染野さんはいう。先ず一点目は〈認知症って何か特別な病気〉だと思われている点だ。データーでみると全国の高齢者の中で認知症の方が462万人もいて、10年後には700万人になると云われている。それに加えてMCI(軽度認知障害・物忘れがあったり、物事を理解することが難しくなったりして、少し生活に支障がある程度の状態の方)が400万人いるのだ。その400万人を単純に700万人と足してみると1,100万人にもなる。この数字は日本の人口の1割に相当するそうで、そうなって来ると認知症というのは誰か特別な人がなるのではなくて、誰もがなるかも知れないし、誰もが関わりをもつことになるかも知れない症状とも言えるのだ。一人暮らしの高齢者の方もいるが、介護する家族等々を含めると、1,000万人が2,000万人にもなる…。10年後にはそのような状況になると予測されているとか。

【認知症になったからといっても…。】
先頃行われた内閣府の調査による「認知症になったら、地域で住み続けたいか、施設に入所したいか」およそ半々だったらしい。その中でも「認知症になったら地域で生活してゆけない」と考えている人が40%もいるということだ。認知症に対する不安の中でも「いままで自分がしてきたことが出来なくなってしまうのではないか?」と思っている方が半分ほど。それ以上に不安に思っていることが「家族に身体的、精神的な負担をかけるのではないか?」と思っている方が75%もいる。〈自分のこと〉よりも〈他者のこと〉を気にかける方が多いという数字が出ている。日本人らしいといえば言えるのだが、これはあまり好ましい状況ではない。確かに出来ないことが多くなるかも知れないけれど、認知症になったからといってすべて誰かに負担をかけながら生きてゆくわけではない。認知症によって受ける障害は脳の中の一部分、物忘れがあっても周囲の人々が理解してくれて「まあ、良いんじゃない」と思って、自分でもそう思えたり、忘れたことを誰かが「あれ、忘れているんじゃないの?」と教えてくれれば、全然問題なく普通に生活してゆけるのだ。

【認知症になっても地域で生活している人たち】
実際に認知症と診断されながらも、発症前とは多少異なるが、それほど変化はない生活を送っている人たちがいる。テレビ東京の『ガイアの夜明け』とか、NHKのドキュメンタリー番組などにも出演しているトヨタ系のディーラーの丹野さんの場合、39歳で認知症を発症された。現在42歳で中学生と高校生のお子さんがひとりずついらっしゃる。39歳の時に人の顔が憶えにくくなったり、自分がしたことを忘れてしまったりする中で、気づいて受診したら認知症だという診断が下されたのだ。しかし、いつも朗らかに微笑みながら生活されている。現在65歳の中村しげさんは56歳の時に認知症と診断された。公務員をされていたが、ある時、無意識のうちにお店のものを持って行ってしまったという。表面的にみれば万引き行為なので公務員を解雇されそうになったのだが、それは前頭側頭型認知症の症状のせいだということがわかって罪には問われずに復職され、退職をされた。現在は日本全国を趣味のカメラをもって旅をされているそうで、撮った写真を見せながら講演活動で活躍されているという。現在55歳の青山さんは若年性認知症。仕事をされたいという意欲が強い方で、子どもと車に関わる仕事をされたいという希望もあり、認知症の方々が働きに来られるディ・サービスで近くの自動車屋さんの車の洗車をする仕事をされていたり、名古屋市でいうトワイライトみたいに学校の放課後に子どもたちと遊ぶ活動もされているそうだ。

【周囲の人々の理解とサポートがあれば…】
丹野さんの場合、社長さんの顔も忘れてしまうらしい。社長が来て話かげても丹野さんはわからないので、あとで周りの人に「あの人、誰?」と尋ね、周りの人たちも面倒臭がらずに「社長だわ」と教えている。そういうことを繰り返しているので、丹野さんは支障もなく生活していられるのだ。社長さんも丹野さんのことを理解されているので、そのことで咎めることはないそうだ。丹野さんも忘れ物をしないように二冊のノートをつけているとか。日々の記録と、やるべき仕事の手順を書いたものと。それを毎日確認するという作業をしながら仕事をされているのだ。中村さんの場合も全国を旅する時にはパートナーさんがいらっしゃり、その方と一緒に旅をされておられるという。このように例え認知症になったとしても、周りの人たちの理解とサポートがあれば、この方たちのように生き生きと生活してゆけるのだ。

【認知症は物忘れだけではない】
とはいうものの、本人の症状を理解することも必要だけれど、認知症にはいろいろな症状が現れるので〈物忘れ〉だけが認知症の症状ではないということを知っておいてほしいと、染野さんは思っている。認知症の症状として物忘れの他に、見当識障害や失行が特徴として挙げられる。見当識障害というのは、症状の進行に伴い、先ずは〈時間〉の見当がつかなくなり、場所の見当がつかなくなり、症状の進行すると人の顔が解らなくなることをいう。もっと進行すると家族の顔さえ解らなくなってくる。また記憶は新しいものから順に忘れてしまうので、例えば80歳の方が40年分の記憶が曖昧になると、自分は40歳だと思ってしまう。自分は40歳なのに旦那さんが80歳だと、それが自分の旦那さんだと思えないわけだ。しかし、その症状はずっとあるわけでもなく、その時の脳の状態によって出てくるのだ。失行というのは、行為とか行動とかがどうしてよいのか一瞬出て来ず、フリーズしてしまうことをいう。トイレでの用の足し方がわからない、洋服の着方がわからない、ご飯の食べ方がわからない等々がこれにあたる。

【認知症の原因となる疾患―アルツハイマー型】
認知症は必ず原因となる疾患がある。有名なのはアルツハイマー型だけれど、老人斑や神経原繊維変化が海馬を中心に脳の広範囲に出現し、神経細胞を死滅させて行く病気で、海馬を中心に脳の萎縮がみられるという。この疾患が原因の場合は〈物忘れ〉が顕著に出てくる。次に出てくるのが〈物盗られ妄想〉。これはモノがなくなったことを、誰かが盗ったのではないかと思ってしまう症状。これも基本は〈物忘れ〉から始まるという。例えば大事なものを机やタンスの引き出しに入れたとする。でも〈物忘れ〉がある場合、引き出しに入れたことを忘れてしまったら、ここに置いてあったものがなくなってしまったのだから、誰かが盗ったのではないかという発想になる。その時に関係がうまくいってない人が身近にいた場合に、「あの人が盗ったのかも?」という妄想に繋がってゆく。それは誰かが持って行ってしまったという疑惑よりも、自分がここに置いた筈のモノがなくなってしまったという不安の方が強いのだという。それが何回も起こると更に不安な気持ちになり、疑いたくなくても誰かを疑いたくなるのだ。そういう〈物忘れ〉が中心に起こって来るのがアルツハイマー型の認知症の特徴。

【レビー小体型認知症】
レビー小体という特殊なものが出来ることにより、脳の神経細胞が死滅してゆくのがレビー小体型認知症。はっきりした脳の萎縮はみられないが、パーキンソン病などから引き起こることが多く、よって物忘れは目立たない。しかしながら他の人には見えないものが見えたり、自律神経が少し弱くなってくるので一日のうちで気分の波があったり、血糖や血圧が不安定になるので気分が悪くなりやすく、うつ症状も出てくるのがこの型。アルツハイマー型は記憶を司る海馬が障害を受けるのだが、レビー小体型は後頭部の見たものを判断する部分が障害を受けるので幻視などがみえて来るというわけだ。

【三つの点が顔に見える】
ただでさえ人の脳の認識機能はファジーなところがあり、どこかに三つの点があるとそれを人の顔のように見せる錯視を起こさせるが、レビー小体型認知症になるとそれがより顕著に現れて来るのだ。カーテンなどの波打っているところも顔にみえ、そこに人がいると錯覚してしまう。最近は認知症の2割ほどの方がこの型で、増えて来ているという。しかしこれが正しく診断されないままに、アルツハイマー型だと診断されて対応されている方々もいる。レビー小体型認知症の方々は自律神経が弱く、薬に過剰反応を起こしやすくなるため、誤った処方されてしまうと、それによって気分が落ち込み、動けなくなることもある。だから認知症の診断は、専門医のいる病院で正確に受けてもらうことが大事だという。

【血管性認知症】
脳梗塞や脳出血などが原因で、脳の血液循環が悪くなり一部が壊死することから起こって来る認知症。まだら認知症とも呼ばれていて、〈物忘れ〉の他にも手足の麻痺、感情のコントロールがうまくいかないなどが特徴として挙げられる。脳梗塞を発症するごとに状態が進行してゆく。

【認知症の型によってサポートの仕方も異なって来る?】
一概に認知症といってもこういった三つの型があり、それぞれ出現する症状も異なって来る。それを知っておくことは、サポートする上で大切なことだという。例えばレビー小体 型認知症の場合、物忘れはなく、パーキンソン症状が出ていて、歩く時に転倒しやすくなっているなら、気分がよい時の外出の際に歩行をサポートしてあげるとか、関わり方も違って来るので、これもぜひ知っておいてもらいたいと染野さんはいう。

【徘徊という言葉】
3月1日の夜からニュースなどである裁判の判決が報道されていた中で、〈徘徊〉という言葉が頻繁に出てきたが、〈徘徊〉って厳しい言葉だと染野さんは思っている。〈徘徊〉を辞書で調べてみると、「当てもなくさまよい歩く」とあるが、認知症の方の徘徊はそのような状態ではない。それも誤解されていることのひとつだという。現在いる場所がどこなのかわからないため、行きたいところに辿り着けないということはある。以前していたことや人が曖昧になってしまうと、その人がそこにいるのではないかと思って探しに行ったりとか、実際にはその人が横にいても過去の記憶と混乱して別のところにいるのではないかと思ってしまったり、もう済んでいる予定をまだしてなかったと思い込み、やりに行こうとして出かけるのだけれど場所がわからなかったり、予定が済んでしまっているので目的の人がいなかったりすると、その場所に行っても目的が果たせないわけで…。例えば子どもをもつ親であれば、子どものために外出先から早く帰らなければと思って家に帰る。しかし、実際にはその日子どもはお祖母ちゃんの家に泊まりに行っていていない。記憶に障害をもっている人はそこが曖昧になっているので、家に帰っても子どもがいないとなると、親なら探しにゆくのが当然の行動。そして探しているうちにそこがどこなのか解らなくなってしまったりすることもある。それをもって〈徘徊〉と言われてしまうのは、なんだか違うような気がすると染野さんはいうのだ。確かに目的があるのなら、それは「当てもなくさまよい歩く」こととはほど遠い行動だろう。そうなのだ。徘徊している人にはその人なりの理由が、目的があるのだ。ただそれがその人以外にわかっていないだけのことなのだ。

【徘徊のもうひとつの理由】
認知症による徘徊には、もうひとつの理由があるという。その場の居心地が悪い場合、そこに居たくなくて出かけてしまう場合もある。人と一緒に居たくない気分の時に、無理矢理人の輪の中に入れられると気分も悪いし、話したくもないからどこかに行きたいなと思ってしまうこともあるだろう。それを伝えられればよいのだが、伝えられなくて外に出かけて行って場所が解らなかったり、時間が解らなかったり、エピソード的な記憶が曖昧になっていると道に迷ってしまう状況になるのだ。

【闇雲に否定せずに声を掛ける…】
前述したように徘徊する人たちは、ただ無目的に歩きまわっているわけではない。何らかの目的があるのに、その目的が果たせないまま混乱して歩きまわっている状況にあるのだ。そういう状況にある人に、現在の状況を否定しても本人は納得出来ないだろう。子どもがいるから早く帰らなければ…と思い込んでいる人に、「今日あなたのお子さんはお祖母さんの家に泊まりに行って留守だから、早く帰らなくてもよいのですよ」と言っても、本人はなかなか納得出来るものではない。そこら辺は難しいところなのだが、それを理解した上で徘徊している人に声を掛けて下さるとよいかなと、染野さんはいう。

【今後認知症の方を介護する中で考えて行かなければならないこと】
その徘徊中の認知症の方が起こした鉄道事故を巡って最近報道されていたのは、鉄道会社がその方を介護されている奥さんと息子さんに損害賠償を請求した事案の裁判で、鉄道会社から奥さんと息子さんに対して720万円の賠償請求があり、第一審では息子さんには責任はないとの判断で奥さんだけに360万円の賠償が求められた。今回3/1の最高裁では奥さんも見守ることが難しかったのではないかということで、鉄道会社からの賠償請求は退けられる判決が出されたのだ。それというのもこの奥さんも〈要介護1〉という状態で、〈要介護4〉の旦那さんの介護をしていたという現状があり、そのような判決が出たのではないかと云われている。しかし、これはケースバイケースで、今回はこのような判決が出されたけれど、健康な人が介護をしていた場合にこういうケースが起きてしまったら、やはり賠償請求がされてしまうかも知れない。だから今回のケースはよかったが、ほかの状況で介護をされているご家族には手放しでは喜べないところもある。しかしご本人さんも出かけたいという気持ちがあって出かけて行くわけで、外出先で事故に遭ってしまうことは認知症の方に限らずあるわけで、そこをどういう風に考えて行けばよいか? 今回は相手が大きな企業だった最高裁の判決に従って賠償金を請求することを諦めた形だが、これが個人と個人だった場合にどうなるのだろうなという思いもある。今後認知症の方を介護したり、関わって行く中で考えられて行かなければいけないことで、社会的な救済措置も講じて行かねばならない問題だろうという。世の中の流れとしては認知症の方を家の中に閉じ込めておくのではなく、ご本人も、介護されているご家族も、安心して出かけられるためのシステムを作って行こう…ということになってきているようだ。

【介護する家族の気持ち】
認知症の方を介護するご家族も、自分の親や身近な人に物忘れがあったりしても、なかなか受け入れられないところがある。特に家族の場合はその傾向が強く、〈昔のお母さんなら出来たから、きっと言えば出来る筈だよな〉と思ってしまう。それが病気のためにそうなったのであれば、病気の受け入れや、これからの生活をどうしてゆくか考えて行かねばならないので、染野さんたちもお話を聴きながら支援されているそうだ。認知症に限らずいきなり現実を突きつけられて、それをすんなりと受け入れられる家族も少ないと思うので、ご家族の立場に立った支援を心がけている。中にはなかなかSOSが発信出来なくて、〈どうして自分だけがこんなことをしなければいけないんだろう…〉と思いながら介護される時期もあるのではないかという。

【病気を受容する上でのプロセス】
認知症に限らず癌や障害や突然の身内の不幸など、受け容れがたい現実を受容する上における心理ステップには5段階のプロセスがある。先ずは〈ショック期〉目の前の現実にショックを受けて、茫然自失になる。続いて〈否定期〉。これは何かの間違えだ! こんな筈はない! とばかりに現実を否定する。〈混乱期〉目の前の現実を否認できない事実と受け止めて、怒りや悲しみで心がいっぱいになり、激しく落ち込む。次に〈解決への努力期〉。感情的になったり、落ち込んでいても何も変わらないと知り、前向きな解決に向かって努力しようとする。そして最後に〈受容期〉が来る。価値観が変わり、現実を積極的に受け容れて前向きに生きようとする時期だ。染野さんたちが関わることになるのはご本人、若しくは介護しておられる方からの連絡を受けてということになるのだが、SOSは〈混乱期〉の早い段階で出していただけるように、周りの人たちが声掛けをして行くということも大事だという。〈混乱期〉が長引くと、ご家族も大変なので、ご本人が〈混乱期〉を早く抜けられるように、若しくは少しは気持ちが落ち着かれたりするような支援をしていかないといけない。そのために介護されておられる家族の方も、早めのSOSを出していけるよう、いろいろな機関の情報を知っておいてもらえれば…と思っているという。

【認知症の方のご家族のサポートは…】
染野さんたちが支援されておられる中で、やはり家族の方がなかなか受け入れられなくて、頑張った挙げ句発症から二、三年経って「もう無理になったから…」と相談にみえる方々が多いとか。認知症というのは少しずつ出来ないことや、サポートされることが増えて来る病気なので、早めに相談して対応していかないと余裕が段々なくなってきてしまうのだ。そういう状況もあり、認知症の受容の問題はご家族だけではなかなか解決出来ないので、周りの人たちがサポートしてもらえるとありがたいし、ご本人と同じようにご家族の方を周りの方がサポートしてゆくことが大事だと云われているそうだ。

【とにもかくにも早めの受診や対応を】
認知症は前述した三つの病気以外にも、原因として疑われる病気がいろいろとある。頭を打って血液が脳内に溜まってしまう病気や、水が溜まってしまうこともある。しかし、そういう病気は治療すれば改善される場合もあるという。ニュースなどで言われている〈治る認知症もありますよ〉と言われているのがこのことで、これは緊急に受診しなければいけないので、何か気になることがあれば早めに受診して治療してゆくことが効果的であり、それに加えて生活のしづらさに対する対応と、周りの人たちのサポートがあれば状態は
落ち着いて来るので、そういう意味でも早めの受診、対応をお勧めしたいとのことだ。

【家庭内でも自分のことは伝えておく】
それと同時に歳を重ねるごとに、家庭内で家族ひとりひとりの情報や意思を共有しておくことが必要だと染野さんはいう。〈通帳はどこにあるのか?〉とか、〈将来どうしたいのか?〉とか、〈どんなものが好きで、どんなものが苦手なのか?〉食べ物の好みだけでは、趣味や趣向品などのこと。一緒に暮らしていても案外知らないこともあるし、身近な存在だからこそみえないこともある。最期は家で過ごしたいとか、嫌いな食べ物があってこれだけは食べたくないとか、そういうことを周りの人たちが知っておかないと、晩年の生活が楽しいものにはなってゆかない。認知症の早期発見、症状の進行を遅らせる薬、そしてサポートを受けつつも、自分のことを周りの人たちに伝えてゆくことにより、少しでも安心して楽しい生活が送れるのだ。それをしておかないと嫌なことを押しつけられたり、行きたくないところに入所させられたりする状況になり兼ねない。前述した三人の方々も周りの人たちに出来ないことを伝えられていて、周りがそういうことを理解しながらサポートしてゆくが大事だという。

【地域全体で理解し、サポートしてくれれば】
認知症になると自分でものを伝えることが苦手になる。コミュニケーションを取ったり、相手の立場に立って考えたりすることが苦手になってくる。そういう状態なので周りの方がその方の行動の意味を理解して、想像して関わることが大事になってくるのだ。これは別に難しいことではなくあたりまえのことなのだが、そういう〈認知症の方の立場に立つ〉ということが行われないまま、「認知症は怖いよね」とか「認知症になったら嫌だよね」という言われている。しかし、病気の特性を考えても周りのサポートがあればそれほど困ることもないのではないかと思われることでも、大きく捉えられてしまっているのが現状だという。ご家族や周りの人たちはもちろん、介護職や医療職の方だけではなくスーパーで仕事をされている方とか、銀行員などの方々が〈認知症ってこういうものだよね〉ということを理解されていれば、全然関わり方が変わってくるのだ。お金の計算がちょっと苦手だということであれば、本人が許せば支払いの時に少しサポートしたり、お金の計算をメモに書いて「おつりは幾らですよ」ということを渡してくれるだけで、その人は普通に生活してゆけるのである。それぞれの立場からご本人の話を訊いて「何が出来るのだろうか?」ということを考えて貰えれば、それでケアできるのでその地域全体で取り組んでくれればよいなあと、染野さんは思っている。

【最後に】
認知症のことを正しく理解することも大事。けれどもそれよりも、先ずはその人のことを理解してあげられるとよいという。自分の家族や友だちが認知症になった時に、別に認知症になったからではなくて、その家族なり、友だちと楽しみたいからできることは何だろうと考えるのが先だと思うので、その方の〈出来ないところ〉だけではなくて、一緒に〈出来る〉ところを見て行ったりとか、声を掛けてゆくことも大事だし、さりげなくサポートしていただける環境が必要になってくるのではないかという。現在名古屋では安心して出かけられるまちをめざして、徘徊して行方不明になった方を探すサポートや、安心して出かけられるようなカフェの場を作って行ったりしている。また認知症の理解を広めるためにオレンジリングの活動もしている。これは仕事の場で活かしてもらったり、地域で支えるための基本的な認知症の理解講座を受けて「認知症サポーター」になってもらおうというもので、養成講座を受けた人に証としてオレンジリングが渡される。現状では7万人の方が受講されているという。認知症の方がゴミを出す曜日が解らないと、ご近所の方が「〇〇さん、今日はゴミを出す日だよ」と教えてくれる地域も出てきている。笑顔でさりげなく手伝って下さる方がいると、その地域で安心して暮らして行けるし、若年性認知症の方でも、高齢者の認知症の方でも、自分の得意なものをいろいろな場で活かせる取り組みも進んでいるそうだ。コミュニティカフェとか地域の活動でも、例えば手芸が好きだった方が認知症になられて少しやりにくくなった時でも順番を通して行うことは難しいにしても、一手順ごとに伝えてゆくと手芸に限らずいろいろなことが出来る状況がある。そういったことを周りの人が理解をして声をかけてくれると、その方の得意なことをみんなが必要としている中でやっていけるので、認知症に対する誤解を解消してゆくことが大切なのだ。もしも家族や友人が認知症になったからといって遠ざけるのではなく、それを理解した上で地域の仲間として関わって行ってほしいと、染野さんはお話を結ばれた。

【大久保的まとめ】
染野徳一さんとは、NPOの事務局がまだ東区にあった頃からの知りあいで、東区社協におられた時は福祉活動計画の担当職員と委員として、名古屋市協ボラセンにおられた時は直接的に関わりはなかったが、ボランティア情報誌の編集委員として市社協に度々顔を出していたので、その折りなどに顔をあわせる機会はあった。そして今回の企画を考えていた時、染野さんが〈認知症連携担当〉という部署に移られていることを思い出したのだ。認知症のことは以前から関心があった。二十数年前に亡くなった父親がやはり、パーキンソン病から認知症を発症し、寝たきりの状態で体力も弱っていたのだろう。肺炎をこじらせ入退院を繰り返していた。最期には私の存在すらも忘れてしまったかのようだった。当時はこれほど認知症に対する知識もなかったので、父親がおかしな言動を取った時などに信じられなくて叱りつけてしまったことがあるのだ。いま思えば父親のおかしな言動の理由もわかり、どうしてもっと優しく接してあげられなかったのだろうかと反省している。そんなこともあったので、認知症理解に対する思い入れは、障がい者理解に対するそれと同じぐらいにもっている。いや、今回の染野さんのお話を聞いて、認知症を理解することは、障がい者を理解することでもあり、強いていえば〈人間〉を理解するのと一緒なのではないかと思った。染野さんも言っておられたが、認知症への理解は広まりつつあるとはいえ、まだまだこれからであろう。このブログの一文が、細やかながらもその一助になることを願ってまとめにかえたいと思う。
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ジネンカフェVOL.102のご案内

2016-03-17 22:38:38 | Weblog
ジネンカフェVOL.102
日時:4月2日(土)14:00~16:00
場所:くれよんBOX
ゲスト:日本福祉大学 きょうだい会
タイトル:きょうだいの気持ち
参加費:500円
ゲストプロフィール:
障がいのあるきょうだいがいる日本福祉大学の学生で構成されています。始まりは、1人の子が呼びかけ、そこから徐々に輪が広がり今に至ります。現在は7人で活動しています。お互いの悩みを共有し、楽しくわいわいやっています。活動内容は啓発活動の一環としてチラシの配布や、ゲスト講師を招き勉強会などを行ってきました。
きょうだいの障がいはそれぞれ違いますが、他の友達や親に言えない悩みを打ち明けられ、頼れる仲間です。

コメント:
今回、初めてゲスト講師として、「きょうだいの気持ち」をお話させていただきます。とっても緊張しますが、精一杯がんばります!!
この機会をつくって下さり、本当にありがとうございます。きょうだいとして何を伝えたいのか、自分自身と向き合って考えることができました。
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ジネンカフェVOL100 アンケートのまとめ

2016-03-13 14:29:20 | Weblog
ジネンカフェVOL.100アンケート結果

●ジネンカフェVOL.100の開催を何で(どこで)お知りになりましたか?
 チラシ(くれよんBOX)4
 友人・知人から聞いた 9
 新聞 0
 インターネットサイト(くれよんBOXなど)7

●今回のジネンカフェVOL.100は如何でしたか? よろしければその理由もお書き下さい。
 よかった 19
 まあまあ 1
 ・ちがう視点で考えられた。
 ・先生のまとめ。みなさんの短時間でまとめる力。すばらしいと思いました。
 ・和気あいあい。とても楽しかったです。先生の講演もとてもよかったです。
 ・様々な想いを再確認。認識出来ました。
 ・久しぶりに延藤節をきくことができました。新たな出会い、久しぶりの出会いがありました。ありがとうございました。
・普段のジネンカフェの雰囲気そのままに、延藤先生の話もきけたので。
・他のグループでも多様性について考えてくれていたのがよかった。
・色々な立場や世代の人の話が聞けたから。
・幻燈会とワークショップで、ジネンカフェと縁側の事を知ることができた。
・幻燈会も素晴らしいものでしたし、ワークショップも大変楽しく参加できました。
・話をきくだけではなく、ビジョンゲームで様々な考え方を知り、交流できました。
・グループでのワークがとても楽しく、かつ様々な世代の方の意見を聞くことができた。
・このような会があることはいいですね。
・障害者の方とのふれあいは、日常生活ではあまりないため、直接意見を聞けてよかった。
・まちの縁側の必要性を改めて確信しました。


●全体を通して、今日一番印象に残っているのは何ですか? よろしければ具体的にお書き下さい。
・いつでも、気軽に出来ることを、のんびりやれればいいな。地域のコミュニティセンターを利用し、縁側カフェ(持ち込み)を作りたいなと思いました。
・みんなでB紙に書き込む作業が楽しかった。
・皆さんの演技力
・すべて→帰ってから頭の中を整理します。ワークショップの進め方もとても勉強になりました。
・本当の自立は共生と共にあるものなんですね。
・「天国バス」の絵本です。みんなに出番がある。自然に、自由につくられる縁側。誰も排除しない、居心地のよい空間。それが当たり前と言うこと。
・3時間があっという間に過ぎました!
・「わたしたちの天国バス」で、主人公がサッカーゲームをして勝ったシーン
・健常者も障害者も食をキーワードにして、つながれることを改めて認識しました。
・写真を選ぶビジョンゲーム。写真をつなげて物語を考えるワークショップは初めてだったので、とても勉強になりました。最初は何の知識もなく不安だったけど、話しやすい雰囲気でよかった。
・カフェのコーヒーと幻燈会。
・各テーブルの発表が大変面白く、ためになりました。ジネンカフェの理念である「世代や障がいを乗り越えた社会の実現をめざす活動」に大いに共感しました。
・ビジョンゲームの中で「まちの縁側は“誰でも、どんな風にでも出来る”」との意見があり、とて目からウロコが落ちました。私個人でも出来る事があるのかなと思い、考えさせられました。
・延藤先生による「縁側」についての話の中で、ボローニャにおける外国の交流のお話が印象に残りました。
・本能の居場所
・聞き難い言葉をじっと聞いていると、聞き取れるようになりました。面倒がらずにゆっくりと話を聞くこと。一生懸命話し続けること。コミュニケーションはここから始まるのでしょう。
・100回の大久保さんの根気強さと、皆様の協力体制が素晴らしいと思いました。
・ワークショップにて、ストーリー仕立てのまちの縁側を紹介したこと。
・グループでこんな縁側が良いと話しあったことが楽しくて有意義であった。
・発表が個性あり。

●ジネンカフェについて、ご意見、ご要望をご自由にお書き下さい。
・時間がゆるす限り(時間を作らなければ)参加したいです。
・いろんな分野の人の、いろんな話をきければいいなと思います。
・100回、お疲れ様です。ひそかに応援しています。
・これからも頑張って下さい。
・今日はじめて参加させていただきました。このような会が長く続くと良いと思います。
・素晴らしい活動だと思います。できる範囲で応援して行きたいと思います。
・第100回おめでとうございます。これからも、ゆるくマイペースに続くことを願っています。
・長く続くと良いと思います。
・ジネンカフェは本日はじめて詳細を知りました。各分野の方が講演するとのことで、その過程で障害者によりよい環境ができていくことを望みます。
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ジネンカフェVOL.100レポート その9

2016-03-13 14:12:54 | Weblog
【延藤安弘氏のまとめ】

ビジョンゲームのキーワード
1.縁を多様に紡ぎ、苦楽をシェアするこころの縁側―おいしいご飯は、おいしいご縁―
2.地域の中で子どもが育まれる、異年齢の集う居場所づくり
3.ノリのよい縛られない発想で、お年寄り(若者)の知恵で若者(お年寄り)を巻き込む
4.力まず、着かず離れず、自立した孤独を楽しむ
5.俄然、命のバトンタッチーそのためにはこころのドアを先ずあけよう
6.なんといっても、本能の居場所―直感や知性が泉のようにわき出ずる
7.伝えあうことの大切さは、多様性の一致

頭韻要約法によるもうひとつのキーワード
最初の文字を上から読んでみると、え・ち・の・り・が・な・つ。何の意味にもなりません。本日は失敗。しくじり。どん底に落とされた感があるが、こういう時には現場はいつでもトラブルに満ちているので、トラブルに見舞われた時には逆転の発想で行こう。後ろから読んでみると、つ・な・が・り・の・ち・え=つながりのちえ。
まさに縁側、ジネンカフェ、多様なつながりの英知が瑞々しく、相互のやりとりの中から生まれ、育ってゆく。このつながりの知恵の創造に向かって、これまでも多様な経験が紡ぎ出されているが、一層この名古屋から、愛知からそれぞれの地域と社会全体をゆるやかに変えてゆく社会的エンジンを生みだす仕掛けがコミュニティカフェやジネンカフェにあるのではないか。この発表とつぶやきの響きあいの中から、そのような大事なキーワードが分かちあえたのではないか。
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ジネンカフェVOL.100レポート その8

2016-03-12 22:30:38 | Weblog
延藤安弘氏の『世界の縁側めぐり』幻燈会終了後、休憩を挟んで育くみ隊の名畑恵さんのコーディネートの下、ビジョンゲーム(ワークショップ)題して『あなたの理想の縁側を語ろう』を行った。これは延藤氏の幻燈会の感想と共に、幻燈会に登場した写真をプリントアウトして、テーブルの上にばらまき、その中から自分の縁側像に近い一枚、乃至二枚を選んでその理由を述べる。そして各自が選んだものをつなげて、ひとつのストーリーを作りあげるのだ。各テーブルの発表は、普通の発表あり、寸劇仕立てありでバラエティーに富んでいて、会場はその度に爆笑の渦に巻き込まれて行った。以下は各テーブルのコンセプトとストーリーである。

1.本能の居場所
〇〇カフェを始めた男の物語。〇〇カフェを始めた男は若い頃仕事に打ち込み、家族も出来、育児もしておりました。そんなときに近所の子どもたちが立ち寄れる場所があったらいいなと思い立ちます。自分でなんとかそういう場所を作りました。仕事をしながらも、そういう場所を作った男は、それゆえにいろいろな知識を求めて本を読みあさります。もともと本好きでもあったその男は、またもや本好きが集まってお互いの感想や読みどころなどを伝えあう場があれば楽しいだろうなと思いました。男にとっては本を読むという行為は空気を吸うのに似た、本能的な行為でした。そうだ! そこに絵本や児童書も置こう! そうすれば子どもも大人も集える。そして時々そこでご飯を食べながら、本好き同士で語りあおう!

2.命のバトンタッチ
80歳のマサヨお婆ちゃんの話。お婆ちゃんはサロン活動をしていて、生命が続く限りこの活動を続けたいと思っている。誰もが繋がれる場所を作りたいと思っていろいろな人の力を借りながら、どんな建物にしようとか、どんなことをしようとか考えたところ、バリアフリー空間を作りました。そうすると車いすの方も来られるようになりました。隣の家のおじいちゃんは認知症なんだけれど、そのおじいちゃんからトマトの育て方を教えてもらいました。そうなんです。どんな人にも出番はあるんですよね。こうして作った野菜をみんなで料理をしながら食べました。おじいちゃんたちも作って食べました。でも、高齢者ばかりではなく、子どもも若い世代も参加できるように建築家に頼んだら、子どもが滑って遊べるようなところまで作ってもらいました。でも、マサヨお婆ちゃんは、家族も大事なので、炬燵を囲んで三世代が集まれる場所にしました。でも他人さんも大事。こんなふうに生命が続く限り、マサヨお婆ちゃんはサロンを続けたいと思っている。地域の子どもたちがいつでも遊びに来られて、異年齢で遊んでいる。そうかと思えばご近所のおじいちゃん。「わしはひとりで結構じゃ」と言いながらも、自分で椅子を持ってきて新聞を読んでいてくれる。ということは、どんなふうでもよいんですよ。最後まとめてくれますか? 若い方。
お婆ちゃんから受け継ぎましたが、若い世代が受け継いで、いろいろなバトンをひとりでも、大人数でも、自由な空間を作って行きたいとおもっています。

3.おいしいご縁
あるところにミヨちゃんという、捨てられてお腹の空いた淋しい女の子がいました。「わたし、きっと捨てられたのよ。パパもママもいないもの…。おじいちゃん、おじいちゃんもひとりぼっちなの?」「ひとりぼっちじゃが、わしは淋しくないぞよ。きみは淋しいのかい?」
「淋しい~」「そしたらね、この裏に行ってごらん。きっと面白いことがあるよ」そこでミヨちゃんはおじいさんに教えてもらった道を辿って行くと、いろいろな年齢の子どもたちが楽しそうに遊んでいました。「ワーイ、ワーイ、楽しいな!」遊びに誘ってもらったミヨちゃんがそのまま子どもたちと一緒にドンドン進んで行くと、そこには不思議な空間が広がっていました。「みんな、集まれ~!」館の主の誘われるまま、そのままミヨちゃんは更に進んで行くと、もっともっと不思議な空間が現れました。「ここはなにしてるの、これ? 足を伸ばして」「こんど青空の雲の上で創作劇をやるので、いま練習中です。一緒に演ろうよ」
「うん」
「ワーイ、踊っているうちにお腹が空いて体が軽くなって空に上っちゃったよ」空に上って行ったミヨちゃんに向かっておじいさんが「そろそろお腹が空いた頃じゃろう? わしが作った世界一のトマトを使って今から素晴らしいパーティーが開かれるぞよ」
ミヨちゃんはそうしてパーティーが開かれているところに行ったのでした。
「ワーイワーイ、食べるって最高! 食べるって生きていることだよね? そしてみんなと一緒に生きることだよね? 食べること、おいしいご縁。これが一番だ!」
「そうなんじゃ。ここはおいしいご縁が実現している、本当に楽しい縁側なんじゃ」

4.山口とし子のわたしの縁側、そろそろつくるぞ!
わたし、3月になると自由になるの時間も、場所も、出来たの! 「どんなところに?」
実は〈てんごくゆきのバス〉も、小さな離れも、貸してもらっちゃったんです! お年寄りも、子どもも、猫も、犬も、集まれる場所にしよう! (猫)「お腹が空いたなあ~。今日はどこでなにが貰えるのか、食えるのか? ちょっと…。この匂いはなんだ。とし子さんちに何か美味しいものがあるの?」(犬)「あいつ、自由でいいな」美味しいご飯でみんなを集めるぞ! いっぱい作ります~。集まって、集まって。ここへは若い人も、じいちゃんと一緒で何か持ってきてね。みんな、持ち寄りの縁側カフェなんです。「わしに任せとけ。教えてやるからな」「ばあちゃんも一緒に食べよう」ばあちゃんも、孫も一緒に作ります! どんどん、どんどん作ります。ここで大きいパスタを、長い、長いパスタを作っております。「こりゃ旨そうだ。食うぞ」「わたしのも残しておいてね」大丈夫、大丈夫。残しておくからね。みんなで集まって、繋がって、幸せな時間。豊かなコミュニティをつくるんだ! ありがとう。もう直ぐつくるぞ! まちの縁側。


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ジネンカフェVOL.100レポート その7

2016-03-09 13:34:20 | Weblog
【エンガワでクレソンの育て方を伝えあうー絵本『庭をつくろう』】
ある家族が街中のある家に引っ越して来ました。ボロボロの家で、お庭もグチャグチャだったので、家の修繕をしながら「私はあそこに菜園を作りたい」「僕は花壇を作りたい」子どもたちは口々に希望を口にする。グチャグチャのお庭を整理してゆく…ご飯中にそのような言葉が聞こえてきた時、お母さんは「じゃあ、プランニングしましょう」と言った。日常の会話、しかもご飯を食べながらの会話の中に「計画」という言葉が出てくるあたり、いかにもドイツの絵本らしい。キャロリーヌの菜園も、僕の花壇も、パパやママの庭も、パパが図面を描いた。計画することが、家庭の用語になっている。市民の生活用語になっているというのは、ドイツにおける街並みの整い具合がなぜあれほど進んでいるかということを思わせる。虫喰いによって枯れかけていた桜の木を樹医さんと共に蘇らせ、家の前にはカフェテラスがあり、緑のつながりが家とまちの間をつなぎ止めている。ある日、隣接して立っているアパートの3階からチューリップとメモ帳が届けられる。3階のベランダには車いすの男の子がいた。この車いすの男の子のところへ遊びに行った二人の姉弟は、その男の子がベランダでクレソンを育てていることを知り、「クレソンバターサンドイッチって、食べたことある? とても美味しいのよ」とクレソンの新しい食べ方を教えたのであった。こうして車いすの男の子は、ふたりの新しい友達によって、マンションの部屋とベランダで日々を過ごしながらも、生きとし生けるものとのつながり、自らクレソンを食材として活かすことが出来る豊かな生活の知恵を授かったのだ。チェアウォーカーや、いろいろな立場のものがつながりあう英知をもって、都市の中にありながらも自然と戯れる暮らし方。このような都会の中に田舎を作る。秋になると小鳥が緑の陰で生命を掃除をしてゆく。生命の巡りということについて実感をする。都市にこそ、生命の巡りを体感出来る暮らし方が待たれているのではないだろうか?

【集合住宅にもハード・ソフト両面のエンガワづくりは可能だーコーポラティブ住宅ユーコートともやい住宅Mポート(京都・熊本)】
そうした暮らし方が実践出来るのが、コーポラティブ住宅。お金を持ってない人でも、48所帯集まると1,000坪の敷地にアルファベットのUの字を描くようにユーコートという名前のコーポラティブ住宅。京都の洛西ニュータウンに30年前に生まれた。毎日子どもやお年寄りの生活シーンが色濃く映し出される中庭空間。向こうの階段を降りてきた子どもと、こちらの階段から降りてきた子どもが出会い「今日は何をして遊ぼうか?」。そんな遊びの体験が降り積もるに連れ異年齢集団が生みだされてゆき、中庭の真ん中に池がつくられ、よそのおじさんが子どもたちをそっと見守る。入居当時は殺風景だったけれど、10年後は緑濃い環境に変わって行った。緑濃い環境は平面だけではない。垂直緑化も行われ、バルコニーはまるで路地のように続いている。この路地のように続くバルコニーは、設計者が手法として提案したわけではなく、一戸建て住宅に住んでいた居住者たちの「積層型住宅でも垣根越しのおつきあいがしたいね」というつぶやきがヒントとなって生まれて行ったのだ。続きのバルコニー空間を図面化するとすべての家をつないでゆき、まるで縁側が集合住宅の中に生まれたような趣きとなった。集合住宅にも縁側文化は起こり得るのだ。ある家では普通は花壇になっているところを池に替えてしまったり、土木工事に使われるU字溝をローポットとして使う家もあり、しばらくするとバルコニーは緑の栖化してゆく。

集合住宅の中にこうしたまちの縁側的空間が出来ている事例は、熊本のMポート。バルコニーに仕切りを立て一軒ずつのプライバシーを視覚的に保ちながら、子どもは16軒全部我が家と思えるような開かれた縁側空間。階段室がまるで縁側のように、自然発生的に絵本文庫になって行く。時と共に多様な機能を混ざりあわせるような路地や縁側といった日本家屋が持っていた良さが、集合住宅の建物と建物の隙間。続きバルコニーが縁側空間となり、みんなで魚を焼いて食べるような「星の広場」では屋上庭園を縁側化している。

【世界の縁側めぐり幻燈会まとめ】
時間の関係上予定していたバリと台湾とソウル(韓国)が、飛んでしまったのは大変残念だが、ワークショップを尊重したいので、最後のまとめだけに閉ざさせていただき、次へつないでみたいと思う。全体を束ねると、「まちの縁側」というのは、
1,人と人とのつながりの中で生きる意欲を育むプロセスである。
2,人と人とのつながりは、楽しさや笑いを通しておのずから育まれててゆく。
3,遊び心のある楽しさは、祭り(非日常)やまちの縁側(日常)から育まれる。
4,まちの縁側は、混ざりあいの交流のある小さなあたたかい居場所。
5,輪・環・話・回・吾・和の「こころの縁側」を楽しもう。
6,トラブルをエネルギーに、対立を対話に変えよう。

『世界のエンガワめぐり』を通して、「まちの縁側」の意味は深まった。それはひとりひとりの生命の欠如を補い満たすことに向けて、胸に灯火を燃やし続ける人間の力と、人の心に魂の開窓作用をもたらす空間の力が、相互に浸しあう関係を育むプロセスである。
それぞれの地域で、多様なエンガワを育む意味を紡ぎ続けよう!


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